일본어초대 II
発行所:도서출판 국제아카데미
発行日:1994年4月15日
共著者:金照雄(김조웅


 生まれて初めて書いた本だ。書名からも察せられるとおり、この本は、「일본어초대」というシリーズの2巻目だ。1巻目は初級の前半で、これは初級の後半ということになる。

 1993年の春だったか夏だったか、普段からお世話になっていた金照雄(김조웅)先生の職場へ遊びに行ったとき、書いてみないかと言われて飛びついた。報酬は350万ウォンだった。先生はその頃、時事日本語社のソウル駅キャンパスで所長をしていたが、その当時知り合いだった金在天(김재천)氏から、この仕事を頼まれていた。

 私が教材作りをやりますと答えたとき、先生はこんな質問をした。

 「この本は企業の語学研修のためのもので、1日2時間で週5日教え、2ヶ月で学べるように作ってほしいとのことだが、何課にするつもりか」

 私は頭の中で計算し、どんな計算をしたか忘れたけれど、18課にしますと答えた。

 それから先生は、各課の内容をどうするかとか、どんな手順で作業をするかとか、いろいろな質問をした。それらの質問は、非常に重要なものだった。それが、以後私が日本語学習書を作るにあたって、いつも力になっているのだから、すごいと思う。

 そうやって、仕事を引き受け、家に帰ってから、まず大まかな文型シラバスを立てた。そして、そのシラバスに添って、会話本文を作った。

 会話本文を作るのは、ものすごく大変だった。ある課は簡単にできることもあるけれど、たいていは、四苦八苦して何度もデッサンのようなものを書き、最終的に会話文の形になった。一日中何も書けない日があった。

 金照雄先生からは、時々電話が掛かってきて、どこまでやったかと聞かれた。金先生は、原稿ができない日も、決してせかすことはなかった。「そう。頑張れや」と言うだけで、電話はいつも、進捗情況を聞くだけなのだった。これは、無言の圧力ではあるけれども、一方では原稿が進まない日もあまりストレスにならずに済んだ。

 原稿を書くとき、私はまずA4の裏紙にシラバスを書き、その下に、思いついた短い対話をスケッチのように書いた。そして、その中から使えそうだと思ったものの前後に書き足していって、会話本文を作った。会話本文ができると、その課の文型シラバスが確定した。

 そうやってかなり苦労して本文が完成した。そして、そのあと文型練習を作り、文法解説を書いた。当時はまだパソコンを持っていなかったので、本文や文型練習の清書はルポというワープロを使い、韓国語と日本語の混ぜ書きをしなければならない文法解説は、手で書いた。

 教材の編集は、출판서비스 메인という出版代行業者の、私と同い年の若い女性社長が受け持った。かなり細かく正確に編集する態度に驚いたことを覚えている。社長の名前は李美和さんと言ったか。この記憶は定かではない。

 原稿の最後の仕上げは、金照雄先生といっしょにやった。강남にある、あまり客の入りが多くない焼肉屋ヘ行って、食事をしたあと、その場で5時間だったか6時間だったか、あるいはそれ以上長い時間だったかもしれない。ぶっ続けで原稿の修正を行った。終わった時は、真夜中になっていた。それによって、私の原稿は見違えるようにいい日本語になった。

 その他この学習書では、“Coffee Break”というコーナーもあり、大部分は、たしか문광헌さんと言ったか、在日韓国人の男性が書いたのだけれど、パラパラと捲ってみたら、私が書いたように思われる記事もある。

 その他、挿絵は当時延世大学語学堂の同僚だった、沢入みどり先生が描いた。沢入先生の挿絵について、金照雄先生は「真面目すぎる」と言ってあまり好かないようだけれど、私は、教材として非常に適切な挿絵なので、とても気に入っている。

 録音は、예성스튜디오というスタジオで行った。たしか、6人ぐらいが狭い部屋に入って録音したように記憶している。

 作業が全て終わったあと、時事日本語社のソウル駅キャンパスへ行くと、金照雄先生は私に約束の350万ウォンを、手渡しでくれた。そして枚数を確認しろと言った。350枚もある1万ウォン札を数えたことなんてないから、数えるのに骨が折れた。金先生は、私が数えるのに手間取っているのを見ながら、「何でそのぐらいのお金も数えられんのか」と言って呆れていた。

 あとで、국제외국어연수회のオフィスへ行き、社長の김재천氏に会った。そのとき、私の学習書にもう少しビジネスの場面が多ければよかったという不満を漏らした。でも、そんな要求は聞いていなかったので、それについて何も答えることはできなかった。たぶん、金照雄先生は、私がビジネス経験がないのを知っていて、そのような場面の会話文を書くのは無理だと判断していたのかもしれない。まったくその判断は正しかったと思う。

 ただ、社長から、いくらもらったのかと聞かれ、350万ウォンもらったと答えたとき、「너무했다」と言われたのには参った。金社長は、金照雄先生に教材作成費用として700万ウォンを渡していたらしい。私はあれこれ金先生の弁解をしたけれど、社長の表情は固いままだった。

 金照雄先生の方にも、先生なりの不満があった。それは、この本の著者の筆頭者が私になっていたことだ。自分を筆頭者に立ててもらいたかったようだ。たしかに、本の企画を主導したのは先生なのだから、無理はない。

 それらの不満は、社長と金照雄先生との間の問題であって、私自身は、この仕事に満足していた。何の実績もない当時の私に日本語学習書作成の依頼が来ることは、ほとんど考えられなかったし、もし来たとしても、金照雄先生の指導がなければ、このように整った教材はできなかっただろう。そうやって350万ウォンももらえたのは、とてもありがたいことだった。また、そうやって学習書を作らせてもらった私が、共著者の筆頭者になっていたというのは、ささやかな名誉でもあった。さらに、私はその後、このとき金照雄先生から習ったことを土台にして、日本語学習書を作ってきたのだ。日本語学習書で大儲けはできないけれど、生活の足しにはなってきた。その恩恵は小さくない。

 そんなわけで、この初めての仕事は、私にとって大変有益なものだった。

(2009年3月27日)