お金を入れる器 (2007年8月12日日曜日)


豊かになりたいという場合、たぶん多くの人がすぐに思い浮かべるのは、「宝くじ」や「競馬」などで大金を手に入れることではないでしょうか。私は競馬には全く知識がないから分からないけれど、宝くじは、たぶん大部分の人が、買ったことがあるのではないかと思います。しかし私は、宝くじは“お金がもったいなくて”買ったことがないのです。

後にお金について学びながら気づいたのは、これまでに宝くじを買ったことがなかったのは、私にとって幸いなことだったということです。それは、はずれ券を買うことで被るわずかな損害について言っているのではなく、当選した結果として被る損害が、あまりに大きいからです。それについて、本多静六博士は私たちに次のような忠告をしています。

金儲けを甘く見てはいけない。真の金儲けはただ、徐々に、堅実に、急がず、休まず、自己の本職本業を守って努力を積み重ねていくほか、別にこれぞという名策名案はないのであって、手ッ取り早く成功せんとするものは、また手ッ取り早く失敗してしまう。没落のあとに残るものは悪徳と悪習慣、そしてときには不義理な借金ばかりであろう。戦後いかにこうした小成金的金儲けのために、身を誤り、家を損なったものが多かったことか。
(本多静六『私の財産告白<新装版>』実業之日本社、2005。p.124)

この忠告とともに本多博士が紹介している次の事例は、とても胸を痛めるものです。

それは1910年代ごろのこと、本多博士の知っているある学生が、競馬に出かけて1千円の大当たりを取りました。1ヶ月わずか6円の学資で暮らしていけた当時の1千円だそうです。はじめは手がふるえてそのお金を受け取ることができないというくらいでしたが、使い慣れるにしたがって、だんだん度胸がついてきて、たちまち放蕩を始め、3ヶ月後にはもう「元の木阿弥」になってしまったそうです。

そうして、あとに残ったものは、悪性の花柳病(=性病)と怠け癖ばかりで、ついには、学業をすら放擲して行方不明、ついに再びその消息を聞くことがなかったということです。

これはひとりギャンブルの悪弊であるばかりか、本多博士が『私の財産告白』を著述した1950年代初頭、戦後のインフレ騒ぎと騒動のどさくさで、全国いたるところに「簇生(そうせい)」した大小の新円成金が、ほとんど大部分、その学生と同じみちを辿ったらしいそうなのです。つまり、ギャンブルによっても、その外の一攫千金によっても、それによって得たお金は、決して身につかないわけです。

そのことについて、邱永漢氏は次のように指摘しています。

人間にはそれぞれ、お金を入れる「器」があるみたいです。いくら大金がころがりこんできてもその人自身に大きな器がなければ、すぐにこぼれ落ちてしまいます。
(邱永漢『お金の原則』知恵の森文庫、2001。p.56)

つまり、お金を儲けて豊かになるには、大金を器からこぼれないように工夫する必要があるのです。それには、お金を入れる器を大きくする必要があります。

では、どうしたら、自分の器を大きくして、大金がこぼれ落ちないようにすることができるでしょうか。それには、本多博士も強調しているように、ただ「徐々に、堅実に、急がず、休まず、自己の本職本業を守って努力を積み重ねていく」こと以外に道はなさそうです。

邱永漢氏も、小さな器も度重なる拡大を繰り返しているうちに、大きな器と入れ替わるようになり、溢れてこぼれることが少なくなると指摘しています(同書 p.58)。そして、「小さなお金しか持たないあいだは、すぐにこぼれますが、何回かもったいない体験を積むと、しだいに要領が分かってくるものです」(同上)と述べています。

だから、現在の私と同じく、零細な生活に甘んじてきている人たちは、一攫千金は狙わないほうがいいでしょう。万が一、それによって大金を得ることがあったとしても、そのお金は身につきません。世の大富豪たちが財産を築き上げてきたのと同じ手順で、徐々に財産を身に付けていく過程で、私たちのお金の器も、徐々に大きくなっていくからです。小さな器に注がれた大金は、溢れてしまうだけでなく、その器さえ壊してしまいかねません。

だから、これからも一攫千金は決して狙わず、ただ徐々に、堅実に、急がず、休まず、自己の本職本業を守って、努力を積み重ねていくようにしたいと思います。


引用・参考図書