体系のある蔵書


蔵書は多様で大量なほどいいと言えるかもしれない。例えば、図書館のように大きな空間があって、経済的にも本を買うのに苦労することがないなら、いい本をいくらでも買い漁り、書架に置くことができる。それは、本好きたちの夢でもある。

しかし、たいてい私たちの現実は、そうではない。空間と経済力には限界がある。辞書や一般のデータは、コンピュータが解決した。今のコンピュータには、テキストの貯蔵には無限ともいえる容量がある。辞書は、情報量と物理的なサイズが比例していたが、電子辞書は一定のサイズにいくらでも情報を入れられるようになった。しかし、本に関しては、コンピュータのメディアは遅れをとっている。つまり、電子化された図書というのは、ごく一部に限られるため、多くは印刷・製本された本を手に入れざるを得ないのだ。また、本には印を付けたり書き込んだりしやすいし、読んだところに栞を挟んで、次にそこから読み進めるが、電子テキストの場合は、それが容易ではない。だから、電子化されたテキストが手に入るものでも、本を買ってくることになる。そして、狭い家は本だらけになる。

その中で私たちが本を用いて知的活動を行うなら、どうしても蔵書を引き締める必要がある。

それに気付いたのは、妻の父の蔵書を整理するときだった。妻の父は牧師で、朝鮮戦争の時に日本へ渡り、その後死ぬまで日本に住んでいたが、その蔵書は韓国のソウルに置いてあった。92年に亡くなったあと、久しく放置した状態にあったその蔵書を、最近になって処分することになり、私はその中で聖書の注釈書やギリシャ語・ヘブライ語の辞書などをもらった上に、捨てようとされていた韓国史関係の書籍も百冊ほどもらった。

その韓国史関係の書籍を配列しながらふと気付いたのは、その選択にバランスが取れているということだった。朝鮮総督府などで調査された一次資料は、植民地時代の重要な資料になる。また、歴史全般に関して言えば、通史が数冊あって、その他に、時代別・分野別の歴史書などがある。そして、妻の父の考えに反すると思われる本が、ごくわずかにある。そして、重要な本は、必ず学術的に価値のあるものだった。

そういえば、イエスに従うなというようなタイトルの本も、捨てられた本の中にあった。反基督主義に関しても、無知ではなかったのだ。

つまり、妻の父は、蔵書を引き締めていただけでなく、読書をも引き締めていた。そして、目的意識をもって、読書していたのだ。

今私は自分の本棚を分類・整理し続けているが、一つ一つの分野の本が、貧弱だ。妻の父の蔵書は体系をなしていた。体系の持つメリハリがあった。しかし、私の本棚は、体系というには情けないものがある。それぞれの分野に重要な文献が少なく、かえって周辺的な本が多い。そしてまた、目的意識をもって読書しているというよりは、興味の赴くままに読んできたと言った方がいい。

今回引っ越したときに、自分の関心分野から外れた本で、価値が低いと思われるものを、だいぶ捨てたが、それでもまだかなり無駄がある。キム・ジハの、訳せば『飯』となる本も、どこに入れたらいいのか分からない本だ。これは、廃品回収の日に、妻が紙の山から拾って来てくれたものだ。その日、大型の漢字辞典も拾った。辞書はいいが、『飯』は置き場がなく、捨てるにももったいないので、持て余したままだ。

ふと、千野栄一の『外国語上達法』に「人から贈られた本の多くが自分の蔵書で占める位置がない」(p.23)という一節があったのを思い出した。「自分の蔵書で占める位置がない」ということは、一つ一つの本の位置が、蔵書の中で相対的に決まっているということだから、体系のある蔵書を持っているのだ。その中に、確かに人がくれた本は、居場所を得られないことが往々にしてある。

そこで、読書に関して書かれた本の中に、蔵書について書いたものがあるかと思って何冊かの本の目次を追ってみると、あった。小泉信三の『読書論』(岩波新書、1950年)の122ページから、蔵書について言及している。

言うまでもなく不満の第一は、蔵書の貧弱に対するものであった。しかしそれよりも強く感じたのは、どうしてこんなに詰まらない本を沢山買って持っているかということであった。(p.122)
蔵書の不精選に至っては、これは全く自分一人の責任で、誰を恨むこともできない。それでよくふさぎ込んだ。(p.122)
つまらない本を買わないというのが、蔵書に関して小泉信三の戒めるところだった。そして、幸か不幸か、本について分かってから蔵書を集め始めれば、いい蔵書ができることを指摘している。
左右田(=日本における経済哲学の創唱者左右田喜一郎)は大正十二年の大震災で一たびその蔵書全部を失ったが、その後また買い集めて、死ぬ前には再び相当の文庫を持っていた。師福田はそれについていっていた。「部数は少ないが、今度は目が肥えてから買ったから屑がない。蒐集としては前よりは却ってよいものであったろう。」(p.122-123)
吾々が書籍に使った金を、といっても客観的には知れたものであるが、とにかくそれを使って今から新たに書籍を買い始めるとしたら、もうちっと気の利いた蒐集をすることができたろうと思う。無論その中には昔廉く手に入れた本に値が出ているというような例もないことはないが、しかしまたかつての稀覯本の代りに、今は精確な翻刻版の善本がたやすく買えるという場合も多かろうし、それよりも何よりも、今ならばもっと厳選して、俗書を篩い捨てることができたであろうと悔やまれるのである。(p.123)
そのあとで、なぜつまらない本を買ってしまうのかについても、説明している。この説明は正鵠を射ている。
人は意外に定評ある古典的名著をおいて、二次三次的の俗書を読むことに労と時とを費やすものである。読む方はしばらくおき、買う方でも実につまらないものを買い込み易いのである。(p.123)
読書家仲間は誰れも大概本に対して意地が汚ないから、店頭で目についたり、店員にすすめられたりして、そうして値段が手頃であると、とかくの思慮もなくツイ買い込んでしまい、あとになって持て余ますのである。自分の書架を見てもかかる浅慮の買物が意外に多く並んでいたのである。(p.123-124)
これは、今読むと、とても重要な警告であるような気がする。私の本の買い方は、店頭で目について、値段が手頃なら、とかくの思慮もなくつい買い込んでしまうというものだった。事実、あとになって持て余している本のいかに多いことか。

購書家の自戒すべきは、急場の間に合わせるためとかく手頃な便利な本を買うということである。これもしたくないとは思いつつしばしばする。充分承知しながら、必要が迫るとツイ便利に換えられなくなって、当座凌ぎの本を買う。例えばマルクス、例えばケインズを知ろうとするには、当然マルクス自身、ケインズ自身の著作を熟読しなければならぬこともちろんであるのに、それが間に合わなかったり、自分の理解に自信が持てなかったりすると、しばしばマルクス、ケインズ等々に──依ってでなく──就いて書かれた手頃の本を見る(ドイツのドクトル論文にはこの種の本が無数にある)。もとよりこの種の本はただ便利にひかされて読むのだから、読みながら著者を格別尊敬はしない。利用してしまえばそれ切りで、再読三読しようという気は起らないものが多い。私の書架にもずいぶんこの種の書籍の残害が横たわっていた。取り出して見ればアンダラインなどが引いてあるが、一向覚えがないというわけで、一々癪の種となったものである。(p.124-125)
癪の種となるならなぜ捨てないのかという疑問も湧くだろうが、そこが本好きの悲しい性だ。一度読んだ本は、おいそれとは捨てられないのだ。だから、始めから、価値がなさそうな本は、選ばない、買わない、読まないという意志が必要だ。

私の場合は、今後分野別に、本を交替・淘汰していく必要がある。つまり、自分が関心を持っている分野ごとに、その分野での名著・基本図書を手に入れ、同時に、価値の低い本を、涙を飲んで処分するのだ。ううむ、よい本を手に入れることはできても、価値の低い本だからといって、捨てられるかどうか……。結論として、小泉信三はアドバイスしている。

要するに書籍を蒐めるには、つとめて買うことと共につとめて買わないことが大切である。しきりに無選択なる多読を警めたショーペンハウワーは「読まざるの術は極めて重要である」といったが、それは正に書籍の購入についても言わるべきことである。そしてつとめて買わないためには、往々つとめて買うよりも強固なる意志を要する。(p.125)
「つとめて買うことと共につとめて買わないこと」とは、大変なエネルギーを要する営みだ。つとめて買うというのは、重要な書籍は大枚叩いてでも買うということだろう。それと同時に、つとめて買わないというのは、見識眼をもって、たとえ目を引いたとしても、価値の低い本だと判断したら、買い控えるということだ。私が持っている本の中でも、価値の低い本だと判断されたら、涙を飲んで処分することが、その本を読まずに済む最良の方法なのだろう。

ただ、小泉信三は、私が関心を持っている、蔵書の体系性については、何も述べていなかった。そういうものは、常識なのだろう。言外に、体系を持った蔵書の匂いが漂っていた。体系はあるのだが、その中に俗な本が混じり、そういうものを読んでしまうことを、小泉信三は警戒していた。

ところで、読書家というと、最近では立花隆氏が有名だ。立花隆氏の蔵書は、『ぼくはこんな本を読んできた』(立花隆、文芸春秋社、1995年)に紹介されている。その写真を、インターネットでも見ることができる。私はそれを見て、本を買い集めることは一種の人間の業かという恐ろしさを感じた。

その蔵書は多岐に渡り、量も多い。この本を読んで、立花隆氏のような生活に憧れる人も多いだろう。しかし、それが一般の私たちの役に立たないことは、見れば分かる。私たちは、あんなに大量の本を多岐にわたって集めることはできないのだ。あの書庫に魅せられた私たち凡人の一部は、立花氏の物真似をして、のべつまくなしに本を買い込むかもしれない。自分の家のキャパも考えずに。

しかし、体系という観点で、その書庫を覗き直してみると、立花隆氏の書庫は、膨大だが、しっかりした体系があるのだ。それは、あの人の仕事に関連して集められている。興味が向くままに買い込んでいるのではない。私たちにはそう見えるが、ジャーナリストの立場から、新刊の中から選んで買い集めているのだ。それは、私たちの多くのすべき仕事ではない。

また、私たちの人生は限られている。万巻の書を読みたいという欲求はあるが、くだらない本をたくさん読むことは、ぼんやりとテレビを見ているのと大して変わりないことだ。頭のためにもよくないし、利口にもならない。また、その本を読む間に、大事な本を読む機会を失ってしまう。

漫然とした蔵書の中で、漫然とした読書をすることは、有害なことだ。蔵書を引き締め、読書を引き締めるのは、空間的・経済的制限のためだけではない。時間の制限もある。むしろ、私たちの住居空間の制限は、私たち自身の時間的制限と利害が一致していると見た方がいい。本が狭い家の収容限界に達してしまった人は幸いである。その人は蔵書を引き締め読書を引き締められるから。

考えてみれば、図書館でも、本なら何でもかんでも受け入れているわけではない。図書館には、常にたくさんの新刊書が入って来る。その多くは送り返しているのだ。図書館では、司書たちが、入って来た本の篩い分けをしている。大学生の時、図書館でアルバイトしたことがあったが、新刊の山の中で本の篩い分けをしていたその司書に、どのくらい送り返すんですかと尋ねたら、ほとんど送り返すと言われて、驚いた。

やはり本はかなりの分量が、いくらか多岐にわたってあったほうがいい。それは、本というのは通読するためだけのものではなくて、仕事の際に必要な部分を参照するためにも存在するものだからだ。通読できない本を買ってはいけないとしたら、仕事はずいぶんしにくくなるだろう。しかし、もしその蔵書が駄書ばかりで基本図書が欠けていたら、仕事自体に傷をつける。

そうでなくても、仕事に関する本は、どうしてもたくさん集めなければならない。だから、それ以外の分野の本は、買い控える必要がどうしても起こって来る。自分の仕事に関する本では、話題になった駄書(?)も必要だろう。しかし、それ以外の分野では、極力わずかな良書、わずかな名著をそろえておくにとどめる必要があるのではないだろうか。それが、不要な大量の(それでいて、いささか操作された)情報に、埋もれて生きている私たちの、生きる知恵だと思う。

知的作業をするには、体系ある蔵書を構築する必要がある。それには、各分野での、基本図書、名著、重要文献は、努めて手に入れるようにすべきなのは、言うまでもないことだ。それと同時に、周辺的な図書はなるべく買わないようにすべきだ。それは、重要な本が揃った時点で買うかどうかを検討しても遅くはないだろう。なぜなら、それは周辺的な図書だからだ。

ところで、先ほどの『読書論』の中に、面白い一節があった。

バーナード・ショーの「人と超人」の付録に「革命家の手帳」というものがあり、その格言の一に「能うものは為し、能わざるものは教う」(One who can does, one who cannot teaches.)というのがあった。省みれば私自身も、いくらか「能わざるものが教う」るの類かも知れない。(p.125)
本についてあれこれ考えて人に話したがっている私は、典型的な「能わざるものが教う」の類だ。改めなければ。