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To kats at 2004 09/10 13:55 編集 返信

RE:語彙について

Kats様、書き込みありがとうございます。

言語の学習で困難なのは、覚えられないということの他に、「例え意識的に使ったことがある単語でも人間は忘れます」とおっしゃるように、忘れてしまうという問題があります。忘れることは恵みだと慰められても、やっぱり思い出せなくてはもともこもありません。よく日本語の先生などの中には、学生が語句や表現の意味などを忘れてしまったときに怒っている人もいますが、わたしは決して怒れません。それは、非常に重要だと自分でも分っている事項を、何度も練習したにもかかわらず、思い出せないことがあるし、別の文脈で出てきたら、“あなた誰?”なんてこともあるからです。

そのために、学生の発話の中に、すでに教えた内容の誤りがあったとき、どのように修正したらいいかという研究もあります。それによると、最初は言い間違えたときに、何も言わずに直してあげるけれど、何度か同じ間違いを繰り返した時点で、“?”と聞き返し、答えを教えないのです。すでに説明は聞いているし、間違いを数回直されているので、ここで思い出して正しい表現が言える場合があります。もちろん、それでも思い出さないこともあります。

この方法は、学生が数人になると、いちいち覚えているのも大変でしょうが、大体の流れを知っていれば、全員の言い間違いまで気が回らなくても、比較的うまくいくようです。ただし、ブロークンになってしまっている学生の場合は、今までのところ、手の施しようがありません。こういう学生は、たいてい先生から見捨てられてしまうのですが、本当に上手になりたいと思っている場合には、あの手この手を使ったり、いろいろ勉強方法をアドバイスしたりします。でも、たいていダメですね。原因はいろいろ考えられますが、学生の私生活についてまわるわけにも行かないので、本当のところは分りません。

おっと、単語学習の話が、別の話にすりかわってしまいました(汗)。ところで、Katsさんが、「試験問題の中にヒントのコーナーを設けてはいかがでしょうか。『ヒント:これはXXを勉強していたときに習った言葉』みたいな」というアイデアを紹介してくださいましたが、実は同じようなことを考えて、問題ごとに、その箇所のページを書き込んだことがあります。しかし、これは他の先生たちには不評でした。なぜなら、期末テストはアチーブメント(=達成度)ではあるけれど、結局知りたいのは、そのアチーブしたことでどれだけプロフィシェンシー(=運用能力)が伸びたのかということだ、というわけです。ページ数を教えると、それが変数になって、評価の正確さが落ちるというわけです。まあ、それもそうかもしれません。それで、テストの問題に習ったページ数を書き込むことをやめました。

ところで、単語集で覚える単語を選択する際のKatsさんの基準は、なかなか優れていると思います。もちろん、経験から出たものですから、すでに検証済みなわけで、それを優れているというのもおかしいことなのですが、とても合理的だと思います。たとえば、「短い単語をできるだけ選ぶ。この理由は、後になって習うことになる長い単語の一部にすでに覚えた短い単語が組み込まれていることが多く、あとあと効率がいい」というのは、本当にそうだと思います。短い単語ほど、単一の形態素である場合が多いので、複合して他のもう少し複雑な単語を作る要素になることが多いと思います。英語の場合は、少し難しいレベルになると、ラテン語やギリシャ語から来た単語に鞍替えしてしまうため、ちょっと様子が違いますが、基本的には短い単語がその言語のもう少し複雑な単語の構成要素になることは確かです。また、それだけでなく、短い語というのは、使用頻度が高い基礎語の場合が多いです(セム・ハム系の語は、3つの子音を軸として単語が作られるので、この原則にはなかなか当てはまらないそうですが)。それで、勉強しようとしている言語で単語が短く、なおかつ対応する日本語も基本的な単語だという場合は、ほぼ間違いなく基礎語だといってもいいと思います。

このように、学習準備段階と、初級の段階とでは、ある単語をすでに知っている言語と対応させて理解する以外には方法はないと思います。これは、Katsさんが「単語を語彙ネットワークの中に組み込むその母体がないのですから、どうしても(十分な)文脈なしに既得言語と一対一で結び付けるという妥協は、どの学習方法でも避けられないと考えます」と主張されるとおりです。私だって、ギリシャ語をギリシャ語の説明で理解できるのは、ほんのわずかです。希希辞典をギリシャ語の先生である神父さんからいただきはしたものの、今のところ、知っている単語をひいては、その説明を、希英辞典を引きながら読むのが精一杯です。私の持っている希英辞典は、説明に用いられている語が難しいので、またそれを英語辞書で調べることもあります。最近は忙しくて現代ギリシャ語の勉強がほとんどできずにいますが、コイネー・ギリシャ語だけは勉強しています。こちらは、日本・韓国・アメリカで出た辞書を使っています。重要なのは、訳語を覚えることではなくて、概念を身につけることです。そのためには、初級段階では単語を一対一で学び、ある程度理解できるようになったら、少しずつその言語で説明されたものを用いるようにすべきだというのが私の考えです。しかし実際には、一対一信仰のようなものが学習者の中にはあって、対応する母語で対象言語を考え、「これはおかしい」とまで断言する人もいるのです。日本語を勉強している韓国人の学生の中にもいましたし、韓国語を勉強する日本人の中にも、そういうことを言っている人がいました。そのようになってしまうのは、かなり問題です。でも実際には、露骨に口には出さないものの、心の中でそう思っている人も多いのではないでしょうか。これは、いちいち訳して考える癖があるからです。

そういうことと関連して、辞書の話ですが、私は、辞書(特に対訳辞書)は“悪友”だと考えています。なぜなら、なくてはならない友ではあるけれど、それはしばしば私たちに大小のいたずらをするからです。「大事なのは辞書が絶対正しいとは限らないということを学習者が心に留めているかどうかです」というのは、本当に重要な視点です。また、到底日本語にできない韓国語というのもあるし、その逆もあります。日本語と英語との関係になると、それはもっと深刻になるはずです。辞書の編者は、そのように2言語間で板ばさみになりながら、苦労して訳語を付けているはずです。そのために、訳語は正確なのだけれど、意図せず学習者にいたずらをする結果になってしまうこともあります。韓日辞典と日韓辞典は、その訳語の正確さが、辞書ごとに差があります。多くの韓日日韓辞典が仲良く間違えていることばもあります。たとえば「オキシジミ(=모시조개、正式名は가무락조개)」を「アサリ(=바지락)」だと言われて、納得する人はいないと思います。でも、「アサリ」を「アサリ」だと言っている辞書は、今まで2種類しか確認できていません。(昨夜、農協の大型スーパーへ行ったら、모시조개の隣に바지락が並べて売られていました。それを見ながら、辞書の編者はこんなところへ来ないんだろうなあと思いました。)それでもまあいいとして、前回私が非難した辞書は、あまりにもひどすぎます。たぶんKatsさんも、電子辞書を使っているうちに、私の言っている意味がだんだんお分かりになってくると思います。私は韓日辞典の存在を否定しているのではなくて、できの悪い韓日辞典を非難しているのです。まあ、大部分は問題ないのですが、他の辞書で間違っているところは漏れなく間違い、その他に、時々とんでもないポカをやっているという点で、あれは個性的な辞書です。そのポカは、わりと重要な単語に多いために目立ちます。たとえば、“좌회전”は実に完璧な説明をしていますが、“우회전”の説明は、ちょっとひどいと思います。「ネイティブがそういったから絶対正しいとは言えないですよね」とおっしゃることは認めるとしても、ネイティブの言語能力にもレベルがあります。そのレベルによって、信頼性に差が出てくるはずです。辞書も、正確さに差があるのです。

学生の中には、先生が直すと、「辞書に書いてあります」と言って、先生の修正を認めない人がいます。わたしはそうなる前に、辞書は“悪友”であることを、私の体験から説明し、辞書を使ったあとは、教師や母語話者の修正が必要であることを強調します。私は外国語を一人で勉強することが多く、辞書に関しては人一倍関心があって、何冊持っているか数えるのも嫌なほど(数えられないほどではありませんが)、辞書を持っています。それだけ、辞書は私にとって必要なものです。実に、辞書がなければ、私の韓国語学習も英語学習も、その他の学習も成り立たないでしょう。だから、私は辞書不要論者ではありません。しかし、それだけに、辞書で失敗した経験もたくさんあります。その経験は、とくに対訳辞書で多かったのです。まあ、あまり訳語に神経質になることもないのですが、例の辞書は、特にたちが悪いから、注意して使ってくださいということだけは、申し上げておきましょう。あの辞書を使うことによって、辞書とのよりしたたかな付き合い方を、Katsさんなら身につけることができると思います。何とかと挟は使いようというように、どんなにひどい辞書でも、知恵ある使い方さえできれば、語学力を飛躍的に伸ばすことができるはずだからです。しかし、結果がストレートに出てしまう“ものの名前”に関しては、辞書で調べたあと、余裕があるときに、インターネットの画像検索でその正否を確認した方がいいでしょう。また、生物名などは、学名とつき合せて、一致しているかどうかを調べることもできます。私は翻訳するときに、そのような方法を用いています(初期の学習と、翻訳とでは、一緒にしてはいけないかもしれませんけどね)。

ところで、「スイッチバック方式」という用語は初めて知りましたが、インターネットで検索すると、ほとんど鉄道に関する記事が出てきますね。また、車で坂道を登るときの話も出てきました。ソウルの裏道は急坂が多いのと、私の車はパワーがないのとで、坂を登りきるのに失敗したときは、いつも後ろの比較的勾配の緩やかなところへ戻って、もう一度勢いをつけて登ります。この原理が外国語学習にまで用いられるとは、考えてもみませんでした。しかし、お話を読んでみると、まったくその通りです。こういうものは、分ってしまえば当然のことになるのですが、気がつかない人は、私のように、ずっと気付かないまま来るのです。分らなくなったときは、前に戻ってもう一度やり直す、という方法は、多くの先生方が学生たちに助言される方法ですが、学生たちの多くは、先生がそういったと覚えているだけで、その助言の貴重さに、私のように、気付かないものです。

考えてみれば、同僚の先生は学生に、期末テストで合格しても、抜け落ちの多い学生には、同じレベルをもう一度勉強した方がいいと言っていますが、これも外国語という「スイッチバック」を乗り切る方法だったということを知り、軽い驚きを感じています。先生はそれを“繰り返し”だと思っているし、私も同じように考えていたからです。しかし、それは単なる繰り返しではなく、むしろ“戻ってやり直す”とでも言った方がいい方法かもしれません。それは、覚えるためというよりは、「スイッチバック方式」が、「何かで分からなくなったら一度反対方向に戻って勢いをつけてもう一度立ち向かうと難なく超えることができるということを峠越え電車に例えたものです」とおっしゃるように、難関を楽に越えるための方法といえます。

Katsさんは、むしろその方法を最初から利用されたのですね。「一旦別の材料で肩慣らしをしてからもう一度『XX語4週間』に取り組んだら意外と最後まで行けた」という経験は、おそらく多くの人がしているはずです。私だって、そんな経験はあります。しかし、私はそれを戦略にまで高めようとは考えませんでした。そして、種田輝豊氏もこの原理を利用していることを知り、非常に驚いています。「最初は不完全でもいいからとにかく区切りのいいところまでやる。それから後でもう一度今度はもっと高いレベルで最初から同じものに取り組む」という「うるし塗り」には、実は「スイッチバック方式」の性質を持っていたということは、『より良い外国語学習法を求めて』(竹内理著、松柏社、2003年)でも気づいていなかった方法だと思います。種田氏は、「わたしの体験では、興味につられ、あるいは根気よく読みとおしたこともあり、二十〜三十ページくらいでスランプにおちたこともある」(197頁)と言っています。外国語の学習書は、途中で付いていけないくらいきびしく感じることがあります。特に、練習問題が途中から難しくなることが多いようです。古典ギリシャ語も、途中までは順調ですが、分詞から急に難しくなり、接続法や不定詞まで来ると、他の法の形と混乱してきて、練習問題を読むのがとても苦痛になります。私は、そのときは直説法アオリストの受動態あたりにまで遡ってやり直しますが、最初に戻るということはしませんでした。根がせっかちなせいで、まったく最初に戻ることが、意識的にできないのです。また、いつまた忙しくなって学習が中断してしまうか分らないという不安もあって、そのときまで、できるだけ前に進んでおきたいと考えるわけです。

しかし、私のこの考えには誤りがあります。それは、初級段階で中断した場合、それまで学んだ内容は、実際にはほとんど使えないので、やり直さないなら、完全に無駄になってしまうということです。それともう一つは、どうせ中断したことが無駄になるならば、なるべく最初の部分をきちんと勉強しておいたほうが、後でやり直すときに楽だということです。種田氏の「うるし塗り」は、その点を抑えた学習法だと思います。

さて、ここまで書いてきて、Katsさんと私の、微妙な立場の違いが明らかになってきました。それは、私は教師の立場が強く、外国語を学ぶときにも、その視点がちらついているということです。それに対し、Katsさんは、日本語をアメリカ人に教えた経験はあるとおっしゃいましたが、学習者の立場が中心となっています。日本語教師は、どうしても、日本人の立場だけで外国人の学習者を見てしまいがちです。それに対して、かねがね不満を感じていました。それで、「日本語教師は外国語を学ぼう」なんていう雑文も、書いてみました。そして、外国語を身につけた人たちの本もけっこう読んだし、Katsさんの方法にも、大いに啓発されました。やっぱり、本を読むより、直接会って話したり、手紙(または掲示板)のやり取りをしたりした方が、深くまで分るものです。しかし、その力強い方法に感銘を受けながらも、時々批判的になるのは、私にとって、教師としての立場が重要だからでしょう。まともな辞書でも使い方を誤ると、日本語は下手になってしまいます。それを、問題の多い辞書を使ったら、その学生の作文を添削することは、かなり大変なことです。ある教授法の本には、あまりにブロークンな作文は添削せず、間違ったところや意味不明のところに印をつけるだけで、書き直してくるように指示すべきだとも書いてあります。私は、その考えは正しいと思います。たいていの学生は、辞書よりも、授業で使ったことのある表現を思い出して作文するから、問題が少ないのですが、自分のレベル以上のことを、辞書を頼りに書く学生の作文には、放り出したくなるくらい、ひどいものがあるのです。そういう学生はまた、直されたところをなぜ直されたのか理解し、自分の外国語を改善しようとはしないものです。だから、ブロークンな作文を丁寧に直してあげることは、徒労に終わることが多いのです。

以前私は、日本人が韓国語で書いたウェブサイトの中で、ひどい韓国語のものを見つけました。一読して意味が分らないほどです。しかし、根気よく読んでみると、内容はけっこう意味があります。その人が日本語で書いた文章を見ると、悪くありません。それで、その中から一つを任意にピックアップして、学生に添削させる課題を出しました。どのように直したら意味の通じる韓国語になるか、この日本人の韓国語学習にはどんな問題点があり、どんな点で方法を改善させれば、上手になるかを検討させました。この課題をちゃんとやってきたのは一人だけで、残りの学生たちは、とても直せたものじゃないと言って放棄してしまいました。そのクラスは、最初はずいぶん問題のある作文を出していたのですが、課題はできなかったものの、その後、学生たちの日本語の質が、目に見えてよくなりました。気を付けるようになったようです。夏学期に作文の試験(実際には原文復元の試験)を試みたのも、やはり正確な日本語を使えるようにするためでした。そのように、“外国語ができる”ということでも、教師の立場から見た“できる”は、学習者の立場とは若干違うところがあります。Katsさんが、これは本当にいい方法だと主張されても、私がもう少しそれに改善が加えられないかと思ってしまうのは、このような理由があるわけです。

辞書を一生懸命引きながら作文したらしい意味不明の韓国語で、今でも覚えているのは、“어제 생선을 태워 먹었습니다. 오늘도 옷이 구립니다.(昨日魚を焦がしちまいました。今日も服から汚物の臭いがプンプンします??)”というものです。まさかKatsさんがこんな作文をするとは思いませんが、(“어제 생선을 구워 먹었습니다. 오늘도 옷에서 냄새가 납니다.”と直せば、意味が通じる韓国語になります。韓国語の先生は直せませんでした。これは私が韓国語の先生に直してあげたものです。)学習者はせっせとこんな作文を作ろうとし(私のギリシャ語も同じようなものです)、母語話者の先生は、自然な表現ができるように頭を悩ませます。日本語の授業では、あまり苦労を感じませんが、韓国語の先生たちと話をすると、韓国語では本当に苦労しているようです。正しい韓国語を、自分の辞書を頼りに解釈して、“論理的におかしい”と主張する学生がけっこういるんだそうです。そういう環境の中で形成された、辞書に対する考え方なので、Katsさんからしてみれば、かなり私の意見は異質だと思われるはずです。

日本語教育の本を見ていると、母語話者(または教師)の立場が先立っていて、学習者の立場が希薄です。逆に、外国語学習関係の本を読むと、学習者の立場だけがあって、母語話者(または教師)の立場がほとんど抜け落ちています。どちらもよくありません。私の考えでは、外国語学習の最初の段階では、母語話者よりも学習者自身の立場に重点が置かれるべきで、初級の中ごろから徐々に母語話者の立場を大きくしていき、上級では、母語話者の立場から見た言語能力を焦点に、外国語学習について考えていくべきだと考えています。そういう立場だから、たとえば「日本人がまるで英米人のような発音で英語を話すのは、日本人として好ましくない」という考えには、初めから与していません。一生懸命発音練習をして、それでもできなかったら、自分の下手な発音に甘んじるというのが、私の考えで、基本的には発音は正しくあるべきだと考えているからです。語彙の習得についても、最終的にはそのニュアンスを正確に把握することが目的になっているので、“通じればいい”とは思っていません。“通じればいい”という考えでは、先ほどの韓国語のように、通じないことが多いからです。

というわけで、外国語学習を見る視点が違うと考えも違ってくるという話でした。もちろん私は、どの立場が中心になるべきだとは思いません。教師や母語話者の立場と、学習者の立場のすべてが必要だと考えています。そういう点で、KatsさんとKuronekoさん、そして氷雨さんとの対話から、私は多くのことを学んでいます。(謝辞のつもりです^^;)

To kats at 2004 09/10 13:29 編集 返信

RE:呼吸

Kats様、こんにちは。

最初に私が「呼吸」と書いたとき、それは「息遣い」の言い換えだったわけですが、やっぱり「呼吸」ということばで話を続けていくと、どうもしっくりきませんね。しかしこれは、文字通り息を吐いたり吸ったりする“呼吸”と、言語との関わりあいに関する話なので、書きながら“呼吸”になったり“息遣い”になったりしてしまうかもしれません。

>書いた人の呼吸や息遣いを感じることができるのは、その言葉を聴いたり言ったりして生きてきた経験があるからだと思うのですが、そうだとすると、外国語学習者は学習言語の国に行って生活するまでは、その呼吸を感じることはできないのではないでしょうか。

考えてみたら、ことばを発するときに生じる息遣いというのは、人間の生きる営みとほぼ一緒に行われるわけだから、底知れぬ深みがあるんでしょうね。私は自分が感じた部分についてだけ話していたので、Katsさんが感じ、また考えておられる「息遣い」に、私は気が付いていなかったり、理解していない可能性があります。

私が感じていたのは、呼気(まれに吸気!)と声門の調節によって生じる、強弱や高低の変化などで、それは、プロミネンス(=卓立)であったり、イントネーションであったり、間であったりするわけです。そこに、文字では表せない息遣いを感じるのです。これは、テキストとしての記号を音声として相手に伝えるときに、なくてはならないものです。それは、本物の母語話者が発している場合もあるし、本物の発音を知らない人が発する場合もあるでしょう。たとえば、お話にもあったように、古語などは、現在話されている言語ではありません。また、エスペラント語のように、計画的に作られた言語もあります。私は古典ギリシャ語を音読するとき、現代ギリシャ語の音声で読んでいます。日本のギリシャ語学習者は主に“エラスムス式”と呼ばれているらしい、紀元前4世紀ごろの推定音で読んでいます。これらはいずれも、当時の音と違うか、または正しいという保障もないものです。しかし、いずれの場合にしても、意味を理解してそれを音声で伝える場合、何らかのプロミネンスやイントネーション、間などの韻律が生じます。そこに息遣いが生きてくるわけです。

ただし、そういうものをまったく解せずに棒読みし、さらに、このような韻律をでたらめに発して話したり音読したりした場合、話す人が意味をよくわかっていない分、聞いている人も、聞き取るのに苦労するはずです(発音には目をつぶるとしても)。私は前回、「テキストを棒読みにするのを聞くと、その“呼吸”は死んでいるように感じられます」と書きましたが、考えてみれば、それは呼吸が“死んでいる”のではなく、呼吸が“ぎこちない”と言った方が、私の考えの中では正しい表現かもしれません。Katsさんが「息遣いが感じられない」とおっしゃった英語の例文は、たしかにとても事務的で人情味のかけらもありませんが、私の考えている意味では、意味を理解して読んでいるなら、そこに息遣いがあるのです。

この息遣いは、純粋に統語的な規則に乗って流れているわけではありません。たとえば、日本語の動詞で言えば、「食べる」の否定形は「食べない」ですが、強調する場所は“ない”ではなく、“べ”です。これは、形容詞や名詞などでは「おいしくない」や「それじゃない」が「ない」を強調するのに対して、かなり形態論的な制限を受けていると言わざるを得ません。これを“文化”と呼ぶこともできるでしょうが、むしろ文法規則として、文化とは切り離して考えた方がいいと思います。まあ、こういう規則は同じ言語でも、時代とともに変化します。例えば、古典ギリシャ語の否定を表す“ου”という語は固有のアクセントを持たず、後ろの単語にぴったり付いて発音されたのですが、現代では古典ギリシャ語を発音する場合も、“ου”を独立の単語として、アクセントを付けて発音します。これも、一種の語順の流れ方と取ることができると思います。私はこれを“文化”とは考えません。文法規則によって、音韻的に1語になっていたり2語になっていたりするのだと思います。それは、息遣いの流れに影響を与えます。(ロジックが文化なら、個別言語の文法規則は文化の概念に引っかかるかもしれません。しかし、文法規則は人間という種に固有の統語能力に支えられているもので、そこまで文化と呼ぶのはちょっとどうかと思います。そして、文の息遣いを決定するのは、根本的には統語能力だと私は思っています。)

つまり、言語を口から発する場合、大抵は呼吸を伴っている以上、本物であってもニセモノであっても、滑らかであってもぎこちなくても、または無味無臭の文章であっても、呼吸はあると考えるわけです。ちょっと、同語反復みたいな変な言い方になってしまいましたが、その言語特有の語順や言い回しが、話したり読んだりするときの呼気を、韻律を通してコントロールしているということです。そこから感じる雰囲気を、“呼吸”と言ったり“息遣い”と言ってみたりしたわけです。そこにも何らかの文化的な影響はあるでしょうが、根本的には普遍的な人間の意識が影響していると思います。

まあ、話し言葉はほとんどが呼吸を伴いますが、呼吸を伴わない話し言葉も聞いたことがあります。喉頭癌の手術を受けて声帯を切除した人が、振動する機械を喉に当てて話していたのです。韓国に初めて旅行で来たとき、私は体の不自由な人たちの世話をする役割で来ました。そしてその人との会話は、その機械を通して行われました。聞き取るのにちょっと苦労しますが、いちおう何を言っているのかは理解できる音でした。

ところで、私が考えている「呼吸」は、「言霊」とは関係ないと思います。「ことだま」という語が示すように、日本語は「言(こと)」と「事(こと)」が同じ語です(同じ“音”ではありません。同じ“語”なのです!)。それによって、発せられた言語と外界の事象とが、超自然的な関係を持っていると考えるのが、「ことだま」の思想だと、私は理解しています。これは、言語が人間の精神に与える影響の強さを考えれば、一部は説明がつきますが、「ことだま」思想では、もっと広く、人間でない自然界や、その言葉を聞いていない人にまで、言語が影響を与えると考えられているわけです。私は言霊思想にはとても関心がありますけれど、言語の仕組や言語の習得について考えるときには、注意深く避けています。Katsさんはおそらく、そういう意味では「言霊」と言っておられないと思います。いや、もしかしたら、そういう意味で考えておられるのでしょうか。(笑)

今回まで何度か言語の「呼吸」または「息遣い」というものについて議論してきましたが、これは普段ほとんど話題にされていないことですね。でも、重要な問題だと思います。極端な考え方ですが、私は“文の意味”すなわち“息遣い”だと考えています。その理由は、これまでお話してきたとおりです。そういう意味で、私がコイネー・ギリシャ語を学ぶとき、その息遣いを味わっているのではなく、なかなか息遣いが感じられてこないので苦労しているのです。意味が分らないと棒読みになり、意味が分ると自然と適切な位置にプロミネンスが置かれるようになります。逆に言えば、音読に慣れてきて、自然とプロミネンスを置いて読んだとき、意味が理解できたという、Katsさんの経験されたことと同じ経験を、私も日常的にしています。そういうものが、語順を“息遣い”または“呼吸”の脈絡で感じた直接のきっかけです。CDなどで実際の音声を聞ける言語なら、その発音の息遣いも、何度も聞いたり真似したりすることで、容易に理解できるのですが、実際に聞くことのできない古典語は、意味を理解してから、そこに自分で息遣いを感じなければなりません。しかし、“文の意味”すなわち“息遣い”だから、これを疎かにすべきではありません。この“息遣い”という性質を利用することは、文の意味へしっかりと立ち入るための、一つの方略にまで、洗練させることができると思います。

どうも、私が長文になってしまうのは、言いたいことがうまく言い表せなくて、整理が付かなくなる結果のようです。整理はできていませんが、全体の内容から、言いたいことは理解いただけたでしょうか。

To 氷雨 at 2004 09/10 13:27 編集 返信

RE:ごちそうさまでした??

氷雨様、こんにちは。ijustatです。

>最近、格会社の入社原書を書きながら
>外国語の点数が多くて本当よかったと思いました。
>(高いのではなく多い。Toeic JPT 日本語能力試験の三つ
>普通は英語の点数一つしか持っていないので)
>その上、ひとつびっくりしたのがあったんですけどそれは、

>SSAT(Samsung職務能力試験)で漢字能力試験認証書を持っている
>人には他に加算点を与える。
>をを!ナイス! 今まで”そんなの持って何すんだ!”
>と侮られたものがこの時輝くとは!

本当に、何が役に立つかは全くといっていいほど、分りませんね。私が韓国語を勉強したときも、何のために勉強するのかとよく聞かれましたが、韓国で仕事をするとき、大いにプラスになっています。言語的技能は、どこの国のいつの時代のことばでも、漢字でも、今は使わないような原始的なプログラム言語でも、きっと役に立つと思います。そういう意味で、氷雨さんはとても得をしましたね。(笑)

>とにかく、タイトルの解釈を。
>日本でも食事のあと普通にする言葉なんですけど
>もし食堂でも使えるのでしょうか。
>つまり、自宅でも食事とか招待されて食事をする場合ではなく
>自分で金を払って食堂で食事をした後も
>食堂の主人に言ってふさわしいのですか。

>韓国語では僕も食堂でよく使うんですけど
>日本語でもできるかどうか。

はい。日本語でも、食堂などで会計するとき、「ごちそうさま(でした)」と言うのは、ごく普通のことです。韓国でも“잘 먹었습니다.”と言うことが、よくありますね。むしろ日本語でお店の人に「ごちそうさま」ということの方が、多いのではないかと思います。ある人は、自分がお金を払って食べたのだから、お店の人に“잘 먹었습니다.”とは言わないと言っていましたが、やっぱり食堂で観察していると、言っています。どんなとき言い、どんなときあまり言わないのかが、韓国語では気になるところです。

From 氷雨( HP ) To ijustat@chance at 2004 09/10 11:16 編集 返信

ごちそうさまでした??

ijustatさん こんにちわ 氷雨です

最近、格会社の入社原書を書きながら
外国語の点数が多くて本当よかったと思いました。
(高いのではなく多い。Toeic JPT 日本語能力試験の三つ
普通は英語の点数一つしか持っていないので)
その上、ひとつびっくりしたのがあったんですけどそれは、

SSAT(Samsung職務能力試験)で漢字能力試験認証書を持っている
人には他に加算点を与える。
をを!ナイス! 今まで”そんなの持って何すんだ!”
と侮られたものがこの時輝くとは!

とにかく、タイトルの解釈を。
日本でも食事のあと普通にする言葉なんですけど
もし食堂でも使えるのでしょうか。
つまり、自宅でも食事とか招待されて食事をする場合ではなく
自分で金を払って食堂で食事をした後も
食堂の主人に言ってふさわしいのですか。

韓国語では僕も食堂でよく使うんですけど
日本語でもできるかどうか。

ではでは

From kats( Mail ) To ijustat@chance at 2004 09/07 10:05 編集 返信

RE:語彙について

Ijustat様、
お答えありがとうございます。以下、長文ですいません。

>もしかしたら、同じ学校だったのではないか、

それは絶対にないですね。数年前までは違法労働者受け入れ加担が主の幽霊学校だったそうですから。台湾で中国語教育が有名かつ進んでいるのは師範大学です。ほとんどの優秀な語学留学生はそこで学びます。Ijustatさんのお知り合いの方もきっとそこで学ばれたのではないかと思います。ただ、私の学んだところは師範大学作成の教科書を使っていましたし、多くの中国語教師が師範大学の指導法を模範にしているので、教授法にも多少類似性があるかもしれません。

>会話の授業では、教師はなるべく話す量を減らした方がいいというのが

会話の授業では、「間違ってもいいからとにかく話すことに慣れさせる」という意味もありますから、教師がしゃべりすぎてはいけないというのはよく分かります。ただ語彙の説明を対象言語で説明している場合は、その時間は無駄ではなくむしろ有効だと思いますよ。

>実際には説明したことをよく覚えている学生は2割程度で、それがテストに表れてしまいます。

たぶん大半の学生は、もう一回説明されれば「ああ、聞いたことがあった」と思い出すかもしれませんよ。意識化に眠ってしまったのだとしたら、そうなったのはたぶん説明の後に自分で考えた例文で実際に使ってみなかったからではないでしょうか。それと、例え意識的に使ったことがある単語でも人間は忘れます。忘れたらなかなか頭から出てきませんが、台湾で習った単語は、一つ思い出すとそれに関連する単語が全部芋づるのように出てきます。試験問題の中にヒントのコーナーを設けてはいかがでしょうか。「ヒント:これはXXを勉強していたときに習った言葉」みたいな。


市販の単語集について:

>最初に500語程度の単語を覚えるとき、制限時間はどのくらいにしているのでしょうか。

大体最長でも1週間でしょうか。目的が入門書の読破を楽にすることですから、気分的にそれ以上待てないです。早く入門書やりたいし。ちなみに、言語によってはちょうどよい単語集がなかったりして、逆に入門書の巻末に新出単語索引が付いている場合はそれを利用します。

>この方法は、きっと“自分はこの単語を使いたい”という動機に支えられていると思います。だから、他の単語に比べてずっと覚えやすいはずです。

そうですね。それと他にも選択基準があります。

* 短い単語をできるだけ選ぶ。この理由は、後になって習うことになる長い単語の一部にすでに覚えた短い単語が組み込まれていることが多く、あとあと効率がいい。

* たまたま覚えやすい単語を選ぶ。たとえあまり使いそうでなくても、頭に入ってしまった(難なく入りそうな)物を排除する理由はありません。

* 既得言語に類似する単語も計算に入れてよい。これはズルイと見えるかもしれませんが、とにかく1週間後に「私は既にこの言語の500もの単語を知っている」と誇れて、気分的によい。

* 言語にもよるが、だいたい名詞を優先的に選ぶ。名詞は多くの言語で動詞や形容詞に比べ変化が少ないので、母国語の中に勝手に外来語として組み込んで(記憶の目的で)使うことができるし、会話を聞いていても名詞を知っていれば何の話題かぐらいは分かるので、有利。

>動機付けに最も重点を置いていて

一人で勉強する場合、いかに自分を駆り立てるか(褒めたり慰めるか)がすべてといってもいいですが、学校の場合多くの学生はそのような自己暗示・気分の調節方法を知りませんから、動機付けが重要ですね。

>外国語と既得言語を一対一で結び付けても意味がない」とか「文脈なしに覚えても意味がない」(中略)外国語の上達には深刻な障害となるものだからです。

重要なのは、今が入門段階ということですね。入門段階ではこれから学ぶ言語の同意語・類似単語との差、概念や文化的背景などがないわけですし、例文を作る能力もない。したがって単語を語彙ネットワークの中に組み込むその母体がないのですから、どうしても(十分な)文脈なしに既得言語と一対一で結び付けるという妥協は、どの学習方法でも避けられないと考えます。いくら母国語で進出単語の概念を正確に把握しようとしても、それは母国語での語彙の増加に過ぎないと思いますし。

>新出単語に対する免疫を学習前に作って、学習を容易にしています。このようなすごい方略(strategy)を、一体いつ、何を機会に手に入れられたのでしょうか。

そんなすごいものだとは思いませんが、私が入門書を読む忍耐力が足りないからだと思われます(笑)。私が昔よく入門書として使ったのが大学書林の「XX語4週間」でした。これはとてもいい学習書ですが、なんだか東大や東外大のような記憶力の優れた学生に向けて書いているのか、新しく覚えることが多すぎて、私の頭は完全に飽和状態でした。これでは行かんと思って、一旦別の材料で肩慣らしをしてからもう一度「XX語4週間」に取り組んだら意外と最後まで行けたからです。

>どこまでも、自分の考える“正攻法”でかかろうとするので、どうしても要領が悪く、学習の時間が長くなります。

語学に関係のある仕事をされる場合、語学に避ける時間も豊富だと思うので、地道な方法でも継続していけばすばらしい成果が期待できます。わたしは種田氏の「漆塗り」という概念が好きです。最初は不完全でもいいからとにかく区切りのいいところまでやる。それから後でもう一度今度はもっと高いレベルで最初から同じものに取り組む。これは私が小学三年生のときの担任だった先生のおっしゃった「スイッチバック方式」にも通じるものがあります。何かで分からなくなったら一度反対方向に戻って勢いをつけてもう一度立ち向かうと難なく超えることができるということを峠越え電車に例えたものです。


電子辞書について:

>Katsさんが見せてくださった電子辞書には、『새국어사전』が入っていました。あれは、とてもいい辞書です(ここで話題にした辞書は、すべて두산동아のものです。電子辞書にいちばんいいコンテンツを選ばない理由はいったい何なんでしょうね。)。

私の電子辞書には『새국어사전』のみならず、두산동아のたぶんメトロという辞書も入っています(笑)。実はある日本語の分かる韓国人に見せたとき、この訳語は普通使わないなどと言っていました。でも私のレベルではそれでもまだ意味があるのです。大事なのは辞書が絶対正しいとは限らないということを学習者が心に留めているかどうかです。これはネイティブスピーカにもいえます。ネイティブがそういったから絶対正しいとは言えないですよね。それと同じで、辞書を参考程度に利用して、実際に使っておかしかったら自分の理解を修正するようにすれば電子辞書にも寛容になれると思います。できの悪い辞書が登録されるのは、誰が最初に電子化したか、どこの会社が商売が上手だったかなどが大きな要因と考えます。Macintoshが当時優れていてもBetaが画質がよくて小型でも、IBM式PCやVHSが世界を席巻していくように。

>外国語の学習は、入門から初級の項目を終えるまでが、いちばんエネルギーを使うと思います。だから、なるべく早く中級段階に入ってしまうことが望ましいはずです。

まさに私の真意を汲んでいただき、ありがとうございました。

From kats( Mail ) To ijustat@chance at 2004 09/07 10:01 編集 返信

RE:呼吸

Ijustatさん、


たった一つの言葉にこれだけ丁寧に説明していただき、さらに言葉の音やその裏に流れる「何か」について敏感なijustatの感覚に感銘しました。関係あるかどうか分かりませんが、言霊という概念を連想しました。それから、例えば英語を読んでいて(普通は声を出さないで)、ふと意味がよく分からなかったりしたときに声を出して何回か読むと「ああ、なんだ、そういうことか」と分かることがあります(これを学校の試験中にできないのが残念ですが...)。これも書いた人が語りかけているような臨場感や息遣いがヒントになって、その意味に気づけるのかもしれないと、今思いました。

さて、ここで終わっては面白くないので(^^)、ひねくれものの私はまた一つ余計なことを。書いた人の呼吸や息遣いを感じることができるのは、その言葉を聴いたり言ったりして生きてきた経験があるからだと思うのですが、そうだとすると、外国語学習者は学習言語の国に行って生活するまでは、その呼吸を感じることはできないのではないでしょうか。仮に外国語教師が授業中にできるだけ魂を込めてテキストを読んで聞かせたとしても、それは授業という環境での体験であって実体験ではないので、本当の意味で呼吸を学生は感じているのだろうか、と思ったりします。さらにこの調子で考えていくと、古代言語の場合、その時代に生きてみるということは不可能ですし、録音録画されたものを見るということさえ叶わないので、自分が今読んでいて感じている呼吸が果たして妥当かどうかという疑問がわいてきます。これは高校のときに古文や漢文を勉強させられていたときに常に感じていました。これはどのように解決したらいいんでしょうか。古代ギリシア語を息遣いを味わっていらっしゃるijustatになんだか挑戦しているようによ読めてちょっと怖いですが(汗)、純粋な疑問です。

方言の話が出ていましたが、よくドラマで俳優が方言を習ってしゃべっていますが、「方言として語彙も文法も抑揚も正しいといえば正しいんだけど「何か違う」、この俳優は一回も(例えば)九州にきたことがないな?」と感じることがあります。

>ただし、「文化的背景」とは、直接の関係はないと思います。

間接的には大いにあると思います。『会話の日本語読本』を読んでいないので何とも言えませんが、おそらく「隠れ方言」こそが私が「文化的背景」といったことの一例です。文化という言葉は意味が広く人によっても定義がまちまちですが、少なくとも米語ではcultureと言った場合、「特定の集団に大体共通する考え方」すなわち「ロジック」をも指します。普通日本人は「文化」を考え方という意味で使っていませんが、「文化」という言葉は確か明治の人がcultureを翻訳するときに作った造語なので、文化=cultureとして先の書き込みで使ってしまいました。ご存知のようにcultureは「培うもの」というのが原意で、集団に属する人の考え方も培われて継承されていくものであり、それが別の集団の考え方と多少でも違いが認められればcultureと考えます。その考え方に多少なりとも影響されて様々な文化的様式(ritual)や造形物(cultural artifact)が現れるといえます。Ritualやcultural artifactをhard culture、考え方やロジックをsoft cultureと読んで区別する人もいます。ですから、私がijustatさんの説明を正しく理解しているとしたら、東京でない文化的背景が東京的でない「呼吸」を台詞文の中に見出すことができるのではないでしょうか。

余談ですが、作者の息遣いがまったく感じられない本もあります。それは例えば取扱説明書の大半です。

1. Click Browse to find the file you need to open.
2. Click Open to open the file.
and so on.

なぜかというと、書くほうも何の気持ちも載せずに書いているからです。語順も句読点も何もかも、早く情報を見つけやすいように、誤解を避けるように、用語が正確に使われているように、ただそれだけを考えているからです。しかし、この中にも、なぜこのような語順にしたのかを考えていくと、そこに「文化」的背景が見え隠れします。例えば、上記の例文を次のように書いても意味は同じです。

1. To find the file you need to open click Browse.
2. To open the file click Open.

このような語順を用いる説明書には、おそらく「何のための操作をするのかまず意味づけをしてやったほうがいい」という考え方が影響していると考えられます。逆に最初の例では、文章は短ければ短いほどよい」そして「読み手は解決法だけ知りたいはずで、操作の意味はどうでもいいはず、あるいはそれは読み手が知っているはず」という考え方の基に書かれていると考えられます。そしてこれはその書き手個人の考え方というより、その説明書を作っている会社なし業界すなわち集団の考え方に沿っているはずなので、文化と考えることができると思うのです。でもこれは「息遣い」や「呼吸」はまだ感じられません。ただし、次のように書いていた場合、どうでしょうか。

1. First you need to find the file you want to open so click Browse.
2. Then to open the file click Open.

この場合は語順だけでなく単語も若干追加されていますが、文章に初めて「息遣い」を感じることができます。きっと「もっと分かりやすい説明書」を模索する書き手が、あるいは説明書業界に染まっていない人が一生懸命書いたんだろうなという感じがします。


To kats at 2004 09/05 15:29 編集 返信

RE:語彙について

Kats様、書き込みありがとうございます。

語彙の習得は、外国語学習の中でいちばん時間がかかり、おそらく多くの人たちが、文法の習得よりも困難を感じているのではないかと思います。そういう人たちにとって、Katsさんの方法は、吉報だと思います。紹介してくださった、台湾での語彙の授業と、単語帳の使い方、そして電子辞書の話は、すばらしい語彙習得方略です。

語彙の指導について:

台湾での中国語の授業で思い出したのですが、以前ヨンセ大学の語学堂にいたころ、同僚の先生が昔台湾に住んだことがあって、そこの授業はすばらしかったと言っているのを聞いたことがあります。その先生は、韓国語は職場の語学堂で勉強したけれど、どうも自分には合わなくて、中国語ほど上手にはなれないと言っていました。私から見れば、その先生は韓国語も流暢に話していたのですが、中国語はもっと自信があるようでした。Katsさんが紹介してくださった中国語の授業もすばらしいので、もしかしたら、同じ学校だったのではないか、なんて考えてしまいました。語彙を実際に使わせて身に付けさせ、さらに関連語も教えるというのは、とても理にかなった方法だと思います。以前私は、「反対語は何か、類似語はないか」などに触れることは、もしかしたら、学生にとっては負担になってしまうのではないかと危惧したことがあります。会話の授業では、教師はなるべく話す量を減らした方がいいというのが、私の基本的な態度だからです(実際にはよく話しますが)。しかし、Katsさんのお話を伺ってみて、そうではないこともあるという事実を知りました。(実際には説明したことをよく覚えている学生は2割程度で、それがテストに表れてしまいます。)

市販の単語集について:

単語集の使い方は圧巻です。おそらくほとんど誰も思いついたことのない方法だと思います。学習書に入る前に、発音だけ勉強した直後にいきなり単語集に飛びかかるというのは、意表を突いた方法と言わざるをえません。しかし、その覚え方には思わずため息が出てしまいました。自分が覚えたい単語だけをまず選るというのは、簡単そうで、なかなか思いつかないことです。なぜなら、単語集の著者は、たいていは読者が、全部を、頭から学ぶことを期待していて、序文にもそのように書くことが多いので、ついその話に乗ってしまうからです。ところで、この方法で、最初に500語程度の単語を覚えるとき、制限時間はどのくらいにしているのでしょうか。たとえば、いくらなんでも1日では無理でしょうけど、1週間ぐらいとか、あるいは3日とか……。

この方法は、きっと“自分はこの単語を使いたい”という動機に支えられていると思います。だから、他の単語に比べてずっと覚えやすいはずです。語学堂に比べて、言語教育院の学生たちは、喋れるようになる速度がはやく、しかもわりと正確で、実力が長く持続します。それは、教材が学生の身近な内容で、学生が語句を選んで使えるような練習形式になっているからだと思います(ドリル→読解→フリートーキング→ロールプレイ)。語彙や文型のシラバスは、語学堂の方が緻密に編まれていて、言語教育院は、初めは私の目にはずさんに見えたものです。しかし、結果は私の期待とはまるで正反対でした。この教授法を開発した当時の院長は、“動機付け”に最も重点を置いていて、私が入るときの面接試験では、院長から直々に「動機付けについて具体的にどんなことをしていますか」と聞かれたほどでした。学習者の内部から起こる動機に支えられた外国語学習は、成功する確率が高くなります。しかも、学習効果が持続しやすいものです。Katsさんは、単語集の利用においても、その原則に忠実に従っています。そして無駄がありません。

私自身は、これからも、「外国語と既得言語を一対一で結び付けても意味がない」とか「文脈なしに覚えても意味がない」とか、つべこべ言い続けるつもりです。やはり、それらは外国語の上達には深刻な障害となるものだからです。しかし、Katsさんは、同じことをしていながら、そこに隠れた文脈があるし、“一対一”でも終わらせていないのです。「ここで覚えた単語は、あとでじっくり総合的に(定義、文脈、文法事項、関連語など)覚えなおさなければいけません」と言っておられるように、結局、上で述べられた方法による弊害があったとしても、あとできれいに解決されることになるわけです。以前の書き込みでもご覧になったかと思いますが、Machen氏は、“The learning of lists of words, unless the words so learned are actually used, is a waste of time.”(New Testament Greek for Beginners, p.ix)と言っています。これに対し、Katsさんの学習方法は、単語の目録から覚えても、能動的に選択しています。たぶん、自分で選んだ単語は、それを使う前から、すでに心の中で使っているのだと思います。そして、忘れる前に実際に入門書の中でも使うことになるので、決して時間の無駄になっていません。しかも、目録の持つ一覧性を十分に活用しています。さらに、新出単語に対する免疫を学習前に作って、学習を容易にしています。このようなすごい方略(strategy)を、一体いつ、何を機会に手に入れられたのでしょうか。そのことにむしろ興味をそそられます。

ところで、私の語彙習得観は、初級よりもむしろ中級以降に偏っていて、どれだけ概念を正確に把握できるかという点に関心が集中していました。それで、すでにある程度できるようになった韓国語の学習にはとても役に立ったけれど、新しい外国語を身につけるときには、足かせになっていました。英語もそんなわけで、ずっと手が付けられない状態で、避けていたのですが、どうしても必要になってきたので、少しずつ使っているうちに興味が湧いてきて、英語の単語に対する恐怖心と拒絶反応がなくなってきたのです。そのあと、英語は文字が発音を表さないことを強く感じ、どの語も発音記号が書けるようにすべきだということに思い至って、最初から発音中心でやり直しを始めたら、英語を理解するのが少し楽になり始めたのです(最初からといっても、“Oxford Bookworms Library”のCD付きの本と、高校生用の作文教材、それと辞書は、イギリス英語の発音を調べるために、主に“Collins COBUILD Lerner’s Dictionary”と“Pocket Oxford English Dictionary of Current English”を使いました。それでも、“ask”や“post”、“although”、“to”などまで、辞書で発音やアクセントを調べるのですから、“最初から”と言ってもいいと思います。中学校の英語教科書は、古いものを1回拾い読みしただけでしたが、それもやはり発音に注意しました。日本の中学校教科書は、イギリスとアメリカの両方の発音が載っていて便利です。)。しかし、どこまでも、自分の考える“正攻法”でかかろうとするので、どうしても要領が悪く、学習の時間が長くなります。自分のスタンスは基本的に正しいと思いますが、方略的には未熟なものです。それで、Katsさんの魅力的な学習方略から、かなり目を開かせられました。複雑な手続きを必要としないという点が、特に優れています。外国語学習には、いくつかの成功要因がありますが、それをどのような方略で実現していくかということになると、ひらめきが必要です。私にはそのひらめきが、足りません。

電子辞書について:

電子辞書は、実は今まであまり関心がなかったのです。その理由は、コンピュータ用の電子辞書や、インターネットで提供されている辞書のようなものの延長として考えていたからです。また、韓国語に関しては、日常的にほとんど辞書を必要としないことも、電子辞書に無関心だった理由かもしれません。しかし、Katsさんの使い方には、語彙習得の方略がありました。種田輝豊氏は、街角で気になったらメモをして、あとで調べると言っています。しかし、電子辞書があれば、その場で調べることができ、さらに、調べた単語の履歴が表示される機能があって、それを単語学習に利用しているという周到な方法も学びました。もし種田氏が今『20ヵ国語ペラペラ』を書いたら、電子辞書の効率的な使用についてもきっと言及していたでしょうね。

実は、韓国で売れ筋の日韓・韓日辞書は、メトロという두산동아から出た小辞典なのですが、これがひどくいい加減な代物で、日韓も韓日も、訳語の質にむらが多く、特に注意を要する語になると、もうめちゃくちゃです。私はこの辞書の編者は出版社に何か恨みでもあるのではないかと疑っているくらいです。それが、韓国の電子辞書のほとんどに使われているわけです。また、英韓・韓英にも問題があって、ギリシャ人の神父さんに韓国語を教えたとき、分らない単語を神父さんは自分の電子辞書で調べるのですが、検出された訳語を見て、その韓国語は理解できないということがよくありました。私が持ってきた紙の辞書を見せて、それでやっと納得する始末です。それで、電子辞書に対する印象がとても悪かったのです。しかし、これはコンテンツの問題なんですよね。Katsさんが見せてくださった電子辞書には、『새국어사전』が入っていました。あれは、とてもいい辞書です(ここで話題にした辞書は、すべて두산동아のものです。電子辞書にいちばんいいコンテンツを選ばない理由はいったい何なんでしょうね。)。私も、学生の立場を理解するという観点から、電子辞書を使ってみる必要があると思います。学生たちの大部分は、電子辞書を使っていますから。

外国語の学習は、入門から初級の項目を終えるまでが、いちばんエネルギーを使うと思います。だから、なるべく早く中級段階に入ってしまうことが望ましいはずです。中級からの方略はとりあえず置いておいて、まず入門期から初級段階での学習方略をまじめに考える必要があると、Katsさんの書き込みを読み、返事を書きながら、気がつきました。

To kats at 2004 09/05 15:46 編集 返信

呼吸

Kats様、ご質問ありがとうございます。

>「呼吸」という表現が具体的に何を指しているのかちょっと分かりにくかったのですが、話者と聞き手の言葉以外のシグナルのやり取りのようなことでしょうか、話者のいかに劇的に(あるいは明瞭に)話そうとする姿勢や気持ちのことでしょうか、それとも何かリズム感のような感覚でしょうか。

確かに、何の説明もなく「呼吸」と言い放ったのは、読む人を当惑させてしまったかもしれません。この語は、その直前に使った「息遣い」の言いかえなのです。私は、同じ語の反復を避けるために言い換えることを勧めている文章読本に対して、疑いの念を抱いているくせに、自分はどうやら平気で言い換えをやっているようですね。

ご質問の語は、私が言葉というものに触れながら感じているもので、それをいう表現が見つからずに、とりあえず「息遣い」とか「呼吸」とか言ってみたのです。それはどういうものかというと、声に出して話されている言葉は、文字で書かれた言葉には存在しない躍動感があります。文字には決して表れない、生命のようなものです(手書きの文に似たようなものが表れることはありますけど、私が考えているのとは違うものです)。日本語の授業中に、学生たちが喋っているのを聞きながら、ふと、そんなことを感じました。学習中の言語であっても、それが生命を持っていると感じられるという事実に、軽い驚きを覚えたのです。声に出せば、それは生命体によって音声を発しているから、そこに生々しい生命を感じるのでしょう。そしてそれは、その話し手が、表現しようとする意味を載せて発声したときに、はっきりと感じられます。それが、私が「呼吸」と言ってみたモノの、プロトタイプです。

語順というのは、統語構造が表面に現れることで実現するものですが、それが意味を載せるとき、重要な場所にプロミネンスが置かれ、イントネーションの流れが決まり、それぞれの音節の長さや間の置き方などが調節されます。それらは非分節音素などと呼ばれていて、文法ではあまり扱いませんが、音声言語で意味を効率的に伝えるには、不可欠な要素です(いや、“間”が非分節音素になるかどうかは分りません^^;)。それらは特に呼吸によって制御される部分が多いので、そこに私は独特な“呼吸”または“息遣い”を感じるわけです。テキストを棒読みにするのを聞くと、その“呼吸”は死んでいるように感じられます。しかし、テキストを黙読するときでも、意味を理解しながら読んでいるとき、その意味を載せた言葉の“呼吸”が生きて伝わってくるように感じるのです。そして外国語の場合、それが日本語とは違う語順にのって伝わってくるので、その語順が制御する呼吸から、また独特な雰囲気を感じるというわけです。意味が分らないと呼吸もつかめないし、個々の語の意味はわかっても、呼吸がつかめないと、意味がはっきり入ってきません。私の言葉の理解というのは、そんな感じのものです。

そういう意味で、Katsさんがおっしゃったように、私の言った「呼吸」というのは、「何かリズム感のような感覚」といえるかもしれません。それと、「話者のいかに劇的に(あるいは明瞭に)話そうとする姿勢や気持ち」も、ちょっと特殊ですが、やはり当たっていると思います。そしてそれは、「話者と聞き手の言葉以外のシグナルのやり取り」を担っていることも確かです。ただし、「文化的背景」とは、直接の関係はないと思います。また、「ミクロレベル」の「絶対変えてはいけない」語順というのは、「呼吸」という観点では、「マクロレベル」の「ある程度変えてもよい」語順と同じく、単に語順として表れているのだと思います。いや、何か違いはあるのかもしれませんが、今のところ私は、違いの分る人間にはなっていません。(笑)

そういえば、『会話の日本語読本』(鴨下信一著、文春新書、2003)という本に、「隠れ方言(p.212)」と題して、“共通語(=全国共通語。私は“標準語”と言っています)”で書かれた会話文に、実は方言のロジックが流れているという話が載っています。

「ぼくのような東京人には橋田さんの書いた共通語は少し勝手がちがって見える(くわしくは踏みこめないが、それで橋田さんの共通語が間ちがっているというのではない。これはこれで正しい。東京人の書いた共通語と大阪人の書いた共通語に差があるということだ。これが共通語の性質である)。」(p.215)

このあとに具体例が続きますが、省略します。こういうことに気づいた人は、昔からけっこういたかもしれないけれど、こうやって文章に書いた人は、ほとんどいないのではないかと思います。筆者は、上のように思うようになったきっかけについて、こう説明しています。

「ぼくがどうもそうではないかと思いだしたのは、橋田さんのセリフが長くてどうしても覚えられないとある俳優さんから「どうしたらいいんでしょう」。ぼくらの業界でいうナキが入ったからである。
 たしかに橋田さんのセリフは長い、しかし本当は長いセリフの方が覚えやすいのである。それは長ければ、そのセリフは必ずあるロジックで進んでゆくから(短いセリフはロジックでは進まない)、そのロジックの見当がつけば覚えられるものなのだ。
 聞いてみると、どうも森光子さんとか藤岡琢也さんとか関西出身の人の方が覚えるらしい。七転八倒しているのは関東系の人である。」(p.217-218)

方言も共通語も同じ日本語だから、同じ発想と思考の流れを持っていると考えていたのですが、どうやらそこには微妙な違いがあって、言葉に敏感な人は、感じ取ってしまうのでしょう。ここでは関西出身のシナリオライターだけでなく、東北地方出身の井上ひさしの書いたセリフにも言及していて、最後に、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を「東北そのもの」と言っています。東北弁の語り口には、仮定を表したり仄めかしたりする表現が多く、それが独特の東北らしさをかもし出しているのだそうです。

言われてみればなるほどと思うのですが、そんなことは思いつきもしなかったので、この人の言語感覚にはただもう感嘆するしかありません。説明には具体例が挙げられていて、文法的な解説も加えられていますが、何よりも、この筆者は、字面は完全な標準語のセリフの中に、方言の匂いを感じ取ったのだと思います。文の中に息づく、東京的でない「呼吸」を敏感に察知したからこそ、「隠れ方言」というものを見つけ出すことができたのに違いありません。

というわけで、私の不用意に使った「呼吸」という語についての説明でしたが、分っていただけたでしょうか。

From kats( Mail ) To ijustat@chance at 2004 09/02 03:27 編集 返信

語彙について

Katsといいます。
語彙について書き込みがありましたので、関連したことを書きたいと思います。


語彙という授業:

私が通った学校では、中学時代、英語は「英語」という授業だけでしたが、新しい単語が出てくると先生が一つ一つ説明してくれていました。しかし高校になると「リーダー」「グラマー」「コンポジション」という3つの授業に分かれただけでなく、「分からない単語はあらかじめ暗記して来い」というように、学生任せになりました。意味がよく分からない英語の文章に出てくる、見たことも聞いたこともない単語を辞書で探して、しかも辞書にはいくつもの訳語が載っていて、いったいどの定義が教科書の文脈に合うのか分からないモヤモヤ状態で授業に出なければいけなかったので、英語が急に嫌いになったのを思い出しました。

ところで先日台湾で1ヶ月中国語中級の授業を受けてきたのですが、授業の約半分の時間を割いて、先生が進出単語について1つ1つ「こんなときに使う」「あんなときにも使う」と長々と説明してくれた後、「じゃあ生徒の皆さん、この単語は他にもどんなときに使えると思いますか」と聞いたり、「この単語を使って文章を作ってみなさい」と生徒に言わせて、実に総合的に単語を学習させてくれました。時間があれば、反対語は何か、類似語はないか、などにも触れてくれました。「辞書で引けば分かるじゃないか」ではなく、こういうふうにいろいろな方法で説明してもらうと、語彙が立体的に記憶されるだけでなく、「そんな説明を聞いた」という体験として記憶され、さらに授業中にではあるが「実際に使った」という経験と一緒に記憶され、忘れにくいのです。また、説明を理解してから作った文章が間違っていて先生が直してくれたら、「こういうときに使える」だけでなく「こういうときには使えない」ということも学習できます。こういう授業が高校のときにもあったら、どんなに英語が身に付いたかとちょっと恨めしく感じました。

体験としてなら忘れにくいということに関連して、私はほとんど学校に行かずに中級くらいまでは学習するのですが、新たに学習した単語や文法事項で忘れそうなものを自分の声でカセットに録音することがあります。それをしばらくして(1日後でも1週間後でもいい)聞くんですね。これは忘れかけたものを再生するという効果を狙ってというより、カセットという「他者」に説明してもらうことで「体験」として学習することを狙ったものです。一人時間差授業です。一種の苦肉の策ですが、何かに応用できそうな気がします。


単語集について:

市販の単語集にはいろんな使い方があります。私は「中級ぐらいになって語彙数の確認に使う」という目的だけでなく、新しい言語の学習を始めるときに「丸暗記」用にも使うことがあります。初学者が市販の単語集で棒暗記するのは意味がないと思われるでしょうが、私の場合1ページ目から全部覚えるわけではありません。私のやり方は、まず入門書で字の読み方ないし発音記号を理解します。それから単語集に行って、自分が覚えたい単語だけをまず選ります(赤丸か印をつける)。それをあらゆる方法(ここでは詳述しませんが)で暗記します。この時点で「外国語と既得言語を一対一で結び付けても意味がない」とか「文脈なしに覚えても意味がない」とかつべこべ言わずに覚えるのです(2週間くらい持続する短中期記憶)。言語にも依りますが、少なくとも500くらい覚えます。これは多いようで少ないのです(数字や時間の基本用語と代名詞などで100をすぐ超えます)。それが終了すると、私は入門書にもどり1課から勉強して行きます。しかもできるだけ短期間(大体1ヶ月)に入門書を終えるように努力します。

では、単語集での単語の暗記がどう自分に役に立っているかというと、入門書を学習する時点で既に「見たことのある」あるいは「ちょっと知っている」単語が時々出てくるので、入門書がやさしく感じられるだけでなく、入門書を短期間に1度読み終えることが比較的たやすくなります。一度読み終えて全体像が少し分かってから同じ入門書をもう一度精読すると、今度は本当によく分かるし身に付くように感じます。「見たことがある単語」が全くない状態で入門書をやると、「見たことない単語」「見たことない語順」「見たことない文字」「聞いたことがない発音」など知らない情報が多すぎて頭が疲れ、入門書を最後まで読みきれない可能性が高いからです(私の場合)。ただ、先ほど「つべこべ言わずに」と書きましたが、普通の人は、意味のなかった音の連続と意味とを文脈や経験を介さずに「とりあえず」結びつけるという作業をすると、50を越えたあたりで頭が飽和するようです。しかし、自分にあったテクニックをいくつか知っていると、500や1000くらいは何とかなります。当然のことですが、ここで覚えた単語は、あとでじっくり総合的に(定義、文脈、文法事項、関連語など)覚えなおさなければいけません。しかし、一見二度手間のようであっても、入門期を快適に通過するためのこのような市販単語集の活用は、あまり人には勧められませんが、私には意味があったように思えます。


電子辞書について:

常に手帳を持って歩き「これは何と言うんだろう」と思ったらひたすらメモして後で調べるという方法が紹介されていましたが、これに関連し、電子辞書について書いてみたいと思います。最近は学習者の多い言語なら電子辞書が出回っていて、これがとても便利です。私は台湾に居るときは、街角で見る漢字で読み方や意味を知らないのを見ると、道端で片っ端から電子辞書を引きました。電子辞書は紙の辞書より圧倒的に早く言葉が見つかるので大変効率的です。しかも軽くて小さいです。さらにいいことは、調べた単語の履歴をとってくれるので、夜になって今日調べた単語をリスト表示させ、何をまだ覚えているか、何を忘れてしまっているか、確認することができます。これで短期間で相当の単語を覚えれたと感じています。もちろん、紙のものより高いですし、自分の好きな辞書が入っているとは限らないので、嫌いな人もいるでしょうが、利点が欠点を遥かに凌いでいると思いました。



From kats( Mail ) To ijustat@chance at 2004 09/02 03:22 編集 返信

語順と呼吸

ijustatさま、

私の場合最初に話せるようになった言語がフランス語で、その後に英語とドイツ語を練習したため、フランス語(およびロマンス諸語)を無意識に比較の基準にしていましたが、日本語・韓国語から見てみると確かに西欧諸語は互いに似ている点が大変多いですね。欧州に位置しながらも言語学的に日本語を含むアルタイ語系に近いと「言われている」フィンランド語でさえ、私にはどうみても西欧言語に見えます。

>語順というのは、その言語の息遣いとも関わってくるからです。
>昔は“考える順番”とは考えていましたが、
>どうやらそれだけでなく、一種の呼吸のようなものが、
>その語順の中ににじみ出ているような気がしました。

「呼吸」という表現が具体的に何を指しているのかちょっと分かりにくかったのですが、話者と聞き手の言葉以外のシグナルのやり取りのようなことでしょうか、話者のいかに劇的に(あるいは明瞭に)話そうとする姿勢や気持ちのことでしょうか、それとも何かリズム感のような感覚でしょうか。

これに関連して思いつくのは、語順はミクロレベル(主に単語単位)では「絶対に変えてはいけない」ところがあり、マクロレベル(主に句単位)では「ある程度変えてよい」範囲があると思います。ミクロレベルでは、先の英単語を使ったドイツ語の例なら、Today ate we ham and cheese でも Ham and cheese ate we today でもいいけれど、Ham and cheese ate today we とは言えなくて、たとえその順番で考えたいと思っても、言ってはいけない語順です。したがって「考える順番」ではなく、「そういうもの」なのですが、これが「呼吸」ということでしょうか?

また、マクロレベルでは、どの言語も多少は語順を変えて同じ内容を言うことができる融通があるようです。ドイツ語の場合、どの言葉で文章を始めるかにはかなりの融通がありますが、一旦文章が始まると(定型第二位の動詞を通過すると)、決まった言い方で最後まで間違いなく言わなければいけない場合が多いように感じます。一方英語やフランス語ではSVの部分を間違いなく定義しなければいけませんが、それが済めばあとは好きなだけだらだらと付け足すだけで、かなり自由度を感じます。この自由度が話者に情報の加工の余地を与え、それは話者の考え方や文書の性格、さらには文化的背景などが影響してくるように感じます。古典・現代ギリシア語の語順の傾向の変遷のお話は、もしかしたら文化的背景も関係しているのかなと憶測していますが、これが「呼吸」ということなのでしょうか。

先々月台湾にいたのですが、台湾は九州ほどの面積しかないけれど、やはり富士山より高い山があるんですよね。そう考えると、ユーラシア大陸の東側に張り付いた小さな陸地群の中で日本は比較的平坦な地域なんだと思ったりしました。

To kats at 2004 08/31 13:09 編集 返信

RE:報告

Kats様、書き込みありがとうございます。

>ある時点からドイツ語に切り替えて行かないといけないと思います。構文におけるドイツ語の一大特徴は、不定形の順序が英語とまったく逆(見方によっては日本語と同じ)ということです。英語で無理やり例えるなら、英語なら to buy water at a store というところをドイツ語なら at a store water to buy のような感じになります。

なるほど、この語順は面白いですね。まるでラテン語のような(といっても、ちょっとしか知らないのですけれど)語順が、英語と姉妹関係にあるドイツ語にもあるんですね。こういうものは、英語があまり得意でない私のような人間には、ことさら大きな問題ではないかもしれないけれど(英語の語順もふらふらしているから^^;)、英語をしっかり身につけた人にとっては、非常に新鮮な構造として目に映るかもしれません。

>英語に例えるなら、英語でWe ate ham and cheese today.をToday we ate ham and cheese. と言ってもいいですが、ドイツ語では Today ate we ham and cheese. となります。直前の文章のつながりからTodayで文章を始めたい場合、todayの後に(まだ主語が登場していないのにその時制や数に合わせた)動詞を言わなければいけません。しかもこれは疑問文でもなければ倒置強調用法でもなく普通の文なのです。

語順というのは、面白いものだなあと、書き込みを拝見しながら感じてきました。なぜなら、語順というのは、その言語の息遣いともかかわってくるからです。昔は“考える順番”とは考えていましたが、どうやらそれだけでなく、一種の呼吸のようなものが、その語順の中ににじみ出ているような気がしました。

いや、こういうことを考えたのは、今回が初めてではないのです。ヘレニズム期のギリシャ語を学び、古典ギリシャ語をちょっとかじってから現代ギリシャ語にも足を突っ込んでみると、それぞれ語順に違いが見られます。まあ、どれも語順はかなり自由なのですが、時代が下れば下るほど、つまり、現代に近づくにつれて、複雑に入り組んだ語順がなくなってきます。それで、ヘレニズム期に書かれた新約聖書を読みながら、この語順の持つ息遣いにどうやって乗っていったらいいだろうかと、考えるともなく考えていたのです。

ドイツ語の語順について、以前聞いたことがあるのは、ある構文では、述語の動詞が文の一番最後にくることになっているということと、前置詞(副詞?)と結合した動詞が分離して、前置詞(副詞?)の部分がその述語の及ぶ域のいちばん後ろにつくというようなことでした。それは英語に比べてずいぶんと特殊な文型だと思いますが、日本語と韓国語の視点から見たり、ギリシャ語を学んでいる立場から見たりしてみると、ドイツ語というのはやけに英語に似て見えるのです。違う点はたくさんあるのだけれど、初級教材を見ると、半分以上の部分は英語を彷彿とさせます。それで、ギリシャ語の入門書に比べると、何となくやさしそうに見えます。それが、“英語のノリで始められるのではないか”と言ったゆえんです。

そう考えてみると、たぶん、日本語に初めて接した英米人は、日本語の語順に新鮮さを感じるんでしょうね。新鮮さを通り越して拒否反応を起こしてしまう人も多いでしょうが、この語順に乗って流れる日本語の息遣いを面白く感じる人もいるのではないかと思いました。韓国語の語順は日本語と似ていますけれど、それでも“アン・ヘッソヨ(=しませんでした)”なんていう語順は、結構面白く思ったように覚えています。語順というのは、面白いものです。

>北海道のことをよく知らないのですが、北海道にもカムチャッカという半島があるのですか?カムチャッカといえば普通北海道「の北に」あるロシア領の半島では? 僕にはアイヌ族はそんなに北まで勢力があったとは思えず、私はエスキモー(イヌイット)の一部族(カムチャッカ人と呼ぶ人もいるらしい)の言語から来ていると思います(語源は分かりませんでしたが)。

おお、ノー!*^^*

まったく勘違いをしていました。アイヌもイヌイットも区別ができないなんて、本当に恥ずかしいです。北海道とアイヌ語関係のサイトで、一生懸命カムチャッカを探していたのですが、ぜんぜん見つからず、変だ変だと思っていました。ロシアの土地を「北海道」だなんて言ったら、ロシアの人は聞いて憤慨するでしょうね。

http://www.webforest.net/erch/info1/kamch.htm

↑ここで、その地図と山の写真を見ました。まあ、青森より北にはあるけれど、北海道よりもはるかに北にある、巨大な半島でした(笑)。この山、非常に精悍で美しいですね。こんな山があるということも、これまでぜんぜん知りませんでした。これが最高峰のクリュチェフスカヤという山のようです。4750メートルと、富士山よりも約千メートルも高いそうです。他に探してみると、山頂からオレンジ色の溶岩が流れている夜景の写真も出てきました。いや、これもご指摘を受けて、こういうことを初めて知りました。いろいろとありがとうございます。

From kats( Mail ) To ijustat@chance at 2004 08/31 05:20 編集 返信

RE:報告

Katsといいます。
すみません。細かいところでコメントさせていただきます。。。

>なるほど。ドイツ語の学習書は、最初は英語と同じ部分を強調ながら始めるでしょうから、英語が分かる人にとっては、形態はともかく、構文に関しては、ほとんど英語のノリで始められるのではないかと思います。

[K] そういうノリで始めていいと思いますが、ある時点からドイツ語に切り替えて行かないといけないと思います。構文におけるドイツ語の一大特徴は、不定形の順序が英語とまったく逆(見方によっては日本語と同じ)ということです。英語で無理やり例えるなら、英語なら to buy water at a store というところをドイツ語なら at a store water to buy のような感じになります。「不定形の」と言いましたが、実は従属節内や副詞節、現在形以外の時制では、これと似たような構造になっています。つまり、ほとんどそうだといってもいいのです。次の特徴は、一般的に定型2位と呼ばれているもので、主文の主語に呼応する動詞の位置が文章内の始めから二番目に必ず来るということです。英語に例えるなら、英語でWe ate ham and cheese today.をToday we ate ham and cheese. と言ってもいいですが、ドイツ語では Today ate we ham and cheese. となります。直前の文章のつながりからTodayで文章を始めたい場合、todayの後に(まだ主語が登場していないのにその時制や数に合わせた)動詞を言わなければいけません。しかもこれは疑問文でもなければ倒置強調用法でもなく普通の文なのです。これら2つの点は、頭で理解するのは簡単ですが(英語にも似た文型がたまに残存する)、自然にその語順で考えたり話すのに慣れるのにかなり時間がかかりました。


>カムチャッカは北海道にある半島の地名ですよね。きっとアイヌ語だと思うのですが、インターネットで“カムチャッカ”と入力しても、その単語の意味について教えてくれているサイトはちょっと見つかりませんでした。

北海道のことをよく知らないのですが、北海道にもカムチャッカという半島があるのですか?カムチャッカといえば普通北海道「の北に」あるロシア領の半島では? 僕にはアイヌ族はそんなに北まで勢力があったとは思えず、私はエスキモー(イヌイット)の一部族(カムチャッカ人と呼ぶ人もいるらしい)の言語から来ていると思います(語源は分かりませんでしたが)。余談ですが、カムチャッカ半島は実は日本と面積がほぼ同じの巨大な半島なんですね。富士山よりはるかに高い山もあるようです。


To 氷雨 at 2004 08/31 02:25 編集 返信

RE:第三大臼歯 抜歯

氷雨様、書き込みありがとうございます。

>タイトルでの第三大臼歯とゆうのは医学用語で
>英語では“Wisdom tooth”韓国語では“サランニ”と言います
>けど日本語でそれに当たるなまえを知らなくて。。。

“恋歯(→サランニ)”は日本語では、「おやしらず」と言います。親から独立する頃生えてくる歯だということで、“親知らず”と名付けられたようです。韓国語の“恋する頃はえて来る歯”という意味の「サランニ」も、面白い名付け方ですよね。でも、医学用語では「第三大臼歯」って言うんですか。ずいぶんごつごつしてますね。(笑)

>とにかく今日、抜きました。
>私も痛みに耐えるのは結構慣れているのに
>これはマジ!
>本当、二時間くらい地獄と現実の間を迷ったみたい。
>今は少しくらい我慢できるようになって書き込んでいます。

それは大変でしたね。私は大学生のころ親知らずがはえてきたとき、そのままはえるのに任せてしまいました。いや、ずっと昔、奥歯だったか親知らずだったかを抜いたとき、あまり痛かった覚えがないのですが、時が経って記憶が薄れてしまったのかもしれませんね。

>数日前、教授と食事を一緒にしたとき
>氷雨君、実家はデグだったっけ? けど方言が全然混ざっていないねえ”
>ーあ。。大したことではありません 四年間ソウルに暮らしながらあるていどマネできるようになっただけです
>“それでも、他の人にはできないことを氷雨君はできるじゃないか そりゃすごいことだ”

>先週はデグに行ってきました。
>街の人にちょっとたずねていたら
>“あなた、デグの人じゃありませんよね?”
>あちゃ。。つい標準語が出てしまったか。

>同じ韓国語なんだから誰でも練習すればできると思うんですけど
>そんな努力をする人がほとんど少ないってわけでしょうか

面白い話ですね(日本語に少し手を入れました。あしからず^^;)。確かに氷雨さんは、音声に対する感覚があると思います。キョンサンド出身の多くの人がアクセントを消せないのは、発音練習をしないからでしょう。しかし氷雨さんは発音練習をしたという点で、多くの人たちから際立っています。それが、日本語の発音もかなりいい線いっている理由だと思います。

ところで、もし私が標準語とかなり違う方言を母語とする人間だったら、「日本語入門」と称して、自分の方言の入門書を作ってしまうと思います。そこには、その地方独特の発音やアクセントを、“日本語の発音とアクセント”として提示するはずです。そして、標準語とはかなり違う用言の活用や助詞の用法、待遇表現などを、“日本語文法”として、解説すると思います。

テグは韓国の中でもけっこう大きな都市です。そのテグでの話し言葉は、大切に扱う必要があるはずだと、私は思っています。韓国は日本以上に標準語志向が強いですが(音声学者のイー・ヒョンボク教授は、標準語の発音ができない人を“反逆者”とまで言っています。私はこの人の本を読みながら、とても冷や冷やしました。)、韓国文化をより豊かにしていくためには、方言もまた標準語と同等に“文化語”に発展させる必要があると思いますが、氷雨さんなら、そういうことができるのではないかと思いました。

そうそう、日本では以前から、大阪方言の教材が出版されています。また最近では、沖縄語の教材も本格的なものが出てきたようです。アイヌ語(これは日本語と系統の違う言語ですけれど……)もそうです。日本の主要都市の方言(青森、仙台、盛岡、福島、名古屋、京都、広島、福岡、熊本、鹿児島など)を流暢に身に付けさせる学習書が出てもいいのではないかと思っています。韓国だって、チョンジュ(清州)、テジョン(大田)、テグ、プサン、クァンジュ(光州)、チェジュ(済州)などの言葉を、面白半分ではなく、まじめに身に付ける学習書が出ても、いいんじゃないかと思うんですけどね。

まあ、それにしても、ソウルでは日本人に間違えられ、故郷のテグでは他所の地方から来たと勘違いされるというのは、面白いことです。

>毎度デグに行ってくると、二つの言語に通じたきがしますね

まさにそれが“二重言語話者”の味わう楽しさかも。

From 氷雨( HP ) To ijustat@chance at 2004 08/31 00:30 編集 返信

第三大旧歯 抜歯

ijustatさん こんにちわ ひさめです

タイトルでの第三大旧歯とゆうのは医学用語で
英語では”Wisdom tooth 韓国語では”サランニ”と言います
けど日本語に当たるもの知らなくて。。。

とにかく今日、抜きました。
私も痛みに耐えるのは結構慣れているのに
これはマジ!
本当、二時間くらい地獄と現実の間を迷ったみたい。
今は少しくらい我慢できるようになって書き込んでいます。

数日前、教授と食事を一緒にしながら
氷雨君、実家がデグだったっけ? けど方言が全然混ぜていないんだな?”
ーあ。。大したことではありません 四年間ソウルに暮らしながらあるくらいマネできるようになっただけです
”それでも、他の人にはできないのを氷雨君にはできるんじゃないか そりゃすごいんだ”

先週はデグに行ってきました。
街の人にちょっとたずねていたら
”あなた、デグの人じゃありませんよね?”
あちゃ。。つい標準語が出てしまったのか。

さぁ、同じ韓国語なんだから誰でも練習すればできると思うんですけど
そんな努力に尽くす人がほとんど少ないってわけでしょうか

毎度デグに行ってくる時、二つの言語に通達したきがしますね

ではでは

To Kuroneko at 2004 08/21 02:17 編集 返信

RE:徒然なるままに……語学雑感

Kuroneko様、こんにちは。

ソウルは先週まで、日本から来た人も驚く暑さでしたが、先週末から熱気も退き、朝晩はだいぶ過ごしやすくなりました。“立秋”とか“処暑”という暦の用語は、日本ではほとんど言葉だけの“飾り”ですが、ソウルでは大体暦どおりに季節が移り変わっていくようです。日本でも“立秋”は同じ日ですかと聞かれたとき、「甚だ不本意ながら同じ日です」と答えました。まあ、またいつ暑さがぶり返してヌットウィ(=残暑)に見舞われるか分りませんけどね。

Kuronekoさんが、外国語学習について書き込んでくださるようになってから、私は多くの刺激を受け、またたくさんのことを学ばせていただきました。そのおかげで、私の授業にも変化が起きたし、私自身の外国語学習にもやはり、変化が起こっています。

今学期始めた作文のテストですが、ある学生は、今学期の授業が終わったあとも、一緒に日本語を勉強している仲間と、“原文復元法”(または“逆文”)を競い合う勉強会をすることにしたと言っていました。私のクラスの出席率が今学期はわりとよかったところを見ても、作文のテストは学生たちに何らかの知的刺激を与えていたのかもしれません。

知的刺激を受けたのは学生だけでなく、私もそうで、成績のよかった学生たちに共通して見られた“慣らし”と“確認”という2つの要素は、私のギリシャ語学習に新しい展開をもたらしました。今、新約聖書ギリシャ語の復習をしているのですが、「過度の興奮のために私はごくわずかしか眠れない」(『古代への情熱』岩波文庫、p.26)というほどではないにしろ、それを彷彿とさせるような興奮を感じているのです。まあ、学習書が優れていて今まで不明だった規則が明快に分るというのも理由なのですが。この学習書については、のちほど紹介したいと思います。で、こういういろいろな変化が起こっているのも、Kuronekoさんのおかげだと、感謝しています。

ところで、指摘してくださったとおり、外国語の上達と読むこととは、緊密な関係があると思います。本から得られる話題や知識というものは、日本語を学ぶ上でも重要なものです。それは、語学的知識だけでなく、学習動機をも提供してくれるからです。「基本的に学習言語を日常的に用いない環境であるレベルまで語学力をつけていくには、読み中心で学ぶしかない」とおっしゃったのには、私もまったく同感で、もし高い水準の外国語能力を目指すなら、学習言語を日常に用いる環境であっても、読み中心で学ぶべきだと思っているくらいです。韓国へ来る1年くらい前から、日中はアルバイトに明け暮れていたため、韓国の人たちと会う機会がほとんどありませんでした。しかし、20年代以降の短編小説集(モダン・クラシックですね)や韓国の時事週刊誌『週刊朝鮮』を読みながら、用例をカードに取ったりしているだけでも、実は会話の実力は維持されていたのです。いや、もしかしたら、上達していたのかもしれません。また、日本に住んだことのない人で、日本語がとても達者な人たちに何人か会いましたが、彼らは例外なく、日本の本をよく読んでいました。勉強のためというよりも、趣味で読んでいたのです。その人たちにとって会話は得意な方ではないのかもしれませんが、いろいろな話題を縦横に語り合うことができ(私の話題ですから、たかが知れてますけど……)、その幅広い日本語の知識に感銘を受けたものです。だから、読みの効用は、手放しで認めることができます。

ところで、「カノンを『繰り返し読むに足る書物、または繰り返し読む必要のある書物』と、とりあえず定義すると、初歩の外国語学習者にとっては“教科書(独習書も含む)”がそれにあたるように思えます」とおっしゃったのは、何か本質を突いているような気がしました。外国語の学習書は、同じ学習書を使っている人たちの間では、一種のカノンになっているからです。それをよく覚えていれば、その知識は、その仲間の中ではひとつの典拠になるはずです。私がそれを思ったのは、井上ひさしの『青葉繁れる』を読んだとき、赤尾の「豆単」の話が出てきていたのを思い出したからです。豆単の正式名称は『英語基本単語熟語集』(赤尾好夫著、旺文社)で、3千語近く(2806語)の単語が例文もなくabc順に並んでいるというものです。考えただけでもゾッとする本ですが、“a”の次が“abandon”なのが学習者の意欲をそぐらしく(笑)、『青葉繁れる』の主人公は、「エイ、アバンダン!」と豆単を放棄したという話が載っています。これなんかは、豆単のせいで青春時代を味気なく過ごした多くの学習者(1971年時点で770万人!…「はしがき」による)の共感を得たはずです。私も豆単は“B”ぐらいまで読んで挫折しました。だから、むしろ「エイ、アバンダン!」と喝破した著者の英知に感嘆したものです。この本は、覚えるのでなく利用するなら、付録にはなかなか捨てがたい部分もあるのですが、現在の視点から見ると、覚えるための本というには、あまりにも荒唐無稽な体裁だと思います。それでも、この本は多くの受験生の間では、一種のカノンとして機能していたはずです。

話はどんどん豆単にずれ込んでいきますけれど、この「はしがき」には、赤尾好夫氏の考えている学習法が出ています。まず、冒頭で「諸君がいかに文法に強く、構文を熟知していも、単語の意味がわからなくては英文は読むことも、書くこともできないことは明らかである」と言っている点には100パーセント賛同します。しかし、赤尾氏は続けて言います。

>しかし、この「単語を覚える」という作業は、語学に通じるためにはだれもが通過しなければならない関門ではあるが、じつに味気ないものである。

この考えには賛成しかねます。味気ない方法で単語を学ぶことしか、著者は知らないのでしょう(当時の時代背景もあるでしょうから、全面的に否定するわけにもいきませんが)。だからこそ、「単語を覚える」という「作業」が「味気ない」と言うことができるのです。そして著者は宣言します。

>このひとにぎりの通称「豆単」は辞書ではない。単語をひく辞書ではなくて、記憶するためのvocabulary bookである。

この宣言が、その後の英語学習をはじめとして、外国語学習者の考えを歪めさせ、多くの人々を挫折へと導いている、諸悪の根源ではないかと思いました。豆単は、やっぱり辞書にしかならないと思います。もっとも、現在では誰にも省みられないらしく、アマゾンには今これを書いている時点で1冊在庫があるとは言うものの、読者のレビューが一つもないという寂しさです。でも、この本自体は廃れたけれども、この本の「はしがき」にある宣言の精神は、今でも多くの外国語学習者を支配しているようです。赤尾氏の影響大なりと言わざるを得ません。

カノンになる外国語学習書の話だったはずが、ずいぶん脱線してしまいました。こんどは教材をほめる話をしたいと思います。でも、カノンの話には戻せそうもありません。(笑)

韓国では以前お話したように、新約聖書を読むためのギリシャ語教本がけっこうたくさん出ています。しかし問題は、どれもこれも似たり寄ったりだという点です。その大多数が、J. Gresham Machenという人の“New Testament Greek for Beginners”という本を種本としていることです。どの本も33課の構成で、各課の終わりに、メイチェンの練習問題が付いています。これは希→英と英→希の翻訳問題で、各課ごとにそれぞれ16〜20の問題が付いています。その問題を、ある本は英語の部分を韓国語に直しているのですが、ある本は、英→希はそのままです。私の考えでは、クリスチャンは良心的に仕事をすべきなのですが、良心的ということの意味が、韓国と日本とでは違うのでしょう。

韓国の神学者の多くはアメリカで学んでくるのですが、どうやらアメリカではこのメイチェンの教材が多大な人気を誇っているようです。今までもギリシャ語文法の復習はしていたのですが、どうも頭に入らないので、この夏はちょっと本腰を入れて、やり直すことにしました。最初に勉強した本を読み直すのは嫌だったので、その本の種本でもあり、また多くの類書の種本でもある、本家本元の“New Testament Greek for Beginners”をやってみることにしました。

読み始めて気がついたのは、この本は誤字脱字がほとんどないことです。ギリシャ語部分にも、誤字脱字が見つかりません。また、説明が懇切丁寧だということです。特に、ギリシャ語の時制は英語と違うので、英語と比較しながらかなり懇切丁寧に述べています。これは私にとっては英文法の勉強にもなるくらいです。私が持っている何冊かの新約聖書ギリシャ語の入門書は、説明の味気ないものばかりですが(すごく個性的な本が1冊ありますが、個性的過ぎて気味の悪い本です)、メイチェンの原本は、重要なところは筆に力が入っていて、まるで語りかけられているような感じがします。さらに、説明が明快です。私が勉強した学習書は、『알기 쉬운 성서 헬라어 문법(分りやすい聖書ギリシャ語文法)』と銘打っていながら、意味不明の部分がたくさんありました。目を皿のようにして、いくら考えても解せなかった説明が時々あります。でも、メイチェンの原本では、さらりと分るのです。しかも、この原本の方が、説明されている規則の量が多いのです。実は、私の勉強した韓国語の翻案物は、動詞活用における形態論的な説明を省いているために、ただ闇雲に覚えなければいけない結果となり、その記憶すべき情報量が膨大になってしまっていたのでした。しかし原本では、そこにいくつかの簡単な概念を導入することで、記憶の負担を大幅に軽減してくれています。説明のための難しい概念を含む用語は出てきますが、その用語の説明も添えられているので、あせらずにきちんと読んでいれば、理解できます。翻案物のように、目を皿のようにしても分らないということはありません。私がすでにギリシャ語をある程度知っているということを差っぴいても、この本の分りやすさは際立っています。何しろ私は、韓国語に比べて英語の実力はひどく低く、辞書がなければ読み続けることすらできないのですから。

また、退屈極まりない練習問題ですが、序文を読むと、練習問題に関して言及しています。メイチェン氏は言っています。

>In the exercises, the effort has been made to exhibit definitely the forms and grammatical usages which have just been discussed in the same lesson, and also to keep constantly before the mind, in ever new relationships, the most important usages that have been discussed before.(p.ix)
(練習問題において心を砕いた点は、その課で言及したばかりの形態や文法的用法が、はっきり目立つようにしたということと、さらに、すでに言及された最も重要な用法も、新たな組み合わせにおいて、常に意識の全面にあり続けるようにしたということです。)

私の英語力のなさが如実に現れている、ザルのような訳ですね。読んでいるときは分っていたつもりが、いざ訳してみると、さっぱり日本語になりません。これはいったいどうしたわけでしょうか。それはともかく、そのすぐ下に、こう説明されています。

>The vocabularies have been limited to words which are very common in the New Testament or which require special explanation. Everywhere the effort has been made to introduce the words in the illustrations and exercises. The learning of lists of words, unless the words so learned are actually used, is a waste of time. (同ページ)
(語彙は、新約聖書に頻出するものか、または特別な説明を要する語に限っています。どこにおいても、単語は解説と練習問題との中で導入するよう努めています。単語の目録を暗記しても、それを実際に使ってみなければ、時間の無駄なのです。)

Kuronekoさんなら、私のひどい訳より、原文を見た方がよくわかると思います(汗)。まあ、ともかく、メイチェン教材の退屈極まりなく、また語彙を制限しているために、色彩も乏しく、表現の豊かな面白みもない練習問題の“意味”が、ここで明らかになっているわけです。この序文の説明によって、文法解説の部分と練習問題の部分が有機的に結合していることが分り、実際に問題を解くときに、そのことが確認できて、以前は見るのもうんざりだった練習問題が、なぜか楽しく感じられます。例文の味気なさは今も同じですが、それを練習する“意味”が与えられたので、無意味なことを続ける苦痛から解放されたわけです。(上の引用の最後の文は、豆単の表紙に貼り付けたいくらいです(笑)。)

というわけで、以前は想像でメイチェン教材を否定的に見ていたのが、今ではこの学習書のファンになってしまいました。そしておそらく、この学習書からにじみ出る魅力が、韓国の神学者たちをも魅了したのでしょう。それはそれでいいのですが、原本の中にあってこそ息の通っている練習問題も、課数と文法事項だけ合わせたような翻案教材の中に入れると、石のように冷たく無表情な、なおかつ恐ろしく味気ないものになってしまうのです。

私は神学生でないので、実情は分りませんが、韓国の神学大学院などで、ギリシャ語に関心を持って勉強している人たちにとっては、おそらく「メイチェン」の名前は、私たちにとっての「でる単」や「豆単」のようなものなのではないかと思います。このギリシャ語入門書が普通の語学書と違うのは、百パーセント新約聖書に照準を合わせてあって、教材にとどまるよりは、いちおう身に付けた時点ですぐに目当てのテキストを読み始めることを期待しているという点でしょう。文法を学んだあといきなり原典に飛びつくのがどれだけ可能なのかは分りませんけど、目当てのテキスト自体も5百ページがすべてで、学習書も、文法・語彙ともに、それのみに照準を合わせているので、一般的な古典ギリシャ語の場合よりは取っ付きやすいでしょう。

実はこれは、外国語学習としても効果的な面があるためか、韓国では、英語聖書を読むための英語学習書や、ドイツ語聖書を読むためのドイツ語学習書があるのを見たことがあります。聖書はコンスタントに読者を保っているので、それが可能ですが、他のテキストを照準にして外国語の入門書を作るのは、ちょっと難しいかもしれませんね。でも、たとえば『星の王子様』を読むことを目標にしたフランス語入門とか、『アンデルセン童話集』を読むことを目標にしたデンマーク語入門なども、作ろうと思えば作れるだろうし、『マザーグース』を味読するための英語やり直し教材だとか、『源氏物語』が読めることだけに照準を定めた古典入門、あるいは『唐詩選』を現代中国音で読むのを目標にした漢文入門なんていうのも、ひょっとしたら需要があるかもしれません。これらは日本人の読書傾向に支えられているものだから、外国語のどの書に私たちが憧れを持っているのか把握しなければなりませんが、そのテキストに出てくる文法項目や語彙などの頻度と重要度を調査した上で、会話ではなくひたすらその原典を読めることをターゲットに、例文を作り、または原典から引用していくというのは、面白い企画ではないかと思います。そのときに参考になるのが、新約聖書ギリシャ語入門や、旧約聖書ヘブライ語入門などで、それらのどの教材を学習した人はどんな感想を持ち、その経験からどんなタイプの学習書を望んでいるかなどを調べたら、いい教材を作る助けになるでしょう。まあ、こういうアイデアで安易な教材もけっこう出ていますが、それは私が期待しているものとはまったく違います。私が期待しているのは、本格的な学習書なのです。今、思いつくままに私が考えていることを挙げてみたいと思います。

1.本格的な入門教材である。
2.目標のテキストを読めることをターゲットにする。
(大著でなく、長くてもせいぜい4百ページくらいのテキストを目標にするのがいいですが、特に長い期間にわたって読者を得ているものなら、もっと大きなものでもいいでしょう。)
3.訳読練習だけでなく、作文練習も付ける。
(深く読めるためには、そのテキストを読んでいるだけではダメで、その言語が内在化されている必要があります。つまり、そのテキストと同じスタイルの言語が使える必要があるということです。作文練習を付ける必要があるのは、そのためです。)
4.発音や韻律(prosody)に関しても注意を払う。
5.入門編を終えた後は、なるべく原典の全文を最初から最後まで手引きする。原典が膨大でそれができない場合は、可能な限り、原典の特に重要な部分を、ある程度以上の長さにわたって読めるようにする。
(さわりだけの提示はよくないと思います。断片の知識は、私たちにその作品の思想を伝えてくれないからです。その作品の持つ流れが運ぶ思想を、読者は楽しんでいることが多いと思います。少なくとも、入試問題のような短い部分だの提示は読者を不満にさせる可能性があります。)
6.学習方法に関する指導にも気を使う。
(学習者が学習方法を知っているなら問題ないけれど、そうでない学習者も挫折せずに学習を続けられるように、ところどころにアドバイスをちりばめる必要があると思います。)
7.学問的な議論には立ち入らないが、かといって、親しみやすさを口実に説明を軽くすることもしない。あくまで作品を正当に解釈し評価することを基本とし、なおかつそれ以上の深い読みは、読者の手に渡すことができるようにする。
8.随所にコラムを入れて、原典を読むことへの動機を維持・誘発させる。
9.解説や語釈は、正しい知識にもとづいて、明晰に施す。
(例えば、日本語に対する洞察が足りなくて、結果的に説明が曖昧模糊としてしまっていることがあります。著者は日本語にまでは手が回らない場合があるけれど、編集者は日本語をしっかり見つめている人が必要でしょう。)

というわけで、話はどんどん漂流して、“カノン”を読むための教材作りみたいなところに、どうやら落ち着いたようです。(笑)

From Kuroneko( Mail ) To ijustat@chance at 2004 08/16 20:17 編集 返信

徒然なるままに……語学雑感

お久しぶりです。返事が遅くなってしまいました。返事が遅れたことを言い訳にして、ijustat様の書き込みを読んで思ったことを、つらつらと書いていこうかな、と考えています。これまではijustat様の書き込みに直接にレスをするというかたちで書き込んでいましたが、今回は少し書き方を変えてみますね。

最近、書店で斎藤兆史・野崎歓『英語のたくらみ、フランス語のたわむれ』(東京大学出版会)という本を見かけたので、ちょっと立ち読みしてみました。斎藤氏は英語文体論が専門の方で、最近では英語学習関係の本をよく書かれています。野崎氏は仏文学者で、翻訳家としても活躍されている方です。本の構成は二人の対談形式で、内容は“外国語で本を読む”という昔から行なわれている学習法の再評価するといったものです。書かれている内容とは別に、あまり良い印象を持たない書物でした。語学達者の大学教師の放談といった感じで知的緊張がないですし、互いに誉めあったりしすぎている感もあって、購入しようとは思いませんでした。

ただ、パラパラと読んでいて面白かった部分もありました。それは対談者の一人の野崎氏がフランスに留学した時の思い出を語った部分です。氏は学生時代から“読む”一本でフランス語を学んできたので、仏政府給費留学が決まった時は会話などの面で不安があったそうですが、実際フランスでの生活が始まってみると、徐々に会話にも慣れていき、特に問題なく過せたそうです。特に最初にフランスに向う時、旅客機の隣にいたフランス人の婦人とパリにつくまで会話を楽しめたそうで、今まで会話の勉強なんてしなかった野崎氏にとっては驚きつつ、嬉しかったようです。

この部分を読んだ時に、関口存男が「実際語学というものは、既に書物が充分読めるようになつてさえ居れば、まことにわけもないものだという此の一点です。私は、自分の経験からして、断乎として此の点を主張したいと思います。」と語っていたのを思い出しました。僕自身、“読む”ことに重点を置く学習法は賛成です。基本的に学習言語を日常的に用いない環境であるレベルまで語学力をつけていくには、読み中心で学ぶしかないのかなぁ、とも思っています。僕の個人的な経験ですが、一定量の文章を読んでいくと、作文なども自然に書けるようになっていきます。受験生などにオススメの方法なのですが、読解・文法・作文と均等に勉強していくよりも、読解に重点を置いて、一日にペーパーバックで2,3ページほどの量を読み込んでいく方が、英語力が全般的に伸びます。

こんな風に勉強していくとき困るの何を読んだらいいのか?、ということですね。受験生は読むものは決まっているので良いですが、他の人は何を読めば良いのでしょう? 一般的には「興味のある内容が書かれた本を読め!」と言われることが多く、まっとうな意見だと思うのですが、そのような本を探すのも結構大変だったりもします。それで適当に小説などを買ったりすると、俗語が多かったりなど“学習向け”の文体では無かったりして、困ったりもします。では、僕自身はどうするかというと、モダン・クラシックといいますか、その言語を用いている国で定番になっているような作家であまり古くないものを選んで読むようにしています。ijustat様が“カノン”について書かれていましたが、僕が選ぶ本は “現代的なカノン”と言えるものかもしれません。このような本をきちんと読んでいくことのメリットとしては、読むことを通して書き方を覚えるといいますか、規範的な文体を身につけることができる点にあるのではないかと思っています。だったら本当の“カノン”を読めばいいではないか、という意見もあると思いますが、聖書にしろシェイクスピアにしろ、現代英語の規範とするには少々文語的過ぎると思われるので、学習用としては避けるようにしています。もっとも、シェイクスピアなどを読むのは僕にとっては楽じゃないので避けていたりもするのですが(^^;

さて、ijustat様が書かれたカノンの話は、外国語を学ぶには語彙や文法などを学ぶだけではなく文化的な背景も押えていかなくてはならないよ、ということだと思うのですが、少しはなしを広げてカノンの概念を初歩の外国語学習に当てはめて考えてみたいと思います。カノンを「繰り返し読むに足る書物、または繰り返し読む必要のある書物」と、とりあえず定義すると、初歩の外国語学習者にとっては“教科書(独習書も含む)”がそれにあたるように思えます。ですから、「教科書は繰り返し読もう!」というありきたりの話になるのですが、そのありきたりの話を徹底的に実行できている人はなかなかいないのではないかな、と思っています。逆にいると、そのありきたりのことをきちんとやってきた人は語学の達人なのではないかな、と考えています。例えば、中学の教科書を繰り返し音読した国弘氏などは、あたりまえのことをしっかりと行なうことのできた人なのでしょう。そして、教科書がバラバラになるほど繰り返し読んだ種田氏もその一人ですね。

しかし、教科書がカノンであるとして、何故、教科書(しかも初級の教科書)は繰り返し読む必要があるのでしょう。ijustat様が種田氏の“maintenance”について引用されていますが、そこの「わたしにとって復習は大きな喜こびの発見であり、真実としての知識の普遍性の確認であった。」の部分に、教科書を繰り返し読むことの必要性の理由が端的に表われていると思います。つまり、初級の教科書には外国語を理解するのに大切なことがしっかり入っており、それは外国語がある程度(または、かなり)できるようにようになっても大切な知識なのだ、ということだと思います。たしかに初級教科書の知識だけでは理解できないことがあります。外国語で本を読むと、教科書に載っていなかった用法がいっぱい出てきて、溜息をつきたくなることもあります。だから、だと思うのですが、多くの外国語学習者は初歩の段階を終えるとすぐにレベルの高い教科書に移り、初級教科書には目もくれなくなるのでしょう。初級レベルがしっかりと見についているのならよいのですが、初級の内容があいまいなまま次のレベルの教科書に挑戦する人も多いと思います。その場合はしっかりと初級教科書の復習をしていくことが肝心だと思います。応用レベルの教科書は初歩のことは教えてくれませんが、初級教科書をしっかり学べば、応用レベルのことも辞書の助けを借りながら自力で理解できるようになりますから。種田氏の“maintenance”の話を読みながら、自戒も込めて、初歩の大事さを考えたりしました。

さて、単語の話もすごく面白かったです。まさか『でる単』(関西では『しけ単』と略しますね)の著者が単語帳批判を自ら書いているとは思わなかったです。もしかしたら、ijustat様も書かれているように、筆者自身、『でる単』は知識確認用として用いて欲しかったのかもしれないですね。えぇと、語彙についても思うところはあるのですが、それはまた別の機会に書きたいと思います。ただ、英語や仏語で本を読んでいると、語彙力のなさに泣きたくなることがしばしばです(;;) 特に英語は、、、辞書で基本語彙とされている語で知らない語句があったりして、ちょっと悲しいですね。はぁ。

To 氷雨 at 2004 08/14 19:55 編集 返信

RE:また聞こえるように..

氷雨様、書き込みありがとうございます。

>ドイツ語の学習は進んでいない気がしますけど
>高校ん時の覚えたのがひとつずつ思い出しながら
>どんどんやる気になっています

それは本当によかったですね。私もいつかドイツ語を勉強してできるようになりたいと思っていますが、一通り勉強が終わったら、いろいろ教えてください。

>ここんとこ、再び聞き取れるようになりました
>単語ひとつ残さずすっきりと聞こえてもちろん
>即席で解釈も

>考えてみると以前MSNで話した“何も聞こえない”の頃は
>ちょっと難しいのを聴いたみたいです
>それに何よりあまり集中しないで他の仕事をしながら
>聴いたのも原因かもしれません

まったくそのとおりだと思います。外国語を聞く練習は英語で“Listening Comprehension”と言い、日本語でも“聴解”というように、じっくり集中して聞きながら理解することを言います。聞こえているだけで分るのは、上級かもしれません。英語教材の宣伝などで、“聞き流すだけで分るようになる”なんていうのがありますけど、その言葉はとても有害です。聞き流すだけでは、ただ音が聞こえているだけですから、聴解力を伸ばすのはほとんど不可能だと思います。

難しいものを聞いたら理解できないというのは、そのとおりですね。私もついつい意識し忘れてしまう点です。読む練習でも、自分の実力では歯の立たないものを読むと、あまり伸びないだろうと思っていましたが、聞き取りもそうですね。何事も、話の筋はしっかり理解できる上で、新しい知識が得られるくらいの内容を、読んだり聞いたりするのがよさそうです。氷雨さんの話から、ひとつ勉強になりました。

>だけど例の“歯の治療”と研究室での実習のため
>勉強はあまりしていないのです
>夏休みも20日くらいしか残っていないのに
>少しは時間の無駄遣いした気がします。

いやいや、あまり効率よく勉強すると、体にガタが来るかもしれませんよ。歯にも悪いだろうし。(笑)

ということで、残る夏休みを有意義に過ごしてください。

From 氷雨( HP ) To ijustat@chance at 2004 08/13 00:21 編集 返信

また聞こえるように..

ijustatさん こんにちわ 氷雨です

ドイツ語の学習は進んでいない気がしますけど
高校ん時の覚えたのがひとつずつ思い出しながら
どんどんやる気になっています
まぁ それはそれでよかったこととして、

ここんとこ、再び聞き取れるようになりました
単語ひとつ残さずすっきりと聞こえてもちろん
即席で解釈も

考えてみると以前MSNで話した”何も聞こえない”の頃は
ちょっと難しいのを聴いたみたいです
それに何よりあまり集中しないで他の仕事をしながら
聴いたのも原因かもしれません

正に!韓国のドラマとかニュースも集中しないと
聞き取れないのに日本語は言うまでもありませんってこと

だけど例の”歯の治療”と研究室での実習のため
勉強はあまりしていないのです
夏休みも20日くらいしか残っていないのに
少しは時間の無駄遣いした気がします。

ではでは

To やま at 2004 08/11 17:30 編集 返信

RE:初めまして

やま様、書き込みありがとうございます。

>初めまして。Joy先生(のホームページの掲示板)からのご紹介でこちらを初めて拝見させていただきました。やまです。
>私は大学を卒業し現在日本の日本語学校で教師をしている者です。
>4年働いています。

Joy先生がリンクしていて下さっていたんですね。本当に感謝です。クリスチャンの日本語の先生ということで、心から歓迎いたします。

>今週の金曜日から1週間ほど韓国へ行くので、ぜひ火曜日の聖書研究会に参加させていただきたいと思います。
>私は小さい頃から教会に通っています。ぜひ聖書を通じて韓国の方、韓国に住んでいる日本の方とお知り合いになれたらと思っています。

梨花女子大の聖書勉強会に関心を持ってくださって、ありがとうございます。日本語教育においても、信仰においても、私は韓国に来てからなので、どちらも日本の事情には疎いのです。韓国では、日本で信仰生活を保っているクリスチャンは“本物だ”と言われています。私もぜひお会いできることを楽しみにしています。

>また私は来年から韓国の企業で日本語を教える仕事がしたいと考えています。Joy先生がLG電子で働かれていて、私もそのような仕事を希望しています。もし尾崎先生が何かご存知でしたら、ぜひお話を伺いたいと思います。

それは本当にすばらしいことだと思います。不可能に思えることでも、御心ならば、驚くような機会が与えられるはずです。自分においても、身のまわりの人たちにおいても、そのようなことを見てきましたから、きっとやまさんにも、よい機会が与えられることと信じています。やまさんの今後の発展をお祈りしたいと思います。

>来週の火曜日にお会いできる事を楽しみしております。

私も楽しみにしています。

From やま To ijustat@chance at 2004 08/10 21:25 編集 返信

初めまして

初めまして。Joy先生(のホームページの掲示板)からのご紹介でこちらを初めて拝見させていただきました。やまです。
私は大学を卒業し現在日本の日本語学校で教師をしている者です。
4年働いています。

今週の金曜日から1週間ほど韓国へ行くので、ぜひ火曜日の聖書研究会に参加させていただきたいと思います。
私は小さい頃から教会に通っています。ぜひ聖書を通じて韓国の方、韓国に住んでいる日本の方とお知り合いになれたらと思っています。

また私は来年から韓国の企業で日本語を教える仕事がしたいと考えています。Joy先生がLG電子で働かれていて、私もそのような仕事を希望しています。もし尾崎先生が何かご存知でしたら、ぜひお話を伺いたいと思います。

突然、あつかましい投稿で申し訳ありません。
来週の火曜日にお会いできる事を楽しみしております。