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From Kuroneko( Mail ) To ijustat@chance at 2004 06/26 15:54 編集 返信

反復音読やっぱり大変(汗

>>素読をするからには、そのテキストと長い間親密な付き合いをしなければならないわけで、
>>その価値のはっきり分からないテキストを素読するというのは、大人には難しいことだと思います。

そうなのです。僕が教科書を離れると音読しなくなる傾向になるのは、テキスト選定が難しいからですね。音読のことを考慮に入れずに、ただ読みたい本を読むだけなら、興味がある洋書を手に取り、読んでいけばいいのですが、音読をする際には教科書のように「これを読めばいい!」というようなテキストを指定されないと、なかなかテキストを選べないものです。

ijustat様にとっての聖書のような書物が、僕には存在しないのがつらいところです。ただ、外国語学習者はみな同じような悩みを持っているようですね。以前紹介した、『外国語の水曜日』の著者の黒田龍之介氏が次のようなことを書いています。

「文法が一通り終わってから何を読むか?
語学のクラスで授業を受けているのなら、何も悩むことはない。先生が決めたテキストを地道に読んでいけばよい。というか、それしかない。強制的、と考えると楽しくないが、とにかく楽は楽である。
 というのも、これが独学になると、なにか適当な読み物を自分で探さなければならないのである。入門書を選ぶのならともかく、自分のレベルにあった外国語テキスト自ら選ぶのはそう易しいことではない。また、授業の他に何か一人で読んでみたいと思っても、同じことで悩むことになる。」(黒田龍之介「理想の中級パラレルテクスト」『羊皮紙に眠る文字たち―スラヴ言語文化入門―』現代書館,1998年,p.219)

ちなみに、黒田氏の理想のテキストは、以下のようなものだそうです。

「作家の文体があまり特殊でないほうがよい。グラスやカフカはそもそも難解なので、外国語学習教材に向かない。またことば遊びもほどほどにしてもらいたいので、ルイス・キャロルも避けたい。
 それに出来れば短くて区切りの多いのがよい。外国語で読書するときには、一度に大量には読めない。今日は二ページ、明日は三ページというように少しずつ区切って読めて、しかも内容が分断されなければそのほうが望ましい。」(同書,p.221)

氏は特に音読するということは考えていないようなのですが、音読用テキスト選びに関しても上記のような条件を満たしていると、やりやすいですね。ただ、仮に音読に適したテキストを入手したとしても、僕の場合、音読以前の作業で力尽きてしまうことが多いです(;;)

僕が教科書を離れて最初に何かを読む場合に一番注意することは、「きちんと分析する」ということなのです。構文や文法を考えながら、読んでいく作業なので、意味がわかる時点で結構疲れてしまいます。もちろん、どうしても文法的に理解できない個所は飛ばしていくといいますか、ペンディングしておくといいますか、いずれにせよ後回しにするのですが、出来るだけきちんと読もうと努力はしている(つもり^^;)なので、音読する気力が無かったりします。本当は分析して意味がわかった文章を音読して、覚えていくと力がつくのでしょうね。

さて、「シュリーマンが学習書でない本を音読したのは、それが彼にとっての“教科書”だったから」というのは、納得です。確かに入門書が無ければそうするしかないですし、逆に言えば、良質な学習書で学ぶ場合、その学習書を繰り返し読むことでシュリーマンと同じような効果を得ることが出来るのでしょう。

>>また、当時のドイツでは、もしかしたら“朗読”の文化があったのかもしれません。目で見て理解もするけれども、
>>耳で聞いて理解することも一般的だったのではないかと思います。シュリーマンはドイツの外国語教育を非難していますが、
>>あの天才的な方法を身に付ける下地となったのは、おそらくギムナジウムでの教育方法にあったのではないかとみています。

僕もそう思います。ヨーロッパの国語教育や古典語教育では名文・名句を暗誦することは、盛んに行なわれていたので、シュリーマンが「暗誦」を現代語学習に取り入れたのは、自然なことだったのかもしれませんね。このことの例として、ロンブ・カトー『わたしの外国語学習法』(ちくま学芸文庫,2000年)の中に次のような話が出て来ています。

「ある上院議員がラテン語文献からの引用の途中で突っかえてしまったとき、全上院議員が総立ちになってその引用個所を最後まで合唱したという事件が、イギリス議会の議事録には記録されています」(pp.52-53)

多分、議員の皆さんは青春時代にパブリック・スクールでラテン語やらギリシア語やらを暗記したのでしょうね。上の例はイギリスの話ですが、ドイツのギムナジウムでも似たような教育が行なわれていたのだと思います。

とにかく、本の音読はなかなか実行に移せない僕ですが、教科書は音読して覚えるようにしています。音読して覚える、というより、音読しないと覚えることが出来ない、というのが正直なところですが。

>>面白いことに、多くの人は、他のことは一生懸命やろうとするのに、こと繰り返すことに関しては、それを避けようとします。
>>ある人は、あからさまにそれを言いました。例えば文法書などの例文を読むことに関しても、1回ずつ音読するのでも
>>いいんじゃないかといったのです。私は1度に最低10回ずつ読む必要があるのではないかと思うのですが、
>>せめてもの回数として言うなら、2回です。2回と3回はあまり変わらないと思いますが、1回と2回は大変な違いがあるからです。

僕にとっては、例文を覚えないと文法も覚えることが出来ないし、その例文を覚えるのに一回読むだけでは無理!……、といった感想を持ちます。僕の場合、例文と和訳が分けて書いてある教科書の場合は原文の方を紙なので隠して、暗誦していくのですが、分けて書いていない場合は、まず音読をして、それから本から目を離して5〜10回ほどブツブツ暗誦して、次の例文に取り掛かる、といったことをしています。

しかし、仰る通り、文法問題集を熱心に解いたり、辞書を引き引き原書にチャレンジしたりするような人が、「繰り返し読む」といったことを避ける傾向があるのは事実だと思います。最近は國弘正雄氏の著作などで、英語学習者を中心に音読&暗誦が市民権を得てきたようですが、「語学学習=問題集を解く or 原書を読む」と考えている人も多いと思います。問題集も原書読解も悪くないのですが、問題集は文法知識のチェックに利用するもので、それで文法を学ぶものではないような気がしますし、原書読解に関しても基本的な文法・語彙力が無い状態でがむしゃらに読んでも挫折する可能性が高いと思います。挫折せずにひたすら読みつづければ関口存男氏のように、語学力が開花する可能性もあると思いますが。とにかく、初級の頃は基本的な教材を繰り返し読んで、例文や表現を覚えていくことが、一番無難な学習法だと思います。

>>英語でも、黙読では理解できなかったところが、音読すると分かることが多いです。音読によって、単語ではなく、
>>構造が理解できるのです。それで、韻律は個別文法よりもむしろ普遍文法に従属しているのだろうかなんて、
>>いい加減なことを考えたりしています。

そうですねぇ、僕もそういう経験はあります。何度考えても文法的に理解できなかった個所を、さっと音読したら、その瞬間、文構造が見えた、ということがありました。僕の場合、黙読が多いのですが、アタマの中で音声化して読んでいます。韻律を含めたリズムの中で文を捉えた方が、正確に理解できるような気がします。韻律と普遍文法については、比較言語学上、同一語派に属する言語間では、韻律のシステムが似ているような気がします。まぁ、僕も思いつきで書いているので、いい加減です(^^;

ところで、

>>実は(^^;)、『現代ギリシア語の入門』を一通り読み終わったので、ちょっと他の学習書を見てみようかなんて思っていた矢先に、
>>Kuronekoさんの書き込みを見て、これではいけないと思い直し、もう一度1課から読み直すことにしました。
>>種田式の「うるし塗り」が大切だなんて口で言っていながら、違うことをしようとしていたのですから、本当に恥ずかしい次第です。

いやぁ、お気持ちは分りますよ! 違う教材に目移りすることは僕もありますし。でも、数学者のピーター・フランクル氏が複数の教材を使って学ぶのも、一つの方法だと著書の中で書いてありましたね。一つの教材を繰り返した方がいいと思うのですが、その教材に飽きた場合、別のものにチャレンジしてみるのもいいかもしれませんね。

From Kuroneko( Mail ) To ijustat@chance at 2004 06/26 14:10 編集 返信

RE:色々むずかしい論理的表現^^;

とても蒸し暑い中、少々バテ気味のkuronekoです。

>>私が自分自身どのような性質の日本語を求めているのか、反省したことはありませんが、おそらく Kuroneko さんがおっしゃるように、
>>プレゼンテーションなどでの論旨の明快な日本語と、随筆などでの日本語らしい、和風な日本語との両方を求めているのだと
>>思います。

僕自身は日本語らしい文章を書くのが苦手なのです。その理由を考えると、多分、翻訳された外国文学や人文科学系の論文・批評などを高校生の頃から読んでいて、日本人作家の本をほとんど読まずに大人になったからだと思います。クラシックな日本人作家でまとまった量を読んだのは夏目漱石ぐらいです。批評などでは日本人のものも多く読みましたが、好んで読んでいたのが柄谷行人や蓮実重彦だったので、日本語らしい文章とは無縁でした。

そのような偏った読書をしていると、日本語らしい随筆文よりは英語で書かれた評論文の方が理解しやすくなったりします。大学入試の英語長文では評論文が多く出題されるわけですが、多くの受験生は語学上の困難と共に、ロジックを掴めなくて苦労するようです。いわゆる、「一つ一つの文は分るけど、文章全体で何が言いたいのかが分らない」、というものです。僕の場合は、少々単語や構文が分らなくても、文章のロジックは見えるので、長文問題の設問を解くことが出来たのですが、それは先に書いたように翻訳物を通して、英語(や欧州諸語)の文章構成に馴染んでいたためだと思います。

何度か話題に上った受験勉強の小論文の「論理」に抵抗感を持たなかったのも、そのためだと思っています。ですから、僕の「書く日本語」は、欧米の評論・論文の読解の上に、小論文の授業で実際に書くトレーニングを積んだことが、土台になっているのでしょう。ただ、友人とのざっくばらんなメールのやり取りなのでは、思いっきり口語体といいますか、くだけた日本語になっています。BBSなどに書くときは、少々硬い文章になることが多いのですが、メールと違って不特定多数の人に読まれることを意識しているからだと思います。

とことで、ロシアの高麗人が書いた修士論文の話はおもしろいですね。母語話者がやりそうなことだと思います。韓国語については全く知識が無いので分らないのですが、日本語も意識しないと、長くて統語的にあいまいなセンテンスを書いてしまうことが多くなりますね。批評家の蓮実重彦は非常に長いセンテンスの日本語を書きますが、構文的にも内容的にもきちんと分る日本語です。ただ、僕を含めた普通の日本人が長いセンテンスを書くと、あいまいになったり、文法的におかしなものになったりする傾向があるので、やっぱり短く分りやすい文を書くように心掛けた方が無難ですね。「外国人の立場では、そのような長さによる“自然さ”を求めるよりは、表現の明晰さを追及した方がいい」というのは、我々、日本語の母語話者にも当てはまると思います。

マッカーサーの“12歳”発言は僕も何かの本で読みました。確かに、言葉が拙いとその人の知性も幼く見えることはありますね。人は語られる中身よりも、まずその表現形式によって、相手を判断するのでしょうね。話は少しずれるのですが、以前読んだ本の中に次のような話が書いてありました。

日本語が堪能な留学生が先生に「会話的なくだけた日本語も教えて欲しい」と頼んだそうです。先生は、その留学生が標準的な日本語がかなり出来ることから判断して、くだけた会話調の日本語を教えることにしました。その後、その留学生は日本の文化にも興味があったため、活花の先生を紹介してもらい、会うことになったのですが、その面会時に流暢に「くだけた」日本語を使ってしまったので、活花の先生は腹を立ててしまったそうです。

この話のポイントはTPOを考えて、文体(口調)を選ばなければならない、ということだと思いますが、僕が興味を持ったのは活花の先生の反応です。多分、その留学生の日本が流暢でなかったのなら、くだけた日本語を話しても立腹しなかったと思うからです。つまり、子供が上手く敬語を使えなくても大人が許すような場合と同様のことが、日本語が拙い外国人との会話にも起こりうるのではないでしょうか。この学生の場合、日本語が流暢だったゆえに、活花の先生はくだけた表現形式に意識が向き、腹を立てたのだと思います。外国語でくだけた口調を用いるのは、なかなか難しいですね。その手の表現は、前回書いたようにやはり生活の中で覚えていけば良いもので、学校や学習書で外国語を学ぶ場合、まず教科書に出て来る語彙・表現・文法を使えるようにすることを、一つの目標にするのが無難だと思います。ただ……、教科書の内容をしっかり使えるようにすること自体、けっこう大変なんですが(^^;

To ijustat@chance at 2004 06/24 20:09 編集 返信

反復学習の愉しみ

Kuroneko様、こんにちは。

>私も、フランス語に挫折しかかった時は、動詞の活用が厄介なものに思えたものでした。ただ、繰り返し繰り返し一冊の学習書を読んでいると、自然に慣れてきて、なんとか克服できるようになります。

実は(^^;)、『現代ギリシア語の入門』を一通り読み終わったので、ちょっと他の学習書を見てみようかなんて思っていた矢先に、Kuronekoさんの書き込みを見て、これではいけないと思い直し、もう一度1課から読み直すことにしました。種田式の「うるし塗り」が大切だなんて口で言っていながら、違うことをしようとしていたのですから、本当に恥ずかしい次第です。

>教科書の例文は音読して、暗誦しますが、教科書以外だとなかなか音読をしないです。シュリーマンのように恩を一冊、覚えてしまうぐらい音読すると、本当に語学力がつくのでしょうが、、、

シュリーマンはすごい人だったと思います。繰り返し音読することと暗記することとは、非常に重要なことですが、シュリーマンは“非常に多く音読する”ことを進めています。この理解を難しくするのは、のちにシュリーマンの記憶力は研ぎ澄まされ、2〜3回注意深く読めば、テキストをそらで言えるまでになってしまったことです。私はそれは最初は取らない方がいいだろうと思います。まずはたくさん音読することが必要だと思います。

教科書以外だとなかなか音読できないものだと思いますが、シュリーマンが学習書でない本を音読したのは、それが彼にとっての“教科書”だったからだと思います。また、当時のドイツでは、もしかしたら“朗読”の文化があったのかもしれません。目で見て理解もするけれども、耳で聞いて理解することも一般的だったのではないかと思います。シュリーマンはドイツの外国語教育を非難していますが、あの天才的な方法を身に付ける下地となったのは、おそらくギムナジウムでの教育方法にあったのではないかとみています。学習方法を自分で見出す教育をしていたからこそ、自分で外国語学習の方法を見つけることができたのではないでしょうか。斎藤孝によると、最近の教育ではそのようなものがどんどんなくなってきたと言っています。以前はあったと言っていますが、私が小学生のころも、なかったような気がします。

>フランスの伝統的な小学校での国語教育では、内容は理解できなくても良い文章を暗記させる、という方法なので、斎藤方式とは少し異なりますね。

『日本語力と英語力』によると、「最初、素読をする段階では、「音が美しい」といったことだけでいいんです。あとで、「ああ、このことか」と説明がつく。それがいいんですね」(86ページ)と、対談者の斎藤兆史氏は言っています。それを受けて、斎藤孝氏も「文法と素読が連結したときに、素晴らしいパワーを生みますね」(87ページ)と言っています。この本は、二人がまるで一人のように意気投合しているので、読みながらどっちが発言したのか分からなくなってしまうのですが、二人とも違う背景を持ちながら、こうも意見が一致するということに、興味を覚えざるを得ません。いずれにしても、内容よりも音声を重視しているという点では、フランスでの暗記のさせかたと共通する部分もあるかもしれません。

ところで、息長く読まれ続けている英文法の学習書をインターネットで調べてみました。アマゾンの読者書評を見ると、賛否両論ですが、どれも、腰を据えてしっかり勉強しようとする人にとっては、惜しみなく知識を与えてくれる本のようです。

『英文法汎論』細江逸記著、篠崎書店、3465円。
『英文法詳解』杉山忠一著、学研、1890円。
『英文法総覧』安井稔著、開拓社、2600円。
『英文法解説』江川泰一郎著、金子書房、1785円。

上に挙げた4冊の中で、『英文法汎論』は、ヨンセ大学の図書館に、戦前に出た古いものがありました。序文に自分のことを“浅学非才”と言っていますが、昔の人は、序文で自分を卑下しておいて、本文ですごい実力を発揮しているようです。私が見たのは、かなり分厚いにもかかわらず、“第一巻”と書いてありました。目次を見るとやはり、全部を網羅しているわけではなさそうです。でも、中身は膨大です。1巻でも読みきるのは大変だと思いました。このあと“第二巻”も出たんでしょうね。上には挙げませんでしたが、『ロイヤル英文法』も、かなり有名な文法書のようですね。私は韓国語訳を持っていますが、訳のせいか、どことなく韓国語の説明に切れ味の鈍さを感じます。それと、分量が膨大で、これを読んで英文法の体系を身に付けるのは至難の業に感じられます。Kuronekoさんはいかが思われますか。

韓国では、『構文図解英語構文論』(柳津著、百万社)がかなり息の長い文法書で、韓国の学習書にしては珍しく、索引がきちんと付いています。この本は、アパートの階段の下に、他のたくさんの本と一緒に捨てられていたのですが、いい拾い物をしました(^^v)。奥付の版権表示は、韓国の他の本と同じくいい加減で、1991年2月5日に印刷されて2月10日に発行されたとしか書いてありません。しかし帯には、「出版以来23年間、最高部数の貫禄を有する90万読者公認の良書!」と書いてあるところを見ると、逆算してみて67年に書かれてから91年までの間に、90万部売れたと言っているようです。日本でも英文法の本はこんなに売れ続けるんでしょうか。人口比で考えれば、日本でなら200万部以上売れた計算になります。本のサイズは縦23センチ、横16センチ、厚さ3.5センチ(正味3センチ)で、総ページ数は652ページです。内容をざっと見ると、大変な精力を込めて書かれたという感じがします。

序文を見ると、「英語の研究において、単語、熟語、発音法、綴字法などを研究することも必要であるが、それよりも、文のしくみ(짜임새)と、文内の各単語および句の、構文上の意義と用法とを知らずしては、英語学習の何であれ、ものにすることはできない。であるから、英語学習を3〜4年してきた学徒にとって特に必要なのは、この syntax を徹底して研究してみよということである。これを研究してみることで、英語という言語の本質がわかり、英語に対する趣味も初めて悟りうるのである」と書いてあります。“英語に対する趣味”というのは分かりにくいですが、“英語の持つ味わい”という意味のようです。さらりと読み流してはいけない言葉だと思います。

その他、図書館で見る限り、『高等英文法』(趙成植著、高麗大学校出版部)も、有名なようです。この本は、例文のほとんど全てが実際の文学作品や高級誌の記事などで、なんと訳が一切ついていません。そして、脚注には実際の文学作品からの関連する用例が挙げられていて、用例が非常に充実しています。総ページ数は489ページ。説明もとても専門的で、例えば「主語」の定義について「主語の構文上の機能(structual function of the subject):主語とは、動詞と結合し、英語の構文内において subject+veub という形式(pattern)を形成しうる、単語(word)、句(phrase)、節(clause)などを指す。学校文法(school grammar)において、主語となりうるのは大概名詞であるというが、動詞と結合して一定の構文形式(structural pattern)をなしうるならば、原則としては、いかなるものでも主語となりうる」(15ページ)と、かなり本格的です。文体は大変明快ですが、内容は非常に高度です。たいていの文法書は、辞書を引かなくても読めるのが普通ですが、この本を読むときは、辞書は片時も離せないでしょう。

國弘正雄氏の提唱する只管朗読では、文法書も只管朗読するのだそうです。私は文法書は筆写の方がいいのではと思うのですが、英語を極めた人の言ですから、無視はできません。“これがいちばんよい”といえる文法書は、おそらく選べないと思いますが、個人的に“私にいちばん適している”という文法書ならば選べるでしょう。

『日本語力と英語力』では、「右手に素読、左手に文法!」と言っています。素読と文法学習とが対になるとは気がつきませんでしたが、このように、文法学習は素読と双璧を成す重要な学習項目のようです。そうそう、帯に上の言葉の説明がありますが、素読は「からだを使っての反復練習」で、文法は「動きの基本を構造的に把握する型」だそうです。

To ijustat@chance at 2004 06/24 16:46 編集 返信

外国語学習の媒体

Kuroneko様、こんにちは。

>PDAは手帳サイズの端末なのでしょうか?

日本ではPDAはあまり広まっていないという話を聞きましたが、本当にそうなんですね。私も実は、今月に入って初めてPDAなるものを実際に手に取って見てみたんですけれども、大きさとしては、携帯電話を横長にした形で、文庫版よりも少し小さいようです。そして、全体の7割ぐらいが画面で、パソコンに匹敵するような機能を備えています。ただし、キーボードがなくて、入力したいときには、キーボードを画面に表示させ、備え付けのペンのようなもので押して文字を入力します。ちょっとやってみましたが、キーボードをいちいち目で追っていかなければならず、目が回ってしまいました(笑)。

PDAの他の機能としては、例えばMP3が聞け、映画が見られ(ちょっと画面が小さいですが)、インターネットができ(無線インターネットのプロバイダに加入する必要があります)、装置を取り付ければ携帯電話もできるそうです。画面はウィンドーズXPで、PDA用のウィンドーズで動かしているのだそうです。電池は携帯電話並みに長時間使用できます。ワードやエクセルもPDA専用のものがありますが、データを入力するよりは、持ち歩いて使うのに便利な道具といえるでしょう。韓国では最近かなり脚光を浴びています。

このような媒体の変化は、当然学習の形態も大きく変形させていくと思います。だから、「電子ブック化が進めば、硬派の教材もかえって入手しやすくなるかもしれませんね。印刷のコストがかからない分だけ。手帳サイズで読めて、音声も聴けて、映像もある教材が簡単に利用できるようになると便利ですよね」とおっしゃったことは、案外近い将来に実現するかもしれないと期待しています。

電子ブックが一般的になれば、出版の費用で最後の難関(?)である印刷・製本代と紙代が浮きます。それだけで数百万円は節約できるのではないでしょうか。それに、テキストの形態でありながら、おっしゃるように、音声も聴けて、映像もある教材が、あまり高い費用をかけずに出てくるでしょう。このようなものは、コピーできないようにするよりは、実物を買わなければ教材がほとんど使い物にならないような特典をつければ、いいのだと思います。例えば、解説の中心的な部分を冊子にすれば(グロッサリは冊子にしても、電子辞書が使えるだろうから無意味でしょう)、電子資料だけでの学習はかなり困難になるから、違法コピーによる被害はある程度抑えることができると思います。

外国語の学習には、どのような形態であれ、生の言語資料にたくさん触れることが大事ですが、現在すでに生の資料はあふれるほど手に入るようになりました。コンピュータやPDA、または携帯電話の発達は、外国語学習に必要なそれらの条件をますます満足しやすい状態にしてくれると思います。あとは、昔から変ることのない外国語習得の原理を、さらに実行しやすく、お膳立てすることぐらいでしょうか。まあ、これがいちばん難しい、永遠の課題かもしれません。(笑)

To ijustat@chance Kuroneko at 2004 06/24 15:22 編集 返信

硬派だけど分かりやすい教材

Kuroneko様、こんにちは。

>簡単で楽しそうな教材はそれはそれで良いのですが、硬派の教材はあまり作られず、元々ある硬派の教材は徐々に品切れ・絶版になっていくので、困ったものです。英語以外の比較的「メジャー」な言語で、しばしばみられるような気がします。逆に、「マイナー」とされている言語の方が、硬派の教材が生き残っているようですね。

そういえば、本当におっしゃる通りで、「マイナー」とされている(されていた?)韓国語の教材は、これでもかこれでもかと詰め込むものが多いようです。教材が絶対的に少ないので、学習書がハンドブックを兼ねているものが必要とされているのかもしれません。韓国語は、最近では人気が出てきましたが、私が勉強していたころは、学習書もあまりなかったので、1冊だけである程度独立できる知識を詰め込むものが主流でした。

NHKのハングル講座も従来はそうだったようで、同郷の増田忠幸さんが、テレビのハングル講座に講師として出ることになったとき、そういう詰め込み型の(つまり、溢れんばかりの知識をぎゅうぎゅう詰め込むタイプの)テキストはよくないと言って、自分は視聴者ができることしか教えないと言いました。私はその前に、同じ考えの同僚の先生の話を聞いていたので、それはいい、ぜひそういう講義をしてくださいと言いました。なんだか提灯持ちみたいですね。(汗)

しかし、私がそれに賛成したのは理由があったのです。従来の韓国語の授業は、最初に文字と発音を延々とやるので、学習者はその規則の複雑さに(本当は複雑ではないのですが、説明すると複雑になってしまうのです)気圧されて、脱落してしまうことが多いのです。韓国語は日本人にとっては、いちばん極めやすい言語だと思います。それなのに、授業の最初のころ、文字と発音を教える段階で、あとでやったっていい部分まで全て網羅して教えるので、まだ韓国語を全然分からない学習者にとっては、目が回るほどその習得が困難に見えるわけです。

私も初めて韓国語の勉強をしたとき(独学でした)、教材は『朝鮮語の入門』(白水社)で、文字と発音だけで60ページもあって、道半ばにして力果ててしまいました(笑)。しかし、それから1年ほどたってまた始めたとき、一つ思い切って、文字と発音は省略し、カセットテープを頼りに第1課から始めることにしました。すると、なんと分かるではありませんか。なんだ、文字と発音を完成させなくてもできるじゃないかと、そのとき気が付きました。

易しい教材を目指していた同僚の先生は、その後日本へ帰国し、白帝社から『よくわかる韓国語 STEP 1』(入佐信宏・文賢珠著)を出しました。ステップ2までで初級文法は完結するそうで、ステップ1ではとにかく韓国語が使えるようにすることを目的として、とても易しく作ってあります。日本語教師としての経験が生きているので、口が動くようになることに、かなり重点が置かれています。まあ、東京のようなところでないと、あまりお目にかかることはないかもしれない本でしょうけれども。

ちなみに、日本の大学では、韓国語を教えるとき、発音が大事だといって、最初の1学期間全部を「文字と発音」にあてて、発音規則の全部を教えるのだそうです。すごいことですね。そういう先生方は、『エキスプレス朝鮮語』(白水社)から大いに学ぶべきでしょう。大学で教えるなら、そのレベルが限度なのではないかと思います。私だったら、その本文のスキットを学生に暗記させるだろうと思います。

ギリシャ語も、『現代ギリシア語の入門』(白水社)はかなり難しい本だと思います。28課まで読み終わり、また1課から読み始めていますが、6課で早くも困難を感じています。文が長く、その構造が複雑なのです。まあこれは、28課で複雑なギリシャ語の初級文法を全て教えなければならないという無理ある企画がさせた結果だとは思いますが、もう少し一つ一つのセンテンスを短くする方法もあったのではないかと思います。

ということで、本格的な教材が減ってきていることを残念に思いながら、最初の段階で難しいことをやりすぎる教材に対する批判をするという、混乱した話でした。しかし、この矛盾を克服する解決策を述べるなら、難易度の調整が学習者の進度とうまくあっている教材を作るべきだといえるでしょう。まあ、それ自体が難しいことなんですけどね。

To ijustat@chance at 2004 06/24 03:51 編集 返信

英英辞典依存症(?)の私

Kuroneko様、こんにちは。

>僕は読書のリズムを出来るだけ維持したいと思っているので、英和でちょこちょこっと調べています。

いや(^^;)、私は読書のリズムを持てるほど、英語を読む速度はないのです。のろのろだから、かえって英英辞典でも間に合うのかもしれません。

ただ、英英辞典の語釈を音読しています。声に出して読まないと、頭に入らないのです。コリンズの辞書は、説明が魔法のように(?)素晴らしいのですが、辞書の説明としては若干長めなので、ざっと目で追うだけだと、私の英語力では文中の切れ目を間違えるときがよくあり、そうすると、当然のことながら、理解できません。しかし、声に出して読むと、切り方を間違えたとき変だと気付くので、正しい切り方に直して読み直し、結果的に、それで理解できるというわけです。決して私の英語力が高いのではありません。いや、実際には低いのです。

できる人なら、たぶん“Pocket Oxford Dictionary (POD)”のような辞書を使うでしょう。昔の人の中には、“POD”を精密に読むことで英語の深さに触れた人もいるということで、私も憧れている辞書ですが、なにせ語釈の言葉が難しくて、歯が立ちません。どんな風に見えるかというと、ラテン語で説明されているみたいに見えるのです。つまり、ちんぷんかんぷんというわけです。

最近はオックスフォードでも、平易な英語で語釈している辞書に変わってきたようです。今は“Pocket Oxford Dictionary of Current English (PODCE)”が出ていますが、あれはたぶん“POD”の後釜ですよね。この辞書なら、私の理解できる範囲にまで下りてきてくれています。たとえば、“nice”という単語で、それぞれの辞書の語釈の違いを見てみましょうか。(用例は除きます。)

POD:Fastidious, of critical taste, punctilious, particular, delicately sensitive.

PODCE1 pleasant, satisfactory. 2 (of a person) kind, good-natured. 3 iron. bad or awkward. 4 fine or subtle. 5 fastidious; delicately sensitive. 6 (foll. by an adj., often with and) satisfactory in terms of the quality described.

COBUILD1 If you say that something is nice, you mean that you find it attractive, pleasant, or enjoyable. 2 If you say that it is nice of someone to say or do something, you are saying that they are being kind and thoughtful. This is often used as a way of thanking someone. 3 If you say that someone is nice, you mean that you like them because they are friendly and pleasant. 4 If you are nice to people, you are friendly, pleasant, or polite towards them. 5 When the weather is nice, it is warm and pleasant. ...(10番まであります。)

同じ英英辞典ですが、私には、一番上の“POD”はほとんど理解できません(汗…いつか理解できるようになりたい!)。でも、一番下の“COBUILD”だったら、難なく理解できます。このように、英英辞典と一口に言っても、その内容はまったく違います。英語力さえあるなら、読書をしながら知らない単語を引くとき、いちばん簡潔な辞書がいちばん使いやすいはずですが、残念ながら、私にはとうてい使いこなせません。それで、Kuronekoさんが指摘される通り読書のリズムを崩す可能性のある、ちょっと語釈が長めの英英辞典を使っているわけです。

私には、意味の獲得に関して、一種の強迫観念のようなものがあり、A語の意味を、自分の知っているB語(私の場合は日本語と韓国語)の単語に置き換えて説明されたのでは、その言語内での他の語との関係が全く見えず、フラストレーションがたまるのです。その語の“居場所”が見えないといったらいいでしょうか。松本道弘氏は『私はこうして英語を学んだ』(JIPPI SHINSHO、1979年)で、「英和辞典をやめ英々辞典に切り替えるのは二級のころが最適と思うが、一級になれば英々辞典を積極的に用いるべきであろう。外人と英会話をしなくとも、語感を鍛える方法はなにかと問われれば、私は即座に「英々辞典だ」という」(87ページ)と述べており、なぜ英英辞典が有用(必要?)かを、その直後の部分で、“diarrhea”と、“efficient”や“effective”などを例に、8ページにわたって大変明快に述べています。この本は97年に1度読んだのですが、自分の辞書に対する考えがこの本の影響か、それとも自分の考えと一致していたので印象深いのかは、はっきりしません。おそらくもともと後者なのでしょうが、松本氏の説明があまりに明快なので、その影響を知らず知らずのうちに受けてきて、ついには“韓日辞典でも韓国語の意味が分かる”という人の考えが理解できないまでになってしまったのでした。(笑)

しかし松本氏はこの本の中ほどで、「このころ(=英書が年に百冊読めタイムを毎週隅から隅まで読めるようになったころ)になれば、かならずしも英々辞典を用いなくともよい。英和辞典の方が日本的感覚や発想にすんなり入るのでよりてっとり早いことすらある」(170ページ)と言っています。ただし、すぐに続けて「ただ何度もいうようだが「辞書を尊び辞書に頼らず」という信念がなければ、すぐに辞書に頼り、ややもすれば右(日本語)か左(英語)かのいずれの手の方が強くなり二刀流がぎこちなくなる」と言っています。まあこれは私にしてみれば、高度な“境地”なので、当面は自分には関係ないと思っています。

ところで、こんなことはやったことがありませんけど、読書中に出てきた知らない単語を“POD”で調べ、語釈中の分からない言葉を“PODCE”で調べるという、すごくまだるっこしい方法で勉強したら、“POD”を読む力が付くかもしれません。でもこれだと、肝心の読書の方は、どこへいってしまうでしょうね。(笑)

To ijustat@chance Kuroneko at 2004 06/24 03:58 編集 返信

音読をどうしたらいいか

Kuroneko様、こんにちは。

>僕は教科書を離れた外国語の読書になると、日本語での読書と同様、ストーリーを追ったりする楽しみを優先してしまうので、なかなか素読は難しいです。

ああ、そうですね。初めて読む本を素読するというのは、もうすでに英文が読めるようになっている人にとっては、あまり魅力を感じられないことかもしれません。素読をするからには、そのテキストと長い間親密な付き合いをしなければならないわけで、その価値のはっきり分からないテキストを素読するというのは、大人には難しいことだと思います。このテキストは自分には価値があるんだという信念がなければ、とうていできないことだと思います。

私が聖書を素読するとき、他の人たちが葛藤する部分で葛藤しないのは、ストーリーはすでによく知っているので先を急ぐ必要がないということと、これを読んで自分のためになるのかと疑う必要がないことです。これは私がクリスチャンであることもありますが、それ以上に、なぜか自分が主催することになって、3年前から続けている聖書勉強会で、福音書を毎週少しずつ読んで内容について討論しながら、その深い味わいが分かるようになったからでもあります(この勉強会には、いろいろな専攻の人たちが来るので、“読む”とは何かをいつも考えさせられます)。このように、自分が好きで何度も読んでいる本をあらためて素読のテキストとして用いるのが、大人にとっては大切なことではないかと思います。

ところで、音読をテーマにしたり、音読について言及したりしている本はけっこうありますが、主張する内容はまちまちです。國弘正雄は『國弘流英語の話し方』(たちばな出版)で、意味が分かっているものであることを強調しています。斎藤孝は斎藤兆史との対談『日本語力と英語力』(中公新書ラクレ)で、意味よりも言葉の音声的な息遣いに重点を置いています。一般に“素読”という言葉を用いる人は、意味よりも音声に重点を置く傾向があるようです。また北川達夫という人は、『知的英語の習得述』(GAKKEN)という本で、非常にゆっくり、区切りながら読むべきだといい(音読回数を多くする必要はないと言っています)、笹野洋子という人は『「読んで身につけた」40歳からの英語独学法』(講談社+α文庫)で、早口で読むことを否定していません(50回の音読を勧めています)。

これらを自分なりに総合すると、意味については、文の構造だけは理解できた方がいいようで(ただし先生と一緒に読む場合は、よく理解できないまま始めても、それが名文ならば問題にならないようで(『日本語力と英語力』86〜87ページ))、読む速度に関しては、初めはゆっくり区切って読めば理解の助けになるが、のちにはスラスラと読める必要があり、音読の回数に関しては、少なくとも1度に10回くらいは読んで、それを何度か繰り返す、という方法がいいようです。『日本語力と英語力』では、「右手に素読、左手に文法!」(90ページ)という、うまい標語(?)を作っていました。これは名言だと思います。

面白いことに、多くの人は、他のことは一生懸命やろうとするのに、こと繰り返すことに関しては、それを避けようとします。ある人は、あからさまにそれを言いました。例えば文法書などの例文を読むことに関しても、1回ずつ音読するのでもいいんじゃないかといったのです。私は1度に最低10回ずつ読む必要があるのではないかと思うのですが、せめてもの回数として言うなら、2回です。2回と3回はあまり変わらないと思いますが、1回と2回は大変な違いがあるからです。

もうすでに英語を体得している人にとって英文の音読は、素読ではなくて、“朗読”ですよね。私の場合、日本語のテキストを“感情を込めて”読むことを続けてきたせいか、その流れが読む前からもうできあがっていて、日本語でも韓国語でも、声に出して読んだとき、黙読では気付かなかった意味を発見することがよくあります。この流れは、日本語でできあがっていると、外国語を音読するときも適用されるようで、英語でも、黙読では理解できなかったところが、音読すると分かることが多いです。音読によって、単語ではなく、構造が理解できるのです。それで、韻律は個別文法よりもむしろ普遍文法に従属しているのだろうかなんて、いい加減なことを考えたりしています。

To Kuroneko at 2004 06/24 03:43 編集 返信

色々むずかしい論理的表現^^;

Kuroneko様、いつもハッとする新しい発見を提供してくださりありがとうございます。とても面白かったので、返事が増えてしまいました。まだ全部書き終わっていないので、書き上げた分からアップロードしたいと思います。

>ただ、プレゼンテーションという状況を考えると、「日本語らしさ」にこだわるより、論旨の明快さを重視した指導の方が大事ではないのかなぁ、、、と思いました。

全くおっしゃるとおりですね。状況による言葉遣いの違いは無視できません。私が自分自身どのような性質の日本語を求めているのか、反省したことはありませんが、おそらく Kuroneko さんがおっしゃるように、プレゼンテーションなどでの論旨の明快な日本語と、随筆などでの日本語らしい、和風な日本語との両方を求めているのだと思います。

それは、Kuronekoさんが指摘されたように、時と場合によって使い分けられるものだと思います。私はその辺の違いをあまり認識していませんでした。なぜなら、初級と中級では、自分の考えを長く論じることはしないので、論理的関係を表す表現は目立っていません。そして、上級といったらいいのでしょうか、最終レベルのクラスで初めて、日本語で論じる練習をするのです。上級レベルにおけるその他の会話練習はしないので、その言葉遣いの違いを考えたこともなかったのです。でもまあ、論理関係を露骨に表さずにその論理的関係をはっきりと理解させられる、和風のスタイルを身に付けるのは、非常に高度な日本語力を要するでしょうね。そういうスタイルを最初から標榜すると、Kuronekoさんのおっしゃるように、妙に日本語慣れした、あまり感じのよくない日本語になってしまう可能性があると思います。

このあいだ、ロシアの高麗人(中央アジアに住む韓国・朝鮮系の移民は、自分たちをそう呼んでいます)が書いた、韓国語とロシア語のアスペクトの対照研究に関する修士論文を読んだのですが、これが非常に読みにくいものでした。文法や表現的にフラフラしているのに、センテンスが非常に長いんです。長いセンテンスを使うなら、文法的にがっしりとした構成をとらないといけないことを、この論文によってあらためて思い知らされました。センテンスが長いのは、韓国語の文体的特徴かもしれませんが、外国人の立場では、そのような長さによる“自然さ”を求めるよりは、表現の明晰さを追及した方がいいでしょうね。

ちなみに、日本人の使う韓国語は、発音はともかく(笑)、表現の豊かさにせよ文法的な適切さにせよ、他の言語を母語とする人たちとは比較にならないほど優れています。韓国に長年住んでいる日本人の間で、誰が韓国語が上手かという話題は、ほとんど出てきません。むしろ、長年たっても下手な人がいたら、それが話題になるくらいです。このように、日本人が外国語下手であるという“伝説”は事実でないことを、韓国での生活で、ほぼ毎日体験しています。昔マッカーサーが日本人の知的水準は12歳並みと言ったそうですが、西洋人の韓国語水準は、大の大人でも高校生くらいに感じられてしまうことが多いです。もちろん、その人の知的水準の高さは、単純な韓国語の中からも見えてくるので、まさかその人が高校生の知的水準だとは思いませんが、言葉だけ聞くと、マッカーサーが言った意味が分かるような気がします。当時日本は英語を敵性語としてほとんど勉強しなかったでしょうから、一部の英語の達人以外は、米国人元帥の前に出る日本人でも、かなりお粗末なものがあったのだと思います。

>ijustat様が例に挙げていたような日常会話はその言語が使われている環境で少しずつ覚えていけばいいもので、学校や教科書で習うたぐいのものではないと思います。

おっしゃる通りだと思います。というより、現状として、そうせざるを得ないでしょう。変な例ですが、文章で「私は、……と、私は思います」などのように主語を繰り返す形は、あまりにも拙く見えるので、敬遠されます。学校や教科書でも、このような“文型”は、当然のことながら教えません。文章体において、この形が非文法的と判断されるかどうかは分かりませんが、とにかく変ですよね。

ただ、こういう表現が文章で出てしまうのは、話し言葉では普通に使われるからだと思います。私自身は、この本動詞の前にくっついている重複した主語は、動詞の人称変化に似ていると思っています。主語「私は」で始めた長い文の最後に動詞が出てくるとき、聞き手が誰の動作か聞き逃さないように、動詞の直前に再び主語「私は」を添えるというものです。

人称変化というものも、文の一箇所に核心的な要素を負担させるのでなく、文中の主要な各部分に分散させて、聞き手が要求される集中力をいくらか軽減させるものとして、発達してきたと思います。日本語の話し言葉でも、そのような機能を持った言葉が用いられているのではないでしょうか。

そういう文型(?)が話し言葉の教材に採用できないかと考えているわけですが、実際に文字にしてみると、あまりにぎこちなく、稚拙に見えてしまいます。また、前回例に挙げたような会話の書き起しは、文章では読むに耐えないものです。実際、編集者の人と一緒にその論理的な解釈に頭を悩ませ、実際に録音されているものを聞いて、やっと何とか言おうとしていることが類推できたのです。こういうものを下手に真似したら、印象のよくない日本語になってしまうことは、「少々、硬くても丁寧な日本語を使う人の方に良い印象を持ちますし、信用できるような気がします」と指摘された通りです。また、「逆に考えれば、外国語を学ぶ日本人にも同様のことが言えるのではないか、と思います」とおっしゃったのも、本当に重要な指摘だと思います。外国人の話す日本語によって自分が受ける印象を考えれば、自分が話す外国語によってその国の人が受ける印象も分かるはずだからです。この点に関して私も、言語による違いはあまりないと思います。

>実は僕も予備校で小論文の授業を受けていたのですが、僕の場合、鑑賞中心の(公教育での)国語のあり方に疑問をもっていたので、逆に「論理」を軸におく予備校の現代国語、小論文の授業にすんなりと入っていくことが出来ました。

それはうらやましいことです。私は高校生のとき、解釈中心の国語に“疑問”を持つほどの知的水準はありませんでした。むしろ、すごくむなしいことをやってるなあと思っていました。それが特に文学作品を読む授業において顕著だったので、その後私は小説に対する関心を失ったまま20年近く過ごしてしまいました。小説の持つ重要な意義を学んだのは、恥ずかしいことですが、最近になってからです。

そのようだったので、もとから私に論理的思考などという概念があろうはずもなく、小論文の指導でコテンパンに打ちのめされてしまったわけです。小論文の指導は全て通信教育で、高3のときと浪人のときにわたって2年間受けました。たまに褒めてくれるから続けられたけれど、当時はあまり気分のいいものではありませんでした。内容が大事だって言われても、読ませる内容なんか持っていなかったのですが、そういう現実にも気が付きませんでした。

以前も書きましたが、予備校の現代国語で初めて“論理”の姿を見せられたとき、まったく知らなかった新しい世界が目の前で開け、そのまばゆさに目も眩むほどでした(笑)。残念ながら、当時私が何を習ったのか、今ではまったく思い出せないのですが、その恍惚感だけはなぜか覚えています。

現代国語の方は、くさされることもなかったので、わりと楽しかったのですが、小論文は、以上のようなわけで苦痛でした。それと、締め切りが迫ってくると、書く内容が決まらずに苦しんだことを、今ふと思い出しました。今でも同じことをして暮らしているのは、面白いことです。でも、今は日本語について解説することなので、小論文ほど苦しくはないような気がします。

From Kuroneko( Mail ) To ijustat@chance at 2004 06/19 10:54 編集 返信

サボってしまう音読(^^;

>>学習書は難しければ消化不良になるのは当然だけれども、どんなに易しい学習書も、必ず消化不良になります。

そうですね。特に屈折語を学ぶと、語形変化でアタマが混乱してしまいます。英語以外のヨーロッパ諸言語を学び、挫折した方は、多分、活用や曲用にイヤになってしまったのでしょう。という私も、フランス語に挫折しかかった時は、動詞の活用が厄介なものに思えたものでした。ただ、繰り返し繰り返し一冊の学習書を読んでいると、自然に慣れてきて、なんとか克服できるようになります。どんな言語でも、最初に学習書に取り掛かったときは、本当に面倒くさくなりますね。

さて、音読の重要性は分っていても、なかなか実行できないですね。今、ふと思ったのですが、僕の場合、日本語は完全な黙読ですが、外国語は声にしなくても頭の中で音にして読んでいますね。どうしても意味が取れない個所は、分析をするので音から離れますが、基本的に脳内で音読しているような気がします。なので、英語の場合、黙読中でも発音を知るために辞書を引くことがあります。

本当は声に出した方がいいのですが……、なかなか難しいですね。教科書の例文は音読して、暗誦しますが、教科書以外だとなかなか音読をしないです。シュリーマンのように恩を一冊、覚えてしまうぐらい音読すると、本当に語学力がつくのでしょうが、、、僕も怠け者です(^^;)

ところで、斎藤孝氏のお話ですが、

>>これは、水準の高い一般の文章でありながら、かつ平易なものでなければいけないそうです。

内容的には平易なものなのですね。勘違いをしていました。僕は文章のお手本になる文体ならば、内容は(今は)理解できなくても構わない、と思っていました。しかし、「水準の高い文章で平易なもの」を見つけるのも、教える側のセンスが問われるところですよね。なかなか難しいと思います。フランスの伝統的な小学校での国語教育では、内容は理解できなくても良い文章を暗記させる、という方法なので、斎藤方式とは少し異なりますね。

>>そこで考えたのですが、自分が外国語を学習するためのマニュアルとして、外国語学習法の本を書いたら面白いのではないかと
>>思いました。


浪人生の頃に、勉強の気分転換に、「各教科の学び方」を箇条書きにしてまとめてみたことがありました。その時は、特に意味無くそんなことをしたのですが、自分の方法を客観的に捉える意味でも有効ですよね。

でも、

>>Kuronekoさんなら、きっと有益なものが書けると思います。

これは自信ないですよ!(^^)

From Kuroneko( Mail ) To ijustat@chance at 2004 06/19 10:25 編集 返信

こんにちは!

Kuronekoです。

>>ある事実の羅列が曖昧に聞こえたので、その場合は先にいくつの事実があるかを、「それは3つあります」のようにまず言い、
>>続いて「一つは、……、二つ目は、……、そして三つ目は、……」とすれば分かりやすくなると教えました。
>>ところが審査の日、学生が私の言ったとおり発表すると、ある先生がその部分を指摘し、それは非常に固くて日本語らしくないから、
>>使わない方がいいと言ったのです。

僕自身は「第一に……、第二に……」と書いていく方が好きですが、日本語らしくないと言いますか、外国語の作文法の影響を受けた書き方といえるかもしれませんね。ただ、プレゼンテーションという状況を考えると、「日本語らしさ」にこだわるより、論旨の明快さを重視した指導の方が大事ではないのかなぁ、、、と思いました。これが、例えば《随筆の書き方》などと言ったテーマなら、日本語らしい表現が重要になってくるのだと思いますが。

>>日本語で多くの人たちが用いている表現を追うのなら、それでもいいかもしれませんが、論理的な明瞭さを求めるならば、
>>その目的に適う理想的な表現を探す必要があります。それは多く用いられているとは限りませんから、頻度とは関係なく
>>採用すべきでしょう。

僕もそう思います。ijustat様が例に挙げていたような日常会話はその言語が使われている環境で少しずつ覚えていけばいいもので、学校や教科書で習うたぐいのものではないと思います。と、いいますか、僕はそういう表現は特に教わらなくてもいい、と思っています。僕が外国語を学ぶ上でまず身につけたい言葉は、文章に使ってもおかしくない口語、といった感じもものです。日本に住んでいる外国人の方の中には、ijustat様の例のような日本語を流暢に喋る人もいますが、僕はそういう方にあまり良い印象を持たないです。少々、硬くても丁寧な日本語を使う人の方に良い印象を持ちますし、信用できるような気がします。逆に考えれば、外国語を学ぶ日本人にも同様のことが言えるのではないか、と思います。

>>文章作法は、大学受験の小論文を勉強するときまで、“豊かな表現”だとか、“味わい”などについてしか聞いてきませんでした。
>>それが、小論文の指導を受けたとき、論理的思考がまずいと指摘され、さらには“思考力”に問題があるとまで言われて、
>>ショックで夜も眠れなかったことがあります。

厳しい先生だったのですね。実は僕も予備校で小論文の授業を受けていたのですが、僕の場合、鑑賞中心の(公教育での)国語のあり方に疑問をもっていたので、逆に「論理」を軸におく予備校の現代国語、小論文の授業にすんなりと入っていくことが出来ました。

>>国語の先生は文学専攻の人たちが大部分を占めると思いますが、それらの先生たちは、なぜ大学で研究していたように、
>>文章を解釈するために論理的な手続きが取られることを教えないのでしょうね。

確かに僕が大学時代に知り合った国文専攻の学生さんや先生は論理的に考える人ばかりでした。学習指導要領などの関係で、そういう指導がし辛いのでしょうかね。

さて、ijustat様の関口式素読は続いているのですね。僕は教科書を離れた外国語の読書になると、日本語での読書と同様、ストーリーを追ったりする楽しみを優先してしまうので、なかなか素読は難しいです。読みながら、未知の単語全てを調べることはさすがにしませんが、話の展開上、大事な点で未知の語句があると辞書で調べて読んでいます。英語では現代ものの平易な小説などでは、ほとんど辞書なしで問題ないのですが、小説によっては辞書がないと困ってしまうものも多いです。今、17世紀のオランダが舞台の英語の小説を読んでいるのですが、結構、辞書を引いています。古い服装や装飾品の語彙が無いからなのですが、普通の動詞なども調べていて、語彙力の無さに悲しくなったりします(;;)

>>英和辞典と英韓辞典は、意味の把握にはあまり使わないで、ものの名前などを調べるときや、
>>英英辞典ではどうしても理解できないときに使います。

英英辞典中心なのですね。僕は読書のリズムを出来るだけ維持したいと思っているので、英和でちょこちょこっと調べています。そして辞書の訳語からその語句の意味をイメージして、文脈に合わせて意味を確定する、といったことをしています。どうしても気になる語句は、本を読んだ後に、英英で調べます。読みながら英英を使うというレベルではないのです、僕の場合。ただ、「英韓辞典では実際には英語の意味が意味が分からないけれども、英英辞典で調べれば、その意味が明瞭に理解できることがよくある」というのは、実際ありますね。このことが理解できるようになるには、教科書から離れて読書をするようになったり、文章を書くようになったりしないと実感しにくいかもしれないですね。

>>最近日本でも、本格的に学べる教材が減ってきていることは残念だというと、実は編集者たちは、本当はしっかりと基礎を
>>身に付けられるような学習書を作りたいのだが、そういう硬派の教材は売れないので、どうしても易しい教材ばかりを作らざるを得ない
>>と言っていました。

やはり需要の問題なのですね。以前、書きましたが、フランス語の教材も中身が薄いものが多いです。簡単で楽しそうな教材はそれはそれで良いのですが、硬派の教材はあまり作られず、元々ある硬派の教材は徐々に品切れ・絶版になっていくので、困ったものです。英語以外の比較的「メジャー」な言語で、しばしばみられるような気がします。逆に、「マイナー」とされている言語の方が、硬派の教材が生き残っているようですね。個人的に初級文法と基礎語彙をしっかり身につけることが出来る教材が好きなので、最近の学習書の傾向はあまり歓迎できないです。

>>韓国では今紹介したようなPDAが有望です。日本だったら、携帯電話がそれに当たるのではないかと思いますが、どうでしょうか。

現在の状況をみると、携帯ですよね。ですが、画面が小さいので、見づらい点がネックですね。ところで、PDAは手帳サイズの端末なのでしょうか? 文庫本サイズの携帯端末の方が見る分には使いやすいですよね。電子ブック化が進めば、硬派の教材もかえって入手しやすくなるかもしれませんね。印刷のコストがかからない分だけ。手帳サイズで読めて、音声も聴けて、映像もある教材が簡単に利用できるようになると便利ですよね。

To 氷雨 at 2004 06/16 22:35 編集 返信

RE:日本旅行写真

氷雨さん、こんにちは。ijustatです。

>日本旅行の時撮った写真のUploadがいよいよ終わりました
>関心がありましたらお越しくださいませ

>リストで“HP”をクリックまたは
www.cyworld.com/sisycho  で

お知らせくださりありがとうございました。

そういえば、このあいだ氷雨さんと会ったとき聞いた、ソウルのバスの中での体験談は面白かったです。氷雨さんが日本語の勉強に没頭するあまり、つい口から日本語で独り言が出てしまったとき、近くにいた子供から、「あ、あの人、日本人だ!」と言われたので、これはまずいと思って、今度は韓国語で独り言を言ってみたら、「あの日本人、韓国語がすごく上手!」と言われ、最後まで韓国人に慣れなかったという話は、本当に笑えました。

また、慶尚道(경상도)の人とアメリカ人がバス停で待っていたときの話も面白かったです。待っていたらバスが来たので、慶尚道の人が“왔데이.(ワッテイ:来た)”と言うと、アメリカ人が“Monday.(マンデイ:「먼데이:何が?」に聞こえる)”と答え、それに対して慶尚道の人がまた“버스데이(パスデイ:バスだ)”と答えると、アメリカ人がいきなり“Happy birthday to you!”と歌い始めたという話は、超傑作でした。

そういう面白い話を持っている氷雨さんが作ったホームページだから、ぜひ他の人にも見ていただきたいですね。


To 氷雨 at 2004 06/16 22:39 編集 返信

RE:About Yoroshiku

氷雨さん、こんにちは、ijustat(実は小文字で始まります)です。

> Yoroshiku is somewhat of a ritual saying in Japan
>You say it when you meet someone or are going to be working with someone.

>It's sort of a way of saying
>”I hope we can do well by each other from now on. ”
>Just think of it as the polite thing to say in such situations.

なかなかいい説明ですね。日本語のことがよくわかっている人が解説しているようです。韓国語では“よろしく”は“잘 부탁드립니다”で意味もまあほとんど同じだから問題ありませんが、英語(ギリシャ語も)にはそういう表現がないから、意味の説明は必要かもしれません。

でも、ドラマの字幕にそこまで日本語の意味を正確にわかってもらおうとする必要があるのかという疑問も感じました。中学1年のころだったと思いますが、“How do you do?”をたしか“はじめまして”と習った覚えがあります。全然違う意味ですが、場面的には通用しました。また、“Good morning.”も“おはよう”と習いましたが、これだって全然違う意味です。韓国語で以前“좋은 아침입니다.”という人がいましたが、それもやはり“Good morning.”の意味と同じではありません。でも、機能としては同じ状況での挨拶として大体通用します。

もっとも、アメリカの人たちはそういう異国的な雰囲気を面白がっているのかもしれません。聞いた話ですが、アメリカの野球番組で、野茂選手が三振を勝ち取ったとき(三振に倒れたとき?)、解説者は“Sanshin!”と叫んだそうです。映画の字幕にわざわざ解説まで入れて原語を出したのは、そういう効果を狙ったのかもしれません。(もっとも、大リーグの解説者が日本語を使ったのは、日本でも見られていることを知っていて、日本の視聴者の受けを狙ったのかもしれません。)

……という、わきにそれた返事でした。^^;

From 氷雨( HP ) To ijustat@chance at 2004 06/16 02:50 編集 返信

日本旅行写真

Ijustatさん こんにちわ 氷雨です

日本旅行の時撮った写真のUploadがいよいよ終わりました
関心がありましたらお越しくださいませ

リストで“HP”をクリックまたは
www.cyworld.com/sisycho で

ではでは


From 氷雨( HP ) To ijustat@chance at 2004 06/15 13:42 編集 返信

About Yoroshiku

Ijustatさん こんにちわ 氷雨です

以前はなした”英語字幕付き”のアニメで
”よろしく”を訳せずこう説明してありました
考えてみる必要があるって感じかな
無意識に”よろしく”を濫発していても
それが英語ではどうなるのかは全然考えたことなかったんですから

Yoroshiku is somewhat of a ritual saying in Japan
You say it when you meet someone or are going to be working with someone.

It's sort of a way of saying
”I hope we can do well by each other from now on. ”
Just think of it as the polite thing to say in such situations.

ではでは

To 氷雨 at 2004 06/15 02:13 編集 返信

RE:決心

氷雨さん、こんにちわ。ijustatです。

今日は氷雨さんといっしょに、“平和の家”で美味しいキムチチゲ(김치찌개)を食べることができて、本当によかったです。ところで、あの建物は「工科大(공과대)」ではなくて、「工学院(공학원)」っていうんですね。知りませんでした。

>平和の家ですか 最近あまり行ってないので。。。
>メニューが口に合わないってわけではなく
>この頃主に学食で食事をしてますから
>ここは外部にもよく知られているみたいで
>外部人も多く訪ねてます

私は以前学食で昼ごはんを食べて食中毒にあったことがありました。その少し前に、知り合いが学生会館の左側の学食で食べて食中毒にかかったので、私はそれを避けて右側の学食へ行ったのですが、そこでハンバーグを食べて(美味しく食べたのですが)、夕方発病しました。そんなこともあって、学食にはずっと長いあいだ行っていませんでした。

なぜハンバーグが原因だと分かったかというと、授業を途中で切り上げて家へ帰る途中、薬屋に寄って症状を言うと、「昼に食べた肉が原因です」と言われたからです。何でこの人、占い師みたいなことを言うんだろうと思って考えてみると、昼にハンバーグステーキを食べていました。「ひょっとして、それですか」と聞くと、「そうです。それが中ったんです」と言います。食べてから6時間も経っているので、はじめは信じませんでしたが、そのあと何も口にしていなかったので、薬剤師さん(약사)の言うことは当たっています。薬も飲んで3時間ぐらいしたら効いてきて、次の日には何とか痛みも治まりました。

そんなことがあって、学食で食べる時は勇気が要ります。

>Absolutely! これは日本語に限ったものではなく
>自分で一番戒めているもので”韓国式の外国語は厳禁!”なのです。
>いつも認識しようとしていますけどやっぱりうっかりする時が多いですね

まあ、氷雨さんの日本語は、韓国だけで勉強している人にしては上手な方だと思います。ただ、辞書との付き合い方が、ちょっと弱いのが欠点でしょう。日韓辞典を使用していると、ここで一気に日本語を伸ばしたいと思うとき、大きな足かせになります。しかし、残念ながら、それに気付いている人はほとんどいません。多くの日本語関係の出版社では、日韓辞典も出していますから、そういう出版社で日日辞典を使うべきだと口にできないのでしょう。

>あ 本論に入って、決心というのは
>今回の試験で自分の未熟さを思い知り
>もっと日本語に精進することです

いいですねえ。氷雨さんは、インフォシーククラブでは「修行」と言い、ここでは「精進」と言ってくれましたが、これは外国語を上手になりたいと願っている人にとっては、ピリリと辛味のきいた、食欲をそそる言葉です。(笑)

>とにかく もう弱音は吐きません 
>これからもっともっとレベルアップできるように!

いいですねえ。頑張って日本語修行に精進してください。

From 氷雨 To ijustat@chance at 2004 06/13 00:13 編集 返信

決心

Ijustatさん、こんにちわ。氷雨です。

>先日、工科大地下のカフェテリア“平和の家(평화의 집)”で食事をしました。プルゴギペッパン(불고기 백반)を食べながら、氷雨さんはこの建物で勉強しているんだなあというようなことを考えていました。

平和の家ですか 最近あまり行ってないので。。。
メニューが口に合わないってわけではなく
この頃主に学食で食事をしてますから
ここは外部にもよく知られているみたいで
外部人も多く訪ねてます

>なるほど、そんなに難しかったんですね。まあ、外国語の道のりは長いということで、時間をかけて頑張りましょう。でも、伸び悩む原因の一つとして、日本語を韓国語で理解する癖から抜け切れていないということがあるかもしれません。日本語を日本語で理解できるようにする方策を立てる必要があると思います。

Absolutely! これは日本語に限ったものではなく
自分で一番戒めているもので”韓国式の外国語は厳禁!”なのです。
いつも認識しようとしていますけどやっぱりうっかりする時が多いですね

あ 本論に入って、決心とゆうことは
今回の試験で自分の未熟さを思い知り
もっと日本語に精進することです
これは知り合いのある後輩のセリフのせいです
そのセリフというのは

”試験に落ちても、あなたの実力には変わりはありません”

そうか、試験一回で落ち込んではいけない
また来年もあるし、それにその試験の他に道がないってわけでもないから
すでに就職している友達から日本語を生かして
職場生活をするのもできるって言われました

とにかく もう弱音はしません 
これからもっともっとレベルアップできるように!

ではでは

To 氷雨 at 2004 06/12 18:29 編集 返信

RE:何か誤解されましたようで

氷雨さん、こんにちわ。ijustatです。

先日、工科大地下のカフェテリア“平和の家(평화의 집)”で食事をしました。プルゴギペッパン(불고기 백반)を食べながら、氷雨さんはこの建物で勉強しているんだなあというようなことを考えていました。(平和の家は以前、語学堂の地下にありました。私は語学堂で日本語講師をしていた6年間、メニューにカレーさえあればカレーを食べていたので、あそこの主人は私のことを、カレーばかり食べる人ということで今も覚えていると思います。)

>ちょっと意味が歪んで伝えたそうですけど
>私の言った”韓国語しかできない”は
>今までやってきた日本語が本当に大したもんじゃないと知ったからです
>白状することなんですけど
>一番自身あった”日本語読解”パートで
>問い一から問い十まで正解はたった三つ!
>あれほど勉強してたのにこれはやりすぎじゃないかなと思い込んで。。。

なるほど、そんなに難しかったんですね。まあ、外国語の道のりは長いということで、時間をかけて頑張りましょう。でも、伸び悩む原因の一つとして、日本語を韓国語で理解する癖から抜け切れていないということがあるかもしれません。日本語を日本語で理解できるようにする方策を立てる必要があると思います。

>これはちょっとした心を片付ける必要があるって意味でした
>そんな大きな衝撃の後、しばらくは日本語やりたくないもんですから
>自分でも早く元に戻れるといいなって思います

なるほど、そういう意味だったんですか。まあ、誤解を与えたということは、それだけ氷雨さんの日本語が上手になったということかもしれません。下手な水準ならば、何か言ってもそれが間違っていると考え、理解可能で好意的な意味に解釈しようとします。しかし、ある程度以上の水準になると、今度は話されたとおり、または書かれたとおりに相手は解釈するようになります。私も昔、韓国でそのような状況になって苦労したことがあります。今まさに氷雨さんの日本語がその水準なのだと思います。

これは中級のいちばん苦しいところだと思います。でも、頑張ってこのレベルを克服すれば、本当に日本語がよくわかるという段階に入ります。希望を胸に、頑張ってください。(笑)

>>ドイツ語の学習には、韓国語の学習書を使わずに、英語の学習書を使った方がいいですよ。

>それは同感なんですけどそんな学習書どこから手に入れたらいいのやら。。。

“そんな学習書”は、キョボ文庫(교보문고)の外国書籍コーナーへ行けば、売っています。外国書籍コーナーは、右が英書、左が日本書籍ですが、英書の方の入口を入って正面にある柱の裏側に、英語で書かれた外国語教材がひっそりと置いてあります。テープ付きで3万ウォンくらいすると思いますが、学院(학원)に通うことを考えれば、安いものです。慣れないと、はじめは変な感じがするかもしれませんが、だんだん慣れてくると、韓国語のようなドイツ語とは遠い言語に訳すのは面倒に思えてくるくらい、英語と対応させた方が楽になると思います。

>何気なくがっかりさせることになった気がしますので
>本当に申し訳ございません

いえいえ、氷雨さんの日本語の向上を、いつも期待しています。

To Kuroneko at 2004 06/12 18:33 編集 返信

RE:翻訳文体

>渡部昇一氏が『英語教育大論争』の中で「高校での英語教育は、難解で抽象度の高い日本語を読むためのトレーニングなのだ」ということを書いていたのですが、なんだか似ていますね。

すごい意見ですね。これは、「翻訳文は読み難くても構わないんだ!」とか「英語の教授法を変える必要はないんだ!」という意見に比べて、すごく非凡な感じがします。簡単にそのような意見は出てこないと思うからです。私の周囲では、渡部昇一氏を無知でいい加減なことを言う人という雰囲気が強かったですが、まあ誰でも知識の完全な人はいないでしょう。この議論の正否はともかく、非凡な意見ではあると思います。(私は以前自分のホームページで、渡部昇一氏の『「人間らしさ」の構造』という本について、かなり否定的に書いたことがあります。私は高校生のころから渡部昇一氏の本を読むのは好きだったのですが、そのとき読んだ本だけは、非常に失望したのです。)

>斎藤孝氏の「小学生から水準の高い文章を読ませる教育方法」は内容的に小学生には難しいけれども、文を書く際の見本となるような文章を読ませることだと思うのですが、どうなのでしょうか?

これは、水準の高い一般の文章でありながら、かつ平易なものでなければいけないそうです。抽象的で難解なものは、子どもは理解できないからだそうです。そういえば、『感性をきたえる素読のすすめ』でも、貝塚茂樹博士とのインタビューの中で、博士は「中庸は子供には理論的すぎるといって読まなかった」(40ページ)と言っています。漢文訓読は、高い水準の極みのようなものですが、理論的すぎるものは避けられたようです。

ところで、全く関係ない話なんですけど、野口悠紀雄氏の本が売れるのは、もしかしたら、どれも自分のためのノウハウ物を書いているからではないかということを考えました。なぜそう思ったかというと、氏のホームページ作成法に関する本では、自分が使うためのウェブサイトを作ることが、成功の秘訣だと書いてあったのですが、『「超」文章法』だったかでも、この本は自分自身のためのマニュアルとして書いたと言っていたのを思い出したからです。

考えてみれば、自分自身のためのハウツー物を書いたら、細心の神経を使って自分自身にサービスをすると思います。また、売れなくても自分自身はその本に満足できるから、それだけ心を込めて書けるでしょう。そのようにして、日本を代表する知性の一人が自分自身のために書いた本が、他の人たちの役に立たないはずがありません。

これは、私たち自身が本を書く場合にも当てはまることだと思います。自分が知っていることを人に教えるという気持ちでは、書きながら新しい発見がありません。自分でも面白くないだろうから、読む人も、そこそこに面白いか全然面白くないか、どちらかでしょう。しかし、自分自身のために書くなら、読者は将来の自分自身で、自分で納得できるレベルのことを一生懸命考えるだろうから、書きながら新しい発見があるはずです。

斎藤孝は、授業は教師にとって、いつも新しい発見の場でなければならないと言っています(あれ、野口悠紀雄が言ってたんだっけな……)。教師に新しい発見がなければ、生徒たちもつまらないのだそうです。本当にそうだと思います。どの本に書かれていたか忘れてしまいましたが、私はこの言葉を読んで、猛省しました。

そこで考えたのですが、自分が外国語を学習するためのマニュアルとして、外国語学習法の本を書いたら面白いのではないかと思いました。自分が読者ですから、売れなかったら損だとは思わないでしょう。また、知り合いに読ませてあげても楽しいだろうし、もし運良くどこかで出版できたら、一つの満足できる経験にもなると思います。

Kuronekoさんなら、きっと有益なものが書けると思います。

To Kuroneko at 2004 06/12 19:20 編集 返信

RE:西洋語の文法は難しい

>種田さんの「うるし塗り方式」のように、繰り返すうちに覚えるしかないなぁ……、と思っています。

「うるし塗り方式」は、優れた方法だと思います。これは『感性をきたえる素読のすすめ』の「循環方式」(216ページ)とも共通する方法だと思います。安達忠夫氏は次のようなことを書いています。

「かつてわたしは、老人会の謡曲グループに加えてもらって、二年間ほど、毎週一回の稽古に通っていたことがある。師匠が唱えた節をわたしたちが一斉に復唱していくやり方など、素読とよく似ているが、一、二ヵ月で一曲仕上げて、さっさと別な本に移ってしまう。ようやく覚えかけた矢先なのに、はなはだ残念であった。
 けれども、何ヵ月かすると、ふたたび同じ本にもどってくる。何度かその循環をくりかえしていくうちに、このやり方の良さがわかってきた。節の動きが複雑な、程度の高い曲のときなど、わたしたち初心者は、まるで喉をしめられた鶏のように、必死の声をふりしぼっている。が、そのあとまた、前にやったことのあるやさしい曲になると、自然にゆとりが生まれ、螺旋をえがきながら、少しずつ上達していくのが感じられる。
 もしも長いあいだ同じ曲ばかり続けていれば、きっと、だれてくるにちがいない。新鮮さと反復とは、折り合いが悪いのが普通だが、この循環方式だと双方がうまく釣りあう。」(216〜217ページ)

本居宣長も、「いづれの書をよむとても、初心のほどは、かたはしより文義を解せんとはすべからず、まづ大抵にさら/\と見て、他の書にうつり、これやかれやと読ては、又さきによみたる書へ立かへりつゝ、幾遍もよむうちには、始に聞えざりし事も、そろ/\と聞ゆるやうになりゆくもの也」(『うひ山ふみ・鈴屋答問録』岩波文庫、19ページ)と言っています。これは、謡曲の先生と同じやり方をアドバイスしています。こういうことを若いころ教えてもらえれば、私たちの知識のあり方は、今とは違ったものになっていたでしょうね。

種田氏の「うるし塗り方式」も、これらと似た効果があるようです。学習書は難しければ消化不良になるのは当然だけれども、どんなに易しい学習書も、必ず消化不良になります。種田氏のような人でも、最初に学習書を読んだときは、かなり消化不良になっているはずです。それを2度目に読んだときには、少しはましになっていて、3度目はだいぶしっかり覚えられるようになり、4度くらい学習すれば、完全に自分のものになる。そういうものだと思います。

うるし塗り式の循環方式では、1つの課にこだわり続けるのでなく、1冊終わらせてから、また最初の課を勉強します。そうすれば、全体が分かっているから易しくなっているし、久しぶりに見るからある程度の新鮮さが感じられるはずです。種田氏の偉いところは、それを「自分はこの課をもう見た」と言って疎かにすることなく、反復を厭わずに再び真面目に学習したことです。1回1回は、漆を塗るように薄く学習していくけれども、最終的には厚く塗られる漆のように、しっかりと自分のものになっているわけですね。

ところで、最近シュリーマンの学習法について『古代への情熱』に書かれている「非常に多く音読すること」(25ページ)という言葉が、頭の中にずっと響き続けています。「音読する」ということは分かっても、「非常に多く」ということが飲み込めないことが多いと思います。しかし、最近不思議なことに、この「非常に多く音読すること」という言葉全体が、深い意味を持って迫ってくるのです。音読することは、黙読を重視する教育を受けた私にとっては楽なことではありませんが、それでも徐々に、黙読の桎梏から解放されてきたような感じがします。それにつれて、このシュリーマンの言葉が脳裏に深くしみこんでくるような気がします。

実際にはあれこれと雑用にかまけて“非常に多く”音読するのは難しいのですが、何とかこれが習慣になるようにしたいですね。音読は、人間の本能に根ざしている(『教養としての言語学』54ページ12行目)し、反復すればその奥深さがわかる(『国弘式英語の話し方』35ページ)だけでなく、健康にもいい(『古代への情熱』26〜27ページ)からです。これらのことを考えても、同じテキストを繰り返し音読することは、有益だということが分かります。(くどくどと論拠を指摘したのは、怠け癖のある私自身を説得するためです。^^;)

>ところで、「希薄=ギリシア薄い」はおもしろいですね〜(^^)

あのとき「希薄=のぞみが薄い」と思わなかったのはさいわいだと思います。(笑)

To Kuroneko at 2004 06/12 05:01 編集 返信

RE:辞書と学習書と。。。

> ijustat様はロングマンを使われているのですね。僕はずっとオックスフォードのOALD(Oxford Advanced Learner’s dictionary)を使っていたのですが、数年前からCOBUILDを使っています。日常的にはポケット英和を使い、文法・語法を調べたい時は『ジーニアス英和辞典』(大修館書店)を、人名や少々専門的な語句は『リーダーズ英和辞典』(研究社)で調べ、細かいニュアンスなどが知りたい時は英英辞典を読みます。

実は、私は辞書好きな人間で、辞書はたくさん持っています。ただ、財布の事情から、高価な辞書にはなかなか手が出ず、一般向けのものしかありません。

私が英語の辞書でいちばんよく使っているのは、“Collins COBUILD Learner’s Dictionary”と“RANDAM HOUSE WEBSTER’S COLLEGE DICTIONARY”の二つです。その他に“The Pocket Oxford Dictionary of Current English”を使っています。ロングマンの辞書は、職場に持っていって、そこで使っています。英和辞典と英韓辞典は、意味の把握にはあまり使わないで、ものの名前などを調べるときや、英英辞典ではどうしても理解できないときに使います。

ご紹介いただいた“OALD(Oxford Advanced Learner’s dictionary)”は、以前知り合いが使っているのを見て、なかなか使いやすそうな辞書だと思いましたが、新しい辞書に手を出すのが気が引けて、買いませんでした。コリンズからも、同じ名前の辞書が出ていますよね。そちらもとてもよさそうでした。

そういえば、授業中、そのコリンズの上級者用の辞書を持っている学生がいました。見ると、今日買ったばかりのようです。私はその辞書をほめました。そして、英韓辞典では実際には英語の意味が意味が分からないけれども、英英辞典で調べれば、その意味が明瞭に理解できることがよくあると言いました。

学生はそれを信じなかったようだったので、それでは“psychopath”という単語を英韓辞典で調べてみてくださいと言うと、英韓辞典を持っていた学生が引いて、韓国語で“精神病質の人”というような訳が出ているのを見、「よくわかりますけど」と言います。そこで、「じゃあ、コリンズのその辞書をちょっと引いてもらえますか」と頼み、学生がそのページを開いて私が読みました。内容は“A psychopath is someone who has serious mental problems and who may act in a violent way without feeling sorry for what they have done.(※“Learner’s Dictionary”の語釈)”というようなことが書いてありました。それを読み上げて、「“精神病質の人”という訳で、この単語の意味が分かりましたか」と聞くと、学生たちは首を横に振りました。もちろん、医学や心理学などを専攻している学生なら、訳語を見ても正確にその意味を理解できるでしょうけれども、私たち一般人には理解できる訳語ではありません。それで、「このように、日本語の辞書を引くときも、分かったような気にはなるけれども実際には見当違いの意味把握をしてしまうことがよくあるんです」と言いました。学生たちがどれだけ分かってくれたかは知りません。きっと、半分くらいの学生は“いや、そんなはずはない”と思ったかもしれません。(笑)

> あっ、教えていただいた古典ギリシア語の文字設定ですが、僕のPCはWindows98なのですが大丈夫なのかな? 今度試してみますね。

ウィンドーズ98を使っていらっしゃるんですね。その場合、フォントを追加する必要があります。“Palatino Linotype”というフォントなのですけど、それを入れれば古典ギリシャ語の表示ができるはずです。現代ギリシャ語が表示できるフォントなら、ウィンドーズ98にも入っているのですが、古典ギリシャ語で使う、重アクセントと、曲アクセントと、下書きイオタとが表示できる“Palatino Linotype”が最初から入っているのは、話によると、ウィンドーズ2000以降からなのだそうです。ウィンドーズに入っているのは、“Palatino Linotype”の他に、“Palatino Linotype Bold”と“Palatino Linotype Bold Italic”と“Palatino Linotype Italic”の全部で4種類ですから、これを全て揃えておいた方がいいかもしれません。

“Palatino Linotype”は以下の住所で販売しているようです。値段を見ると、1つが21ドルもします。けっこう高いですね。

http://www.fontfinder.ws/18373/Palatino-Linotype.html

フォントをインストールするとき、例えば以下のページで、四角に化けた部分がきちんとギリシャ文字に表示されるどうかを見ながらやってみてください。ご健闘をお祈りします。

http://ijustat.at.infoseek.co.jp/BibleStudy/nicaea.html

ところで、今日、ある人と日本語教材のあり方について話をしました。

最近日本でも、本格的に学べる教材が減ってきていることは残念だというと、実は編集者たちは、本当はしっかりと基礎を身に付けられるような学習書を作りたいのだが、そういう硬派の教材は売れないので、どうしても易しい教材ばかりを作らざるを得ないと言っていました。

また、日本語教材に関しては、インターネットを利用してパソコンで学習させるものは、学習場所が決まってしまうために、忙しい現代人には向かないが、代わってPDAが移動中にも使えるため、新たな学習道具として注目に値するということを言っていました。なるほどその通りだと思います。私はPDAは一度しか見ていないので、その可能性についてはっきりとは分かりませんが、機動性があってコンピュータに近い機能を持ち、なおかつバッテリーの持ち時間が携帯電話に匹敵するので、語学教材の器として十分可能性があると思います。

以前、他の人と話をしたとき、その人は、インターネットは無料で提供される情報が中心になり、また、本格的な学習には向かないので、ビジュアルで簡単な学習コンテンツしか提供できない。それを受けて、出版物としての教材は、それを補完する形で本格的で多少高級なものが売れるようになるはずだというようなことを言っていました。

このようにマクロな展望は難しいと思いますが、具体的で身近な変化として、韓国では今紹介したようなPDAが有望です。日本だったら、携帯電話がそれに当たるのではないかと思いますが、どうでしょうか。


To Kuroneko at 2004 06/12 04:59 編集 返信

RE:カラダで文法を学ぶための口頭作文

>今、思ったのですが、仏語の参考書はテキスト暗記を薦めているものが多いような気がします。……フランスでは国語の授業で暗誦が盛んに行なわれますから、その影響で語学書も暗記を推奨するようになったのかもしれませんね。

これは面白い指摘ですね。考えてみれば、言語教育院で教えている韓国人の先生たちも、日本語の先生は日本的で、中国語の先生は中国的で、フランス語の先生はフランス的です。そして、それぞれ勉強を教える方法もずいぶん違うようです。フランス語の先生についてはよくわからないのですが、中国語の先生は、暗記について肯定的に見ています。日本語の先生は、暗記をあまり重視していないし、暗記の方法についてもよく知らないようです。これは、現在の日本の言語教育の風土ともよく似ていると思います。

>作文(和文外国語訳)に関しては、僕は口頭での作文を重視しています。まず口頭で言えるようになってから、紙に書くといった順序で作文の練習をするようにしています。

これはとてもいい方法ですね。頭で考えながら訳すと、言葉のリズムを無視した作文になりがちですが、口頭で作文してから紙に書く方法だと、いったん音でその言語を認識するから、より自然な表現ができると思います。

そういえば、私が利用しているギリシャ語学習書の希文英訳の問題には“Read the following alowd many times. Then translate”という指示が毎回出ています。実に、第1課から62課まで(全70課あります)、一貫してこの指示を出しているのです。そしてこの指示通りにすると、とてもよく理解できるのです(それでも間違えます^^;)。

そういえば、“素読”で思い出しましたが、新約聖書の読み方を変えました。関口式だと苦しみばかりが募るので、意志の弱い私には向いていません。さいわい韓国では、聖書の原典の様々な種類の出版物が書店で手に入ります。『素読のすすめ』にも、対訳やインターリニアの利用について指摘していましたが、私はインターリニアでなく、“GREEK-ENGLISH NEW TESTAMENT Editio XXXVII”を使って、少しずつ読むことにしました。

まず、英訳を読んで(音読します)意味をつかんだあと、原文を英訳と照らし合わせながら読みます。そして読みながら、かすかに切れるところに「’」、はっきり切れるところに「”」の印を付け、決して切れないところは「_」でつないで、音読しやすいようにします。横のページに英訳があるので、辞書は引いたり引かなかったりです。そして、英訳も何度か音読し、原文はそれ以上の回数を音読します。1回に読むテキストの分量は、関口氏の場合はどうやら1ページくらいはあったようですが、私はその3分の1くらいの分量で始めました。読む回数は、その代わり20回くらいです。これは1回読むたびに、“正”という字の一角を加える例のやり方を、テキストの該当する箇所の横に、小さく書き込んでいきます。あとで読むとき見苦しくないように、丁寧に書いています。(笑)

これは、読経のように(笑)平板な読み方はしません。文の構造を考えながら、なるべく自然に話すように、ある程度感情を込めて、読みます。そうやって読むと、古典ギリシャ語がまるで現代語のような感じがしてくるから不思議です。

このように、関口式の素読は、人によって若干の修正を加える必要があるようです。

To Kuroneko at 2004 06/12 06:34 編集 返信

RE:明晰な日本語のために

>‘clear ( clair )’という語からは、「光」に関係する語が「明晰さ(論理性)」の意味を持つ点で、ギリシア哲学以来のヨーロッパ的理性が感じられますね。ちなみに「啓蒙(する)」は英語で‘enlighten’ですし、仏語では‘éclairer’で、理性に関係する語が共に「光」に関係している点なども面白いです。

なるほど、それで“明”晰なんですね。それを考えれば、やたらに晦渋な学問ですが、“哲”学というところをみると、はっきりわからなきゃいけないわけですね。たしかに、言語学の論文では概念設定をいい加減に済ませることがありますが、哲学では決してそういうことはしないと聞きました。現代ギリシャ語では“clear”に該当することばは“καθαρά”というのですが、これは“澄んでいる”という意味だと思います。やはり、光が妨げなく通過する意味だという点では、光と関係あることばですね。

もっとも、理解することと光とは、いつも関係があるらしく、“理解できている”という意味を、古典ギリシャ語では“οίδα”といって、“見た”というようなことばを使っています。Kuronekoさんの指摘されたように、「光」と「論理性」と関係があるということは、とても面白い事実です。

>最近たまたま国会中継を見ていたのですが、質問者は論理的に質問していたのですが、回答者はその論理に取り合わず、はぐらかしたりするので、議論の内容以前に議論が成立していないことが、僕をイライラさせました。ただ、翌日に新聞の政治欄を読むと、「回答者が質問者を上手くいなした」というように評価されており、新聞がこのような評価をするようでは、日本人は明晰性を好まないのかなぁ、と思いました。

なるほど、確かにそういう人たちがたくさんいます。そういえば、日本語教育でも、理由を説明するとき使う接続詞「なぜなら」を、あまり使わない方がいいと言っておられる先生方もいらっしゃいます。まあ、これだけでなくても、「どうしてかっていうと」とか「なんでかっていうと」、「それは」などがあるから、文章体の「なぜなら」を無理に使う必要はないわけですが、そのような先生たちの考えとしては、論理的な関係が露骨に表れてしまう接続詞は、日本語としてはあさましいと考えているのかもしれません。

ただ、おもしろいのは、日本語教師が皆そう考えているわけではなく、ある大学の先生は、学生との公開インタビューで、学生が理由を表す表現に詰まったとき、「なぜなら」と教えてあげていました。まあ、その先生は男性で、「なぜなら」をよくないと言った先生は女性だったから、男性と女性との違いなのかもしれません。

また、こういうこともありました。私たちの教育機関では、最高レベルの学生にエッセイを書かせて、それをパワーポイントでプレゼンテーションするのですが、その指導をしているとき、ある事実の羅列が曖昧に聞こえたので、その場合は先にいくつの事実があるかを、「それは3つあります」のようにまず言い、続いて「一つは、……、二つ目は、……、そして三つ目は、……」とすれば分かりやすくなると教えました。ところが審査の日、学生が私の言ったとおり発表すると、ある先生がその部分を指摘し、それは非常に固くて日本語らしくないから、使わない方がいいと言ったのです。なるほど、論理的な表現が求められるプレゼンテーションでも、流麗にいつ終わるともしれぬ項目の並列を続けるのが、ソフトに聞こえるかもしれません。しかし、美しさよりも、明瞭で説得に適した日本語を、私は考えていたのでした。私はその先生の面子を考えて、あえて反論することを避けました。

日本語で多くの人たちが用いている表現を追うのなら、それでもいいかもしれませんが、論理的な明瞭さを求めるならば、その目的に適う理想的な表現を探す必要があります。それは多く用いられているとは限りませんから、頻度とは関係なく採用すべきでしょう。また、一般の日本人の話し言葉は、文法的にかなりめちゃめちゃで、それがいちばん高頻度でいちばん自然なのですが、日本語学習書はそのような状態を教えるわけには行きません。例えば……

 A:この前さあ、電車ん中で、なんか、座ってる、なんか、女子高生?ってか、ギャ、ギャルみたいなのがいたんだけどさ、あれ、なしじゃない?
 B:そう、空いてたらー、いいかな。
 C:あ、はー、イスじゃなくて……。
 A:見たことない? そうそうそうそう、普通に、なんか。
 C:地べたに。
 A:うん。
(『日本語ジャーナル(韓国版)』2004年6月号、多楽園。36ページ)

こういうのが、たぶん本当の日本語会話なのだと思います。3人が、1対1ではなく、織り成す綾のように話を進めていく。でも、こういうのは日本語学習書にできません。この手の研究はあまり進んでいないようだし、こういう混沌とした話し言葉の形式を整理したものも、見たことがないからです。これを整理してシラバスを立てられる人はすごいですよね。

もうちょっときちんとした会話のサンプルは、以下のページにあります。ぜひご覧になってください。この資料はとても貴重なもので、何かとても大きな可能性を感じるのですが、私は頭の中でもやもやとしているだけです。そこから会話表現の結晶体のようなものを抽出できればいいですね。

 http://www.env.kitakyu-u.ac.jp/corpus/

上のページから「コーパス・サンプル」へ入ってください。上の段が母語話者で、下の段が非母語話者です。どちらも、そのうちいくつかのインタビューに、音声データが付いています。それを聞けば、スクリプトではだらしなく見えても、実はきびきび話していることが分かります。逆に、文章にしても問題ない話し方をしたら、非常にシャープに聞こえるはずです。日本語の先生は、そういう文章体に近いディスコースになりやすい傾向があって、傍で聞いている人からは、滑稽だといわれます。(笑)

>しかし、何故、日本の公教育の「国語」では、日本語を論理的に用いる方法を教えないのでしょうね。小学校時代の記憶をたどると、文章構成法を教わる前にいきなり「感想文」を書かされたような気がします。

考えてみれば、不思議なことですよね。文章作法は、大学受験の小論文を勉強するときまで、“豊かな表現”だとか、“味わい”などについてしか聞いてきませんでした。それが、小論文の指導を受けたとき、論理的思考がまずいと指摘され、さらには“思考力”に問題があるとまで言われて、ショックで夜も眠れなかったことがあります。しかし、哲学が明らかにした成果の一つに、人間はもともと思考力に決定的な欠陥があるという事実があるのです。だから、思考力に問題があると言うのは正しい表現ではなく、論理的思考がまだ弱いと言うべきだったと思います。

まあそれはともかくとして、予備校で習ったことは、小論文も現代国語も、いずれも“論理”でした。私はそのとき初めて、論理というものを見たのです。それまで私にとって論理とは、前回もお話したように、“かたくて難しい”言葉で相手を煙に巻くことでした。予備校で見た論理は、一貫した思考の中で明快な理解を得る、素晴らしい手続きでした。私はそのとき、新しく開けた論理の世界に、ほとんど幻惑されたような気分でした。でも、それは残念ながら、予備校の中だけの世界で、その他の私の周りの世界は、非論理で塗り固められていました。いくら日本人が論理的思考をあまり重視しないといっても、私の環境ほどではないと思います。

>中高生の多くは、「(現代)国語」はフィーリングで分るものだと思っているようですが、現在の「鑑賞」中心の教育では彼(女)たちがそのように思っても仕方が無いですね。

やはり、日本語でも“明晰さ”が求められるというわけですよね。高校までの現代国語の先生が論理的思考を本当に教えないのかどうか分かりませんけど、大学院に入って思うのは、言語学を勉強する人たちよりも、文学を勉強する人たちの方が、論理的思考に対して厳しい態度を取っているような気がします。国語の先生は文学専攻の人たちが大部分を占めると思いますが、それらの先生たちは、なぜ大学で研究していたように、文章を解釈するために論理的な手続きが取られることを教えないのでしょうね。

>以前、紹介した『外国語の水曜日』の著者、黒田龍之介氏(スラヴ語派の言語学者です)も、「現代国語の文法学習は古典文法を後に学ぶための準備に過ぎなくて、現代国語文法によって日本語の構造は理解しにくく、国語文法が日本語理解に役立たなかったという経験が、外国語学習をする時の文法嫌いを産む一因になっているのでは…?」という趣旨のことを書いていました。

ああ、この本は、Kuronekoさんが紹介してくださったんですね。すっかり忘れていました。すみません。数週間前に入手し、読んでいます。とても有益な話がたっぷり詰まったエッセイ集だと思います。

>文法嫌い云々は別として、国語文法って役に立たないなぁ……、と以前から根拠はないのですが思ったりしていました。

学校文法の問題点はいろいろ指摘されていますけど、一番大きな問題は、連文節だと思います。あれは“かかりうけ”しか分からないので、模糊としているだけでなく、やってみればわかりますが、生成文法などで用いられている樹形図に比べて、はるかに複雑で難解です。しかも、きちんと連文節が指摘できたところで、そこから私たちの思考の何が分かるというものでもありません。私は連文節を指摘する作業をしたとき、徒労感ばかりを感じました。だから、学校文法が好きだという学生がいたら、その人はよほど物好きでマニアックな学生だといえます。

Kuronekoさんが「中学の国語文法の授業でこのようなことを習ったのなら、当時の僕は日本語への興味を持ったかもしれません」とおっしゃるように、文法はもともと面白いものだと思います。私たちの言葉の、ひいては私たちの思考の、からくりを見せてくれるからです。そして、そこから出発して、論理的に明晰な表現をどのようにしていったらいいかも、文法は見せてくれるはずです。だから、そういうエキサイティングな文法の授業が、学生たちには必要だといえるでしょうね。