ソウル生活日記


私の韓国生活日記です。時々書きます。

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2月2日(月)「バカの壁」

at 2004 02/08 09:27 編集

昨日キョボ文庫で買った『バカの壁』(養老孟司著、新潮新書、2003年)を読み終わった。なかなか面白い本だった。とくにこの本の主張で気に入ったのは、“人は知りたくないことに耳を貸さない”ということ。つまり、話しても分からないということだ。そして、人は変わるが言葉(情報)は変わらないというのも、痛感していたことなので、とても小気味よく読んだ。その中で啓発される部分もあった。ただし、そのあとの共同体や身体の話は、ちょっと難しかった。そこが私の“壁”(笑)なのだろう。

しかし、この本にも納得行かない部分はある。ソシュールの唱えた「シニフィアン」と「シニフィエ」の説明として、シニフィアンを「言葉が意味しているもの」でシニフィエを「言葉によって意味されるもの」と言っているけれども(76ページ)、私の記憶では、シニフィアンは“音響心象”つまり“言語記号”で、シニフィエは“概念”つまり“言葉が意味しているもの”だ。もしこの先生が間違っているとすれば、ちょっとやばい間違い方ではないだろうか。なぜなら、自説を支持する考え方の例としてソシュールを挙げているからだ。

また、「ギリシャ語を調べると、冠詞は名詞の後ろにあっていいことになっている」(78ページ)というのも誤解を招きやすい表現だ。少なくともコイネー・ギリシャ語と現代ギリシャ語では、冠詞をその名詞の後ろに置くことは起こらない。冠詞は名詞の前か形容詞の前に置かれる。名詞を修飾する形容詞が後ろに来れば、その形容詞を修飾する冠詞は結果として名詞の後ろにある。しかし、それを“名詞の後ろにある”とするのは無理がある。そのときの冠詞は、その名詞を後ろから規定しているのではなくて、その後ろの形容詞に冠しているからだ。まあ、本題からそれた小さなことだから、大々的に取り扱うのも変だけれど、この説明はちょっと弱いし、蛇足だったと思う。

それから、「私たち日本人の住むのは本来、八百万の神の世界です。ここには、本質的に真実は何か、事実は何か、と追究する癖が無い。それは当然のことで、『絶対的真実』が存在していないのですから」(20〜21ページ)と述べ、これが欧米やイスラム社会と日本との大きな違いだと説明している。しかし、本当にそうなのかどうかは分からない。なぜなら、日本人の多くは、自分でもはっきりと意識できない絶対的な「正解」に自我を委ねている感じがするからだ。真理は無いと言い張るとき、それを言えるもう一つの真理が、多くの人の心の奥底では前提になっている。でなければ、真理は無いと言える土台もない。

さらに、他の知識人も同じだけれど、キリスト教を気軽に批判しているのも気になる。キリスト教は、それほど簡単に扱える思想ではない。私は97年の初夏から教会に通い始め、その年の暮れから信仰を持ってキリスト教と接しているけれど、その幅広さと奥深さを知れば知るほど、キリスト教とはどういうものだと簡単にはいえなくなる。牧師先生たちは、シンプルにキリスト教を説明してくれるが、実際にはそれは一部だし、偏っていることもある。それにもかかわらず、日本の知識人のキリスト教批判は、間接的で部分的な情報をもとに、自分勝手にキリスト教像を作り上げて、それを批判している印象が強い。本当に手ごわいのは神学者のキリスト教批判だが、それを受け売りにしたような、一般の知識人のキリスト教批判は、何となく胡散臭い。この先生のキリスト教批判もやはり、迫力に欠ける。よその家の、窓から見える家の中の様子を伺っているといった感じだ。おそらくイスラム教批判はもっとお粗末なのだろう。問題の本質を突いているように見えて、大きく的をはずしている可能性もある。

それに、ソシュールとギリシャ語の件で、専門でない部分はけっこう弱そうだという印象を与えているので、私の知らない、政治や共同体などに関する話も、この先生の専門と関係ない部分では、けっこうまずいことを書いているのではないかという疑いを持たせてしまっている。私に知識がない分、疑いは疑心暗鬼となる。

そういう不満はあるけれども、この本はなかなかいいことを言ってくれている。話しただけで相手が理解すると思い込んでいる人が読めば、少しは静かにしてくれるかもしれない。また、“私は自分を信じる”と言っている人の危なっかしさも、わかってもらえるかもしれない。いや、やっぱり私たちには、ナントカの“壁”があるのだから、話しただけで理解されると信じている人は、この本を引用すれば相手を説得できると思うだろうし、自分を信じると言っている人は、この本を読んで自分が正しいということを確認するだけだろう。いやいや、そういう人は、こういう本は読みたがらないに違いない。この本はベストセラーになったそうだ。ということは、私たちにも望みはあるのだろう。

2月21日(土)「ふと考えたこと」

at 2004 02/21 16:05 編集

時々ふと疑問に感じることがある。それは、もし5百年前にローマカトリック教会が堕落していなくて、今のように慈善団体のような教会だったら、果たしてルーテルは宗教改革を起こしただろうかということだ。これは、私たちが深刻に考えてもいい問題だと思う。

キリスト教は初めの千年間は一つの教会だった。それが、今から千年前に、大分裂を起こした。もともとキリスト教は一つの頂点になる教会がなく、6つの教会の連合体だった。その中でいちばん権勢のあったローマ教会と、残りの5つの教会が、互いに相手を破門したのだ。

その後ローマ教会は自らを“カトリック”と名づけ、残りの教会は自らを“正教会”と名づけて、別々の道を歩み始めた(命名の順は逆かもしれない)。カトリックの司祭が書いた本によると、カトリック教会は2千年の間同じ信仰を持ってきたと言うが、正教会と微妙に違う点がたくさんあるところを見ると、まったく同じだったとは考えられない。正教会も少しは変化したかもしれないが、教皇の発言権の強かったカトリック教会の方が、変化の幅は大きかったのではないかと疑っている。

ルーテルが宗教改革を起こしたとき、それまであった様々な典礼の多くを廃し、またそれまで信じてきた教理の要点にいくつか変更を加えた。それは、おそらくその部分でローマ教会が堕落していたからだろう。しかし、それに対してプロテストすることによって提唱した教理も、もしかしたら、行き過ぎがあったかもしれない。その後プロテスタント教会からは、さらに行き過ぎた異端がいくつか出てきて勢力を振るっている。それらを私たちは気味悪く思い非難する。しかし、そこには私たちと同じ発想が見えるのだ。どの異端だったか忘れたが、日曜日にも礼拝しないという。これは、典礼を重視しない私たちの考えをさらに徹底させたものだ。また、たいていの異端は三位一体を否定する。これは聖書に書いてない教理の多くを否定する私たちの信仰をさらに徹底させたものだ。それによって、彼らの信仰は逸脱してしまった。私たちが唯一中庸を得ていて、それ以前の伝統的な教会と、異端教会とは両極端にあると、考えられるのだろうか。これはとても疑わしい。

私たちがカトリック教会の教理を学ぶと、私たちとは向かっている方向が少し違うのを感じる。多くは忍耐と寛容の精神を必要とする。やはり自分の信仰の中には、ルーテルやカルバンを“祖”とする“プロテスタント”という精神が受け継がれているのだと思う。それは、何よりもカトリックに対するプロテスタントなのだと思う。

一方、正教会の教理を学ぶと、それがカトリックと形式上よく似ていて、プロテスタントとはおよそ違っているにもかかわらず、私たちが向かっている方向をすでに先取りしているように感じる。そこに忍耐と寛容の精神はあまり要らない。私たちと違うけれど方向が同じというものの例には、キリストの母マリアに対する考え方がある。マリアは罪ある人間として生まれてきたが、義の衣を着せられ、神と人との間で執り成しているという考え方だ。この後半部はともかく、前半は納得できる。これをカトリック教会では、キリストの母マリアは罪のない方と考えている。それが私たちの信仰と衝突するのだ。しかし、正教会の信仰は、異質には思っても、私たちの信仰とあまり衝突しない。また、聖書は無謬であると初めて宣言した正教会は、カトリック教会がこの宣言を捨ててしまった今も、聖書の無謬説の上に強固な信仰を築いている。もしルーテルが正教会の司祭だったら、宗教改革は起こっただろうか。

私たちはキリスト教を2千年の歴史と考えているが、実際には私たちの歴史は5百年前に始まった。だから、それ以前の歴史については、あまり話題にされない。ほとんどが近世以降のイギリス人とアメリカ人の話ばかりだ。またさらには、その5百年の伝統すら捨てて、初代教会に戻ろうという試みもある。そのどれを取るかによって、私たちの信仰は(基本的には同じだが)、ずいぶん違った様相を見せてくるだろう。

ある人は、私がギリシャ正教会の神父さんからギリシャ語を習っていると言ったら、「そこは異端だ」と言い放った。ギリシャ正教会を“異端”とすると、私たちの信仰の基礎を自分で否定してしまうことになる。まあ、歴史を全部否定する態度なら、それも可能かもしれない。しかし、キリスト教から逸脱した集団がまさにその態度を取っているのだ。初代教会に帰るという試みも、帰り損ねたら、おかしなことになってしまうかもしれない。初代教会に帰る試みも、キリスト教の歴史を慎重に辿りながら、初代教会に行き着くことが必要なのではないだろうか。

ルーテルは私たちの“信仰の祖”として、現在の私たちの信仰はこの人から始まっていると思われているが、実際には同質ではない。私たちは基本的に聖書をすべて信じているが、ルーテルは「ローマの信徒への手紙」の11章と、「ヤコブの手紙」を否定的に見ている。宗教改革の起爆剤となったのは「ローマの信徒への手紙」であるにもかかわらず、ユダヤ人の救いを訴えるその章を、ユダヤ人を嫌うルーテルは、軽視しているわけだ。また、信仰による義認を提唱したルーテルにとって、「ヤコブの手紙」は“わらの書簡”(『新聖書大辞典』キリスト教新聞社、1396頁)だった。そういう点で、私たちの信仰はルーテルの信仰とは同じではない。

だからどの教会がいちばんいいのだということは、考えない方がいいだろう。そういうことを考えると、ろくなことは起こらない。ただ、キリスト教2千年の歴史をもっとよく知って、それぞれの教会の存在意義を理解することが大事だと思う。主が再び来られるまでに教会が再び統一されることはないだろう。しかし、歴史の中で分かれてしまったそれぞれの教会を、すでにあるものとして認めることで、一緒に礼拝はできなくても、キリストにあって一つであることは保てる。もともと私たちの信仰の始まりは、堕落した教会にプロテストすることだった。それはキリストを信じる純粋な信仰に帰ろうとしたものだった。だから、プロテストすることが一人歩きをしてはいけないはずだ。プロテストすることが信仰の目的ではなく、キリストを信じる信仰を保つことが目的だ。プロテストしなければ信仰が保てないなら、それも問題ではないだろうか。

2月21日(土)「訃報」

at 2004 02/22 21:19 編集

夜9時50分過ぎに電話がかかってきた。妻が出て話し、切ったあと、私に「キム・サムエル先生がなくなった」と言った。韓国時間の午後3時ごろだそうだ。

去年の5月にはまだ元気で、修養会のときはぴんぴんしていた。そして秋からは戦後のイラクへ宣教に出かけた。ところが、一月もたたないうちに、体調を崩して戻ってきた。腰痛がひどいので治療を受けるためだと言っていた。しかし、その後血液癌であることが判明した。

告知を受けたあと、キム先生は治療のためにアメリカへ渡った。そのときは、「風邪を治すくらいの気持ちで行ってくる」と言っていた。そして、最初の手術が終わって目が覚めたとき、朦朧とした状態で「ここはイラクか」と訊ねたという。イラク宣教への思いの強さを、私たちはそれを聞いて感じた。けれども、その後病状は悪化し、肺炎を併発して意識不明になったという知らせが伝えられた。

先週の土曜日の朝、妻は夢をみた。夢の中で祈り会に出ていたが、そのときキム・サムエル牧師先生が部屋に入ってきて、「今日は皆さんとともに祈りたいと思ってきました」と日本語で言った。腕には大中小の三つの花束を抱えていた。そして、妻の向かいに座ったキム先生は、韓国語で「クブヌル マンナロ カリョゴ ハムニダ(あの方に会いに行こうと思います)」と言ったそうだ。夢の中で妻は、ああ、ハ・ヨンジョ牧師先生に会いに行くんだなと思った。しかし、目が覚めてから、はて“クブン(あの方)”とは誰のことだろうと思ったが、すぐにそれはイエス様のことだろうと気づいたそうだ。

次の日曜日の礼拝のとき、キム牧師先生が医学的には人間としての機能が終わったと知らせられた。そのとき、前日妻から聞いた夢の話を思い出した。「リバイバル」の賛美を歌いながら、キム先生の宣教への思いを考え、涙が出た。

その後、毎日妻を通して入ってくる情報は、教会ではすでにキム先生の葬儀の準備を始めているというようなことだった。今朝は、誤報でキム先生が亡くなったという知らせが入ってきて、伝道師先生たちが涙ながらに祈っていたら、今のは間違いということで、拍子抜けしてしまったそうだ。私は、回復を願っていた。

夜、稲妻が光る大雨の中を、家族で買い物に行った。帰ってきてしばらくすると、先生が亡くなったとの知らせが来た。こういう知らせを聞くにはふさわしい天気かもしれない。この日記を書いている今も、ときおり雷鳴が轟いている。

葬儀は木曜日にするらしいという話は聞いているが、弔意を表すために、明日は黒のネクタイを締めて教会へ行こうと思う。

2月22日(日)「礼拝」

at 2004 02/22 22:20 編集

今日はきのうに引き続き雨が降っていて、朝9時になっても外は薄暗かった。黒いネクタイを締めて家を出た。家を出るときは、雨は小降りになっていた。教会に着くと、黒い服を着て黒いネクタイを締めた人たちが、5人に1人はいた。みんな夜のうちに連絡を受けたのだろう。よくこれだけたくさんの人が短い時間の間に連絡を受けたものだと驚いた。

教会のVIP室には、殯所(=献花場)が設けられていた。こんなふうに薄暗く、肌寒くて湿気が多い朝は、キム・サムエル牧師先生の死を悲しむにはふさわしい。礼拝が始まる前に献花しようと思ったが、献花場に入ったら涙があふれてきそうな気がして、そのまま日本語礼拝を行う部屋へ戻った。

礼拝のとき、キム先生を追悼する映像を見た。北野伝道師先生が日本語に通訳をした。初めは部屋のあちこちから鼻を啜る音が聞こえていたが、それらは次第にむせび泣く声に変わった。

礼拝のあと、祝祷をせずに「主の祈り」を皆で唱えた。今日は牧師先生がいなかったのだ。途中まで日本語で唱えていたが、途中からわからなくなり、ギリシャ語で唱えた。韓国語で唱えている人もいるだろうから、まあいいだろう。

キム先生の天国歓送礼拝または永訣式(=追悼礼拝)は、土曜日の午前7時から行われるそうだ。礼拝が終わったあと、日本語礼拝の各部署のリーダーが集まって、そのときまで献花場を守る人を分担する話し合いをした。私は金曜日の夜だけが自由なので、そのときにやると言ったが、そのあと日本語礼拝はどの日を受け持つかという話が出てきてもめていた。その間私はだんだん眠くなってきて、座ったままうとうとしていた。

帰るとき、一人で献花場に寄った。入口には白い菊の花が積んであり、芳名録があった。自分も黒い服を着ているのだが、受付にも献花場の中にも黒い服を着た人たちが立っているので、異様な感じがした。花を受け取って芳名録に名前を書き、中へ入ると、むっつりとした年配の人たちがずらりと並んでいて(長老や牧師先生たちだと思うけれども)、じっとこっちを見るので、思わず立ちすくんだ。その中の一人が手で促す方を見ると、菊の花が積まれたところに、キム・サムエル先生の遺影が掲げられていた。愛に満ちた笑顔をたたえていた。花をその上に置き、しばらく目を閉じて祈ると、立っている人たちへの会釈もそこそこに、逃げるようにして出てきた。

献花場は、教会のVIP室で月曜日から金曜日までの、午前8時から午後10時まで開かれている。明日月曜日の午後8時から、そこで日本語礼拝部の追悼礼拝が行われる。金曜日には奥様のキム・ヨンスク先生が韓国へ遺骨を持って来られ、土曜日の朝7時に教会全体での追悼礼拝を行ったあと出棺して、カンウォンドにある教会墓地オンヌリドンサンへ行き、そして埋葬する。