日本語教師は外国語を学ぼう

2002.11.12


私たち日本語教師は、ややもすると、学習者の立場を無視してしまいやすい。つねに教師の立場から学生を眺めるため、学生の立場から教師を眺めたときの自分の姿が想像できない。教師は、学習者を教育の対象として理解するのではなく、学習者の立場に共感できた方がいい。

日本語教師の多くは、母語である日本語を教えるため、外国語を身につける必要に迫られていない場合が多い。全く何の外国語もできない人もいる。日本語しかできずに日本語を教えるわけだ。それでも悪くないが、ある部分では、学習者の立場が全く理解できずに困ることもあるだろう。

韓国に長年住んで、韓国語が堪能な日本語教師は、それにくらべれば、まだいいかも知れない。しかし、彼らの韓国語入門期は、はるか昔である場合が多く、そのときの学習の記憶は、すでに自分の中で伝説となってしまっている。その記憶は、現在の自分の立場から再編成され、きれいに整理され、合理化されて、美しい体系になってしまっているのだ。つまり、現在自分が韓国語に堪能であるという事実に合うように、作り替えられているわけだ。

試しに自分の韓国語歴を書いてみれば分かる。何があったのかは思い出せても、それがいつのことか思い出せなかったり、原因とその結果だと思っていたことが、調べてみると、時期が逆だったりすることがある。そのために、自分がなぜ今そう思っているのか、その根拠すら分からなくなってしまうこともある。伝説化した記憶の体系が崩れてしまうのだ。

川端康成が『十六歳日記』の前書きに、思い出の中の祖父は美しいものだったが、出てきた日記を読んで、死へと向かう老人のむしろ生々しい醜さに驚いたというような内容を書いているのを、以前読んだことがある。自分の外国語学習の記憶も、時が経ってしまえば、美しい昔話に変わってしまう。学習日誌でもつけていない限り、そのときの本当のことは、思い出せないものだ。

日本語が母語でない日本語教師も、事情は似たようなものだ。彼らは、自分も日本語を苦労して習ったので、学習者たちの立場が理解できると言う。しかし、彼らも現在は日本語が堪能になっていて、日本語の勉強を始めたはるか昔のことは、やはり伝説化してしまっているのだ。彼らが学習者の気持ちを理解できるというのも、当てにならない。中には、日本語を学んだ記憶がまだ生々しい日本語教師もいるかも知れない。しかし、そういう人は、日本語の実力自体に問題があるだろう。日本語が自分の中に溶け込んでしまって、いつそれを学んだかすらよく思い出せないほどになっていなければ、日本語の深い意味には入り込めないからだ。

まして、子供の頃に日本に住んでいて二重言語使用者になっている教師の立場は、日本語の母語話者と同じだ。ただひとつの利点は、韓国人の発想が分かるという点だが、これとても、学習の困難さを共感できる要素にはなりにくい。

日本語の初心者を教えるのだから、初心者の立場が理解できてる必要がある。そうしなければ、当然のこととして混乱したり、理解できなかったりすることを、叱ってしまう愚を犯すこともある。学生の不出来さに腹を立てる日本語教師がいるが、そういう話を聞くたびに、私は自分が叱られているような気がする。しかしその多くは、不当な批判なのだ。勘の鋭い優秀な学生は、教師の不出来な説明や指導でも理解してしまうが、教師と同じくらい平凡な学生は、教師の説明や指導の内容が理解できないことが多いのだ。

実際に自分が外国語を学んでみれば、色々な問題が生々しく体験できる。目を落としたテキストが何を書いているのか理解できない。音読しようとしても、口が動かず詰まってしまう。荒唐無稽な発音に辟易する。先生の模範発音と自分の発音と、どこが違うのか分からない。正しく発音したはずなのに、先生は“違う”と言い張る。その言語の構造や考え方に拒否感を覚え、どうしても受け入れられない。単語や文型の中に、到底理解できないものが出てきて、テキストの理解を阻む。どうやって記憶に残そうとしても、印象に残らない単語や表現がある。文を覚えてもすぐ忘れてしまう。覚えたはずの表現が、口を開こうとしたら、出てこない。

しかし、こういうことを経験するだけでは足りない。これらを乗り越えて、一つの外国語を身につけるまでに至らなければ、生徒の日本語学習を、入門からいちおうの完成までの長い流れの中で、とらえることはできない。だから、日本語教師は外国語学習を途中でやめないように、頑張る必要がある。そして、挫けそうになったとき、どうして自分が外国語学習に挫けそうなのかが分かれば、生徒が日本語学習に挫ける理由も共感できるようになる。

そして、何年かしたら、そのときの記憶は薄れていくから、また新しい外国語の勉強を始める。このようにして、いつも初心者でいることで、日本語学習の初心者の立場をつねに共感できるようにすることができる。日本語がうまく身に付かずに苦労する学生を見ても、他人事ではなくなるだろう。出来のいい学生には、尊敬の念も抱けるようになる。

そしてまた、このようにして外国語を学ぶ要領を身につけていくことによって、学習者の学習態度についても、適切なアドバイスができるようになっていくだろう。と同時に、学習者の経験すると思われる困難とその解決法を、自分自身を使って実験でき、授業にフィードバックすることができる。こういうことをもっと効果的にするには、「学習日誌」をつけるといいかもしれない。これは、私が思い付いたのではなく、同僚の先生から教わった。その日の学習項目だけでなく、学びながら感じたこと、難しいと思った点などを記録するのだそうだ。こうすれば、将来その言語に堪能になっても、外国語学習の記憶が伝説化する心配はないだろう。

このように自分も外国語学習をすることは、第2言語習得の理論を体験的に理解するうえでも役に立つ。単に理論として学び、それを教室に適用させるのではなく、それがどのようなものなのかが、身をもって分かるようになる。難しい理論としてでなく、生活感覚で理解できるようになるわけだ。そういう点からも、日本語教師が外国語を学習するのは、必要なことだ。

ただし、もとからの語学の達人は、困ってしまうだろう。外国語をいとも簡単に次々と習得してしまう日本語教師は、学習者の立場を理解するのは絶望的かも知れない。新たに外国語を始める苦労を理解するすべがないからだ。彼は生まれながらに素質もよく、無意識にあらゆるテクニックを駆使して、外国語がどんどん頭に入ってきてしまうので、学習者の苦労は理解できない。そういう人は、真面目に第2言語習得について勉強して、学習者がどんな点で苦労したりつまずいたりするのかを、学習者の身になって学ぶしかないだろう。

このようにすることで、“自分が本当に習いたい授業”ができるようになるだろう。それによって、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい(Panta oun osa an Jelhte ina poiwsin umin oi anJrwpoi, outw kai umeiV poieite autoiV. --Mt. 7:12)」という黄金律を成就することができる。