ソウル生活日記


私の韓国生活日記です。時々書きます。

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2月1日(土)「マッキントッシュの優れた互換性」

at 2003 02/03 09:28 編集

昨日、妻の兄の家に行って食事をご馳走になったあと、コンピュータについていろいろ話を聞いた。以前は妻の兄はマッキントッシュしか扱わなかったが、最近はウィンドーズと一緒にマッキントッシュを使っていて、どちらにも長けている。

CDをマックとウィンドーズとで共有したい場合、ウィンドーズのCDライターで焼き付けると、マックで見た場合、ファイル名が壊れてしまう。マックのフォーマットで焼き付けたものは、ウィンドーズでは認識できない。マックで焼き付けるときも、ウィンドーズのフォーマットに指定すると、いちおうウィンドーズでも認識するが、ファイル名がマックでもウィンドーズでも壊れてしまうので、使い物にならない。

しかし、方法はあるのだそうだ。Toastを使って、マックで焼きつけるとき、[Format]を“ISO9660”に合わせ、[DATA]で“Settings”を選択し、そこの[Naming]を“Allow Macintosh name”に合わせると、ウィンドーズでもマックでも、ファイル名が化けずに読み取れる。何で今まで私に聞かなかったのかと言われた。

また、おどろいたことに、マックでは、ウィンドーズのフォーマットになっているハードディスクでも使えてしまう。実は、私のパワーブックのハードディスクは、去年寿命が尽きて使えなくなったとき、新しいものに替えた。そのとき、富士通の10GBのハードディスクを買ったのだが、それを私は、マッキントッシュ用にフォーマットしないまま使っていたのだった。

それが発覚したのは、妻の兄に、マッキントッシュのハードディスクは容量が大きければ大きいほど基本的に使う空き容量が増えるから、結局いくら大きくても小さいハードと大してかわらないとこぼしたからだ。そんなはずはないと言われた。そして、それはフォーマットをしていないからだと言われた。フォーマットが合わないと、基本的に使用する空間を大きく取ってしまうのだそうだ。

だから、一回中に入っているものを全部空けて、フォーマットし直さなければいけないと言われた。そのとき、マック用ではないハードの場合、フォーマットできない可能性があるので、“Drive Setup”というソフトを使うのだそうだ。そうすれば、ハードの相性に関わらず、フォーマットが可能だという。

2月2日(日)「夢」

at 2003 02/03 09:30 編集

事前に何も話を聞いていなかったのに、ある日本語教師の集会で、いきなり言語教育院の教授法について話をせよと命じられた。準備していないからできないと言うと、なまじ準備をしない方がうまく話せると言われた。そんなむちゃな。

そしてそのまま大講堂の演壇に連れて行かれた。日本語の先生たちが、言語教育院の教授法について、期待に満ちた目で私を見ている。絶望的な気分だ。

で、話し始めたはいいが、言葉は切れ切れになり、内容は行ったり来たりして、まったく要領を得ない。みんなの表情が徐々に厳しくなってきた。

発表は終わったのか、途中でやめたのか、そのあと、誰かが私の話した内容について、前後に矛盾があると批判した。それに対して私は、一生懸命反論していた。

そのあと私はなぜか목동の地図を描きながら、人に話をしていた。誰かに入管の場所を説明するためだ。私はその人に오목교駅からの道を説明していたのだが、いつのまにか私自身が목동の通りを歩いていた。

入管近くのある小さなビルに来たが、そこの1階に私は用事があるらしかった。しかしどうしたわけか、私は2階の中国ファンタジー商品の店に足を向けた。「孫悟空」という名前だったろうか。その店がとても魅力的に感じられたのだ。

しかし、建物の外にあるコンクリートの階段を上り、店の入り口へ続く廊下を見ると、始めの2メートルほどは欄干があるが、そこから店までの2〜3メートルは、欄干なしで、しかも幅30センチほどにしかならないタイル張りの出っ張りになっている。足を滑らせたり重心を狂わせたりしたら、下のアスファルトの道路へ転落してしまう。恐れをなして、欄干の終わりのところにへばりついていると、後ろから来た、リュックを背負った大学生風の若者が、その狭い出っ張りをさっさと歩いて店の中へ入って行ってしまった。

私はそれを見て、自分はとてもあの店には入れないと思い、あきらめて階段を降りた。

2月2日(日)「ホームページの働き」

at 2003 02/03 10:05 編集

妻から聞いたのだが、去年の秋の終わり頃からオンヌリ教会の日本語礼拝に通い始め、12月頃キリストを信じた姉妹がいるそうだ。その姉妹が教会に通い始めたのは、なんと、私のホームページを見てオンヌリ教会を知ったからだという。

それを聞いて、本当にうれしかった。私の願いは、一人でも多くの人が、キリストを信じるようになることだ。けれども私自身は、人に福音を伝える才能がないので、伝道活動に携わったこともなかった。しかし、私のホームページがきっかけで信仰に至る人がいたというのは、私の欠けた点が満たされたということだ。

ひょっとしたら、教会には遠くて行けないけれども、心の中でキリストを受け入れるようになる人もいるかも知れない。いつかはそういう人の助けにもなる内容を、ホームページに書ければと思う。

2月3日(月)「ハイブリッドCD」

at 2003 02/03 23:35 編集

先日妻の兄から聞いた通りにCDを焼き付けてみた。すると、マックのコンピュータの中では、デザインされたアイコンがすべて元々のアイコンになっていた。それから、アイコンのある位置も、文字順に並べかわっていた。ただし、ファイル名は壊れずにそのまま保存されていた。

私は自分の資料はほとんどテキストファイルかHTMLファイル形式で保存し、ハードディスク内部で、リンクをたどって必要なファイルを見られるようにしている。これらのファイルを使う理由は、プログラムによる制約をほとんど受けずにマックでもウィンドーズでも使えるからだ。ただし、これまでは、ファイル名が化けてしまうのが難点だった。

で、そのCDをウィンドーズのコンピュータで見てみた。すると、本当にファイル名が壊れずに保存されていた。IEで開いてみると、本当にリンクが切れずに完璧に表示されている。

最近私はコンピュータの機器は徐々にウィンドーズ用に替えていこうかと思っていた。しかし、このことで、その考えは吹っ飛んでしまった。データを集める道具は、やっぱりマック用の機器を買った方がいい。

たとえば、いまだに買わずにいるのがスキャナだが、スキャナを手に入れたら、学生の宿題などの資料をJPEGファイルなどで保存し、ISO9660 の Allow Macintosh name でCDに焼きつければ、マックでもウィンドーズでも見ることができる。そうすると、どこへ持って行ってもそのCDを使うことができるわけだ。そこにあるコンピュータがマックかウィンドーズかを尋ねる必要もない。

2月3日(月)「Webzip」

at 2003 02/04 20:37 編集

ウェブサイトを丸ごとダウンロードできるソフトで、韓国語ウィンドーズでも使えるものを探していたが、つい先日、韓国語のページから“Webzip”というシェアウェアがあるのを見つけた。これは英語版だ。韓国語でも日本語でも使える。

これをダウンロードして使ってみた。説明書も読まずに使ったので、思いきり迷った(汗)。今度も私のウェブサイトをダウンロードしてみたが、リンクされたスタイルシートも、JavaScriptでリンクしたページまでも、すべてダウンロードしてしまう。

このソフトは、日本でも知られているらしく、ここに紹介がある。また、これは韓国語だが、使い方の説明も詳しく載っている。

2月3日(月)「子たち」

at 2003 02/03 23:53 編集

下の子は、まだ4歳で、言語感覚も定まっていないので、言葉に面白い反応を示すことがある。

上の子と下の子に、私の“子たち”と言ったら、下の子がキャッキャと笑って、「ちがうよ!」と叫んだ。そして、「ぼくはコッタッチじゃないよ!」と言った。コッタッチ (코딱지) とは、鼻糞のことだ。

そういえば、下の子は、“こたつ”も코딱지だと思っている。それで、「こたつ」と聞くと、いつもキャッキャと笑う。

2月4日(火)「会議」

at 2003 02/07 17:53 編集

今日は院長の召集で日本語科の会議があった。案件は実は、去年の暮れに院長が第2外国語講師たちを食事に招いたとき、私が日本語科の要望として院長に要請した内容だった。

その日、日本語科の他の先生たちは、みな他の退っ引きならない用事で来られず、私が日本語科代表のかたちになったので、日本語科の要望を求められたとき、私自身の意見を話したのだった。私は講師待遇の改善についてはいっさい話さず、コースで学生の便宜を改善したい点について、院長に積極的な助力を求めただけだった。その後音沙汰がなかったので、その話はだめだったかと思っていたが、私が要請した案件について、院長が私たちを召集したのだ。

院長がまず、同僚の主任の先生に、そのいきさつを話してほしいと言ったが、私が言い出しっぺなので、主任の先生は、説明を私に振った。まさか自分がその話をすることになるとは思っていなかったので、何も準備していなかった。一瞬、おとといの朝の夢を思い出した。ホームページの日記にまで書き込んだから、よく覚えている。

出だしは、おととい見た夢さながら、しどろもどろになりかけた。しかし、何とか頑張って話した。幸い、院長の表情は険しくならなかった。そして何とか、私の考えてきたことは、首尾よく伝えることができた。

会議の結果は、私にとって満足できるものだった。院長室を出るとき、私のために開かれた会議だったような感じがした。小さなことだが、長い間実現できなかったことが、道が開けたのだった。このように道を備えてくださった神に感謝した。

2月5日(水)「こだまする未来」

at 2003 02/07 17:55 編集

同僚の先生を通して、詩人の黒木了二先生から、きのう『追憶のような未来』という詩集をいただいた。この詩集は、前半が韓国語訳になっていて、後半に日本語の原文がある。同僚の先生は、読んだ感想を聞きたいとことづかっていた。それで、感想として、その中の最初の詩「こだまする未来」の原詩に曲を付けてみた。

ひょっとして、この繊細で郷愁を感じさせる詩のありかたを壊してしまうのではないかと心配でもあるが、あくまでも私の“共鳴した感情”としての旋律だから、たぶん許してもらえるだろう。授業の合間を縫って午前中に曲付けを終え、ギターで確かめながら、伴奏のコードを付けた。

夜、私の拙いギターでボロンボロンと伴奏しながら下手な声で歌って、妻に聞いてもらった。妻は「なかなかいいじゃない」と言ってくれた。そして、1度いっしょに歌った。

2月6日(木)「デボーション雑誌」

at 2003 02/07 17:56 編集

先週の火曜日に聖書勉強会をやるとき教室で見つけた、置き忘れたデボーション雑誌を持ち主のもとに返すために、言語教育院の掲示板に案内を書いて貼った。

その雑誌は、発見した日にすぐ韓国語の講師室へ行き、その教室を授業で使う先生に渡したのだったが、残念なことに、先生のクラスには、持ち主はいなかったらしい。今日その先生からまた私のてもとに戻ってきてしまった。

その雑誌はツラノの『リビングライフ』のように、デボーションをする雑誌で、左のページに聖書本文があり、右のページに書き込む欄がある。書き込む欄は上下左右4つに分かれており、その整理の方法は、マルティン・ルーテルの黙想の仕方を採用しているようだ。

黙想欄の半分ぐらいは万年筆で書き込みされてあり、その文面からすると、30〜40代の比較的若い社会人男性のようだ。

私が特に意識しているのは、日本語のデボーション雑誌を日本語聖書勉強会を行う部屋で見つけたということと、言語教育院に来ている日本語話者の中にクリスチャンがいて、互いに相手を知らずにいるということと、その日本語話者の兄弟がしっかりした信仰を持っているということだ。よほど熱意がないと、デボーションをしようとは思わないものだ。

持ち主の手にこの雑誌が戻ることを願っている。

2月7日(金)「レフト・ビハインド」

at 2003 02/08 23:42 編集

インターネットで検索していたら、偶然あるキリスト教のサイトで『レフト・ビハインド』日本語版の宣伝に出くわした。この本は「黙示録」が成就した場合の状況をシミュレートした小説で、神学的にも正確だと評価されているとは聞いていた。ストーリーや内容のさわりを紹介してあったので、興味深く読んだ。

イエス様の言葉によると、あるとき突然、「畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」という。これは実際にはとてつもない事件で、小説によると、ガスの火を使っている家がいきなり無人になって出火したり、運転中の車が運転手を失って交通事故を起こしたりということが起こって、世界中が騒然となる。クリスチャンの多いアメリカの都市は、所々廃虚のようになる。

クリスチャンも、皆が携挙されるのではなく、『レフト・ビハインド』によると、忠実な人たちが挙げられる。この小説は、不忠実だったために置き去りにされたクリスチャンたちの、携挙から主の再臨までの話だ。あらすじやさわりを読みながら、自分のような不忠実なクリスチャンは、もし携挙が起こったら、取り残されて、キリストが来られるまで地上で大艱難の時代を耐えなければならないだろうと思った。

この小説の原書を、実は私は、アメリカに住んでいた兄弟が韓国に帰ってきたとき、今アメリカではこの本がとても流行っていると言って、もらっているのだった。ただ、英語が得意でない私は、数ページ読んだら目が回ってきて、読みさしてしまった。

聖書をもとにしたとはいえ、あくまでもシミュレーションだし、一種の娯楽小説だから、聖書のような権威をもって読むようなものではないだろう。しかし、私のように信仰のたるんだクリスチャンが、こういう小説を読んで襟元を正すのは、有益なことだ。

2月8日(土)「御婦人」

at 2003 02/08 23:44 編集

先日、妻の兄の家に行ったとき、기독교방송 (基督教放送) でゴスペルシンガーが歌っているのを見ながら、妻がその歌手を「黒人みたい」と言った。ところが私はそれを間違って“御婦人みたい”と聞いた。

その人は、韓国人なのだが、黒人のゴスペルシンガーのスタイルをしていて、髪もパーマにしてあった。そして、歌い方もアメリカ風に歌っていた。>
ところが私はそれを聞きながら、妙に飾り付けたその歌い方が気に入らなかった。黒人の魂のそこから溢れ出る信仰ではなく、それを表面的に真似ているだけに聞こえた。だから、まるでお金持ちの御婦人が趣味でゴスペルを歌っているように見えたのだった。

それで、妻に「えっ御婦人?!」と聞き返すと、むすっとした顔で「黒人って言ったの!」と返ってきた。

聞き取りというのは、耳に入ってくる音声の連続体から言葉を“再現する”のでなく、すでに持っている知識に合わせて“作り出す”ものだというようなことを、いくつかの本で読んだが、まさにその通りだと思った。

허웅の『国語音韻学』で、音声が先か音韻が先かの議論を読みながら、ふとそんな脇道にそれたことを考えた。だからなかなか勉強が進まないのだ。

2月8日(土)「ドボルザーク」

at 2003 02/09 00:00 編集

チェコの留学生が帰国するというので、歓送会を開いた。今日、韓国日本学会でもらってきた日本語の入門教材をはなむけ(?)にあげた。しかし見ると、その教材には仮名の説明がない。それで、急きょ手書きで仮名の一覧表のようなものを書いてあげた。

ふと、ドボルザーク(Dvorak)の発音が難しいということを思い出し、その学生に実際にどう発音するのか聞いてみた。ひとつひとつの発音を追ってみると、[d] は英語の“d”ではなく日本語の“ダ行”の位置で発音し、[v] は英語の“v”と同じ、[o] は“オ”の音。

問題は [r](rの上にvが付いた字)で、この音は、中国語の巻舌破擦音“zh”とよく似た音だ。ただし違う点は、“zh”のような音を発音するとき舌を巻き上げて行くために、直前に一瞬、中国語の巻舌音“r”のような音が生じる。その音が“ル”に聞こえるわけだ。もう一つの違う点は、“zh”は無気音で、有声音ではないが、チェコ語の [r] は有声音だということだ。こういう複雑な音が一つの音素とは驚いた。“擦破擦音”とか“流破擦音”とでも言ったらいいのだろうか。いや、音声学の本のどこかに書いてあるだろう。

そのあとの [a](aの上に鋭アクセントが付いた字)は、長めに発音し、強勢が付く。そして最後の [k] は、軽く破裂する。

それで、実際に聞こえる音を日本語に写すと、“ドゥヴォルジャーク”または“ドゥヴォジャーク”のように聞こえる。

このとき、中国から来た留学生から、中国での勉強法について、さらにまた新しい話を聞いた。おそらく日本ではアメリカ教育学の影響で失ったと思われる学習法が、中国では“常識”なのだそうだ。これが、中国の熱心な学生たちが優秀な所以だろう。内容は今度整理して別のところで紹介したいと思う。

2月9日(日)「はかどらない勉強」

at 2003 02/11 01:26 編集

勉強にも身が入らず、礼拝にも集中できない一日だった。そういう日もあるさ。

自分の知識の貧困さと頭の回転の悪さを考えた。しかし、本居宣長先生は「人々の才と不才とによりて、其功いたく異なれども、才不才は、生れつきたることなれば、力に及びがたし、されど大抵は、不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有物也」と言っておられ、さらに「すべて思ひくづをるゝは、学問に大にきらふ事ぞかし」と強調しておられる。

昔、私がクリスチャンになる何年も前に、あるクリスチャンの老人が私に、聖書には勉強のしかたの秘訣が書いてあると言ったことがある。その後その言葉を私は忘れなかったし、クリスチャンになったあと聖書は一通り読んで、新約聖書は何度か読んでいるというのに、勉強の仕方について私は聖書からまだ教わっていない。しかし、幼いときからのクリスチャンには優秀な人が多いから、きっとその中に何か秘訣があるのだろう。

勉強を大きく妨げるのは、自分はこんなことをしていて何になるのだろうかという疑念と、もうダメだという諦めの気持ちだ。この2種類の考えは、受け入れてはいけないのだが、なかなか説得力があるので、すぐ納得してしまう。考えてみれば、こいう日本的な(?)気の持ち方は、聖書とは無関係だ。聖書では、たとえ無駄に終わったとしても、すべきことはするし、希望をもって最後まで諦めずに耐え抜く生き方を模範として見せている。考えてみれば、これこそ勉強をする人の持つべき態度ではないか。私は聖書を読みながら、そういうことも学ばずにいたのだ。

2月10日(月)「クレジットカードの외판원」

at 2003 02/11 01:28 編集

講師室でメールチェックをしていると、見知らぬ年輩の女性がニコニコ笑いながら入って来た。てっきり学生かと思ったら、삼성카드 (サムソンカード) という大手クレジットカード会社の“외판원(=外交員)”だった。まず他の外国語の先生のところへ行って、カード加入の勧誘をしていた。その先生との交渉には成功したらしい。

そして次に、私のところへ来た。この人が私に引っ掛かったのは、気の毒なことかもしれない。このカードの特典をいろいろ説明してくれたが、テーマパークや映画の割引など、どれも私には関心のないものだった。それで、この特典は私には面白くありませんと答えた。今使っているカードだけで十分だと答えた。r>すると、年会費が安いという話を持ち出して来た。それで、そういう話は信じられませんと言った。妻は삼성카드に入っていたが、会費の安いものを請求したにもかかわらず、高い方に入会させられていて、消費者保護センターに連絡したことがあり、カード会社の詐欺紛いの行為を報道したKBS特集でも、インタビューに応じたことがあると答えた。すると、そういうお金は言えば返してもらえますと言うので、言わなければ返さないようじゃダメじゃないですか答えた。

私がこういう人を無下に追い返さずに相手するのは、自分の韓国語の練習のためなのだが、セールスマンにとって、返事をする相手というのは“脈のある”相手に違いない。しかし、それは誤算だ。私の目的は、韓国語で“ノー”と言うテクニックを磨くことだけにあるのだ。それで、私のような者を相手して時間を浪費するよりは、他に当ってみた方がいいんじゃないですかと言った。

その女性は、「私の実績を上げるためにも、加入してくださいよ」と頼むように言った。一瞬、あなたと私と何の関係があってそういうことを言うんですかといいたい気持ちが心をよぎったが、その顔を見たら、可哀想な感じがした。人生の疲れが滲み出ている表情だ。それで、今自分が使っているカードだけで十分ですから、申請する気はありませんと答えた。私の韓国語の練習の相手をいつまでもさせていたら、他の客を得る機会を、この人は失ってしまう。

その人は、カード加入者の特典が書かれたA4の紙をおいて出て行った。裏紙に使えるかなと思ってめくってみると、残念なことに、裏にもカードの宣伝が刷られていたので、裏紙には使えなかった。

その外販員とやり取りをしながら、先月末の、エホバの証人の勧誘員とダブって見えた。彼らは、キリスト教が間違っていると批判したので、私もエホバの証人の信仰は間違っていると批判し返した。外販員も、私にとってそのカードが必要だということを説明するので、私は不要だということを説明した。どちらも簡単には引き下がらなかった。やり取りのパターンがよく似ていた。

私が今回の外販員に対してしくじったのは、逆勧誘するのを忘れたことだ。言語教育院で外国語を勉強するように勧誘しそこねた。冬学期も後半に入ったから、来学期の登録への時期は近付いて来ている。勧誘するのにいい時期だったのだ。その女性に、日本語なり中国語なり英語なりを学んで人生を変える好機だと説得できたのに、そこまで思い付かなかった。

2月13日(木)「人違い」

at 2003 02/13 14:11 編集

昼食を食べるために講師休憩室へ行くと、先日来たクレジットカードの外交員がテーブルに向かって何か作業をしている。一瞬ムッとしたが、それでも愛想よく会釈すると、相手も愛想よく会釈した。しかし、講師たちが食事をしようとしているのに、悪びれもせずにそこに座って作業をしたままだ。

テープで何かを聞いていた。はっきりとは聞こえなかったが、営業中に客と話している内容を録音しておいたものを聞き返して、一言一言を検討しているのだろうと思った。私はその人に「아줌마」と呼んで、何か話しかけたが、その人は、そのテープを聞き返すのに没頭していて、私には見向きもしない。

なんと図々しいのだろうと腹が立った。縁もゆかりもない外交員が、のこのこと講師休憩室へやってきて、そこで自分の仕事を堂々としている。こんな人間は見たこともない。心臓にどんな分厚い毛が生えたらそんなことができるんだ。

しかし、そのテープの内容をよく聞いてみると、「한국말을 잘 하게 되면〜」とか、「한국에 처음 왔을 때〜」などといった言葉が聞こえ、営業の表現が一言も出てこない。頭の中がこんがらかってきた。あの外交員は、外国人にまで営業をしたのか。しかし、その内容には営業の表現が聞こえないのは、どういうわけか。もしかして、営業もするし、韓国語教育も勉強しているのか。そんなことを考えながら、飲み込めなくなった状況を把握するために、口を開いた。

「저어, 한국말 가르치고 계세요? (あのう、韓国語教えていらっしゃるんですか)」

すると、その人はこちらを見てにっこりと笑い、自分はニュージーランドから来たのだが、外国人が韓国語を習得する過程について言語学的な研究をしているのだと言った。

いやあ、しまった。大変な粗相をしてしまったものだ。その人に横柄な態度を取っていたので、その非礼をわびなければならなかった。しかしその人は、相変わらずにこやかに、私の取った態度は意に介さないかのようだった。

「私はよく他の人に間違えられるんです」と言って、フォローしてくれた。

よく見てみると、違う人だ。しかし、何でまた、とんでもない人違いをしてしまったのだろう。たぶん、顔が少し似ていて年齢も声も類似した人が、たまたま同じ髪型でいたことと、その人が見知らぬ人であったことのために、1度しか会ったことのないほかのそっくりさんと同定してしまったのだろう。こういう間違いは、また同じ状況になったら、私には避けられないと思う。

2月15日(土)「韓日自動翻訳ソフト」

at 2003 02/17 22:06 編集

ある出版社の社長から、「바벨TOP 2002」という韓日自動翻訳ソフトをいただいた。このソフトは、ウェブサイトや自分で入力した文書を翻訳してくれるので、日本語は苦手だが日本のサイトに関心がある人には、重宝するソフトに違いない。

家に帰ってインストールし、私のウェブサイトやニュースなどを訳させてみた。ところどころ、意味が不明な箇所(「行け」<命令形>を<可能形の連用形>と捉えるなど)はあるが、全体としては、まあ何とか通じる。今は帰国した元同僚の先生が以前、自分は訳すときに、まず自動翻訳機で訳してから原文を見ながら修正すると言っていたが、このくらいならそれもできそうだ。

ためしに、日本語の古文は訳せるだろうかと思って、『うひ山ふみ』を訳させてみた。結果は当然のことながら、何だかわけの分からない単語や文字がずらりと並んだだけだった。

次に、私の韓国語のページを訳させてみた。しかしこちらは、ハングルコードの日本語で、長音記号がない(“ホムペジをサチする”のようなかたち)。しかも、何を言っているのか分かるような分からないような日本語だ。국립국어연구원 (国立国語研究院) のウェブサイトにも入って訳させてみた。結果は同じだった。

しかし、古文はともかく、日→韓翻訳は、大体意味の分かる訳になっている。英→日/日→英自動翻訳よりは、ずっと読みやすく訳されているのではないだろうか。同音異義語にコロケーションの情報が入れば、大はずれの少ない翻訳ができるようになるはずだ。

ところで、使用マニュアルに、日本人から来たというメールを訳す例が載っているが、“原文”の日本語がへんてこりんだ。

「……送ってくださった商品資料よく受けました。来週貴社を直接訪れようとします。商品に対した冊子があればお願い致します。……」

このメールを書いた“中村”という会社員は、日本語をブラッシュアップする必要があるようだ。(笑)

2月17日(月)「Web 共有」

at 2003 02/19 07:48 編集

コントロールパネルにある「Web 共有」というプログラムをオンにして、「Web ページ」フォルダに適当なファイルを入れ、知り合いに電話をして、見えるかどうか試してもらった。すると、ちゃんと見えるという。私の遅いマックでも、早さは十分だそうだ。

急いでページを作ったために、コンテンツの全然ないページだったから、少しでも見せる内容を増やすために、ハードディスクの他のフォルダに入っている私のホームページのオリジナル版にリンクしてみた。しかし、リンクをクリックすると「ページが見つかりません」という表示が出るという。考えてみれば、外部から入って来た際、他のフォルダに行くことはできないのだ。もしそれができてしまったら、「Web 共有」のセキュリティーはなくなってしまう。しかし、「Web ページ」フォルダに入れてリンクを直せば、そのページに行くことができる。

このように、マッキントッシュを持っていてインターネットにつなげる人は、自分のコンピュータをウェブサーバーにすることができる。設定のし方はこうだ。

「システムフォルダ」の「コントロールパネル」にある「Web 共有」(私のOSは8.0だから、少なくともそれ以降のOSには入っているだろう)を開く。そして、“Web フォルダ”と“ホームページ”を指定する。私は“ホームページ”に“index.html”を選んだ。そして、“全ての利用者に読み込みアクセスを与える”を指定して、“開始”ボタンを押す。すると、いちばん上の“アドレス”という部分にURLが表示される。これで私のハードディスクはウェブサーバーになる。

これがいいのは、「Web 共有」を“オン”にした状態で“Web フォルダ”内のウェブページを製作すると、それがそのまま自分のウェブサイトの更新になるということだ。わざわざアップロードする手間がかからない。また、ハードディスクの容量が許す限り、巨大なウェブサイトを作ることができる。

ただし、電気代やメインテナンスなどの問題があるから、いつもコンピュータをつけっぱなしにしておくわけにはいかないだろう。また、家庭内でのセキュリティーも問題になる。コンピュータをつけた状態で外出している間に、小さい子供が触ってデータを壊してしまわないとも限らない。コンピュータがダウンしたり故障したりするかも知れない。また、引っ越してインターネット接続プロバイダを替えると、おそらく同じIPアドレスが使えないだろうから、他のウェブサイトからのリンクが切れ、お気に入りに入れていた人も、接続できなくなる。

このように、「Web 共有」によるウェブサイトを維持するために、コンピュータを消してはならないというのは、精神的な負担になる。そうしないと、つながったりつながらなかったりする気紛れなサイトになってしまう。これでは印象が悪い。

そういうわけで、「Web 共有」によるパソコンのウェブサーバーは、便利なように見えて、ちょっと不便でもある。

2月18日(火)「地下鉄放火事件」

at 2003 02/23 19:00 編集

今朝、대구の地下鉄車内で、ある精神異常者が、シンナーに火をつけて火災を起こし、百何十人もの犠牲者を出す大惨事となった。대구は1995年にも、地下鉄の工事現場でガス爆発があって、百人以上の死傷者を出したことがある。しかし今度は、事故ではなくて、意図的な犯行によるものだった。

日本でも何年も前に、オウム真理教の信者たちが教祖の指示に従って地下鉄にサリンを撒き、19人の犠牲者を出す惨事を起こしたことがあった。今日の대구の地下鉄放火事件は、それをはるかに上回る大惨事となった。私が仕事から帰る前に、日本の家族が心配で電話してきたと妻が言っていた。

Yahoo! KOREA のニュースで事件について読んだ。携帯電話で、家族に助けを求めたり、別れの言葉を残したりする人がたくさんいたという。「<娘>お父さん助けて!ドアが開かない」「<娘>息ができない……息が詰まってもう話せないの。お母さん、もう電話切って。お母さん、愛してる」「<息子>親不孝な末っ子の僕をゆるしてください」「<妻>あなた、愛してる」黒煙の充満する地下の暗がりの中で、携帯電話でそれぞれの言葉を残したのち、彼らの行方は分からない。電話を受け取った家族の気持ちを考えてしまったら、悲しみに堪えられなくなった。

犯人は助かって、病院で治療を受けているという。何という皮肉な結果だ。犯人に対する憎悪とともに、犯人と同じ感情は世界中に蔓延していることを思うと、やりきれない悲しさを感じる。

腹いせに無関係な人を殺したり、無関係な人を巻き添えにして自分も死のうとしたりする考え方。これは一体、どこから来たのだろうか。この考え方は、条件さえ整えば人の心に自然発生するものなのだろうか。あるいは、こういう凶暴な考えを是認する発想の根が、私たちの正義の考え方のどこかに組み込まれているのだろうか。

いずれにしても、私たちは、精神の奥底にこのような爆弾を隠し込まれている。正常な精神で犯行に走る人はいない。しかし、精神状態がおかしくなると、このようにたがが外れて凶暴な一面をむき出しにする。あるいは、街角のゴミ箱を蹴飛ばすのも、その凶暴さの安全弁かも知れない。しかし、それは心の問題を解決しない。先送りするだけだ。

この事件は、犯人の凶悪さを憎んで終わりにすべきものではない。私たちの心の中に潜在する罪を反省し、それを警戒するのにいい機会だと思う。

2月19日(水)「録音の編集」

at 2003 02/23 19:02 編集

言語教育院で先日録音した教材の編集を、手伝った。録音は同僚の先生と2人で行ったが、編集は私と録音室の人と2人で行った。

編集といっても、あまりに手際がいいので、何でもないことのように見えた。録音中に読み間違えて繰り返した部分は、すでに原稿にチェックを入れていたので、それを見ながら間違えた部分を削除するのだが、波形の類似した所を探し出して、あっという間に削除してしまう。私の仕事は、それが正しいかどうかを見守るだけだった。

この録音ファイルは、そのあとダウンロードのできないサウンドファイルに変換したあと、言語教育院の受講生用のページにアップロードし、日本語の受講生が入って聴けるようにする。この計画に期待しているもうひとつの効果は、受講生がなかなかログインしてくれない言語教育院のウェブサイトが、活性化するということだ。日本語で成功したら、他の言語でも同じことが行われるかもしれない。

編集する様子を見ながら、私は自分が録音したファイルを編集して自分の個人的な仕事に使っている姿を思い描いていた。本格的なソフトは私にはとうてい買えないから、機能はほとんどなくても、フリーウェアの編集ソフトが手に入ればいいなあと思った。

2月23日(日)「哲学する・さらなる・が」

at 2003 02/25 21:11 編集

野口悠紀雄の『「超」文章法』(中公新書)を読んでいると、ある記述にふと目が留まった。そこには「『バブルな人たち』、『デジタルな時代』、『受験な人』、『科学する心』、『哲学する』といった表現を面白がって使う人がいるが、こうした表現は文章全体の品格を落とす(もっとも、『科学する』は認める人が多い)」(p.215-216)と書いてあった。

この5つの例のうち、「デジタルな時代」をのぞいた4つは、実は私も抵抗を感じる表現だ。しかし、そのうちの「哲学する」という表現は、大学生だったとき、哲学の授業で教授が使っていたものだ。耳には逆らうが、由緒はあるのだろうと思っていた。

まだ右も左も分からない大学1年生のとき(今もそうかも知れない)、教養科目で取った哲学の授業で、教授が「哲学する」という表現を口にした。それを聞いた瞬間に感じたのは、学生におもねてそういう軽薄な言葉を“1度だけ”使ったのだろうということだった。ところがどっこい、その先生は、1年の授業の中で、「哲学する」という言葉を何度も使ったのだ。それからというもの、「哲学する」という言葉は、哲学の分野での専門用語に違いないと思っていた。

その「哲学する」を、野口悠紀雄は「文章全体の品格を落とす」と非難している。これが、もうずいぶん昔になってしまった大学時代の教室の風景と、哲学の教授の大きな明るい額までも、蘇らせた。残念ながら、その先生の名前は思い出せない。あの先生が『「超」文章法』を読まれら、どう思うだろうか。

その他にも「さらなる」という表現を槍玉に上げていた(p.220)。この言葉は、大学時代の初めには私はまだ知らなかった。アルバイトをしていたISS通訳研修センターというところで、所長から取引先への書簡をワープロ入力していたときに初めて見た。所長を尊敬していたので、その後私も「さらなる」という言葉を手紙の中で使うようになった。「これが猛威をふるいだしたのは、せいぜいここ10年くらいのことだ」(p.221)というから、私が「さらなる」に接したのは、まだ盛んに使われ始める前だったようだ。

接続助詞「が」についても、面白いことを書いている。「『曖昧の<が>を排除せよ』という注意は、正しい。ただし、これは正論である。正論の常として、息がつまる」と指摘して、「一つのパラグラフに三度以上は現れないようにしたい」と寛容な姿勢を見せている(p.211)。一つのパラグラフの目安は150字(p.87)だが、そこに2つまでは使ってもいいということだ。穏当な意見だ。

最近の「が」を排斥する意見は、おそらく現代の印欧語にこのような接続表現が見られないことを模範にしているに違いない。しかし、それが西洋の学術を発展させたわけではないだろう。たとえば、古典ギリシャ語は、文と文とを“de”という意味希薄な小辞でずらずらとつないでいる。それでも、ギリシャ語が論理的文章に適さないと聞いたことはない。

5百ページほどの新約聖書に、“de”は2,792回(『신약성서 헬라어 어휘사전』은성출판사、1999年、서울)も出現する。使用頻度では第5位の超高頻度語だ。これが分詞構文の頻繁な使用と相俟って、ずるずるごてごてとした印象を与えている。語順も極めて自由で、目と鼻と口を自由に配置した人の顔を見るようだ。だからといって、それらによって文の前後の関係が曖昧になることはない。つながっていることはしっかり分かるのだ。日本語の接続助詞「が」も、それらと機能は何となく似ている。

ギリシャ語の前例を持ち出すまでもなく、私は「が」をそんなに目くじら立てて弾圧する必要はないと思っていた。日本語は、言い切りが多くなると、文章が強くなり過ぎるからだ。これは、文末のモダリティーがいたずらに頻出するからで、述語が文中にある言語では思いもよらない、独特な修辞的効果をもたらしているのではないかと思う。接続助詞「が」がないと、たしかに文章はパンチが効いてくる。しかし、文と文との関係は、切れているのとつながっているのとの違いだけで、明晰さを増さないことが多い。

「哲学する」にしても「さらなる」や「が」にしても、それ自体を排斥するのはあまり有益ではないと思う。言語は変化を続けているのだし、その言語の構造自体が要求する文体の傾向もある。その流れをせきとめたり、方向を変えようとする努力は、あまり効果を見ないだけでなく、個人的に改善した文章を読んでも、とりたてて優れた文章になるようには見えない。

むしろ、このような新しい言葉や「が」などを使いこなして、より精緻で繊細な論理を表現する技術を教えてくれた方が、日本語のためになると思う。でも残念ながら、そういう本は見たことがない。

2月25日(火)「楽しい中間言語」

at 2003 02/25 22:24 編集

最近ギリシャ語が以前よりもう少し、話せるようになって来た。初級の中といったところか。これも AristotelhV 神父さんのおかげだ。しかし、私のギリシャ語の知識は古典文法で、現代語もそこから類推して考えるから、理解できないこともたくさんある。しかも、文法もやらないで会話をしているので、頭の中の変化表には空白がたくさんある。例えば、英語の be 動詞にあたる eimai は、最近まで1人称複数を知らなかった。それでもいちおう分かるし会話もできる。

1日15分で、予習も復習もほとんどしないような状態でも、長く続けていると、わずかながら言葉が出てくるようになる。私はこの体験をしながら、出来のわるい学生が日本語を身に付けていく様子を考えた。

口は開くのだが、人称や格をよく間違える。今日も、“Einai kaloV.(彼はいい人だ)”と言うつもりが、“Einai kala.(彼は元気だ)”と何度も言った。これは、形容詞の性と数を間違えたために、へんてこりんな間違いを犯したものだ。また、“Eimai IapwnaV.(私は日本人です)”と言いたいのに“Einai IapwnaV.(彼は日本人です)”と言ってしまったり、主語は3人称なのに動詞を1人称にしてしまったりと、いろいろな間違いが、次から次へと私の口から出て来る。自分で気が付くときもあるが、指摘されなければ気が付かないときもある。直されても直されても、私の口からは間違った言葉が出て来る。

しかし、それも楽しい。出てくる言葉はめちゃくちゃだが、ひとつ確かなことは、私が正しい表現を目ざしていることと、わずかながらも間違いは正されてきているということだ。いわば、床にばらまいたブロックの海から、始めはでたらめに取っては組み立てているが、徐々に秩序を少しずつ発見して、整った形に組み立て直していくような、刺激的な面白さがある。学生たちも、多くは私と同じような気分で、日本語を勉強しているのではないだろうか。

学生の発話中の間違いを訂正しても、すぐには効果が出ない。また同じ間違いを何度も繰り返すからだ。しかし、訂正を繰り返していると、徐々に間違いは正されていく。わりと効果があるのは、間違いを何度か直したあと、また同じ間違いを繰り返したとき、「ちがいます」と言って、学習者に考えさせることだ。私ははたと考え込む。そして、自分の言った言葉を点検しながら、これまでに何度か直された間違いをまた繰り返していたことに思い至る。そして、言い直す。正しく言えば、ほめてもらえる。

神父さんは、私が何度同じ間違いを繰り返しても、決して怒らない。笑いながら直してくれる。私は、学生が同じ間違いを続けていると、だんだんイライラしてきてしまう。私はこの寛容の態度をしっかりと学びたい。ペトロがイエス様のところに来て「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と尋ねたとき、イエス様は「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言われた。おそらくこの御言葉を、ギリシャ語のレッスンのような小さなことにもきちんと適用しておられるのに違いない。それが、ギリシャ語のレッスンを楽しくする秘訣になっている。

2月26日(水)「できる学生の性格的特徴」

at 2003 02/28 23:51 編集

教育放送で録音が終わったあと、講師の박혜성先生と一緒に帰りながら、できる学生に共通する性格があるという話をした。日本語のクラスで上級まで残る学生は、一般に、温和で寛容な学生が多い。自分との約束に忠実で、自らをコントロールでき、たとえ私の教え方に落ち度があっても、すぐにカッとなったりやる気を無くしたりしない。人当たりもいい。

私がそれを話すと、박先生が、自分の教えている大学で今回首席で卒業した学生は、非常に温和な社会人だったと言っていた。その人は、優秀な上に世渡りのうまい人で、消防署の所長にまでのぼりつめた人だそうだ。そして、何よりも私の耳を引いたのは、その人がクリスチャンだということだ。

クリスチャンには、なぜか優秀な人が多い。特に、両親がクリスチャンで、子供の頃、または若い頃から信じている人は、そうでない人にない、安定した優秀さがある(そうでない人もいるが)。聖書は、字面をいくら追っても、学習者の態度に関するあからさまなアドバイスは出てこない。だとすれば、聖書の言葉を信じそれに従う生き方に、その秘密があるのか。

悲しいのは、その優秀さと私とは関係がないということだ。信じたら優秀になると思ったらいけない。これはたぶん、こういうことだろう。『EQ〜こころの知能指数』(ダニエル・ゴールマン著、講談社)で書かれていたことだが、長じて社会的に成功する子供は、倫理的な感性が高いという。知性が高いのではないそうだ。聖書の言葉を自分の生き方とすることによって、その人の倫理的水準を高め、優秀な人間に高めるのかも知れない。

私はどう見ても倫理的に優れているとは言えない。自分の現実を見て、私の生活のあり方をじっくり反省する必要があるようだ。