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To ijustat@chance at 2004 08/08 14:24 編集 返信

単語を覚えるのは大変だ

Kuroneko様、こんにちは。

文法をどう習得するのがいちばん効果的かという問題は、いつまでも話の種が尽きない、面白い問題だと思います。ところで、外国語を学習する人が苦労するのは、文法だけでなく、文法と並んで、いや、それ以上に、単語で苦労すると思います。この単語学習の苦労は、文法の苦労と絡み合って、形態論の豊かな言語になればなるほど、その困難さは増幅すると思います。

まず私の乏しい体験ですが、英語のことは、中学生と高校生のときなので、よく覚えていません。しかしその後、抽象的な語彙を覚えるのが絶望的だと感じ、英語に恐れを抱くようになりました。しかし、その後、ロングマンの英英辞典を使うようになり、そのあといくつかの英英辞典を使うようになって、その語釈から、英和辞典では考えもよらなかった明瞭な意味が分るようになりました。さらにギリシャ語の学習を始めてから、ギリシャ語で覚えた単語が英語の中にたくさんあり、英語とギリシャ語のつながりで、英単語が自然に少しずつ増えてきました。それによって、抽象的な語彙も怖くなくなりました。最近は、ギリシャ語の単語を引いて、もしやと思ったものは語源解説のある英英辞典で確認して、英語とギリシャ語の単語の両方を覚えるようになりました。ギリシャ語を学習することは、英語学習の助けになるので、ギリシャ語を勉強するときにはことさら英語でギリシャ語の単語が使われていないかどうかを確認するようになりました。英語は決して得意な外国語ではありませんが、最近単語への抵抗があまりなくなったので、もしかしたら、将来得意な外国語になるかもしれないという期待を抱いています。

韓国語は、19歳のときに始めましたが、最初は固有語の単語を覚えるのがとても大変でした。たとえば、カダ(行く)とオダ(来る)などは、“k”と母音とが日本語と逆になるという理由だけで、混乱したものです。しかし、漢字語と外来語に日本語と共通するものが多いのと、発想が日本語と似ているのとで、語彙を増やすのはけっこう楽になりました。さらに、本が読めるようになってからは、時事雑誌などを通して、語彙の増強は“濡れ手に粟”のように楽になりました。でも、それまで数年かかっています。現在も、特殊な俗語などで分らないものがけっこうありますが、今後精神的に余裕ができたら、それらの語彙も自分のものにしたいと考えています。つまり、韓国語の語彙は、最初が大変で、あとはとても楽になるのが特徴です(日本人にとってはの話ですが)。

中国語は、実は簡単な会話しかできないのですが、不思議なことに、中国で出ている漢語辞典を使うことができます。これは本当に不思議なことです。高校で習った漢文の句型と、それプラス現代中国語の句型を大体頭に入れていれば、辞書が読めるのです。もちろん、読みが分らないので、音読はできませんけれど。漢字一つ一つの意味は、大体分っているものが多く、それが結合したり、文脈の中に置かれたりしたときにどういう意味なのかを知り、さらに正確な発音を覚えれば、中国語の語彙は大体ものになるような気がします。いまだに本格的な学習ができないのですけれど、本格的に始めたら、中国語の語彙はどんどん増やせそうな気がします。日本人にとって、文字としての中国語は、半分外国語で、半分母国語です。大陸で使われている中国語は簡体字で、その他の地域では繁体字を使い、どちらも日本で使っている漢字と字形に違いがありますが、それは慣れの問題で、特に気にならないと思います(慣れるまでは戸惑いますけど)。

それらに比べ、ギリシャ語はとても大変です。最初に受けた印象は、単語がやたらに長く、短い単語は激しく語形変化をするので、恐ろしく取っ付きにくいということです。たとえば、“顔”という意味の単語は、“πρόσωπον”です。基礎語彙とは思えない長さと複雑さです(実は3つの形態素から成っていることを、最近知りました)。また、例えば“見る”は“βλέπω”ですが、“見た”は“είδα”となり、そのような単語がけっこうあります。ただ、私は古典ギリシャ語と現代ギリシャ語の学習がごちゃ混ぜになってしまっているのですが、それにもいい点はあって、古典語でも現代語でも使われている単語は、割と覚えやすいです。中には意味や使い方が違ってしまっているものもありますが、形を知っているものなら、意味を付け加えるだけなので、覚えるのはそれほど大変ではありません。しかし、現代ギリシャ語でも古典ギリシャ語でも、知らない単語は次から次へと出てきます。それらの多くは、既知の単語との形態的な関連がありません。しかも長いです。また、語形変化が激しいために、どうも単語の印象が薄く、文中で何度見ても、すぐ忘れてしまいます。私の使っている希英辞典は、“Oxford Greek-English Learner’s Dictionary”という優れものなのですが、使われている英語の語釈に難しいものが多く、また、文字もとても小さいので、この辞書を見ていると、目が痛くなります(虫眼鏡を使って見ています(笑))。ギリシャ語の単語は、英語にたくさん取り入れられているので、語源分析の詳しい“RANDOM HOUSE WEBSTER’S COLLEGE DICTIONARY”でその単語を引いて、そこで形態分析されているものを見て、理解の助けにしています。ギリシャ語の学習に英語辞書が役に立つというのも妙な話ですね。また、このように“語源”で単語の成り立ちを理解することがいかに大切かということを、ギリシャ語の学習で痛感しています(これは英単語の学習にもなるので、一石二鳥だという利点もあります)。それでもやはり、ギリシャ語の単語を覚える苦労はあまり軽減されず、依然として苦手意識に付きまとわれています。

単語の覚え方については、いろいろな人が、いろいろなことを書いています。これまであまり神経を使ってこなかった分野ですが、ギリシャ語の学習で単語の習得に苦労しているので、単語の身に付け方を体系的に考えて見る必要を最近感じています。そこで、いくつか引用しながら考えてみようと思います。

“英語征服の技術1”では、“단어의 족보(単語の系図)”(p.232)をつくり、語源の同じ単語ごとにまとめて、言語を越えた系譜を作ることを薦めています。ただし、その具体的な方法については続編で述べるようで、この本ではあまり具体的なことは書かれていませんでした。また、単語帳や単語の教材で暗記することには否定的で、実際の文脈の中で学ぶべきだという点は、私と同じです。著者が否定しているのは、“Vocabulary 22000”という、例文もしっかり付いていて、派生語まで提示してある教材なのですが、それでもダメだと言っています。「でる単」を見たら、どういう顔をするでしょうね。

種田輝豊氏の単語暗記法は、もうご存知だと思いますが、何らかの過程で“出くわしたら”、その単語としばらくの間付き合う方法です。引用しておきます。

「はじめて出くわす単語は、ていちょうに扱ってあげなければならない。これから末ながく、一生おつきあいしていただく相手だから。
 通常のなりゆきとしては、なにか読んでいるうちに知らない単語が出てくる、辞書をひく、という順序になるであろう。または、ある単語をひいたついでに、上下の項にも視線を移したところ、印象的な字面が目にとまり、それも覚えてしまう、ということもあろう。いずれにせよ、それからが問題である。すなわち、どうしたら五回も、十回も同じ単語を調べなくとも一度で覚えられるか、という問題である。
 第一に、ひいた単語から、すぐに目をはなしてはいけない。単語につくづくと見入ることである。どんなことばでも、印刷された単語は、どれをとっても固有の格好をもっている。その特徴から得た第一印象をだいじにする。
 第二に、その単語の意味を考える。たくさんある意味のうち、まず、第一義だけを読みとり、頭の中で反復し、想像力を働かせながら、絵に復元しつつ、また単語に目を移し、さらにまた見つめる。そして、がまんできるかぎり長い間ねばる。
 第三に、なん度か声に出して発音してみるとよい。しかし、ささやき程度におさえておく。そうしているうちに、その単語のスペルの特徴と意味とが溶けあってくる。
 この方法をうまく利用すると、一度しか辞書で調べていないのに、その単語は、与えられた意味以外もち得ないように感じられてくる。すなわち、単語はすべて一種の擬声音として覚えられるのである。ここに漢字のような象形文字と表音文字の覚え方のちがいがある、ともいえるのではなかろうか。」
(種田輝豊『20カ国語ペラペラ』実業之日本社、1969。p.181〜182)

種田氏のような集中力の持ち主だからこそできる方法かもしれません。しかし、ここで必要なのは、多分、すぐに先へ進もうと焦ってはいけないということだと思います。“ていちょうに扱ってあげなければならない”とか、“ひいた単語から、すぐに目をはなしてはいけない”という言葉は、先へ進もうと焦りやすい私たちの癖に、注意を促しています。

また、単語をどんな機会にも逃さず捕まえて覚えられるように、次のような方法を紹介しています。

「シャニムニ単語を頭にたたきこもうとすると、頭のほうで抵抗をおこす。この抵抗力はおそろしいもので、いったん、いくつかの単語を覚えてしまったと思っていても、いつのまにかきれいさっぱり、追いだされてしまっていることがある。
 では、どうしたらいいのだろう?
 ちょっとしたくふうが必要である。頭の内部からの要求により、単語が吸いこまれるような方向にもってゆくのである。それにはまず、小さなメモ帳を用意し、いつもポケットに入れて持ち歩くとよい。そして、
(1) どんな場所でも、どんなときでも、これはたとえば英語ではなんというのだろう? こういう内容のことは、英語ではどう表現すればよいのだろう? と疑問を出してみる。
(2) 本屋で立ち読みしたときに出くわした単語、表現法などで気にいったもの、気になるものなどがあったら、すぐその場で、手ぎわよくメモ帳にノートする。そして、家に帰ったら、その単語を徹底的に調べる。
 (1)の場合は、かなりの好奇心が要求される。しかし、われわれの日常生活からくる刺激が生む好奇心には限度がある。たとえば、自宅から学校に向かって歩く間に、見たり、聞いたり、話したりする事物はたかがしれている。だから、ぜひすすめたいことは、日常の言語生活において話題にのぼる事物、概念のうち、その意味から考えて重要と判断するものが出てきたら、すぐ、それは英語で、フランス語で、ドイツ語でなんというのだろう? と自問する習慣をつけることである。
 (2)の場合だいじなことは、一度見かけた、あるいは聞いた単語が気になってしようがない、という方向にもってゆく。あたかも、いつも出はいりしている喫茶店に、ある日突然、とてつもない美人が現れたら、「いったいだれが連れてきた、どこのだれだろう?」と気になるように。」
(種田輝豊『20カ国語ペラペラ』実業之日本社、1969。p.189〜191)

日本の本屋は、(2)をとても嫌がります。大型書店はどうか分りませんが、中型書店ではそうでした。本の書名だったか何だったかをメモしたとき、店員がやってきて、「メモは困ります」と言われました。そこは私がよく利用している本屋だったのですが、韓国に来ている間につぶれて服屋になってしまいました。書名をメモすることすら許さない閉鎖性が、日本の書店をどんどん苦しくしているのではないでしょうか。(でも、種田氏は、書店でのメモを勧めていますね。不思議です。)

ピーター・フランクル氏は、次のような方法で単語を増強したようです。

「ぼくは基本的には別荘の中で丸一日その本を読んでいました。サガンは庶民の言葉で本を書いている人ですから、それほど複雑な表現ではなかったし、二〇ページ、三〇ページと読み進むと、だいぶ彼女の言葉づかいにも慣れてきました。わからない単語は一ページごとに必ず単語帳に書くようにしました。最初は一ページに二〇個もわからない単語が出てくるのですが、しだいに五個くらいに減りました。結局、その三週間で二〇〇〇語以上の単語をいちおう単語帳に書いたことになります。全部覚えられたわけではないけれども、すごく進歩したと思います。」
(ピーター・フランクル『ピーター流外国語習得術』岩波ジュニア新書、1999年。p.34)

そして、この体験について、次のようにまとめています。

「そして、サガンの本を読み終えたことでもうひとつわかったのは、いまでも人に勧めているのですが、とにかくわからない単語は必ずすぐ調べることです。どうしても人間はぐうたらなのです。「まあ、だいたい意味はわかったから早く前に進みたい」という気持ちになって、そのときにはいちいち辞書を引かない。また同じ単語が出てきて、四回も五回も出たところでついに「じゃ、しょうがない、調べようか」と重い腰を上げる。そうすると、結局四回のチャンスを失ってしまうのです。一回目に出てきたときに調べて、二回目、三回目には「ああ、あの単語だ」ともう一度意味を確認して読んでいく。それで四回も復習したらけっこう覚えてしまうものです。運が悪ければ、五回目に調べたときにはちょうど最後だったかもしれません。そのためにあとの復習の機会を失ってすぐ忘れてしまうかもしれません。」(『同』。p.39-40)

と、辞書をすぐに引くことを勧めています。これは、“辞書を引きまくる”読み方ですね。そして、すぐに続けて次のようにも言っています。

「だから、すぐ調べて、自分の単語帳に書いておくのです。つぎに出てきたときには辞書で調べるのではなく、自分の単語帳を見て、場合によっては、今度は使われた意味もちょっとちがうかもしれないから、それも自分で書き加える。一日に進むペースはちょっとおちるかもしれません。でも、やっぱり外国語の本を読んでいるときには、「急がば廻れ」の心境で、そのつど調べながら進むことが大切です。そうすると、ただなんとなくわかっただけではなくて、その作家の言っていることがほんとうに理解できるのです。」(『同』。p.40)

フランクル氏はまた、Kuronekoさんが紹介してくださった、一冊だけではなく、何冊か教科書を使って勉強するという方法(24ページ)も述べていますが、これも単語の学習に関する内容ですね。また、その言葉で書かれた文章を読む最初の段階では、対訳の本を読むのがとても有効だ(13ページ)とも言っています。その理由は、単語の意味がすぐそばに説明されているから読みやすいということです。でも、もっと効率を上げるには、上に紹介したように、できるだけその単語を自分の単語帳に書くことだそうです。

文脈と関係なしに単語を丸暗記することについては、もちろんフランクル氏も否定的です。

「そして自分の失敗経験からいえるのは、単語をそのまま丸暗記するのではだめだということです。ほんとうにつらい思いをして覚えても、どんどん忘れてしまうから、結局は膨大な時間のむだになります。」(『同』。p.14)

でも、こういう学習法を勧める先生と教材が、後を絶たないんですよね。

で、単語帳批判の槍玉にあがっている「でる単」にも、面白いことが書かれています。「英単語の最も能率的な学び方・覚え方を教えてください」という質問に対する答えなのですが、ちょっと引用して見ましょう。

「どうしても覚えにくい単語は、1語1語カードに書き取り、そのカードを1日につき3枚ないし5枚ポケットに入れて持ち歩き、折あるごとに取り出して覚える。1日につき、3語ないし5語にとどめておくことが必要で、欲ばって1日に10語も20語も覚えようとすると、かえって頭の中が混乱してしまい、欲ばった分だけ損をすることになる。」
(森一郎『2色刷デラックス版 試験に出る英単語』青春新書、1997年。p.11〜12)

まあ、確かにその通りかもしれません。しかし、私の考えでは、そうやって覚えても、時間がたてば忘れてしまうし、実際の文章の中で出てきても、すぐにはピンと来ないはずです。このことについて、その直後に次のようなアドバイスがありました。

「カードに書いても、それまで文章の中でみたことのない単語は、なかなか覚えにくいものである。だから、英語の読書量をふやすように心がけて、おなじみの単語の数をおおくしておくことが必要である。英文を読まないで、単語だけを取り出してそれの訳を覚え、もって英語の勉強はおわったとするほど愚かなことはない。」
(森一郎『2色刷デラックス版 試験に出る英単語』青春新書、1997年。p.12)

ここに非常に重要なアドバイスがあるのを発見して驚きました。あたかも「でる単」の著者は、「でる単」で単語を覚えることを否定しているかのようです。「でる単」というのは、単語の知識の確認のために使いなさいといっているわけです。知らない単語があったら、それを英語の読書の中で再確認して(何しろ高頻度の語彙ですから、遠からずして出くわすでしょう)、それによって試験に備えるべきだというわけです。でも、「でる単」の利用者は、「でる単」の著者に、“これほど愚かなことはない”と指摘されている、まさにそのことを、当の「でる単」を使ってやっていたわけです。そしてそれが「でる単」の問題点として批判され続けています。これは本当に皮肉なことです。

ところで、単語を覚えにくいのは、1)語形が記憶に残りにくいのと、2)意味・用法がよくわからなくて印象に残らないという2つの理由があると思います。1の場合、a)その単語が長かったり、他の単語と形が似ていたりして難しい場合と、b)語形が不規則に変化するためそれについていけないという難しさがあると思います。2は、抽象的で難解な概念を表す場合や、日本にない風物の場合もありますが、用例なしに単語と訳語だけを1対1で提示したものの場合も、2になるようです。

単語の克服は、そのように、語形と意味・用法とを克服することで身に付けられると思うのですが、これについてはどんな議論があるのか、今まで考えたことはありませんでした。ただ、いまだに外国語を覚える際、単語とその訳語とを隣り合わせにして覚えることを勧めている人が、けっこういます。教師の中にもいるようです。それらは、試験用の学習でも役に立たないと思うのですが、それに対抗する体系的な方法論を見たことがないような気がします。

それらの疑問を尻目に、千野栄一氏は、覚えようと思って頑張れば覚えられると言って、次のように述べています。

「語彙の習得が文法の習得と違う大きな特徴は、言語による難易がないことである。語彙の習得はどの言語でもおなじだけ時間がかかり、日本であろうと留学先の外国であろうと、意識して覚えない限りどうにもならない。「外国語は好きなんだけど、単語が覚えられなくてね」という人は、自分が勤勉でないことを告白しているのである。そして、この自称“記憶力の悪い”人がひとたび天皇賞となると、舌をかみそうな馬の名前だけでなく、馬の血統、経歴、所属厩舎名から、重馬場での対応能力、さらに騎手の性質までそらんじているのだから、記憶力が悪いということに同意するわけにはいかない。必要なのは超満員の電車の中でも○や△や◎の記号の意味するところを必死で学習するその熱意で、単語の習得にはそれがないことが問題なのである。そして、あんな込んだ電車の中ででも赤鉛筆を使って大事なポイントを区別するという効果的学習を、単語の習得に際しては使わないということである。」
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.50〜51)

語彙の習得に言語による難易がないというのには、どうしても納得できませんが、それは“自分が勤勉でないことを告白している”のかもしれません(汗)。いや、私は多少勤勉さに欠けた人が、どれだけ外国語学習を頑張れるかを追及しているのです。(笑)

To ijustat@chance at 2004 08/02 00:45 編集 返信

文法との付き合い方(羊頭狗肉…汗)

Kuroneko様、こんにちは。

文法との付き合い方は、けっこう難しいものであることは確かです。しかし文法が重要なのは確かで、カタチに焦点を合わせることができるかできないかで、学習者の日本語の自然さに違いが出てきます。今学期私がやっている作文テストは、カタチに対する観察力を無理にでも高めようというものです。これができない学生は、日本語がブロークンです。その治療法としての実験なわけです。

“英語征服の技術1”では、初めは文法の勉強をしない方がいいと著者は言っています。ただし、すでに一生懸命勉強した後で、その学習方法が運用に生かせなかっただけなので、この部分での意見は何とも言えません。その後学習した4ヵ国語は、ラテン語、フランス語、ドイツ語、古代英語で、どれも文法的共通点があります。どうしても、差っぴいて考えるしかありません。

いずれにしても、最初から“文法”という一つの規則集として学習するのが問題だと言っているのだと思います。それならば、私たちの意見とも共通しているということができます。

この著者は、文法は英語にだいぶ慣れてきたあとで、非常に重要になると言っています。この時の“文法”とは、理論文法または規範文法のことを言っているようです。言語は意味とカタチの規則から成り立っていますが、その規則を最初は知らなくてもいいと言っているわけではなく、最初はその規則に“慣れる”ことが大事で、ある程度身に付いた時点で、それを今度ははっきり自覚して使えるようにするために、理論文法を習う必要があると言っているわけです。

面白いことは、種田輝豊氏も、似たようなことを言っていました。種田氏は、“maintenance”として書いていますが、私は“文法をあとで習う”という話を読んだとき、種田氏の以下の文章を思い出しました。

「この四年間、わたしは予定していた新しい言葉、モンゴル語やヘブライ語、その他のハム・セム系の言葉を勉強することができなかった。いくら仕事が忙しくても、その気になればやってできなかったことはなかっただろう。しかし、いままでに学んだ言葉を放っておいたら、サビついてしまうと考えて、復習に徹して、maintenanceを図ったのである。
 その方法は、言葉ごとに録音してあったテープを分類し、十日にひとつの言葉の割合で聞くことであった。録音してくれた各国の人々とのさまざまな思い出の中で、なつかしく聞き入ったものである。
 またある日、古本屋でわたしは、あるとっ飛なアイディアが浮かんだ。いまどきでは珍しい十円という値段のフランス語の入門書と、英文法、ドイツ語それぞれの入門書を買って帰った。そしてアルファベットの説明、発音の説明と順を追って、説明文の一字一句、句読点にも目を輝かせて熟読した。この復習方でわたしは幾重もの驚きを発見した。しかし一般には、自分が実際に使った、赤線や書き込みで汚れた入門書や参考書を引っ張り出して、いま一度挑戦するのもmaintenanceのよい方法と思う。わたしにとって復習は大きな喜こびの発見であり、真実としての知識の普遍性の確認であった。
(『20ヵ国語ペラペラ』「新版発行に際して」p.251-252)

なぜこれが、文法を後で習った方がいいという話につながるのか分りにくいと思いますが、種田氏ほど語学に通じた人が、入門書を買って読みふけったという点に、似た脈絡を感じるのです。それによって、もともと確実だった語学の知識はさらに頑丈なものになったと思います。

文法については、文法的に分析する訓練を受けた人は、他の言語を学ぶときにも自分で分析して規則を見つける習慣ができるので、何ともいえないのですが、外国語学習の最初の段階では、規則にあまりこだわらずに、与えられた言葉遣いを受け入れ、それに慣れてきた中級の後半あたりから、より精密な文章を読む助けとして、文法を習うのがいいのではないかと思います。

楽しい読み物を読んでいる段階では、まだ理論としての文法は習わなくてもいいかもしれませんが、“英語征服の技術1”の著者が言うように、契約書を読んだり、人文科学の著作物を読んだりする場合、正確にな解釈が得られるようにするために、理論的な文法を学ぶことは必要だと思います。

いや、私は日本人も明晰な文章を書くために、闇雲にたくさん書かせるのではなく、文法の学習が必要だと思うのですが、残念なことに、学校文法を学んでも、日本語の構造についてあまり有益な教えは得られないでしょう。むしろ、日本語教師のための文法の本から始めて、三上章や寺村秀夫、鈴木重幸などの本を読んでいったら、日本語の論理性について何らかの見識が得られるのではないかと思います。ああ、それから、『基礎日本語文法』(益岡隆志・田窪行則著、くろしお出版)は、簡略な本ですが、私はこの本の文法観が好きです。中でも、接続助詞と並立助詞を、用言と体言という垣根を取り払って、一つの共通する並立構造の中で捉え、両方とも“接続助詞”の名で呼んでいる点に、敬意を覚えます。それによって文法の風通しがよくなり、日本語の論理的構造がすっきりと説明できるからです。

ということで、外国語学習の問題からはみ出してしまった、文法の話でした。

To ijustat@chance at 2004 08/01 17:55 編集 返信

CANON―現代に影響を与えている文献

Kuroneko様、こんにちは。

영어 정복 기술 1(英語征服の技術1)”という本を読みました。この著者も文法不要派に属するのですが、文法の必要性を強調しています。どういうことかというと、韓国で子どものころに英語を勉強し、中学生になってから母親と一緒にアメリカへ渡ったのですが、文法を一生懸命勉強している間は、他の外国から来た学生たちと比べて伸び悩み、自分の話す英語も、アメリカ人のクラスメートたちに、からかわれたり物まねされたりして、大変な苦労をしたそうです。それが、ドイツから来た学生の英語学習法を見習って自分の学習方法を変えてから、とたんに成績が伸びたと言っています。

中学生のときからアメリカに暮らしたら、自然に英語が伸びるのではないかと漠然と考えることが多いものですが、この著者の体験談を読む限りでは、かなりの苦労があるようです。この本は、個人の体験から編み出された非凡な学習方法を紹介したもので、言語習得全般を眺め渡しているわけではないので、部分的には“あれっ?”と思うところもあるのですが、母語は自然に習得されると言っていないところが、この著者の非凡なところかもしれません。

その中で、アメリカやその他西洋諸国には“Canon”と呼ばれる基本図書があり、それを読んでおかないと、英語がまともに理解できないと言っています。それは、ホメロス、キケロ、デカルト、マキアベリ、シェークスピアなど、いわゆる古典と呼ばれるものですが、もともと英語で書かれたものは、あまり多くありませんね。著者は聖書について触れていませんが、“Canon”という点で見れば、聖書は最大の“Canon”で(この語は聖書を“Κανών(正典)”としたことから派生したのだと思います)、特に英語では、“King James Version(欽定訳聖書)”がよく引用されていると聞いたことがあります。また、“Canon”はその人の専門分野によっても違ってくるそうです。そしてこれは、時代とともに徐々に増えているのだそうです。

そのように考えるとき、Kuronekoさんが指摘されたように、母語でも意識的に、一生懸命に学ばなければ、まともに使えるようにならないことが分ります。巷の“母語と同じように外国語を学ぼう!”というキャッチフレーズで教えられるのは、初級の簡単な決まり文句ぐらいでしょう。「文法の裏付けのない暗記には否定的です」とおっしゃった通り、暗記した文章が文法的に分解できなければ、応用できません。森首相が以前クリントン大統領に“Who are you?”と言ったのは、“How are you?”の変形といえば変形ですが、文法を分解して正確に応用したものではないでしょうね。(笑)

で、この“Canon”という概念に、ほんの少しこだわってみるのもいいのではないかと思いました。英語を学ぶなら、ホメロス、プラトン、アリストテレスから始まり、聖書(アメリカでは“King James Version”が最大で、次に“New International Version”が多く読まれているそうです)、マキアベリ、シェークスピア、マザーグースが、私が思い浮かぶ程度です。Kuronekoさんなら、もっとたくさんご存知だと思います。

日本語と韓国語で共通する“Canon”について考えてみました。それはやはり、中国の古典です。特に「論語」「孟子」を初めとして、「大学」と「中庸」は、ほとんど忘れ去られていますけれども、実は必読だと思います。それから、「詩経」の中の有名な詩と、「易経」。私は「易経」を前の部分だけ読んで挫折しましたが、韓国では“〜菩薩”と名乗る職業ムーダンたちが、「易経」の内容を自分勝手に引用していい加減なことを言っているので、一般人は「易経」をきちんと学んでおく必要があると、ある東洋哲学の教授が言っていたそうです。また「易経」は、ハングルを作る時点で理論的な基礎となっている、重要な文献です。「書経」も重要な書物ですが、これは開いたこともないので、まったく分りません。韓国ではこれらの“経書”の解釈として権威を持っているのは、朱子の著した集註です。「荘子」と「老子」は、日本では孔孟と並んで重んじられていますが、韓国ではそれほどでもないようです。儒教を国教としたことのある国ならではのことでしょう。それから、仏教徒にしか通じませんが、「般若心経」と「法華経」は、その知識は会話に深く入っていくときに、思わぬ役に立ちます。

そのあたりが、韓国と日本とで共通する“Canon”でしょう。西洋の人たちは、それらの基礎知識がないので、韓国文化に深く入ることができないようです。日本人でも、それらをまったく知らない人たちが、韓国文化の真髄にどれだけ触れられるかは分りません。

日本での“Canon”は、何なのか考えてみました。私が思いつくのは、古典では、「古事記」、「万葉集」、「竹取物語」、(「土佐日記」、)「古今和歌集」、「枕草子」、「源氏物語」、「新古今和歌集」、「方丈記」、「徒然草」、「歎異抄」、「平家物語」、井原西鶴、近松門左衛門、松尾芭蕉、「日本外史」、「南総里見百犬伝」と言ったところでしょうか。近代では、「学問のすすめ」、「西国立志篇」、森鴎外、夏目漱石……うーん、どうしても詩と小説に偏っているみたいですね。この中には、読みさしたものがけっこうあります。読んだけれど内容をほとんど覚えていないものもあります。だから、これらが本当に“Canon”ならば、私は基本的教養の欠けた人間ということになります。(汗)

もしかしたら、文化というのはこのような“Canon”に支えられているのかもしれません。そういう意味で考えれば、韓国というのは、けっこう近い国ですし、西洋はやっぱり遠い国だと思います。私の場合は“聖書”という一点で結ばれていますが、私にはホメロスもアリストテレスもないし、西洋の人たちには、論語も万葉集もありません。実際私は、ギリシャ語を教えてくださる神父さんが、ギリシャ語で“standard”を表す現代ギリシャ語の“κανόνας”は英語の“canon”と同じ単語だと言われたとき、“cannon”のことかと思って、何を神父さんは言いたいのか理解できませんでした。“標準”がなぜ“大砲”になるのか、一生懸命接点を探して彷徨ったのです。“canon”というのは、深い文化的背景を持った言葉ですが、この言葉の本当の“感じ”を理解するのは簡単ではないかもしれません。

まあ、いずれにしても、その文化を過去から支えている偉大な書物があって、それはその文化で教養人となるには必須のものとされているものです。まあ、せめて名前とあらすじと、有名な引用句ぐらいは知っておいてほしい書物ともいえるかもしれません。そうそう、大学受験のとき、日本史資料の一つで、歴史事実を証言する文書を現代語訳つきで集めたものがありますが、あれはすばらしい資料だと思います。私は山川出版社の『史料による日本史』(笠原一男・野呂肖生、1978年)を持っていますが、これは、古文で書かれたものは原文のまま、漢文で書かれたものは書き下し文にし、イエズス会などの外国史料のものは、原文なしで現代日本語を提示しています。法令文が多いですが、当時の時代を生々しい言葉で表現しているのがすばらしいです。いくつか興味のある部分しか読んでいなかったのですが、“Canon”という言葉に触れてから、これも日本の歴史を知る第1次史料として重要なものだと気がつきました。

英語の学習について書かれた本で、“Canon”とは言っていないけれど、よく引用される文献に言及しているのは、『「超」英語勉強術』(長谷川潔著、ごま書房)の114頁あたりと、『英文快読術』(行方昭夫著、岩波現代文庫)の69頁あたりです。どちらもよく似たことを書いています。

「クリスティだけでなく、『マザーグース』の一説を小説の中で引用している作家はたくさんいます。『マザーグース』は誰でも知っているという前提があるからこそ引用できるし、読んだ人もすぐにピンとくるのです。もし、『マザーグース』を知らなかったら、違和感を感じるでしょうし、作品の味わいがわからないかもしれません。いろいろな小説を原書で読んでいこうとするなら、その手始めとして『マザーグース』を読めば、実際に小説を読むときの下地づくりもできるというわけです。」(『「超」英語勉強術』p.115)

「マザーグースの唄の他、聖書やシェイクスピアの作品中の有名な句を知らないために、正しい読解ができないことも多い。英文を読みなれてくると、「ここは引用くさいぞ。それとも諺か格言があるのかな」という勘が働くようになる。」(『英文快読術』p.71)

キリスト教書籍なのに、聖書からの引用だということに気付かないで訳したものは、すぐ分るし、そのような訳は、粗雑な印象を受けてしまいます。このように、“引用くさい”という勘を身に付けることは、“理解”する意思を持って文を読む人には、重要なことだと思います。

また、それが会話にも役立つことを指摘しています。

「誰でも知っている『マザーグース』はいわば一般教養ですから、アメリカ人やイギリス人と話をするときに話題にすることもできます。」(『「超」英語勉強術』p.116)

それで、“영어 정복 기술 1(英語征服の技術1)”を読んでから、洗面所の私の歯ブラシがなくなっていたので、附箋に“WHO MOVED MY TOOTHBRUSH?”と書いて鏡に貼っておいたのですが、妻はそれを見て、意味は理解したけれど、何の引用かは考えなかったようで、ただ「ごめんね。間違って子どもに持って行かせちゃった」とだけ言われました。結局このもくろみは、自己満足に終わってしまいました。(笑)

To しんちゃん at 2004 07/31 01:02 編集 返信

RE:お誕生日おめでとう

しんちゃん様、書き込みありがとうございます。

>30unn歳のお誕生日おめでとう。
>一日一日、じっくり好きなこと研究して有意義に過ごしてください。
>神様の平安と祝福が豊かにありますように。

ありがとうございます。まあ、好きな研究というわけには行きませんけれど、頑張ります。^^;

しんちゃん様にもイエス・キリストの平安と祝福があることを願っています。

From しんちゃん( Mail ) To ijustat@chance at 2004 07/31 00:43 編集 返信

お誕生日おめでとう

30unn歳のお誕生日おめでとう。
一日一日、じっくり好きなこと研究して有意義に過ごしてください。
神様の平安と祝福が豊かにありますように。

To 鈴 at 2004 07/29 20:59 編集 返信

RE:意味を教えて下さい!

鈴様、書き込みありがとうございます。

>ドラマの中で「イッソヨ」「カッソヨ(間違ってるかも・・・)」って韓国語で言ってたんですけど、そこが日本語訳が出てなかったんです。知ってたら教えて下さい

字幕の出し落としというのもあるんですね。「イッソヨ(있어요)」は“あります”または“います”の意味で、「カッソヨ(갔어요)」は“行きました(帰りました)”の意味です。ただし、カッソヨは慣用的な意味が多いので、その言葉が発せられた状況が分からないと、実際のところは分かりません。もし慣用的な使い方だった場合、“機能しなくなった”とか“(頭が)いかれてしまった”、“死んだ”、“(食べ物が)傷み始めた”などの、だめになってしまったというような意味で解釈すれば、大方の状況はカバーできるのではないかと思います。

From 鈴 To ijustat@chance at 2004 07/29 17:39 編集 返信

意味を教えて下さい!

ドラマの中で「イッソヨ」「カッソヨ(間違ってるかも・・・)」って韓国語で言ってたんですけど、そこが日本語訳が出てなかったんです。知ってたら教えて下さい

From Kuroneko( Mail ) To ijustat@chance at 2004 07/28 16:30 編集 返信

RE:分析肯定

ijustat様はお休みですか。いいですね〜。

さて、文法分析を否定する方々の意見をまとめると、

1. 母語は自然に身につけた。
2. ゆえに、外国語も母語と同じ過程で身につけよう。

ということだと思います。今まで、主に「2.」の考え方がおかしいのではないか、という点でijustat様とやり取りをしていたのですが、「1.」の考え方自体、おかしいのではないのかなぁ、と思ったりもしました。以前、紹介した『外国語の水曜日』という本で、著者の黒田龍之介が次のように書いています。

「ところで、たとえばこの文を読んでいる人は日本語ができるわけだが(中略)、ではどうして日本語ができるのか? それは日本人だからではない。日本語を話す環境に育ったか、日本語を学習したかのどちらかである。さらに読み書きに限って言えば、これはもう間違いなく、勉強をした成果としてできるようになったのである。
 わたしたちは日本語があまりにもあたりまえのものとなってしまっているため、あたかも何の勉強もせずに日本語を身につけたかのような錯覚に陥ってしまいそうになる。だがそんなことはない。幼い頃には学校に通って「国語」という名のもとに日本語を勉強したはずである。そのおかげで日本語が話せるようになった、という実感を持つ人はあまりいないと思うが(しかし本当は大きく影響を受けている)、少なくとも漢字はせっせと練習したことを覚えているのではないだろうか?」(『外国語の水曜日』,pp.113-114)

日本は、ほとんど全ての国民が高等学校に進学するという、教育程度の高い社会なので、ほとんどの人が簡単な読み書きは最低限できるため、母語を学校で学んだという意識が希薄なのでしょう。ですが、日本以外の地域では、満足な初等・中等教育を受けることができなかった方で読み書きができない人もいますし、また母語を規範文法に則って用いることができない人もいます。アメリカかイギリスかどちらの話かは忘れてしまったのですが、‘I should have …’を‘I should of …’だと思っている人が結構いるそうです。発音が近いことから間違えるらしいのですが、文法的に正しい英語を知っていれば間違えないことだと思います。また、50年近く前の小説の話なのですが、ハードボイルド作家のレイモンド・チャンドラーの小説に、次のような一節があります。

「電話の声は、いっそう冷たくなった。「法律にふれる仕事なら、君には頼まないさ」
 たしかに、ハーヴァード大学を出た男だ。仮定法の使い方が文法にかなっている。」(レイモンド・チャンドラー,清水俊治訳『さらば愛しき女よ』早川文庫,1976,p.47)

ハーヴァード云々といったくだりは事実ではなく、主人公のフィリップ・マーロウの皮肉なのですが、正しく文法を使えることが高い教育と結びついている例だと思います。いろいろと書いてきましたが、つまり、母語でも意識的に学んできた、ということが言いたかったのです。そうなると、“母語と同じように外国語を学ぼう! だから、文法はいらないよ!”という意見はおかしいですよね。

実際、日本の古い語学教育のように、文法しか勉強をしないとか、文法能力のみで語学力を測ったりするとか、極端に文法に偏重するのはよくないのですが、かといって文法を否定しまうのも問題ですね。ただひたすら、英会話集などでフレーズやセンテンスを暗記している人がいますが、文法の理解がないまま覚えているとしたら、応用ができずに覚えたままの表現以外しか使えない状態になると思います。ijustat様が『和文英訳の修行』の例文を例に挙げていましたが、もしijustat様があの文を分析せずに分らないままで覚えていたとしたら、あの文を元に新しい文を作ることができないと思います。逆に言えば、文法的に理解できれば、あの文から得るところは大きいですね。例えば、‘To realize … is …’という部分から、不定詞を主語にできることが学べますし、‘… is you have only to …’からは、補語にあたる部分に文(節)を持ってくることができることも学べます。ですから、僕はセンテンスや文章を丸暗記することは大賛成ですが、文法の裏付けのない暗記には否定的です。

お話に出ていたクラッシェンですが、文法否定といいますか精読的なアプローチを否定して、多読を奨める人などがよく引用していますね。クラッシェンは文法理解のあり方を‘acquisition’(「獲得」)と‘learning’(「学習」)に分けて考えており、ijustat様が書かれているように、「獲得」できていなければ言語を運用できないということのようです。「学習」と「獲得」の違いは、「学習」は文法書を読んだりすることで意識的に学ぶことであり、一方、「獲得」は日常的な言語使用の中で自然に(意識せずに)身につけていくことです。クラッシェンは、「学習」を完全に否定して、「獲得」的アプローチのみで外国語を習得できると述べており、そのための方法が「認知可能な入力(‘comprehensible input’)」というもので、具体的には学習者が理解できる内容より少し難しいものをたくさん読んだり、聴いたりしていく方法です。クラッシェンは良い事も述べていると思うのですが、「学習」を否定している点が問題だと思います。僕自身は「学習」的アプローチをした後に、「獲得」する作業を行なっていくことが、大人が外国語を学習する際に、最も効率のよい方法だと思います。また、入門書で文法や語彙を学んでいくことは「学習」なのだと思いますが、そこに例文音読や暗誦を組み込むことで「獲得」的アプローチに限りなく近づけていくことができると思います。例えば、「動詞‘wish’の目的語になる節は仮定法」というように文法規則を日本語の説明で覚えていくような「学習」は、僕も否定的ですが、‘I wish I were back home.’といった例文の形で覚えている分には問題がないのではないでしょうか。

野口悠紀雄氏の「分解法」を国弘氏が「おそらく著者は、『英文を知的に分析しているだけでは、英語ができるようにはなりませんよ。暗記するほど、繰り返さないといけません』と言いたかったのでしょう。それがつい勢い余って、分解法は×、丸暗記法が○という図式で噴火した」と分析しているように、クラッシェン自身も過去の外国語学習法の問題点を追及するあまり「学習は×、獲得は○」というように単純な構図で示してしまったのかもしれませんね。野口流の学習法にしても、クラッシェン理論にしても、一通り文法学習を終えた人にとっては有用な方法だと思いますし、外国語が堪能な方々は意識せずともそのような学習(例えば、多読など)を行なってきたのだと思います。ijustat様が例に挙げられていた。チョン・チャニョン氏の『英語は絶対勉強するな』(邦題では「絶対」という言葉が入っています)も、一通り文法学習がすんだ方や受験で学んだ文法力を顕在化させていきたいと考えている方にはよい方法だと思います。この本は日本でもかなり売れていて、その本で示されている学習法を実践されている方も結構いるようですし、ウェブ上で「英絶式学習」(「英絶」と略されたりします)の学習日記を公開されている方もいます。それらを読んでいますと、学生時代に英語が苦手だった方は上手くいっていないことが多いようです。実際、従来型の学習法で文法・精読などを行なってある程度基礎力がついてから、チョン氏の学習を取り入れたら、成果が見えてきた方もいるようなので、やはり、外国語学習のある段階ではクラッシェンがいうところの「学習」的なアプローチが必要になってくるのだと思います。

このようなことを書いていると、自分が「外国学習の保守反動」(笑)のような気がしてきますが、あくまで、極端な文法否定、分析否定に反対しているのであって、野口氏の暗記法にしても、クラッシェンの「獲得」概念にしても、それらを全否定しているわけではないのです。従来からの学習法にも良いものはあるわけなので、そこは否定しないでもらいたいものだと思って、このような駄文を書いたりしているKuronekoでした。

To 氷雨 at 2004 07/26 02:48 編集 返信

RE:報告

氷雨様、書き込みありがとうございます。ijustatです。

>報告と言うのはなんですが、とにかく
>いよいよ夏季節学期も無事終わったし
>本格的にドイツ語と英語の勉強ができるようになりました

本当によかったですね。ドイツ語は、私もいつかはぜひできるようになってみたい外国語です。頑張ってください。

>これが三番目の外国語なんですからもっと
>軽く行きましょうって感じではじめました
>まずは、文法や構造などには構わず
>文章のありのままで読むことをやっています
>それに新しい単語の整理とか

なるほど。ドイツ語の学習書は、最初は英語と同じ部分を強調ながら始めるでしょうから、英語が分かる人にとっては、形態はともかく、構文に関しては、ほとんど英語のノリで始められるのではないかと思います。いかがですか。ドイツ語初級の初めの部分は、私が見ても何が書いてあるのか分かるところを見ると、英語をかなり意識しているはずです。

>高校ん時一応基礎は習ったから、語彙力向上に努めようと思います
>うまく行けばいいな

高校のとき勉強したのなら、きっとうまくいくと思いますよ。ところで、学習書はどんなものを選んだんですか。私も図書館で見てみたいと思います。韓国ではドイツ語学習書が良書または名著として知られているのかも、知りたいです。

>あ、もしかして“カムチャッカ”というアイヌ語はあるでしょうか?
>偶然聴いたんですが、何故だかアイヌ語っぽい感じがしましたので

カムチャッカは北海道にある半島の地名ですよね。きっとアイヌ語だと思うのですが、インターネットで“カムチャッカ”と入力しても、その単語の意味について教えてくれているサイトはちょっと見つかりませんでした。

アイヌ語はこれまで、かなり軽く見られてきて、言語学者の関心しか得られませんでしたが、最近はアイヌの人たちもアイヌ語を復活させようという機運が高まり、またアイヌ人でない日本人の間でも、日本語と深くかかわっている言語ということで、90年代ごろから、アイヌ語への関心がずいぶん高まってきました。

最近では大手出版社でもアイヌ語の辞書や学習書を出帆していて、CD付きのものもあります。私も白水社の『エクスプレス・アイヌ語』を持っています。中学生か高校生のころから、アイヌ語に憧れを抱いているのです。それは、時々ふと思い出したように沸き起こっては消えていくのですが、いつかアイヌ語を学んで、『アイヌ神謡集』(岩波文庫。アイヌ語−日本語対訳)の美しい世界に遊んでみたいと思っています。

To Kuroneko at 2004 07/26 02:59 編集 返信

分析肯定

Kuroneko様、こんにちは。今週から1週間の休みに入って、ちょっとはねを伸ばしています。

>凝った文体の文章を読んだり、悪文を読んだりするときに意識せずに分析作業を行なっていますし、受験生などが現代文の問題に取り組む時なども、意味を取り違えないように、分析的な読みをしているのではないでしょうか。

私もそう思います。そういうときには、意識的に分析してみなければ、その文の構造がつかめないと思います。分析否定派の人は、それによって外国語の習得が妨げられると考えているのでしょう。しかし、そんな心配はないと思います。意味が分からない部分は、いろいろと頭を使って分かろうとすることが大事だと思います。読む(または、聞く)という行為は、理解することへの意思の表れなわけですから。

たとえば、『和文英訳の修行』の暗誦例文には、“To realize how important a job teaching is, you have only to imagine a world without teachers or schools.”(323番、42ページ)という文がありますが、この中の“how important a job teaching is”という部分は構造が複雑です。Kuronekoさんには何ともない基本的な文だと思いますが、私はここで突っ掛かりました。これはきっと“teaching is a very important job”という元の文が、文脈に適用されるために変形されたものでしょう。けれども、その元の文が、初めは見えてこなかったからです。

そこで私なりにその変形過程をはっきりさせようと考えました。まず“元の文”を要素に分けると、“[teaching] [is] [a <very important> job]”になります。これは実にシンプルな第2文型ですね。この文の「とても(very)」が、まず「どんなにか(how)」に変わって、“*[teaching] [is] [a <how important> job]”という形になります(例文の前に付く星印は、文法的でない文であることを表します。Kuronekoさんはご存知だと思いますが、知らない人のために付記しておきました)。

ここから語順の変形が始まります。“how”は文頭に来なければいけませんから、“*how [teaching] [is] [a important job]”という形になります。しかし、“how”が掛かるべき“important”が離れてしまったので、その隣接を回復させるために“*<how important> [teaching] [is] [a job]”とします。しかし、補語が二つに断たれてしまっているのはいけないので、分断した補語を元に戻すために、“[<how important> a job] [teaching] [is]”となり、例文の語順に収まります。

この分析が妥当かどうかは別にして、一応これで私自身は明快な理解が得られたわけです。

もちろん、分析というのは、あくまでも“理解”する段階での話であって、重要なことは、それを身に付けることです。Kuronekoさんが、「分析も、分析だけしてそれでおしまいにしてしまうと、駄目ですね。「分析」のついになる概念は「総合」ですが、外国語も分析して理解したあとに、それを一つの活きた伝達の体系として「纏め上げる」作業が必要だと思います。それを行なわないと、せっかく分析作業で得た知識を運用できるレベルまでに引き上げることができないからです」とおっしゃっている通りです。

先日あるサイトで見つけたのですが、クラッシェンという人(言語習得の文献ではよく引用される人ですが)がこう言っているそうです。

… human acquire language in only one way―by understanding messages, or by understanding 'comprehensible input.'
人間はただ一つの方法で言語を習得する。それは、メッセージを理解することによって、というか、「理解可能なインプット」を理解することによってである。―Krashen, S.D. The Input Hypothesis. London: Longman, 1985.
(http://allabout.co.jp/study/toeic/closeup/CU20030216A/index.htmから原文と文献名を引用、訳は拙訳)

私はこの有名らしい文献を読んでいないので“input”が具体的には何なのか分かりませんが、私に読み取れることは、理解できなければ言語として習得できないということです。ここでポイントになるのは、“acquire”することです。しかし、それは“understanding”を抜きにできないといっているわけです。私たちの学習で問題になるのは、“understanding”が実質的に最終目標となってしまっていることが多いことです。“understanding”はあくまでも経路であり、最終目標は“acquire”することのはずです。けれども、以前の私もそうだったのですが、“understanding”がすなわち“acquire”したことと勘違いしてしまうのです。この勘違いと、文法学習の是非に関する論争とは、何か関係があると思います。

ところで、「語学館」というサイトに、最近人気がある文法無視系教材に対する批評が、書かれていました。そのような教材が大きな効果を得るのは、学校で文法の勉強をまじめにしてきた人たちだといいます。つまり、「このような人が『文法などいらない』系の教材を使用すると、いままで『学問的文法知識』レベルで止まっていた文法能力の一部が刺激され、『受動的文法』レベルや『能動的文法』レベルへ移行して」いくわけです。つまり、文法無視系教材は、「文法を否定しながら、その実は学習者が既に持っている文法力に依存している勉強法である」と言っています。読んでいて痛快でした。(http://www.polyglot-master.org/eigo/grammar/gram05.html)。

だから、Kuronekoさんが「分析否定派の方々は一度、英語以外の外国語を勉強してみると良いと思います」と言われたのは、至言だと思います。そして、上の記事は、Kuronekoさんが続けて「英語は中学1年から学習していますし、特に大学受験経験者は英語の知識はそれなりにあるため、意識的に分析しなくても理解できてしまう部分があるで分析を否定する学習法が支持されるのだと思いますが、全く知識のない外国語に取り組めば、いかに分析することが有用かということが理解されるのではないでしょうか」と指摘されたことと、原理的に共通している意見だと思います。

一方、『より良い外国語学習法を求めて』(竹内理著、松柏社)では、「文法知識やそれを利用した活動の重要性に関しては、予想外に多くの達人たちが言及している」(132ページ)と指摘しています。そして、昨今の日本の英語教育で、文法学習が一種のスケープゴートのようにされていて、コミュニカティブな側面ばかりが強調される嫌いがあることについても、「達人たちは決して文法知識やその学習を軽視しておらず、むしろEFL(=外国語教育)において文法学習がないがしろにされることは危険である、とさえ考えているようであった」(133ページ)と報告しています。

こんな引用があります。「分析的に読むことを大学1年のリーディングの授業で学びましてね。教師からではなくて、同級生からですが。この時初めて、すべての文章がストンと理解できる経験をしました。大げさにいえば、目から鱗が落ちる経験ですが、文法や構文の知識ってこんなに役立つものかと感動しましたよ。なにしろ、いままで理屈ぬきでfeelingとして覚えていたものが、スパッと理解できるんですからね。」(132ページ)いやあ、英文でこんな経験を私もしたいです。

なお、『より良い外国語学習法を求めて』で、英語の達人たちとインタビューした結果目立つ点は次の通りだったそうです。(113〜132ページ)

1.寝ても覚めても
2.継続と定期性
3.使う機会を増やす
4.まずは深く聞く(広く聞くのはその後)
5.興味のあるものを大量に読む
6.徹底した例文暗記と活用練習
7.音・韻律から入る
8.「文章まるごと」と「リスト化」
9.作文は借り物から上達する
10.文法は大切

なお、英語の達人たちは、「学習方法が『教える』ことのできるものであり、『学ぶ』ことのできるものであると考えているようであった」(113ページ)とも報告しています。

また、外国語学習の成功者が表した書籍の調査では、次のような傾向が見られるそうです(141〜161ページ)。

1.メタ認知方略に高い関心
2.まずは深く聞く
3.音読と多読
4.基本文例の活用と暗記、そして実際での使用
5.よく聞き、まねて、なおす
6.一定レベルまでは、とにかく増やす(語彙の学習)
7.読まないと書けない
8.大人と子どもはおのずと違う
9.道具としての外国語

以上の結果を見ると、最近一般的に脚光を浴びている方法もあれば、そうでないものもありますね。私としては、“継続と定期性”が脚光を浴びるようになったら、日本人の英語力の将来は明るいと思うのですが、今のところ、それに何段落も費やして強調しているのは、野口悠紀雄氏の『「超」英語法』しかないようです。

あ、そうそう。野口悠紀雄で思い出しましたけど、以前私が「分析法」と書いたのは、「分解法」の間違いでした。すみません(汗)。「分解法」に関しては、『「超」勉強法』59〜75ページで詳しく扱われています。

野口悠紀雄氏は、「分解法」と対立する「丸暗記法」が威力を発揮する例として、ケネディ大統領の演説の一節を挙げて読者に暗記させてみています(50ページ)。しかし、この一節は、皮肉なことに、文法的に分解して理解できなければ覚えられないことを証明してしまっているのです。野口氏は、20回も音読すれば覚えられると言っていましたが、以前私が試してみたときは、20回読んでも全然頭に入ってきませんでした。まさに、Kuronekoさんが「短文にせよ、まとまった量の文章にせよ、暗記をしたことがある方は皆、経験していることだと思うのですが、文法知識が暗誦の助けになることが結構よくあります」とおっしゃっているとおりです。

野口悠紀雄氏の「分解法」をもう少し詳しく見てみましょうか。分解法の定義を野口氏はしています。

 例えば、“This is a book.”という文章があるとしよう。
1 まず、この文章を四つの単語に分解する。
2 This =これ、is =である、a =一つの、book =本、と一対一に対応付ける。そして、ここの単語の意味を覚える。
3 次に、英語では、主語(S)、述語(V)、補語(C)の順に並ぶという「文法の法則」を習う。
4 疑問形は、be動詞の場合にはVSCの順になることなどを習う。
5 応用は、bookをpenに変えればよい、などと習う。
6 他の文型(SVO、SVOCなど)を習う。
7 分子構文、複文節、仮定法など、もっと複雑な構文を習う。
 この方法を「分解法」ということにしよう。(59〜60ページ)

この7つをすべて否定していると考えると、ちょっと問題があるんじゃないかと思ってしまいますが、実際には、その中でも特に2番をいちばん問題に考えているようです。英語と日本語が一対一で対応するわけがありません。韓国語のように日本語ととても近い関係にある言語でさえ対応しないのだし、英語を介してギリシャ語の作文をしても、その表現は英語的だと指摘されることもあるのですから、日本語のように英語からかけ離れた言語を一対一で対応させれば、その齟齬はかなり深刻なものになるということは、当然だと思います。

野口氏が指摘する、分解法の問題点(60〜68ページ)は、1)単語は一対一に対応しない、2)単語は関連付けないと覚えにくい、3)聞き取れない、4)冠詞と前置詞の使い方、5)英語的な表現ができない、6)退屈、ということで、結論として、「日本語と英語は違う体系であり、一対一に対応しない。英語は日本語とは別の言葉である。ここの単語を日本語に対応して置き換えることはできない」(70ページ)と述べています。

これらの問題点は、だいたい同意できますが、3番の「聞き取れない」というのは、別の訓練だと思います。また、それと関連して6番も、実際の音声に触れるという別の問題を持ち出してきています。野口氏ともあろう偉い学者が、あれこれごちゃごちゃに混ぜてしまっているのが残念です。もちろん、言語学習のいろいろな要素を整然と体系付けて説明してしまったら、分解法がいけないという意見自体を自己否定してしまうことになりますから、多少混乱していた方がいいのでしょうけれども。

そして、73〜75ページでは、分解法の肯定的な側面について述べていて、最後に「分解法は、英語を習得してからあとで効果を発揮する」(75ページ)と言っているのです。そこでは、先ほどの2番を除いた言葉の分析を奨励しています(まあ、若干の訳は避けられませんが)。後で効果を発揮させるためには、最初から分解法を行っている必要があります。結局は、分解法はよくないと言いながら、分解法もいいぞ、と言っているかのようです。結局、それらのために、だいぶ歯切れの悪い議論になっていると思います。

私は言葉を学習するときに、分析作業を時々行いますが、野口氏が否定する分解法を見ると、私が分析している言語の見方とはまるで違います。私はその言語の複雑な構造を、同じ文の背後にもともとあった(と考えられる)、もっと単純な構造を見つけることから理解しようとしているからです。つまり、中学英語で解決する方法を模索しているわけです(日本語や韓国語で考えることは、あまりありません)。そういう意味でも、「自由に英語で表現できるようになるには、中学レベルのものをしっかりアタマの中に叩き込んでおく必要がある」とおっしゃったのは、何度も噛みしめて味わうべき言葉だと思います。『영어 공부 절대로 하지 마라!(英語は勉強するな)』のチョン・チャニョン氏も、やさしいものがしっかり身に付けば、難しいものはやさしくなると言っています。この人の本は、いくつかの勇み足と、わずかな事実の間違いがありますが(日本語訳では是正されているかもしれませんけど)、概してそれらの意見は自分の体験からでていて、私が韓国語を身につけたときの体験とかなり一致する点があるので、無益な本だとは思いません。

國弘正雄氏は、『「超」勉強法』の英語学習法について、『國弘流英語の話しかた』で「心情的には著者の説くところにかなり共感的です。私も常々、文の分析ばかりをする人々には批判的でした」(125〜126ページ)と言っています。では、何が問題なのかというと、「丸暗記のすすめを分解法と対立させて強調する説き方です」(126ページ)と言います。そして、「私にはこの二つが、本質的に対立関係になるとは思えません」と続けています。私もまったく同感です。ただし、國弘氏の理解している「分解法」は、私のいう“分析”とほとんど同じ意味で、母語を介す、介さないは、問題に入れていないようです。単に、理解することへの意思として、野口氏の分解法を理解しているように見えます。

そして、「おそらく著者は、『英文を知的に分析しているだけでは、英語ができるようにはなりませんよ。暗記するほど、繰り返さないといけません』と言いたかったのでしょう。それがつい勢い余って、分解法は×、丸暗記法が○という図式で噴火した」(128ページ)とまとめています。『「超」勉強法』の歯切れ悪く感じられる部分を、鮮やかにフォローしてくれていると思います。野口氏の英語学習法は、この國弘氏の言葉をメッセージにすれば、もっと歯切れよくなったはずです(もちろん、野口氏が同意されるかどうかは分かりません^^)。

ということで、今回は外国語を“分析”することについて、少し調べながら考えてみました。ちょっと長くなってしまいましたね。おしゃべりなijustatでした。

From 氷雨( HP ) To ijustat@chance at 2004 07/25 21:10 編集 返信

報告

ijustatさん こんにちわ 氷雨です

報告と言うのはなんですが、とにかく
いよいよ夏季節学期も無事終わったし
本格的にドイツ語と英語の勉強ができるようになりました

これが三番目の外国語なんですからもっと
軽く行きましょうって感じではじめました
まずは、文法や構造などには構わず
文章のありのままで読むことをやっています
それに新しい単語の整理とか

高校ん時一応基礎は習ったから語彙力向上に努めようとしてます
うまく行けばいいのにな

あ、もしかして”カムチャッカ”というアイヌ語がありしょうか?
偶然聴いたもんですが何故だかアイヌ語っぽい感じがしましたので

ではでは

From Kuroneko( Mail ) To ijustat@chance at 2004 07/24 17:11 編集 返信

RE:お手本

>>そして、「基礎作りの段階では、教材に関して禁欲的な人が成功する確率が高い」(83ページ)と述べています。
>>現在は「教材に関する誘惑は多い」けれども、「いくら立派な教材でも、努力の肩代わりはしてくれません」と言っています。
>>この言葉は名言だと思います。

ぐぅ、、、本当にその通りですね! もう、僕なんか反省します。だって、教材選びで満足してしまい、買った教材が本棚で眠っていることもありましたから。。。あと、個人的な考えなのですが、「学習法に関しても禁欲」な人も、語学習得に成功する確率が高いと思いますね。あれこれと教材に手を出して、あれこれと違った学習法に手を出すのが、一番よくないですね。僕自身は、学び方はある程度定まっているのでフラフラしませんが、教材は目移りする可能性があるので気をつけなければいけないなぁ、と思っています。また、教材に関して言うと、自分が使っている教材に何か愛着のような気持ちを持つことが出来れば、上手く勉強できると思います。

あと、音声教材は必要ですね。正しい発音のためにも必要ですし、暗記するにも朗読があったほうが覚えやすくてよいですし。フランス語に関して言えば、個々の単語に関しては英語より綴り字と発音の規則性があるため発音が容易だと思いますが、文単位で考えると抑揚等の問題もあるのでCDやテープは必要です。また、個々の母音や子音の発音のことを考えると絶対、音声教材は必要ですしね。ただ発音に関しては、音声学の素養のある先生について学ぶことが出来れば、それが一番いい方法だと思います。

>>シュリーマンは、外国語学習を暗記によって行っていましたが、そのお手本は、体系的な学習書ではなくて、小説だったようですね。

>>ところで、かなり外国語ができる人が、その実力を一気にブラッシュアップさせる方法としても、何らかのテキストをお手本に選んで、
>>徹底的に学習することは有効だと思います。

関口存男のお手本も小説(『罪と罰』の独訳)でしたね。あるテキストを徹底的に読み込んで学ぶ方法は、ロンブ・カトーが『わたしの外国語学習法』で書いてありましたね。カトー女史はまず辞書を見て文字や発音を覚えていき、その後いきなりテキストを読んで語彙や文法を学んでいったようですね。テキストに徹底的に取り組むのは、会話の練習などに比べてつまらないと感じる人が多いと思いますが、旅行会話以上の外国語の能力を身につけたいならば、避けられない道だと思っています。

From Kuroneko( Mail ) To ijustat@chance at 2004 07/24 16:27 編集 返信

分析と総合

こんにちは!

>>もしかしたら、“文法”という用語と同じように、“分析”という用語もまた、人によってまちまちなのではないかと思います。

そうですね。以前、とあるBBSの英語学習に関する書き込みで、多読中心文法否定派と精読中心文法肯定派に分かれて、議論しているものを読んだことがあるのですが、「文法」という用語をそれぞれが異なったニュアンスで用いているので、議論がかみ合っていない印象を受けたことがあります。このような用語は、きちんと定義づけをして用いないと、混乱の元になりますね。ちなみに、僕自身が考えている「分析」という用語は、「ひどい悪文を読むとき、“これはどことつながっているんだ?”と考える」と、ijustat様が書かれているものと同じです。

このような意味での分析なら、ijustat様も書かれているように、母語でも行なっているわけですよね。凝った文体の文章を読んだり、悪文を読んだりするときに意識せずに分析作業を行なっていますし、受験生などが現代文の問題に取り組む時なども、意味を取り違えないように、分析的な読みをしているのではないでしょうか。ですから、僕などは単純に「母語でもやっていることなんだから、外国語で分析したっていいジャン!」などと考えています(^^;

分析否定派の方々は一度、英語以外の外国語を勉強してみると良いと思います。英語は中学1年から学習していますし、特に大学受験経験者は英語の知識はそれなりにあるため、意識的に分析しなくても理解できてしまう部分があるで分析を否定する学習法が支持されるのだと思いますが、全く知識のない外国語に取り組めば、いかに分析することが有用かということが理解されるのではないでしょうか。

ただ、分析も、分析だけしてそれでおしまいにしてしまうと、駄目ですね。「分析」のついになる概念は「総合」ですが、外国語も分析して理解したあとに、それを一つの活きた伝達の体系として「纏め上げる」作業が必要だと思います。それを行なわないと、せっかく分析作業で得た知識を運用できるレベルまでに引き上げることができないからです。そのための方法として、短文暗記や国弘氏が提唱されている只管朗読などがあるのだと思います。

>>ところで、國弘正雄氏は、メタ言語を使った分析(とは言いませんでしたけど)の解毒剤として、只管朗読をするのだと言っています。

「解毒剤」と言ってしまうと、分析が「害」にあたる印象を与えるような気がしてしまうのですが、氏が述べていること自体は正しい意見だと思います。ところで、ijustat様が日本語の授業で行なわれた「原文復元法」も、分析を行ないつつ、総合も行なう学習法だと思います。短文にせよ、まとまった量の文章にせよ、暗記をしたことがある方は皆、経験していることだと思うのですが、文法知識が暗誦の助けになることが結構よくあります。例えば、フランス語の例なのですが、暗記している文中に「冠詞+名詞+形容詞」という語群があるとします(英語での「冠+形+名」の語順と同様のものだと考えてください。形容詞が名詞を直接修飾しているものです)。そして、暗記中に名詞の文法上の性を忘れてしまったとします。その時、フランス語の場合、形容詞も性数で語尾変化するので、形容詞の語をきちんと覚えていれば、名詞の性が分りますし、名詞の性が分ればどの冠詞を用いていいかも分ります。もちろん、暗記がしっかり出来ていればいい話なのですが、暗記を行なう際に文法も考えながら行なうと、暗記が容易に出来ますし、暗記した文を応用して使うことも出来ます。なので、暗誦作業は分析的な面があると思いますし、またその分析したものを繋げていく作業でもあるので、総合の側面も持っていると感じました。

ところで、暗誦というと最近は国弘氏が有名だと思うのですが、松本亨氏も暗誦の重要さを何度も説いていた方でしたね。松本氏も、国弘氏と同様に、中学のテキストの1,2巻を暗記してしまったそうです。松本氏は中学時代から英語がよく出来た方で、明治学院のESSの部長を務めたりするほどの人だったのですが、そのESS部長の頃に、今まで身につけた翻訳式の英語では使い物にならないと感じて、中学のリーダーの暗記をはじめたそうです。松本氏の中学時代の英語教師が「中学の教科書をしっかり見つければ、英語の不自由しないよ」と言っていたのを思い出し、暗誦をはじめたそうです。何故、暗誦という方法を選んだかというと、音読して暗誦すれば翻訳せずに英語が理解できると考えたからのようです。

僕が凄いなぁ、と思うのは、ESSの部長をやるほど英語が出来る人が、中学レベルまで内容を下げて暗記に努めたことです。英語に関しては、ある程度読めたりすると、簡単なものを教材にするのを避けたがる傾向が、学習者の中に見られると思います。ですが、自由に英語で表現できるようになるには、中学レベルのものをしっかりアタマの中に叩き込んでおく必要があるようですね。ちなみに松本氏は『Friendship1』(英友社)という暗記用文集を出しています。私はそれをもっているので、英語でも暗誦をはじめようかな、と思っています。フランス語はあんなに一生懸命に暗誦したのに、英語はペーパー・バックを読むばかりなので、英語でも暗誦に挑戦してみようと思っています。

To 氷雨 at 2004 07/22 00:19 編集 返信

RE:お久しぶりに。。

氷雨様、こんにちは。

>ここんどこ、夏の季節学期のためほとんど寄っていませんでした
>もとい、寄ってはいましたんですが書き込みはしていませんでした
>実験の授業が二つなので一週に実験報告書が六つ!
>災難です...

そうですか。忙しかったんですね。韓国の大学生は本当に一生懸命勉強すると思います。私も大学生のとき、韓国の大学生のことをもう少しよく知っていたら、その勉強生活を見習えたのにと残念に思います。

>それ以外には えーと、
>図書館で基礎ドイツ語の教材を借り出して見てるし、
>歯科大生であるいとこのお兄さんのところへ行って
>歯の検診を受けたりしてます。

ドイツ語の勉強は進んでいますか。私はドイツ語を知りませんが、推測では、英語と似ているから勉強しやすいだろうと思います。文法も大切でしょうが、英語と似ている単語からつぶしていったら、ドイツ語の学習はかなりやさしくなるのではないかと思います。ドイツ語学習の報告を、今度してくださればうれしいです。

>夏休みになったらもっと自分のやりたいことをしようとは
>してたんですがなんだかんだ言って結局何もやっていないんですね

それが人生のよくありがちな姿かもしれません。よほど超人でない限り、아니면 독한 마음을 먹지 않는 한、なかなか所期の目標を達成できないのが現実でしょう。あと1ヶ月以上残っていますから、もう一度計画を立て直してはどうでしょうか。1ヶ月でドイツ語をマスターとか。(笑)

>字幕付きのアニメ見ながら翻訳の誤ったところがどんどん
>見えてきました
>前には内容の理解に夢中でそんなの全然気づかなかったんですけど
>この頃は心を明けて何も考えず聞いたらもっとよく
>聞き取れた気がします。
>やっぱり”楽しみながらやるのが一番”ってわけですか。

氷雨さんが今まで日本語の勉強を続けてきた努力が、いよいよ花開きかけていますね。すばらしいことです。これからの発展を期待しています。

From 氷雨( HP ) To ijustat@chance at 2004 07/21 14:29 編集 返信

お久しぶりに。。

ijustatさん こんにちわ 氷雨です

ここんどこ、夏の季節学期のためほとんど寄っていませんでした
もとい、寄ってはいましたんですが書き込みはしていませんでした
実験の授業が二つなので一週に実験報告書が六つ!
災難です...

それ以外には えーと、
図書館で基礎ドイツ語の教材を借り出して見てるし、
歯科大生であるいとこのお兄さんのところへ行って
歯の検診を受けたりしてます。

夏休みになったらもっと自分のやりたいことをしようとは
してたんですがなんだかんだ言って結局何もやっていないんですね

字幕付きのアニメ見ながら翻訳の誤ったところがどんどん
見えてきました
前には内容の理解に夢中でそんなの全然気づかなかったんですけど
この頃は心を明けて何も考えず聞いたらもっとよく
聞き取れた気がします。
やっぱり”楽しみながらやるのが一番”ってわけですか。

ちゅうわけです。 また書き込みます。 では

To ijustat@chance at 2004 07/17 20:44 編集 返信

お手本

Kuroneko様、こんにちは。

“お手本”という単語に触発されて、ちょっと“お手本”について考えてみたいと思いました。Kuronekoさんが、「教科書の文章はお手本として書かれている」とおっしゃるとおり、外国語学習の初期段階では、教科書の文章がお手本になると思います。だからこそ、本文の会話文なり読解文を作るとき、神経を使うわけですよね。韓国の日本語の先生の中には、ちょちょいのちょいで学習書を作ってしまう人が多く、それを自分の有能さのあかしとして自慢している人がけっこういますが、私にはそんなでたらめな仕事はできません(やったことはあります。1週間で入門書を1冊作ってしまいました。私はその教材を誰にも紹介できません)。

しかし、『國弘流英語の話し方』で、國弘正雄氏は、外国語学習のお手本を選ぶには、特に神経を使う必要はないと言っています。というより、基礎的でさえあれば“何でもいい”というのに等しい口調で、「今ある中学のテキスト、あるいは何年か前に使ったテキストでよいではないかという気持ち」(82ページ)がどこかにあると告白しています。

そして、「基礎作りの段階では、教材に関して禁欲的な人が成功する確率が高い」(83ページ)と述べています。現在は「教材に関する誘惑は多い」けれども、「いくら立派な教材でも、努力の肩代わりはしてくれません」と言っています。この言葉は名言だと思います。

そして、中学のテキストについて、「最近の教科書はよくなったと思いますが、それでもときには、中学のテキストは不自然だと非難する人がいます。それも適当に聞き流してよろしい。非難は英文それ自体よりも、文脈的な面からのものです」(83ページ)といい、「戦争中に私が使った教科書などは、内容の点では、実に国粋色の強い、いや反英米的な色彩のものでした。それでも、発展の核となる基礎はできたのです」(84ページ)と言っています。この言葉に、國弘正雄氏の“お手本”に関する考えがいちばんよく表れていると思います。

実際に國弘正雄氏が何を只管朗読したかということについては、「私自身は、中学の教科書に止まらず、文法書の例文、英字新聞の社説、ときにはマッカーサーの布告文のようなものまで只管朗読したのですが、回数の点で圧倒的だったのはやはり中学の教科書でした」(85ページ)といっています。他の外国語だったら、選択の余地なく“入門書”になりますね。

また、國弘正雄氏は、教科書にテープが付いていることを条件にしています。ただし、「テープが十巻にも及ぶ長いものは不向きです。長いものは繰り返すことができません。繰り返さなくては効果が上がりません。単語やドリルの部分を除いた本文の吹き込みは、一時間くらいがいちばん手ごろのようです」(85ページ)と言っています。繰り返し聞くとは、その場所には書いてありませんが、当然無数に繰り返して聞く必要はあるでしょうね。

私も、英語に関しては、特にテープの存在は必要だと思います。綴り字を見ても発音は分からないし、発音記号がいちいち書いてある学習書もめったにありません。適当に音読を始めたら、読み方が自己流になってしまい、実際の英語とはかけ離れた別物を体に刻み込んでしまいかねません。

最近、幼稚園に通う下の子が、英語に興味を持ち始め、“Oxford Photo Dictionary”という薄い本を持ち出してきては、英語でなんというか教えてと言います。そのたびに、巻末の発音記号付きグロッサリーを開いては、正確な読み方を確かめなければなりません。自分がこんなに英語の読み方を知らなかったのかと、いまさらながら驚いています。こんな具合だから、単語を見てグロッサリーを開くとき、下の子から「正確な発音?」と聞かれるまでになってしまいました。(笑)

話はどんどん脱線してしまいますけれど(汗)、英語に比べれば、他の外国語は、読み方を確かめる必要性が低いと思います。ギリシャ語も、文字と読み方の関係は明快です。読み方を調べるために辞書を引く必要性はゼロです。文法はひどく複雑だけれども、テキストの音読は楽です。フランス語やドイツ語はどうでしょうか。多分、読み方を辞書で確かめる必要はあったとしても、英語ほどではないだろうと思います。韓国語も、辞書で読み方を確認する必要性は、英語ほどはありません。

中国語は、文字が単語を表していて、読み方を表さず、初めから難しいことがわかっているせいか、ピンイン(併音)と呼ばれる発音記号がいつも付いています。ヘブライ語の学習書も、子音しか表さないヘブライ文字を読むことが難しいと知っているからか、学習書のテキストには母音記号が振ってあります。

日本語は、実に音声教材の必要な言語だと思います。読み方に関しては、英語以上にややこしい言語です。日本語がかなり堪能な人でも、よく漢字の読み方を間違っているときがあります。それだけでなく、文字がアクセントを表記しないので、アクセントは間違いだらけです。たまに、「私の発音は標準語になっていますか」と聞かれますが、即座に「いいえ」と答えます。韓国の人たちは、日本語に堪能な人が多いけれども、子供のころ日本で育った人でない限り、標準語の発音ができる人はいません。これは、学習時の認識不足によるものだと私は考えています。

そういうわけで、学習書をお手本とするとき、音声に気を使う必要性は、言語によって多少違うといえそうです。まあ、読み方が簡単だからといって、初歩の段階から音声教材が不要な言語というものは、存在しませんけれども。

また“お手本”に戻りますけれど(笑)、只管朗読のテキストについて、國弘氏の最後のアドバイスは「あれこれ迷って選べないときは、中学の教科書がよいでしょう。中学の教科書はみなさんの期待を裏切る可能性が低いのです」(86ページ)ということです。それだけ、中学のテキストは、いい結果をもたらしてくれるようです。

まあ、お手本用のテキストを自分で編んでいる人もいるそうです。「そうそう、いろいろな教科書から、好きな内容の英文を拾い出して、自らテキストを編集した人もいました。ある女子高校生が語ってくれたのですが、彼女は複数の中学テキストから、女性が主人公のレッスンばかり拾い集めたそうです」(86ページ)と紹介しています。なかなかいい方法ですね。自分に合った学習方法や材料選びを工夫することは、とても賢い学習戦略だと思います。

韓国に来る前、私にとって韓国語のお手本は、『週刊朝鮮』という雑誌の記事でした。英語でいったら『タイム』みたいなものでしょうか。英語は難しいですが、韓国語は日本人にとってあまり難しくないので、この水準が高いことで評判の雑誌も、苦にはなりませんでした。むしろ、タイムリーな話題について、同時代で考える楽しさが、この雑誌にはありました。

ただ、これは毎週新しいのが来るので、暗記するほどのお手本とはなりません。「これは使える」と思った表現をせっせとカードに取って、それをあとで並べ替えて眺めながら勉強するのが精一杯でした。当時私にとって最高の勉強法は、この“カード取り”でした(この学習法は、中級以上で行うと威力を発揮します)。

渡部昇一氏は、大学生のころハマトンの“知的生活”という本から、いくつかの章を「原文復元法」で覚えたと言っています。当時はこの本の翻訳が出ていなかったから、自分で訳したそうです。渡部昇一氏にとっては、“知的生活”が“お手本”になったわけですよね。私は大学生のころ、対訳の韓国語学習書で同じ方法を用い、“対訳暗記法”のように言っていたような気がしますが、いつの間にか、渡部昇一氏の用語を使うようになってしまいました。“復元”という言葉は、私が意図していたことを的確に表していると思ったからです。

シュリーマンは、外国語学習を暗記によって行っていましたが、そのお手本は、体系的な学習書ではなくて、小説だったようですね。私たちにとって、シュリーマンの学習法は、古文を勉強するときには、そのまま適用できるかもしれません(いつかやってみたいと思っています)。または、その方法で『吉里吉里人』を覚えてもいいかもしれません。漢文も同じ方法で覚えられそうです。しかし、ギリシャ語やロシア語、ヘブライ語などは、その方法ではちょっと無理でしょう。いくらかアレンジする必要があると思います。

ところで、かなり外国語ができる人が、その実力を一気にブラッシュアップさせる方法としても、何らかのテキストをお手本に選んで、徹底的に学習することは有効だと思います。または、母国語の実力アップにも、いいかもしれません。私の貧弱な国語力を高めるためにも、ぜひやってみたいなあと思っています。特に私は描写力が弱いので、優れた描写をしているテキストを集めて、自分だけの教材を作ってみたいものです。まあ、いつも私は“思う”だけで、なかなか実行に移せないのですが。

To ijustat@chance at 2004 07/17 20:43 編集 返信

文法を身につけるために

Kuroneko様、こんにちは。

>多分、文法用語を使うことなく、ある言語の体系を教えていく、というのは外国語教師の夢みたいなものかもしれませんが、難しいですね。

本当にそうですね。考えてみれば、文法規則を教えるのも、文法規則を教えないで“慣れ”と“多読”で身に付けさせようとするのも、“正確な外国語”を身に付けさせようという努力の表れだと思います。

今学期、ひとつ実験的なことをしています。それは、対訳を利用して学生たちに“作文”のテストを行っていることです。

どんな作文かというと、初級クラスでは、初級日本語教材からの抜粋を用い、中級クラスでは、日本語ジャーナル(韓国版)の記事や、EBSラジオ中級日本語会話の会話文や記事などを用いて、「原文復元法」(関口存男氏の言う“逆文”)で覚えさせるのです。

学生たちには「作文試験」と言っていますが、実際には“暗記試験”なわけです。初級クラスでは、『毎日の聞き取り』という聴解教材のスクリプトから手ごろなものを選び、それを日本文と韓国語訳の両方を、今学期行う量全部、コンピュータに入力して学生たちに配り、毎週木曜日(火・木クラスだから、2回に1回)にテストを行うと予告します。中級クラスでは、ティームティーチングで交互に教室に入るのですが、私が受け持つクラスでは毎回テストをすると予告し、毎回次の時間にテストを行う内容(対訳の記事をコピーしたもの)を配ります。

テスト自体は私がすべて入力します。それを授業の最初に配ってテストします。学生たちが書き終わったら、隣の人と交換して採点させます。配点は10点満点で、1ヵ所間違えるごとに1点減点にします。10ヵ所間違えたら0点で、それ以上点数は引きません。句読点の場所が原文と違っていても1点減点にします。そのわけは、韓国語は句読点をあまり使わないので、韓国語式の句読点で日本語を書くと、とても読みにくい日本語になってしまうから、日本語式の句読点の打ち方を意識させるためです。学生に採点させるわけは、テキストを観察する態度を駄目押しで強化するためです。

学生たちの採点が終わったら回収し、私がそれをチェックします。学生たちの採点を採点するためです(笑)。採点者の点数も10点満点とし、採点者が1ヵ所見落としたら、1点減点します。そうやって、私が採点しなおした点数と、採点者点とを一緒に書き込んで次の時間に返します(ティームティーチングをしているクラスでは、もう一人の先生に返してもらいます)。他の学生の点数を辛く付けるのは、誰でも嫌なものです。だから、少しぐらい間違っていても、できたことにしてしまいがちです。しかし、そうすると採点者として見落とした数だけ減点されるので、しっかりと見るようになります。まあ、編集者を育てるための試験ではないけれど、採点が正確にできるようになれば、編集者になれるかもしれませんね。

実は、活動はそれで終わりではなくて、高点数を出した学生には、どのように準備したか、話してもらいます。初級では10点、中級では8点以上を取った学生に話してもらうことにしています。最初に何をしたか、声に出して何回ぐらい読んだか、どんな作業をしたかということを、具体的に話してもらいます(初級では韓国語で話してもらい、中級では日本語で話してもらいます)。

それぞれ学生たちの準備方法は様々ですが、話を聞きながら、2つの共通点があることに気が付きました。そのひとつは、音読にせよ筆写にせよ、慣れるまで行うということです。つまり、頭でなく体に、テキストを刻み込むわけです。それからもう一つは、日本語を伏せて韓国語を見ながら言ってみたり、書いてみたりすることで、自分の記憶(または表現)の正しさをチェックするということです。高点数を上げた学生は、それを少なくとも3回は行っていました。点数の低い学生は、自分なりに一生懸命準備するのですが、この2つの点で欠けているわけです。

学生の中には、他の学生のやり方から学べるということを知らない人もいるので、点数の悪かった学生には特に、いい点数を上げた学生たちから方法を学ぶべきことを強調します。中にはろくに練習しなかったのに偶然いい点数を取る学生もいますが、そういう学生は、コンスタントに高点数を取ることはできませんから、他の学生たちも、コンスタントにいい点が取れる方法はどれかということが分かると思います。

ある学生は、最初の2回は0点だったのですが、3回目に8点取りました。どうやって準備したか聞いてみると、他のいい点数を上げた学生のやり方を導入したと言っていました。方法を変えるだけで結果が大きく変わるのを目の当たりにして、私も驚きましたが、その学生も驚いたことでしょう。他の学生たちにとっても、学習方法が学習効果を大きく左右することのあかしになったと思います。

この試みが私にとって面白いのは、私は実質的には何も教えていないということです。お膳立てはすべて私がしていますが、教えているのは学生たちです。私もその学生たちから教わっています(笑)。へえ、あんなふうにすれば覚えられるんだなあ、と私も感心しながら聞き、それでは自分もその方法で勉強しようと思うわけです。実に私も、今学期にこの試みを始めてから、私の外国語学習について大いに得るところがありました。

今後の課題は、コンスタントに低い点数ばかり取る学生をどう指導すべきかということです。夏学期が折り返し地点を迎えた時点で考えたいと思っています。できない学生を見ていると、他人事には見えません(笑)。

こういうことは、母語を同じくする学生たちのクラスだからこそできることで、いろいろな国から学びに来る日本の日本語学校では、到底できないことだと思います。日本人を対象に外国語を教えるクラスでなら、これと同じことができるはずです。大人数ではできませんが、少人数制の塾みたいなとこだったら、できるでしょうね。

まあこれは、“お勉強型”の授業を好む日本語教師の話です。

To ijustat@chance at 2004 07/17 13:38 編集 返信

分析とは何か

Kuronekoさま、こんにちは。

お話を読みながら、ふと気づいたのですが、“分析”という言葉の意味が、英語学習においては問題のようです。もしかしたら、“文法”という用語と同じように、“分析”という用語もまた、人によってまちまちなのではないかと思います。

念のため、『新明解国語辞典』で「分析」を調べてみると、2番目の意味に「複雑な現象・対象を単純な要素にいったん分解し、全体の構成の究明に役立てること」とあります。私の考えでは、言葉の解釈で“分析”というのは、“単語の連続を単純な要素に分解して考えること”という意味で使われると思います。

言語は意味を伝達する機能を持っていますから、私たちは言語に触れたとき、その意味を抽出しようとします。詩のように、音だけを楽しむ場合もあるでしょうが、まあ普通は、何かを伝達しようとして発せられた言葉の“音”だけを鑑賞するということは、ないでしょう。意味というのは、単語一つ一つと、その配列の仕方などによって、伝達されます。それを理解しようとする精神的作用が“分析”でないなら、私たちが文章を読むとき、分析をすることはないといえるでしょう。

しかし、ひどい悪文を読むとき、“これはどことつながっているんだ?”と考えるのは、分析になるのではないかと思います。私たちは理解するために読むのですから、いくら分かりにくくても、必要なら飛ばして読むわけにはいきません。理解するためにできる限りの方法を駆使するはずです。

慣れない外国語を読むときにも、悪文を読むのと似た精神活動をしていると思います。“これはどことつながっているんだ?”と一生懸命考えながら、読んでいるはずです。酒井邦秀という方の本を読んでいないので、何ともいえませんが、そういう自然発生的な精神活動を“分析”と呼んでいるわけではないだろうと思いました。

“分析”という用語を用いてそれを否定する人の考える分析というのは、そういうものではないと思います。それはおそらく、メタ言語を用いて理解を助けようとする働きをいっているのではないでしょうか。野口悠紀雄の『「超」勉強法』では、そういうものだったと思います。つまり、文法用語を道具として総動員し、その道具を各単語にラベル付けしていきながら理解するということを、“分析”と言っているのではないかと思います。実際、コンピュータによる形態素分析は、単語一つ一つにタグが付けられ、そこに品詞や統語情報などが記載されていく形で行われるようです。そんなことをいちいち意識的にやっていたら、当然読めるようになるほど学習量をこなすことは無理でしょう。

しかし、そのような分析も、私は否定する必要はないのではないかと思います。書いたり話したりするときに、論理的であることを求めるならば、聞いたり読んだりするときにも、論理的な理解を求めるのは当然だと思います。“分析”と“論理的な理解”とは紙一重です。外国語学習法の著者が“分析”を否定すると、読者の中には、“論理的な理解”まで“やってはダメなんだ”と思い込んで、ひたすらフィーリングで読もうとしかねません。それは、私たちが培ってきた“読む”という営みと、ずいぶん違ったもののような気がします。

私は外国語を読むとき、無意識というか意識的というか、いずれにしても、主語を探しながら読んでいるし、聞くときにも主語と述語はいちばん神経を使って把握しようとしています。そのとき、はたして日本語で「誰が」とか「何をする/した?」と考えているかどうかは分かりませんが、そのようなことは必ず考えています。これは、かなり意識的な分析です。そうは言うものの、メタ言語を使用しているわけではないので、野口悠紀雄氏や酒井邦秀氏によれば、それらは“分析”とはいわないのでしょう。

ここまで書いて、私の考えを整理すると、こうなるようです。“分析”と考えられるものには、意識的なものと無意識的なものがあり、さらに、意識的な分析には、文法用語や訳語などのメタ言語を用いたものと、それを用いないものとがある。“分析”を否定する人は、メタ言語を用いた分析を“分析”と言っているのではないかと思います。意識的な分析を否定するものではないはずです(まあ、すべての解釈を無意識にできれば理想的でしょうが)。

なお、私の考えでは、文法用語はもちろん、構文図解などを用いてシンタックスを分析する理解方法もいいものだと思います。あれは、人間の言語感覚を見せてはくれませんが、言語能力を見せてくれるものだからです。だから、一度言語を切り開いて中身を見せたあと、またそれを隠してしまえばいいのです。それをやっていれば、中身は開かなくてもだんだん透けて見えるようになってきます。それは、もともと私たちの頭の中にあるものだからです。

ただ、有害な分析はあります。それは、“間違った”分析です。教える人が分析に失敗すれば、学習者にとって、その言語の習得はかなり大きな痛手を被るでしょう。韓国で出た日本語学習書の文法解説などを読みながら、そう思いました。日本語がある程度できる人と日本語で話していると、時々とんちんかんな反応をする人がいます。何度言い換えても正しく反応しないので、韓国語で言うと、筋の通った理解ができたときの、あの独特な表情を見せます。それは、日本語力の低い著者が書いた日本語の意味説明とよく似ています。英語は韓国語と日本語のような近い関係にありませんから、問題はもっと深刻だと思います。だからこそ、文法書などは信頼性の高いものが切実に求められると思うのです。(ちなみに私は、相手がよほど日本語の上手な人か、その場の必然性がある場合以外は、日本語で話すことはありません。せっかく相手が韓国語を母語としているのだから日本語で話すのはもったいないという気持ちもありますが、話の内容が複雑になると、言っていることがよく分かってもらえなくなるし、相手の話す内容も、本当に言いたいことではなく間に合わせになるので、深く立ち入った会話ができません。韓国語でなら説明なしに一発で通じることが、日本語で話すと、長々と説明しなければならないのです。それを厭う私は、気が短いのでしょうね。)

ところで、國弘正雄氏は、メタ言語を使った分析(とは言いませんでしたけど)の解毒剤として、只管朗読をするのだと言っています。文法を重視している國弘氏でも、解剖の授業ように英文を切り刻んでバラバラにしたまま放っておくような学習方法は、よくないと考えておられるようです。

From Kuroneko( Mail ) To ijustat@chance at 2004 07/10 15:30 編集 返信

例文暗誦と辞書

僕が外国語文章を分析するのは、書いてあることをはっきりと理解したいな、と思っているからなのです。なので、一読してすっと理解できた文は分析しません。ただ、一読してすっと理解できるようになったのも、以前に分析的な読み方をして、それが意識せずに出来るようになったからだからだと思っています。

野口悠紀雄氏の分析抜きの丸暗記法は知らなかったのですが、最近は文法分析を否定する方も結構いますね。多読による英語学習を提唱している酒井邦秀氏(ちくま文庫から『どうして英語が使えない?』『快読100万語! ペーパーバックへの道』の著作があります)も、文法分析否定派です。氏は単語と絵から構成されるレベルの絵本から初めて、文法抜きで大量に読んでいくことで自然な英語が身につくと考えているようです。基本的に母語を身につけるプロセスを外国語習得にも応用しようと考えているようなのですが、無理があるように感じます。

非分析派の人たちの多くは、乱暴に言えば「日本語が自然に身についたのだから、英語だって自然に身につけようよ!」という意見なのだと思います。ですが、日本語だって苦労して身につけたような気がします。

>>子供はたえず言葉を分析しています。大体正しく分析しているから目立たないのであって、間違えた分析をしたときに、
>>子供がいかに言葉をよく分析しているかが浮かび上がります。

と、ijustat様が書かれている通りだと思います。分析に否定的な人は、受験英語の嫌な経験がその考えの元になっているのだと思いますが、野口氏にしろ酒井氏にしろ、経歴を見ると受験英語がよく出来たと思われるます。つまり、文法をしっかり身につけた人が、その文法知識を無意識化させるために、丸暗記や多読をするとしたら、それは有効な方法なのだと思います。ですが、文法知識のない人が同様の方法で学んだとしても、効果があるかどうかは疑問です。

さて、例文の暗誦についてですが、

>>普通英文を暗記するとき、日本語訳にはほとんど神経を使わないものですが、私は英文と和訳との対立に意味を感じます。
>>それで、日本語と一緒に暗誦するようになったのですが、これは、両語に対する観察力を高めてくれるようで、
>>我ながらいい方法ではないかと考えています。まあ、通訳をやるつもりもないのに、こういうことを考えるのは、
>>私が日本語教師だからかもしれません。

というのは面白いですね。僕の場合、最初は日本語訳を頼りに暗誦しますが、徐々に日本語から離れてその例文が意味する内容をイメージして、そのイメージから外国語文を思い出すようにしています。この方法は意識してやったのではなく、例文暗誦をしているうちに何となくやっていたことです。そういえば、外国語で文章を読むときもイメージをアタマの中に浮かべていることが多いので、そういうことと関係があるのかもしれません。音とイメージを結びつけて理解しているのが、僕の外国語なのかもしれないですね。

ところで、川原拓雄『現代ギリシア語辞典』については、何かの本で読んだことがあります。たった一人で一冊の辞書を作った方だそうで、言葉への興味もここまでくると凄いですね。一方で、僕のような生半可な学習者にとっては、このような人が辞書や文法書を書いてくれるので、勉強がはかどるわけですね(^^;

>>“Collins COBUILD Advanced Learner’s English Dictionary”
>>『斎藤熟語本位英和中辞典』
>>『斎藤大和英辞典』
>>『和英語林集成』

ijustat様がリスト・アップされた辞書ですが、斎藤秀三郎の『熟語本位英和中辞典』は持っています。この辞書は凄い辞書です。英英辞典でもしっくりこないことが斎藤英和を読むと納得できることもあります。ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の翻訳などをしている柳瀬尚紀氏は高校時代に斎藤英和を読んで、英語を勉強したそうですね。いくつかのエッセーでこの辞書を読むことを薦めていますね。確かに、読んだら英語力が伸びそうな辞書ではありますが、僕には無理ですね。気力とスタミナがないです(^^;

しかし、古い世代の外国語学習者の中には辞書読みを実践された方もいるようですが、実際のところ、効果はあるのでしょうかね? いい辞書なら効果があるのでしょうか。。。?

From Kuroneko( Mail ) To ijustat@chance at 2004 07/10 14:43 編集 返信

いい外国語とテキストと

>>Kuronekoさんの文章は、私のよりもずっと日本語らしくて滑らかだと感じていたからです。

いやぁ、ありがとうございます。ちょっと照れますね(^^;
ただ、本を読んでいたりしていると、読者が素直に話の流れに入っていけるような日本語を書いている筆者もいるので、そういう点で僕自身の文章はまだまだ駄目だなぁ、と思っています。最近はウェブ・サイトのコラムなどでも「読ませる文章」を見かけることもあり、素人の方(文筆を生業としていないという意味です)でも文章の上手い方がいるのだなぁ、と感じています。

さて、英語の文章のロジックですが、最近の受験参考書だとロジックの解析に重点を置いている長文参考書も増えています。リーディング問題の長文化が進んでいるため、すばやく要点を掴む技術を受験生が望んでいるからでしょうね。ただ、一つ一つのセンテンスの正確な理解が出来ない学生が、その種の参考書に飛びつくことも多いので、困ったものだと思っています。ロジック理解重視系長文参考書の元ネタのほとんどが、米国の大学生向けの速読力養成書なので、これらの参考書に書いてあることは、ゆっくり読めば理解できる人がすばやく要点を掴むための方法なのです。なので、個々のセンテンスを正確に理解できない、つまり、ゆっくり読んでも内容が理解できない学生が、この種の参考書で勉強しても意味がないのですが、学生さんがあまりそのことを理解してくれないことも多いですね。

>>だから、入試の英語が難しく感じられるのは、Kuronekoさんが指摘されたとおり、英語力が足りないだけではないと思います。

個々の文はきちんと読むことが出来るのに、内容一致問題などで点を落としてしまう受験生に関しては仰る通りだと思いますし、また、英語が苦手な人にも「英語のモノの見方」に馴染んでもらう点で良いことだと思います。でも、英語が苦手な人はロジックの把握に夢中にならず、地道な語学の勉強もやってほしいな!、と元予備校講師としては思ったりもします。

高麗人の韓国語は、彼(女)らにとっての外国語なのですね。てっきり公用語はロシア語だけど、家庭内では韓国語を用いているのだと思っていました。ところで、

>>もっとも、私のだらだら長めになってしまう文章は、韓国語の文章の影響を受けているのかもしれません。
>>あるいは、内容の希薄なことがバレないように、長ったらしく書いているのかもしれません。(笑)

全然、そんな事ないですよ。僕が最初にijustat様の文章を読んだ時に感じたのは、分りやすくてとても優しい感じがする日本語だなぁ、ということでした。日本語の先生として普段から意識的に日本語に接していらっしゃるから、このような分りやすい表現で書くことが出来るのかな、とも思いました。外国人の日本語学習者にとっては、僕の文章よりもijustat様の文章の方が、(当然ですが!)お手本になると思います。

言葉のお手本といえば、教科書の文章はお手本として書かれているわけですが、「教科書が教えてくれない表現」を求める人も結構いますね。それはそれで別に構わないと思うのですが、

>>教室以外で習う言葉を“本物の”外国語と思いがちですが、本物は本物でも、誰が使う本物かが分かっていないと、
>>とんだ失敗をしてしまいかねません。

ということを分っていないと、恥をかいたり、トラブルになったりすることもありますね。また、教科書レベルの内容を消化できずに「本物の外国語」を学びたいと言う人もいたりしますね。まずは教科書文体を身につけるのが先決だと僕は思うのですが。。。

教科書の内容を身につけた後に何か外国語の読み物を読む人も多いと思いますが、その読み物の文体も「お手本」になるのことも多いですね。よく自分の関心がある分野の本を読むとよい、と言われますが、そう言われても困ると言う方はその言語の標準的な文体で書かれたものを探して読むのも一つの手だと思います。ただ、そういうテキストを探すのも一苦労なんですが。

古典語に関しては、文体がどうのこうのと考えずに、ijustat様のように読みたいものや、読むべき文典を読めばいいのですが、現代語では本当に悩むことが多いですね。最近は日本語の小説の翻訳も英語圏を中心に多く出版されているので、そういうものを読むのもいいと思います。最近は東京大学出版会から英・仏・独・伊の購読用テキストが出版されており(英語ではThe Universe of Englishシリーズ、仏語ではPassagesといったアンソロジーが出ています)、そのようなものを使うのも一つのやり方でしょう。ただ、東大の一連のシリーズは難しい文章も多いですけど。

>>韓国語はなぜか、論文の他は、良書と呼ばれるものよりも、キョボ文庫で配布されている読書案内だとか、雑誌や新聞の記事
>>だとか、掲示板の書き込みなど、まとまりのないものばかりを読む癖が私にはあります。

いや、僕のそういうものを読むの好きですよ。フランス旅行から帰った来た友人が持ってきた、どこかの街の観光案内のパンフレットとかスポーツ新聞とか。本を読むと違って、何故か気楽な気分で読むことが出来るので、本よりもよく理解できる気分になれます。まぁ、あくまでも「気分」なのですが…(^^;

ところで、英語の句読点の話は、面白いですね。僕はパンダの話より、

>>A woman, without her man, is nothing
>>A woman: without her, man is nothing

の方が面白かったです(^^)

From Kuroneko( Mail ) To ijustat@chance at 2004 07/10 13:15 編集 返信

RE:語学教師の盲点

こんにちは。

>>でも、文法用語が教材を難解にするということは、うすうす気がついていて、ずいぶん前に日本語学習書を作ったとき、
>>文法説明の部分で思い切って文法用語を一切取り去ってみたことがありました。しかし、その試みは失敗に終わり、
>>編集長から“難しすぎるからこれはだめだ”と叱られました。

僕にも似たような経験があります。予備校の授業で文法用語を極力用いず授業を行なったことがあるのですが、イマイチ上手くいきませんでした。先輩の先生からは、「その意図は評価できるけど、かえって生徒を混乱させることになるから適宜、文法用語を使っていく方が良いよ」、と言われましたね。多分、文法用語を使うことなく、ある言語の体系を教えていく、というのは外国語教師の夢みたいなものかもしれませんが、難しいですね。松本亨のように適切な時点で文法用語を使っていくのが、最も良いのかもしれません。

これまで文法用語の悪口ばかりを書いてきましたが、文法用語を知っている利点もあります。文法用語を知っていることで、会話や読書などで経験的に学んだことが、文法用語で概念化され、その言語の一般的なルールとして記憶されるからです。そうするとそのルールに従って学習者自身で何かを表現(話したり書いたり)できるようになるわけです。もっとも、ネイティヴに「文法的には正しいかもしれないけど、こういう言い方はしない」などと言われ、へこんでしまうこともあるのですが。。。

>>外国語自体が難しいのに、その外国語を説明する日本語が、初めて見るものだったり、一般的に使っている意味とは
>>違っていたりするために、つかみ所がないのだと思います。

そうですよね。教える側、ではなくて学習者の立場で考えると、「説明の日本語が難しいからと言ってその外国語が難しいわけではない」と考えて教科書を読んでいくのがいいのかなぁ、と思います。あとは、文法用語に少しずつでもよいので慣れていくことも大事ですね。

ところで、

>>ギリシャ語など、英語でいえば“仮定法”に該当する部分を、“条件法”とか“接続法”などと言っている人もいて、

ですが、フランス語やドイツ語もそう言いますね。ドイツ語文法には条件法はなく、接続法のみですが。英語以外の欧州の言語では、こちらの言い方のほうが主流なのかもしれませんね。

To ijustat@chance at 2004 07/05 00:43 編集 返信

辞書への思い

Kuroneko様、こんにちは。

>僕もPODを持っているのですが、実際には使っていません。僕も歯が立ちません。なんといいますか、「格好つけ」で購入したようなものなので、しょうがないですね。

実は私は高校時代に、私塾の英語の先生に勧められてだったか、PODを買いました。でも、語釈の意味が全然理解できませんでした。その先生は、背伸びのしすぎだったのだと思います。あれから英語への関心は薄れてしまい、ここ5年くらいの間に、徐々に英語を読む力が付いてきたとはいうものの、韓国に来てから古本屋で手に入れたPODを、まだ理解できる水準には至っていません。まあ、全然分からないといえば、Kuronekoさんも私も、たぶん嘘になるでしょう。なぜなら、部分的にはやさしい単語で説明されていることもあるからです。しかし、辞書というのは、時々分かるというのでは使い物になりませんよね。

理想的には、簡潔な語釈で分かりやすいものがいいと思いますが、コリンズにしても、ロングマンにしても、あれ以上短くするのは難しいでしょう。

そうそう。この間、ついに“希希辞典”を手に入れました。ギリシャ語の先生がくださったのです。“ΜΕΙΖΟΝ ΕΛΛΗΝΙΚΟ ΛΕΞΙΚΟ”というタイトルで、直訳すると“さらに大きなギリシャ語辞典”となるでしょうか。たぶん、“増補版希語辞典”という意味なのだろうと勝手に解釈しています。

この辞書の解説は、けっこう簡潔で、PODを彷彿とさせます。私のギリシャ語の実力はとても低いので、この辞書を使いこなせるまでには長い時間がかかると思いますが、今は希希辞典に慣れるために、知っている単語を引き、希英辞典を引きながら、語釈を読んでいます。そうすると面白いのは、辞書特有のよく使われる単語があるということです。そういう単語は一度学ぶと、次にその語が出てきたときに、語釈が理解しやすくなります。

そのように、希希辞典を読むのは骨が折れるのですが、今まではっきりしなかった意味が、あっけないくらい明瞭に理解でき、“やっぱりこれだ”と思いました。

しかし一方で、現在韓国外大希臘語科教授が、希韓辞典を作っているという知らせに、その完成を心待ちにしています。希希辞典を使いこなすにはまだ程遠く、希英辞典を読んでいると、目が痛くなってきます。希日辞典があることは知っているのですが、とても高く(1万4千円)、語彙数も2万語しかありません。しかし、読売新聞社のサイトで、次の朗報を目にしました。引用します。

 新しい現代ギリシャ語辞典の出版を目指しているのは、東京都西東京市の川原拓雄さん(57)。わが国に古代ギリシャ語の辞書しかなかった1992年、見出し語約1万3000語の「現代ギリシャ語辞典」(リーベル出版)を出版した。用例や語法をふんだんに盛り込んだ約3万5000語収録の増補版は、五輪開幕前に完成する運びだ。
 都立大学時代、ギリシャ語の韻文のリズムにひかれ、ホメロスの詩を原語で暗記。エンジニアとして電機メーカーに就職したが、2年で退社し、単身でギリシャに語学留学した。帰国後、英語やドイツ語の技術書の翻訳で生計を立てながら、現代ギリシャ語の意味や用例をカードに書きため、こつこつと作業を重ねた。
 リーベル出版は「ギリシャ五輪の今年、ギリシャ語辞典の需要は高まるはず」と期待を込める。
http://www.yomiuri.co.jp/sports/feature/athe_2004/news/at20040217_03.htm

リーベル出版社のサイトに入ってみると、次の案内がありました。これも引用します。

現代ギリシア語辞典[第三版]
川原拓雄著 A5判、函入り上製、605頁
定価:18900円(本体18000円+税5%)予約注文受付中!
発行日:2004.07.31 
ISBN4-89798-633-644ー3

独力編纂、二十有余年。川原拓雄、畢生の大著、ついに完成!
[本辞典の特色]
★わが国唯一の本格的な現代ギリシアー日本語辞典。
★欧米諸国でも類を見ないほどの豊富な情報を満載。
★見出し語数は約34000語。分量は新版(第二版)の6割増しとなり、専門家の利用にも堪えられる十分な内容。
★基本単語には語義のほか、文法事項・語源・同意語・反意語・文例などを豊富に載せ初・中級者の学習に役立つよう最大限に工夫。
★参考付録には、発音概要と動詞・名詞の簡略な変化表を付けた。
★本来印欧語族で同系の語群が確認されているものについては、ラテン語かサンスクリットの対応語を明示。
★ギリシア語の文章理解に必要なカサレヴサ(純正語)の語彙に関しても、重要なものはことごとく収録。また歴史上の人物、地名なども大幅に取り入れ、現代ギリシア小百科としても楽しめるように工夫した。
http://www.liber-press.net/new.html

私のスタンスは、ご存知のように、外国語の辞書はその言語で解説しているものを使うというものです。しかし、初級の段階でそれができるのは、中国語くらいでしょう。他の言語では、まず無理です。それで、外国語−外国語辞典を、初級の段階でも使い始めはするけれども、実際の学習では、未知語−既知語辞典が必要です。それも、既知の言語は、できれば母語がいちばんよく、次には自由に使える外国語です。希英辞典は、私のまだ得意でない英語を媒介語にしているので、あまり使いやすいものではありません。

英語はいずれにしても必要なので、今突貫工事で勉強していますが、希日辞典が手に入るなら、中級くらいまで、この辞書のお世話になりたいものだと思います。この辞書があれば、希希辞書を読むのも楽になるでしょう。

まあ、私は欲張りだから、もしできるなら、世界中の辞書が手に入ればいいと思っています。でも、そんなことは無理だから、辞書に優先順位をつけて、ほしい順にリストアップしていくのも面白いでしょう。英語の辞書で、ちょっとやってみます。

“Collins COBUILD Advanced Learner’s English Dictionary”
『斎藤熟語本位英和中辞典』
『斎藤大和英辞典』
『和英語林集成』

……うーん、なかなか思いつきませんね。アマゾンの中を物色して回りましたが、辞書探しはインターネット書店ではだめで、大型書店を散策する必要があると思いました。英和と和英に関しては、新しいものよりも、傑出したものに目が行きます。和英語林集成というのは英語が知りたいよりも、当時の日本語に関心があるといった方がいいかもしれません。(笑)

英語の辞書については、すばらしいページを見つけました。ご存知かもしれませんが、紹介しておきます。
http://jiten.cside3.jp/efl_dictionaries/efl_dictionaries_top.htm

ところで、

>以前、ネットで知り合った英語の達人によると、500ページぐらいのペーパー・バックを10冊読むと、英語に慣れて来て、20〜30冊になると英語で読んでいるという意識が薄れてきて、100冊を超えると自然な英語で話したり、書いたり出来るようになるそうです。その人は教科書抜きでいきなり、原書の海に飛び込んで、勉強された方なのですが、多読が効果を表わすには膨大な量を読まないと意味がないので、普通は学校の教科書や基礎の参考書を丁寧に繰り返し音読して学習し、その後原書に挑戦することを、他人にはすすめているそうです。

これはすばらしい話です。外国語を学習するときの目安として、とても信頼できそうですね。500ページの本を百冊というのは大変なものですが、何年ぐらいでできるようになるでしょうか。いくらなんでも1年では無理な量だと思います。4年ぐらいはかかるでしょうか。本によって、ページ数にも違いがあるし、1ページの語数にも違いがありますが、大雑把に“5万ページ”として、4〜5年くらいの目標で頑張るのも楽しいかもしれません。そうすれば、5年目には、PODも使いこなせるようになっていることでしょうね。

ところで、「テキスト選び」で紹介した逸話のオリジナルは“Eats, Shoots & Leaves – Zero Tolerance Approach to Punctuation”という本です。あの逸話の句読点を間違った例文は、本当は“Panda: Large black-and-white bear-like mammal, native to China. Eats, shoots and leaves.”で、正しい句読点は、“Eats, shoots and leaves.”ではなくて“Eats: shoots and leaves.”だそうです。他のサイトを探し回ってみると、けっこう出ていて、この本が本場イギリスだけでなく、日本でもけっこう関心を持って読まれたことが分かります。“shoots”の訳は多様で、“木の若葉”とか“タケノコ”、“竹の若枝”など、銘々それぞれの解釈で訳していました。それにしても、いくら無料配布の刊行物とはいえ、キョボ文庫の記事は、ずいぶんいい加減でしたね。

句読点の違いが大きく意味を変えてしまうことを示す例文で、面白いものがありました。

A woman, without her man, is nothing
A woman: without her, man is nothing

To ijustat@chance at 2004 07/04 16:34 編集 返信

指折り10回

Kuroneko様、こんにちは。

>僕が教科書を離れて最初に何かを読む場合に一番注意することは、「きちんと分析する」ということなのです。

この「分析」に関して、賛成の意見と反対の意見がありますね。野口悠紀雄の『「超」勉強法』では、テキストを暗誦する学習方法を「丸暗記法」と呼んで推奨する一方、その内容を文法的に分析し理解するのを「分析法」と呼んで、よくない方法と否定しています。

それに対して、國弘正雄の『國弘流英語の話し方』では、野口悠紀雄氏の考え方を、分析と丸暗記とは矛盾しないのに、分析を否定してしまっていると批判しています。また、先日も紹介した斎藤孝と斎藤兆史の『日本語力と英語力』でも、「右手に素読、左手に文法!」と言っています。これは明らかに國弘正雄氏の考えと同じ流れをくんでいて、野口悠紀雄氏とは対立しています。“素読”は「丸暗記法」に属し、“文法”は「分析法」に属します。

Kuronekoさんもやはり、「丸暗記法」と「分析法」を調和させることを実践しておられます。私もやはり、自分が外国語を勉強するのにどの方法を取るかと迫られれば、國弘−斎藤式の考え方を取るでしょう。それは、分析というものは、言語の本質に根ざすものだからです。子供はたえず言葉を分析しています。大体正しく分析しているから目立たないのであって、間違えた分析をしたときに、子供がいかに言葉をよく分析しているかが浮かび上がります。そういう意味で、分析を否定してしまうのは問題があります。

実は野口氏も、意味が分かっていることを前提としているのですが、それを強調せず、かえって理解するための作業を「分析法」と名付けて斥けてしまっているため、大いに誤解されているのです。しかしそれは、著者が自分で招いた誤解です。Kuronekoさんがおっしゃるとおり、「分析して意味がわかった文章を音読して、覚えていくと力がつく」はずです。私たちの多くにとって、英語のテキストは難しいものです。ざっと見て単語や表現を確認すれば理解できるというものではありません。文の構造を文法書などで確認し、しっかり分析した上でないと、明晰な理解は難しいでしょう。

國弘氏は、文法書も“只管朗読”したそうです。文法書を読むというのは、分析法の極致だと思います。その文法書を、丸暗記法の手段である音読で体化させたわけです。自由自在に使えるようにするためには、文法が身についていなければならないと、國弘氏は主張しています。これは正しい考えだと思います。人の言葉は、単なる音声の連続ではないからです。それで、私も、文法書を読んだり、勉強のために辞書を引いたりするとき、なるべく音読をすることにしました。

そのとき問題なのは、たくさん音読しているつもりが、あまり量をこなしていないという現実です。これは、私の怠け癖が如実に表れているものだと思います。それを乗り越えるための方法として、“指折り10回”というものを思いつきました。“指折り10回”というのは、読んで字のごとくです。1回読むごとに1本ずつ指を折っていき、それを2回すれば10回になります。

何てことないものですが、私の場合、こうでもしないと、読む回数が例文によってまちまちになってしまい、身に付かないのです。

この方法は、短文を読んでいく場合ですが、そのとき私が行っているのは、日本語訳も一緒に読むということです。これをやると、暗記はできないまでも、意味ははっきりと理解できるようになります。ただ、最初から日本語と一緒に読むと、日本語の方が印象が強すぎるので、まず初めに日本語を1回読んでから英語を1回読み(いずれも音読です)、その上で、最初に英文だけを5回読み、6回目から日本語→英語を5回読みます。難しい例文は、そのあと指折りをやめて、そらで日英の両方が言えるまで繰り返し、すらすら言えるようになった時点で、次の例文に移ります。

希英辞典を読む場合は、例文をまず、英訳から読み、そしてギリシャ語を見ます。逆をやると、理解できないからです。ギリシャ語の例文には、知らない単語があることが多いですが、英訳があるので気にしません。そして、最初から英語→ギリシャ語で10回指折り数えながら読みます。これは、どちらも外国語だから、最初から英語を読んでも、印象が強くなりすぎないのです。面白いことに、目だけで追っていてはよく理解できなかったものが、声に出して数回読むうちに、理解できてきます。不思議なことです。「音読しないと覚えることが出来ない」とおっしゃいましたが、私の場合は、音読しないと理解すらできません。(笑)

>僕の場合、例文と和訳が分けて書いてある教科書の場合は原文の方を紙などで隠して、暗誦していくのですが、分けて書いていない場合は、まず音読をして、それから本から目を離して5〜10回ほどブツブツ暗誦して、次の例文に取り掛かる、といったことをしています。

これが理想的な方法なのだと思います。私は“指折り10回”と決めて、指を折りながらブツブツ音読したり、すぐに覚えられたらそのまま本から目を離して10回目まで続けますが、10回にこだわっているわけではありません。なぜなら、10という回数は、指の数と関係があるのであって、覚えられる反復回数を調査して編み出されたわけではないからです。それは、例文の難易度によって変化します。だから、難しい例文は、10回以上繰り返します。でも、最低10回というのにはこだわろうと思っています。なぜなら、少ない回数を認めると、どんどん読む回数は減っていくからです。

普通英文を暗記するとき、日本語訳にはほとんど神経を使わないものですが、私は英文と和訳との対立に意味を感じます。それで、日本語と一緒に暗誦するようになったのですが、これは、両語に対する観察力を高めてくれるようで、我ながらいい方法ではないかと考えています。まあ、通訳をやるつもりもないのに、こういうことを考えるのは、私が日本語教師だからかもしれません。

ところで、「韻律」の件ですが、この語の意味を説明することなく使ってしまったので、誤解を招いてしまいました。日本語で「韻律」と言えば、韻文のリズムのことですが、実は私の使った「韻律」は、韻文だけでなく、すべての発話におけるリズムや音調などをひっくるめた意味だったのです。

それから、「普遍文法(general grammar)」というのは、“言語能力”とでもいうべきもので、日本語とか英語とかアラビア語とかに関係なく、すべての言語を使用可能にする、人間が先天的に生まれ持った能力(主に統語能力)の意味だったのです。これはチョムスキーの考えですが、福井直樹という人が『生成文法の企て』に書いた解説で、そのことを学びました。生成文法は数学的で、私の肌に合わないと思っていたのですが、この本でその思想に触れてから、本当は面白いことをやっているらしいと思うようになりました。

もっとも、19世紀後半に書かれた、Sweetという人の英文法にも、“general grammar”という語が出てきました。図書館でその部分を読んだあと、コピー屋に預けてしまったので、今手元にないのですが、これは、どの言語にも共通する文法的特性をいうようです。チョムスキーのいう“general grammar”とは、一方では似ていますが、もう一方では、ずいぶん違う感じがします。私が言う“普遍文法”は、特に深い意味はないので、Sweet氏の考え方で取っても差し支えありません。ijustatはずいぶんいい加減ですね。

そういう意味で、「韻律は個別文法よりもむしろ普遍文法に従属しているのだろうか」なんて、いい加減なことを言ってみたわけです。間や抑揚の取り方が、あまりにも言語間で通じるものがあるので、そう感じたのです。中国語のように声調があって上がり下がりの激しい言語も、韓国語のように声調もなく比較的平板に音の流れる言語も、意味を際立たせるための韻律的な表現は、私の感覚では同じなのです。それで、上のように考えたわけです。

これが、音読をするときに重要だと思います。意味をしっかり理解していることがわかる抑揚と間の取り方とで読んでいくわけです。それは、人間の言語を司る本能に直結して、字面だけでは理解できない意味を、直感的に体感させてしまう働きがあるのではないかと思います。

ところで、

>数学者のピーター・フランクル氏が複数の教材を使って学ぶのも、一つの方法だと著書の中で書いてありましたね。

とフォローしてくださってありがとうございます(^^)。まあ、フランクル氏の場合は、一つの学習書では、多くの単語や表現は1回しか出てこないので、他の学習書でもう少し、同じ語の出てくる他の例文を知る必要があるというのが、複数の教材を使う理由になっていました。私はそんな積極的な意味合いはなかったのです。ただ単に、一度この本で苦労したので、二度読むときにその苦労を思い出し、嫌気を感じたというわけです。これは、本当に志のない態度です(汗)。心を入れ替えて、勉強してきた教材で音読に努めます。

To ijustat@chance at 2004 07/04 02:57 編集 返信

テキスト選び

Kuroneko様、こんにちは。

>音読をする際には教科書のように「これを読めばいい!」というようなテキストを指定されないと、なかなかテキストを選べないものです。

実にこの点が、悩みの種となります。自分が日本語で読んで感動した本や、これは非常に価値があると思った本の、その言語の版を求めてテキストにするという手もありますが、初級が終わった人にとって、生の文章は水準が高すぎるという難点があり、さらに、その本を読めるように助ける解説書も得にくいでしょう。その言語が原書でなく翻訳であるならば、なおさらです。

でも、これを読みたいという一途な思いがあるなら、きっとその読みにくいテキストによって、その外国語の学習は成功を収めることでしょう。私は、そのような思いを大切にしたいと考えています。

>ijustat様にとっての聖書のような書物が、僕には存在しないのがつらいところです。

そうですね。私にとって聖書が“テキスト”であるのは、いろいろな面でラッキーなことです。一つは、Kuronekoさんもおっしゃるとおり、「これを読めばいい!」というテキストを、最初から与えられていたということです。また、韓国に住んでいるという地域的な条件で、原典を手に入れるのが容易です(日本で買ったものもありましたが)。しかも日本に比べて半額の値段です(まあ、今は“http://www.perseus.tufts.edu/”で誰でも原語聖書が読めます。恵まれた時代になりました)。しかも、聖書の読みを助けるための教材が、たくさんあり、韓国で作られたものも、外国で作られたものも、一般の書店で手に入ります。それも、たいていはかなり廉価です。また、聖書は注解書がそれこそ無数にあり、自分の好みに合ったものを選ぶことができます。それらは当然のことながら、原語の理解も大いに助けてくれます。

まあ、至れり尽くせりといえるわけですが、そうすると困るのは、ハングリー精神を失ってしまうことです。私に欠けているのは、このハングリー精神です。

本当に、「語学のクラスで授業を受けているのなら、何も悩むことはない。先生が決めたテキストを地道に読んでいけばよい。というか、それしかない。強制的、と考えると楽しくないが、とにかく楽は楽である」と言うとおり、テキスト選びは大変なことです。

ただし、外国語が目的のテキストか、テキストが目的の外国語かによって、テキスト選びの意味は大きく変わってくると思います。たとえば、黒田龍之介氏は「作家の文体があまり特殊でないほうがよい」とおっしゃっているそうですが、テキストが目的の場合は、作家の文体は問題になりません。たとえば、新約聖書の中で、ヨハネの黙示録のギリシャ語は、無理にヘブライ語に合わせているらしく、文法規則を破っている所があります。また、マルコの福音書は、拙いギリシャ語で綴られているそうです(私にはその方が読みやすいんですが)。一方、ルカの福音書は立派なギリシャ語だということです。しかし私にとっては、それがどんなギリシャ語かということは、問題にならないわけです。

まあ、やさしいところから読み始めて、難しいものは後回しになりますが、それでも、自分が読みたいテキストが、難解なことで知られているものだったら、最初から難解な文に当たることになるのだと思います。

ところで、「出来れば短くて区切りの多いのがよい」という黒田氏の上げたテキスト選びの条件は、なかなか優れた意見だと思います。そして、幸運にも、ギリシャ・ラテンの古典は、ほとんどすべて、この条件を満たすかのように、後世に付けた章節の区分があって、今日は何章、明日は何章と、計画的に読んでいくことができます。聖書もおそらく、その脈絡の中で章節の区分ができたのだと思います。1章を原書で一気に読むのは難しいですが、最初は1章を半分に分けて読むこともできるでしょう。

“http://www.perseus.tufts.edu/”などを利用するなら、このサイトはテキストを何十ページにも分割しているので、1回に1ページを読めばいいのではないかと思います。英語に訳された古典も多いですから、英語の勉強にも役立てられると思います。

しかし、現代語の学習で、テキストでなく言語の方が目的ならば、私だったら人気があるものをテキストとして選ぶのではないかと思います。たとえば、英語だったらハリー・ポッターです(読んだことはありません。映画で見ました)。あとは、自分が関心を持っている分野について、定評のあるものをテキストにするでしょう。そのとき、あまり難しくないという評判があるものを優先するはずです。

韓国語はなぜか、論文の他は、良書と呼ばれるものよりも、キョボ文庫で配布されている読書案内だとか、雑誌や新聞の記事だとか、掲示板の書き込みなど、まとまりのないものばかりを読む癖が私にはあります。これではいけないと思いつつも、どうも安易な方向へ流れてしまいやすいです。でも、その中でごくたまに、非常に印象深い一節などがあるので、それを少しずつ集めて自分のアンソロジーを作るのも、面白いかもしれません。

先日こんな逸話で始まる記事を読みました。冒頭の逸話の部分を訳して紹介します。

 パンダがカフェに入った。サンドイッチを注文して食べたのち、銃を取り出してウェイターを撃った。ウェイターは倒れざまに「何てことをするんだ」と言った。パンダは肩をすくめてみせ、『野生動物入門』という本をウェイターに投げてよこすと、カフェを悠々と立ち去った。
 ウェイターは慌ててその本を開いてみた。パンダについて、こう説明されていた。“Large black and white mammal native to China. Eats, shoots and leaves.”(白黒の中国産哺乳動物。食べ、撃ち、去る。)パンダがサンドイッチを食べ、ウェイターを銃で撃ったのち立ち去った理由が、説明されている。
 いったい何が間違っているのだろうか。そう、句読点だ! こう変えるべきなのだ。“Large black and white mammal native to China eats shoots and leaves.”(白黒の中国産哺乳動物であり、若芽や葉を食べる)。句読点がとんでもない意味の違いをもたらす。
(『사람과 책』2004年7月号、교보문고。p.92)

この日本語訳は、韓国語から訳したものなので、英語の意味をちゃんと伝えているかどうかわかりません。正しいとしている英文の句読点に疑問を感じますが、まあ、正しいのでしょう。いずれにしても、私にとっては不思議な味わいのあるブラックユーモアです。

To ijustat@chance at 2004 07/04 01:25 編集 返信

いい外国語

Kuroneko様、こんにちは。

>僕自身は日本語らしい文章を書くのが苦手なのです。

それは気がつきませんでした(笑)。なぜなら、Kuronekoさんの文章は、私のよりもずっと日本語らしくて滑らかだと感じていたからです。その気さくな語り口は、とても好感が持てます。

しかし一方で、どこか日本的でない匂いがすることも確かです。それは、長年英語と付き合うことによって得たものなんでしょうね。誰でも、文章を書きながら、心の奥底で何らかの文法に依っていると思います。私の場合はそれが何なのかは分かりません。しかし、Kuronekoさんの場合は、きっと英文法やフランス語の文法なのだと思います。それによって、明晰な文を書かれるのだと思います。

>大学入試の英語長文では評論文が多く出題されるわけですが、多くの受験生は語学上の困難と共に、ロジックを掴めなくて苦労するようです。

本当にそうですね。考えてみれば、英語で非常に重要なロジックについてついぞ習ったことがありません。まあ、英語構文それ自体がロジックであると言ってしまえばそれまでかもしれませんが、その多種多様な文型の水面下を流れるものを、もう少しクローズアップさせてくれれば、英語の理解が深まったのではないかと思います。

ロジックについては、“COLLINS COBUILD ENGLISH DICTIONARY”で次のように説明されています。“Logic is a method of reasoning that involves a series of statements, each of which must be true if the statement before it is true. Apart from criminal investigation techniques, students learn forensic medicine, philosophy and logic.

このように、言葉の妥当性を吟味しながら積み上げていくような態度は、私たちにとって、一般には馴染み薄いものです。だから、入試の英語が難しく感じられるのは、Kuronekoさんが指摘されたとおり、英語力が足りないだけではないと思います。逆に、英語の根底を流れるロジックが理解できれば、英文はもっと親しみのあるものになるのかもしれません。

>ロシアの高麗人が書いた修士論文の話はおもしろいですね。母語話者がやりそうなことだと思います。

それが、ロシアや中央アジアの高麗人で韓国に来る人たちは、ほとんどが韓国語を第2言語として学んでいるのです。そのため、彼らの第1言語はほとんどがロシア語です。あるいはロシア語以外の現地語を第1言語としている人もいます。家庭で韓国語を使っていたという人もいますが、両親もロシア語しか話せないという人の方が多いです。だから、彼らにとって、韓国語はまったくの外国語になるわけです。それにもかかわらず、長い文を書くのは、ロシア語の影響なのか、それとも自分は韓国人と同じ血を分けているという意識なのか、わかりません。私が読んだ論文は、センテンスが長いのですが、その舵取りともなる助詞が、時々不適切なのです。そのため、私にとっても外国語である韓国語は、非常に読みにくくなります。

>普通の日本人が長いセンテンスを書くと、あいまいになったり、文法的におかしなものになったりする傾向があるので、やっぱり短く分りやすい文を書くように心掛けた方が無難ですね。

本当に、文章は短い方がいいと思います。まあ、韓国語の場合、平叙文のすべての語尾が“〜ダ”で終わるので、あまり短くすると、強烈な印象を与えてしまうという問題があります。話し言葉の文体で書くときには、多様な語尾を使えるのですが、論文などの文章では、そうはいきません。そのため、扇動的な文体(?)になるのを避けるために、若干長めにするわけですが、韓国人が書く場合は、ほとんど問題ない長さの文でも、外国人が書くと、とても読みにくくなる可能性が大いにあります。

もっとも、私のだらだら長めになってしまう文章は、韓国語の文章の影響を受けているのかもしれません。あるいは、内容の希薄なことがバレないように、長ったらしく書いているのかもしれません。(笑)

>僕が興味を持ったのは活花の先生の反応です。多分、その留学生の日本が流暢でなかったのなら、くだけた日本語を話しても立腹しなかったと思うからです。

私も、逸話を拝読しながら、活花の先生の反応に興味を覚えました。これは、外国語が上達した学習者にとって、通過儀礼のようなものといえます。初級の段階では、不適切な表現を使ってしまっても、相手は理解してくれます。しかし、ある程度流暢に話せるようになると、自分の口から発せられた言葉を相手は額面どおりに受け取るようになります。このことは、日本人も韓国人も、まったく同じのようです。

だから、極力誤解を生じないように、教科書に出てくるような模範的な表現を使うことに心を砕くべきでしょうね。ただ、Kuronekoさんもおっしゃるとおり、「教科書の内容をしっかり使えるようにすること自体、けっこう大変」だと思います。

実際、教室できちんとした標準語を教えているときは、学生は折り目正しい“美しい”日本語を話しているのですが、日本人の友達と付き合うようになってから、それが崩れてしまうことがあります。日本人の友達に対して使う言葉と、一般的な場面で使う言葉とを使い分けるというのは、中級くらいのレベルではほとんど無理なことですが、中級ぐらいからでも意識して、教室で習う言葉を自分の標準とすることは、重要ではないかと思います。

よく、教室以外で習う言葉を“本物の”外国語と思いがちですが、本物は本物でも、誰が使う本物かが分かっていないと、とんだ失敗をしてしまいかねません。

意思疎通を重視するのは私も同じですが、どのような話し言葉を重視するかとなると、人によって違うのではないかと思います。私は、誰と話すときにも問題のない、硬めの口調を重視します。だから、韓国語でも英語でも、ギリシャ語でも、そのような言葉遣いを自分の模範としています。日本語教材の会話文を作るときもそうです。でも最近は、韓国でもくだけた表現を使った日本語の教材が出ています。そういう教材を使って日本語を勉強した人は、あとでどうなるのか、ちょっと心配です。

To Kuroneko at 2004 06/29 22:30 編集 返信

語学教師の盲点

Kuroneko様、こんにちは。

>たまにですが、語学上のアドバイスを求められることがあります。

すばらしいことですね。どのような教材がいいかという質問を受けるというのは、それだけ信頼されていることです。それは本当にうらやましいと思います。私には、日本語教材のアドバイスを求めに来る人はいますが、そのほかの外国語教材についてアドバイスを求められたことは、残念ながら今まで一度もありません。

>全くの入門者を対象としている学習書にも、学習以前に最低限知っていないと入門書の内容が理解し辛くなることがあるのです! それは……、“文法用語”です!

なんと、その点には気がつきませんでした。そういえば、昔に比べていろいろな言語の語学書の説明が読みやすくなったと感じていましたが、考えてみれば、文法用語の意味が分かるようになったので、読みやすくなったのでしょう。

でも、文法用語が教材を難解にするということは、うすうす気がついていて、ずいぶん前に日本語学習書を作ったとき、文法説明の部分で思い切って文法用語を一切取り去ってみたことがありました。しかし、その試みは失敗に終わり、編集長から“難しすぎるからこれはだめだ”と叱られました。せめて名詞、形容詞、動詞などの用語は使うべきだというわけです。確かに、文法用語を一切取り去ってみると、説明に切れ味がなく、曖昧模糊として、かえって難解になってしまうのです(私の説明が悪いのですが)。それぞれの品詞の定義はともかくとして、それらを自明のものとして使うことにしました。

私たちは、「ijustat様にしても僕にしても、受験英語をやってきているわけなので、英語の文法用語を知っているので、新たに(特にヨーロッパの)言語を学ぶ際に文法用語で苦労することは少ないと思います」とおっしゃるとおりで、学校文法で出てくる程度の用語なら知っています。そしてついつい、みんなも知っているはずだと思ってしまいがちです。でも、知らない人も結構いるんですよね。たとえば“仮定法”で“反実仮想”という言葉を習いましたが、今まで会った日本語の先生の中で、知らないと答えた人が多かったです。たまに知っている人に出会うと、「ええっ、みんな知らないの?」と言って驚きます。

しかし、私とて、何でも知っているというわけにはいきません。「それでも、聞いたことのない用語が突然出てくると戸惑ってしまうと思います」とおっしゃるとおりで、ギリシャ語など、英語でいえば“仮定法”に該当する部分を、“条件法”とか“接続法”などと言っている人もいて、多少混乱しています。ギリシャ語の文法を自分でカードにとって整理してみると、その混乱はますます深刻になってきます。また、ギリシャ語動詞は古典語も現代語も、継続相と瞬間相に分かれますが、過去形に関して、瞬間相を“アオリスト(不定過去)”と呼び、継続相を“未完了”と呼ぶのは、いまだに抵抗があります。ギリシャ語の感覚ではどうなのか分かりませんが、日本語の感覚では、明らかにおかしいからです。ここで用語のために挫折する人も多いと思います。

>実際、研究社から『英文法用語がわかる本』(田上芳彦,研究社)という本が出版されているほどなので、そのような本の需要がある程度見込めるほど、文法用語を知らない人がいるのだと思います。

ああ、そうだったんですか。私はアマゾンでその本を見たとき、その奇特な趣味に感心しました。その一方で、わざわざ文法用語だけを取り出して習う意味があるのだろうかと疑問に思っていました。しかし、Kuronekoさんのお話を読んで合点がいきました。語学には興味があるけれど、語学書の文法用語が理解できなくて閉口する。時々、序文に“英文法を一通り学んでいることを前提とする”だなんて書かれた学習書もあるけれど、英文法の用語なんかわからない。そんな人のための本だったんですね。

>「ここから本書は、便宜上「行動や行為や動作」を「行動」の一語に統一して解説します。また、I you it のような行動・行為・動作の主体となる語を文法では主語と言います。」(p.28)

>と定義してから、その用語を使っていきます。他の用語もこのようなかたちで、解説文中で紹介されていくので、未知の用語がいきなり出てきて読者が戸惑う、ということが少なくなると思います。

この松本亨の方法は、すばらしいですね。真に教育者だと思います。私は文法用語を避けようとしたとき、その文法用語を説明する語句で置き換えただけでした。たとえば名詞は、“ものの名前をあらわす言葉”みたいに書いていました。全部がその調子で書かれたので、実際の文章は冗長で複雑になってしまいました。

でも、それは本当にできの悪い説明のしかたで、松本亨のように、語法を教えながら“文法”の概念も教えていくという方法は、すばらしいものだと思います。

>こういうことを考慮に入れつつ、語学書を執筆するのは大変なことだとは思います。

確かに大変なことですよね。でも、初めにプランをしっかり立ててから作れば、比較的容易に実現できると思います。確かに文法用語は難しいものです。その理由は、外国語自体が難しいのに、その外国語を説明する日本語が、初めて見るものだったり、一般的に使っている意味とは違っていたりするために、つかみ所がないのだと思います。しかし、松本亨のように、たとえば英語の文を理解したうえで、いくつかの文に共通した性質の語を“これだ”と説明すれば、取っ掛かりができて、理解できるということに気がつかされました。

語学教師は、私のように、学習者が文法用語を知らないという事実を、ついつい忘れてしまいがちです。松本亨のように、それをちゃんと心得て、用語でつまずくことがないようにしたいものですね。

From Kuroneko( Mail ) To ijustat@chance at 2004 06/28 18:12 編集 返信

語学書の盲点?

こんばんは、Kuronekoです。

たまにですが、語学上のアドバイスを求められることがあります。大体、良い学習書を教えて欲しいといった話なのですが、自分が学んだことのない言語で質問されると困ってしまいます。とりあえず、語学マニアのKuronekoにでも聞いておけって感じで質問するのかもしれません(^^

質問されれば、色々調べてみて、良い本を推薦するのですが、あれこれ入門書を見ていると気付くことがあります。全くの入門者を対象としている学習書にも、学習以前に最低限知っていないと入門書の内容が理解し辛くなることがあるのです! それは……、“文法用語”です!

例えば、『CDエクスプレス フランス語』(筑紫文耀,白水社)を見てみると、いきなり第2課のNOTES(文法解説欄)のところに、「動詞には活用があります。つまり主語の人称と数(1人称・2人称・3人称/単数・複数)に対応して形が変わります。」(p.24)と書いてあります。これを読んで、「‘活用’って何?」とか「‘人称’とか‘数’って何よ?」って思う人もいると思うんですよね。ijustat様にしても僕にしても、受験英語をやってきているわけなので、英語の文法用語を知っているので、新たに(特にヨーロッパの)言語を学ぶ際に文法用語で苦労することは少ないと思います。それでも、聞いたことのない用語が突然出てくると戸惑ってしまうと思います。僕は大学1年時に、仏語の授業で、‘条件法’だの‘接続法’だのが出てきたときは、ちょっとやる気が萎えてしまいました。英文法用語を知っていて、なおかつ文法用語に共通している点が多いフランス語を学んでこんな感じだったので、「受験英語」を体験せずに、つまり英文法用語になじみのない人が学んだら、もっと大変なのではないかなぁ、と思いました。

英語以外の語学書の筆者は、そのほとんどが大学の先生なので、読者が文法用語に引っ掛るとは思わないのかもしれません。ただ、僕が予備校で教えた経験から判断すると、基本的な文法用語を知らない人も多いと思います。昔と違って、高校で独立した科目として「英文法」を教わっていない人もいますし、公立の中学では出来るだけ文法用語を用いないで指導していることが多いのですし。実際、研究社から『英文法用語がわかる本』(田上芳彦,研究社)という本が出版されているほどなので、そのような本の需要がある程度見込めるほど、文法用語を知らない人がいるのだと思います。

なので、初心者向きの学習書はその点も考えて書かれていると良いですね。そのように書かれている良い例が『書く英語・基礎編』(松本亨,英友社)です。例えば、この本はまず、< I am … >から始まって少しずつ他の人称も覚えていくのですが、一通り全人称に触れた後のLesson 14で、

「ここから本書は、便宜上「行動や行為や動作」を「行動」の一語に統一して解説します。また、I you it のような行動・行為・動作の主体となる語を文法では主語と言います。」(p.28)

と定義してから、その用語を使っていきます。他の用語もこのようなかたちで、解説文中で紹介されていくので、未知の用語がいきなり出てきて読者が戸惑う、ということが少なくなると思います。

こういうことを考慮に入れつつ、語学書を執筆するのは大変なことだとは思います。でも、難しい用語を使わないようにするのはマニュアル作りの基本だと思うので、「ことばのマニュアル」である入門書も、そういう配慮があってもいいなぁ、と思いました。まぁ、読者の立場だから言えるのでしょうが(^^;

P.S. PDAについてのご説明、どうもありがとうございました。何年か前に、日本でもPDAを宣伝していましたが、携帯電話が多機能化するにしたがって、あまり話に聞かなくなりましたね。

From Kuroneko( Mail ) To ijustat@chance at 2004 06/27 22:36 編集 返信

英文法書

>>『英文法汎論』細江逸記著、篠崎書店、3465円。
>>『英文法詳解』杉山忠一著、学研、1890円。
>>『英文法総覧』安井稔著、開拓社、2600円。
>>『英文法解説』江川泰一郎著、金子書房、1785円。

『英文法詳解』と『英文法解説』は持っていますが、実際に使うことがあるのは『英文法解説』です。『英文法汎論』は持っていないのですが、渡部昇一氏が上智大学の授業で使われていたことで有名(?)ですよね。書店で見かけたことがあります。『ロイヤル英文法』は受験生の頃、リファレンス用に持っていましたが、何故か無くなってしまいました。ただ、『ロイヤル英文法』は日本語版でもイマイチ切れ味に欠けるような気がします。例文の活きが悪いのかもしれません。

>>分量が膨大で、これを読んで英文法の体系を身に付けるのは至難の業に感じられます。

『ロイヤル英文法』にしても、上記4冊にしても、通読して英語を身につけるタイプの本では無いように思えます。辞書的に用いるか、英語学として伝統文法に関心のある方が通読するたぐいの本ではないでしょうか。英語を身につけるための文法書では、古い本ですが、ヴァカーリ『英文法通論』(丸善)などは非常によく出来ていると思います。中学レベルから始まって、大学受験レベルまでの英文法を豊富な例文で説明しており、しっかりと学べばかなりの英語力がつく本だと思います。ただ、何故か同書の練習問題解答書は品切れ状態なので、人にはすすめにくいですが。ただ、練習問題は全て英文和訳と和文英訳で、和文英訳問題も英文和訳や本文の例文をよく読んでいれば解けるものばかりなので、解答書が無くても使える本だと思います。もちろん、練習問題は省いて、本文の例文をしっかり覚えていってもいいですしね。

>>韓国では、『構文図解英語構文論』(柳津著、百万社)がかなり息の長い文法書で、韓国の学習書にしては珍しく、
>>索引がきちんと付いています。この本は、アパートの階段の下に、他のたくさんの本と一緒に捨てられていたのですが、
>>いい拾い物をしました(^^v)。

いやぁ、ラッキーですね。本の価値は人それぞれなので、捨てられている本も別の人にとっては、すごく大事な本だったりしますよね。本当に90万部以上売れているならすごいですね。お話によると、シンタックスの解説が徹底している本のようですので、90万部以上売れているのだと思いますよ。結局、英語で一番苦労するのは構文把握ですから、その点の解説が豊富な参考書は売れると思います。

>>その他、図書館で見る限り、『高等英文法』(趙成植著、高麗大学校出版部)も、有名なようです。
>>この本は、例文のほとんど全てが実際の文学作品や高級誌の記事などで、なんと訳が一切ついていません。
>>そして、脚注には実際の文学作品からの関連する用例が挙げられていて、用例が非常に充実しています。

用例が実際に使われている文章から取られているのはいいですが、訳は欲しいですね。たしか『英文法汎論』の用例も訳が無かったような気がしますが、その種の文法書は上級者向きですね。僕は予備校で教えていたりしていたせいで、あまり高級な文法書には関心を持つことは少なかったです。「学」として英語を極めるのでなければ、『英文法解説』のような詳しい学校文法書があれば、僕には十分、というのも理由の一つです。

逆に僕は、英語以外の言語の入門書のようなタイプの英語参考書を探すことが多かったです。ヴァカーリ『英文法通論』はそうする中で、見つけた本です。日本の英語の参考書は中級・上級レベルのものは充実していると思いますが、初歩から手ほどきしてくれる本はすごく少ないように感じます。多分、最低でも中学内容は理解できるというのが、日本の英語学習書の前提なのでしょう。高校レベルの文法事項もある程度押えていないと、学ぶことが難しい参考書も多いですね。僕が気にいっている『和文英訳の修行』も良書ですが、高校レベルの英語力がないと、使いこなせない参考書だと思います。

ただ、英語を学びなおす人のかなりの割合が、中学英語もあやふやな英語力だと思います。そういう人のためにも、ヴァカーリの本のような、基礎から学べる文法書が必要だと思っています。ただ、ヴァカーリの本は少々、分厚いですので、英語の学習に多くの時間を割ける人はいいでしょうが、そうでない人は挫折する可能性が高いかもしれませんね。

From Kuroneko( Mail ) To ijustat@chance at 2004 06/26 17:28 編集 返信

RE:硬派だけど分かりやすい教材

韓国語は、以前はマイナーだった(と思う)のですが、SMAPの草薙君の活躍やら、映画『シュリ』ブームやら、最近は韓国ドラマ『冬のソナタ』が流行やらで、一気にメジャー言語です。大手書店に行っても、ドイツ語やフランス語と同じくらいの量の学習書が置いてありますね。

>>従来の韓国語の授業は、最初に文字と発音を延々とやるので、学習者はその規則の複雑さに(本当は複雑ではないのですが、
>>説明すると複雑になってしまうのです)気圧されて、脱落してしまうことが多いのです。

多くの日本人にとって、ラテン文字以外の文字を用いている言語は抵抗感がありますね。実際、ラテン文字を使用している言語でも、文字以外の部分で難しい点はあるわけで、そこで挫折してしまうことも多々あるのですが、教科書で言語を学ぶ時には、文字で第一印象が決まってしまうので、非ラテン文字使用言語にはどうしても抵抗感を持ってしますね。

>>文字と発音は省略し、カセットテープを頼りに第1課から始めることにしました。すると、なんと分かるではありませんか。

本来、言語は音ですから、文字が分らなくても、理解できる仕組みになっているのですよね。ただ、本で勉強すると、どうしても文字をクリアしないと先に進めないような気がしてしまいますね。

>>易しい教材を目指していた同僚の先生は、その後日本へ帰国し、白帝社から『よくわかる韓国語 STEP 1』(入佐信宏・文賢珠著)を
>>出しました。ステップ2までで初級文法は完結するそうで、ステップ1ではとにかく韓国語が使えるようにすることを目的として、
>>とても易しく作ってあります。日本語教師としての経験が生きているので、口が動くようになることに、かなり重点が置かれています。

この前、僕が古書店で購入した『新ドイツ語入門』(倉石五郎,岩波書店,1957)は古い本なのですが、ijustat様が紹介された韓国語の学習書と似たようなコンセプトで作られています。この本は大きく文法篇と講読篇に分かれているのですが、その文法篇がさらに二つに分かれています。前半は文法項目別ではなく、身近な話題の会話問答中心に構成されていて、とにかく簡単なことをドイツ語で表現できるように構成されています。その後、文法篇の後半で、項目別にあらためて学ぶ、という構成です。ちょっと長くなりますが、序文の一部を引用します。

「本書の著者は言語の本質からかんがえ、教室授業においても口頭練習からはいることにして、十数年らいその効果を実験しているが、本書においても可能なかぎりその方式を採用した。すなわち従来一般の入門書はまず文字を教え、つぎに個々の文字に対応する音を教え、ついで単語の発音に移りさらに品詞別に変化を説明し、その後に初めて文章を理解せしめようとしている。しかしながらこのような方式は、言語習得の自然の順序には逆行であるばかりではなく、学習者は無味乾燥な記憶を強要され、外国語にたいする興味はもちろん、ややもすれば意欲までも失ってしまうのである。これに反して本書では入門の第1章から文章を提示し、簡単であるが一つの思想を外国語で表現する訓練から出発するので、学習者は興味を失なうことなく、しかもその文章に連関して発音・変化・語順等の約束を、無理なく習得することが出来る。
すなわち本書の第1部、第1章から第16章までは、ラテン文法の序列を無視し、我々の身近にある事物を題材とする簡単な問答を用いている。とくに最初の部分は発音の説明を詳しくし、他の文法書・入門書が全く無視している抑揚を図示することにより、学習者が不安なく、自信を以て発音を習得できるように工夫した。そして簡単な文型から次第に複雑なものに及んでいるが、基本的な文型と変化型とは、一応この第1部に網羅されている。
第2部すなわち第17章から第65章までの間では、第1部に表われた文法現象を、ラテン文法の分類にしたがって整理し補充し、その理解に必要な短文を多数例示した。そして基本的な単語を正確に記憶できるように、第1部・第2部をつうじ、五章ごとに単語をまとめて復習の便をはかった。
最後の第3部では、やや長い文章であって、それぞれまとまった内容をもつものを、二十数名の著名人の著作から選んで解説した。 …(中略)… また韻文においては韻律の説明も加えておいたが、これもわが国の解説書では無視されておってしかも重要な問題である。」(pp.i-ii)

と、いうことですが、古い学習書でもまず何か文をいえるようにしよう、という発想で作られているものもあるんですね。どんな外国語を学ぶにせよ、何かを表現できる喜びが外国語学習を続ける動機になると思うので、最初は文字を後回しにして、センテンスと発音を中心に学ばせるといいと思います。白水社のエクスプレス・シリーズもそうですが、最近はそういうコンセプトで作られている教材は多いですね。でも、『新ドイツ語入門』では第2部にあたる、文法をしっかり学ばせる教材が減ってきているのは残念ですが。

>>ということで、本格的な教材が減ってきていることを残念に思いながら、最初の段階で難しいことをやりすぎる教材に対する
>>批判をするという、混乱した話でした。

出版数のバランスだと思いますね。最近は、分りやすく丁寧に初歩を教えてくれる学習書は多い一方で、「本格派教材」は無くなる一方、という語学書出版の現状が問題なのでしょう。「本格派教材は売れない」というのが一番の理由でしょうが、初歩の教材をしっかり学んだ学習は、つぎに「本格派教材」に移ると思うので、ある程度、需要はあると思うのですが、いかがでしょう? 例えば、チェコ語の学習者は、『エクスプレス・チェコ語』の後に千野先生の『チェコ語の入門』を学ぶ、というのが一番良いとあるBBSに書かれていましたし、それに賛成する意見も多かったです。また、同じBBSで、あるポーランド語学習者が『ポーランド語の入門』が絶版になったことを嘆いていました(やはりエクスプレスの次の教材を探していたようです)。ですので、白水社の『○○語の入門』のような文法が網羅されている初級学習書を求めている人は結構いると思います。硬派な教材で頑張っているのは、大学書林ぐらいなのでしょうか?

From Kuroneko( Mail ) To ijustat@chance at 2004 06/26 16:23 編集 返信

RE:英英辞典依存症(?)の私

実は僕も辞書好きで、自分の語学力を考えたら必要の無い辞書や、興味はあるけど入門書も読んだことが無い言語の辞書まで色々と予算の範囲内で買ってしまいます。現在は実家に住んでいて大きい本棚があり、その他収納スペースがあるのでよいのですが、東京で一人暮らしをしていた頃は、辞書類が場所とってしまって大変でした。

>>できる人なら、たぶん“Pocket Oxford Dictionary (POD)”のような辞書を使うでしょう。昔の人の中には、“POD”を精密に読むことで
>>英語の深さに触れた人もいるということで、私も憧れている辞書ですが、なにせ語釈の言葉が難しくて、歯が立ちません。

僕もPODを持っているのですが、実際には使っていません。僕も歯が立ちません。なんといいますか、「格好つけ」で購入したようなものなので、しょうがないですね。戦前の大学生などはPODを使っていたそうですが、どれだけの人が使いこなしていたのでしょうね。PODを使える人というのは、基本的には辞書なしで英語に接することの出来るレベルの人だと思います。僕などの英語力では、ダメダメです。

>>私には、意味の獲得に関して、一種の強迫観念のようなものがあり、A語の意味を、自分の知っているB語(私の場合は日本語と
>>韓国語)の単語に置き換えて説明されたのでは、その言語内での他の語との関係が全く見えず、フラストレーションがたまるのです

僕などはそのあたりがいい加減なので、多分、英和辞典で満足してしまうのだと思います。英英辞典(特にCOBUILDを引く時は、「じっくりこの単語と付き合ってやるか!」と思った場合で、そのときはじっくり辞書を読みます。COBUILDは定義が分り易いですし、用例も活きのいい文ばかりなので、読んでいて面白いですね。

松本道弘氏は著書によって微妙に意見が異なったりするので意見をまとめにくいのですが、僕の理解では「英和辞典のレベル→英英辞典のレベル→辞書離れのレベル」というように、考えているみたいですね。僕の場合、もうちょっと英語の読書量を増やして、早く英和レベルから脱却したいなぁ、と思っています。以前、ネットで知り合った英語の達人によると、500ページぐらいのペーパー・バックを10冊読むと、英語に慣れて来て、20〜30冊になると英語で読んでいるという意識が薄れてきて、100冊を超えると自然な英語で話したり、書いたり出来るようになるそうです。その人は教科書抜きでいきなり、原書の海に飛び込んで、勉強された方なのですが、多読が効果を表わすには膨大な量を読まないと意味がないので、普通は学校の教科書や基礎の参考書を丁寧に繰り返し音読して学習し、その後原書に挑戦することを、他人にはすすめているそうです。

とにかく、僕もPODが分るようになりたいです!