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To 山中 at 2004 11/18 10:28 編集 返信

RE:お久しぶりです

山中様、お久しぶりです。

>みなさまお変わりありませんか。

はい。常にメンバーの出入りがあるのですが、みんな元気でやっているようです。

>在韓メーリングリストの方で、講師募集を拝見しました。
>これはビザは発給されませんか?
>としたら、日本から行くのは無理ですね。

いえいえ、採用された場合、ビザは発給されます。ですから、もし関心がおありなのでしたら、試してみられるのもいいと思います。

>募集が男性から男女問わずになったので・・・・

>でもまだまだ韓国への希望は諦めていません。
>神様が私の道を備えてくださっていると信じています。

願いがあるならば、神様はきっと道を備えてくださると信じています。その実現は早かったり遅かったりしますし、必ずしも思う通りにはいきませんが、しかし望みは必ずかなえられると思います。

山中さんも、健康には気をつけて、有意義な時間をお過ごしください。

To 氷雨 at 2004 11/18 10:24 編集 返信

RE:ドイツ語特講

氷雨様、こんにちは。ijustatです。

>書き込みを始める前に質問ひとつ
>日本語には“特講(특강 特別講義の略)”という言葉が使われていませんか?

はて、使われているような気がしますけれど、でも、大学の授業で何か特別に専門的なことをやるのが特講のようです。韓国で言う“特講”は、「講習会」と言ったらいいかもしれません。私以外の日本人の意見も仰ぎたいですね。

>それはともかく、最近学校でドイツ語特技者たちの
>ドイツ語無料特講を聞いています。
>先生(元々学生なんですけど)は皆、ドイツ生まれで
>ドイツ語を母語のように使うのです。だからNativeだと言えますね

いやあ、すばらしいですね。直接ドイツ語の話者から、しかも無料で授業を受けられるなんて。

>そのせいか。いつも“韓国式のドイツ語発音”ばかり聞いていたからかなりと違和感を感じます。けど教科書では見られない
>生き生きドイツ語に接することができて何よりです。
>(ちょっと、、この文章、われながら変。。汗)

大丈夫ですよ。「生き生きドイツ語」なんて、何だか本のタイトルみたいです(笑)。でも、文章らしくするなら、「生き生きしたドイツ語」と言えばいいと思います。

>まぁ どうでもいいや、いろんな外国語を習うのはいいことだし、

本当にそう思います。言語学者の故千野栄一氏は、「いくつもの言語を知れば知るだけ、その分だけ人間は大きくなる」というチェコの格言を紹介しています。

氷雨さんのドイツ語学習が日本語くらい成功することを願っています。

From 山中 ( Mail ) To ijustat@chance at 2004 11/17 22:09 編集 返信

お久しぶりです

尾崎先生

大変ご無沙汰いたしております。
8月にそちらの日本語バイブルクラスにちょこっとお邪魔させていただいた山中です。
大変お世話になったのに、その後何も連絡をしていませんでした。
申し訳ありません。
みなさまお変わりありませんか。

在韓メーリングリストの方で、講師募集を拝見しました。
これはビザは発給されませんか?
としたら、日本から行くのは無理ですね。
募集が男性から男女問わずになったので・・・・

でもまだまだ韓国への希望は諦めていません。
神様が私の道を備えてくださっていると信じています。

バイブルクラスのみなさまにもどうぞよろしくお伝えください。
風邪などひかれませんように・・・

 山中

From 氷雨( HP ) To ijustat@chance at 2004 11/16 23:05 編集 返信

ドイツ語特講

ijustatさん こんにちわ 氷雨です

書き込みを始める前に質問ひとつ
日本語には”特講(특강 特別講義の略)”という言葉が使われていませんか?
タイトルを書く時、IME入力で漢字の変換ができなくて。。。

それはともかく、最近学校でドイツ語特技者たちの
ドイツ語無料特講を聞いています。
先生(元々学生なんですけど)は皆、ドイツ生まれで
ドイツ語を母語のように使うのです。それでNativeだと言えますね

そのせいか。いつも”韓国式のドイツ語発音”ばかり聞いていたからかなりと異質感を感じます。けど教科書では見られない
生き生きドイツ語を接することができて何よりです。
(ちょっと、、この文章、われながら変。。汗)

今度こそ真面目にドイツ語を勉強するようになったようで
熱心にドイツ語文章を覚えています
そのかわり、日本語には疎かになっていく気がしますので困っています

まぁ どうでもいいや、いろんな外国語を習うのはいいことだし、

ではでは

To kats at 2004 11/24 04:11 編集 返信

翻訳

Kats様、お久しぶりです。

先日私が英語から訳した文をkatsさんが添削してくださったのを見て、自分の英語の下手さ加減をひしひしと感じました。そこで、今回は翻訳について考えてみたいと思います。

外国語をある程度以上使いこなしている人で、翻訳をしたことのある人はけっこう多いだろうと思います。文学作品の翻訳はともかく、パンフレットだとか案内文、技術的な文書、論文など、文学ではない文書を翻訳する機会はけっこうあります。私も韓国語を日本語に訳すアルバイトはちょこちょことやってきました。以前韓国で作られたゴスペルを趣味でずいぶんたくさん訳したこともあります。最近は、詩を訳してみたくなり、わけの分らない思いをしながら訳してみています。そんなことをしながら、外国語と付き合うことの一環としての翻訳というものに、関心を持つようになりました。

私の翻訳の仕方はこうです。まず、原文を一読します。それから1文ずつ訳していくのですが、1文を読んで、そのセンテンスが言おうとしていること、文の雰囲気、そんなものを頭の中で解釈します。それから、自分が解釈した内容に当たる日本語を考え、それを文字にします。辞書は韓韓辞典を使い、日本語に関しては、国語辞典類を利用します。韓日辞典はほとんど使いません。ものの名前などでどうしても分らない場合は利用することがありますが、あとでインターネットの画像検索を利用して、両言語の該当語が本当に同じものを指しているかどうか確認します。そして訳が終わったあと、読み返して、日本語が滑らかでない部分を修正します。

私自身はこの訳の仕方を「忠実な訳」と呼んでいます。原文が伝えようとしている意味を極力忠実に日本語で伝えようとする訳だからです。しかし、翻訳の専門家でない私は、一般にはどんな形で翻訳という作業が行われているのか知りません。

私の知る限りでは、訳の仕方はずいぶん多様です。

まず、「逐語訳」というのがあります。これはご存知のように、「直訳」の中でも特に、単語1語1語を忠実に日本語に置き換えたものです。当然のことながら、出来上がった日本語は原文とは似ても似つかない、ひどいものです。意味も雰囲気も、原文にあったものはほとんど伝わらないでしょう。すごいのは、辞書に載っている訳語から選んで逐語的に当てはめていく訳こそ“忠実な訳”だと教えていて、本まで出している人がいたことです。どういう本だったかは忘れてしまいましたが、そんな人の考えでは、「雨に降られた」の英訳は“I was rained by it!”こそ正しいとなるのでしょう(笑)。なぜなら、その文の基底にある文は「雨が降った」(It rained.)ですから。そういうすごいことを、日本語でやっている人たちが、逐語訳派です。

この対極に、「意訳」があると思います。日本語を滑らかにするために、原文の1語1語の要素は犠牲にして、大意が伝わる文章に訳します。意訳のプロセスもいろいろでしょうが、時々見るのが、まず直訳して、その直訳された日本語を見て滑らかな言葉に修正していくというものです。大意は伝わるとして、この訳し方は、原文の形だけでなく意味にも不忠実だと思います。すでに原文から離れてしまったものを、滑らかにするだけですから。私は以前、翻訳について、韓国語で出される小さなコラムの原稿を、日本語で書いたことがあります。その下訳を最初に見たとき、ずいぶんぎこちない韓国語だなあと思いました。それを言うと、いやこれは自然な韓国語だと言われました。そのあとそれが実際に印刷されたとき、あっ!と驚きました。私は翻訳で大事なのは「語学力だ」と書いたのに、その記事で私は、翻訳で大事なのは“모국어 실력(母国語の実力=国語力)”だ、と書いたことになってしまっていたからです。やはり下訳からはずいぶん韓国語が修正されていて、滑らかな韓国語になっていました。しかし、滑らかは滑らかでも、私のメッセージではありません。これは、意訳といわれる訳出方法の、決定的な弱点だと思います。

その後その出版社へ遊びに行ったとき、編集長が、「ijustatさんのおっしゃるとおり、翻訳は国語力が一番大切ですね」と言ったので、私は、そんなことは言った覚えがありませんと答えました。そして、あのコラムでは、翻訳は語学力が一番大切だと言ったのですと言うと、非常に怪訝そうな顔をしていました。韓国出版界の常識とは逆のことを私が言ったからです。まさか、語学力が一番大切だなんて言う人がいるとは、夢にも思っていなかったようです。

そういう経験があるので、私はどうしても、翻訳で一番大事なのは国語力という主張を聞くと、該当言語に自信がない翻訳家の言い訳ではないかと思ってしまうのです。翻訳をするとき、まず母国語がちゃんとできることは前提です。その上で、目標の外国語がどれだけ正確に理解できるかということが、問題として前面に出てくると思います。そうしないと、「語学力」と書かれているのに“国語力”と読んでしまうような愚を冒すからです。自分の頭の中にあるスキーマに無理やり当てはめて読んでいたら、まるでいつも頓珍漢な答えをする、無学な老翁のような訳になってしまいます。「語学力」を「国語力」と変えてしまっても自然で気取った訳にするのが、上手な訳ではないと思います。なぜなら、読者は原著者の言葉を聞きたいのであって、訳者の言葉を聞きたいのではないからです。

国語力が大切という意見が大勢を占める中で、語学力を主張するのには、それなりのわけがあります。国語力を主張する意見での言い分は、いくら外国語ができても、その表現に影響されたぎこちない母国語に訳されたら、読者は困るというものです。しかし私はそこに、語学力自体に対する疑問を感じるのです。訳されたものが原語のニュアンスを伝えていなくても気にならないなら、その人が原文のニュアンスを把握できているかどうかも、疑わしく感じられます。母語に関してセンスがないなら、該当する外国語に関してもセンスもあるとは思えません。極端なことを言えば、その人は国語力が足りないだけでなく、原文に対しても、センスがないのです。(ああ自分で言っておいて耳が痛い!^^;)それを実感するのは、英語から訳すときです。韓国語から訳すときには、ある程度滑らかな訳ができるのですが、英語の訳は、どうしてもぎこちなくなってしまいます。それは、細かい部分で自信の持てないところがたくさんあるので、その自信のなさが、日本語にも表れるためです。大胆に自然な日本語にするには、それに近いという確信が必要ですが、英語では、確信がもてないために、直訳に近いところでうろうろすることになるわけです。もちろん、『英文法解説』の練習問題などのように、模範訳のある英文などで、試しに訳してみると、自分の英語の読解力は、危なくて仕事には使えないものだということが分かります。

今、村上春樹の『ノルウェイの森』を訳して韓国でベストセラーになっている『상실의 시대』(유유정訳、문학사상사)を読んでいますが、ニュアンスを取り違えている部分が所々見られ、また、とてつもない誤訳も少しだけありました。読みながら思わず“!?”となるので分るのです。例えば、「豊島区」を“호토 구”(p.95)と訳したり、「アドレセンス」を“어도어 센스(Adore Sense, 사모의 정―역주)”(p.134)と訳したりしているのには唖然としてしまいました。Adore Senseでは、ひどいブロークンではないかと思います。英語のサイトでは“I adore sense of humour.”という用例なら検索されましたが、“adore”が“sense”を修飾する例は見つかりません。“adore sense”が名詞句として何件か検索されはしましたが、それらはすべて韓国語のサイトだったところを見ると、유유정氏の誤訳が読者に与えた影響の大きさを考えずにいられません。まあ、たいていの翻訳というのは、このようなものなのかもしれません。また、「一心不乱」を“정신없이”と訳しているために、自然ではあるけれども、その段落の後ろの部分との鋭い連絡が切れてしまっている部分もありました(p.114)。

まあ、私がこの翻訳を読んでいるのは、助詞の使い方の日韓対照例を探すためなので、訳にまずいところがあっても問題ないのですが、学生たちには、深く読むなら日本語で読むことを勧めたいですね。こういうのを見ていると、とうてい翻訳で重要なのは国語力だとは思えません。

先ほども少し触れましたが、最近私は、長年のスランプから抜け出すために、韓国の詩を翻訳しています。기형도という80年代後半に活躍して早世した詩人の『입 속의 검은 잎』(문학과지성사)という詩集ですが、それを訳しながら感じるのは、国語力のなさもさることながら、語学力の不足です。この点では、決して유유정氏を非難したり笑ったりする資格はないわけです。読むだけだと、何となく全部分った気になっているのですが、いざ訳してみると、理解できていない部分の多いこと。とりあえず一度訳し終わった後、よく分らない部分を頭の中で考え、また思い出すたびにその意味をじっくり黙想したりしていても、結局語学的レベルで理解できていないこともあります。まあ、比喩が奇抜なので、韓国の人に聞いてもよく理解できない部分も多いのですが、それにしても正確な翻訳というのは難しいものです。

優れた文章を訳すときには、原文に忠実になるために、格闘を強いられることになりますが、実際に仕事で訳すのは、ごく普通の文章で、中には下手な文章もあります。どうしようもなく下手な文章を訳したことも何回かありました。元会社の社長だった牧師先生のコラムを訳したことがありますが、とても幼稚な文章でした。説教はけっこういいのですが、文章はこんなに下手だったのかと驚きました。福笑いのように、構造の崩れたセンテンスが続いています。それを訳すとき、韓国語を添削しながら日本語に訳しました。私はこういう訳を、「添削訳」と呼んでいます。

おかしな文は、訳しているとたまに出てきます。あるとき、「高さ6メートルのガードレールを破って谷川に落ちる」なんていう文が出てきました。英語から韓国語に訳した文でしたが、これをそのまま訳したら、訳者(=韓国語に訳した訳者ではなくて、日本語に訳す私のことです――念のため)の頭脳がバレてしまいます。それで、「ガードレールを破って6メートル下の谷川に落ちる」のように訳しなおしました。また、これは日本語で見た文ですが、「……私は空港から我家への道のり、ダーリンの運転する車の隣でそう言いました」と書いてありました。この(たぶん)女性は、走る車の横を浮行しながら、その運転手に話しかけていたようです。この文では、「運転する」という言葉があるのだから、「車」をわざわざ入れる必要はなかったと思います。こんな文は、もちろん忠実に訳すことはしません。直してから訳します。

ということで、何だか取りとめがないだけでなく、あまり役に立たない話になってしまったようですね。

To チャン ヘミン at 2004 11/12 14:22 編集 返信

RE:お久しぶりです。

장혜민様、書き込みありがとうございます。

>誉めていただいてありがとうございます。でも、日本人は何でもよく誉めるので、半分は差し引いて。^^

いえいえ、本当です。語学の才能を感じます。話しているときは感じませんでしたが、書かれたものを見ると、それを強く感じます。今度、どうやって日本語を勉強したのかインタビューして伺ってみたいと思っているくらいです。

>いよいよ、明日韓国に帰ります。ドキドキします。韓国は寒いでしょうね。風邪を引かないように気をつけないと。

そうですね。でも私がこれを書き込んでいる今、もう韓国にいらっしゃるんでしょうね。富山は暖かいのか寒いのか分かりませんけれど、ソウルはご覧の通り、日に日に寒くなっています。今日は銀杏の葉がすっかり黄色く染まりました。

>私は毎日少しでも日本語と英語に触れたいなぁと思っていながら、実際ぜんぜんできていませんので不安です。いつか子育てが終わって、というより、ある程度はなちゃんが大きくなって、お仕事復帰!という時に、何も覚えていなかったらどうしようー。まぁ、まず、毎日できるだけ頑張ることですね。ではでは。

私は一つの仕事が最終段階に入ると、それに生活をほとんどすべて取られて、韓国語以外の外国語には半月も1ヵ月も触れる機会がなくなってしまいます。これは本当に外国語の勉強としては不利なことです。さらに、私のようなずぼらな性格では、仕事が忙しくなる前に、自分が外国語の勉強を続けていたことすら忘れてしまうのです。とんでもない話ですね。(笑)

To 氷雨 at 2004 11/12 14:06 編集 返信

RE:日本語のメリット??

氷雨さん、こんにちは。ijustatです。

>ここんとこ入社原書の作成と面接で
>ここによる機会があまりいませんでした。

私も、ついさっき一つの仕事が終わり、やっと腰を落ち着けて、この掲示板にやってきました。書き込みありがとうございます。

>もう入社願書は十ヶ所を突破!
>さすが不況を思い知らせるもんですね。

うう、苦労していますね。日本語教師として細々と生活している身としては、不況という言葉は、厳冬の北風みたいに身を切る痛さを感じます。(笑)

>同じく入社願書を出した同級生に比べて
>単位のまぁまぁ、英語の点数もごく平凡なのに
>どうして私は書類に通過できるのかそれが知りたいって?

>工場で生産されたような学生は要らない。
>他人に比べて何か異なる能力があってほしい。

>工大生のなかで誰が日本語点数を二つも、
>その上、漢字能力試験認証書まで持っている!

>今、考えてみると学校の勉強より日本語と漢字の勉強に
>尽くしたのが本当にメリットになるとは想像もしませんでした。

本当に、何がどこでどう役に立つか、まったく分からないものです。私も大学時代に趣味で始めた韓国語と、とにかく受けておいた日本語教師の検定試験とで、今こうやって生活しているということを、氷雨さんの書き込みを読みながら思い出しました。

氷雨さんも、専攻と関係ない日本語で、世渡りを始めたわけですね。実際、私たちは専攻分野だけの知識で生活を営むのではなく、専攻以外にあれこれ持っている実技が専攻分野の知識を生かすようです。あるいは逆に、その実技で食べていくようになり、専攻の知識がそれを支えるということもあるかもしれません。そういう点で、氷雨さんは実にラッキーな選択をしたと言えるかもしれません。

>まだ最終合格の発表一ヶ所もありませんけど
>なんかうまくいけそうな気がします

うまくいくことを祈っています。頑張ってください。

To しんちゃん at 2004 11/12 13:56 編集 返信

RE:肉まん(ワンマンドゥ)

こんにちは、しんちゃん様

>駐在員の奥さん達は「そんなに上手にならなくても買い物したりするのに差し支えないくらいにできれば」と言う方がほとんどです。ですから、難しい文法よりはすぐに使える生活会話を学びたいようです。私の場合、コチュジャン、テンジャン、サムジャンの見分け方(パッケージの色)、醤油の種類などの説明など主婦にとって身近でしかも、知らなければ困ることを提供しているのでとっても喜んでもらっています。

すばらしいですね。こういう実際的な会話を教えられる先生が増えればと思います。でも、けっこうこういう点に気づかない先生が多いのです。文法を教えなければ、単語を教えなければと思うあまり、韓国に滞在している人が、どこで韓国語を必要としているかをつい忘れてしまうわけですね。始めたばかりということですが、頑張ってください。

From チャン ヘミン( Mail ) To ijustat@chance at 2004 11/09 11:16 編集 返信

RE:お久しぶりです。

誉めていただいてありがとうございます。でも、日本人は何でもよく誉めるので、半分は差し引いて。^^
いよいよ、明日韓国に帰ります。ドキドキします。韓国は寒いでしょうね。風邪を引かないように気をつけないと。
あ、尾崎さんの韓国語なんですが、今まで、尾崎さん程、完璧に話せる人に会ったことはありません。これはお世辞ではありません。^^
私は毎日少しでも日本語と英語に触れたいなぁと思っていながら、実際ぜんぜんできていませんので不安です。いつか子育てが終わって、というより、ある程度はなちゃんが大きくなって、お仕事復帰!という時に、何も覚えていなかったらどうしようー。まぁ、まず、毎日できるだけ頑張ることですね。ではでは。アンニョンヒ〜

From 氷雨( HP ) To ijustat@chance at 2004 11/08 16:26 編集 返信

日本語のメリット??

ijustatさん こんにちわ 氷雨です

ここんとこ入社原書の作成と面接で
ここによる機会があまりいませんでした。
もう入社原書は十ヶ所を突破!
さすが不況を思い知らせるもんですね。

生まれて初めての面接。緊張しすぎて面接所に入ったとき
目の前が真っ黒になってしまいました。
それ以外に面接の秘話は多すぎますので。。。

同じく入社原書を出した同級生に比べて
単位のまぁまぁ、英語の点数もごく平凡なのに
どうして私は書類に通過できるのかそれが知りたいって?

工場で生産されたような学生は要らない。
他人に比べて何か異なる能力があってほしい。

工大生のなかで誰が日本語点数を二つも、
その上、漢字能力試験認証書まで持っている!

今、考えてみると学校の勉強より日本語と漢字の勉強に
尽くしたのが本当にメリットになるとは想像もしませんでした。
まだ最終合格の発表一ヶ所もありませんけど
なんかうまくいけそうな気がします

ではでは

From しんちゃん( Mail ) To ijustat@chance at 2004 11/05 15:30 編集 返信

肉まん(ワンマンドゥ)

こんにちは。
イジュスタットさん、最近ソウル在住22年目して日本人の駐在員の奥さんに韓国語を教えています。駐在員の奥さん達は「そんなに上手にならなくても買い物したりするのに差し支えないくらいにできれば」と言う方がほとんどです。ですから、難しい文法よりはすぐに使える生活会話を学びたいようです。私の場合、コチュジャン、テンジャン、サムジャンの見分け方(パッケージの色)、醤油の種類などの説明など主婦にとって身近でしかも、知らなければ困ることを提供しているのでとっても喜んでもらっています。
今日も行きつけの大型割引マートでその奥さんに会ったのですが、「先生のおっしゃっていた肉まんどこに売ってますか。」と聞かれ、すぐに教えてあげたらホントに喜んでいました。
私の言うことを素直に聞いてくださる方なので教えがい、情報の提供のしがいがあります。

To チャンヘミン at 2004 11/01 02:04 編集 返信

RE:お久しぶりです。

장혜민様

書き込みありがとうございます。赤ちゃんも元気そうで何よりですね。

>今度、11月にまた韓国に帰ります。はなちゃんのトルジャンチがあるので。また、こちらでは、1人、2人と韓国語の個人レッスンを始めています。尾崎さんのホームページを参考にして頑張って見ます。私は尾崎さんのように、完璧に日本語が話せたらいいなぁといつも思っています。前、自分の身の程知らず、韓国語について色々とお話したこと、恥ずかしく思っています。今度また教会でお会いできたらと思います。

日本語がとても上手になりましたね(前から上手でしたけれど)。やっぱり日本に住んでいると、日本語が上手になるのだということを実感させられる、書き込みです。

私は韓国語が完璧になりたいです。一応、日々少しは努力しているんですが、あまり努力家でないせいか、進歩はありません。

母語である日本語に関しても、日本語教師を何年もやっているのに、まだ知らないことがたくさんあります。文法に関しても、説明できないことは一つ二つではありません。それでも身の程知らずに日本語を教え続けています。(^^;

では、11月に会いましょう。

From チャンヘミン( Mail ) To ijustat@chance at 2004 10/31 20:08 編集 返信

お久しぶりです。

書き込みは、こちらでよろしいでしょうか。
お久しぶりです。相変わらず、充実したホームページですね。私は、育児、家事をいいわけにしてあまり更新もしていません。ううう
今度、11月にまた韓国に帰ります。はなちゃんのトルジャンチがあるので。また、こちらでは、1人、2人と韓国語の個人レッスンを始めています。尾崎さんのホームページを参考にして頑張って見ます。私は尾崎さんのように、完璧に日本語が話せたらいいなぁといつも思っています。前、自分の身の程知らず、韓国語について色々とお話したこと、恥ずかしく思っています。今度また教会でお会いできたらと思います。
ではでは。。。^^
http://myhome.naver.com/joykko/menu0.php

To kats at 2004 10/20 21:53 編集 返信

RE:ijustatさんの書き込みは

kats様、氷雨様、書き込みありがとうございます。

思い返してみれば、私は韓国に来たばかりの頃、自分の立場について考えることはほとんどありませんでした。しかし、韓国では自分の立場をはっきり認識できないと、相手の思うままになってしまいます。まともな人間として相手にもされません。それで、最初に訓練された(?)のは、相手の要求や、相手が常識だと主張する内容に対して、自分に不利なら“No”と言うことでした。そうやって、私には私の立場があったのだということを知ったのです。この点からも、katsさんの直感は鋭く当たっているわけです。氷雨さんは韓国で生まれ育ったから気がつかないかもしれませんが、私は日本でぼんやりと暮らしていて韓国へ来たので、それは暖かい部屋から北風の吹きつける寒い外へ出たようなものでした。よく韓国では、日本人は何を考えているのかよく分らないと言いますが、私のように、韓国人なら当然考えることを何も考えていなかったために、韓国人からしてみたら、さっぱり理解できない、ということもあるわけです。

日本にいたころ、西洋人と付き合うには、自分の意見をはっきりいえなければいけないという話をよく聞きました。考えてみれば、英語で人称代名詞“I”を用いたり、その他の印欧語で1人称の動詞を使って話す場合、“私”という立場が前提になっているのではないかと思います。ジャーナリズムの文章では、“I”を極力抑えて書くことを習ったと、ヘミングウェイの伝記で読んだことがあります(日本語の本でしたけれど)。それぐらい、少なくとも英語では、“私”という立場は大きいのだと思います。“you”に関しては、“あなた”であったり、一般的な“人”を特定させずに指したりするので、はっきりしませんが、やはり前者の場合は、“あなた”という立場を前提にしているのではないかと思います。だから、印欧語では、ことさら「立場」という語を用いる必要もないのではないか、というのが、私の推測です。しかし、日本語では述語の主語としての人称代名詞を省略して、なおかつその述語の主体が誰なのかはっきりしなくても一向に構わない傾向があります。韓国語も、日本語ほどではないかもしれませんが、やはり似たような傾向があります。そこで、“意見”のようなものを話す場合には、「立場」という概念が必要になってくるのでしょう。

ただし、上で考えた両国のお国柄の違いから、その「立場」の使い方には差が出てきます。katsさんの指摘された違いを見ると、「相手の立場に立ってみろ」というような場合の「立場に立つ」というのは、“相手”に視点が据えられている一方、「この立場では〜〜」とか「〜〜という立場だ」という場合の「立場」は、主に自分の居場所に視点を据えることを表しています。katsさんは、後者が韓国語の文章では目立つと指摘しておられるわけです。

では、日本語では後者の表現は使われないのでしょうか。まず、不自然に感じられないところを見ると、使われると思います。そこで、“Yahoo! JAPAN”で調べてみたいと思います。まず、「という立場だ」から見てみましょう。検索結果の住所はこちらです。↓

http://search.yahoo.co.jp/bin/query?p=%a4%c8%a4%a4%a4%a6%ce%a9%be%ec%a4%c0

これを見ると、検出されたページ数は、2684件でした。かなりの量です。そして、内容を見れば、日本国内の話題です。しかし、少しページをスクロールすると、すぐに韓国関係のページが目に付きます。検索結果1ページ目の7番目に「しかし『民和協』は、8・15水準の南北連帯・連合の水位も同意するのは困難という立場だ。」という用例が出ています。これは翻訳したものだと出ていますから、きっと韓国語から訳したのでしょう。また、8番目にも「しかし、韓国政府は別の解釈を取った。この条文により、過去の条約、協定が締結の『当初にさかのぼって無効にされた』という立場だ。」という用例が出ています。そして、検索結果を何ページかざっと見てみると、韓国・北朝鮮関係のページが1割を超えているようです。それらはたいてい、韓国語から翻訳したものか、韓国語からの翻訳を引用したものですから、韓国語の文体を反映していると言えるでしょう。韓国語から翻訳した用例で全体の1割を超えてしまうわけですから、「という立場だ」というのが韓国語で使用されている頻度の多さを察することができます。

では、「立場では」はどうでしょうか。

http://search.yahoo.co.jp/bin/query?p=%ce%a9%be%ec%a4%c7%a4%cf

これは、89446件と、「という立場だ」の33倍の用例がインターネットから検出されました。まあ、この中には「立場ではあるが」とか「立場ではない」とか、「立場ではじまった」なども含まれているので、実際には純粋に「立場で」の用例は少し減るでしょう。しかし、いずれにしても、かなり多くの用例があることが認められます。ただし、「立場では」の場合、韓国関係のページは、ざっと何ページか検索結果を見た限りでは、出てきません。たぶん後ろの方で出てくるのでしょうが、まあ、出たとしても、多くはないでしょう。

それでは、日本語に多いと指摘された「〜の立場に立つ」はどうでしょうか。「立場に立って」という形で検索してみましょう。

http://search.yahoo.co.jp/bin/query?p=%ce%a9%be%ec%a4%cb%ce%a9%a4%c3%a4%c6

なんと、160445件と、「立場で」の2倍の検索結果となりました。katsさんの直観の鋭さには感服させられます。そして、日本語で立場をいちばん強調するのは、自分の立場でもなく、相互の立場でもなく、相手の立場だということが分ります。これはもちろん、日本人が相手の立場を実際に尊重しているというよりも、日本では相手の立場を尊重する態度が重んじられていると見なければなりません。でなければ、私にタバコの煙をプカプカ吹きかけながら、他人に迷惑をかけてはいけないことを滔々と説教するなんて、恥ずかしいことをする人が、いるわけがないからです。でも実際には、そんな人が、これまで2、3人いました。そのように、人の立場に立つ態度が頻繁に取り上げられているのは、他の人にもそれが重要だということを知らせたいためでもあるし、自分は他の人と違って人の立場に立っていると宣伝したいからでもあると思います。それは、韓国に来ると、道路標示にも標識にも、頻繁に“질서(秩序)”という言葉が見られるのと似ています。最近は見かけないような気がしますが、あってもその存在すら認識していないのかもしれません(実はそこに、警察はサブリミナル効果を狙っているとも考えられます)。しかし、80年代に初めて旅行で来たときは、ソウルの道路は“질서”という文字だらけでした。ソウルに初めて来たとき、人によっては教会の十字架が目に付き、人によっては薬局の“약”という印が目に付くそうですが(人がウィンクしているマークに見えるとか)、私は“질서”の2文字が目に付いたものです。そして道路の様子は、日本人の旅行客である私には、“カオス”に見えたのです。韓国語でも、“〜의 입장에 서다(〜の立場に立つ)”という言い方は結構しますが、日本語ほど多くありません(Yahoo! KOREAで“입장에 서서”の検索結果が39700件。でも後ろの方ではどんな用例が検出されているのか分りません。)。これは、たぶん、韓国人が日本人よりも他人の立場で考えることが習慣化されているということではなくて、日本人ほど他人の立場を意識することを重視しないからでしょう。

このような結果から分るのは、同じ意味の単語でも、文化的な価値観の違いや社会規範の違いから、使われ方の頻度に目に見える差が出てくるということです。これは、ある言い回しを使うか使わないかという問題よりももっとデリケートで、コンピュータの発達がなければ調査に大変な労力を要していたことでしょう。90年代にまだ私がインターネットというものを見たことがなかった頃、日本語でどのような表現がどのくらい使われているのかを知るのはほとんど絶望的でした。韓国に住んでいるし、毎日送られてくる新聞を丹念に読んでいる余裕もなかったからです。そのときは、ない知恵と当てにならない記憶を振り絞って、日本語で使われている表現について考え、説明していました。本当に自信がなかったのですが、99年にインターネットを始め、検索サイトの使い方にだんだん慣れてくると、日本語の表現についても徐々に分るようになって来ました。本当にすばらしいことです。現在私は、ある表現について、これはたくさん使われこれは少ないなどと、知ったようなことを言っていますが、それも私の知識ではなく、検索サイトや検索ソフトのおかげです。今後は言語の使用に関する説明は、推測を介さずに、ずばり数字で表現していくようになるんでしょうね。まあ、望ましい傾向だと思います。

From kats( Mail ) To ijustat@chance at 2004 10/11 06:53 編集 返信

RE:流暢さと正確さ

「習ったことを使って新しい文を作らなければ駄目だ」ということと、文法訳読式教授法の紹介のつながりがよく分かりませんでした。私が文法訳読式教授法について正確に知らないからだと思いますが、なんとなく我々が中学高校で英語を習ったときに使ったドリル式問題集のような印象を持ちました。私が「文」ではなく「文章」と書き、「作る」を「言う」というふうに表現すべきだったかもしれません。私のフランスの友人の言った「習ったことを使って新しい文を作る」というのは、例えば次のようなことです。

例)動詞と形容詞の現在時制でつくる肯定文と否定文を習い終わったぐらいの学生が「さわやかな」という言葉の意味を習ったとします。するとその学生が今すぐすべきことは、習った単語を使って先生や話し相手の前で文章を作る(言う)ことです。

さわやかな人はどんな人ですか。んー、私の母はいつも笑っています。とてもさわやかです。さわやかな母です。しかし父はいつも笑いません。あまりさわやかじゃありません。さわやかじゃない人です。さわやかじゃない人は嫌いです。さわやかな人が好きです。「さわやかな」の反対は何ですか。「いやな」とか、いろいろあります。私もさわやかな人になりたいです。他にさわやかなことはないですか。今日の朝は天気がいいです。さわやかな朝です。秋の朝がいちばんさわやかです。梅雨の朝はあまりさわやかじゃありません。

もう少し複雑なことを言えるようになった学生なら、「XXさんはさわやかですが、その理由は、こんなときにこんなことして、あんなときにはあんなことを言う人だからです。YYさんはさわやかじゃないですが、その理由は、こんなときにこんなことして、しかもあんなときにはあんなことも言う人だからなんですよー。」とように、「さわやか」から話題を広げるようにしてもいいです。上の例は、習ったことが新しい単語でしたが、新しい文法事項をならったときも、同様に文や文章を作らなければいけないのです。

母国語話者でも、一つのお題をもらって、それを使いながらそこから話を広げるというのは、意外と難しいものです。それを外国語で行うのですから、相当難しいはずなのですが、こういう練習を何度か経験している学生はスラスラ言えるようです。教師が「じゃあこの単語を使って文章を作って言って見てください」というと、たいていの日本人は「えーーーー」と言ったっきり、何も文が浮かばないことが多いようです。作っても、一つ作ったらもうネタが尽きたような気持ちになるようです。でも私の見たヨーロッパ人の学生たちは、すぐに4つ5つポンポンと作ってみせるのです。しかも、習った言葉を使って作った話にちゃんとオチが付いていて、聞いて楽しかったりもするのです。こういったことができる人は新しい単語を身に付けるのも速いし、覚えたことを長く比較的正確に覚えているし、言語を習得するのも速いように思います。

ただ、自分で作った文章だとそこに間違いが含まれている可能性があります。しかし習ったことを組み合わせているので、間違っても聞き手が推測して理解することができるわけです。そして重要なのは習ったすぐその場で新しい文を作ることです。習ったということは、教えてくれた人は教師か母国語話者かそれに近い上手な外国人話者なので、直してくれます。その意味でも、すぐ作って口に出すということが非常に大切なのです。書いてみながら考えても別の意味の効果がありますが、それは部屋に帰って復習するときに行えばいいことです。「すぐ作って口に出す」という学生を私は日本では殆ど見ませんでしたが、ヨーロッパではたくさん見ました。私の別の友人に、東京で一緒に働いていたフランス生まれのアメリカ育ちの元同僚(国籍は日本)がいます。彼は大学でスペイン語を専攻し日本に来てから日本語を勉強しペラペラなのですが、私がスペイン語を練習していて彼から新しい表現を習ったとき、私が「なるほど〜」と、それで満足していると「それを使って文章を10個作れ! あとでじゃない、今すぐじゃないとダメ」と言っていました。とにかく、ここで練習しておくと、あとあと使う機会があっても、正確に、あるいは通じる程度の間違いで済むようです。

一つの単語を使っていろいろな文を作ったり、1つのお題から文章や話を即興で作る、しかも複雑でない短い文章を沢山使って話を作るというのは、一種の特殊技能かもしれませんが、そんなに難しくなく、多少の訓練でできるようになります。これは何も学習中の外国語である必要はなく、母国語でまず練習できます。むしろその方がいいかもしれません。そして、母国語でできるようになったら外国語でも簡単に応用できるような気がします。

元の話は、正確性をどこまで妥協するかという問題で、友人の主張は「新しい文を作るにあたって、不正確な言葉を使ってしまうこと恐れるな、なぜなら新しい文は自分で作らなければいけないからだ」ということでしたね。(^_^;;)


From kats( Mail ) To ijustat@chance at 2004 10/11 06:51 編集 返信

RE:ijustatさんの書き込みは

>ijustatさんの書き込みは数年前から読んできたんですけど
>今、考えてみても、確かに“難しい”です。

氷雨さん、はじめまして。
私もijustatさんの文章は簡単ではないと感じています。(^_^)
でも決して「こ難しい」のではなく、実に日本語的に格調が高くで、内容も面白いです。あと、引用の仕方や句読点の使い方が正確で一貫しています。長さにも最初はびっくりしましたが、慣れてみると、気にならないばかりか、かえって影響を受けたりしています。

「立場」ですが、私が話し言葉より書き言葉を多く見ているからでしょう。もしかしたら、コーパスの収集対象も書き物から中心に集められていたのかもしれません。ちなみに私がときどき見ている「書き物」は中央日報の対訳社説のページです。
http://japanese.joins.com/php/bilingual_list.php
こういうところでは「立場」という表現がたまに出てきます。話しているのを聞いた経験があまりないので分かりませんが、そんなには使われていないかもしれません。日本語でも「相手の立場に立ってみろ」とか、使うことは使うのです。しかし韓国語では(日本語に直訳すると)「この立場では〜〜」とか「〜〜という立場だ」という表現が時おり見うけられます。この表現の場合、私にはとても新鮮に感じます。

私の経験した限りでは、韓国人のほうが日本人より、相手の自分の立場をあらかじめ定義して議論する人が多いように感じます。韓国人から「今こういう問題が起きているけど、日本人としてはどう思うんだ?」とよく聞かれます。そんな時私は「日本人だからとか、どうでもいいじゃない」と思ったりします。日本人として、教師として、学生として、大人として、女として、というようなことは、心の中には各自なんとなく持っていても、話をするときにあまりそれを表に出さない傾向が近年の日本には在るように思います。韓国ではどうでしょうか。日本はちょっと昔は、「学生は学生らしく」「女は女らしく」、だから「学生だからこうする」「女だからこう考える」などのように「枠」があったのですが、最近は多様化してきて、枠にはめるのを嫌う傾向があると思います。しかし、だからといって各自の立場がなくなったわけではありません。多様化しただけです。個人各様の立場があります。ただ、それをあまり表に出さないから文章にもそんなに出てこない(ような気がするが、統計を取ったわけではない)ので、そんな言葉を韓国語で見かけると、妙に印象に強く残っているだけかもしれません。

「母国語では絶対こんな言い方はしない」とある外国人に言ったら、その人に「そんなことはない。言う人もいる。たまたま君の周りの人がほとんど使わないだけだ」と言われ、あとで辞書で調べるとちゃんと載っていて、よく考えると、ある状況では自分も使っているということに気づき、おおいに反省した記憶があります。

To 氷雨 at 2004 10/11 13:48 編集 返信

RE:ijustatさんの書き込みは

氷雨さん、こんにちは。ijustatです。

>ijustatさんの書き込みは数年前から読んできたんですけど
>今、考えてみても、確かに“難しい”です。

いや、難しい文章を読ませてしまってすみません。実は私は、自分のホームページでは、あまり読みやすさを考慮しないで書いているのです(自分自身にとっては読みやすく書いているのですが)。それから、多少饒舌気味な文、息の長い文を書いているので、辛抱強く読んでいかないと、話の流れ方についていけないという難点もあります。

>その“難しい”ってのは特に語彙の選択とか表現の曖昧さではないけれど
>何故だか読んでいるとそんな気がしますので変です。
>多分、口語体と文語体の差から来たのではないかなと思います。

フォローしてくださってありがとうございます。そうですね。あまり話し言葉の言い回しを使いません。所々で使ってはいるのですが、それは味付けみたいなもので、それが文章を分りやすくしているわけではないでしょう。また、私の文章が読みにくいのは、たぶん、自分が知っていることを効率的に教えようとしているというよりは、書きながら自分で考えていることが多いからだと思います。

それからまた、私は改行をあまりしません。昨今の日本の出版物は、改行を頻繁に行います。しかし、私が自分の好きで文章を書く場合、一つの意味的段落は、本当に一つの段落にまとめてしまいます。そんな書き方をしているのは、学術書以外には、岸田秀(きしだ・しゅう)という人の著作以外に見たことがありません。私はこの人の『幻想の未来』(講談社学術文庫)という本を読みましたが、初めはページが文字で黒く埋め尽くされているのを見て驚きました。このような息の長い段落の付け方は、一般に口当たりのよくない書き方とされているようですが、私にとっては、岸田秀の文章は、読みにくくはありませんでした。一つの段落には一つの息が流れ、段落が終わるところで意味の流れも一息つくので、むしろ意味のかたまりをポンポンと越えながら読んでいくような、悠長で心地よいリズムを感じたものです。

いつかぜひ、機会があったら、岸田秀の著作を読んでみてください。この人は心理学者で、思想家としても認識されているようです。その人の学説がどのくらいの位置づけがなされているのか、部外者なので知りませんが、私はこの人の考え方に好感を持っています。

ちなみに、1段落の平均文字数は何文字ぐらいが理想的かということについて、野口悠紀雄(のぐち・ゆきお)という人が、150字という数字を挙げています。たしかにこのくらいの文字数を1つの段落にすると、だいぶ読みやすくなるようです。この段落が150字です。どうですか。これだったら読みやすいでしょう。

>まぁ、それも無理ではないのは、今まで自分で習ってきた日本語は
>ほとんど口語体なのであまり文型とか格式にこだわらなかったけど
>文語体には確かに言葉とか表現が口語体に比べて違っています

>それに気づいたきっかけは入社願書の自己紹介書を書き始めてからです。
>なんの考えもなく述べていると回りの人々から
>“それは子供の落書きではないんだぞ!まじめにやれ!”
>と指摘されました。つまり、言語使用にとって
>口語体と文語体の区別にまだ慣れていないわけです。

書店へ行くと、大体棚ごとに文体が少しずつ違いますが、大体均一です。しかし、ウェブサイトを回っていると、これはもう千差万別です。実は私は、こういう、インターネットの体質を気に入っているのです。読者中心というより、書き手中心の文章に偏った書き方が許されるウェブサイトに、日本語の一つの可能性を見ています。

インターネット上には、「青空文庫」に掲載された過去の著作物のように、日本語の宝とも言えるような、高度に完成されたすばらしい文章から、私のようなだらだらした文章や、氷雨さんのように外国の方が書いた文章などがあり、それらが平等に並んでいます。本はだらだら書いたら出版してもらえないでしょうが、インターネットではだらだら書いても発表できます。基本的に無料提供の世界ですから、いくら多くの人が読んでくれても儲からないし、ほとんど誰も読んでくれなかったとしても、ホームページにせっせと自分の書いたものを載せることができます。

ご指摘の通り、私の文章は、だらだらしているけれども、話し言葉よりは書き言葉の特徴が色濃く出ていることと思います。これはたぶん、小論文を書く訓練を受けたことがあり、その書き方が、ある程度癖になっているからかもしれません。自分で書くにせよ、読むにせよ、文章体に慣れることは必要でしょう。韓国でも日本でも、公的な書類を話し言葉で書くことは、社会的に容認されていません。これは残念なことともいえますが、まあ仕方のないことでしょう。公式な書類の文体が様々だと、読む人は疲れてしまうだろうし、時に内容を理解できない可能性もありますから、文体は均一で、余計な語尾なんかは付いていない方がいいわけです。氷雨さんも、入社願書の自己紹介書作成は、文章体に慣れるいい機会かもしれません。頑張ってください。

ところで、日本語で「文語体」というのは、文語文法で書かれた文体のことで、氷雨さんが「文語体」とおっしゃったのは、日本語では普通、「文章体」または「書き言葉」と呼んでいます。私も文語体で文章を書くのは至難の業です。

>あ それに以前聞いたのなんですけど
>“ブジロンハダ”は勤勉の意味とはちょっとちがう、
>“ひとより早く仕事とか準備を始める”の意味です。

“부지런하다”にそんな意味があったんですか。知りませんでした。私が知っているこの語の意味は、辞書(새국어사전)に書いてあるように、“수고를 아끼지 아니하고 일에 꾸준하다”というものです。これが、私が実際によく見る“부지런하다”の意味です。そしてそれが、この語の一般的な使われ方だと思います。ですから、もし“人より早く仕事や準備を始める”という意味での“부지런하다”であることを示したい場合は、その意味を表している例文を提示する必要があります。そうすれば、私も、ああこの語にはこんな使い方があったのか、それならこれは日本語でこれこれこういう語が当てられるな、と考えることができます。ぜひ、例文を一つ教えてください。

>P.S 下の文を読んで少し驚きました。
>私は韓国語の母語話者なんですけど
>“立場”という単語をあまり使っていないので。。。

そういうことは、私も体験しています。私があまり意識していなかった日本語の表現を学生に指摘され、それがけっこうたくさん使われていると教えられることが、本当にあるのです。私は仕事柄、本当にそうか調べますが、本当に学生の言うとおりだった、ということもよくあります。そういう経験を繰り返していると、学生たちの前で自分は日本語のすべてを知っているとは思わなくなってきます。これ、本当なんですよ。

それで、氷雨さん自身は“立場”という言葉に縁遠かったとしても、katsさんは韓国語の文章の中で、“입장”を多く目にされ、実際に韓国語コーパスで調べても、607位という高順位が出てくるわけです。だから、自分は韓国語の母語話者なのに、高頻度の語彙をあまり使わない、というのは、珍しいことでもないし、特に恥ずかしいことだとも思いません。私自身、実際に韓国語の文章を読みながら、“입장”という語は、けっこう頻繁に出てくると思います。これは、どんな分野の本を読んでいるかによっても違ってくるでしょう。特に、文化や人間関係に関する内容では、“입장”の使用頻度はさらに高くなることと思います。

というわけで、読みにくい文章をまただらだらと書いてしまいました。(笑)

From 氷雨( HP ) To ijustat@chance at 2004 10/11 00:09 編集 返信

ijustatさんの書き込みは

ijustatさん こんにちわ 氷雨です

最近、入社原書を書くことで忙しいんです。
けどなんかうまく行けない気がしますので心配です。

ijustatさんの書き込みは数年前から読んできたんですけど
今更、考えてみると確かに”難しい”です。

その”難しい”ってのは特に語彙の選択とか表現の曖昧さではなけれど
何故だか読んでいるとそんな気がしますので変です。
多分、口語体と文語体の差から来たのではないかなと思います。

まぁ、それも無理ではないのは、今まで自分で習ってきた日本語は
ほとんど口語体なのであまり文型とか格式にこだわらなかったけど
文語体には確かに言葉とか表現が口語体に比べて違っています

それに気づいたきっかけは入社原書の自己紹介書を書きながらです。
なんの考えもなく述べていると回りの人々が
”それは子供の落書きではないんだぞ!まじめにやれ!”
と指摘しました。つまり、言語使用にとって
口語体と文語体の区別にまだ慣れていないわけです。

んなことから意識して、慎重に読むとijustatさんの書き込みが
妙に難しくなっていつもより読むのに苦労してしまいました。
そうゆうわけです

あ それに以前聞いたのなんですけど
”ブジロンハダ”は勤勉の意味とはちょっとちがう、
”ひとより早く仕事とか準備を始める”の意味です。

ではでは

P.S 下の文を読んで少し驚きました。
私は韓国語の母国話者なんですけど
”立場”という単語をあまり使っていないので。。。

To kats at 2004 10/08 07:14 編集 返信

RE:立場による学習方法の見方

kats様、書き込みありがとうございます。

立場を考慮する考え方が韓国的だというお話には、ちょっと驚きました。そこで“입장(立場)”を韓国語の頻度表(“한국어 형태소 및 어휘 사용 빈도의 분석 1” 고려대학교 민족문화연구원, 2000付録のCDロムによる)から確認してみると、なんと607位でした。これはかなり高頻度の語だということです。“라면(ラーメン)”よりもわずかにリードしています。日本語では“立場”がどのくらいの頻度になるのか分りませんが、韓国語では高頻度であるということだけは確かです。katsさんはなかなか鋭いですね。

立場を意識することは重要です。それは、普遍的な真理に立場は従属するものだということに気づかせるからです。教師によっては、教師の視点こそ普遍的な真理だと思い込んでいる人がいます。そういう先生は恐いです。もし、そんな先生の意見に、少しでも異議を唱えようものなら、とたんにカーッとなって自分の考えをまくし立て、相手に口を挟む間も与えません。そういう人は、立場というものを客体化することができないのです。そんな人が、先生と呼ばれる人たちの中に少なからずいます。それがたぶん、katsさんが高校生のとき、教師という職業に幻滅された理由なのではないかと思います。

しかし、外国語学習をめぐっては、教師の立場と、学習者の立場がやはりあって、どちらも普遍的な真理を代表することはできません。仕事柄、外国語教授法に関する本と、外国語学習に関する本の両方にいつも関心がありますが、この両者はまったく別の世界でそれぞれまったく別の夢を見ています。どちらかというと、教授法に関する本の方がアカデミックですが、これはひとりで勉強しようとする人にとっては、直接役には立ちません。一方、学習に関する本は、いろいろな人が書いていて、内容もさまざまです。では、ひとりで勉強しようとする人にとって役に立つかというと、こちらは当たり外れがあります。特に、そういう本の著者が「理論」と銘打つものは、いかがわしい感じが拭えません。

紹介してくださった、teaching oneself(自分自身に教える)という英語の表現は、すばらしいと思います。そこには、学習者の立場と教師の立場が融合しているからです。それだけでなく、謙虚さも表れています。「自分自身に教える」という考え方を初めて意識するきっかけになったのは聖書で、「あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか」(ローマ2:21)という箇所です。これは私にとっては厳しい言葉でした。私は日本語教師だから、自分が日本語を教えながら外国語学習で苦労しているのが、とても恥ずかしく感じられました。この聖書箇所では、教師の陥りやすい欠点が、鋭く指摘されていると思います。たぶん、有名なTeach Yourselfシリーズの命名は、上の聖書箇所とかけているのではないかと思います。

まあ、学習者の立場だけに同調していると、もとから才能のある学習者にしか語学習得の機会が与えられなくなってしまうでしょう。teaching oneselfという概念が重要だと思うのは、教師の立場と学習者の立場の両方が重要だからです。教師は学習者の視点を持つべきだし、学習者にも教師の視点が必要です。

もっとも、純粋に学習者の立場から外国語学習を見つめ、達人の域に入っている人もいます。先日キョボ文庫で『世界中の言語を楽しく学ぶ』(井上孝夫著、新潮新書)を見つけ、買って読みましたが、この著者はまさにそんな人だと思いました。この人は54年生まれで、大学に入ってから現在までに100を超える外国語を学んできたそうです。本人は、広く学んだけれど知識は浅いと謙遜していますが、その中にはものになっている外国語も複数あります。外国語学習に当てる時間はほとんどが通勤電車の中という状況のため、それに関するノウハウも紹介されていて、なかなか見ものです。覚えた外国語で文学作品などを読む方法(通勤電車の中で!)も披瀝されています。なお、この人がよく使用した学習書は、大学書林の四週間シリーズとTeach Yourselfシリーズ、それから白水社のエクスプレス・シリーズだそうです。音声教材を使用するメディアとしては、ウォークマンとMDプレーヤーが紹介されています。通勤時間を活用しての学習なので、コンピュータで音声教材を使うことについての言及はありません。

この人は自分の見つけた学習方法にユニークな名前をつけています。その中で、面白いのは「耳通し」というものです。学習した言語の音や基本的表現を、耳に染み込むまで何十回も聞くものですが、著者はベルリッツの旅行会話シリーズを用いてこの練習をしたそうです。ちょっと著者の話を聞いてみましょう。

「基本的表現と旅行用の簡単な会話だけなので、そんなもの役に立つのかと思われるかもしれません。しかし基本的表現というのは、案外馬鹿にして飛ばしてしまうことが多い。とかく、すぐに内容のあるものを読んだり話したりしたがるものですが、日常言語の呼吸というか、その言語の基本的感覚をしっかりと身に付けるには、意外とこのような日常的・基本的表現を繰り返し頭に染み込ませておくことは重要です。文章や会話はその基本の延長線上の応用にすぎず、基本的感覚を養っておかないと、はたしてその表現が当たり前の言い方なのか、少し捻った表現なのか、その辺の位置関係が測れなくなるからです。」(p.78)

「耳通し」の効用は、それ以外にもあるそうです。もうちょっと続きを聞いてみましょう。

「『耳通し』は、学んだはずの発音説明の確認にもなるものですから、たとえ深く学ぼうとは思っていない言語でもなるべく一度はしておきたい。『耳通し』をしても、長くその言語に触れなければ表面上は忘れてしまいますが、復習すると記憶が非常に速く蘇って来ます。記憶の底に残っているもののようです。文法をしっかり学び『耳通し』をしておきさえすれば、のちにその言語に触れられないブランクの後に、調べる必要が出て来ても、なんとか対応できるものです。」(p.78-79)

こうやって聞いてみると、多くの人が無意識にやっている方法ですが、著者はそれを意識化し、その効用についてもはっきりと認識しているところが違います。方法のユニークな命名以外にも、「習うべき事は習い、慣れるべき事は慣れよ」(忘却への対処)とか、「簡単な少数の大原則と、若干の例外」(文法の整理について)などのように“格言”を作り出して、学習の方向性をコントロールする能力は、やはり非凡だと思います。

読解についても、「川上り文法」と名付けて、なかなかいい助言をしてくれています。

「最後に一つ重要なことを付け加えましょう。通常、文法の記述というものは『これこれの基本形が変化して、ある文法的意味を帯びた形に変化する』という方向性で行われます。しかし実際に必要なのは『目の前にある形は、どういう基本形の変化したものなのか』をつきとめる方法です。基本形を水源に譬えるならば、それが流れ下ってどういう形の変化形に辿り着くのか、その川筋をしめすのが普通の文法で、これを仮に『川下り文法』と名づけるならば、学習者には『この変化形から、どういう川筋を遡って水源に辿り着くか』という、いわば『川上り文法』こそが必要とされるのです。」(p.166)

この助言は、語形変化の激しい言語を、初歩を学んだあとでテキストを読むときに、本当に身につまされて感じる部分です。私も、名詞や形容詞に関しては、この定冠詞が付いているからこういう文法形態で、したがって原型は、変化の規則を逆流すればこれこれという風に、私なりの「川上り文法」(?)を模索して来ているのかもしれません。もちろんこれは、その言語が自由に駆使できる段階になれば不要になることでしょうが、初級を終えた後、テキストに初めて当たる段階では、とても重要だと思います。外国語学習者たちが薄々感じているものを、このようにはっきりと言ってくれたのは、うれしいことです。ちなみにこれは、教師の視点から抜け落ちていることがほとんどです。

著者は、「方法論が出来上がると強いものです」と言っています。katsさんやkuronekoさんについてもそうだなあと思いますが、学習の達人の話を聞いていると、やはり方法論に対する強い関心を感じます。そのように、とても具体的な方法論を『世界中の言語を楽しく学ぶ』では惜しげもなく紹介しています。この本は、もしかしたら21世紀の『20ヵ国語ペラペラ』になるかもしれません。ということで、何だか本の紹介になってしまいました。

To kats at 2004 10/05 01:24 編集 返信

RE:流暢さと正確さ

kats様、書き込みありがとうございます。

日本人が近年外国へ行くと、英語で話しかけられるというお話には、本当に驚きました。そういえば、私も心当たりがあります。私に会う前に日本人であることが分っていると、会うなり英語で話しかけてくる人が、これまで何人かいました。私は最近まで英語に対する苦手意識が払拭できずにいましたから、英語を避けていました。もちろん、簡単な挨拶くらいは聞き取れますが、喋れません。それで、私も目が点になってしまうことが、これまで何度かありました。

そんなわけで、英語で話しかけてほしくないので、“영어 잘 하시네요.(英語がお上手ですね)”と、半ば当惑した口調で相手の話を遮ります。すると、たいていは、韓国語が分るという事実に気づき、すぐに韓国語で会話が始まります。

あるときは、日本語で話しかけられたこともありました。しかし、その人の実力は、中級の下か中ぐらいです。これではコミュニケーションは隔靴掻痒の状態になります。そのときもやはり、“일본어 하시네요.(日本語がおできになるんですね)”と言って、相手をほめてしまいます。すると、そのレベルでは日本語で話を続けるのは困難になりますから、会話は韓国語になります。日本語が中級の上以上だと思ったときは、日本語で話を続けることもあります。そういう人は、たいてい知識人で、しかも独特な考えを持っている人が多く、日本語での会話もけっこう楽しいものです。

最近だったら、もし英語で話しかけられたら、私も下手な英語で一生懸命話すかもしれません。英会話というものに特に関心があるわけではありませんが、せっかくだからここで英語の練習でもしてしまおう、というわけです。でも、残念なことに、そう思うようになってみると、なかなか英語で話しかけてくれる人はいません。

ここで普通心配になるのが、katsさんも指摘しておられたように、不正確な英語を身につけてしまうということでしょうね。「もし正確さへのこだわりが頭にあったら、この時点で拒否反応が生まれ」るとおっしゃるように、正確さを重視する人には、英語国出身でない人との英語での会話は、抵抗のあるものかもしれません。ただし、私の考えでは、表現の正確さは自分で練習して身につけるものです。標準でない英語を話す人と会話をして、それが染まることもあるかもしれませんが、それは基礎がしっかりしているなら、むしろ表現の広がりにこそなれ、害にはならないと思います。

言語の正確さというのは、考えてみれば、表現の自由さと、危ないところでバランスを保っているのかもしれません。言語の表現では、創造的に使える部分と、規則に忠実に従わなければならない部分とがあります。そしてこの規則というのが、けっこう自由な表現の足枷になることがあります。例えば日本語では、有情物と無情物とでは、存在を表す動詞が違います。有情物は「いる」を使い、無情物は「ある」を使います。そのため、これらをひっくるめて存在させる文を作りたい場合、困ってしまいます。たいていは、「机と人が……」とすると、あとが続かないので、「机があって人がいます」のように、分けてしまいます。これは本当に不便なことです。「机と人が存在します」と言うこともできるけれど、どんな場面でも可能かどうかは分りません。もっと困ったことには、「その部屋に何かありましたか」と聞いた場合、「ある」という動詞のせいで、存在するのは無情物だけしかイメージされず、そこにたとえばネズミがいたとしても、他に何もなければ、「何もありませんでした」と答えることになります。まあ、普通は、「何もありませんでしたけど、ネズミがいました」と答えるでしょう。このように、言語の規則は、表現の自由さにまで制限を加えているので、外国語で、とにかく話したい、自由に話したいと思う人にとっては、このようなレクシカルな制約は、ぶち壊してしまいたい衝動に駆られると思います。そして、このような一見理不尽に思える制約と折り合いをつけながら、自分の考えを巧みに表現できるようになるまでは、数多くのハードルを越えなければならないことでしょう。

だから、「言語には確かにいろんな言葉を組み合わせて新しい概念を作り出すという創造的な面もあるけれど、学び始めて少なくとも1年間は教科書に出てくる表現を1字1句変えないで正確に覚えること、教科書に出ていないことを言いたい場合は、言いたくなるな、言いたい事を教科書にあわせるように努力しなさい」というアドバイスは、正確さを重視する教師の心情をよく表していると思います。またそれだけでなく、ある種の真理をも表していると思えます。なぜなら、私たちが言語を用いて表現できる世界は、ごく初歩の段階では“私とあなた”にとどまり、中級のレベルにいたって初めて“私たちとそのコミュニティー”へと話題を広げるだけの語彙力と文法能力が備わります。そして、社会問題などになると、すでに上級レベルでの会話になります。しかも、若者がいちばん話したがる、抽象的な議論となると、これは上級を超えるレベルが要求されます。水準に合わないことをしようとすると、話は挫折するばかりか、下手をしたら、ブロークンになる危険性もあります。実際に、完全にブロークンになってしまった場合、上級者になる望みはありません。そういう状態は、“Terminal Intermediate”と呼ばれています。“この人は中級どまりで、これ以上上には行きません”という烙印です。この状態を脱却するには、最初からやり直さなければなりません。私が中学英語の単語まで、発音を確かめるために辞書を引きながら、英語学習の再出発をしたように。だから、ろくに話せない初級段階の学習者は、「言いたい事を教科書にあわせる」ように努力する必要があるのです。自分の意見や考えを整理して単純に言うことは、外国語を身に付けるうえで、必要な方策です。そのうえで、実力に応じて徐々に肉付けしていくわけです。順序を間違えると、永遠にうまくなりません。

katsさんのフランス人の友人がおっしゃった、「習ったことを使って新しい文を作らなければ駄目だ」という意見は、その点での語学習得のコツを言い当てていると思います。もちろん、数ヶ国語ができるようになった人のことばですから、いい加減であるはずないのでしょうが、実はこの意見は、西洋の言語習得理論などでは見過ごされがちな観点らしいです。日本では、基本的な例文を覚え、それを活用して自分の言いたいことを言うというのが、外国語学習の成功者に多くみられた証言だそうです。それは、習ったことを使って新しい文を作るということと、よく似ています。その模型ともなるのが、文法訳読式教授法です。

近年文法訳読式教授法は、外国語教育において排斥されがちですが、外国語学習成功者の多くは、この教授法での学習が役に立ったと言っています。私自身も、この教授法は捨てがたいと思います。特に初級では、手っ取り早く身につけるのに役に立ちます。「目標語→媒介語、媒介語→目標語」という翻訳練習は、けっこうきついし、面白みもないのですが、やればたとえ消化不良を起こしていても、確かに身に付きます。余談ですが、この練習は、手を動かして書きながら一生懸命考えるし、問題文を理解するために音読も複数回するので、頭の体操になります。普段勉強しない(私のような)人にとっては、この練習で頭の回転をよくすることができるし、年配の人にとっては老化防止にもなります。最近は大人のドリルというものが日本で流行っているそうですが、ただやるだけのドリルより、やりながら外国語が一つ身についてしまう、外国語学習の方が、ずっと実りがあると思います。そしてその外国語が身に付いたあとは、興味のある本や雑誌などを読み続け、気に入ったものは翻訳してみたりすれば、趣味生活は尽きることがありません。^^;

ところで、武道はご存知のように、型から入りますが、外国語の学習にも、武道と似た点があると思います。武道だけでなく、日本では稽古事一般において「守」「破」「離」という考え方がありますが、外国語学習でも「守」「破」「離」ということばで説明する人が時々います。この「守」は、外国語学習が発展する段階で正確さ、適切さを維持するための重要な要素になるわけです。katsさんは、まさにこの「守」の部分をアメリカ人の日本語学習者たちに話されたわけですが、これが冗談としか取られなかったというのは、洋の東西の距離を感じさせられます。

To kats at 2004 10/04 01:01 編集 返信

RE:スイッチバックについて補足

katsさま、書き込みありがとうございます。

スイッチバックについて詳しく教えてくださりありがとうございます。最近の列車はパワーが改善されて、急な斜面でも登っていけるようになったため、スイッチバックもどんどん廃れてきているという話をどこかのウェブサイトで読みました。ぜひ一度スイッチバックの実物をこの目で見てみたいと思いますが、その機会は今後ますます遠のいていくのでしょうね。

種田氏の「うるし塗り」は、katsさんのおっしゃるように、「スイッチバック方式」と原理的に酷似していると思います。「うるし塗り」に関して、“より高い次元で云々”ということが、『20ヵ国語ペラペラ』(実日新書)のどこかに書かれていたと思うのですが、今探してみると、どこに書かれていたか見つかりません。もしかしたら、『勉強法が変わる本』(市川伸一著、岩波ジュニア新書)だったかもしれません。ともかく、分らなくなったら元に戻り、以前よりも一段と高くなった状態からやり直して、楽に難関を乗り越えるという考え方が、よく似ています。

初期の学習をどうするかという点については、「うるし塗り」式と、とりあえず“一過式”とでも言うような態度との2種類があるようです。実は、うるし塗りを主張している人は、あまり多くありません。『外国語上達法』(千野栄一著、岩波新書)では、学習書はあまり大部でない方がいいと主張しています。さらに、やり直しは最初に学習するときよりも労力を要すると言っています。『語学で身を立てる』(猪浦道夫著、集英社新書)でも、消化不良でもいいから、初期の学習を早く終えて、読本で学ぶ段階に入ることを勧めています。この本でも、学習書は薄いものを勧めています(p.103)。学習書が大部でない方がいいと主張するのは種田氏も同じですが、4度も繰り返すことを勧めている本は唯一『20ヵ国語ペラペラ』だけです。もしかしたら、私たちの多くにとって、外国語を習得することよりも、同じ学習書を4回繰り返して学習する方が難しいことかもしれません。努力の果てに外国語学習がついに失敗に終わったという人で、同じ学習書に4回挑んだという人は、そう多くないと思います。たぶん、1度の挑戦で挫折することが多いのではないでしょうか。そんな人にとって、うるし塗り学習法は、大きな励みになると思います。繰り返すことをここまで天真爛漫に強調した語学の達人は、他にあまりいないでしょう。

そのように、この「うるし塗り」は、語学学習にありがちな“挫折”に対して、強力な対抗策となっている点が特色です。語学書は、時に、途中まで読んでもうこれ以上読み進めるのが苦しくなるときがあります。そのとき、種田氏はあっさり学習をやめます。しかし、すごいのは、また最初から読み始めることです。これは、学習を失敗させる悪魔にとって、何よりも恐ろしいことかもしれません。そして、もっと読み進んだところで、また、もうこれ以上読み進めないと感じる壁に当たります。すると種田氏は、またそこでやめてしまいます。ところが恐ろしいことに、また最初から同じ学習書を読み始めるのです。しかしまた、後半まで行き着いたところで、これ以上読めないと感じます。すると、種田氏は、せっかくそこまで読んだのに、学習をやめてしまいます。ところが、驚くべきことに、しばらくすると、また最初から同じ学習書を読み始め、ついには最後まで読破してしまうのです。悪魔の完全なる敗北です。katsさんが美しく表現された、漆が塗られていく情景を、挫折を乗り越えるという観点から見ると、以上のように映るのではないかと思います。

ところで、入門書から始めない人の話も面白く読ませていただきました。入門書から始めない外国語の学習は、いろいろな形態で行われているようです。ただし、組織的に行われることは、シュリーマンの外国語学習以外はあまりないようですね。そのシュリーマンですら、ロシア語とギリシャ語の場合は文法の手ほどきが必要だったようです。種田氏も、スペイン語とポルトガル語の2つは、学習書なしで身につけたようです。

一方、ロンブ・カトー氏は、『わたしの外国語学習法』(ちくま学芸文庫)によると、古本屋で見つけた露英辞典と、ロシア人がペンションを引き払ったあとに残されていた「馬鹿馬鹿しくセンチメンタルな、何とかいう小説」(p.21)とで、ロシア語を身に付けたそうです。ロンブ・カトー氏はハンガリー人で、ハンガリー語とロシア語は別系統の言語だから、すごいことです。人が捨てた本を拾って勉強するというのは、私もやりますけど、入門書でもない本で外国語を、それも、母語と系統も違い、しかも形態論が複雑なことで有名なロシア語をものにしてしまうとは、驚きです。

また、中国語の学習も破格です。しばらくロンブ女史に自ら語っていただきましょう。

「翌日、公立図書館で見つけた唯一の中露辞典をたよりに、わたしは、いかにして自分の必要とする単語を引いたらよいのかという謎解きに没頭していました。なにしろ中国語には、音標文字というものがなく、したがって、アルファベットもないのですから。そして、一二月のとある日の明け方、わたしは、中国語のひとつの文章の読解に取りかかりました。ついに判読し得たのは、すでに夜もふけた頃でした。その文は、こう叫んでいたのです。≪万国の労働者、団結せよ!≫」(p.26-27)

猛烈な闘志ですね(汗)。その中国語は、次のようになります。

「二年間で、わたしの中国語は長足の進歩をとげ、すでに代表団通訳を務められるようになっていましたし、とくに気に入った小説など、次々にハンガリー語に翻訳していきました。」(p.28)

以前、同僚の先生から教えてもらいましたが、このように、学習書を通さずに言語を身につけるのを、「自然習得」というのだそうです。たいていは、その国で揉まれながら身に付けていくわけですけれど、この自然習得と、きちんと文法事項を教わり訓練された語学習得との、文法使用の適切さを比較調査した人がいるそうです。その結果は、なんと、自然習得の方が文法を適切に使用できるようになっていたとのことでした。これは、私たち日本語教師にとってショッキングな話です。でも、私にとって慰めになるのは、こういう自然習得は、誰にでもできる芸当ではないということです。自然習得の道は、教室または学習書に比べて狭く険しく、語学的センスの乏しい人たちを、情け容赦なく切り落とすと思われるからです。

今考えてみれば、その研究は不完全だったのかもしれません。自然習得者には、ETLL(Exceptionally Talented Language Learner)と呼ばれる人たちがより多く含まれている可能性があるからです。『より良い外国語学習法を求めて』(竹内理著、松柏社)によると、「データを集める層を確定する際にまず注意しなければならない点の一つは、『一般的な学習者』と『特異な学習者』を区別することであろう。ここでいう『特異な学習者』とは、『例外的高度外国語学習能力保持者』(Exceptionally Talented Language Learner:ETLL)と呼ばれる一群の学習者たちのことで、彼らは大人の全人口の中で5%程度の割合で出現するといわれている」(p.39)とのことです。5%もいるとは驚きですが、そのような人たちの学習方法から学べることはあまりありません。でも、真似てみたい誘惑に駆られますね。(笑)

とにかく、ロンブ・カトー氏の外国語学習法は破格です。今後関心をもってこの人の本を精読してみたいと思っています。

実は私も入門書なしの外国語読解を試みた経験がありました。『アイヌ神謡集』(岩波文庫)の日本語訳がとても美しくて、ぜひアイヌ語の部分が知りたいと思い、対訳の日本語を頼りに分析を試みました。しかし、一日中考えても、シロカニが銀でコンカニが金、ペが滴だということ以外は、ほとんど何も見つけ出せずに、その試みは挫折しました。大きな敗因は、辞書を使わなかったことだと思います。当時私は確か大学生だったと思いますが、アイヌ語の辞書を手に入れるということ自体、とてつもない大それたことだと思っていました。今は、値こそ張りますけど、アイヌ語辞典は一般人の手が届くところまで来ています。今だったら、図書館へ行ってアイヌ語の辞書を引きながら読んだかもしれません。

入門書を使わずに身に付けるのに成功したのは、外国語ではなくて、HTMLです。これは、偶然がきっかけで、ダウンロードしたウェブページをブラウザで読み込んだら読めたことから始まりました。そこに書かれているタグをいろいろいじりながらその意味(というか機能)を知り、それを試行錯誤しながら自分でも使ってみました。そのあとでホームページの入門書を買いましたが、いざ読んでみると、“나모 웹에디터”というソフトの使い方だったので、ほとんど使い物にならず、わずかに使えたのが巻末のタグの説明だけでした。それで、そのあとはタグ辞典を買って使ったり、気に入った表示をするタグをウェブページから拝借して数値などを変えて使ったりしています。同僚の先生がホームページを作り始めようとしていたとき、私の方法を教えたら、その先生も最初は私のホームページからずいぶんたくさんタグをコピーして使ったようです。後に、他のところからもたくさんタグを取り入れて、私のなんかよりもずっと立派なホームページを作るようになりました。外国語も、そんな習得の仕方で身に付けてみたいですね。

To kats at 2004 10/03 11:05 編集 返信

辞書について

kats様、書き込みありがとうございます。

>プライムでは、確かに左折はよく説明されていますが、右折は右回転になっています。

いやあ、驚きました。『プライム日韓辞典』の方はきちんとできていますが、韓日の方は、かなりずさんなんですね。私は『プライム韓日辞典』も持っているはずなのですが、どこに行ってしまったのか、探しても見つかりませんでした。プライムは、というか、東亜出版社では、長らく日韓辞典はあったのですが、韓日辞典がありませんでした。それを、90年代の中ごろに、コリョ大学のイー・ヒョンギ先生の名前でついに『プライム韓日辞典』を出したのです。イー先生は日本語のとても達者な人だから、本人がそんな間違いをするはずありません。きっと人を使って執筆させたんでしょうね。そして、それが『メトロ』にまで及んでいるということなのでしょう。

ところで、辞書の命名に外国語、ことさら英語を用いるのは韓国の特徴かもしれません。いま思いつくだけでも、『エッセンス』、『プライム』、『メトロ』、『ニューエース』があります。これらの名の下に、英韓辞典、韓英辞典、日韓辞典、韓日辞典、中韓辞典、韓中辞典、国語辞典(もちろん韓国語の辞典)などが出版されています。その中で、『새국어사전』は固有語を冠しているという点で、珍しい名前のつけ方です。まあ、本が古くなっても「“新”国語辞典」というのも、ちょっと変ですけどね。

電子辞書のありがちな弊害と、不便な点のお話は役に立ちました。先頭に出てくる定義で満足してしまうというのは、耳の痛い話でした。実は私は受験生のころ、英語の勉強でそんな態度だったと思います。読解文のテキストを読むのに汲々として、新出単語をまともに相手にしていられなかったのです。ひどい話ですよね。とうぜん、読解文もろくに理解できませんでした。また、検索履歴をあとで復習に用いられるという便利さがある反面、書き込みができないという不便さも、電子辞書の問題点ですね。全体的に、デジタル化されたデータは、印をつけたり書き込みをしたりできない不便さを解決する必要があると思います。それは今の技術だったら十分にできると思うんですけど、あまりやらないようですね。

私は、ギリシャ人の神父さんに韓国語を教えたとき、電子辞書の韓英辞典によって韓国語のテキストの理解に挫折するという経験を繰り返したため(それもメトロの韓英辞典でした)、電子辞典には悪い印象しか持っていませんでした。その神父さんはギリシャ人ですが、プリンストン大学で修辞学の博士号を取っている人ですから、英語の理解に問題はないはずです。そういう体験も加勢して、時代錯誤もはなはだしく(?)、いまだに紙の辞書ばかり使っているわけですが、先日コンピュータにインストールされている“ウォーディアン辞典”を使ってみて、そのあまりの便利さに舌を巻きました。インターネットからダウンロードした英文のテキストを読みながら、分らない単語の上にカーソルを当てると、瞬時にその単語が検索されて訳語を見ることができるのです。これはすごいと思いました。デジタルテキストを読むことは、これからますます増えてくるはずだから、こういう辞書は重宝すると思います。ただ、この辞書の履歴は当てになりません。なぜなら、知らない単語にカーソルを持っていく途中で引っかかった単語も次々と検出してしまうからです。だから、検索履歴をみると、調べた覚えのない単語がたくさん並んでいます。(笑)

ところで、お話にあった『くもんの学習国語辞典』は、私も一目見るなり惚れ込んでしまい、子どものために買いました。残念ながら、うちの子はこの辞書をほとんど使わずに本棚に飾ってあるだけなのですが、今見ても、本当にいい辞書だと思います。その理由は、katsさんと同じです。定義をいきなり押し付けるのではなく、例文を通して意味を類推する能力を育てるという点が優れていると思います。例文も、単語の意味が把握しやすい、“いい例文(http://ijustat.at.infoseek.co.jp/nihongo/reibun.html)”になっていると思います。また、この辞書は、同音異義語を点線で括っている点も特徴的です。

小学生用の辞書といえば、『연세 초등 국어사전』(두산동아)は特出していると思います。この辞書は、小学生用のコーパスを使っているので、重要だと思われる語は大体すべて出ています。語彙数も3万5千と、十分すぎるほどです。これは、日本人の韓国語学習者にも自信を持って勧められる辞書です。この辞書の特筆すべき点は、“길잡이말”(=案内語)というもので、同音異義語の見出し語のすぐ後ろに、たとえば、부정【옳음】(不正)、부정【꺼리다】(不浄)、부정【긍정】(否定)のように、【 】の中に入っていて、同音語の中から目的の語に素早く行けるようにしています。このような試みは、どの辞書にも見たことがありません。実際にうちの子に引かせてみると、この“길잡이말”を見て瞬時に同音異義語の中から必要な単語を見つけているので、本当に驚きました。なぜ漢字でなく길잡이말だと分ったかというと、悲しいことに、うちの子は漢字を、覚えようとしないために、ほとんど知らないからです。『くもんの学習国語辞典』はなかなか使わせる機会がありませんが、『연세 초등 국어사전』は事あるたびに引かせて、なるべく辞書に慣れさせています。

From kats( Mail ) To ijustat@chance at 2004 10/03 03:07 編集 返信

RE:呼吸


>呼気(まれに吸気!)と声門の調節によって生じる、
>強弱や高低の変化などで、それは、プロミネンス
>(=卓立)であったり、イントネーションであったり、
>間であったりするわけです。そこに、文字では表せない
>息遣いを感じるのです。

この説明でよく分かりました。呼吸には、広辞苑によると、第2、第3の定義として、次のような意味があります。
(2) 物事を行う微妙なコツ。調子。要領。
(3) 動作を共にする人と人との間の調子。

ijustatさんの定義では第2の定義に近いようですが、私は、言葉が人と人との間で行われることであるため、第3の定義にとらわれすぎていたようです。第3の定義から想像を膨らませると、文化やロジックといった概念とつなげることができるため、間違った理解をしていました。古典ギリシア語と現代ギリシア語の比較の上で「どれも語順はかなり自由なのですが」という言葉に引っ張られ、さらにその後で「隠れ方言」の話が出てきたため、文化的な要因を受ける「マクロレベル」の語順とそれを読む上で感じる何かについて論じられていると思ってしまいました。

もっともこの「マクロレベル」だの「ミクロレベル」という言葉は、私が今そこで作ったといってもいい用語なので、意味不明だと思います。ijustatさんの文章から、私の概念が説明不足であると感じますが、簡単に言うとijustatさんの使っていらっしゃる「文法規則」が「ミクロレベル」であり、それは文化とは無関係であり、「文法規則」では規定していない範疇が「マクロレベル」とでもいいましょうか。そしてマクロレベルの語順は文化の影響を受けます。ijustatさんの定義による呼吸や息遣いはミクロレベルの話ですので、おっしゃるとおり文化とは関係ないでしょう。

言霊に関しては、意味に注意せずに使っていました。その時頭にあったのは、「文を百回読めば意おのずから通ずる」と言って、文章の分析をさせずにただ暗誦だけを勧める一部の先生のことを考えていました。

聞いたことがない言語でも、意味と構造をはっきり自分のものとして理解したときに読み方に一貫した特徴が現れるというのは同感です。それが実際に言語を使用していた人々の呼吸と同一かどうかはここではそれほど重要ではないということも分かりました。

ところで、話がずれますが、学生によっては、意味が今ひとつぼんやりとしているのだけど、それにもかかわらず発音と呼吸の真似が上手なためにあたかもはっきり理解しているかのように読むことがあり、教師もそれに騙されて(?)、学生が理解したものだと勘違いすることがあるようです。会話経験をあまり持たず題材の内容も本人の関心外だが、しかし上手に読みたいという心が勝つと、目から心を介さずに直接口につながったリーディング回路が脳にできてしまうそうで、学習者の私としても教師としての私としても注意しなければいけない点です。

From kats( Mail ) To ijustat@chance at 2004 10/03 03:06 編集 返信

立場による学習方法の見方

ijustatさんの、学習方法を学習者の立場と教師の立場からはっきり分けて分析されている点を新鮮に感じました。確かに立場が見方に影響することがありますね。また、韓国語の文章を読んでいると「〜の立場だからだ」というような表現をよく見るのですが、韓国に住んでいらっしゃる人らしいなとも感じました。

アメリカで日本語を教えたときに「Good morning」は日本語で「おはよう」と言います、と教えたときに、覚えにくい学生がいたので(「おはよう」が覚えられないのではなく「こんばんは」「こんにちは」と混乱していることが多い)、「おはようとOhioは発音がまあまあ似ている、アメリカのオハイオ州はこの学校から見て東にあるから、朝日はオハイオ州から昇ると考えることができる。だから「おはよう」が「オハイオ」つまり朝日の方角と関連していて、だからGood evenningじゃなくてGood morningの意味なんだと分かるよね」と教えました。すると多くの学生がいっぺんで間違えなくなりました。しかし数年して、その学生のうち一人の家に電話をかけると、その子の甥(3歳)が「Ohio」と電話口に向かって叫んでいました。なんでそんなマイナーなアメリカの州を叫んでいるのか不思議でしたが、あとで聞いてみると、その学生が日本語の表現をいくつか甥に教えたそうです。その学生はいつのまにか「おはよう」=「オハイオ」だと思い込んでいて、それを3歳の甥が忠実にコピーしたわけでした。私のせいで間違った日本語を世界に広めてしまった。このとき私は、駄洒落を安易に使うべきではないと深く反省し、駄洒落良くないと思うようになりました。これは教師の立場です。しかし同時に、駄洒落によって語彙力が一時的に増え、それによって日本語の学習の負担が軽くなったような気分的効果により(日本語や英語と全く関連のない言語、例えばフィンランド語やタイ語を学ぶとその気持ちがよく分かる)、日本語が上達した学生もいるので、一概に否定できません。また、私自身は駄洒落も(他の手法も含め)単語力獲得に役立っているので、止めるつもりもありません。これは学習者の立場ですね。

私自身は、英語にteaching onselfという言葉があるように(日本語では自習、独学とは言いますが自教などとは言いませんね)、学習中でも学習者と教師の立場が共存しているように感じていますが、考えてみると、教えていた時期もかなり学生よりの立場をとっていたように思いますね。そもそも私が中学までは教師を志し高校になって教師だけにはならないと思うようになったのは、教師という職業集団独特の伝統的な文化や価値観に同調できなかったからで、それは仕方なく教えていたときも自然と影響しているようです。生徒がやりたい(やりたくない)と言ったら、たとえそれがたぶん失敗するという気がしても、そのとおりにさせてやろうじゃないかという行動をとりました。教師はできるだけ完全であろうとする傾向がありますが、私の最初のクラスでは常に「私はみんなと同じように間違ったことを言ったりしたりすることがあるから、変だと思ったら遠慮なく言ってくれ」と言いました。総じてやっぱり私は学習者の立場が強いようです。

From kats( Mail ) To ijustat@chance at 2004 10/03 03:03 編集 返信

RE:流暢さと正確さ

ijustat様、
特に議論の対象を明確にせず書いていたため、分かりにくかったのをきれいに整理していただき、ありがとうございます。この場合の流暢さは、早く沢山しゃべれる能力ということですよね。私はこれを正確さとの対比で考えたことがなかったんで、今考えがすごくはっきりしたような気がしました。

流暢さが初期段階で大事だと思っていたのは、少しでも早く学習言語で学習言語を習えるようになるため、学習言語の体系で学習言語の語彙を獲得するために学習言語野の種を早く作るため、などの目的で、若干の不正確さを妥協しても沢山話すことが重要と思っていますが、もうひとつ重要な理由があります。

80年代に世界を旅行したときはそれほど感じなかったけれど、今や世界のいろんな都市で、日本人を見たら英語を使ってきます。それはもう見た目だけで決め付けるほど「99.999%の日本人は英語以外の外国語を話せない」であるとか「私たちの言葉は世界一難しいのでそんな言葉を話す外国人なんて居るはずない」という思い込みがあるのではないかとさえ思います。あるいは、英語の練習がしたくて、外国人を見たら誰彼構わず英語を使おうとするのでしょうか。本当の理由はともかく、そんなわけで、たとえこちらが正しい表現で現地語で話しかけても、ネイティブレベルに完璧でない限り、それを確実に理解しているにもかかわらず、英語で返答が帰ってくることが多いです。

例えば韓国で韓国語で話しかけるとき、私の頭は不完全であるけれども韓国語のモードに入っています。それが突然英語で返答されたら、道につまずいて転ぶように思考が一瞬止まってしまいます。それを見た現地の人は「ああ、この人は韓国語は分かるはずもないけれど、英語もできないのかな」という印象を持つのか、さらに英語でゆっくり繰り返したりします(韓国では日本語のときもありますが台湾はそうでもなかったですね)。ひどいときは、店に入るドアを押すや否やHello!と呼ばれたり、「おい、英語できるやついるか」と店の同僚に話しているのが聞こえます(日本で日本語を学ぼうとする英語圏以外の西洋人の気持ちがよく分かります)。外国人が自国語を話すことになれているはずの欧州でも、日本人と見るとまず英語で返してくることが多いです。めげずに例えばフランス語で押し通しているとやがてフランス語に切り替えてくれますが、まるでオシクラマンジュウをしているようで疲れます。ちなみにスイスのフランス語圏にあるホテルに電話をかけたときはずっとフランス語で対応してくれたのに、そのホテルに行くと英語で返答するのですから、明らかに見た目で判断しています。

何が言いたいかというと、学校で自信をつけて、さあ留学して本当の力をつけようという留学生がたぶん最初に体験するのはこういった世界だということです。もし英語も好きで、英語で返答されて嬉しい人は別ですが、留学期間を1分でも無駄にしたくないと考える真面目な学生だったらまことに都合が悪いし、一生懸命勉強した自分の話す言葉が拒絶されるようなショックを受けます。通じないショックはショックでも軽いほうで、通じているのに受け入れてもらえないショックはちょっと深いと思います。

こういう状況で現地語を使いたかったら、ひたすらこちらから沢山しゃべることが不可欠ということです。そうすることで、その言葉で話すという雰囲気を作り出せば、相手が期待どおりにその言葉で返答してくれる可能性が高くなるからです(もっとも十分通じるくらいの発音は必要ですが)。ですから、とにかく間違っても沢山話すという癖は、自分の国で学習しているときから養っておいたほうが得です。
どれだけ話したかで加点するのではなく、どれだけ間違えたかで減点する日本では、ことのほか重要だと思います。

留学先で留学生がまず話し相手として見つけるのは、自国以外の国からの留学生だと考えていいと思います。他国の留学生も言葉を練習したいわけですし、置かれた環境が似ているので話が合います。いきなりその国の人と仲良くなれる人のほうが少数だと思います。現地の学生で留学生がゆっくり話すのを辛抱強く聞く暇のある人は稀です。あるとすれば英語や日本語を練習したいがために近づいてくる学生ですが、現地の学生の日本語力ないし日本からの留学生の外国語力が低すぎた場合、すぐに退屈して友達にまでなれずに終わってしまいます。ですから大雑把に言えば、留学生が最初にできる友達は他の外国人だといって過言ではありません。他国の留学生と交わるのには重要な意味があります。英語、フランス語、スペイン語、中国語などは世界言語であるため、世界のいろんな人がいろんな訛りをで話していて、それをある程度受け入れられる幅がないと、その言葉を使って仕事などできません。アメリカのボストンの英語は全部分かるけど、ドイツ人の英語は全然分からないという人では、企業の活動が世界化した現代では仕事になりません。

そこで、他の国の外国人はその外国語をどのように話しているかというと、かなりブロークンです。その国なりの発音の訛りもあって、聞き取りにくいばかりか、訛りが写ってしまいそうに感じます。もし正確さへのこだわりが頭にあったら、この時点で拒否反応が生まれ、他の外国人留学生との間に距離が生まれます。また、そんな友達に正確に言葉を話そうとするあまりに口数が少なくなると、相手が自分のことを分かってくれなかったりします。また、留学先の語学学校のプログラムも、入門クラスは別にして、それ以外では、多少話せるけど文法や作文がむちゃくちゃなので、それを正しくさせようという観点で教材や指導法が組まれていることが多いようです。そこに、話すのも書くのも殆ど間違えないけれど、話すことはほんのわずか、という学生がクラスに入っても、同じペースで学ぶことができません。事実フランスでは、日本人が登録すると大体ハイレベルのクラスに入れられてしまいます。勿論そんな日本人の大半はそんなに話せないのですが、先生は「このクラスなら話すのも聞くのも全く問題ないはずだ」という前提で授業をし、もし文法が分かったら、「もうこのクラスで学ぶものはないはずだから上のクラスに行きなさい」と言われます。そんな学生にぴったりのクラスなんてどこにもない、ということになります。

ただし、学生にもいろいろなタイプがいます。「言語は通じればいいんだ、間違っていても訛っていても、通じればいいんだ」という概念を持った学生もたまにいます。そういう学生は、相手の表情で何を言っているか分かっただけで、あるいは身振りや状況で相手が分かってくれたというだけで、「私はこの言葉が分かった」と大威張りです。もっとも自分を勇気付ける方法としては有効ですが、問題は本気で「通じれば間違っていてもいい」と思っている人もいるということです。そういう場合においては、正確さがいかに大事であるかを教師が説いてあげることが必要です。ijustatさんが紹介してくださった外国人が作った意味不明な文章を添削させるというのはすごく有効な方法だと思います。

外国語学習者の大半は20歳前後の若者ですから、知的好奇心や水準がかなり高く、一方で外国語での言語運用能力は2歳児と同じで、このギャップをどう克服するかが大切です。2歳の力で最近の政治家の問題を話そうものなら、当然修正してあげられようもない意味不明の文になります。かといって、「言いたいことを押し殺して、別に言いたくはないけれど教科書に載っていることを言いたいと自分に思い込ませる」という操作は、社会に出て顧客や上司にもまれていない、自尊心と理想に燃えて自分ならではの思想を今まさに固めようとしている若者にはつらい作業です。

正確さの重要さに関連して、アメリカで私は生徒に「言語には確かにいろんな言葉を組み合わせて新しい概念を作り出すという創造的な面もあるけれど、学び始めて少なくとも1年間は教科書に出てくる表現を1字1句変えないで正確に覚えること、教科書に出ていないことを言いたい場合は、言いたくなるな、言いたい事を教科書にあわせるように努力しなさい」と言ったことがあります。残念ながら「面白いジョーク」としか受け取ってもらえませんでしたが、何でも大雑把にやろうとするアメリカ人にはちょうどいいかもしれません。これを日本で言ったら、本当に何も新しいことをしない超消極的な学生になってしまいそうで要注意ですが。

先日パリで昔の友達に会いました。彼は数ヶ国語を自分で学習し自由に話し、日本語も十分上手です。その人に流暢さと正確さの話をしたら、「習ったことを使って新しい文を作らなければ駄目だ」と言っていました。新しい文を作るわけですから、おそらく間違えるでしょうが、習ったことを使って作るわけですから、たぶん修正してあげられる程度に通じることでしょう。習ったことを使うので、復習になるし、新しい文なので自分の言いたいことを言っているという実感があります。そして自分で作った新しい文章が正しく通じたら、「この言葉を話せた」という成功体験が生まれ、それが言語学習を継続するために必要な力になるというわけです。ただし、習ったことは限られているので、新しい文を作るにしても、本当に自分が言いたいことからかなりの妥協をしなければいけません。「習ったことを使って新しい文を作る」には正確さと流暢さの微妙なバランス感覚が要求されることだなあと思いました。

なんだか私の主張がどこにあるのかよく分からない長文になってしまいました。。。


From kats( Mail ) To ijustat@chance at 2004 09/30 02:53 編集 返信

入門書から始めない人々

単語力をつけてから入門書を取り掛かるという方法以外にも、音声教材が付いてくる場合はそれをまず最初に10回以上聞いてから入門書に入るのも、入門書をやさしく感じさせる一つの方法といえます。何も準備しないで、文法や単語の説明と同時に今まで見たことも聞いたこともない文章を提示されても実感が湧かないはずですが、あらかじめ(例えその時は意味不明でも)音声を聞いていたら、そのいくつかは耳に残り、これが入門書を勉強しはじめたときに、一つ一つ解明されていくわけですから、高い効果が期待できます。

他に、入門書の中でつまずいたら、いきなり一番最後の章の練習問題か何かを1つだけ悪戦苦闘してやってみて、そのあとに「ああ、苦労はしたけど、これくらいのことならいずれやってやれないことはないな」という実感を持ってからつまづいたところに戻ると、大したことないじゃないかと思えて勇気が湧きます。

それに関連して思い出したのは、ピーター・フランクル氏だったか違う人だったか忘れましたが、新しい外国語を学習するときは、文字の概略と辞書の引き方を勉強したらすぐいきなり新聞を読むんだそうです。また、元上智大学教授のグレゴリークラークという人は、昔中国に居た頃、中国語の教科書は使わずに中国からの短波放送をディクテーションして、それをパズルのように解読していくことから取り組んだそうです。新聞でもラジオでも、この方法ではもちろん1割も理解できないのだろうと思いますが、自分で想像力を働かせて解明していくパズルのようなもんですから、多分楽しいのでしょうし、耳が非常に発達します。それを暫くやってから(よく分からないですが12週間くらい?もっと?)、入門書でも買ってみるそうです。こういう方法は言語によって有効ではない場合もあるでしょうが、人によってはすごく有効だと感じます。

こうしてみると、入門書から初めて、それを初めから終わりまでじわじわゆっくりやっていくのは賢くないように思えてきました。コースに乗っかって勉強させられては本当の上達はないということでしょうか。

From kats( Mail ) To ijustat@chance at 2004 09/30 00:48 編集 返信

スイッチバックについて補足

スイッチバックという言葉は小学3年時に習ったので、どこの学校でも習う一般用語だと思って説明なしに使う癖があって、分かりにくくてすいませんでした。ご指摘のように鉄道用語から来ています。ご存知のことかとも思いますが、念のため補足させてください。

急な山を登る場合、山道は斜面にジグザクに切ってあます。こうすると走行距離は長くなりますが、坂は緩やかになります。方向を変えるとき、車や足で登る場合は「急カーブ」できますが、鉄道は、列車が長いので急カーブができません。そこでどうするかというと、方向を変える地点より多少先まで線路を作っておいて、そこに列車の最後尾が方向転換地点を完全に通過するまで突っ込ませ、一旦停止します。それから「ポイント」という線路の方向を変えるスイッチ装置を使って列車の進む方向を山側に向けてから(そうしないと坂を下ってしまうので)、列車はバックで登っていきます。ある程度登ったら同じ設備と装置で線路の方向を変え、今度は前進します。これを繰り返すことで、列車でも厳しい峠を越えられるというわけです。

実際の列車は斜面を登る場合、機関車が最後尾にあった方が効率がいいので、バックするときの線路も上りにしてありますが(一般に機関車が先頭にあるのは、平地や下り坂を想定して、駆動力があって重たいものが先頭にあるほうが、高速で走れて止まるときも効率よく止まれるようにするため)、逆方向にバックする場合、水平に戻ってもいいわけです。要は、スイッチバックによって高度を維持しながら水平方向に一旦戻ってからもう一度同じ勾配で登りなおすと、最初にスイッチバックした辺りに来たときに数メートル高度を稼いでいるというのが味噌です。

これを入門書の読破に例えると、例えば第5章から急に難しく感じたとして第1章まで戻って学習する場合、それは何も知らなかった頃に第1章を学習したのと異なり、一段高い視点から第1章を読んでいることになります。そのような深い理解で2章3章と進んでいくと第5章が始まる頃には、以前第5章に来ていた時よりも既にかなりの高度を稼いでいるので、なんとか5章も征服できるというわけです。もしまだ高度が足りなければ、もう一度スイッチバックしてサイドアタックすれば、そのうち征服できるわけです。

このように何度も行ったり来たりするのは、種田氏の使っていた「漆塗り」と殆ど同じと私は考えています。漆は一回塗っただけでは本当の色や光沢がでません。塗って乾かしてまた塗って乾かして、これを繰り返すことで本当等の光沢と深みのある色が得られ、過酷な使用条件にも耐えうるようになります。言語学習でも、入門書を何回も読み通すことで、だんだん高度が上がり、中級に移ったときに上達が早いといいます。この場合、1回目はさっと概略をつかむ読み方をして、2回目はじっくり暗記したり練習をして、3回目は自分がどれほど記憶しているか確かめるように読む、というようにアプローチが違います。そして1回目にさっと読めるためには、ある程度知っている単語があるとずいぶん楽になります。そのために、私は事前に単語集で仮暗記をしてから入門書に入るわけです。

From kats( Mail ) To ijustat@chance at 2004 09/30 00:45 編集 返信

くもんの学習国語辞典

先日パリに寄ったときに、日本語(と欧州言語数ヶ国語)を話せるフランス人の友人に会ってきました。彼のアパートで新しい辞典を見つけました。それが「くもんの学習国語辞典」でした。この辞書は、全部の漢字にひらがなが打ってあることのほかに、もう一つ特徴があります。普通の辞書は定義が載っていて、それから例文があったりなかったりですが、この辞書は、まず例文が載っていて、その後に定義が載っているのです。これは面白いと思いました。この辞書は小学生高学年向けに作られているのですが、まず例文を読むことで文脈から知らない単語の意味を類推する力が養われることを狙っていると思われ、素晴らしい発想であると同時に、日本語を学習する外国人(中上級クラス)にもとてもよい辞書だと感じました。語彙数が2万以上で、中には大学生でも知らないと思える単語も載っていて、びっくりですが。

From kats( Mail ) To ijustat@chance at 2004 09/30 00:44 編集 返信

RE:電子手帳

表題が電子「手帳」になっていますね(^_^)。でもこのまま行きましょう。私のをよく見てみたらメトロではなくプライムでした。持っている私が勘違いしていました。(しかし韓国語・日本語の辞書なのに、なんで英語の単語から命名するんでしょうかね...) 

プライムでは、確かに左折はよく説明されていますが、右折は右回転になっています。しかしそれ以外の単語でも、間違いといわないまでも、普通使わない訳語が当てられているところがたまにあるようです。黒板は普通チルパンだと思うのですが、和韓を引くとフクパンという言葉がまず載っていて、その後にチルパンが載っています。幸い例文があるのでいいのですが、要注意です。

電子辞書について私は初級学習者の観点から見た利用方法を述べた印象を与えていますが、しかし初級でも中級に近い学習者、ないしは一度ある言語で中級ないし上級まで学習した人が新たな言語に挑戦するといった学習者など、その言語人ないし辞書の性質を知っている人が使ったほうがいいですね。なぜなら、紙の辞書でも辞書との付き合い方を間違うと弊害があることに変わりはありませんが、電子辞書の場合、媒体ゆえに長所とともに短所もあるからです。紙ならたいていの単語に関して説明が1ページないし見開きの面積に収まるので一望できますが、電子辞書は表示画面が狭いため、最後までスクロールしないで先頭に出てくる定義で満足したり、例文を表示させるにはいくつかボタンを押さなければいけないため、訳語の羅列のページで満足してしまう学生がいるかもしれません。同じく表示面積の関係から、紙の辞書では載っている動詞の活用表などが電子辞書では省略されているものもあります。また、赤線を引きたい人がいても引けません。電子「手帳」のようにいろいろ書き込みができれば便利だなあといつも思いながら使っています。CASIOから出ている韓国語の電子辞書は、キーボードの反応が遅いものがあり、やや不満ですが、CASIOの中国語版は反応が早く、紙の辞書より数倍早く引けます。知りたい単語のあるページまでたどり着く時間が短いと、気分的にもいいし、学習のための時間が有効に使えますよね。

電子辞書について最初に言及したところでは、私の台湾での中国語学習との絡みで書いていました。今から振り返ってみると、中国語辞典というよりは漢字字典のように使っていました。町で見た漢字の発音と大体の意味を確認するためですね。中国語は動詞や形容詞の活用がないので、単語力が言語運用能力に直接影響しますが、日本人にとって漢字や熟語の概念が日本語と似ているものが多いため、読み方だけが唯一の難関と言ってもいいくらいです。その読み方が道端ですぐにいつでも参照できる機動性、履歴をとって後で復習するなどの媒体ならではの特色は、辞書の内容がいまいちだったとしても、それを理由に電子辞書を警戒視してしまうのはあまりに惜しいというのが趣旨でした。韓国語や大半の欧州言語では語形が文法的位置によって大きく変わるので、もちろん電子辞書の機動性は有効ですが、できるだけいい辞書や教科書を使って机で勉強するほうが主になる気がします。電子辞書も、電子メールやインターネットのように、内容を盲目に信用してはいけないことや、媒体ならではの落とし穴もあるけれど、それを分かった上で利用すれば、本当に役に立ちます。

To 氷雨 at 2004 09/22 17:24 編集 返信

ハソカバビ(RE:不快??)

氷雨様、こんにちは。ijustatです。

>先週は”延高戦”でした。
>ijustatさんもご存知かしら?
>私も今学期が最後なんですから
>もう二度と観る機会がなさそうで。。

それは知りませんでした。最近はずっとシンチョンよりもデヒョンドンの方にいるので、なかなかヨンセ大学の雰囲気に気づかないことが多いのです。

>ATM(現金自動支給機:これ、日本語ではなんですか?)
>の前で順番を待っていたら
>前の人が日本人だったのか、日本語でATMの操作をしていました

「ATM」をインターネットで検索してみると、「現金自動払い戻し機」「現金自動預け払い機」「現金自動預払機」「現金自動預金払出機」と、いろいろですね。あるサイトでは、「CD(Cash Dispenser/キャッシュ・ディスペンサ/現金自動支払機)とAD(Automatic Dispository/現金自動預入機)の機能を兼ね備えた機械」という説明が出ていました。支給だけするのは、CDというんだそうですね。調べてみてはじめて知りました。下の住所がその検索結果です。

http://search.yahoo.co.jp/bin/query?p=ATM+%b8%bd%b6%e2&hc=0&hs=0

>それで後ろから覗くと画面に
>”今、処理中しています”と浮かんでいるのでした。

>なんだ。 処理しています とか 処理中です とか
>処理中していますってのは一体なんだ。

いや、それは変な日本語ですね。でもまあ、変な日本語はいたるところにあります。最近は直ってしまいましたが、ずいぶん前、シンチョンのど真ん中にある“제주도 통갈비”の店の看板に、カタカナで「済州ハソカバビ」と書いてありました。「ハソカバビ」って何だろうと思って看板の裏側を見ると、“トンカルビ”と正しく書かれてあります。そういう間違いは、ざらにあります。

>見間違ったのかもしれないので
>今後、その画面の写真を撮って該当銀行へ告げないと。

それがいいかもしれませんね。私も、そのときトンカルビの店に入って食事をしましたが、店員に「하소까바비가 뭔데요?(“ハソカバビ”って何ですか)」と言いました。当然店員は、「그게 뭔데요?(それ何ですか)」と聞き返します。それで、「간판에 일본말로 그렇게 써 있던데요.(看板に日本語で書いてありましたよ)」と答えると、顔色を変えて、そんなことが書いてあるんですかと驚いていました。それからまもなく、その看板は新しいものと取り替えられてしまいました。