また会いたい人

C'est triste d'oublier un ami.Antoine De Saint-Exupéry

ここでは、私の昔の友人や恩師で、今は連絡の途絶えてしまった人の思い出を、書いてみたいと思います。でも、過去のことをあまりにいい加減にしてきた私は、友人たちとの思い出も、 学校を卒業したり、引っ越したりすると、じきに忘れてしまい、とても貧弱なものになってしまいました。 しかし、『星の王子さま』のフランス語原典と格闘していたとき、“C'est triste d'oublier un ami.友人を忘れてしまうのは悲しいことだ )”という一節に触れ、ふと自分のつれない態度を後悔する気持ちが起こってきました。 そこで、このページを作ってみたのですが、悲しいことに、名前すら思い出せない人もいたのです。もし、これを読んで本人が連絡してくれることがあれば、本当にうれしいと思います。(2006年8月30日作成)


高野博之君

彼とは小学校高学年のときから中学まで一緒だった。山が好きで、私や仲間にも影響を与えた。私もずいぶん頻繁に彼と一緒に自転車で山へ行ったものだった。彼は高校では山岳部に入っていた。私は彼が山で撮って来た写真を見たり、山岳部の登山記録文集を読んだりするのを、楽しみにしていた。また、彼が聞かせてくれたアルプス交響曲や大地の歌のレコードにも魅了された。写真を撮ること以外の芸術的な活動はしなかったけれど、私は彼の存在に芸術的なエネルギーを感じていた。

私が浪人をしていたとき、彼は高校を卒業してハードウェア関係の会社に就職した。そして、買ったばかりのホンダの車に私を乗せ、田舎道を疾走した。あれは本当に怖かった。死ぬかと思った。

しかし、私が大学を卒業して、韓国へ語学研修に行くための費用を稼ぐためにアルバイトをしていた頃、久々にやってきた彼は、ずいぶんやつれていた。工場内で夜中にフロンガスが漏れ、たまたま当直で工場にいた彼は、窒息して瀕死の重体となり、その後もなかなか健康が回復しないらしかった。大好きだったラーメンも食べられなくなったと言っていた。

私が韓国に来てからも、日本へ帰ったときに何度か会っていたけれど、彼は結婚してから少し離れた町へ引っ越してしまい、そのときもらった連絡先もなくしてしまったため、連絡できなくなってしまった。最後に会ったとき、新婚旅行でニュージーランドへ行ったときに撮ったという写真をもらったけれど、それはプロの撮影した写真のようだった。その写真も、連絡先と一緒にどこかへ行ってしまった。

ただ、彼が高校生のときに撮った浅間山の雪景色は、私は自作の立原道造詩集に貼って、今も持っている。

 

若宮淳君

彼とは小学生のときからの知り合いだった。彼は数学が得意で、また、音楽にも造詣が深い。私の音楽に対する趣味は、彼の影響によるところが大きい。彼とは中学生のときまで一緒だったが、別々の高校に通っていても、毎週のように会っては雑談していた。もっとも、私は数学が苦手で、彼より偏差値の高い高校に通っていたにもかかわらず、彼から高校数学の手ほどきを受けていたほどだった。

中学・高校と、彼はモーツァルトを好んで聞いていた。私はその頃は、モーツァルトを単調な曲だと思っていた。しかし、大学3年生ごろ、ある閑散とした喫茶店で、窓の外で風に揺れる草花を見ながら、店内を静かに流れるモーツァルトのピアノ曲を一人で聴いていたとき、突然その旋律の美しさが魂に迫ってきて、なんともいえない恍惚感に襲われた。なるほど、モーツァルトの魅力は並みではない。それにしても、中学生でモーツァルトが好きだったとは、彼の音楽的センスも並みではなかったようだ。

その後彼はジャズをよく聞くようになり、彼の家に遊びに行くと、いつもステレオからジャズのメロディーが流れていた。

彼はまた、数学を教えるのが得意で、塾で長年数学の先生をやっていて、そこの人気講師だった。私も大学生の頃、彼と同じ塾でしばらく英語や国語の講師をやったことがあったが、惨憺たるもので、教える仕事は自分には向いていないと思った。それが現在は日本語教育に携わっているのだから、不思議なものだ。

私が韓国に来てからも彼とは何度か会っていたが、そのうち連絡が途絶え、今はどこに住んでいるのかも分からない。

 

片伊木寿雄君

彼とは、小学生のときからの知り合いだった。中学までは一緒だったけれど、高校は別々に通った。彼は際立った性格の持ち主ではなかったけれど、ベートーベンやブルックナーの曲が好きだという点が独特だった。名曲は一度聞いて面白くなくても、何度も繰り返し聞くうちに、その曲のよさが分かってくるという鑑賞法を、彼から学んだ。

悲しいことに、彼は高校三年生の夏ごろエホバの証人にはまってしまい、私が浪人している頃は、もう会ってもくれなかった。これが、ただでさえ憂鬱な浪人生活を、どれだけ灰色にしてくれたことか。彼は若宮君と同じ高校で、のちに若宮君から、卒業文集に載せられた彼の文章を見せてもらった。神が愛だとか何とかを論じようとした空虚な文章が、卒業文集全体の雰囲気を損なっていた。たしかに神は愛だ。私は自分の信仰と経験からそう思う。でも、それを受け売りの知識だけで論じたところで何になるのだろう。そういえば、彼は「神」といわず、「エホバ」と言っていたかもしれない。

2002年ごろ、一度彼の名前をインターネットで見つけ、メールのアドレスがあったので送ると、返事が来たことがある。しかし、何度かやりとりをしたあと、彼からの便りは途絶えてしまった。私がキリスト教徒であり、当然のことながら、エホバの証人とは考えが相容れないため、避けたのかもしれない。

私が、エホバの証人のような偽キリスト教を、心から憎んでいるのは、このように、大切な友人を奪われたからだ。

 

宮川和巳君

彼とは高校のときに一緒だった。生物部をやっていて、放課後はいつも白衣姿で生物室にいた。彼はにこやかな笑顔を絶やしたことがなかった。誰かが、宮川君が怒るのを見たぞと自慢げに言っていたことがあるけれど、怒るのを見たことが自慢になるくらい、穏やかな性格だった。

今になって思うのだけれど、彼は高校生のときからすでに研究者タイプだった。彼とは生物室でよく語り合った。何を話したのかはもう覚えていないけれど、話しながらいろいろなことを学んだという記憶だけは残っている。鮮明に覚えているのは、水生昆虫を採取するため、近所の水田地帯に出かけていって、田んぼの中や用水路の中にいる小さな虫や小エビ、ザリガニ、蛭などを捕まえたときのことだ。私は生物部員ではなかったけれど、一緒に出かけて行った。その時の、澄み通った青空と、まぶしいほど白い雲を覚えている。夏の暑いけれども爽やかな風のなかで、次から次へと語られる水生昆虫の学名が、耳に心地よかった。その名前は、今はもうほとんど何も覚えていない。

3年の春だったか、ある日、「尾崎君の秘密を知っちゃったよ〜」と言って、にんまりと笑った。しかし、何を知ったのかは、ついに話さなかった。たぶん、2年の秋に同じクラスの女子に告白して断られたことかもしれない。あれは、あの頃の私にとって最大の試練だった。しかし、それはいちおう、隠密に済んだことでもあった。たぶんだけれど、それを知っても、本人に対してすらあからさまに言わないところに、彼の気遣いがあったと思う。

高校を卒業してからは、1度か2度会ったような気がするけれども、気のせいかもしれない。どこに住んでいるのか分からないけれど、また会いたい。

 

長谷川先生

何ということだろう。下の名前を失念した。中学1年生のとき、急に作曲というものがやりたくなり、ピアノも弾けないくせに、先生のところへ行って、作曲を教えてほしいと頼んだ。先生は、珍しい奴もいるものだと思ったのだろう。けっこう親切にいろいろと教えてくださった。最初に書いた曲は、楽譜の書き方に従っていなくて目茶目茶だったので、あきれた顔をされた。

長谷川先生は、私が中学生の当時すでに40代だったが、高校を出てからしばらく自動車工場で働き、その後ピアノを20歳から始めたという変り種だ。お酒が好きで、空手もできた。特に力強かったり男らしかったりしたわけではないけれど、廊下で悪餓鬼2人がふざけて周りに迷惑をかけていたとき、いきなりやってきて平手打ちでビンタを食らわせたことがあった。そのときの迫力はすごかった。

実は長谷川先生は、音楽の先生ではあるけれど、中1のときは英語を習った。その発音は、ラジオの基礎英語でアメリカ人が話すものとは非常に異なるものだった。まあ、ジャパニーズ・イングリッシュだ。授業の時、先生は自分が最近心理学を勉強していて、そのおかげで人の心が読めるようになったと言って、私たちを恐れさせた。しかし、大学生のころ、私も心理学の本をずいぶん読み漁ったけれど、決して人の心なんか読めるようにならなかった。あれはきっとハッタリだったにちがいない。

ところで、作曲というのは、大変な高額のレッスン料が求められるものだという。しかし、私は作曲のレッスンでは、まったくロハを決め込んでいた。先生はいつも、自分は大金を払ったのに、尾崎はただで作曲を習うなんてズルいと言いながら、あれこれ教えてくださった。そのおかげで、今も時々ギターをボロンボロンとはじきながら、作曲のまねごとを楽しんでいる。

その後、たしか中学3年になったときだったか、長谷川先生は他の中学へ赴任された。それから1〜2回連絡をとった記憶があるけれど、今はどこにおられるのかも分からない。まだ健在だろうか。

 

?先生

なんということか。私はこの先生の下の名前も苗字も思い出せない。高校のときの国語の先生だった。詩に造詣があり、当時詩にはまっていた私は、自分の書いた詩を先生のところへ持って行っては、批評してもらった。また、国語のカセット教材で、北原白秋や中原中也、萩原朔太郎、三好達治、清少納言、松尾芭蕉などの解説テープを、この先生から何本も借りては聴いた。それは、知識には残っていないけれど、心には残っている。特に、「からまつ」の朗読はよかった。

私が詩にはまったきっかけは、神保光太郎が書いた講談社学術文庫の『立原道造』という本を、学校の図書室で見つけて魅了されたことだった。その本を図書館から借り出して持ち歩き、トイレの中でも読んでいて、誤って便器の水の中に落としてしまった。それでもきれいに拭いて持ち歩き続け、ついに返却しなければならなくなったときは悲しかった。図書館で借りた本をトイレに落としたというのは、誰にもいえない内緒話だ。しかし、先生は立原道造のような古臭くて甘ったるい詩人は好きではなかった。むしろ、金子光春のような詩が好きだった。その影響か、私も金子光春は嫌いではない。

先生の思い出とは関係ないのだけれど、ついでにいうと、今の私の人生の出発点は、図書室で見つけた、ノーマン・ピールの書いた『できると思えばあなたはできる』という本だった。当時私は「できない」と思うのが理性的だと思っていた。ところがこの本は、できると思えばできるというのだ。初めは荒唐無稽な考えと思ったが、読んでみると、納得できるような気がした。この本の原題“You Can If You Think You Can”はその後も心に焼き付いていて、何年か前にキョボ文庫で注文してみたら、ちゃんと届いた。このように、高校の図書室は私の人生に大きな影響を与えてくれた。

さて、先生はあるとき、うちの高校のOBが書いた詩で、何かの賞に入選したものを見せてくださった。その詩はとても鋭く心に染みこむものだった。何度も読み返したあと、こんな詩は自分にはとうてい書けないと思い、詩に野心を持つことをあきらめてしまった。それと同時に、詩に対して抱いていた熱い思いも徐々に冷めていった。それから10年間ほど、時々詩を書きはしたけれど、それは個人的なたしなみに過ぎなかった。そして、韓国に来てからしばらくして、詩を書くこと自体もなくなった。

その先生とは、卒業後は連絡を取ることもなく、いつの間にか音信不通になってしまった。恩師との人間関係をあまり大事に思わずに、連絡も取らず、名前まで失念してしまったのは、申し訳ないことだ。


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