ソウル生活日記


私の韓国生活日記です。時々書きます。

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12月4日(木)〜13日(土)「日本滞在記


12月19日(土)「韓国語で発表」

at 2003 12/31 04:42 編集

韓国日語教育学会で、発音指導について発表した。私自身は外国語の勉強をするときに、英語以外はかなり発音に気を使ってきた。しかし、教育の場ではあまり発音について時間をかけて指導したことがない。それで、今月の初めに原稿を提出するときまで考えが煮詰まらず、また昨日の昼ごろまでは、どう発表したものか決めかねていた。

そこで一大決心をした。韓国語で発表しよう、と。発表の内容は、主に韓国語を学ぶ場合に気を使ってきたことだった。だから、自分の韓国語の発音が、発表の内容の結論のようなものだ。自分の韓国語の発音がまずいなら、発表する内容は駄目なのだ。逆に、もし自分の発音がまずくなければ、発表の内容は使い物になる可能性がある。それを参加した先生方に判断していただこうと考えた。

昨日は提出したハンドアウトをプリントアウトして、それを見ながら韓国語で発表原稿を作ってみた。なるべく話すように作ってみたが、それがまずかったのか、書きあがったものを、今朝になってから読み返してみると、話の流れが散漫で支離滅裂だ。これでは雑談でしかない。

それで今度は、ハンドアウトの内容を見ながら、韓国語で言ってみた。いわゆる音読というのにちょっと似ている。それをやってみると、すぐに韓国語にできない表現がいくつかあることに気づいた。それを韓国語でどう言ったらいいか考え、思いついた表現をその日本語の上にメモした。一度訳しながら読むと、30分近くかかる。それをもう一度やってみた。

2度やったので、何とか発表できそうな目処はついた。そして家を出た。風はとても冷たかった。ここ数日ソウルは寒波に見舞われているが、今日も身を斬るような風が吹いている。チョンノ1街でバスを降り、フングク生命ビルにある日本文化センターへ歩いていく間、ビル風が強烈だった。

日本文化センターへ着いたのは、発表の20分前だった。奥山先生が会場の外にいて、「来ないので心配していました」と言われた。発表の練習をしていたのですと言うと、笑っていた。そして、熱いお茶を入れてくれたので、それをいただいて冷え切った体を温めた。

そして発表時間が迫ってきたので会場に入ると、発音指導について他の先生が発表していた。こりゃ大変だ。その先生は韓国人で、当然のことながら、流暢な韓国語で楽々と話している。それを聞きながら、どのように話し始めようかと考えた。韓国語で発表すると初めに断るのも芸がない。何がしか言い訳をしたい誘惑に駆られたが、言い訳を聞いて喜ぶ人はいないだろう。それならば、いきなり韓国語で話し始めよう。それには始める瞬間に、けっこう大きな精神的エネルギーが要る。しかし、結果としては、言い訳なしに、私が何について感心を持ち、どういう理由で自分の意見を述べるのかを話した方が、聞く人は喜ぶだろう。

前の発表者が終わり、私の名前が呼ばれた。それで、前に出て行き、テーブルの前に座った。口の近くにマイクが向けられているので、声が小さくても大丈夫だろう。そして、原稿に目を落とし、勇気をふりしぼって、韓国語で話し始めた。

話し始めると、会場から小さなざわめきが聞こえる。どうやら意表を突いてしまったらしい。日本人が日本語教育の学会で韓国語で発表するというのは、考えてみれば常識はずれだ。しかし、ここで私が動揺してはいけない。なるべく速やかに、そしてなるべく聞き取りやすい発音と間の取り方を心がけながら、話し続けた。家で練習してきたばかりなので、さいわい口は動いてくれた。

途中で、司会者の先生がつかつかとやって来て、マイクを私にもっと近づけた。声が小さすぎたのだ。マイクの位置を直してもらったあと、ハンドアウトのプリントに目を落とすと、どこまで読んだのか分からない。しかし、演劇ではないので、多少の間は許されるだろう。舞い上がりそうになるのを抑えて、話した箇所の最後を見つけ、そのあたりからまた話し始めた。

ふと見ると、正面の前の方の席に、梨花女子大学の聖書勉強会に来ている姉妹が座っていた。ガンバレと励ましてくれているような表情だった。それを見て、勇気付けられた。

何とか卒なく話は終わった。席に戻ると何人かの先生が来られて、名刺を渡された。発音教育を研究しているという先生もおられた。日本人の先生も来て、自分はこの発表の方法で韓国語の発音をブラッシュアップしてみたいと言われた。聖書勉強会に来ている姉妹も、この方法で韓国語の発音をもっとよくしたいと言ってくれた。発表はどうやらうまくいったようだ。

あとで聞いた話だが、全然緊張しているように見えなかったということだ。不思議なものだ。これも練習の賜物か。しかし、発表するのに練習するという人もいないだろう。

そのあと、懇親会に出席した。キョンボックンの脇にある、北村カルグクスという店で、参加した先生方といろいろな話をしたり聞いたりした。私の正面に座った人は、日本から招かれてきた先生で、『日本語ウォッチング』(岩波新書)の著者だった。私は以前この本を読んで、すごい研究をしている人がいるものだと驚いたが、その先生が目の前におられたので、驚いてしまった。さすが話し言葉の研究をしておられる先生だけあって、その話も機知に富んでいる。その先生の話にすっかり魅了されて、懇親会を終えた。

帰りにカン・ヨンブ先生と一緒にキョボ文庫に寄った。そして、日本語関係の本をしばらく物色したあと、家に帰った。

12月30日(火)「放蕩息子」

at 2003 12/31 06:14 編集

今週も梨花女子大学言語教育院で聖書勉強会をした。今日は「ルカの福音書」15章11節からの“放蕩息子”の譬え話を読んだ。この箇所は、私は涙なしに読むことができない。初めは全部を読もうとして準備していたが、質問が多くなりすぎそうだったので、途中で区切って24節までにした。よく理解できるように何度も朗読していると、ルカの文章の息遣いがじわじわと伝わってくる。

あらすじはこうだ。ある人に2人の息子がいたが、弟の方は父親から財産を分けてもらうと間もなく家を飛び出し、遠い国へ行って放蕩の限りを尽くした。そして身代を使い果たしてしまったとき、その地方に大飢饉が起こった。彼は飢えて、ある人のもとに身を寄せ、豚の世話をすることになった。しかし、あまりの窮乏に耐えかねて、父親の許へ逃げ帰ってきたが、その不肖息子を父親は、遠くから見つけて走り寄り、心から迎え入れた。そして、最高のもてなしで祝宴を催した。

言語教育院についてから、質問をコンピュータで打ち込み始めた。しかし、時間が足りなくて、最後の質問はいい加減になってしまった。

教室は鍵が掛かっていた。事務室に下りていって、聖書勉強会をするので教室を開けてくださいと頼んだ。事務室にちょうどその教室の鍵がなかったので、助教(=大学で事務の仕事を手伝う学生)が探しに行ってくれた。そして、しばらくして来て鍵を開けてくれた。

今は休みの期間なので、暖房が効いていなくて教室は肌寒かった。しかし、その寒さを忘れてしまうほど、すばらしい集まりだった。私が、遠くに息子を見つけたときの父親の心情はどうでしたかと聞くと、ある人が「武田鉄也が以前、父親というのは木の上に登って息子の帰りを待つものだと言っていました」と言った。その話に深く感動した。

聖書勉強会に出席した人の中で、父親である人間は私一人しかいなかったので、他の人たちが父親の心情を訊ねて来た。それで自分自身を省みてみると、この放蕩息子には見習う点が一つあるということが分かった。それは、父親に甘える気持ちが残っていたということだ。

日本文化は甘えの文化というけれど、実際には日本人は自分に厳しすぎる。特に自分が神の前に罪深い存在だと感じると、そういう自分を自分で赦せなくなってしまい、神の前に気恥ずかしさばかりが募って、かえって神から離れてしまう。神に迷惑をかけてはいけないという気持ちも働くようだ。

しかし、神は私たちに甘えることを望んでおられる。私たちが我に返って、罪だらけのまま神の許に立ち返るとき、神は放蕩息子の父親のように、憐憫の情に駆られて走り寄り、首に抱きついて接吻をしてくださるだろう。放蕩息子は、乞食のように垢にまみれて、おそらく悪臭を放っていただろうに、その父親は少しも意に介さなかった。そのように、私たちの心は罪や悪意で穢れ、悪臭を放っているだろうが、神はそんなことは少しも意に介されないのだ。

「神を信じるにはあまりに汚らわしい生活をしてきた私だけれど、そんな私を神は受け入れてくださらないかもしれない」と、恐る恐るみまえに進み出るとき、神は「死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかった」と言って大喜びされる。そのように、イエス様は話された。だから、神に甘えよう。

12月31日(水)「送旧迎新礼拝」

at 2004 01/01 01:01 編集

送旧迎新礼拝に行ってきた。韓国の教会では、大晦日から元日の朝にかけて、送旧迎新礼拝を行う。うちの教会は、大晦日の午後9時と11時半、それから元日の午前11時半の3回に分けて礼拝を行う。今年は9時の礼拝に行ってきた。

8時半に着いたが、すでに賛美は始まっていた。3千人が座れる礼拝堂は満席で、立っている人もいた。2階の席へ行き、階段になっている通路に腰掛けた。少し窮屈だが、座れたのはさいわいだ。

聖書箇所は、ヨハネの黙示録21章1〜7節の御言葉だった。この箇所は、様々な災難が去ったあと、天も地も海も消えさり、新しい天と地とが使徒ヨハネの眼前に広がっている場面だ。ヨハネはそれを見ていると、天から新しいエルサレムが降りてくる。その巨大な美しい都市を見ているときに、大きな声がする。それは、もはや死も苦しみも涙もないという天使の宣言だった。

私たちの信仰は、この新しいエルサレムを待ち望むところにある。その望みがなければ、私たちの信仰は、生温い、適当なものになってしまいやすい。ハ・ヨンジョ牧師先生の説教のメッセージは、その新しいエルサレム、天の御国を待ち望む生き方をしようというものだった。

毎年そうだが、ハ牧師先生は、新たな年は良くなるのではなく、ますます終末に近付き災害はますます広がっていくという説教を繰り返している。それは純粋に聖書の読解と黙想とから得られたものだと思うが、実際にそのようになりつつあるので、聖書のある意味では恐ろしさを感じる。まあ、逆に考えてみれば、神の計画されていることがすごいのであって、聖書はそれを文字にしているだけだということもできる。いずれにしても、聖書に記されている災いが実現するなら、そこに記されている祝福と救いも実現すると思った方がいいだろう。

説教が終わり、そのメッセージをもって祈ったあと、韓国の国歌を歌った。韓国では教会で送旧迎新礼拝のときに国歌を歌う規定があるらしい。教会で国歌というのは変な感じもするが、礼拝堂を満たす人々が国歌を歌うとき、それは神に向けられた国への祈りに聞こえる。国を讃えているのではなく、国の安寧を祈り祝福する声に聞こえるのだ。それは、不思議な感動を覚えさせる。

考えてみれば、韓国が日本の植民地支配下にあったとき、大規模な非武装蜂起をしたのは、クリスチャンたちが中心となっていた。その渦中で、殉死するとともに殉教していった彼らの祈りは、韓国の国歌の中にも流れているのかもしれない。その祈りが羨ましかった。

礼拝が終わったあと、礼拝堂から出るのにずいぶん時間がかかった。途中、日本語礼拝の伝道師先生たちに会って、一足先に「明けましておめでとうございます」と新年の挨拶を交わした。時間を聞くとまだ10時半で、新年にはなっていないのだが、もう新年になってしまったような気分がした。

教会の正面玄関からバス停までも、身動きもままならないほどの混雑だった。早くも11時半からの礼拝に来た人たちと入れ違いになり、互いに掻き分けるように自分たちの進む方向へむかった。そうやってバス停のところまで行くのに、10分くらいかかったのではないだろうか。このような、日本では考えられないような光景も、羨ましいと思った。