ソウル生活日記


私の韓国生活日記です。時々書きます。

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5月15日(水)「引越しと本」

at 2002 05/17 13:37

引越しをした。2年ぶりの引越しだ。チョンセ契約などの関係で、いつも1〜2年に1度は引っ越さなければならないのがつらい。

愚痴を言えば、引っ越すたびに本の配列がめちゃめちゃになるし、本も傷むので、引越しなどしたくないものだ。

妻は、本といっしょに暮らしたくないと言うが、私としては、本で食べているので、(小さいながら)金の卵を生むガチョウを虐待するわけにはいかない。

読む本だけ買いなよとも言われるが、どの本をどのくらい利用するかはパレートの法則に支配されているし、たまにとても重要になる本もあるので、前もってどの本を読んでどの本を読まないかは判断できない。いちおう買うときは、読むだろうと想定しているのだ。しかし、結果として、どんな内容が書いてあるのかざっと目を通すだけで終わっている本が多い。

今回の引越しは、若干狭い家に移った。特に部屋が狭くなってリビングが広くなった。それで、今まで部屋にあった本がリビングに溢れ出してしまった。

ところで、妻の兄も、私たちが引っ越す3日前に、長年住んできた家を引き払った。そのとき、10年前に亡くなった義父の蔵書を処分するというので、その中から捨ててはもったいない本を一部貰ってきた。それが100冊を超えた。その多くはかなり分厚い本だ。これがまた狭い空間を占めている。

しかし、貰い受けてから分類して配列すると、体系をなしているのに気がついた。急に、私が貰い受けなくて捨てられた本のことが思い出され、残念な気持ちでいっぱいになった。義父の読書は、かなり体系的なものだったのだ。無名の牧師として生涯を終えたが、その知識は、知識人といえる水準だった。しかし、残念なことに、その知識のあり方は家族には伝わらず、残した本も10年間放置されたあげく、無残に散逸した。

義父の蔵書は、神学書、信仰書、韓国史、日本人論、国際情勢、社会学、心理学などに集中していた。その中で、私は神学書の一部、特に聖書研究の本を数十冊と、韓国史関係の本を百冊以上もらった。その中には学術的価値のある本が多い。神学書と信仰書の残りは、オンヌリ教会の日本語礼拝に寄贈された。

私は、蔵書の散逸する現場を、自分も下手人として加わりながら目の当たりにし、とても悲しい気持ちになった。本がただやみくもに集められているだけだったら、悲しい気持ちにはならなかっただろう。しかし、蔵書が体系を持って息づいていたことが分かると、それが崩壊しバラバラになってしまったのは、人の第2の死を見たような気がするのだ。死後10年の間蔵書の中で命脈を保っていた義父の息の根は、私を含めた家族の手によって、完全に止められた。

私は引っ越し後の雑然とした自分の本の山の中で思った。自分の蔵書は、私が死んで散逸するとき、その散逸自体が人の心を痛められるようなものになっているとはいえない。今の私の蔵書は、あまりにも無体系だ。価値ある本もあるとは思うが、それはその本自体の価値だ。蔵書としての価値ではない。それもまた、悲しいことだ。

5月17日(金)「雨の景色」

at 2002 05/17 13:49

ここ数日雨が続いている。仕事がたまってしまったので、今日は講師室で朝から仕事をしていた。

ふと窓の外を見ると、ムアクと呼ばれる、ヨンセ大学の裏にある小高い山の頂が、灰色の雲に隠れている。何とも幻想的な光景だ。

ソウルは緑の少ない都会だと聞いているが、しかし、こうやって見ると、偶然窓から見える光景は緑に覆われていることもある。そして、山の上の部分が雲に隠れると、山水画のような雰囲気を醸し出す。

ソウルは、普段は埃っぽいが、ときどきハッとするような美しい表情を見せる。

5月22日(水)「古本屋」

at 2002 05/23 00:03

実に久しぶりに延世大学前の古本屋へ行った。また本が増えていた。この古本屋、これ以上本が増えたら、本屋としての機能ができなくなってしまうのではないだろうかと心配になるほど、本で溢れかえっている。

最近中国語の勉強を始めたので、中国語の書籍を見てみると、中国で出版された本がたくさんあった。注音符号付きの『四書』『唐詩三百首』『古文観止』『新釈論語』もあった。こういうのは、日本で現代中国語音を用いて漢文を読もうとする人たちにとっては、宝のような本だろう。こういうシリーズで『詩経』は出ていないだろうかと思って探したが、見つからなかった。中華人民共和国で出た中国語辞典と中華民国で出た中国語辞典が何冊もあった。私は、ほしいけれど、お金も無いし、専門でもない本でこれ以上自分の家を本だらけにするわけにもいかないので、買うのを我慢することにした(でも、中華民国で出た辞書の一つは買ってしまった)。

韓国語学関係の書籍も増えていた。しかし、それらは、私が持っているものかどうか、分からないものばかりだった。自分の蔵書目録を作る気力はもうないが、あるかないか紛らわしいもののリストは作っておいたほうがいいなあと思った。私はこれまで、持っているのに、持っていないと思って買ってしまった本がいくつかある。逆に、持っていると思って買わなかったら、実は持っていなくて、結局買いそびれた本もある。

古本屋の主人に、義父の蔵書を処分した話をすると、顔色を変えて、残念がっていた。「一般の人たちは、要らない本だと思ってよく捨ててしまうけれど、専門家から見たら、宝みたいな本がその中にある」と言って、なぜもっと早く私に言わなかったのかと悔しがっていた。私も、義父の蔵書の多くが、私が行く前に廃品回収に持って行かれてしまったことを思い出し、とても残念だった。ゴミにされるくらいなら、古本として、次の持ち主に引き取ってもらった方が、本としても幸せだろう。