ソウル生活日記


私の韓国生活日記です。時々書きます。

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11月1日(金)「教材話」

at 2002 11/03 00:23

毎日寒い日が続いている。午後遅く、用事があって出かけたが、地下鉄の駅を出るとき、見上げると、階段の向こうは、真っ青な空だった。外に出ると、落ち葉が風に舞っていた。

その用事で幌馬車先生と会ったが、幌馬車先生の友人も一緒に来ておられた。その人とは初対面だったのだが、用事が終ってから、私もひょこひょこと一緒に食事に付いて行った。以前からその人の名前は何度も聞いていたし、その人も私の名前を知っていたので、初めて会ったような感じがしなかったのだ。その人がクリスチャンだということにも、親近感を覚えた。

幌馬車先生は韓国にはとても長く住んでいるが、その人は、語学堂で同期だったという。私がまだ高校生で、韓国の人に会ったこともない頃の話だ。私にとっては“伝説”のような、80年代のソウルに住む日本人と在日韓国人の話題を、2人が話すのを聞きながら、不思議な感慨に浸っていた。私が韓国に来た90年は、まだわずかに80年代の面影が残っていたと思う。その頃のことを思い出しながら、それ以前のソウルの様子を想像していた。現在のソウルは、あまりにも変貌してしまった。

ところで、幌馬車先生から、先月録音した教材について話を聞いた。その教材の中で、苦悩するテロリストの話を私はいちばん気に入っているが、そのスキットを作るときに考えたことは、一方からの情報や知識だけを与えて学生に話させるのではなく、多角的な視点から考えさせることだったという。今までのフリートーキングの教材は、著者の価値観で話が進められていたが、この教材では、そういうことをせず、あるテーマについて、肯定的な人も否定的な人も、話ができるようにしたという。

そして、もう一つのスタンスとしては、これまでに出た教材を参考にするのではなく、逆に、今後ほかの教材に参考にされるようなものを作ろうということで、独創的であることを狙ったという。たしかに、とても独創的だ。教材の作りは比較的シンプルなようだが、そこに盛り込まれた考え方は、ひと味もふた味も違う。

その教材は、日本人が作ったにもかかわらず、ほとんどのスキットが日本人の視点を脱している。著者たちのほとんどが韓国に長年住んでいるというのも、日本的な発想からだいぶ自由になれた理由の一つだろう。かといって、韓国的な発想に接近しているわけでもない。テロとクローンの話題以外は日本と韓国が舞台なのだが、日本らしさも韓国らしさもない、不思議な場面設定だ。

こういう教材は、10年前だったら作れなかったかも知れない。その当時は、社会の雰囲気が、単一の価値観に流れる傾向があった。しかし最近は、若い人たちの意識の国際化が進んできて、価値観が多様化し、ひとくちに韓国人の価値観はどうだと言いにくくなってきた。そのような雰囲気の中で、幌馬車先生たちの教材は出るわけだ。

この教材は、教師に複眼的思考と多様な価値観の受容を要求するので、訓練が必要な先生もいるかもしれない。ひょっとしたら、この教材で教えることで、複眼的思考が訓練され、寛容の精神が身に付くかも。著者の先生たち自身、他の著者の書いたスキットを読んだ晩はなかなか寝付けなかったと言っていた。私も録音に加わったとき、夜まで心の動揺が続いた。教材の中に込められた価値観の多様さが、ショックを与えたのだ。

こういう教材を使い終わる頃には、学生たちも先生も、世界観が変化しているのではないだろうか。

11月3日(日)「礼拝」

at 2002 11/04 01:04

最近ずっと、私は教会の夜9時からの礼拝に出ている。この礼拝は、主に社会人のためのもので、日曜日も出勤しなければならない人たちのために去年から始めたものだ。ターゲットになる世代が大体私と同じくらいなのが、心地よい。そして、この時間帯は、日中は大混雑するオンヌリ教会の駐車場にも、車が楽に停められる。それがまた、私にとってはありがたい。

この礼拝の特徴は、初めはなかなか定まらなかったが、最近は、次のようになっている。

まず、賛美を30分ほどする。若者向けのエネルギッシュな曲ではなく、静かな賛美と比較的元気な賛美とを交互にする。同じ曲を、何度か反復する。この反復が、歌詞の内容を黙想させ、とてもいい。

つぎに、代表祈祷の代わりに、祈りをリードする人と一緒に祈る。私は紋切り型の代表祈祷を聞くのが本当につらく、ほとんど毎回我慢して聞いていたが、最近は、代表祈祷を聞くことから解放されたので、とてもうれしい。一緒に祈るのを韓国語では“トンソンキド(通声祈祷)”と言うが、日本語ではどう言うのだろうか。代表祈祷の方がいいという人の方が多いだろうが、私はトンソンキドの方がいい。

それから説教がある。この礼拝では、2人の若手牧師先生が説教を担当しているが、今日は、説教があまりうまくないという評判の方の牧師先生が説教をした。しかし、今日の説教はとてもよかった。マタイの福音書1章1〜17節の内容を説教したのだが、聖書がある人は見ていただきたい。名前がずらずらと並んでいるだけの系図で、新約聖書ではいちばん無味乾燥な箇所だ。しかし、この系図は、実は、神は不完全な者を用いて偉業をなされるというメッセージを込めているのだ。この系図に慰められ、励まされた人は、昔から数多くいたことだろう。説教の最後に「神が抱かれる夢は必ず実現します」と牧師先生が静かに言ったとき、私は腹の底から込み上げる感動に涙が出てしまった。とても美しい説教だった。

そのあと、今日は月の最初の主日なので、聖餐式があった。正餐式が始まったとき、この間ギリシャ正教の神父さんが言っていた、“プロテスタントでは、正餐式のパンと葡萄酒を、キリストの肉と血の象徴として行うが、正教会では、本当にキリストの肉と血として食べ、そして飲む”という言葉を思い出した。しかし、正餐式を導く牧師先生の言葉を聞きながら、私たちは、それを象徴でなく、本当にキリストの肉であり血として、食べ、そして飲んでいるように感じられた。正餐式のパンと葡萄酒(うちの教会では葡萄の絞り汁)は、象徴ではいけないのだ。イエス様は、パンを割きながら「これは私の肉だ」と言われ、また葡萄酒を回しながら「これは私の血だ」と言われた。私自身は正餐式を、キリストの肉と血が私の中に入って私がキリストと一緒になる体験としてとらえている。それを以前、「聖餐的生き方」という文章に書いたことがある。(しかし、ギリシャ正教でいう“本当にキリストの肉と血として食べ、そして飲む”というのは、実のところどういう意味なのか、分からない。私の乏しい英語の実力では、そこまで深い会話ができないのだ。神父さんも、それは難しい神学的な問題だと言っておられた。それ以来私は、その問題が知りたくてうずうずしている。)

正餐式が終わってから、神の栄光を称える賛美を1曲歌い、牧師先生が祝祷をし、それから礼拝の締めくくりの短い賛美を1曲歌って礼拝が終わった。

礼拝が終わって家に帰ってからも、礼拝の余韻が残っていた。無力な者に力があり、貧しい者が富んでいて、零落れた者に栄光があり、敗北した者が勝者となる。どのような思想や宗教も発見できなかった逆説的な真理を、聖書は教えている。

11月6日(水)「電池」

at 2002 11/09 22:17

8月頃から、今までに6回、新約聖書の原典から1段落ずつ、ギリシャ正教の AristotelhV 神父さんに抜粋して読んでいただいた。そして、それをMDに録音して、何度も聞いて耳を慣らし、1週間後に暗唱する。内容や意味などについての話はほとんどしない。それは、私が自分でやることだからだ。物覚えのよくない私にとって、これは荒療治のような方法だが、効果はある。おかげで、少しずつではあるが、ここ3ヶ月の間に徐々に読みやすくなってきた。

神父さんが韓国語クラスの休み時間15分を割いて私に教えてくださるのだが、この授業では、英語と現代ギリシャ語を交えて現代ギリシャ語を教えてもらい、同時に1週間に1度、古典ギリシャ語である新約聖書から1〜2分の長さの段落を読んでいただく。これは全く神父さんのご好意によるもので、無料で教えていただいているのだ。だから、私としても、先生に負担がないようにして、なおかつ、教え甲斐を感じる生徒になる必要がある。

こういう2本立ての勉強なので、2つの言葉を同時に覚えることになった。一つは新約聖書のギリシャ語で、もう一つは現代ギリシャ語で書かれたものだ。現代ギリシャ語の方は、神父さんがくださった手紙や、私が書いた文の修正してもらったものを覚える。これは、録音してもらわない。現代ギリシャ語は語順が西欧語的で、文法も、頻度の比較的低いものはだいぶ単純になっている。だから、理解もしやすく、したがって、覚えやすい。

古典ギリシャ語を勉強してから現代ギリシャ語を習い始めた形になるので、古典ギリシャ語と現代ギリシャ語が混ざった話し方になってしまうのだが、それでも大丈夫らしい。現代ギリシャ語では、いわゆる文語文である“KaJareuousa(純粋文語)”と、まったく現代的な“Dhmotikh(民衆語)”が使われているが、純粋文語というのは、語彙は古典的で、文法は民衆語に似ている。ただし、私が話す言葉は、文法まで古典語のようになってしまうことがよくある。神父さんが私に教えてくださっているのは、純粋文語に偏った現代語だそうだ。そして表記は、85年以前の、3種のアクセント記号や気息記号などを伴う表記法で教わっている。これだと、現代語がそのまま古典語として使えるものも多い。中国語で言えば、繁体字で習っているようなものだろうか。

純粋文語を中心に現代ギリシャ語を習っていると、徐々に古典ギリシャ語も読みやすくなって来る。百年前にシュリーマンが現代ギリシャ語を習ったのは、純粋文語の方だったそうだ。ならば、そのあと古典ギリシャ語を習うのも、それほど困難ではなかったろう。3ヶ月で古典作品が読めるようになったというのは驚異的だが、それが可能なほど、純粋文語と古典ギリシャ語は近いということだ。これがもし民衆語からの移行だったら、ちょっと苦労したかもしれない。

きのう前回録音していただいた箇所を暗唱したあと、私が書いた手紙の修正をしていただいたので、録音ができなかった。それで今日、新しい箇所を録音していただくはずだった。ところが、録音し始めるや否や、MDプレーヤーがストップし、“BATTERY EMPTY”という表示がしばらく出たあと、電源が切れた(*o*)。何ということだ。せっかく新しい箇所をわくわくしながら聞いていたのに、電池が切れてしまうとは(T_T)。残念だけれども、明日また読んでいただくことにした。

11月7日(木)「よい生徒になる努力^^;」

at 2002 11/09 22:23

ギリシャ語を習いながら、よい生徒の条件を満たすために、いろいろ考えた。そして、次の原則を守ることにした。

 1.文法の質問をしない。(自分で勉強できるから)
 2.ニュアンスの違いを尋ねない。(結合関係によってニュアンスが分かるから)
 3.先生のアドバイスには極力従う。
 4.先生が読んでくださったものは暗唱する。
 5.3つの態度を守る。

しかし、ひとつここにない項目で、なおかつ私にとって苦手なものがあるのだが、それは、その日に出てきて紙にメモした単文や単語を覚えるということだ。単語は、専門用語のようなものも覚えにくいが、動詞などが書いてあると、それをどう処理したらいいのかわからない。毎日1枚ほどたまっていく裏紙に書かれたギリシャ語は、私の宝だ。持っているだけでは死蔵しているのと同じだ。いずれ近いうちに覚えてしまいたい。

今日録音していただいたところは、最後の審判の箇所だが、マタイ25:31〜46と、すごく長い。形式的には反復が多いので、覚えやすそうなのだが、はたして暗誦できるかどうか。今回は、テキストを書き出す“暗写(?)”しながら覚える時間は取れそうもない。単語の綴りだけをしっかりすることにしよう。

11月9日(土)「ギリシャ正教会」

at 2002 11/09 23:01

エオゲにあるギリシャ正教会のニコラス大聖堂で行われた、イコン(=聖画)についての講習会に行ってきた。これは、AristotelhV 神父さんがチャンシン大(=長老教神学大学校)の学生たちのために特別に行ったものだが、その機会に、私も誘ってくださったのだ。プロテスタント教会に通う人たちがくるという話は聞いていたが、教授が引率する神学生たちが来るということは知らなかった。

約束の時間よりも早く着いた。執事(?)のおばさんに、わけを話すと、地下のギャラリーで古代ギリシャの彫刻品を見ているところだろうと言うので、そこへ行ってみた。すると、10人以上の人たちが、ぞろぞろと歩きながら、ギリシャで出土した彫刻品の複製を見ていた。その中に、AristotelhV 神父さんもいた。

そのあと、全員が会議室のようなところへ行ってひと休みをし、お菓子やジュースと一緒に話をした。そのとき初めて、来た人たちが長老派の教会に通う人たちで、名門チャンシン大の教授と学生たちだということを知った。その教授は、アメリカに留学したとき、AristotelhV 神父さんと一緒に勉強したことがあるのだそうだ。授業でギリシャ正教について教えているが、聞くと見るとは違うものだから、同学のよしみでもある神父さんに頼んで講習会を行ってもらったらしい。

講習会は、AristotelhV 神父さんがギリシャ語で話し、ギリシャ語の堪能な韓国人の聖職者が韓国語に訳した。初めはヨハンさんという人が通訳してくださり、休憩のあとのイコンの説明からは、ミカエルさんという人が通訳してくださった。聖職者といっても、特別な服装をしているのは AristotelhV 神父さんだけで、他の人たちは、ジャンパーにジーンズという気楽な服装をしている。

神と聖書とイコンとの関係は、あたかも軍隊に行っている息子とその手紙と写真との関係のようなものだという。息子から手紙をもらったからといって写真を捨てないのと同じく、聖書があってもイコンは捨てない。イコンは崇拝するものではなく、あたかも軍隊へ行っている息子を写真を通して思い出すように、イコンを通して、イエス様や聖人たちのことを思うのだそうだ。ただし、イコンはそこに神学的な意味を読み取るためにあるので、決して写実的に描かず、肉体的な美しさも加味しない。そこが、西欧の聖画と違う点だと言っていた。

実は私は、家に写真を飾るのも嫌いなのだが、妻は家のあちこちに、家族の写真を飾っている。お客さんは、まるで私が家族の写真が好きなように思うかも知れないが、実はそれは妻の趣味なのだ。しかし、イコンの原理に照らして見てみると、妻はその写真によって、家族の存在をいつも心に思っているのだろう。

簡単な説明をしたあと、神学生たちとの質疑応答に入った。神学生たちの質問は、痒いところを正確に掻いてくれて、それらの質問によって、イコンや教理に関する神学的・聖書的な意味がどんどん浮き彫りになっていった。私たちがいちばん誤解しやすそうな点を突く質問と、それに対する返答によって、イコンやギリシャ正教の礼拝に対する誤解が、徐々に解けていった。なぜなら、私たちとギリシャ正教との共通の基板である聖書の権威が共通していて、その権威の下にある、私たちとの形式的な違いだということが明かになっていったからだ。

ギリシャ正教会の教理は、参加者たちの多くに好意的に受け取られた。いちばん好感が持てるのは、徹底して聖書を中心にしているということだ。私はカトリックを否定しないが、それでも、聖書は教会が作ったものだから教会は聖書よりも上にあるという考えには抵抗を感じる。私はその考えに対して、寛容をもって接しなければならない。おそらくほとんどのプロテスタントの信徒は私と同じだろう。しかし、ギリシャ正教では、聖書を神の御言葉として絶対的な権威を与えている。そこに、私たちは心地よい安定感を覚えた。

もうひとつ、私たちは態度が定まっていないけれども、ギリシャ正教ではっきりした態度を取っているものに、クリスマスや十字架よりも、復活を重視している点がある。主の降誕も十字架も重要な事件だが、私たちは、主の復活がなければ、実は何もないのだ。ギリシャ正教では、その態度をはっきりとさせていた。正教徒が国民の90%を占めるギリシャでは、クリスマスよりも復活節の方がより盛大なお祝なのだそうだ。実は私たちも、降誕と十字架を重視して復活を比較的小さく見るカトリックの態度に、不満を感じている。聖書には「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」と書かれているからだ。しかしそれにもかかわらず、私たちは、降誕と十字架と復活の3つに対する態度がはっきりしていない。

神学生の一人が、「イコンには笑っている顔がない。信仰は喜びが溢れなければならないのに、イコンに笑顔がないのはなぜか」という質問をした。それに対して、「私たちは顔で笑って心で泣くことがある。そのように、外面は内面と違う。プロテスタントの教会では、賛美をにぎやかに歌い踊るところもあるが、正教会では、心の底に起こる喜びと平安をもっと大事にしている。私は、イエス様の平安と厳粛さがあるイコンを見るとき、喜びを感じるが、もしイエス様が笑っているイコンでは、私は喜びを感じないだろう」と答えると、参加者たちの表情がほころんだ。

私も質問した。この間から知りたいと思っていた聖餐式のパンと葡萄酒のことだ。AristotelhV 神父さんの話によると、聖餐式のパンと葡萄酒が、キリストの肉と血であることは、哲学的に証明したり説明したりできるものではないそうだ。それを信じて受け入れることで、キリストの肉と血として、私たちの体の中に入り、私たちはキリストとともに生きるようになるということだ。正しく理解できたかどうか分らないが、これこそ、聖餐式の持つ意義ではないか。だからこそ、プロテスタントの教会でも、イエス様を受け入れていない人には、聖餐のパンと葡萄酒に与ることを遠慮するよう注意しているのだと、私は思う。

このように、理解できないものを理性的に説明しようとせず、信じる心でそのまま受け入れるという態度は、神学生たちにもチャレンジを与えたようだし、私も大きくチャレンジを受けた。

ある兄弟が、「僕たちは、自分たちの信仰や礼拝の一つ一つについて自信をもって説明しにくいが、ギリシャ正教ははっきりと自信をもって自分たちの信仰の深い部分までも語ることができるのがうらやましい」と言っていた。私も同感だった。しかしこれは AristotelhV 神父さんだからできたことだろう。私もプロテスタントの信仰のどのような点についても、あのように明快に説明できるようになりたい。

あとで AristotelhV 神父さんが私に、学生たちの質問はとてもよかったと言った。私も、彼らの質問のおかげでたくさんのことを学びましたと答えた。やはり名門神学大学の学生たちは違う。しかし、それにもまして、どの質問にも信仰をもって誠実に答えてくださった神父さんに、尊敬の念を覚える。

11月13日(水)「CD教材」

at 2002 11/14 14:48

キョボ文庫で、“THE ENGLISH YOU NEED FOR THE OFFICE”(Susan Dean & Lawrence J. Zwier著, Asia Pacific Press Holdings Ltd, Hong Kong, 2002年)という教材を買った。CDが1枚付いていて、1万2千ウォンだった。全部で56の場面に分かれていて、それぞれの場面に、ふんだんなオールカラーのイラストとともに、その場面での行動や動作を表す表現が載っている。イラストが非常に適切なので、訳がなくても意味はよく分かる。

私がこの教材を買ったのには2つの理由がある。一つは、日本語教材のアイデアを考えるときの参考になるからで、もう一つは、CDで外国語を勉強したらどんな感じなのかを体験してみたかったからだ。

私はCDに録音された語学教材をいくつか持っているが、どれも日本語教材なので、自分の外国語学習とは無関係だ。これまで、CDに録音された語学教材をほしいとは思っていたが、願う気持ちが弱くて、その機会を得なかった。しかし、ここ数カ月間、CD教材をパソコンで体験学習してみたいと思っていて、なおかつ、この“THE ENGLISH YOU NEED FOR THE OFFICE”のように、廉価で内容の優れた教材が見つかったものだから、たった5分躊躇しただけで、この本を買ってしまった。

家に帰ってから、Macの“AppleCD オーディオプレーヤ”で再生しながら、聞いてみた。使い勝手は、MDとよく似ている。一つのトラックを何度でも反復再生できる点と、途中で止めて付いて言ってみることができるという点は、MDと共通した点だ。トラック内の任意の区間を反復できないという点も同じだ。ただ、私の持っているコンパクトMDプレーヤーにはないCDの強みは、プログラムを組んで、任意に選んだ複数のトラックを任意の順序で再生できるということだ。

また、MDプレーヤーでは、聞きたいトラックまで、先送りボタンを何度も押しながら辿るのがちょっと面倒だが、CDでは、そのトラックをプログラムの欄にドラッグ&ドロップすればいいので、とても簡単だ。実に、この一点のために、CDはMDに比べてはるかに使い勝手がいいと感じさせる。トラックが56個にもなると、まん中あたりにあるトラックは、MDでは、前に送っても後ろに送っても、選曲ボタンをせっせと押さなければならない。コンピュータで再生するオーディオCDでは、そんな煩わしさもなく、一発で選曲できる。

このCDで、試し勉強をやってみた。発音の模倣が難しいのは一緒だった。私は個々の発音よりも、イントネーションやリズムなどを重視するが、その模倣が、やさしいようで難しい。強弱のリズムもさることながら、高低の調子の流れもつかめない。息の長いところは、付いて言うことすら覚束ない。いつものことながら、初回の試みは、自分の英語の発音は本物とは程遠く、大体同じになるまでには多大な努力が必要だということを確認しただけだった。英語のイントネーションに合わせようとしているのに、日本語でも韓国語でもない、ギリシャ語のイントネーションになってしまうのには、笑ってしまう。聞こえる通りに発音することの難しさだ。

このCD教材の各トラックの長さは課によってまちまちだが、大体平均して1分ほどと、暗記にはちょうどいい長さになっている。これを本気で暗記したら、日常の動作を英語で描写するには事欠かなくなるだろう。私にそれだけの志が沸き起こるかどうか分からないが、私のほとんどストラテジーでまかなわれているレベル不明の英語会話も、この本を真面目に勉強するなら、確実に中級以上のものになると思われる。

11月14日(木)「信号無視」

at 2002 11/14 14:57

……のつもりではなかったのだけれど、ソンサン路のセブランス病院前の信号が赤になって、前の白い車がUターンしたので、私もUターンした。すると、すぐ後ろについて来たパトカーが、止まれと私に合図する。それで、ガード前の安全地帯に車を止め、パトカーから出て来た警察官に歩み寄りながら、「私が何か間違ったことをしましたか」と聞くと、「左折信号が出ないのにUターンしたから、信号違反(=信号無視)です」という。

本当は返す言葉もないはずなのだが、「前の車が曲がったから、それに従って曲がったんです。赤信号でもUターンできるんじゃないんですか」と言った。警察官は、「赤信号でUターンすると、セブランス病院から出てくる車と衝突する危険性があるから、信号違反になります。それに、前の車は見ませんでした」と答えた。私は「白い車だったんですけど」と言いながら、警察官の顔を目を見た。本当に見ていないという表情で、警察官も私の顔を見ている。すると、心の中から“警察官に従え”という声がした。その通り、ここでゴネても仕方ないのだ。

警察官が、「免許証を見せてください」と言うので、車に戻って鞄から運転免許証を出し、見せた。私の名前を見て、「外国人ですね。では外国人登録証を見せてください」という。また車に戻って鞄から外国人登録証を出し、見せた。外国人登録証を確認しながら、私がEBSのラジオ日本語出演許可が書き込まれているのを見て、「EBSに出ているんですねえ」と言った。私は心の中で“お父様、ちょっと何とか助けてください。この人の気持ちを和ませてください”と祈った。それから、また心の中で、“罰金はいくらぐらい払わなければならないのだろう。最近は貧乏でちょっとの出費も痛手になるのに”などと考えた。

すると、警察官は私に運転免許証と外国人登録証を返しながら、「けっこうです。安全運転して帰ってください」と言った。そして、安全地帯から出るときに、他の車を避けさせてくれた。私は礼を言って、そこから立ち去った。車のなかで静かに流れているゴスペルの歌詞が、ふと耳に入った。“I need Thee, O I need Thee; Every hour I need Thee...”というその歌詞は、私の立場を代弁しているようだった。

11月19日(火)「日本語聖書勉強会」

at 2002 11/24 05:24

私は勉強会の司会に向いていないのかも知れないが、それでもまた今日、聖書勉強会で司会をやった。今週は、ルカの福音書の5章33〜39節だった。こんりんざい準備をしないという気持ちで、準備に大変な時間を割いた。しかし、それがどうも裏目に出たようだ。

準備のために、ギリシャ語の原典を読んだが、すっきりと洗練された翻訳の聖書と違って、原書は表現が多少ごつごつしている。それが言葉に色彩を与え、微妙な意味合いを生じさせる。

それで、原書の味わいを少しでも感じさせられるようにと、該当箇所に用いられている単語を質問シートに書き加えておいた。単語のニュアンスというのは、語結合によって生じると私は考えている。結合する単語の素性によって、意味の細かな規定ができてくるのだ。

“新しい”という意味を表す語に、“kainoV”と“neoV”が出て来て、それぞれのニュアンスがその箇所の結論をより鮮明なものにすると思ったので、説明を加えた。

そのとき私は、それぞれの形容詞が結合する名詞だけを提示して、ニュアンスを感じてもらおうと思った。それで、“kainoV”は「着物」と「皮袋」に使われて、“neoV”は「ぶどう酒」に使われていると説明した。すると、ある姉妹が、“kainoV”は薄いものの新しさで、“neoV”は液体の新しさではないかと言った。意表を突く言葉にあぜんとした。考え方としては正しいのだ。ああ、困った。

実際には、“kainoV”は新品や未使用品などの新しさで、“neoV”は若かったり幼かったり最近のものだったりする新しさを言う。39節の「だれも、熟成した葡萄酒を飲んだあとで、作りたての葡萄酒をほしがらない。『古い葡萄酒は美味しい』と思うのだ」と読める部分を、私は“歴史が古く形式の洗練された信仰に味を占めた人は、生まれたばかりの形式も定まっていない信仰をよろこばない”という意味に解釈し、イエス様は旧習にとらわれるファリサイ派の宗教家たちを皮肉ったと読んだ。

しかし、日本語の聖書は(こっちの方が私の訳よりも正確なのだが)「だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い。』と言うのです」と書いてあることから、これは結論ではなく、但書きとして、古いものもよいとイエス様が認めているのだと読んだ人が多かった。しかし日本語の聖書でも、私にはこれは皮肉に見える。そしてこれは、皮肉であると同時に、私たちに対する警告でもあると思う。そういう読み方を“neoV”という単語は力強く促していると思った。

講師室に戻って、同僚の先生に“kainoV”と“neoV”の話をしてみると、先生は、私の話を聞きながら“neoV”は食品の新しさで、“kainoV”はそれ以外のものの新しさだと思ったという。ああ、それも考え方としては正しい。意味の把握のために私の採った方法が間違っていたということは、2人の答えから証明されてしまった。

11月26日(火)「日本語聖書勉強会」

at 2002 11/27 00:54

今週も、私が司会をした。本当は一緒に勉強会をしている伝道師さんが司会をすることになっていたのだが、風邪でダウンしたために、私がやることになったのだ。今回は、ほとんど何も準備をしなかった。注解書を一つだけ読んだが、私にとって不明な点を明らかにしてくれるようなものではなかった。

今回は、ルカの福音書6章1〜11節を読んだ。安息日に麦の穂を摘んだり、手のなえた人をいやすことに対する、イエス様の教えを記した部分だ。この部分は、分かりやすいようでいながら、私の知識の何がこんがらかってか、よく分からなかった。参加者の中でよく分かる人が何かを教えてくれるだろうと期待したが、私は参加者の人たちの話してくれる内容も、よく理解できなかった。まるで自分が聖書について何も知らないノンクリスチャンになったような気分だった。特に4節では、なぜそういうことをイエス様が言われたのか理解できず、司会をしながらしばらく絶句した。私はよほど頭が固くなっているらしい。

結局、満足できる手ごたえのある収穫を、私自身は得られなかった。聖書というのは、読んでよく分からない部分から、それまで考えてもみなかったような深い知識を得ることができる。しかし私は、表面的な意味をなぞっただけで終わってしまった。しっかりとした手ごたえをもって深い解釈に掘り下げることができなかった。

その原因を考えてみた。おそらく私の中には、何か聖書の教えに対して前提としている考えがあって、それが実際に書かれたテキストをそのまま理解するよりも強く私の心の中を支配しているのだろう。そのために、心が閉ざされてしまった。あらゆる前提から自由になって言葉を解釈するのは無理だろうが、少なくとも、自分の知識に合わない情況に出くわしたとき、自分の知識を修正しながら、より幅広い知識へと向かって行くことは、可能だ。しかし私は、自分の前提としていることが何なのかも自覚できなかった。

今日初めて参加した兄弟は、今まで流し読みしていた部分を、立ち止まってよく考えることができたので、よかったと言ってくれた。他の人たちはどうだったろうか。私自身は聖書から何も得られなかったとしても、他の人たちが銘々善きものを得て帰っていくことができたのなら、私はそれで満足だ。いや、むしろそのための聖書勉強会なのだ。

11月26日(火)「錯覚」

at 2002 11/27 01:21

今月7日に録音していただいたマタイの福音書25章31〜46節を、今日やっと暗誦し終わった。実に20日間もこの箇所に関わったわけだ。しかし、私の鈍い記憶力は、この箇所の前の方をすでに忘れかけている。

しかも、私はテキストを間違えて読み、間違えて覚えていた。マタイ25章46節の終わりから7番目の単語が aiwnwn に見えて、ノートにそう書き写した。AristotelhV 神父さんの読んだ録音には aiwnion となっていたが、私はそれを神父さんの読み違いだと思っていた。どちらも文法的には問題がない。

しかし、私が暗誦するあいだノートを見ていた神父さんが、この部分はおかしいと言われた。けれども私は自分の考えを曲げなかった。ギリシャ語の母語話者が変だと指摘しているのに、確かにこう見たと主張するのだから、私もずいぶん強情な人間だ。家に帰って確かめたら、神父さんが正しかった。私の記憶は間違っていた。ノートに書き写すときにも確認したし、そのあとまた録音を聞きながら原文を確認したにもかかわらず、私の目に写っていた単語は間違ったものだった。どういうことだろうか。

11月28日(木)「またも錯覚」

at 2002 11/29 02:51

昨日ギリシャ語の録音をしているときに、携帯に電話がかかって来た。ベルの音はすぐに切ったのだが、しっかりと録音されてしまった。だからといって、録音しなおしていただくには、あまりに申し訳ない。我慢して今回はそれで暗記することにした。しかし、私はそのことで心密かに不愉快な気分になっていて、昨日はその録音を聞かなかった。

そして、今日、家を出るときに、車の中で初めて、昨日録音したものを聞いた。忘れっぽい私は、録音中に電話の音が入っていることなど、すっかり忘れていた。

運転をしながら録音を聞いていると、携帯電話が鳴り出した。それで、フリップを開けたが、どうしたわけか、ベルが鳴り止まない。慌てて、“通話”ボタンを押した。すると、ベルが鳴り止み、今度はハンズフリーのスピーカーから、送信音が“プルルル”と聞こえ始めた。

まもなく電話の向こうから「S製鋼秘書室です」という声がした。それで、「はい」と返事をし、「どういうご用件でしょうか」と尋ねると、「そちらから電話をいただいたので、いま受けているんですが」という。私は驚き、電話のベルが鳴ったのでボタンを押したのだが、何か操作を間違ってしまったらしいと言って謝り、電話を切った。

S製鋼の秘書室には、昨日電話をかけた。それから携帯電話でどこにもかけていないから、通話ボタンを押したときに、前回かけた電話番号として、そこにまた送信してしまったわけだ。しかし、なぜ電話を取ろうとしたら、そういうことになってしまったのだろうか。しばらく原因がつかめなかった。

しばらくあとで、はっと思い当たった。あの電話の音は、運転中に携帯電話が鳴ったのではなくて、MDに録音された音なのだった。あまりに音質がいいために、私はそれが本物の音だと勘違いしてしまった。通話ボタンを押したときにベルが鳴り止んだのは、たまたまちょうど私がベルの音を切ったときと一致しただけだったのだ。

11月30日(土)「ポイントカード」

at 2002 11/30 22:15

夕方、上の子をつれて、ブルークラブという理髪店まで歩いて行って来た。風は冷たかったが、身を切るほどではなかった。家からブルークラブまでは1キロ半ほどあるが、バス代節約のため、トンネ(=町内)の見物も兼ねて、歩いた。

韓国の理髪店は、“イーバルソ:理髪所”と“ミーヨンシル:美容室(または、ミージャンウォン:美粧院)”とに分かれている。イーバルソというのはセンスなどおかまいなしに散髪するところで、主に銭湯の中や大学の構内などにある。それ以外のイーバルソは、風俗営業をしているところが多く危険だ。一方、ミーヨンシルは、ファッションに気を使う理髪店だ。女性のパーマなどだけでなく、男性のカットも扱う。だから韓国では、男性でもミーヨンシルで髪を切ることが多い。

うちのトンネでは、ミーヨンシルのカット代はどこも1万ウォン以上するが、最近できたブルークラブというチェーン店は、カット代がたったの5千ウォンだ。ものの10分ほどでカットは終わり、1万ウォン払って、店を出た。

そのあと、ハニルスーパーというスーパーマーケットへ行って、1リットルの牛乳とポリチャ(=麦茶)3百グラムを買った。レジで代金を払うとき、妻から出掛けにポイントカードを渡されたことを思い出し、「カドゥ イッソヨ(=カード持ってます)」と言って胸のポケットからカードを取り出して見せると、レジの店員は、それをじっと見ながら当惑の色を見せた。

すると横から息子が、「それ、ブルークラブのカードだよ」と言う。はっとしてよく見ると、藍色のカードには「ブルークラブ」と書いてある。息子はニタニタ笑っていた。店員も呆れた表情で笑っていた。

ハニルスーパーを出たあと、またブルークラブまで戻って行って、ポイントカードにシールを2枚貼ってもらってきた。