教材のわかりやすさ

2002.11.12


わかりやすい教材を作りたいと思うとき、自分が何をもってわかりやすいとしているか、考え直してみる必要があると思う。なぜなら、昔ながらの教材を作ってきた人にとって、わかりやすさとは、形態論的な単純さを意味することが多いが、実際には必ずしもそうはならないからだ。

形態論的な単純さとは、単語を構成する要素が複雑に組み合わさっていないことを意味する。例えば、動詞の基本形「行く」は、完了形「行った」よりも単純だ。教える順序としても、「行く」を教えてからその変型としての「行った」を教える方が、説明がしやすい。文法事項の多くは、この形態論的な単純さに基づいて提示すべきだ。そして、従来の教材の多くは、この原則に大体従って来た。

しかし、わかりやすさの基準は、それだけではない。わかりやすさには、形態論的な単純さ以外にも、使用頻度による明快さ、統語論的な明快さと、語用論的な明快さがある。わかりやすさを求めて形態論的な単純さを追求したはいいが、かえって難解になる場合がある。形態論というのは、数学的に精密にできるのだが、あまりにも厳密で正確な記述が、実際に言葉を考えて使う手順と大きく異なるために、文法説明が、言葉をすぐに使えるように助けてくれないこともある。つまり、形態論的な単純さを追求しても、必ずしもわかりやすくならないのだ。

例えば、数字の導入において、「4」「7」のような数は、「よん」「なな」を基本として教え、場合によって「し」「しち」になると教えた方が、その逆の順で教えたり、最初から両方提示するよりも、説明がしやすい。これは、「よん」「なな」の方が適用範囲が広く、数字の中では一般的に用いられるからだ。その変型として「し」「しち」を教えた方が、混乱が少ないと思う。

また、以前の日本語教材には、仮定表現の提示順として、まず「と」から導入するものがあった。「と」を学んでから「たら」を学び、そのあと「ば」や「なら」を学ぶというものだ。なぜなら、「と」は用言の基本形に接続するので、形態的に非常に単純で、連用形の音便形に接続する「たら」や、仮定形に接続する「ば」よりも単純だからだ。しかし、「と」は、仮定表現の中でも制約が多く、「たら」のように一般的ではない。さらに、仮定の概念は、言語表現の中では高度な表現で、初級の初めの方で提示すべきものではないのだ。仮定的状況は、初級の後半で提示し、初めのうちは、現在の身の回りのことから言えるようにする必要がある。そういう意味で、形態論的に単純な仮定表現「と」を初級の初めのうちに提示するのは、わかりやすそうでいながら、かえってわかりにくいものだ。最近でも、韓国で作られた日本語教材のなかには、「と」を初めに提示するものがあるかもしれない。それは、大きな間違いを犯しているのだ。

また、もし、形態論的なわかりやすさに徹底するなら、初級の初めの方で提示すべき「おはようございます」「こんにちは」「ください」などの表現は、ずっと後半の、中級で提示しなければならなくなるだろう。「おはようございます」というのは、形容詞「早い」に「ございます」が付いた形だが、連用形「早く」の“う音便”「早う」の前に丁寧語の接頭辞「お」が付いているからだ。この形は、「それはお高うございます」のような、昔風の言い回しで使える形だから、初級で提示できるような文型ではない。「こんにちは」は、“今日”を意味する語が、江戸時代頃には「きょう」よりも「こんにち」を使っていたもののなごりだ。歴史的に古い。名詞「こんにち」と助詞「は」を分析したら、「こんにち」が現在の「こんにち」の意味と合わないので、問題が生じるのだ。「ください」は、動詞「くださる」に助動詞「ます」が付いた形「くださいます」の命令形「くださいませ」から「ませ」が取れた形だ。現在でもごく丁寧な言い方では「くださいませ」を用いることがある。この形は、少なくとも命令形を提示したずいぶんあとに提示すべきことになるだろう。これらの表現は、文法的に複雑なのだ。

しかし実際には、「おはようございます」「こんにちは」などは、課が始まるか始まらないかのうちに、まず挨拶として教えてしまうことが多い。課の中で教えるとしても、第1課か2課のうちに教えることが多い。なぜなら、この表現は語用論的にとても単純で、しかも人間関係上とても重要なので、日本語会話を学ぶときには真っ先に身につけておかなければならない表現だからだ。「ください」にしても同じで、その機能は非常に単純だ。しかも、日本語でサバイバルするには、「ください」のような表現は、最重要表現の一つになる。それを、中級以降に回すというのは、いわば狂気の沙汰といえるだろう。実際に、そういう重要表現を中級に回すような日本語教材は、実用に耐えないので、誰も作ろうとは思わないに違いない。これらは、文法を無視してでも最初に提示しなければならないということは、日本語教材を作る人たちは、誰もが分かっている。または、それらが文法的に複雑な表現だということを知らないで、教材の始めに提示する教材作成者もいる。いずれにしても、正しいことをしているわけだ。

このように、会話の教材として、わかりやすさというのは、形態論的な単純さにとどまらず、統語論的な明快さと、語用論的な明快さを必要とする。それらを無視すると、わかりやすそうでいながら、かえって難解になってしまう。特に、統語論的な明快さは、形態論的な単純さに先行しなければならない。また、語用論的な明快さも、文法を超えて適用すべきものだ。語用論的に明快な表現は、それだけ使用頻度も高く、初級の初めの段階で必要なものが多いからだ。案外、今まで初級で無視されて来た表現に、そのように大事なものが数多くあるのではないだろうか。日本語教材を作ろうとする人たちは、そのような表現を拾い集めて教材に生かす必要があるだろう。