ソウル生活日記


私の韓国生活日記です。時々書きます。

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4月1日(木)

at 2004 04/03 00:47 編集

透明人間と闘う夢を見た。(笑)

目が覚めてから、ソ・サンギュ教授にメールを送った。昨夜メールを書くのに1時間ぐらいかけ、また今朝送るまで手直しに1時間かかった。いつも研究に明け暮れていて忙しい先生だから、読んでくださるだろうか。

今日は韓国語を本格的に学び始めた記念日だ。19年前の今日、韓国語の勉強を始めた。この日になるといつもそれを思い出す。19歳のときだったから、私の韓国語学習は、人生の中でほぼ折り返し地点に来たわけだ。それにしては、進歩が足りなかった。それを考えると、断腸の思いに駆られる。

ソウル日記3月の「ひかえ」の韓国語部分をカタカナからハングルに変え、ギリシャ語も一緒にギリシャ文字にした。そのとき“ポリトニコ”の正確なスペルが分からなくて辞書を引いたが載っていず、“Yahoo!”で調べ、ついでにそれらのページに入ってみると、なんと、ポリトニコ・システィマで書かれたページが出てきた。ユニコードになっている。日本語のXPでポリトニコ・システィマが表示されるのだ。これには驚いた。ならば、入力ソフトさえあれば、古典ギリシャ語の入力が可能になることがわかった。

家を出るとき、上の子も一緒に家を出たが、そのとき、「お父さん、髪が立ってるよ」と言われた。エイプリルフールの冗談だろうと思った。

授業の合間にトイレで手を洗っていたとき、髪が立っているのに気が付いた。息子が言っていたのは本当だったのだ。私も今日は嘘を言う機会を得ないまま夕方になってしまったが、息子は端から嘘を言う考えもなかったらしい。正直なのはいいことだ。

言語教育院で授業を終えた後、宿題のチェックをしたが、量が多いので時間がかかった。その間に、妻から電話があり、また知り合いからも電話があった。11時ごろ喉が渇いたので吹き抜けの廊下にある自動販売機へ行って飲み物を買っていたが、そのとき下から怒鳴る男の声が聞こえた。見ると、警備員だ。扉の鍵を閉めなければならないから、もう帰りなさいという。まだ用事が済んでいないから、30分だけ待ってくださいと叫んだ。すると、では11時半まで待ちましょうと言った。

講師室に戻ってから宿題のチェックを急いだ。25分ごろチェックが終わり、警備員に挨拶をして言語教育院を出た。外は雨が降っていた。正面玄関の前に止めておいた車に乗り、家へ帰った。

途中でコンピュータを講師室に忘れてきたことに気がついた。あれがないと不便なのだが、まあいいってことよ。取りに戻るのも面倒だし、コンピュータがなければそれが口実で雑用からも解放される。

4月2日(金)

at 2004 04/03 01:07 編集

昼ごろ家を出て、言語教育院へ行った。それから1時半ごろ合同研究室へ行った。今日は国文科の事務室で延長申請をしようと思ったのだ。しかし、事務室へ行ってみると、延長申請というのは学期超過者に大学院の事務室の方から自動的に来るものだそうで、今申請するものではないと言われた。今学期の延長通知を見せてくれたが、そこの名簿に数名の名前が挙がっていた。

事務室を出て合同研究室に戻り、幹事に事情を話し、今月17日にある月例発表会では発表しないことにすると言った。すると、それはともかくとして、研究計画書の提出が今日までだから、急いで計画書を書いた方がいいと言われた。3時半から授業があるから、これはたいへんだと思い、いそいで研究室のコンピュータでヨンセ大学院のサイトに入り、研究計画書の書式をダウンロードして、そこに必要事項を記入した。

こんな書類は書いたことがないから、幹事に見せると、指導教授の許可を得てここに名前を書いたんですかと言われた。いいえと答えると、これがあとで問題になって不利益を被らないとも限らないから、教授に連絡を取った方がいいですよと言われた。

しかし、また別の人が、最終学期の場合、研究計画書を出しておかないと、学期満了になった時点で自動的に除籍されてしまうと言った。それで、とにかく仕方がないから事務室へまた行って、研究計画書を提出しに来ましたというと、教授の判子を無断で押すわけにはいきませんから、先生に連絡してみましょうと言って、ハワイにいるソ教授の自宅まで電話をしてくれた。しかし教授はおられず、家人が出たようだ。先生は夜遅く帰宅されるらしい。

そこで、今度は本当に最終学期に研究計画書を出さなければ満期で除籍されるのかどうかを調べてくれた。大学院の担当部署を調べ、電話をして聞いてもらうと、研究計画書を提出しなくても学期超過の延長をすることができるという回答だった。それで事は一件落着したが、その間にたくさんの人を巻き込み、私自身は今日3時半からある授業に入れなくて、同僚の先生に代講してもらい、周り中に迷惑をかけまくってしまった。

研究室に戻り、それからしばらくして研究室を出、中央図書館へ本を返却しに行った。そして学生会館の裏を通って言語教育院へ戻ったが、セブランス病院と同門会館の間の道が工事のために閉鎖されていて通れず、ぐるっと回り道をして、同門会館の反対側の脇から裏通りへ出た。

講師室に戻ると、同僚の先生が授業を終えて寛いでいた。お礼を言い、それから授業変更の報告書を書いた。それを事務室へ持って行くと、担当の事務の先生が私に、先日新しいクラスができた件で、私が紹介した先生に再三時間を変えてしまって、結局その先生は予定が合わなくなって授業をすることができない結果になったと話し、その先生は気分を害されたのではないかと心配して私に聞いてきた。

きっとそうだと思うが、それ以上に、そのことのために飛行機のチケットをキャンセルしたりして大変だったらしい。こうなったのも、クライアントの方で、時間を調節するのに手間取った結果だとのことだ。クラスが先にあるのではなく、グループが先にあって、そのメンバーに都合のいい時間を決めるというのは厄介なことだ。なるべくならそういうことは避けたいものだと思った。結果的に、私もこの騒ぎの一役を担うことになってしまったが、まあ仕方ない。

それから講師室に戻り、今日私が授業できなかった学生たちにメールを送り、次の時間に会いましょうと書いた。それからしばらく雑用を片付けてから、また講師室を出て、合同研究室へ行った。今日あったいろいろなことで気が抜けてしまい、全然勉強する気分になれなかった。勉強に身が入らなかったもう一つの理由は、たぶん昨日「あした日記」を書かなかったからだろう。あれを書かないと、今までの無目的な自分に戻ってしまうようだ。2日連続で、論文の作業にろくな進展がなかった。明日からはもう少し気合を入れてがんばろう。

今日は教会のスン礼拝をうちでやっていたのだが、私が着いたときは、執り成しの祈りをしているところだった。祈りの課題を書いた用紙をそれぞれが持っていて、順番に次の人の祈りを祈っていたが、私がみんなの後ろに座ると、用紙が渡されて、スン長の家庭のために祈ってくださいと言われた。そこには私の知らないことがいくつか書かれていて、祈りながら困ってしまった。

そのあとお茶菓子と一緒にみんなで四方山話を始めたが、妻がスン長に、「呼んできましょうか」という。何の話だろうかと思うと、妻が今から呼ぼうとしている人は、アパートの同じ階に住む主婦で、直腸癌であることが診断され、とても恐れているのだそうだ。スン長が、その人はノン・クリスチャンですかと聞くと、すぐ目の前のチュンシン教会に通うクリスチャンだという。

その姉妹(教会ではクリスチャンの女性を呼ぶとき“姉妹”という)が妻といっしょにやってきた。顔色が青ざめていて、表情がすっかりなくなっていた。不安に心を奪われている人の表情に違いない。その表情から、死の恐ろしさは私にも伝わってきた。

スン長は、自分が先月の初めに癌の診断を受け、その後1週間で癌の痕跡が全くなくなってしまった奇跡的な体験を、その姉妹に事細かに証した。スン長が話しているときにも、その姉妹はやはり青ざめた表情のままだった。それからみんなでその姉妹に手を置いて祈った。私も含め、半分くらいの人たちが異言で祈った。死に直面している人の気持ちを思うと、涙なしでは祈れなかった。スン長も涙声で、まるで自分のことを祈るように必死に祈っていた。姉妹の気持ちがいちばん身にしみて分かるのは、スン長だろう。

何分祈ったか分からないが、その姉妹は嗚咽していた。そして、今まで自分が主に忠実でなかったこと、人に愛を施さなかったこと、夫を罵ったことなどを泣きながら告白し始めた。それを聞きながら、胸が痛かった。

そしてそのあと、その姉妹の表情はさっきとは打って変わったように明るくなった。まるで健康な人のようだった。「私のような人間のために涙を流しながら祈ってくれる人がいるなんて、本当に幸せです」という言葉は、ずっしりと重かった。

4月3日(土)

at 2004 04/04 01:45 編集

ゆうべ目覚ましを6時に仕掛けた。しかし、目を覚ましたのは目覚ましの音ではなく、目覚ましがうるさいと言う妻の声でだった。時計を見ると、6時15分。急いで起きて、シリアルに牛乳をかけて食べ、家を出た。そして、教会でやっている日本語聖書勉強会へ行った。

6時半を少し過ぎたとき着いた。部屋に入るともう伝道師先生二人と兄弟(教会ではクリスチャンの男性を“兄弟”と言う)二人が来ていた。今日は「ヤコブの手紙」の最後の部分だった。

聖書勉強会が終わってから伝道師先生の一人を送り、家に帰った。それからギリシャ語の宿題をした。今週は、幼稚園のときあまりものを食べなかったことについて書いた。

エオゲにある韓国正教会へ行くとき、所々で桜が満開に近くなっているのを見た。風は冷たいけれど、もうすっかり春になったのを感じる。

神父さんから、ギリシャで出た“ta nea ellhnika gia xenouV”という現代ギリシャ語の学習書をいただいた。オリジナルではなくて、コピー製本したもののようだ。パラパラとめくると、全部ギリシャ語で書かれていた。所々書き込みしたあとまでコピーされていた。

ギリシャ語の勉強を始めたとき、復活節のアコルシーアで世界各国語の福音を読むのだが、日本語の福音を読んでもらえませんかと言われた。私はオンヌリ教会の信徒で、正教会の信徒ではないけれども、大丈夫なんですかと聞いたら、大丈夫だという。このアコルシーアは“愛の大晩課”と呼ばれるもので、開放的に行うのだという。実際、アラビア語の福音書を読む人は、東方教会の一つで4世紀に正教会と袂をわかった異端教派の信徒だそうだ。4世紀から脈々と続く異端というのには驚いた。それで、やりますと快諾したのだけれど、よく考えてみると、その時間は日本語礼拝に出ている時間だった。

ところで、なぜその教派は“異端”とされたかというと、キリスト教ではイエス様を“まことの神”であると同時に“まことの人”であると信じているが、その教派では“まことの神”が人の姿で来られたと信じているのだそうだ。プロテスタントの教会でも同じ信仰を持っているが、不勉強な信徒はイエス様は“神様”であって人ではないと信じている人もいるのではないだろうか。そのことだけで別の教会になってしまうのだから、些細そうに見えて重要なことなのだ。

ギリシャ語の勉強が終わってから、言語教育院の方角へ向かいながら、何かを食べなければと思っていた。そこで思いついたのは、シアンワル(香味)という店のパオズ(包子)だった。あれは5千ウォンで5個だが食べきれないほどボリュームが多く、また味もけっこういい。それで、ヨンナムドンのシアンワルへ行き、パオズを買った。レジの前に座っていた主人らしきおばさんに、ここのパオズは量も多くて味もいいとほめると、とても喜んでいた。

イファ女子大の駐車場に着いて車を止め、パオズを食べながら、さっき神父さんからいただいたギリシャ語の教材を見た。どんな構成なのかと目次を見ようとすると、ない! それで、後ろから見ていくと、まず一番後ろに “lexiologio”(=グロッサリー)が付いていて、ギリシャ語の次に、英語、ロシア語の訳が付いているが、それぞれの訳の前に、同じ課の番号が表示されている。グロッサリーを見ると、この教材はけっこう使用語彙が多いことがわかる。そして、グロッサリーの前に文法用語の索引があり、なんとその前に、 “periercomena”(=目次)があった。目次は293ページからある。

次に前から見ていくと、最初は“prologoV”があって、その次に文字と発音のページがある。そして第1課に入る。全部で第38課ある。その38課が終わったところで目次に入る。(笑)

各課の構成は、まず最初に会話文や読解文があり、その次に文法を説明する例文がずらりと並んでいる。これは壮観だ。そしてそのあとで、練習問題がある。これは課ごとに多様で、どのような方針によって練習問題が作られているのかはわからなかった。ちょっと難しそうだ。少なくとも、私が今勉強している教材に比べると、ずっと分量が豊かで字も小さく、巻末のグロッサリー以外はすべてギリシャ語だから、ずいぶん難しそうに見える。

パオズを3つ食べたら満腹になったので、車を出て研究室へ行った。疲れていたのでコーヒーを飲みたいと思ったが、ファンファバン(=言語教育院の入っている建物の1階にある売店)もチョンギョングァン(=ヨンセ大学のウイダン館にあるカフェテリア)も今日は土曜日でやっていないから、コーヒーを飲むことができない。喫茶店は高いし、缶コーヒーは飲みたくない。それで、クモンカゲでペットボトルの水だけ買って、研究室へ行った。あちらこちらの桜の枯木が、薄桃色の花で覆われかけていた。風はずいぶん冷たいけれど、花は期日を守るらしい。

合同研究室では、眠くて勉強がはかどらなかった。それで、2時半ごろ着いてから7時半ごろ研究室を出るまで、「や」の先行研究を90年代の初めごろまでしかまとめられなかった。それも、人には見せられない雑なまとめ方で、その程度の進み具合だった。

研究室を出ると、風が寒かった。ヨンセ大学構内の外灯に、鮮やかな若葉が照らされていた。見ると、薄暗がりの中を、桜やモクレンがうっすらと浮かび上がり、外灯の近くのモクレンなどは、その白い光を薄闇の中に力強く放っていた。

家に帰ってきてから、少し作業をしたあと、寝ようとすると、妻から電話があり、今カルプ(=カルフール)に来ているので、あとで帰ったとき駅まで迎えに来てほしいといわれた。それから2時間ほど眠ったとき、電話がかかってきた。そのときは起きられなくて電話がとれず、5分ぐらいして起きあがり、妻に電話をすると、サムガクチまで来ているという。それで車で駅まで迎えに行った。待っている間、ギリシャ語のテキストを音読していた。すると、また電話があり、駅の構内まで手伝いに来て欲しいという。車を駅前に止めたまま降りていくと、大荷物を両手に抱えて妻が苦労しながら階段を上ってきていた。そのいちばん重そうな荷物を持つと、すごく重かった。今まで荷物を持つことなどなかった下の子も、けっこう重そうな買い物袋を手に持っていた。いい子になったものだ。

4月4日(日)

at 2004 04/05 00:38 編集

目が覚めると、10時45分だった。こりゃ大変だ。10時50分から礼拝のための椅子並べをしなければならないというのに、もう間に合わない。しかも私はダビデ会の“会長”になっているから、年配の執事や長老たちが出ていて私が出ないのは、何とも気まずい。今年度のダビデ会の会長になってほしいと言われたとき、自分はできないと言ったが、押し切られた。雰囲気が悪くなっても断固として断ればよかった。何らかの重圧感があると、すぐに体が硬直したようになってしまって、すべきことができなくなるからだ。

嫌なことを考えた。今急いでいくと、椅子並べが終わっているころだ。そのとき到着するのは何とも気前が悪い。礼拝が始まるころに行っても同じだ。では、礼拝の途中はどうか。もっとおかしい。今日は、日本へ帰る兄弟のためにダビデ会で送別会をするが、そのとき行ったらどうか。誰かが一言何か言うかもしれない。しかし自分の今のみじめな気分では、それが冗談であっても耐えられそうにない。きっと、いたたまれなくなるに違いない。そんなことを考えると、礼拝に行ける隙が見つからなかった。まあいいってことよ。自分はこういう人間なのだから、それを肯定して、それと対面することで、自分に合った卒ない生き方が見つかるだろう。他の人のように行動することは、よくないことだ。

そうこうするうちに、知り合いから電話があった。今から会わないかという。本の渉猟もしたかったので、キョボ文庫で会おうと約束し、ラーメンを茹でて食べた。そのとき、スン長から文字メッセージが入ってきて、“2時からスン長の集まりに代わりに出席してください”と書いてあった。そのあと、家の電話のベルが鳴った。ラーメンを食べて、家を出ようとしたとき、また電話のベルが鳴った。ベルの音を尻目に靴を履きながら、自分に向いていないことはすべきでないと、しみじみ感じた。

キョボ文庫で知り合いと会い、一緒に本を物色した。自分が本を求め、本を買って読むのは何のためか考えた。今は論文のことばかりが頭を占領しているが、結局は、何らかの知的な向上または拡張を渇望しているからだ。人から得る機会はあまりにも少ないから、本に求めることになる。何冊かの本を買った。

それから食事に行こうということになり、キョボ文庫を出た。初めはトゥブチョンへ行こうかと言っていたが、ソンカルグクスというカルグクスのおいしい店がヨニドンにあったのを思い出し、そこへ行った。

今日は研究室では論文の準備はせず、論文作法について勉強しようと思っていたので、『これから論文を書く若者のために』を読んだ。この本は、論文の具体的な書き方について、ずいぶん気合を入れて立ち入った議論をしている。同僚の先生に紹介されて買ったが、これは他の人にも勧めたい本だ。半分の少し手前くらいまで読んだ。

そのあと、今日買った斉藤孝の『段取り力』を読んだ。研究室に机は与えられたけれども独学で論文を書かなければならない私にとって、自分を教えられるのは自分しかない。これを大学の制度の虚弱さだと指摘する人もいるが、勉強というのは別の見方でいえば、産業スパイのように他人の技能なり知識なりを盗んで自分のものにするのだと言えるから、これは自分に対するいい訓練の場ともいえる。重要と思われる部分をメモしながら読んだ。

今日は研究室の中は寒く、小さな電気ストーブをつけて足元に置いておいても寒かった。ペンを持つ手が、かじかみはしなかったけれども、すっかり冷え切ってしまった。

4月5日(月)

at 2004 04/06 03:38 編集

今日はシンモギル(=植樹の日)で韓国は公休日だ。午後、合同研究室へ行った。寒い日が続いているが、それでもヨンセ大学の桜の木は、少し散り始めた。しかし、風が吹いているのか、木の下に桜の花びらがあまり見られない。

研究室には誰もいなかった。昨日に引き続き『これから論文を書く若者のために』を読んだ。この本は、実に細部にわたって論文の書き方の必要性を論証していくすごい本だ。今までいろいろな文章に関する本を読んできたが、こんなに目的意識に徹底したものは初めてだ。

研究室を出てヨンセ大学の中を歩きながら、外国語を学ぶときに語彙を体系的に身に付けられるように、どの言語でも同じように使える分類語彙表を考えた。語彙数が多いものは複雑になるから、基本的な語を網羅できるようなものを考えた。どの品詞も入るように考えながら、「事物、時空、状態、動作、文法形式(助詞・助動詞など)」の5つに分け、“事物”の項目は「人・神霊、動物、植物、器官、道具、集団・組織、天体地理、物体」の9つに分けてみた。

家に帰ってから、分類語彙集や分類配列した辞書などを比べてみたら、いやその多様さには参った。どれも個性たっぷりで、似たものは一つもない(梅田博之が1976年に書いたものと、1991年に書いたものとは、類似していた)。単語の意味的特徴で分けたものと、その単語の置かれている状況を重視して分けたものとがあり、また、森羅万象を大きく分けたものから徐々に細かい概念に分けていき、そこへ語彙を網羅的に振り分けたものもある。どの分類がいちばん使いやすいのか判断がつかない。

ところで、帰りの車の中で、頭の中だけで、5つに分けてみたわけだが、そこには「数量」に関する語彙を入れる場所がないし、“事物”の中でも、建物や施設、飲食物など、抜けているものがわんさとあった。分類は実際の単語とにらみ合いながらやらなければ抜け落ちだらけになってしまうということを、あらためて思い知った(笑)。似ているものはなるべく1ヵ所に詰め込んでしまって、なおかつすっきりとしたグループができるように下位分類するというのは、並みではない。

また、いくつかの分類表の目次を見ていると、ひとまとめにしやすい語彙群と、まとめるのが厄介な面々とがあるらしいことに気が付いた。ひとまとめにしやすいものは、大体どの語彙集にもそれがひとまとまりになっているようだ。だから、もし自分なりの分類表を作るなら、そういうまとまりやすいものを先にまとめてしまうのがいい。その残りについて悩めばいいわけだ。

それにしても、これほど分類の仕方が多様なのは、言葉を使いながら頭脳の中にある適切な語彙を検索する手続きとは根本的に違うからだろう。分類表はパラディグマティックに配列されているけれども、私たちが言葉を話しながら単語を見つけて来て使うのは、シンタグマティックな関係でなされる。もともと、話しながら言葉を探すのは、分類語彙表のようなやり方ではないのだ。だから、どんな風に分類したところで、私たちの頭の中に近づけることはできない。まあ、ある部分が分類しやすいのは、その部分に関しては、言葉を使いながらパラディグマティックに言葉を選んでいるからかもしれない。

ということで、語彙の分類について悩むのは、この辺でおしまいにしよう。

4月6日(火)

at 2004 04/07 01:37 編集

2時から言語教育院で聖書勉強会があり、私が司会をすることになっていたので、起きてからその準備をした。準備が終わったあと、少し時間があったので、ソ教授にメールを書いた。あとで見直そうと思い、送らないで家を出た。

聖書勉強会に、以前うちで金曜日の夜に聖書勉強会をやっていたときに1度来たことのある姉妹がやってきた。入ってくるなり私を見て驚いていた。でも、私はどこで会ったのか思い出せなかった(笑)。「前この勉強会でお会いしたんでしたっけ」なんて暢気なことを言ってしまった。

今日の聖書箇所はルカ18章31〜34章で、イエス様が受難の予告を3度目にされた箇所だ。短い箇所だが、関連する箇所を調べたりしながら、2時に始まって3時半には終わるはずの勉強会が、3時40分までずれ込んでしまった。わりと活発な討論にはなったが、司会の私はちょっと考えすぎたかもしれない。難しくなってしまったような気がした。でも、私自身は、今日来たメンバーのいろいろな意見から、この箇所を深く読むことができて、本当によかった。

勉強会のあと、メンバーのうち何人かで、ヨンセ大学に花を見に行くことになった。小雨が降っていた。ソンサン路沿いにあるハニソル・ビルディングの桜は、もうほとんど散ってしまっていた。ただ、不思議なことに、下に花びらがほとんどなかった。

それからヨンセ大学の中を案内しながら歩いた。桜は少し散りかけているが、レンギョウとモクレンが咲き誇り、ツツジも咲き始めていて、それらが大学の構内を彩っていた。本館の裏を通り、ウイダン館のカフェテリアを見たあと、ペギャン路を南下して、正門脇の工科大学(=工学部)地下にあるピョンファエジプ(=平和の家)というカフェテリアに寄り、ジュースを飲みながらしばらく話をした。

彼らと別れたあと、研究室へ行って益岡・田窪(1992)を読んだ。文法の全体を鳥瞰するには非常に手ごろな入門書だ。これまで日本語の入門書などを何冊か作ってきたのに、文法の全体を鳥瞰することがなかった。いや、文法論の本を通読したことはあったけれども、問題意識なく漫然と読んでいたのだ。今回は、自分で文法の全体像を描くという意識で、まずそのモデルとして益岡・田窪(1992)を選んだ。

この本を選んだ理由は、文法研究の入門書であるということと、比較的新しいのでこれまでの文法研究の様々な問題点の多くが克服されているということ、そして、分厚くなくて通読しやすいということによる。それにしても、自分は文法を勉強していると言いながら、実は文法論のアウトラインを一つも持っていなかったのだから恥ずかしいことだ。これでは大槻文法、山田文法、橋本文法、渡辺文法などと単語を並べ立てても、ほとんど無意味だ。

9時半まで読んで、研究室を出た。今日は小雨が降っていて、車を言語教育院の地下駐車場に止めたのだが、そこは10時には閉まってしまう。行ってまた戻るのも大変なので、今日はこれでおしまいにした。

家に帰ってから、玄関の小さな水槽に飼っていた2匹の亀が、2匹とも死んでいることに気づいた。私は眠っているのかと思っていたが、死んでるというので、よく見たら、全く動かなかった。小さい方の亀は、一昨日の夜は大きなあくびのようなものをしていたので、元気なのかと思っていた。今考えると、苦しくて悶えていたのかもしれない。かわいそうなことをした。上の子が埋葬しに行った。下の子は、亀が死んだことを悲しんで泣いていた。

ソ教授に今日家を出る前に書いたメールを送った。

4月7日(水)

at 2004 04/08 13:16 編集

家の前の桜の木は今が満開で、灰色の街の中で薄桃色の光をエネルギッシュに放っていた。ヨンセ大学の桜がだいぶ散ってきたから、満開の桜の華やかさにはいっそう目を引かれる。

イファ女子大の駐車場に車を止めてヨンセ大学の合同研究室へ行く途中、トクスリサに寄って資料をコピーした。コピーをしてもらっているところへ、50代半ばか60代くらいに見える男性が、重そうな段ボール箱を括った旅行用の台車を引きずって入ってきた。そして、資料のコピーをとっている女主人に原稿を見せながら、“이것을 좀 복사해 주세요.(=これをちょっとコピーお願いします)”と言った。流暢だが日本語のアクセントがあった。第2音節からピッチが上がり、その後適当なところまで高いピッチを維持する日本語独特のトーンだ。

そしてその人は、“이것은 우리 민족의 역사에 대해서 썼어요. 대학 교수들에게 드리고 있습니다. 그런데, 지금 돈이 없어요. 나중에 드릴테니까 좀 복사해 주세요.(=これはわが民族の歴史について書きました。大学教授たちに差し上げているんです。だけど、今お金がありません。あとで払いますから、コピーお願いします)”と猫なで声で言った。“좀 복사해 주세요.”という語順が日本語のにおいを感じさせた。トクスリサの女主人は困った顔をしていた。それはそうだ。コピーを頼むお金も持っていないというのか。それでは “ロハを決め込もうとしている”と疑われたって文句言えないだろう。

男性は、ふと私の方へ向き直ると、“연세대학교 학생이에요?(=ヨンセ大学の学生さんですか)”と言った。“네.(=はい)”と答えると、“전공이 뭐예요?(=専攻は何ですか)”という。“국문과 다녀요.(=国文科に通ってます)”と答えると、“그러면 이것은 학생한테 꼭 필요한 거예요.(=それじゃこれは、学生さんにぜひとも必要なものですよ)”と、その原稿を指差しながら言った。“저는 국어학 전공이니까 필요 없어요.(=私は国語学専攻ですから結構です)”と答えると、“아니예요.(=そんなことはありません)”という。のっけから“학생(=学生)”か。よっぽど私は年相応に見られないらしい。それに、日本人にも見られなかったらしい。(笑)

ちょうどそのときコピーが終わったので、値段を聞いてお金を渡し、それからホチキスを借りた。作業台のところへコピーしたプリントを持っていくと、女主人がホチキスを持って来て、“저 사람, 일본 사람 같네요.(=あの人、日本人みたいですね)”と言うから、“그런 것 같애요.(=そうみたいですね)”と言って苦笑いした。女主人は男性のところへ戻ると、“우리는 단골 손님이 아니면 외상은 안 받거든요.(=うちはよく来るお客さん以外はツケにしないことにしてるんです)”と言った。すると彼は、“네, 괜찮아요. 보람을 가지고 하니까요.(=ええ、かまいません。やりがいを持ってやってますから)”と答えた。“보람을 가지고 하니까”だって!? ちょっとあの人変だぞ。

その男性は、韓国語の口頭能力は中級と上級の間くらいだった。言葉に詰まることはあっても、文法を間違えることはなかった。それに、その人の書いた原稿も、達筆とまではいかないまでも、読みやすい筆跡だった。漢字だらけの韓国語なのが気になる程度だ。ここまでは、知識人的な特徴を見せている。しかし、言っていることがいかにも自分の世界中心だ。よっぽど私は言いたかった。“아저씨, 그 나이까지 밖에 나오지 않고 집에서 공부만 하셨군요!(訳省略^^!)”。しかし、そんな皮肉っぽい言葉を私が見ず知らずの人に言うわけがない。その人が話しているのも店を出て行くのも見ないようにして、ずっとプリントをホチキスで留める作業をしていた。

その人が出て行ったあと、女主人が来て、「あの人、ちょっと変な人ですね。お金はないけどコピーしてくださいだなんて。そうしたら、お金はいつもらえるんでしょう」と言った。

トクスリサを出て研究室の方へ向かいながら、今あったことを考えた。あの人は、韓国語だからあんなに不適切な言い方になったのか、それとも日本語でもやっぱりあの人は変なことを言うのか。あれは確かに、日本人らしい控えめな美徳の欠けた態度だ。いかにも図々しい。韓国人の行動を真似ようとして、誤解に基づく行動様式を選んだのか、それとも、もともとああいう人なのだろうか。あるいは、現在の日本人は一般的に、あの男性のように、控えめさという美徳をかなぐり捨ててしまったのか。たまに同じような変な日本人を見かけることがある。

韓国には確かに、どうしようもなく図々しい人が、14年前までの日本よりはずっと多いようだけれど、それでも、そういう人たちが他の韓国人からどういう目で見られているのかを知る必要もあるだろう。あの男性が、他の国の若者ならいざ知らず、よりによって日本人の、しかもいい年をした人だったので、気分は複雑だった。

ふと見上げると、今の人が私の前方を歩いている。もし目が合ったり気づかれたりでもしたら、捕まってその人の人生論を長々と聞かされる羽目にならないともかぎらない。何しろ、私に“ぜひとも必要なこと”なのだから。それで、追い付かないようにゆっくり歩いた。彼はしばらく私の前を歩いていたが、語学堂の前に来ると、道を渡って建物の方へ行ってしまった。目が合うと困るので、最後までその男性を直視しないようにしていた。(笑)

研究室に着いてから、昨日の続きで益岡・田窪(1992)を読んだ。自分が今まで文法を断片でだけ見ていて、全体の体系を鳥瞰したことがなかったことを、早足で文法を読みながら、骨身に染みて感じた。そしてふと、文法論というのは面白いものだと思った。素材は誰が扱っても大体同じだが、それをどう料理するかによって、違った文法論ができあがる。まえがきに「読者が本書を批判的に読むことで、自ら文法を柔軟に見る目を養っていくことこそを、著者は願っているのです」と書いているが、今研究室のこの机でこの本を開いている読者が、その記述を批判できるとは思えない。しかし、この本は純粋に文法体系のあり方を追求したもので、外国人が日本語を学ぶとき助けになるようにとは考えていないことは感じられた。私はどうしても“教材”という観点から見てしまうから、それと調和しない部分は、何となく読み心地の悪さを感じるのだ。

この本は、現在の韓国で一般的に学ばれている韓国語文法論と似た部分が多いのが、好感が持てる。もっとも、日本語は韓国語とほぼ共通する構造を持っているのだから、その文法体系が全然違ったらそれ自体がおかしいのだ。似ていて当然というべきだろう。例えば、“並列”というのは、허웅(1995)では“맞섬(=対立)”、서정수(1996)では“대등접속(=対等接続)”と言っているが、それは一般には、述語と述語をつなぐ“접속어미(=接続語尾)”と、体言と体言をつなぐ“접속조사(=接続助詞)”に分けられ、それぞれ共通する性質から、連続する範疇と考えられている。当然日本語の研究でも昔から同じく考えられていたが、学校文法では、접속어미に当たるのは“接続助詞”で、접속조사に当たるものは“格助詞”に含まれている。これでは両者にまたがる連続性は夢にも想像できない。しかし、益岡・田窪(1992)では、それらをすべて「接続助詞」として一括している。これは本当に日本語らしくてしなやかな自由さを感じさせる分類だ。

この本のあとに文法の全体像を描き出した文法書が出ているのかどうかは分からないが、これより新しいものは、もっとしなやかで自然になっていることだろう。また、この本を身に付けたあとでそれ以前の文法書へと遡っていけば、この本がどのようにそれらの本の成果に負っているかが分かるはずだ。

私と机を背に向けて座っている人が、机の脇にある引き出しを開けてそこにものを仕舞っていた。私の引き出しは、前にこの机を使っていた人が鍵を持っていってしまったということで、開けることができないので使えずにいる。「ああ、その引き出しは使えるんですね。僕のは使えないんですよ」というと、「鍵屋さんに頼めば鍵を取り替えてもらえますよ」という。そこで、「どこで頼んだらいいんですか」と尋ねると、「ヨンセ大学の前にある鍵屋さんです」と言って、メモ用紙を出してきて、そこに地図を書いてくれた。見ると、知っている店だ。そこの主人は、私が韓国へ来る前から、その小さな空間に店を構えて、判子作りを続けてきた。鍵も扱っているとは気づかなかったが、思い出してみると、その店の壁によりどりみどりの鍵が下から上までかかっていたような気もする。ほっそりとした繊細な顔つきで、色白で、眼鏡をかけている。口ひげを生やしているときが、あったりなかったりしたと思う。10年以上前、用もないのにその人のところへ行って雑談したこともあった。ちょっとインテリ的で、気さくな人だから、交友関係はとても広いのだろう。鍵は1万5千ウォンあれば出張工事してくれるそうだ。近いうちに行って頼んでみよう。

10時55分ごろ研究室を出た。夜の空気はまだ冷たい。屋外公演場の上空に、オレンジ色の月が出ていた。ウェソル館の正面玄関から真っ直ぐ見える外灯の脇では、モクレンが白く浮き出ていた。左手の外灯の脇では、若芽で覆われた樹が、さわやかな光を照らしていた。今夜は晴れていて空気も少し澄んでいるせいか、キャンパスの中がいつになく美しく見える。

4月8日(木)

at 2004 04/09 01:04 編集

2時ごろ研究室へ行った。今日はうららかな春の日で、ヨンセ大学の構内は桜の花が至る所で咲き誇っていた。私は勘違いしていた。色褪せたと思っていたのは、まだ蕾だったのだ。だから地面を見ても、花びらが散り敷かれていなかったのだ。それを、もう散ってしまったと散々インターネットに書き立てたのだから恥ずかしい。ウェソル館近くの道からペギャン路の方を見下ろすと、満開の桜と一緒に、ツツジも道路のまわりを赤く染め始めていた。

研究室では、昨日に続いて益岡・田窪(1992)を読んだ。要約しながら読むと、思ったよりも時間がかかる。私は最初、これを1日でできると高を括っていたのだ。いつも始める前は簡単に考えていて、いざやってみると大変なことに気付くのが、自分のパターンだ。ちょっとこれは問題があると思う。(笑)

4時に研究室を出て、言語教育院へ行った。そして、5時から授業をした。授業中、今後のスケジュールについて学生に知らせることがあったので、カレンダーを見ると、あっしまった! 今日は3時に人と約束をしていたのだった。うひゃあ、これは大変な失態だ。その人は控えめな人なので、私が来なくても連絡しない。あとで怒ることもそれを指摘することもない。それだけ、その結果は私自身にずしんとのしかかってくる。明日電話して謝らなければ。

授業が終わってから、学生たちの宿題をチェックした。今日のチェックはちょっと大変だった。11時少し前にチェックが終わり、講師室を出て家に帰った。

4月10日(土)

at 2004 04/19 13:46 編集

早天聖書勉強会に出た。勉強会のあと、1階のシャイニング・グローリーという軽食堂へ行き、話をした。そのとき、北野伝道師先生から日本のゴスペルグループのCDを借りた。

そのあと、エオゲにある正教会の復活節前夜礼拝(?)へ行った。教会の手前の坂道に車を泊めていると、簡易ハンボクを着た人が、こちらへ歩いてくるのが見えた。見ると、チャンシン大のソ・ウォンモ教授だった。学生たちと一緒に招かれたのだという。聖堂に入ると、ソ・教授の隣に座った。

礼拝は恙無く執り行われていた。司祭が唱えることばや頌栄と、会衆が唱えることばや頌栄は、すべて渡された本に印刷されている。これはいつ翻訳されたのだろうという疑問が湧き、これを少ない人材で翻訳するのは大変だったのではないだろうかということを考えた。韓国正教会は、歴史は長いが、信徒数は増加して現在3千人という。その信徒数でこれだけの翻訳をするのは、かなりのエネルギーを要したに違いない。

正教会の礼拝では、香を焚く。鈴の付いた長い杖のようなものの先端に香炉が入っていて、それを司祭がシャリンシャリンと音を立てて振りながら前後左右を練り歩くたびに、その甘美な香りが聖堂内に広がる。今朝は久しぶりに早かったので、その安らぎをもたらす香のかおりに眠気を催してしまった。(笑)

礼拝は9時から延々と続いていたが、11時半から言語教育院で全体講師会議があるので、11時に、ソ教授に挨拶して聖堂を出た。

全体講師会議は8階の催事場のような部屋で行われた。この部屋には初めて入った。この建物にこんなところがあるとは知らなかった。もっとも、8階は言語教育院ではなく梨花女子大学校同窓会で使用している場所だから、来る理由もなかったのだが。

会議とはいっても、私にとっていつもこれは、院長の話を聞いたあと食事をする楽しい集まりだ。ウォン先生は真面目に会議として受け取っているようだが、私はこれをパーティーであり、有益な情報交換の場として考えている。

カン・テギョン院長の話は、いつに変わらずよかった。“良い職場”について話した。院長の考える良い職場とは、1)ポラム(やりがい、満足できる結果)がある職場、2)働きに対する十分な補償がある職場、3)互いに信頼しあえる職場というものだ。言語教育院は梨花女子大学校当局の統制下にある付属機関であるという性質上、経営の自立性には限界があるが、その中で最大限の自立性を確保するために院長はこれまで働きかけてきた。そして、いくつかの具体的な成果を話してくれた。

食事のとき、久々に日本語講師の4人が顔を合わせ、同じテーブルで一緒に食べた。いろいろな話をしながら、ふとテーブルの上の 훈제 연어(=スモークサーモン)に添えられている黒いものの名前が何か思い出せないことに気付いた。それはケッパーなのだが、どうしても思い出せなかった。「これ何でしたっけ」というと、ウォン先生が 통후추!(粒胡椒!)」という。ええ?これが胡椒だって。違うんじゃないんですかと言ったら、何言ってんのよ、知らないから聞いたんでしょ、だったら教えられたら疑うんじゃないわよという。もう一人の先生も、そうよという。でも、何であるかは分からなくても、何でないかは分かる。粒胡椒は何時間煮込んだってその香りと辛味が失われることはない。それに、内部の構造があまりにも違いすぎる。(笑)

食事が終わってから、会議の前に韓国語の主任の先生から頼まれた、韓国語単語帳の前書きの校正をした。日本語に自信が持てない部分があったので、日本から来たばかりの同僚の先生に、いくつか助言をもらった。これでいちおう単語帳の作業は終了したようだ。

家に帰ってから、さっき分からなかった食べ物の名前がケッパーだったことを、ふと思い出した。インターネットで調べると、たしかにそうだ。辞書を見ても、胡椒の漬物とは書いてない。別の植物だ。ついでに粒胡椒も調べてみた。やっぱり色からして違う。とすると、さっきのはからかわれたのか。

4月12日(月)

at 2004 04/19 14:08 編集

研究室へ行くために言語教育院へ向かっている途中、JISD400で勉強していて、交換留学生として日本へ行くことになっていたはずの学生から電話が来た。お願いがあるのだけれど会えませんかという。では今から会いましょうと言って電話を切ったが、いったいどうしたのだろう。もう4月になっているのになぜまだ韓国にいるのだろうか。

講師室に着いてしばらくすると、その学生が来た。交換留学の受け入れ先に決まっていた名古屋大学がいきなり受け入れを拒否してきて、代わりに青山学院大学へ行くことになったそうだ。それで、今学期は日本へ行けなくて、来学期に行くことになったという。青山学院大学から日本語能力評価書の用紙が送られてきたので、書いていただけませんかというので、簡単にインタビューをして、それから評価書に記入した。書くのに結構時間がかかった。

この学生は、交換留学生試験のとき、筆記試験の作文はどの学生にもまして優れていた。その学生の受け入れをなぜ名古屋大学は拒否したのだろうか。しかも、拒否する理由も言わずに一方的に通知してきたという。まあ、何か担当者の“逆鱗”に触れるところが、うちの学校の書類にあったのかもしれない。それが、理由を何も説明せずに“ダメ”という通知を突きつける結果になったのだろう。その結果としてこの学生は東京へ行けるようになったのだから、かえってよかったと思う。

それから研究室へ行った。ヨンセ大学の桜は、もうだいぶ葉桜になっていた。桜が散り始めるともう夏の気配がする。先週までは寒さが勝っていたが、今週からは暑さが勝っている。

研究室でお弁当を食べながら、ふと海苔の袋を見ると、日本語で何か書いてある。読むと、「※ごみ拾ろ優しい心、捨てない明ゐい心※」と書いてあった。ああおかしい。何文字もないんだから、正確に印刷したらどうだろう。それにしても、“明ゐい”とはよく入力できたものだ。“ゐ”は、ウィンドーズIMEスタンダードでは出てこないのだ。

4月17日(土)

at 2004 04/19 23:38 編集

エオゲにある韓国正教会へ行って、神父さんからギリシャ語を習った。

『現代ギリシャ語の入門』に、ちょっと厄介な文型がある。それは“Ja tiV parw tiV aposkeueV mou mazi mou.”という文なのだが、神父さんにそれをいうと、この表現は不必要な語が含まれているからあまり好ましくないという指摘を受けた。“Ja parw tiV aposkeueV mazi mou.”とした方がいいということだ。なるほど、こうすればすっきりするし、分かりやすい。しかし、神父さんはその表現を“間違い”とは指摘されなかった。ということは、この文型は、何かを強調するときに必要なのだろう。

月例発表会に出席した。2人が発表したが、1人は博士学位をすでに取った人で、待遇表現を辞書記述のためにどう体系付けたらいいかという発表をした。待遇表現の体系をきちんと整理するのが非常に大変だということを、つくづく思い知らされる、迫力ある発表と質疑応答だった。

もう1人は、ウクライナの高麗人(韓国籍も朝鮮籍も持たない、中央アジアに定住する韓国民族)の発表で、ロシア語と韓国語との音韻・音声的な対照研究で、とても面白かった。出席者に教授がいないという気安さから、質問をたくさんした。

発表内容に、韓国語の“音長”と“広いエと狭いエ”とがあったが、現在は弁別機能をほとんど失いかけているそれらの語を他の音韻素性と一緒に扱う意味があるのかという質問をした。それに対する答えは、一応は標準語としてそれらの違いを区別することになっているので、教える場合にも区別させるというような答えだった。

まあ、私が韓国語を最初に勉強した教材は、長音と短音をしっかり区別する教材だったから、私は今でも区別しているけれども、それはもしかしたら、むなしい区別かもしれない。以前パク・ヘソン先生から、へえ、長音をはっきり区別して発音してるのねえ、と指摘されて、自分でも驚いたことがあった。

エの広狭については、ときどき意識して発音しているが、語中の音節では今まで意識したことすらなかった。

そのあと、ロシア語に関して気になる点を質問した。一つは音節構造で、その論文の中に“黙音”というのが出てきたが、子音が母音の前または後ろに4つも連続するすごい音節は、黙音を起こす前のものなのか、黙音を起こした後のものなのか尋ねた。それは、実際に発生される発音の構造だという。それを実際に発音してもらったが、子音がフスフスと連続する、ゆったりとした音節だった。うん、これがロシア語の美しさの特徴なんだなと思った。

もう一つの質問は、“硬子音”と“軟子音”というのが実際にどういうものかという質問だった。軟子音というのは口蓋化した子音で、“イ”の音が含まれているような音だった。“t”の硬子音は“トゥ”のような音で、その軟子音は“チュ”と“ツ”の中間のような音だった。なるほど、やっとわかった。しかし、なぜ口蓋化した子音をロシア語話者は“柔らかい”と感じるのだろうか。これは音韻世界のミステリーだ。

発表が終わったあと、뒷풀이(打ち上げ会)に行った。

道を歩きながら、博士課程に通う人と、私の論文の話をした。韓国語と日本語が対訳になった資料を調べようと思っているというと、その方法の信頼性について、きびしく追及された。私はこの方法は役に立つことを一生懸命主張したが、しゃべりながらだんだんしどろもどろになってきた。なるほど、この方法にも難点はあるようだ。

その人と他のも、むしろ韓国語と日本語のそれぞれのコーパス資料から用例を調べて、補助的手段として対訳資料を用いるのがいいだろうということだった。私もそのやり方に同意した。

コーパス資料から意味・用法を抽出する方法論を全然知らないことに気がついた。今から勉強する必要があるのは、抽出したコーパスを扱う方法のようだ。これはずいぶん前に授業を受けるには受けたが、そのときウィンドーズを持っていなかったので、何が何だかさっぱり分からなかったのだ。教授には申し訳ないけれど、私が発表したときさえ、自分でもそれが実際に何なのか見当もつかない、単なることばの遊戯だった。あれは、コンピュータを実際にいじらせて実地に体験させなければならなかっただろう。国学研究院に行って、そのソフトを動かすのをちょっとだけ見せてもらったが、それは少ししか足しにならなかった。他の学生は、何らかのルートで機械やソフトを手に入れていて、それが何なのかよく分かっていただろうけれども、私にとっては、当時買った本がこれから役に立つかもしれないということ以外、あまり意味がなかった。だから、勉強するとしたら、全く基礎のないゼロから始めなければならない。しかも一人でだ。

ここまで書いてふと考えが脇道にそれるが、孔丘先生が「知ることを知っているとし、知らないことを知らないとすることが知識だ」と言ったそのことばを思い出しながら、ふと、とにかく自分は何かがぼんやりとしていてよく分からないとき、何が分からないのかをはっきりさせることに全力を費やすべきだという考えに思い至った。私には分からないことだらけだが、その分からないことと分かっていることとの関係が何なのかをはっきりさせ、少しもあいまいなところがないようにすることは、自分にとっては重要なことだ。そうしないと、知らなくて知るべき点を正確に攻略することができないから。

シンチョン文庫があった辺りにあるナクチチムという男性禁止(女性同伴においてのみ入店許可)の店に行き、食事をした。

そのあとそこの店のバルコニーでコーヒーを飲みながらしばらく話をした。春の風がさわやかで、なかなかよかった。

そのあと2次会に、すぐ近くの瓶ビールを出す店に行き、そこで11時ごろまで話をした。支払いはなんと博士課程に通う人が全部支払ってくれた。かなり無理をさせてしまったようだ。みんな驚きの表情を見せていた。

4月18日(日)

at 2004 04/19 23:18 編集

日曜日は教会へ行こう。ということで、今週も教会へ行った。

復活祭の特別礼拝を行った。これは一種の伝道集会のようなものだ。聖歌隊がカンタータを歌ったが、それはとてもすばらしいものだった。この日のために2ヶ月も練習をしたという。

礼拝のあと、オンヌリテレビから取材に来ていた兄弟と一緒にケーキなどを食べながら話していると、復活祭のたまごを籠に入れて配ってきた。ああ、やっぱり復活祭にはたまごを配るんだなあと思った。

聖書勉強会に来ている姉妹が、延世大学語学堂に通っている人が、貼り紙を見て来てくださったと言い、紹介してくれた。その人は、日本では教会に通ったことはなくて、今日始めて教会に来たという。語学堂ではまだ1級で、韓国語はほとんど分からないという。

その人は女性だったが、しかし、小学時代から高校生の頃まで友人だった片伊木君に顔立ちが似ていた。彼は高校3年生のころ、エホバの証人に入ってしまい、その後連絡が途絶えた。数年前、一度インターネット上で偶然再会したが、一貫してエホバの証人を否定し続けている私に(まあ、肯定する人はいないだろうけど)、彼は会うつもりはないようだ。失った友人のことを思い出し、胸が痛くなった。

片伊木君には妹がいたが、しかし、年齢差は5〜6歳ぐらいだったと思う。その女性はそれよりもずっと若かったから、彼の妹ではないだろう。他人の空似に違いない。

夕方研究室へ行った。『基礎日本語文法』を読み終えた。これで一応日本語文法の輪郭は分かったけれども、ずいぶん時間がかかってしまった。

研究室を出て外に出ると、雨が降っていた。

4月19日(月)

at 2004 04/20 02:56 編集

家を出るとき、携帯電話を見ると、031で始まる電話番号がいくつも残っていた。ベルの音を切っていたので、知らない間に来ていたらしい。何度も電話をかけてくる人は、よほど重大な用事があるか、でなければ、ちょっとおかしな人が多い。誰だろうと訝りながらも、最近は知らない電話に出ると面倒なことがよく起こるので、そのまま放っておいた。

今週は同僚の先生が腰を痛めて入院し、授業の代行が増えた。それはそれで多少の収入増にはなるのだが、勉強する時間は削られる。これは大きな痛手だ。時間をどのように用いるかが課題だ。そんな中で、厄介なことが増えたら大変だ。第一、同僚の先生は、今学期私が論文を書くために授業を減らしたいと言ったので、病弱な身に鞭を打って、その分の授業を受け持ってくれたのだ。それが原因で腰に来たのかもしれない。

授業が終わって講師室に戻ると、電話が鳴った。今朝の番号だ。誰だろうと思って出ると、この間10年ぶりに私に電話してきて、日本語の文章の解釈について質問してきた人だ。この人は、少し偏執質的な面があって、自分で勝手に相手に礼儀を尽くし、相手にもそのような礼儀を要求する。当時その人と一緒に仕事をしたが、途中で物別れに終わり、私は時間を無駄にした。そういう前歴のある人だ。相変わらず態度は慇懃だが、その慇懃さに裏があるから、かえって嫌な感じを与えてしまう。これは彼にとって悲劇だ。

何だろうと思うと、今翻訳している中で解釈がよくできない部分があるので、教えてほしいという。ファクスを送るから、見てほしいといわれた。翻訳でファクス? いったい何枚になるんですかと聞くと、80枚だとか。それは困ると答えた。しかし、話はそのまま続き、それを読んで、近いうちに会おうという。私は論文があるから小さい仕事も断っていると答えた。しかし、そんなことは相手にもせず、ぜひ会おうという。それで、金曜日に会う約束をした。

しかし、あとで考えてみると、80枚のファクスを送ってこられたら困る。そんなのは読み切れないし、ぐるぐる巻きになっているのを伸ばすのだって容易ではない。それで、携帯に残っていた発信者の番号からかけなおし、どうせ読まないから、ファクスは送らないでくれと言った。

たまたまその直後に妻から電話があったので、そのことを言うと、妻はその図々しい人のことで非常に腹を立てた。会わないでと言われたが、約束してしまったものをどうすることもできないだろう。

そのあとしばらくして、キム・ジョウン先生から電話があり、その人はちょっとおかしいと言う。どういうことかと思ったら、その人から、さっぱり意味のわからない携帯メールが送られてきたということだ。私が論文を書いていて、それで無理な要求をするとかいうのだ。私の携帯番号は、キム先生が教えてしまったらしい。いきなり電話してきたのだが、キム先生はそのとき他の用事で気が急いていて、つい問われるままに教えてしまったという。そのことを謝っていた。そして、彼には僕からよく言っておくから、相手にしないほうがいいよと注意された。

韓国の諺には“병 주고 약 주고(病を与えて薬を与え)”ということばがあるが、キム先生は、不本意ながら、まさにそれをしてくださったわけだ(笑)。もしかしたら、このことでいろいろ状況がこじれてしまうかもしれないが、もしそうなっても、状況は神が治めてくださるだろう。

言語教育院を出る前に、家に電話を入れようと思い、間違って、その人のところへ電話してしまった。初め、誰だか分からずに、「누구신데요?(どなた様ですか)」と言ったら、彼が自分の名前を言った。いやあしまったと思ったが、ちょうどいい、金曜日はどうしても時間が取れそうにないから、また電話しますと言って、電話を切った。

帰り道、運転中に電話がかかってきた。見ると、その人の番号だ。携帯の電源を切った。

家に帰ると、妻が、キム・ジョウン先生に携帯メールを送ったと言った。どんなメールか聞いたら、さっきキム先生が電話をかけてきたときに話していた意味不明のメールだった。そのメールでキム先生は混乱に陥っていたし、その人は変質者扱いされそうになっているというと、自分はちゃんと分かるようにメールを打ったという。しかし、携帯に残っている文面を見ると、誰が送ったということがかかれていなくて、いきなりその人の名前が書いてあった。これでは状況を知らないキム先生は、妻が送ったということが分かるはずもない。すぐにキム先生に電話して謝るように言い、妻は不承不承電話した。

とにかく、キム先生が責任を持って解決してくれるとは言ったが、そのメールが彼からのものではなかったことが判明したとしても、ちょっと変な人であることにはかわりない。キム先生がその人に何を言ったところで、はい分かりましたと言うだろうか。そういう人は、正義は自分の腹から出るのだから、周辺の人間が何を言ったからといって、聞く耳を持つとは思えない。周囲の意見と妥協するという“卑怯な”態度は、そんな人には取れないだろう。

家に帰ってきて携帯の電源を入れ、しばらくすると、またその番号から電話がかかってきたので、また電源を切った。

私は自分の勉強が、大学受験のときから常に妨げられているのを感じる。受験の時には親から散々妨害された。私が受験のために計画的に勉強しているのを、気が緩んでいるといい、勉強しろとしつこく言い続けた。私がそうでないことを説得しようとしても、聞くことを拒絶した。なにしろ、私は“間違っている”というのが前提なのだから。そのとき親は狂っていた。学年で上位の成績にあったことは、両親にとって何の根拠にもならなかった。根拠は両親の心の中の“不安”だった。事実に基づかない絶対的な前提は、恐ろしいものだ。

その後も周囲の人たちの的外れな善意による妨害は続き、それが緩むと、どこからともなくおかしな人がやってくる。あるいは、必要な人がいなくなったり、自分の内部で問題が起こって勉強できない状態になる。でなければ、周囲の誰かが倒れて責任を共にする私の仕事が増える。それは、まるで組織的に行われているかのようだ。何かが、私の何かを一貫して妨げているように疑ってしまうのも無理はないだろう。私は気が弱い人間だから、それらのことに気力で対処はできない。祈りが必要だ。

11時過ぎてまた携帯の電源を入れると、またその人の他の番号から呼び出しが入っていた。何としつこい人なのだろう。

気分が非常に憂鬱だったので、知り合いに電話をして、今日あったことを話し、憂さを晴らした。

4月20日(火)

at 2004 04/21 04:17 編集

朝起きると、窓の前を覆う銀杏の樹は、すでに新緑の若葉を茂らせて、その向こうの道路をほとんど完全に遮っていた。その緑は、月並みな表現だが、本当に目を洗うように爽やかだった。

今日はいつものように午後2時から聖書勉強会があり、言語教育院へ行った。今週はルカの福音書19章1〜10節の御言葉を読んだ。この箇所は、ザアカイの話だ。土田姉妹が司会をしてくれた。

取税人の頭であるザアカイが、イエス様が通って行かれるという話を聞き、どんな方か見たいと思ったが、背が低かったので、黒山の人だかりに遮られて見られなかった。それで、いちじく桑の木に登った。イエス様は通り過ぎながらザアカイを見上げ、「ザアカイ、今日はあなたの家でとまることにしている」と言われた。ザアカイは大喜びで木から下り、イエス様を迎える。人々はイエス様が“罪人”の家に入られたことを批判するが、ザアカイは立ち上がって自分の財産の半分を貧しい者に与え、不当に巻き上げた金品は4倍にして返すと宣言した。

みんなと一緒に読みながら、ふと思ったのは、聖書にわざわざ名前が載っているということは、これは初代教会で名の知れた人だったのではないかということだ。日本式に言ったら、彼は“ザアカイ様”とでもいうような存在だったのではないだろうか。あの尊敬すべきザアカイ様が、昔はあくどい取税人の頭だった、それが我らの主イエス様に出会ったとき、人生の一大転換を起した。その偉大な瞬間の証を、ルカの福音書は記しているのではないだろうか。

実際、取税人の頭であるザアカイが、イエス様を見るために木にまでのぼったというのは、軽く読み過ごすべき内容ではない。彼は取税人の頭である。部下を統率してあくどく税金を取り立ててきた、海千山千の男だったに違いない。そして、思う存分私腹を肥やし、裕福な暮らしをしていた。ものめずらしさに木の上にのぼるような人間ではなかっただろう。だから、そこには、精神的な、存在の根源にかかわる危機状況があったと考えるべきだ。イエス様を見ることが彼にとって意味があるという保証はなかった。しかし、どうしてもその方のお顔を一度でも拝まずにはいられないという衝動は、抑えることができなかった。

そんな、いわばエキストラにもならないような、俗人の極みであるザアカイに、イエス様は目を留められた。そして、その名前を呼ばれた! もし私が彼ならば、それは衝撃的な出来事となるに違いない。実際、ザアカイがイエス様に出会えた喜びは、自分の財産よりも大きかった。彼の宣言は、自分の財産のすべてを放棄すると言っているのと同じだ。18章18節に出てくる資産家の若者とは対照的に、ザアカイは、自分のいちばん大きな内的問題の原因が富であることを、正確に認識していた。その人生に対する洞察の確かさは、若者とは違っていた。

イエス様は、「今日この家に救いが訪れた」と宣言された。そして、「人の子は失われた人を探して救うために来た」と言われた。この一言が加えられたことによって、この物語は私たちのものとなっている。すさみきった私たちの魂の中に、イエス様は入って来られる。そして、自分自身が見限っていた自分の荒れ果てた人格を、また回復してくださる。それは、ザアカイの場合と同じ、人生の大転換だ。

そのようなことを、司会者の土田姉妹の質問を読み、話し合いながら考えた。本人は何も言わなかったが、妻の話では、最近姉妹は断食をしているらしい。その質問は、読んだだけでは何の変哲もない言葉なのだが、ひとたびその質問を考え始めると、深い喜びへと導かれた。断食は神との交わりを深めることを、しみじみと感じた。

聖書勉強会が終わったあと、5時から9時半まで、入院している同僚の先生の代講をした。言語教育院に来て初めての入門クラスで授業して、ちょっと疲れてしまったが、入門クラスは楽しい!

4月21日(水)

at 2004 04/21 23:55 編集

授業を代講し、学生たちの宿題をチェックし終えたあと、研究室へ行った。

ウイダン館の1階にある청경관(聴馨館)というカフェテリアで、ペットボトルの緑茶でも買おうと思ったが、着いたときにはもう閉店で、ドアには鍵が掛かり、中は人がテーブルを拭いたり掃除をしたりしていた。それで、ウェソル館1階の自動販売機で缶の緑茶を買った。

机に向かったはいいけれども、どうしたらいいか見当もつかなかった。一人で勉強しているのだから、方法論なんか分かるはずがない。韓国語文法の全体像を展望しようかとも思ったが、それは論文に直接役立つ勉強ではなさそうだ。論文を書くのにいちばん役立つ方法は何かと考えた結果、オオイ・ヒデアキ(1986)を参考にしようということに思いついた。この論文は、日本語の「は」と韓国語の“ガ”が対応する部分があることに着目し、“ガ”に“主題”を表す機能があることを明らかにした、画期的な研究だった。この論文から方法論を学ぼうと思ったのだ。

まず目次を丹念に見ると、私が考えていた方法とはおよそ違う構成だった。そして内容を読み始めたが、どのような考えを基礎にした方法論なのか、論文の記述から全然見えてこない。やはり独学はこういうところがどうしようもなく弱い。著者の大井先生がどこにいるか分かれば教えを請うこともできるだろうが、どこかで元気にしているらしいということが分かるだけで、日本にいるのか韓国にいるのかも分からない。むかし語学堂にいたとき、贅沢にも大井先生と長い時間を雑談に費やしたことが悔やまれる。

9時過ぎに、飲み物を買おうと思って席を立つと、カン・ヘスさんもちょうど帰ろうとしているところだった。それで一緒に玄関まで歩いていきながら、論文の話をした。彼の話では、私が計画しているテーマは、すでにその存在を認める論文が出ているのだから、対照研究としても、既出の学説の追認に過ぎなくなってしまうかもしれないということだった。また、助詞“ナ”に選択以外に例示の意味があることは、誰もが認めることだから、それをあえて主張することも問題があるという。

韓国内の研究では、“이나”(特に close set の場合)に例示の意味を認めたものはなかった。また、日本での研究は“이나”の“基本的意味”を例示としてしまい、選択を文脈による派生的な意味と見てしまったところに問題があると思う。自分の目的は、なぜ助詞“や”と“이나”が対応するのかをはっきりさせることだ。それを言うと、いずれにしても、“이나”が例示を表わすという主張はもう出ているし、何よりも、韓国人にとって、“이나”に例示の用法があることはあまりにも明らかなことだから、それを主張するのはちょっと問題があるんじゃないかなといわれた。

言われてみるとそんな気もする。反駁するには自分の知識の底は浅いので、何ともいえない。現在行き詰っているのは、その底の浅さに原因があるのだから。

彼の話では、남기심先生のところへ行って、そのテーマが論文になるかどうか伺ったらどうかという。남先生は大学者だから、直感的にそれが論文のテーマになるかどうか分かるはずだという。国立国語研究院の院長をしていらっしゃるから、連絡して行ったらどうかと言われた。確かにそうかもしれないけれども、恐ろしくて、なかなか行く勇気が出そうもない。何しろ、私は임용기先生の前に立っただけで縮み上がるような人間なのだから。

カンさんは、「父が生きていたら、僕が紹介してあげられたんですけどね。父は助詞を研究していたし、接続語尾についても研究していたから」と言った。彼の父は言語学者だった。ずいぶん前に、交通事故で亡くなったのだ。私はその話を聞くたびに、自分のことではないのに、残念さと悲しさでいっぱいになる。特に、こういう路頭に迷っているときは、そういう気持ちが強くなる。

研究室に戻ってから、集中できなくて、論文の内容が頭に入らなくなった。

4月23日(金)

at 2004 04/24 22:47 編集

授業の代講を終え、学生たちの宿題をチェックしてから言語教育院を出て家に帰った。家に着くと、玄関に靴がたくさんある。今日はスン礼拝(区域礼拝)の日で、私の属するスンのメンバーが来ていた。伝道師先生もいた。

礼拝が終わり、祈りが終わったあと、伝道師先生と話をした。先生は今、トリニティー神学大学院に通っておられるのだが、今日、論文の書き方の授業を受けたのだという。その教授は、修士論文を2ヶ月で書き上げてしまったそうだ。あまりに期間が短かったので、教授会でダメだと言われたが、そのときその先生は、ではどこがまずいか指摘してくださいと言ったところ、指摘できる問題点がなかったので、その論文は通ったとのことだった。すごい話もあるものだ。私が驚いていると、その方法のアウトラインを話してくれた。

まずテーマを紙に書き、それから派生する項目を、思い出しながら周囲に付け加えていく。そして、それらの項目を、細かく分けていく。例えば“神”ならば、旧約時代の神、新約時代の神など。それを大体10分で終わらせる。一種のKJ法みたいなやり方だ。

そして、そこに書き出したものを手がかりに、自分の頭にあるものをどんどん書き出していく。この段階では、本は読まないという。なまじ本を読むと、それに影響されてしまって、かえって書けなくなってしまうというのだ。私のように、頭の中が空っぽだと何も書けないというのとは、逆の発想に感じられる。

ともかく、そうやって書いてしまってから、参考文献を読み始めるのだそうだ。自分の考えと同じだったら、その参考文献を援用し、違っていた場合は、自分の意見を修正したり、またはその文献を批判したりして、肉付けしていくという。驚くべきポンポンスロン方法だと思ったが、実際私だって、あまり論文を読みすぎるとかえって書けなくなると思っていたから、この先生の方法には、驚愕しながらも、同感できるところがある。

そのあとも、書いた論文を先生たちや友人に見せて、どこが足りないという指摘を受けたら、それを書き足していくのだそうだ。やって、より完璧なものへと近づけていく。

自分が主張しようとしている内容が、すでに他の人によって主張されていることが分かってしまったときは、どうするんですかと質問すると、たとえそういうことがあったとしても、視点が違うから、別の切り口から論じることができるという。そんなものなのか。

ちなみに、私はこう考えていた。頭に何もないのだから、自分が関心ある点について、誰が何を言ってきたか、見当がつかない。だから、その点に関して論じているいちばん新しい論文を見つけて読み、そこで先行研究について記述しているところから、これまでの議論の流れを大体つかみ、そのあと、その部分に関する参考文献をすべて読む。そして、その参考文献で扱っている参考文献もまた、探して読む。そのようにして、論文の巻末にある参考文献を芋蔓式に辿っていきながら読んでいく。そうやって、これまで大体どんな議論があったのかを理解する。そして、そのあとで、自分の考えを固める。

まあ、この方法はいかにも独学臭い方法で、教授の部屋を訪問すると、それらの論文では決して名前の出てこなかった関連資料を、先生方は持っておられる。その資料ではこう言っていますよと指摘されると、そこで私の考えはつまずいてしまう。だから、資料集めには、教授のアドバイスは不可欠だと思っていた。

伝道師先生が話してくれた方法は、神学の論文だからできるのか、それとも言語学でも十分通用するのか分からない。しかし、意識しておく価値はありそうだ。

4月24日(土)

at 2004 04/25 18:27 編集

ギリシャ語を習いに、エオゲにある韓国正教会へ行った。教会は、小高い丘の上に建っている。今日は空が青く澄み、風もさわやかだった。教会の中庭に車をとめ、車から降りると、そよ風がとても気持ちよかった。中庭のどこかで、小鳥がさえずっていた。

司祭館の会議室のようなところでギリシャ語を習っているのだが、そこの正面のイエス様のイコンが掲げられている右側に、大きな字で“AXIOS(アクシオス)”と書かれていた。ふさわしい? どんな意味だろう。すると、神父さんが、今回、韓国正教会の主教である神父さんが、南北朝鮮全域を管轄する教区の大主教になったのだと説明してくれた。北朝鮮には教会はないだろうけれど、教区はあるということのようだ。

正教会では、聖職者を任命するとき、聖堂で信徒全員の同意を得るのだそうだ。信徒も含めて全員が“アクシオス”であると言えば、その人は“ふさわしい”者として、任命される。しかし、もしその中で誰か1人でも異議を唱えると、その人は任命されない。否認権は、聖職者たちだけでなく、信徒も同等に持っていて、そのようにデモクラティックなシステムになっているので、教会を健全な状態で保てるのだと言っていた。

実際に異議を唱えられて司祭に任命されないということもあるんですかと聞くと、あるという。候補者の中には、品行に問題のある人もいる。司祭になったら、精神的に(=霊的に)より深めていくために努力しなければならない。それにふさわしくない人は、任命するわけにはいかないということだ。司祭は世の光であり、丘の上に建てられた町だから、多くの人に見られる。その司祭は清く正しくなければならないというのが、正教会の考え方だそうだ。厳しいといえば厳しいが、至極当然な話だとも思った。それが守られているということがすごい。

ちょっと気になって、ローマカトリック教会でも同じですかと聞いた。すると、「いや、違う。あそこではポープが任命するんだ」という。神父さんは、大分裂後に多くの改変を加えてしまったローマカトリック教会のやり方に、あまり好感を抱いておられないようだ。まあ、そうだろう。

神父さんは、プロテスタント教会では、誰でも牧師になりたかったら自分で牧師を名乗って教会を建てていると思っている。それは誤解だろう。アメリカではそういう教会もあるのかもしれない。しかし、少なくとも日本や韓国では、そうではない。プロテスタント教会の多くでは、たいていは所定の試験に受かれば伝道師または牧師として按手される。牧師になるまでに長い研修期間を要する教団もあれば、研修期間なしに、試験だけで牧師になれる教団もある。いずれにしても、自分で牧師を名乗る教会がもしあったとすれば、そんな教会はまともだとは思えない。それでは“自称牧師”ではないか。(笑)

ところで、執事や長老を決めるときは、うちの教会では、投票して決める。不信任投票がある程度以上あると、その人はその役職に就けない。でも、何票の不信任投票によって落選するのかは知らない。まさか1票ということはないだろう。

勉強が終わったあとで、大主教になられた神父さんのところへお祝いの挨拶に行った。行く前に、“Sebasmiwtate AxioV!(セヴァズミオータテ、アクシオス!)”という挨拶を習った。“SebasmiwtatoV”というのは、“大主教”という意味だそうだ。

神父さんに案内されて、執務室へ入ると、サンタクロースのような白ひげの大主教は、誰かと面談しているところだった。こちらを見ると、立ち上がって私たちを迎えた。それで、“Sebasmiwtate AxioV!”と言うと、相好を崩して両手で私の手を取った。流暢な韓国語で“ポルソペウォッソヨ(もう習ったのですか)”と言われるので、“ネー、パングムペウォッスムニダ(はい、今し方習いました)”と答えた。大主教は、いつもと変わらずニコニコしていた。

教会を出てから研究室へ行った。そして、昨夜伝道師先生から教わったことをやってみた。何だかずいぶん貧弱なものしかできなかった。こんなものが本当に論文のアウトラインになるのだろうか。まあ、伝道師先生の話によると、そこから文章化したものを人に見てもらって、さらに内容を追加していくと言っていた。そういうものなのだろう。

夜、研究室の窓の外では、ふくろうの鳴く声がかすかに響き渡っていた。鳴いたり鳴きやんだりしながら、研究室を出るまでずっと聞こえていた。西洋のどこかの国では、ふくろうは知恵の象徴だとか。そう思うと、何とはなしに愉快な気分になる。

4月25日(日)

at 2004 04/25 21:54 編集

日曜日は礼拝に行こう。ということで、今日も教会の日本語礼拝に行った。今日は天気もいいし、風も涼しくて気持ちいいので、初めは歩いて教会まで行こうと思ったが、ちょうどバスが近づいて来ていたので、楽に行きたいというもう一方の意識に負けて、バスに乗った。

バスを降りると、教会の敷地に入るところの陽だまりで、例の乞食が野球帽を逆さにして手に持ち、物乞いをしていた。ズボンのポケットに手を突っ込むと、硬貨が何枚か手の中に入った。それを帽子の中に入れた。

本館の正面玄関を過ぎて宣教館の方へ向かう途中、本館外れのもう一方の陽だまりに、また別の乞食がいた。ポケットに残っていた硬貨をその前の箱に入れながら、見ると、足が出ていて、その大部分が褐色に変色している。そして、指がいくつか溶けたようになくなっている。手もそうだ。その乞食は野球帽をかぶり、マスクをしていたので、顔は見えなかった。癩病人に違いない。この病気に人生を奪われる前は、彼はどんな人生を送っていたのだろうか。

今日の礼拝は、山口伝道師先生の説教だった。ローマ人への手紙1章8〜15節のみことばで、日本を抱く共同体の思いというタイトルの説教だった。とてもいい話だったけれども、説教というよりは講演で、そのメッセージは、日本の福音化を思う山口先生の思いを語るという感じが強かった。話の中で「わたし」が頻繁に出てきたから、伝道師先生自身の意思表明に聞こえたのかもしれない。

しかしその話は、信仰の成長を助ける話にはならなかったかもしれないけれど、私にとっては知的に面白かった。

山口先生によると、日本では信仰を持った人が、洗礼を受けることに躊躇することが多く、また、洗礼を受けた人も、平均すると2年で教会を離れていってしまうということだった。

洗礼を受けることに躊躇するのは、そのあと自分は今までの生活を捨ててまったく異質な、清く正しい生活を始めなければいけないという負担感があるためだという。そんなことできるなら、日本はそのわずか20万人のクリスチャンのために、大きく変えられていたことだろう。それは、外れることを考えるより、当たることを考えて、宝くじを買うようなものだ。私なんか、外れることしか考えないから、もったいなくて宝くじを買ったこともない。一般的な現実を見ないで、現実にはほとんど存在しない、聖人的なクリスチャンになることを考えるから、尻込みするのだ。志が大きいのはいいことだが、それを必須だと思うのは、ちょっと問題がある。

また、洗礼を受けた教会員の、山口先生のことばを借りれば“寿命”が、平均2年というのは、驚くべきことだ。2年というのは、私が梨花女子大でやっている聖書勉強会の期間よりも短い。それは何が原因かわからない。他の教会員との交わりが希薄なのかもしれない。それは日本の世俗的な思想が原因のようにいうが、そうではないだろう。どこだって、世俗的な思想は何かがおかしいのだ。日本人のクリスチャンだけがその影響に晒されているとは思えない。原因は何だろう。

また、山口先生は、日本に戻るときはいつも、故郷である敦賀の、ある教会に行くのだそうだが、そこでも福音を広めることの難しさを感じるという。それは、そこの教会の牧師先生が、敦賀の福音化のために教会が一致して祈り会をしましょうと、その町にある他の5つの教会に定期的に手紙を送っているのだそうだが、今まで来てくれたのは韓国から来た宣教師だけで、他の教会からはまだ誰も来てくれないという。それは、日本の教会が、教派ごとに非常に閉鎖的なためだろうと言っていた。

その通りだ。閉鎖性は、世界に冠たる日本の売り物だ。それは私たちの誇る“哲学”ともいえる。教会もまた、その世俗的伝統をしっかりと受け継いでいるのだ。でも、それでどうやって、福音を広め、さまよえる人々を受け入れていくことができるだろうか。その閉鎖性という余計な属性に、人々は真理を見出すのだろうか。教会をも支配する、その鉄のような閉鎖性によって、日本の牧師先生たちは大きな試練に遭っているにちがいない。

牧師先生たち自身はきっと、もっと教会を開放的なものにしたいと願っておられるはずだ。しかし、たぶんそれは日本の教会を変えることにはならないだろう。教会はこれまでどおり、福音を教会の中に閉じ込めてしまい、世の福音を知らない人たちは、そのすばらしい恩恵にあずかることもなく人生を漂流し続け、聖書に関心を持った人は持った人で、他の本ならとても点数がもらえないような読み方を平気でして、それを何かに書いて出版までしてしまう。いくら教会が不完全だといっても、やっぱり聖書の読み方は、教会へ行って、牧師先生(カトリックなら神父さん)から手ほどきを受けるのが正当だろう。聖書は、教会を通して万人に与えられた書物なのだから。しかし、そういう大事なことが、閉鎖性によって阻害されているように思える。

だから、日本の将来に対する私の展望は、悲観論だ。悲観的なのは、福音化だけではない。精神的にも我が国は、荒廃するだけ荒廃するまでは、回復できないような気がする。それは、大海の真っ只中で、遠くに見える雲を目印に、全ての技術を動員して、誠実に突き進んでいる漂流者だ。その熱意と意志は、尊敬に値する。そこには優秀な人も多い。しかし、その努力がもたらすものはむなしい。それが私の印象だ。その中には、クリスチャンもいるだろう(私も入るかも知れない(汗))。

帰りは歩いて家まで戻った。寒くもなく、歩いていても汗が出ないし喉も渇かないので、気持ちがよかった。途中、信号待ちをしているとき、あたりを眺めていると、“Thai Boran”という名前が目に入った。大きなロゴの下に、“タイ料理店”とある。タイ料理はあまり食べたことはないが、今まで食べたいくつかの料理はとてもおいしかった。この界隈は高いから、あまり近所で外食することはないのだが、余裕があれば、あの店でタイ料理を食べてみたいと思った。

夕方、教会の姉妹が来て、妻と私と3人で雑談をした。いや、本当は妻と何か真面目な話があったようなのだが、私がコーヒーをいれて出すと、一緒にどうぞということになり、そのまま雑談になってしまった。主に私たちの生活の話をした。

つい最近、通帳の残金が3千ウォンくらいになってしまって、カードの決済に支払えそうもない状態になった。私はカードを心配したが、妻は生活費を心配していた。そのときはお金がないことで喧嘩したのだが、あとで妻が思い返して、「大丈夫。神様は必要なものはくださって、必要のないものはくださらないから」と言うと、私は「やっと分かったの?」と答えたそうだ。私はそのことはよく覚えていないのだが、あとで一人のとき、決済日までにお金が入りますようにと祈った。妻は妻で、毎日通帳の残高照会をしていたという。

それから1週間ほどして、妻は日本語を教えに行くとき、駅で財布を家に置き忘れてきたことに気が付いた。手持ちはゼロだったそうだ。家に戻る時間もない。それで、万が一と思って駅前のキャッシュコーナーへ行き、その空っぽの通帳を入れてみると、なんと、言語教育院から給料が入金されていたのだという。その日はカードの代金が引き落とされる前日でもあった。言語教育院の給料は、学期の中間と最後に振り込まれる。でも、その具体的な日にちはいつも違うから、前もって入金日を知らせてくれないと、よくわからないのだ。

そのことは、不覚にもすっかり忘れていたのだが、その話を妻と一緒にしながら、神の織り成される時間の巧妙さに、あらためて気が付かされた。その姉妹は、私たちの話を聞いて、とても驚いていた。でも、こういうエリヤの鴉のような生活は、以前仕事がなかったときは、いつもそうだったし、純福音教会の佐味伝道師さんは、もっと切実な状況で、私のような生活をしていた。

その話を聞いて、姉妹はとても驚いた表情だった。私たちもその表情を見て、あらためて、神の恵みの深いことに気付いた。

ところで、そのような恵みは、お金だけでなく、時間の与えられ方についても同じだ。私にギリシャ語を教えてくださっている正教会の神父さんは、教会内の煩瑣な用事で忙殺されていて、自分の時間がほしかった。一方私は、もうそろそろ論文準備を始めなければいけなくて、時間が必要になってきていた。そんなあるとき、私が研究室で机をもらうころ、神父さんは韓国外大のヨンイン・キャンパスでギリシャ語科の教授となり、平日はヨンインに住みこむことになった。そして、私のギリシャ語の学習は、土曜日だけになった。神父さんは自分の時間が得られ、私も論文準備にかける時間が増え、さらに、ギリシャ語を負担なく続けられることになった。この絶妙な時間の組み換えは、表面上は神父さんの一方的な事情によって行われたように見えるが、それは100パーセント私の立場に適ったものだった。神父さんは私の立場を具体的にはご存じないので、そこに神の大いな恵みを感じずにはいられなかった。

自分が神から受けた恵みを兄弟姉妹に話すのは、いいことだと思った。その兄弟姉妹としては、その話によって信仰に勇気を得ることができるし、話す本人としても、神の恵みを再び確認し、信仰を新たにすることができるから。

4月26日(月)

at 2004 04/27 02:50 編集

家を出ると、かなり本格的な雨が降っていた。妻を駅まで送り、その足で言語教育院へ行った。

言語教育院から研究室へ行った。雨はだいぶ強かった。風も吹いていて、傘を指してはいるのだが、雨は前から後ろから吹き付けてくる。途中、トクスリサでコピーをした。

研究室に着いてから、カバンを置き、コンピュータを持って、ホン・ユンピョ教授の部屋へ行った。何か進展があってから伺うべきだと思うのだが、苦労しているわりには(?)、特に何の進展もない。わずかに日本語のコーパス資料を集め始めたことだけが新しいことか。とりあえず、その集めている電子資料が使えるかどうかを伺った。まあ、こういうものは、あまり勝手に進展させてしまうと、あとで収拾が付かないことになるから、少しだけ作業をしたものを人に見てもらった方がいいのだ。

案の定、いろいろ見当違いをしている部分があった。まず、DOCファイルに保存していたという点が、ヨンセ大学で使われるソフトに合わなかった。先生に言われるままに、そのファイルをアレアハングルに移しかえ、フロッピーにコピーして、先生のコンピュータで検索してみた。タイトルはタグの中に入れる。その他のタグは必要ない。書誌情報はタグの中に入るので、ファイル名に書誌情報を見せる必要はない。それらは、ソフトに依存するから、実際に動かすところを見るまでは、知る由もないことだ。

検索は文字列で行われるから、「や」という字はどんなものでも拾われる。その中から助詞以外の「や」は、手作業で取り去らなければならない。まるでごぼうやらっきょうの下ごしらえみたいな作業だ。

このソフトで日本語を検索するときの問題は、日本語は分かち書きをしないので、何単語先まで抽出するという指定ができないことだ。そのため、検出された文脈を開くと、膨大な量になってしまっている。これでは用例を探すこと自体がとても大変になってしまう。そこでホン教授は、文献情報科の学生に頼んで、何文字先まで抽出できるという設定を加えてもらうと言ってくださった。そうすれば、分かち書きしていなくても、一定の文字数で前後を切ることができる。

教授は、私のコンピュータが日本語ウィンドーズしかできないのを見て、パーティションを分けてハングルウィンドーズもインストールすることができると言われた。大変じゃありませんかと聞くと、それは簡単だという。文献情報科の学生ならやってくれるだろう言われた。私はそこに知っている人がいないので、ぜひ誰か紹介してくださいと頼んだ。友達にだって、そういうことは頼みづらい。ウィンドーズのインストールは、けっこう面倒そうだから。教授のような人が紹介して頼んでくれない限り、やってもらえそうに思えない。

研究室に戻ってから、靴を電気ストーブに当てて乾かしながら、資料をアレアハングルにコピーした。

7時50分ごろ研究室を出て、言語教育院へ戻った。語学堂の前の坂道を下りているとき、強い風が前方から吹きつけて来るので、前方の雨を避けるために傘を盾にしていて、前が全然見えない。ゆっくり歩いていたが、前から来る人もこちらを見ていないようで、直前まで来て“ワッ!”と叫んでいた。黒い傘を差していたのだが、こういうときは視界が利かないから、やっぱり傘は透明な方がいい。

キョボ文庫へ行き、論理学の教材を見た。論文で必要そうだと思ったので、少し勉強しようと思ったのだ。しかし、何がいいのか全然分からなかった。それから日本書籍コーナーへ行って、注文しておいた『日本文法口語篇』(時枝誠記著、岩波全書)と『趣味のドイツ語』(関口存男著、三修社)はまだ来ないのかと尋ねると、絶版という知らせが入ってきたという。困ったことだ。『日本文法口語篇』を探す旅を、始めなければ。

すでに店内は閉店間近であることを伝える音楽が流れている。こういう状況では落ち着いて本を見ることもできない。結局何も買えずにキョボ文庫を出た。

最近ほしいと思っている本は、今日買えなかった本の他に、『沖縄語の入門』(白水社)とそのCD、『「超」英語法』(野口悠紀雄著、講談社)、『ロールプレイで学ぶ中級から上級への日本語会話』(山内博之著、アルク)、『子供と教育 授業研究入門』(稲垣忠彦・佐藤学著、岩波書店)。それから、手に入りそうにないけれども、『人生読本外国語』(河出書房新社)、『新しい英語の学び方』(松本亨著、講談社現代新書)、『関口存男の生涯と業績』。

最近思うのは、ほしいと思う本がすでに絶版になっていることが多いということだ。半分くらいが絶版だ。日本に住んでいれば、どうにでも手に入れる方法はあるが、韓国に住んでいると、なかなかうまくいかない。韓国内で出た本であれば、いろいろなルートから手に入るし、絶版になっているものは、復刻版が手に入れられる。それでも手に入らなければ、図書館で見つけるか人に借りるかして、コピーしてしまえばいい。

韓国語の本で、手に入れたいと思いながら、なかなか手が出ないのは、『산스크리트문법』(박이정刊)で、6万ウォンもする。これは、言語学の流れに巨大な一石を投じた『パーニニ文典』の韓国語訳だそうだ。実際に見てみると、かなり大部だった。そういう大著が紀元前に書かれたというのは驚くべきことだ。もし自分が将来その原典にありつけるとするなら、サンスクリット語の基礎を身に付け、次にその『산스크리트문법』を読み、それからその訳と付き合わせながら原典を読んでみたい。まあ、いつのことかは分からないけれど。

夜遅くになっても雨はけっこう強く降り続いていた。風も吹き続けている。

4月27日(火)

at 2004 04/28 11:28 編集

昼ごろ、キム・ジョウン先生の所へ行った。キム先生は 카피바라북스 という出版社もやっていて、去年そこで『추억 같은 미래』(黒木了ニ著)という詩集を出した。私はその中から何篇かに曲を付けていたのだが、最近になって、その楽譜をキム先生に差し上げたいと思った。それで、楽譜をコピーしてきて、キム先生にお渡しした。どの詩に曲をつけたのかとキム先生が見ているとき、私は「誰かが美しい声と美しいピアノ伴奏でこの曲を聞かせてくれたらいいですね」と言った。実に私は、歌は作れても、歌うのは下手だし、ピアノも弾けない。下手なギターがボロンボロンと掻き鳴らせる程度だ。だから、キム先生の前で歌うのは、とても恥ずかしい。

キム先生からお昼をご馳走になった。オフィスで一緒に食べながら、四方山話をした。N出版社がもう瀕死の状態で、本当は身売りしたいのだが、今は不景気でどこも引き取ってくれないことや、最近の教材はほとんどがオールカラーになって制作費が上がり、印税を支払うのが苦しくなったということなどを聞いた。フィルム代は1枚3千ウォンくらいだという話は聞いていたが、自動製版で安く上げても2千8百ウォンで、高いのは4〜5千ウォンもするのだそうだ。フィルム2枚で手軽な単行本1冊の値段だなんて、それは驚いた。

そのあと、例の迷惑な人について話が至った。半月ほど前にいきなり電話してきて日本語について聞き、そのあと先週の月曜日に、翻訳のチェックを“少し、少し”と言いながら、強引に頼もうとした人のことだ。キム先生は、「彼はパラノイアや」と言った。私も同じことを思っていた。ただし、私はその日の日記で“偏執質”と書いた。キム先生よりは、トーンを1オクターブ下げている。完全な病気といえるかどうか分からないからだ。それは本当に彼の悲劇だ。

その人は、半月前に、いきなりキム先生に電話してきて、私の連絡先を聞いたという。キム先生が、今何をしよってんのか聞いたが、それには答えずに、私のことだけを聞いていたという。電話を切ってから、私の連絡先を教えたのはまずかったと思ったという。あとでまた電話があるだろうと思っていたが、そのあと全く音沙汰がないそうだ。

キム先生は、最近カピバラブックスから、『퀴즈 재팬』の改定新版を出した。本当はそれを一冊買おうと思っていたのだが、学生たちに宣伝してといわれて、2冊もらった。私がそれをただでもらったもう一つの理由は、インターネット書店などに、書評を書くようにということもある。まあ、この本はいい本だから、思ったままに書けば読者も買う気を起すだろう。

そこを辞して、言語教育院へ行った。今日は聖書勉強会があって、私が司会することになっている。その準備をまだしていなかったから、ちょっと気が急いていた。内容は何度か読んで、注釈書も読んでいたから、それらの記憶を頼りに、車を運転しながら質問内容を考えた。

聖書勉強が終わってから、今日参加した4人で 이대(=梨花女子大学)前の 기로스 というギリシャ料理屋へ行き、少し早い夕食をとった。まあ、おやつといったところか。私たちはギロスを食べた。ギロスには、豚肉入りのギロスと鶏肉入りのギロスと、鳥と豚をミックスしたギロスの3種類がある。3人はミックスを食べ、私は豚肉を食べた。去年アリストテレス神父さんと一緒に来たとき、この店のギロスは、パンが冷たいと言って驚いていた。ギリシャではありえないことだそうだ。しかし私は、幸か不幸か、本物を食べたことがないので、この店のギロスでも、十分楽しめる。

5時から代講があるので、先にギロスを出て言語教育院へ戻った。9時半に授業が終わってから、学生たちの宿題をチェックし、10時に駐車場が閉まる直前に言語教育院を出た。

家に帰ると、妻が、今日私がキム先生と話したその人から電話があったと言った。私と連絡が取りたいと言って、今どこにいるかと聞いたそうだ。妻は、たぶん今研究室にいるだろうと答え、みんな忙しいのだから、翻訳のチェックなんか相手にしている余裕はないと言ったそうだ。

すると彼は、“한 가지 여쭤 봐도 될까요?(一つお伺いしてもよろしいですか)”と言って、妻に質問をしたそうだ。ところが、その質問の中で、いくつかの東京の地名を読み間違えていて、さらに“도오꾜오에 교오바시가 있어요?(東京に京橋ってあるんですか?)”と言うものだから、ついに妻は腹を立て、「あんたねえ、京橋も知らなくてどうして翻訳なんかやってるんですか。東京に住んでたんじゃないんですか。だいいち、そのくらい自分で調べられるでしょう。もううちに電話してこないでください!」と大声で言ったという。いや、おみごと。

つくづく思うが、彼は薄気味悪い性格だ。そのような性格になってしまったのは、彼の生まれつきによるものではないだろう。成長過程で彼に与えた思想が、根本的に間違っていたのだ。それを正しいものとして受け入れてしまい、自分もそれにのっとって行動してしまったことで、その病的なキャラクタが入ったのだと思う。10年前、彼からその独自の礼儀を説かれたことがあるが、大体トラブルがあったときに礼儀みたいなものを高々と掲げるのは、どこか性格に問題のある人が多い。たいていそういう人の考えでは、礼儀が人を支配する。彼は他の人にもそうやっているのだろう。それが彼の人生に苦難をもたらしているのは、気の毒なことだ。

夜、ヤフーのニュースを読んでいたら、ある議員が、イラクで人質になった人たちを“反政府”、“反日的分子”呼ばわりしたという報道が、まだ続いていた。この議員は、民放局アナウンサーからフリーに転じ、ニュースキャスターなどを経て、3年前の参院選で当選して議員になったそうだ。一応国民の期待を受けて当選したわけだ。

国民の声や要求は、政府の政策と一致しないことが多い。そして、一致しなければ、“反政府”であり、“反日分子”となるのだそうだ。私たちは、平和のために地道な活動をしている人たちが“反政府”、“反日分子”と呼ばれるために、その議員を選んだことになる。政府にも言い分はあるだろう。でも、政府の言い分で国民を判断するのは、民主主義的だとは思えない。まあ、政府は反民主主義で、国民は反日分子なのだろう。

4月28日(水)

at 2004 04/29 02:23 編集

同僚の先生がだいぶ回復してきて、今日は授業に出られるというので、代講しないで済むことになった。それで、研究室へ行った。キャンパスを覆う木々の若葉はよりいっそう豊かさを増してきて、辺りを渡る風にも瑞々しさを感じるようになった。

研究室について机に向かった。しかし、なぜか気が散って論文のことに考えが集中できない。それで、少し散歩をした。中央図書館へ行き、それから 슬기샘 で本を物色して、そのあと 알뜰샘 で掌サイズのノートを2冊買った。

研究室に戻ってから、まず目次を入力して、その下に自分が知っていることや、自分の考えなどを書き始めた。そうやって気が付いたのは、これまで抜書きして勉強してきた内容を、大部忘れてしまっているということだった。こんなに忘れてしまっては、机に向かっても漠然とした気分に襲われるばかりだというのは当然だ。

それで、とにかく書いていくことにした。書き始めるとすぐに、目次に修正を加える必要を感じ始めた。目次というのは、考え方の枠組みだから、目次を変える必要を感じるたびに、不安に思う。それは、いつ自分の目次が根本的に不適切になるか分からないからだ。

私は研究をしたことがないから、こういうことはとても気になる。語学教材を作るときには、まず始めに枠組みを決めてしまえば、あとはその中での効果的な配分を考えればいい。しかし、論文は、大枠はあるというものの、その大枠はあまりに大雑把過ぎて、その内部の構成は、研究するテーマによって決まってくるように見える。

あるいは論文は悩むことに意義があるのだろうか。教材を作るときは、枠組みで悩むことはなかった。キム・ジョウン先生がポイントを丁寧に教えてくださった。そのおつりで今までやってきた。論文もやはり、ポイントを丁寧に教えてくれる人が必要だ。学者の中には優秀な弟子を輩出するのに長けている人がいる。大野晋はそんな一人だと思う。学部の卒業論文で、国語学に寄与する研究を複数出している。たまたま優秀な学生が集まったとは考えられない。やはり大野晋は指導力に長けているのだ。そのような師を求めるのは無理かもしれないが、少なくとも自分には、研究の仕方を教えてくれる師が必要だ。

そんなことを考えながら、10時50分ごろウェソル館を出た。