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From Kuroneko( Mail ) To ijustat@chance at 2004 06/07 17:25 編集 返信

RE:翻訳文体

>>そういえば、外山滋比古の『読書の方法 <未知>を読む』(講談社現代新書)という本では、翻訳文の一読して意味が
>>取れないような文章を読むことで、日本人は読解力の訓練をしていたという内容のことを書いています。

渡部昇一氏が『英語教育大論争』の中で「高校での英語教育は、難解で抽象度の高い日本語を読むためのトレーニングなのだ」ということを書いていたのですが、なんだか似ていますね。この種の意見は傾聴に値する意見だと思うのですが、これらを利用して、「翻訳文は読み難くても構わないんだ!」とか「英語の教授法を変える必要はないんだ!」という意見を言う人が出てくるので、個人的にはあまり賛同したくないのが僕の本音です。

斎藤孝氏の「小学生から水準の高い文章を読ませる教育方法」は内容的に小学生には難しいけれども、文を書く際の見本となるような文章を読ませることだと思うのですが、どうなのでしょうか? フランスの国語の授業で名詩を暗誦させたりするのと同じ発想だと思いますが、良い教育法ですよね。あっ、漢学者の‘素読’も同様の教育法ですね。

外国語と日本語の文体の影響ですが、村上春樹などは作家になった頃に「翻訳文体だ」という批評があったようですね。彼は’20年代以降の米文学の影響が強いので、英語の影響は強いのだと思います。僕は、村上春樹の小説を英語訳で読むのが好きなのですが、英語で読んでいると、フィッツジェラルドやチャンドラーが今、小説を書いたのなら、こういう雰囲気になるのかな……、と思ったりします。

>>今読み返して、Kuroneko さんのお話を読み間違えていたことに気がつきました(汗)。
>>私は、今後のことを指摘しておられるとは考えず、すでに起こっている部分を指摘されたのだと思って読んでいたのです。
>>だから、その返事も、Kuroneko さんが意図されたものと違ってしまったと思います。

あっ、大丈夫ですよ。僕は現在の日本語学の状況についての知識がないので、「今後に期待する」という書き方になりましたが、ijustat様のお話を読んで、今までの日本語学の状況を知ることが出来ましたし。気になさらないで下さいね。

From Kuroneko( Mail ) To ijustat@chance at 2004 06/07 17:02 編集 返信

RE:西洋語の文法は難しい

>>久しぶりにラテン語の学習書を開くと、勉強したところなのに、意味不明の文字の羅列に見えたので、ショックです。

僕も経験ありますよ〜! こういうのは仕方がないと諦めています。種田さんの「うるし塗り方式」のように、繰り返すうちに覚えるしかないなぁ……、と思っています。

ところで、

>>英語とラテン語の間を行ったり来たりしていると、自分の中に面白い概念の“欠落”があることに気付きます。
>>それは、主語と述語動詞との間の数の一致を忘れることと、もう一つは、人称の概念をすぐ忘れることです。

これに関しては、僕は逆に、英語を読んだり書いたりしているときに、「性」の一致について考えてしまうことが良くあります。多分、フランス語を学んだためだと思います。人称と述語動詞の活用形を一致させる点はフランス語で鍛えられたので(笑)、そんなに苦労はしないのですが、古典語での格概念はどうも慣れなかったりします。ドイツ語やロシア語などを学ばれた方は「格」に強いのかもしれないですが、フランス語では格での統語制御を行なわないので、僕にはなじみが薄いのだと思います。フランス語と同じロマンス語派のルーマニア語では確か格があったはずで、同じロマンス語派といっても色々です。ルーマニア語はラテン語の影響が強く残ったか、周辺のスラヴ諸語の影響を受けたのかしたため、格が残ったのかもしれないですね。推測ですが。。。

冠詞に関しては、僕もお手上げです。欧州の諸言語では基本的な冠詞の用法は似ていると思うのですが、細かい点は異なってくるので辛いですね。なんというか、読書などを通して冠詞の用法に慣れていくのが、遠回りなようで、実は一番の近道なのかな、と考えています。英語やフランス語の冠詞については、感覚的に分るようになった部分もあるのですが、それでも間違える方が多いです。また、冠詞の用法は、悩めば悩むほど、使い方が分らなくなるような気がします。悲しいですねぇ(;;)

ところで、「希薄=ギリシア薄い」はおもしろいですね〜(^^)

From Kuroneko( Mail ) To ijustat@chance at 2004 06/07 17:03 編集 返信

辞書と学習書と。。。

>>実際、私たちは外国語を学習するとき、その意味に関してはかなりいい加減に把握している場合が多いです。
>>例えば、英語のある単語が分からないとき、英和辞典を引いて、そこに出ている日本語訳を見たら、その訳語を文脈に当てはめ、
>>大体合っていればよしとします。

そうですよね。分らない単語を調べる時に、特にヨーロッパの言語では、品詞と機能を把握して(文法的分析)、文章全体の文脈に照らし合わせて、意味を調べないと正確にある文を理解できたとはいえないですね。ですが、品詞も機能も考えずに適当な訳語を当てはめて読んでいる人は結構います。僕が予備校で教えていたとき、そういう生徒は結構いました。ijustat様が仰っていることは、僕が書いたことよりももう少し高度なレベルのお話で、一つ一つの語義を正確に把握していく際に、英和辞典の訳語のみで満足して良いのか、というお話だと思うのですが、僕が「外国語のいい加減な理解」について考える時、先に書いたもっと初歩的な「誤読」のことを思ってしまうのです。

さて、

>>日本語についても、私たちは分かっているつもりでいることが多いですが、実際には、明晰な理解ができていないことが
>>多いはずです。だから、国語辞典で意味を調べることは、日本語の明晰な理解のためにとても大事なことです。
>>また、外国語を解釈するときもやはり、その国の国語辞典で明晰な理解を求める必要があると思います。

僕も英語や仏語で「はっきり」と意味を掴みたいときは、英英辞典や仏仏辞典を参照します。ijustat様の学生さんはこのことをよく理解していない、とのことですが、日本語が上達するに従い、徐々に日日辞典を使っていくことの重要さを理解するようになっていくのではないでしょうか? いかがでしょう。

ijustat様はロングマンを使われているのですね。僕はずっとオックスフォードのOALD(Oxford Advanced Learner’s dictionary)を使っていたのですが、数年前からCOBUILDを使っています。日常的にはポケット英和を使い、文法・語法を調べたい時は『ジーニアス英和辞典』(大修館書店)を、人名や少々専門的な語句は『リーダーズ英和辞典』(研究社)で調べ、細かいニュアンスなどが知りたい時は英英辞典を読みます。

フランスは辞書好きなお国柄ですので、色々と辞書はあるのですが、外国人学習者用となると英語と比べて、数が少ないですね。辞書出版社のラルース社から出ているDFC(Dictionaire du français contemporain)〔ラルース現代仏仏辞典〕の復刻版を使っています。原書は既に絶版なのですが、駿河台出版社から復刻版が出版されており、それを用いています。ラルース社からDictionnaire de la langue française LEXISというDFCの発展版の辞書があり欲しいのですが……、財布の中身との相談ですねぇ(^^;

ところで、辞書の話から学習書へと話が移るのですが、

>>それを見ると、半数以上が、母音の長短を表示しなかったり、一部だけ表示するだけのものでした。
>>中には、長音記号を振らずに、アクセントが置かれる部分にアクセント記号を付けているものがありました。
>>訳読問題に解答が付いているものは、何種類もありませんでした。それから、1冊だけですが、5課に1課は
>>ある程度まとまった長さのテキストを読ませる学習書がありました。この学習書は、長音符号をきちんと振っていました。

なるほど。。。僕が持っているラテン語の学習書は『ラテン語四週間』(村松正俊,大学書林)ですが、ちょっと見てみると、長音記号は振ってありますね。内容は「ひたすら読め!」という内容で、訳読問題には和訳もついています。昔、一通り学んだのに、今見てみると全く未知の外国語と化していて悲しいですね。

>>フランス語をすでに身に付けられた Kuroneko さんにとって、ラテン語はきっと身近な外国語に違いないと思います。

いや〜、フランス語もそんなに出来ないですよ(^^; ラテン語は大学時代のフランス語史の授業で必要だったので、『ラテン語四週間』を買って、一回読み通したのですが、一回でやめてしまったため、結局忘れてしまいましたね。

あっ、教えていただいた古典ギリシア語の文字設定ですが、僕のPCはWindows98なのですが大丈夫なのかな? 今度試してみますね。

From Kuroneko( Mail ) To ijustat@chance at 2004 06/07 16:59 編集 返信

カラダで文法を学ぶための口頭作文

>>今、春学期が終わって、学生たち一人一人と面談をしていますが、頭で規則を知っていても、体で身についていないために、実際に
>>日本語を使う段になってデタラメになってしまう学生がいます。その学生と面談しながら、“この学生の日本語は、僕のギリシャ語と
>>同じだなあ”と、つくづく思いました。(こういうことを、ラテン語やギリシャ語で考えられるようになれたらすごいですよね。)

多くの日本人も同様ですよね。昔の僕もそうでしたし。僕の場合は受験英語の影響なのかどうか分りませんが、「文法は理解するもの・語彙や表現は暗記するもの」と思っていた時期がありました。ただフランス語を勉強していくうちに、理解だけの文法では使い物にならないことに気付き、例文なりスキットなりを暗誦して、文法をカラダに染み込ませる勉強に切り替えました。当時、松本亨氏の著作を読んだり、仏語のテキストの序文などに「例文は音読して覚えてしまうこと」というような注意書きが書いてあったりしたことなども、勉強法を変えた理由の一つだと思います。

そういえば、『新フランス語入門』の「はしがき」にも、「例文は「文法の教理問答」のつもりで選んだので、全部暗記するように!」ということが書いてありました。今、思ったのですが、仏語の参考書はテキスト暗記を薦めているものが多いような気がします。例えば、『朝倉初級フランス語』(朝倉季雄,白水社,1965)にも、「文例は基本的なものに限られていますから、全文を暗記していただきたいものです。(中略)最後の仕上げとして、訳を見ながら文例が口に出して言え、書けるようになるまで練習してください」(p.6)とありますし、新しいものでは『CDエクスプレス・フランス語』(筑紫文耀,白水社,1999)の「本書の利用法」に、「日本語の訳からフランス語の文が表現できるよう練習する」(p.5)と書いてあります。フランスでは国語の授業で暗誦が盛んに行なわれますから、その影響で語学書も暗記を推奨するようになったのかもしれませんね。ところで、どうでもいい話ですが、エクスプレス・シリーズはCDが本に付属するようになって、便利になりましたね。個人的に、良く出来た外国語学習書シリーズだと思います。

>>音読の繰り返しが非常に大事で、また、ご指摘の通り、作文の教材で学習することも、とても重要なことだと思います。

そうですね。作文(和文外国語訳)に関しては、僕は口頭での作文を重視しています。まず口頭で言えるようになってから、紙に書くといった順序で作文の練習をするようにしています。その後、紙に書いて確認します。紙に書く作業は主に綴りの確認です。仏語の場合、性数の一致で形容詞等の語尾に‘-e’や‘-s’などがつくのですが、これが発音に反映されないので、実際に書いてみないと正しく文法を理解しているかどうか、判断できないのです。ただ、繰り返しになりますが、まず声に出して言えるようにする口頭作文を重視しています。

独学で外国語を学んでいると、反射的に応答する能力が身につきにくいと思います。ですから、口頭での練習を重ねることで、そのような能力を身につけるように努めるわけです。また、手で書くより、声に出した方が、例文などが覚えやすくなるというのも、理由の一つです。日本人の場合、“勉強=机に向かってノートを取る”と思っている人が結構いて、それはそれでいいのですが、実際ノートをまとめることで満足してしまって、結局何も覚えていないこともしばしばあったりします。以前、予備校で生徒にも言ったのですが、「作業と勉強は別のこと」ですよね。ノートを取る作業は勉強をしやすくする環境作りであって、勉強そのものではないわけです。僕自身、語学学習でメモやノートをとったりすることもありますが、そのような場合は教科書の使い勝手が悪い場合(例文と訳が分けて書いてない場合、暗記し辛いので例文暗記メモを作ったりします)のみ、そうするのであって、レイアウト等が見やすく使いやすい教科書で勉強する場合はほとんどノートは取らず、練習問題も出来るだけ口頭でやってしまうようにしています。

>>紹介してくださった2冊のうち、『書く英語・基礎編』(英友社)は、去年の暮れに日本へ一時帰国したとき、
>>池袋の書店で見かけたのですが、残念ながら、そのそっけない表紙のせいか、興味を感じませんでした。

いや、確かに表紙がそっけなくって、あまり注目されない参考書なのですよね。僕も松本亨氏が執筆しているということを知らなければ、手にとらなかったと思います。ただ、中学一年生のレベルから高校基礎レベルまでの文法項目が学べるという点で、この学習書を僕は勧めています。英語の学習書は、最低中学レベル、多くは高校レベルの英文法の知識を学習の前提にしているものが多く、ホントの基礎から学べるものは少ないのが現状だと思います。英語が苦手な高校生や英語を学びたいけど習ったことをほとんど忘れている社会人の方などに、この本はオススメです。僕は、英語がわりと出来る人には『和文英訳の修行』を、苦手な人には『書く英語・基礎編』を薦めていますが、得意な人でも『書く英語・基礎編』からはじめた方が、日本人英語を伝わる英語に直していく意味で、良いと思います。

安達忠夫『素読のすすめ』は以前、図書館で借りて読みました。音読や暗誦に関する本を既に読み、僕自信が暗誦中心の語学学習を行なっていたときに本書を読んだので、内容に新鮮さは感じなかったのですが、音読(素読)に関して分りやすくその有効性などが書いてあるので、良い本だな、と思っていました。最近では、斎藤孝氏の著書などが、‘素読’関係では良く知られているのでしょうね。

言語学者の鈴木孝夫氏の著作は、以前、数冊読んだのですが、何故かあまり内容に関して覚えていないのです。ですから、というのもヘンですが(^^;)、今度機会があるときに読んでみようと思います。

From Kuroneko( Mail ) To ijustat@chance at 2004 06/07 16:50 編集 返信

明晰な日本語のために

Kuoronekoです。韓国では今が学期末なのですね。学期末というのは学生にとってはテストも終わり、ホッとする頃ですけど、教師にとっては忙しい頃ですね。

さて、

>>“明晰”に該当すると思われる(私はフランス語を知らないので)“clair”という単語は、“clear”と形がよく似ているということです。
>>たぶんこれ、同じ意味ですよね。

はい、そうです。スイマセン、英語の意味も書いておいたら、もっと分りやすかったですね。ijustat様が仰るように「はっきりとした」という意味だと思っています、僕も。‘clear ( clair )’という語からは、「光」に関係する語が「明晰さ(論理性)」の意味を持つ点で、ギリシア哲学以来のヨーロッパ的理性が感じられますね。ちなみに「啓蒙(する)」は英語で‘enlighten’ですし、仏語では‘éclairer’で、理性に関係する語が共に「光」に関係している点なども面白いです。

>>「明晰」という言葉は、もっと論理的にすっきりした状態を強調している感じがするので、日本語でそこまでを要求されるかどうかは
>>分りませんが、明晰でない日本語を使うと(政治家のこと(笑))、しばしば矢面に立たされて、揚げ足を取られ、
>>皮肉られたり軽蔑されたりするところを見ると、日本人の心の底にもやはり、明晰性を求める気持ちがあるのではないでしょうか。

そうですね、最近たまたま国会中継を見ていたのですが、質問者は論理的に質問していたのですが、回答者はその論理に取り合わず、はぐらかしたりするので、議論の内容以前に議論が成立していないことが、僕をイライラさせました。ただ、翌日に新聞の政治欄を読むと、「回答者が質問者を上手くいなした」というように評価されており、新聞がこのような評価をするようでは、日本人は明晰性を好まないのかなぁ、と思いました。もちろん、新聞記事のみでそのように判断することは危険なのですが。

僕の個人的な見方ですが、日本人には明晰さや論理性を好む人もいますが、一方でそれらを好まない人もかなりいるように思えます。日本語の場合、国語教育において論理性に基づいた作文などが指導されることはほとんど無いので、個々の知的環境の差(本をよく読むのか読まないのか、どのようなジャンルの本を読むのか、等)がその人の論理性・明晰さの差となるような気がします。

しかし、何故、日本の公教育の「国語」では、日本語を論理的に用いる方法を教えないのでしょうね。小学校時代の記憶をたどると、文章構成法を教わる前にいきなり「感想文」を書かされたような気がします。大体、「読書感想文」にしろ、「休日の感想」にしろ、かなり高度な文章技法を必要とする類の作文だと思います。感想文にしろ文章読解での「鑑賞」にしろ、これらは読書によるある程度の知識の集積と文章構成の基礎的トレーニングが無ければ出来ないと考えていますが、現在の国語教育ではそのようなことは教えてくれませんね。個人的には、小学校での国語教育は文章の暗誦を基礎とし、加えて文法的な分析を行なうことで、文章を書く際の規範を教えるべきだと思っています。中学では論理的分析を行い、シンプルな文から複雑な文へ、文からパラグラフへ、パラグラフから文章全体へと繋がる論理構成を教えていくと良いのではないでしょうか。中高生の多くは、「(現代)国語」はフィーリングで分るものだと思っているようですが、現在の「鑑賞」中心の教育では彼(女)たちがそのように思っても仕方が無いですね。

国文法について、僕は全く知識が無いので自分の学生時代を思い出して考えるしかないのですが、その経験から考えても、

>>私たちが学校で文法を習うのも、建前はそういうことのためらしいですけれども、橋本文法を基盤にした学校文法では、
>>どのようにして日本語の論理性を見出せるのかわかりません。ただ言葉が切れたり続いたり、かかったり受けたりしているだけで、
>>その有機的なつながりが全然見えませんから。

ということは理解できます。以前、紹介した『外国語の水曜日』の著者、黒田龍之介氏(スラヴ語派の言語学者です)も、「現代国語の文法学習は古典文法を後に学ぶための準備に過ぎなくて、現代国語文法によって日本語の構造は理解しにくく、国語文法が日本語理解に役立たなかったという経験が、外国語学習をする時の文法嫌いを産む一因になっているのでは…?」という趣旨のことを書いていました。文法嫌い云々は別として、国語文法って役に立たないなぁ……、と以前から根拠はないのですが思ったりしていました。ですから、ヨーロッパ諸言語の規範文法のような国語文法が必要だと思うのですが、そのような文法は「外国語としての日本語を学ぶ立場/教える立場」から、日本語と外国語が触れ合う現場から生まれてくるのかなと考え、前回、外国語として日本語を学ぶ方々に期待する、ということを書いたわけです。しかし、「横文字派」「縦文字派」という表現は面白いですね。

僕はあれこれヨーロッパ言語をかじっている(“だけ”ですけど…)くせに、日本語のことは全然知らないので、これはいけないな、と思い、最近、『外国語としての日本語』(佐々木瑞枝,講談社現代新書)という本を読んでみました。まだ一読しただけで、しっかりと内容を掴んでいないのですが、日本語に内在する論理性(文法的な規範)が見えてきて面実際、私たちは外国語を学習するとき、その意味に関してはかなりいい加減に把握している場合が多いです。例えば、英語のある単語が分からないとき、英和辞典を引いて、そこに出ている日本語訳を見たら、その訳語を文脈に当てはめ、大体合っていればよしとします。白かったですね。中学の国語文法の授業でこのようなことを習ったのなら、当時の僕は日本語への興味を持ったかもしれません。

なにはともあれ、「明晰な日本語」のための規範文法を僕は望んでいます。

From 氷雨( HP ) To ijustat@chance at 2004 06/07 16:41 編集 返信

何か誤解されましたようで

Ijustatさん、こんにちわ。氷雨です。

>まあ、母語はいちばん上手にできるものですが、これも例えば文系の英才と競合すると、自分は韓国語すらできないという思いに駆られると思います。母語と外国語との間には、連続的なものがありますから、簡単に自分は韓国語ができると思うと、あとで韓国語でも苦い思いをする恐れがあります。

ちょっと意味が歪んで伝えたそうですけど
私の言った”韓国語しかできない”は
今までやってきた日本語が本当に大したもんじゃないと知ったからです
白状することなんですけど
一番自身あった”日本語読解”パートで
問い一から問い十まで正解はたった三つ!
あれほど勉強してたのにこれはやりすぎじゃないかなと思い込んで。。。

>まあ、どういう事情があるのかは分かりませんが、今まで個人的にも努力してきたのだし、私もその他の人たちも、氷雨さんの実力の向上を願って手助けしてきたのですから、それらの気持ちを不意にするようなことはしないでください。「日本語をやめる」と言われても、私たちはそれに対してどう答えたらいいのか分かりません。

これはちょっとした心を片付ける必要があるって意味でした
そんな大きな衝撃の後、しばらくは日本語やりたくないもんですから
自分でも早く元に戻れるといいなって思います

>ドイツ語の学習には、韓国語の学習書を使わずに、英語の学習書を使った方がいいですよ。

それは同感なんですけどそんな学習書どこから手に入れたらいいのやら。。。

最近、英語字幕付きのアニメを見てます
一石二鳥ってやつでしょうか
とにかく耳と目が同時に回るほど大混乱なんですけど
それなりに興味津々ですね
(って耳が回るってどうゆう意味でしょう −_−)

何気なくがっかりさせることになった気がしますので
本当に申し訳ございません

ではでは

To ijustat@chance at 2004 06/07 14:33 編集 返信

翻訳文体

Kuroneko様、こんにちは。ijustatです。

> ただ、僕が思うのは、確かに翻訳文体には問題が多い(僕自身、訳の分らない翻訳に苦しめられたこともありますし^^;)ですが、問題が多いからといって翻訳文体を全否定してもなんら日本語の文体の確立に役立たない、ということです。外国語の影響を受けつつ、日常的に理解できる日本語もあると思うのです。

そういえば、外山滋比古の『読書の方法 <未知>を読む』(講談社現代新書)という本では、翻訳文の一読して意味が取れないような文章を読むことで、日本人は読解力の訓練をしていたという内容のことを書いています。これは、Kuroneko さんのおっしゃる文豪たちの文体ではなく、学者たちの訳した晦渋な翻訳文のことですが、その意外な効用を、積極的に認めているのです。私はこの本を読んで、その意見に目の開かれる思いがしました。

この本の要旨は、知っていることを読むのでなく、知らないことを読むことで初めて発見があるというものですが、その一環として、わけの分からない翻訳文の有用性を主張しているわけです。まあ、この本の内容に納得したからといって、では自分も難しい翻訳文で頭を鍛えよう、という気にはならないのが実のところですが。

最近の読書人は、予備知識のあるものばかりを読む傾向があるのが問題だと、著者は指摘しています。私もまさにその中に入っているわけですよね。まあ、わけの分からぬ外国語の文章に自分をいつも露出させているという点で、この本の考えを踏襲したとは言えるかもしれません。また、日本語学習者の中で特にブロークンな学生の作文をチェックするのも、未知を読むことだと言えば、慰めになるでしょうか。

ちなみに、外山慈比古の意見は、斎藤孝の、小学生から水準の高い文章を読ませる教育方法と一脈通じるところがあります。何か共通の系譜があるのかもしれません。

それから、Kuronekoさんの指摘されたように、日本語は外国語に触れることで、新しい文体を作ってきたんですよね。鴎外の舞姫などは、和文脈の文語文でありながら、がっしりした構造を持っていると思います。ただ、大野晋の話では、鴎外の文語は下手で読んでいられない(『日本語で一番大事なもの』中公文庫)とか。文語を知りすぎている人にとっては、そうなのかもしれません。また、古くは漢文訓読の文体が日本語に大きな影響を及ぼしたと思います。そして、最近では、村上春樹の文体が、けっこう独特だと思います。

日本語の文体に影響を与えるような大作家でなくても、外国語に日ごろ触れている人たちの日本語は、その影響を受けているのではないかと思います。ある人が、私の日本語は韓国語のにおいがすると言っていました。自分では分かりませんが、きっとそうなのでしょう。ただ、私の日本語は、それ以上に日本語学習書の影響を強く受けているはずです。種田輝豊氏の『20カ国語ペラペラ』の文体には、どことなく異国の香りが漂っていました。その、どこのものとも判別のつかない香りは、20カ国語を身に付けることによって、自然に身についたものなのでしょう。千野栄一氏の文章も、やはり不思議な香りがします。東欧的な香りなのかもしれません。それらの香りは、ひとたび日本語で文章になると、その読者にも移っていくと思います。そうやって日本語は、少しずつその香りを変えていくのでしょう。

> 今、ふと思ったのですが、ijustat様が書かれたような研究は、日本語を外国語として学んだ方々から出て来る可能性もありますね。英語学などでも非英語話者による素晴らしい研究があるので、日本語学でもありえると思います。本当は日本語話者も頑張らなければいけないのでしょうが、日本語学習者の人たちに、ちょっと期待したくなったりもします(^^

今読み返して、Kuroneko さんのお話を読み間違えていたことに気がつきました(汗)。私は、今後のことを指摘しておられるとは考えず、すでに起こっている部分を指摘されたのだと思って読んでいたのです。だから、その返事も、Kuroneko さんが意図されたものと違ってしまったと思います。

本当に、外国の人たちが日本語の真に論理的な表現を身に付けるために日本語を研究してくれれば、うれしいことですね。これらの研究は、ありのままの日本語を追っているだけではダメで、そういうものから芽を出すように発展すべきものだと思います。そういう極めて実用的な研究を、どういう名前で呼ぶのか分かりませんが、誰かが始めてくれたらうれしいですね。

To 氷雨 at 2004 06/05 23:50 編集 返信

RE:文部省奨学生試験の余波

氷雨さん、こんにちわ。ijustatです。

>試験の結果について何の報告もしてませんでしたね
>どうだったの言われると衝撃そのものでした
>その試験を受けている途中で思い知ったのは
>”やっぱり自分にできる言語は韓国語しかない!”でした

まあ、母語はいちばん上手にできるものですが、これも例えば文系の英才と競合すると、自分は韓国語すらできないという思いに駆られると思います。母語と外国語との間には、連続的なものがありますから、簡単に自分は韓国語ができると思うと、あとで韓国語でも苦い思いをする恐れがあります。

逆に、日本人に比べたら苦手といえる日本語でも、韓国でそれが使えるということは、大きなメリットとなるでしょう。言語というのは知識を得たり与えたりする器で、その知識の世界は深いものですから、たとえ極められなかったとしても、日本語の実力を根気よく磨き続けることは、現在は想像もしていないような世界を切り開く鍵となるでしょう。

>試験の後、予定の通り(?)下のような決心をしました

>1.この試験で受けた衝撃から立ち直るまでは日本語をやめる

まあ、どういう事情があるのかは分かりませんが、今まで個人的にも努力してきたのだし、私もその他の人たちも、氷雨さんの実力の向上を願って手助けしてきたのですから、それらの気持ちを不意にするようなことはしないでください。「日本語をやめる」と言われても、私たちはそれに対してどう答えたらいいのか分かりません。

>2.同じ期限の間 ゲーセンの出入をやめる(こ。。。これはあまり関係なさそうで。。。)
>3.その代わりに英語とドイツ語に集中する

私もそれはいいことだと思います。無益な行為をやめて、役に立つ行為の幅を広げることには、私も大賛成です。ところで、ドイツ語の学習には、韓国語の学習書を使わずに、英語の学習書を使った方がいいですよ。そうすれば、英語の学習を兼ねることができるばかりか、すでに知っている英語の知識と対照させて、ドイツ語の理解が著しく早まるはずですから。そのドイツ語の学習書は、英語の説明部分もドイツ語の例文も、両方とも音読するといいと思います。私はドイツ語は知りませんが、この方法は、本当にお勧めです。

To ijustat@chance at 2004 06/05 23:12 編集 返信

西洋語の文法は難しい

Kuroneko様、こんにちは。ijustatです。

今週は、言語教育院の春学期が終わって、採点と面談に明け暮れ、自分の勉強をする時間が全然持てませんでした。久しぶりにラテン語の学習書を開くと、勉強したところなのに、意味不明の文字の羅列に見えたので、ショックです。

ところで、日本語にも論理性はあるとはいうものの、英語とラテン語の間を行ったり来たりしていると、自分の中に面白い概念の“欠落”があることに気付きます。それは、主語と述語動詞との間の数の一致を忘れることと、もう一つは、人称の概念をすぐ忘れることです。

これは面白いことに、ギリシャ語で作文をするときも、同じ間違いをたくさんしているということです。それが、英語を読むときも、ラテン語を読むときも起こります。特に複数形を読み落とすのは、ラテン語よりも英語に多いのです。どうしてでしょうねえ(笑)。

この、数と人称の把握に問題があることは、日本語に訳すだけでは現れてこないでしょうね。英語でもギリシャ語でもラテン語でも出てくるということは、私の中に、数と人称の概念が希薄(うっ、“ギリシャが薄い”と読める!)だということを表していると思います。

数の間違いでは、特に与格と奪格(この二つは、ラテン語では同形の場合が多く、古典ギリシャ語では完全に合流しています)で、与格か奪格だということはすぐに認識できても、単数か複数かを見落とすのです。形は全然違うのにですよ。実に不思議なことです。

もちろん、ラテン語と英語の間には、数の扱い方に違いはあります。たとえば、“people”を主語にする動詞は複数形ですが、それに該当するラテン語の“populus”は、単数形だからということで、動詞も単数形で一致させます。でも、こういうのは、むしろ目に付くので意識化しやすく、主語と動詞の数の一致では問題になりません。

これらの間違いの気づき方には2種類あって、一つは、英作または羅作したあと、しばらく時間を置いて見たとき、“あっ”と間違いに気が付く場合で、もう一つは、模範解答を見て初めて間違いに気が付く場合です。自分では完璧なつもりなのに、答えあわせをすると、実にたくさん間違えます。そして、それを見るたびに、足元をすくわれたような気分になります。自分で勝手に間違えておきながら、そういう気分になるというのは、不思議なことです。

あと、難しいのは、なんといっても英語の“冠詞”ですね。冠詞の付いていない、のっぺりしたラテン語文を見ながら、それに適切な冠詞を付けることは、私にとってはほとんど絶望的です。冠詞には、その選択如何が明白なものもあれば、なかなか分かりにくいものもあります。このどっちかよくわからないところで、冠詞を使ったり使わなかったりしているのは、きっとラテン語をどう解釈するかの問題に絡んでいるのでしょうが、その冠詞の使い方が正確に理解できないので、その部分におけるラテン語の解釈は、ほとんどお手上げといってもいいかもしれません。

冠詞といえば、冠詞使用の元祖であるギリシャ語では、昔も今も冠詞を使います。しかし、その使い方が、英語と違います。明白な部分では英語と大体同じようですが、たとえば「テレビを見る」という場合、テレビに英語では冠詞を付けないようですが、ギリシャ語では付けます。また、英語の“a/an”に当たる不定冠詞の使い方にも、けっこう違いがあります。

日本語で助詞「は」を使うか使わないかが論理の流れを大きく左右するように、冠詞を使うか使わないかは英語にとって、大きな問題に違いありません。でも、それを身につけるのは大変なことだなあと思いました。

To Kuroneko at 2004 06/05 22:32 編集 返信

RE:姉妹書(?)、発見!

> 先日、たまたま名古屋のある古本屋さんに入ったら、辞書・語学コーナーに『新ドイツ語入門(増訂)』(倉石五郎,岩波書店,1962)があり、なんと600円(!)だったので、購入してしまいました。

いやあ、本当にうらやましいことです。日本に住んでいれば、そういう出会いがあるんですよね。日本の語学書は、よく考えて作られているものが多いので、それらを見ることは、大いに刺激になります。Kuroneko さんが、それらの教材について紹介してくださっているので、私は間接的にですが、大いに刺激を受けています。

外国語学習書の基本的思想には、どのようなものがあるんでしょうね。文法訳読式のものが以前は主流でしたが、それらには、ただ文法中心のものと、教養主義的なものと、さらには会話表現を入れたものなどがあるのではないかと思います。今日はキョボ文庫へ行ったついでに、ラテン語の学習書を見てきました。一般の(つまり韓国語の)語学教材では、カトリック大学関係のものが多かったようです。

それを見ると、半数以上が、母音の長短を表示しなかったり、一部だけ表示するだけのものでした。中には、長音記号を振らずに、アクセントが置かれる部分にアクセント記号を付けているものがありました。訳読問題に解答が付いているものは、何種類もありませんでした。それから、1冊だけですが、5課に1課はある程度まとまった長さのテキストを読ませる学習書がありました。この学習書は、長音符号をきちんと振っていました。

英書コーナーでもラテン語の学習書を見てみました。こちらは長音符号を振るのが一般的のようですね。1冊だけ、入門書だけれども各課の本文にまとまった文章を読ませるものがありました。独学の学習者にとって学び勝手はいいのかどうか分かりませんが、心引かれる学習書でした。こちらは見ているときに友人が来て中断したので、解答が付いているかとか、付録がどうなっているかなどを調べる余裕がありませんでした。ただ、ずいぶん分厚い本でした。

ラテン語のような言語は、結局は目標がテキストを読めるようにすることだから、簡単な会話でお終いというわけにはいかないでしょう。その意味で、同じ目標へ向かって著者が目指すその態度の違いがよく出てくると思います。日本書籍にラテン語の学習書はありませんでしたが、韓国と英米の学習書を見て、どちらも割りと個性的なものが多いようだと思いました。

いつかラテン語のテキストが読めるようになりたいなあと思いますが、フランス語をすでに身に付けられた Kuroneko さんにとって、ラテン語はきっと身近な外国語に違いないと思います。

ところで、Perseus Project の古典語テキストは、すばらしいですね。古典ギリシャ語のテキストも、語釈(各語からリンクされている)付きで読めるというところが、信じられないくらい助けになります。いきなり入っても、ギリシャ語がローマ字で表記されているだけですが、私のホームページの外国語関係のリンクページに、古典ギリシャ語を設定する方法を書いておきました。私はウィンドーズXPで設定したのですが、話によると、2000も同じ設定方法で見られるらしいです。設定方法は以下の通りです。

「このページの見方は、ページ左肩の方にある“Configure display”に入って“Greek display”を“Unicode (UTF-8) with pre-combined accents”に設定し、“Meter display”で“Show as symbols”を選択 する。一方、Internet Explorer の“ツール→インターネットオプション”に入って、“全般”の下にある“フォント”を開き、“言語セット”から“ラテン語基本”を選択したうえで、“Web ページ フォント”から古典ギリシャ語が表示できるフォント、たとえば“Palatino Linotype”を選択する。」

ところで、「復刊ドットコム」で私も投稿しようと思ったのですが、加入の欄に、有料のメールアドレスを記入するところがあって、断念しました。残念です。

To Kuroneko at 2004 06/06 01:46 編集 返信

RE:捨てがたい文法訳読

Kuroneko様、こんにちは。ijustatです。

「私達の思惟と言語の間には、密接な関係があるので、フランス語の文章を読み、意味は分っているが、どうしても日本語にならない、というような場合には、これが一種の言い逃れで、意味も分っていないのが往々なのではあるまいか。」

この言葉は、とても味わいがありますね。「意味は分かっているが、どうしても日本語にならない」というとき、多くは、“分かったような気がしている”くらいの理解なのではないかと思います。それは、明晰でないものはフランス語でないという大前提がある以上、フランス語として理解していないことになるのだと思います。フランス語の文章は明晰なのだから、理解する人は明晰に理解しなければならない。日本語に訳すなら、それは明晰な日本語になるべきだ。そういう考えがあるのでしょう。

実際、私たちは外国語を学習するとき、その意味に関してはかなりいい加減に把握している場合が多いです。例えば、英語のある単語が分からないとき、英和辞典を引いて、そこに出ている日本語訳を見たら、その訳語を文脈に当てはめ、大体合っていればよしとします。しかし、考え方によっては、このやりかたはかなり乱暴です。私たちは日本語訳の単語の概念を、その文脈においてしっかり把握していないことがよくあります。日本語がよくつかめていないのだから、当然英語の意味がつかめているはずがありません。また、日本語の意味をしっかり把握していた場合も、それがすなわち英語の意味として把握していいという保障もありません。

本当にしっかり把握しようとするなら、英和辞典を引いたあと、国語辞典でその日本語の意味を正確に把握し、さらに英英辞典で英語の意味を確かめて、それを国語辞典の説明と対照する必要があるでしょう。多くの人はそんな面倒なことはしないでしょうけれど、私はそれが必要だと思います。そうやって対照した結果、実際の微妙な用法はともかく、同じ意味を表すことが分かれば、それもまた、自分にとって貴重な発見となるはずです。

たとえば、話題の“明晰”という語ですが、まず『ラーナーズ・プログレッシブ和英辞典』を見ると、“bright”、“inteligent”という語が出ています。『新和英中辞典』では、“clear”、“articulate”、“distinct”、“lucid”、“bright”と出ています。『プログレッシブ』では、頭が明晰ということしか考えていないようですね。

ここでは表現されたものが明晰という意味で見て行きたいと思いますが、その中でいちばん気になる“clear”を、今度は『小学館プログレッシブ英和中辞典』で見てみると、5番目に「<事実・書いた物などが>明白[明確]な、はっきりした、完全に理解できる、わかりやすい」とあり、例文の中には「明快な」、「明解な」というのもありました。この辞書で“明晰”という訳語は、6番の「<頭脳などが>明晰な、明哲な」というところにありました。訳語は一致しないもんですね。

そこで、「明晰」を『新明解国語辞典』で見ると、「筋が通って・(発音がはっきりして)いて、言うことがだれにでもよく分かる様子」とあります。一方、“clear”の方を“Collins COBUILD Learner’s Dictionary Concise Edition”で見ると、1番目に“Something taht is clear is easy to understand, see, or hear.”とあり、3番目にも“If you make something clear, you say something in a way that makes it impossible for there to be any doubt about your meaning, wishes, or intentions.”とあって、なるほどこういうのを英語で“明晰”というのかと分かります。

こういうものは、英語の語釈を見てしまえば、そんなものかとなりやすいのですが、日本語訳だけを見ていても、確実にこの語釈と同じ意味にたどり着けるとは限りません。ずれたり、足りなかったり、余計なものが加わってしまったりするからです。そして、このようにして一つ一つの概念把握のミスが、学習を進めるにつれて深刻な足かせとなっていくわけです。

日本語についても、私たちは分かっているつもりでいることが多いですが、実際には、明晰な理解ができていないことが多いはずです。だから、国語辞典で意味を調べることは、日本語の明晰な理解のためにとても大事なことです。また、外国語を解釈するときもやはり、その国の国語辞典で明晰な理解を求める必要があると思います。そのようにして、外国語においても母語においても、“clear”に分かるこようになっていくと思います。

残念なことに、学生の中で私の言っていることが分かる人は、滅多にいないようです。日日辞典(なんて言い方があるかどうか分かりませんけど)を勧めても、それを実際に買う人は少ないし、さらに使ってみる人は、本当にわずかです。韓国の電子辞書に日日辞典がないというのも、問題だと思います。

私は、英語が大してできないくせに、ロングマンの英英辞典をずっと使ってきました(英和辞典も併用しました)。また、中国語も、ろくに会話もできないのに、『現代漢語詞典 修訂本』(商務印書館、1996年)を使っています。これは、中国語の意味について中国の人と話をするとき、たとえ日本語や韓国語で話していても、私の意見に信頼性を増し加えてくれるのです。残念ながら、ギリシャ語では希希辞典を手に入れることができずにいるので、そのような意味の世界へ入っていくことができず、もどかしい思いをしています。まあ、今の実力で希希辞典を読むのは本当に大変でしょうけれど、ぜひほしいと願っています。

ということで、言葉がはっきりわかるということについて、書いてみました。

To Kuroneko at 2004 06/05 21:52 編集 返信

RE:実は僕も読みました!…『英語と私』

Kuroneko様、こんにちは。

本当にご指摘の通り、「理屈でなくカラダ(ハート)で文法を身につける」という考えは、重要なことですよね。まあ、中には理屈がはっきり分からないと迷走し始める学習者もけっこういますけど、理屈を知る知らないにかかわらず、最終的にはカラダ(ハート)で文法を身に付けなければ、使い物にはならないでしょう。

今、春学期が終わって、学生たち一人一人と面談をしていますが、頭で規則を知っていても、体で身についていないために、実際に日本語を使う段になってデタラメになってしまう学生がいます。その学生と面談しながら、“この学生の日本語は、僕のギリシャ語と同じだなあ”と、つくづく思いました。(こういうことを、ラテン語やギリシャ語で考えられるようになれたらすごいですよね。)

私がその学生に、たとえば、「「〜ていた」という形の時制が使えていませんよ」と指摘すると、その学生は、「でも先生、それは私も知っているんです」と答えます。それで、「それはよくわかります。私もそうですから」と答えます。そして、「私だって、ギリシャ語で1人称の語尾と3人称の語尾を、どう使うか知っています。でも、実際に使っていると、3人称なのに1人称の語尾を使ってしまったり、その逆をしたりすることがかなり頻繁に起こります。あとで自分で気が付くこともあるし、先生に指摘されるまで全然気が付かないこともあります。でも、それは、やはり人称変化を正しく使えないことなんです。それと全く同じく、「〜ていた」が正しく使えないという事実は、それを知っているという事実よりも重大です」と説明します。

このように間違ってしまいやすい文法を間違えないようにするためには、何度も触れ、自分でも何度も使ってみることで、Kuronekoさんの指摘されたように、カラダ(ハート)に刷り込んでしまう必要があります。“人称”という文法範疇が私の中でしっかりと座を占めるまで、何度も練習する必要があるわけです。そのためには、音読の繰り返しが非常に大事で、また、ご指摘の通り、作文の教材で学習することも、とても重要なことだと思います。紹介してくださったような翻訳式の作文教材に、日本の日本語教師があまり関心を示さないのは、学習者たちの母語がまちまちなので、端からそんな教材のことを考えられないのでしょう。

紹介してくださった2冊のうち、『書く英語・基礎編』(英友社)は、去年の暮れに日本へ一時帰国したとき、池袋の書店で見かけたのですが、残念ながら、そのそっけない表紙のせいか、興味を感じませんでした。もったいないことですね。ぜひキョボ文庫で注文して、じっくりとその本を見てみたいと思います。

そうそう、昨日『感性をきたえる素読のすすめ』(安達忠夫著、カナリア書房)という本をキョボ文庫で買いました。この本は、先々月の末ごろ注文しておいたものです。そのとき3冊一度に注文して、2冊は先週来ましたが、残りの1冊が今週やっと到着したわけです。昔この人の『素読のすすめ』(講談社現代新書)を読んだことがあって、この本はそれを発展させたものかと思ったら、なんとその本の“新版”でした。講談社現代新書版は、10年前に絶版になってしまったのだそうです。この本は、素読の知られざる効用から説き起こして、その具体的な方法やテキスト選びにまでわたって教えてくれる名著です。素読について、この本の右に出るものは、そう簡単には現れないと思います。それに、新版を読んでみると、旧版になかった内容が時々見られますから、それなりに新鮮な気分で読むことができます。

この本と併せて、鈴木孝夫の『教養としての言語学』(岩波新書)を一緒に読むと、素読というものが人間を人間ならしめる本質的な部分によく合致していることが分かると思います。著者自身は、『脳と音読』(安達忠夫・川島隆太共著)と併せて読むことを勧めています。どうしよう、お金はないのに読みたい本の目録は、どんどん増えていきます。(笑)

To Kuroneko at 2004 06/05 22:50 編集 返信

RE:明晰でないもの、日本語にあらず!?

Kuroneko様、こんにちは。ijustatです。

「明晰でないもの、フランス語にあらず」という文を見ながら、ふと思ったのは、“明晰”に該当すると思われる(私はフランス語を知らないので)“clair”という単語は、“clear”と形がよく似ているということです。たぶんこれ、同じ意味ですよね。私のギリシャ語の先生は、“明瞭である”、つまり“はっきりしている”という意味で、この英語の単語をよく使っているのですが、この語を使って、誤訳を恐れず私の勝手な解釈で読み直すと、“はっきりしないのはフランス語ではない”ということになります。

よく考えてみると、ごちゃごちゃで七難しいだけで、何が言いたいのかも分からないような文章を読まされたら、「こんなの日本語か!」と腹を立てることもあると思います。つまり、はっきりしないから日本語じゃない、というわけです。結局何が言いたいか分からないというのは、論理の流れがつかめないということで、日本人の心の底にも、「はっきり分からないような言葉に日本語の資格なんかあるもんか」という思いがあるのではないかと思います。

「明晰」という言葉は、もっと論理的にすっきりした状態を強調している感じがするので、日本語でそこまでを要求されるかどうかは分かりませんが、明晰でない日本語を使うと(政治家のこと(笑))、しばしば矢面に立たされて、揚げ足を取られ、皮肉られたり軽蔑されたりするところを見ると、日本人の心の底にもやはり、明晰性を求める気持ちがあるのではないでしょうか。それでいながら、表面上は、日本語は陰影を大事にし、婉曲でどうのこうのというものだから、そこに論理的な矛盾があるような気もしますが、そんな矛盾は、たぶん論理を好む民族にも多かれ少なかれ、あるのではないかと思います。

もっとも、これは日本人も明晰な日本語を快く思っているということで、日本語の使用自体が明晰さを志向しているという話ではありません。自分が言った言葉を、あとで自分の好きなように解釈して、相手に背信感を与える人が多いのは、言葉と意味との関係を明晰に把握する教育を受けていないからでしょう。その一方で、大学院などで教育を受けてきた人や学者の人たちは、日本語でもかなり透徹した論理性を求めていて、怖くなるくらいです。そのような人たちはたぶん、日本語は論理的かどうかなどという議論には関心ないでしょう。自分たちの使う日本語が十分論理的なのですから。

ところで、日本語の論理を明らかにするような研究が、日本語を外国語として学んだ方々から出て来るという指摘は、かなり鋭いと思います。90年代ごろから、日本語の研究は実際の使用に即してかなり発展してきました。これは、日本語教育の需要が高まったために、日本語教育とからんで日本語研究に関心を持つ人たちが増えたからではないかと思います。ある人は、縦文字派と横文字派という面白い分け方をしていましたが、伝統的な国語学を縦文字派と呼ぶならば、西洋の言語学の研究方法を積極的に受け入れた日本語研究を横文字派と呼ぶことができるわけです。

日本語研究は、この“横文字派”によって十数年の間に俄かに発展したと言ってもいいかもしれません。現在では、これらの二つの派は、互いに学びあっているようですが、これは、伝統的な国語学も西洋の言語学に学んだ人たちも、両者が学問的に成熟してきたことを意味しているのでしょう。

現在日本語でも、それぞれの文法範疇をかなり深く研究するようになってきていて、それを見ていると、日本語の論理がおぼろげながら分かってきます。80年代には『日本語のシンタックスと意味』という名著が出て、日本語の意味を研究する足場をしっかりと作ってくれましたが(そう私は一人で思っています)、今後誰かが、そのシンタックス(統語論)と、もう一つ日本語においてとても重要なモダリティー(陳述性)とを集大成してくれたら、日本語がいかに論理的な言語かを知ることができるだろうし、多くの人たちが、いかに日本語の論理性を台無しにしているかも、少しは分かるのではないかと思います。

少なくとも、自分が言い放ってしまった言葉に対し、あとで勝手に意味を付け加えたり削ったりして相手を欺くような、恥ずかしい行為が、人前ではしにくくなることを期待しています。まあ、人間の性質上、全然できなくなるとは思えないけれど、最大限そういうことが抑制されるようになれば、いいですね。(以前、そういう明晰さが社会を改善し、人類を救うとまで考えている人に会ったことがあります。気持ちは分かるけど、ちょっと言語を過信していますよね。明晰さは論理の流れをよくするだけで、その根底にある人間を改善するわけではありませんから。)

私たちが学校で文法を習うのも、建前はそういうことのためらしいですけれども、橋本文法を基盤にした学校文法では、どのようにして日本語の論理性を見出せるのかわかりません。ただ言葉が切れたり続いたり、かかったり受けたりしているだけで、その有機的なつながりが全然見えませんから。まあ、これらの概念は、横文字派の人たちも否定しているわけではありませんが、それだけでは学校文法で習った知識の上に何の知識も積めないということは、否めません。

ところで、私は子供のころ、“論理的”というのは、“固くて難しい”という意味だと思っていました。そんな環境では、まともにものを考えられるわけがありません。ISS通訳研修院で事務のアルバイトをしていたとき、アメリカ人の先生が、“筋が通っていて分かりやすい”という意味で“logical”だと言っていたのには、新鮮な驚きがありました。“固くて難しい”のとは逆に、むしろ“単純”に分かるものを“論理的”と言っていたからです。

私に西洋の文明を語る資格はありませんが、日本と韓国で出会った西洋のいくつかの国の人たちとの交流から感じることは、学術的なテーマについて論じるとき、“logical”であることもさることながら、“clear”であることも重要視しているようです。これを“論理的且つ明晰”といったら難しい印象を与えますが、“筋が通っていてはっきり分かる”と言えば、その感じを正確に伝えられると思います。ガチガチで敷居が高く感じられる学問も、そのようなかたちで、もっと和風に(?)、筋が通っていることがはっきり分かる形で表現されるようになれば、もっと身近なものになるんですけどね。

私たちは、もしかしたら学術的な日本語を、心の底では“あんなの日本語なんかじゃない”と思っているのではないでしょうか。だから、ここで Kuroneko さんの紹介してくださった言葉を日本語に置き換えて、「はっきりしないのは日本語ではない」と言い放ってしまえたらいいなと思います。そのうえで、高度で抽象的な学術的表現も、誰にでもはっきり分かることを目指していければいいのにと思います。

ということで、日本語とその論理性について、その周辺をうろうろ歩き回ってみました。(笑)

From 氷雨 To ijustat@chance at 2004 06/02 16:20 編集 返信

文部省奨学生試験の余波

Ijustatさん こんにちわ 氷雨です

試験の結果について何の報告もしてませんでしたね
どうだったの言われると衝撃そのものでした
その試験を受けている途中で思い知ったのは
”やっぱり自分にできる言語は韓国語しかない!”でした
試験の後、予定の通り(?)下のような決心をしました

1.この試験で受けた衝撃から立ち直るまでは日本語をやめる
2.同じ期限の間 ゲーセンの出入をやめる(こ。。。これはあまり関係なさそうで。。。)
3.その代わりに英語とドイツ語に集中する

どうせ来年の一次試験が英語だけで先発するのなら
英語に集中する必要もあるんだし
ドイツ語との両立も役立つんだと思ってますから

単の試験一回でこんな余波が及ぶとは想像もできませんでした

ではでは

From Kuroneko( Mail ) To ijustat@chance at 2004 05/31 21:05 編集 返信

姉妹書(?)、発見!

何度か話題にしている岩波書店の『新フランス語入門』ですが、本の最後のページを見ると、同時期にドイツ語、ロシア語、アラビア語などの入門書もあったようです。

先日、たまたま名古屋のある古本屋さんに入ったら、辞書・語学コーナーに『新ドイツ語入門(増訂)』(倉石五郎,岩波書店,1962)があり、なんと600円(!)だったので、購入してしまいました。この本も『新フランス語入門』と同様に音声を非常に重視した作りになっており、文の抑揚の解説もあり、後半の講読篇ではドイツ詩の韻律の解説まであるという内容です。この時期の岩波の語学書はみな音声重視で、かつ良い意味で教養主義的な語学書を出版していたみたいです。今やすべて入手不可になっているわけで……、残念です。

ちなみに『新フランス語入門』も『新ドイツ語入門』も、後に付属(別売りかもしれません)のテープが存在していたようです。岩波さん、再版してくれないかなぁ!

ところで、「復刊ドットコム」というサイトはご存知ですか? リクエストを集めて票数がたまると出版社と再版交渉をしてくれるというサイトです。実は『新フランス語入門』も登録されていて,現在8票ほど(;;) もしよろしければ、一度のぞいてみて下さい。
http://www.fukkan.com/

From Kuroneko( Mail ) To ijustat@chance at 2004 05/30 21:33 編集 返信

RE:捨てがたい文法訳読

僕も昔、同じようなことを考えたことがありました。ただ、ijustat様のようにしっかりとその効果等を考えたわけではなく、「仏語と一緒に英語も学べたら得だな」という打算のみで考えていました(^^ ただ僕の場合、自分にあった教材が見つからなかったので、「英語で学ぶ仏語」計画は断念することにしました。

ただ、この「英語で学ぶ外国語」はなかなか人に奨めにくいかもしれません。なぜなら、この勉強法が成立するのは最低、大学受験レベルの英文を正確に読める英語力が必要だと思うからです。多分、大学生でも無理な人が多いと思います。一部を除けば、大学生(有名大学在籍者を含む)の英語読解力はかなり低いのが現状です。それは、ここ10数年、予備校では“速読”が注目を浴びるようになり、正確に読む勉強がおろそかになっているためでもありますし、中学・高校ではコミュニケーション重視という方針のため、文法はあまり教えていないためでもあります。余談ですが、コミュニケーション重視がどうして文法軽視になるのかは学習指導要領を読んでもよく見えてこないですし、僕はよくわかりません。

外国語入門書に出て来る文章(スキットや例文)は、理屈で考えるよりも丸暗記してしまうものだと思いますが、大学入試で出題されるような文章は、シンタックスなどを意識しつつ、正確に読む訓練を一定量行なわないと、いつまでたっても読めるようにならないと考えています。これと同じようなことは、猪浦道夫『語学で身を立てる』(集英社新書)にも書いてありますね。正確に読む訓練は面倒くさいのですが、短めの長編小説一冊分ほどの量を精読しておくと、あとが楽です。一度、精読をしておくと、あとは濫読でも読解力がついてくると思います。

>>訳読問題は、まず意味を確かめたのちに、音読する必要があります。それも、すらすら言えるようになるまで繰り返します。
>>5〜6回から10回ぐらいは読む必要があるでしょう。“すらすら”というのは、私たちが日本語を早口で話すように、
>>なめらかに言えるくらいの速度のことです。ゆっくりすらすらではありません。

高校の授業で行なわれていた(いる?)訳読の授業に足りなかったことは、ijustat様が書かれたような、意味が理解できた文章を音読を通して体得させるトレーニングだと思います。このように学習していけば、文法訳読法もかなり効果的なメソッドになるのではないでしょうか。特に独学者にとって。

‘訳読’で思い出したのですが、岩波『新フランス語入門』の中にこんなことが書いてありました。

「私達の思惟と言語の間には、密接な関係があるので、フランス語の文章を読み、意味は分っているが、どうしても日本語にならない、というような場合には、これが一種の言い逃れで、意味も分っていないのが往々なのではあるまいか。」(p.282)

う〜ん、キビシイ意見ですね。ただ、僕などは思い当たるふしもあったりするので……、今後は気をつけていきたいと思います(^^;

From Kuroneko( Mail ) To ijustat@chance at 2004 05/30 17:35 編集 返信

実は僕も読みました!…『英語と私』

今、入手可能な松本亨の著作の中で、学習法について一番詳しく書かれているのは、この本だと思います。僕もこの本を読んだ時、例文や文章を暗誦する勉強法は間違っていなかったんだ!……と思って、ホッとしたりしました(^^

>>5番の“Grammar?”に関して、著者は「私の考えは極端かもしれないが」と前置きをした上で、「文法は自然に覚えるべきもので、
>>わざわざ文法として学ぶのは、専門家にまかせておきたい」と言っています。著者の言う文法はどうやら2つあるようです。

外国語学習者など「言葉」を意識している人は何気なく「文法」という用語を使いますが、確かに「文法」という用語の持つ意味は、人によって結構異なっていますね。某巨大BBSの英語関係の書き込みを読んでいると、英文法肯定派と否定派が議論したりしていますが(といっても、ほとんど罵り合いですが)、よく読んでみると否定派の人も英語の“規範”を否定している人はほとんどいないようです。否定派の人が「文法」という言葉からイメージするものが、ijustat様が書かれた「メタ言語という別物」なんですね。ですから、否定派の方たちは「文法」を否定するのですが、実は肯定派の人たちも「規範文法」を肯定しているのであって、「メタ言語としての文法」については、(学習上の見地からは)否定的であったりして、結局同じ意見だったりします(^^)

僕は例文暗記学習のメリットとして「理屈でなくカラダ(ハート)で文法を身につける」点にあると思っているのですが、松本氏が文やまとまった文章を暗記することを薦めているのも同じことなのかなぁ…、と思っています。多分、そうやってカラダに英語を染み込ませることが‘Thinking in English’に繋がるのかなとも思ったりします。

ところで、松本氏は学習法としての英文和訳には反対の立場ですが、和文英訳(厳密には日本語のメッセージを自然な英語に直す作業ですが)は奨めていますね。これなども、正しい英語(規範文法)を身につける作業だと思います。以前、松本亨氏の『書く英語・基礎編』(英友社)という参考書を紹介しましたが、この本なども文法別の構成(少し一般的な構成とは異なりますが)になっており、“規範”を身につけさせようという姿勢が見えます。

話が脱線してしまいますが、この『書く英語・基礎編』と佐々木高政『和文英訳の修行』(文建書房)が、僕の2大オススメ英語参考書になっています。

From Kuroneko( Mail ) To ijustat@chance at 2004 05/30 17:03 編集 返信

明晰でないもの、日本語にあらず!?

こんにちは、Kuronekoです。

大学などで年配の先生にフランス語を習うと、次のような章句を教えてくれることがあります。

Ce qui n’est pas clair n’est pas français. (Rivarol)
〔明晰でないもの、フランス語にあらず。〕

そして、フランス語が日本語と比べていかに明晰かつ論理的な言語か、という話につながったりします。と、言いますか、僕の大学での最初のフランス語の授業がそうでした(^^) 

さて、フランス語が他の言語と比べて特権的に明晰であったり論理的であったりするわけは無く、日本語だって論理的でありうるのですが、実際にフランス語を学習していると「フランス語って論理的だ!」と思ってしまう瞬間があるのも事実だったりもします。そんなことから、言語が論理的というのは、なにを意味しているのかなぁ、などと考えたりもします。

>>そういえば、大野晋は文を書くとき、“明晰に”、“境界判明に”をモットーとしているそうです。
>>これはデカルトからの影響だと自叙伝に書いていました。

大野氏の『日本語練習帳』(岩波新書)を読んだ時に、その明晰性を感じましたが、デカルトの影響とは知りませんでした。ただ、ここでデカルトの名が出てきたのことが、非常に興味深いです。デカルトが文筆活動を行なった17世紀にフランス語は整備され、そこから先に書いた「フランス語は明晰である」という神話が生じてくるのですが、その明晰性神話の成立にデカルトの文体も大きな役割を果たしています。ただデカルトの文体の明晰さはフランス語特有のものではなく、神学・学術言語として使われていたラテン語の文体を用いることで、彼のフランス語を明晰なものにしていたわけです。面白いのは、大野氏の明晰な日本語の文体がフランス語(デカルト)の影響を受けたのと同じに、デカルトもまた母語以外の言語の影響によって、自らの文体を明晰にしていたという点です。結局、フランス語も始めから明晰なのではなく、明晰にフランス語使おうとしてきた伝統が、フランス語を明晰にさせているということなのでしょう。当たり前といえば、当たり前のことなのですが。

話は戻りますが、言語における論理性というのは2つに分けることが出来るのではないかなぁ、と思ったりします。一つは大野氏やデカルトの文章が持つ論理性で、これは文体・文章構成における論理性で形式的(数学的、形式論理学的とでも言えるのでしょうか?)に処理でき、個々の言語特有のものではないように思います。もう一つは言語内部に貫かれている論理性で、これは、

>>本当に他愛ない、犬も食わないような雑談の深層には、重層的に流れている一貫した論理
>>があるのです。驚くべきことに、“論理”とは程遠いと思われる相手の大学生も、
>>きちんとそれを受けて反応していました。つまり、両者はその深層を流れる論理をしっかりと
>>捉えているのです。

と、ijustat様が書かれたものが、それに相当すると思われます。論理形式からははみ出していても、それを語っている話者同士の間では意味が通ってしまうたぐいの論理性です。例えば、日本語は主語を省略するからヨーロッパの諸言語に比べて論理的ではないと言う人が、今でもたまにいますが、日本語の場合は主語を省略しても意味が通るというある種の論理性を持っている以上、主語の省略を理由に日本語の非論理性を説いても、説得力に欠くのではないでしょうか。

結局、僕の個人的な意見ですが、ある言語が論理的であるように思え、他の言語が非論理的であるように見えるのなら、それは文体上の、または文章構成上の問題であって、それぞれの言語に内在している問題ではないのだろう、と思っています。ゆえに、日本語も論理的なのですが、論理を展開する文章作法があまり発達していないように感じます。あまり発達していないと書くよりも、その種の文体が整理されていないと書いた方が適切かもしれませんね。

大野氏がデカルトを取り込むことで自ら日本語の文体を確立したように、多くの日本人が外国語に触れる中で日本語の文体を作ってきたのだと思いますが、そのような文体は日常で用いられる日本語と乖離している場合も多いですね。いわゆる、「翻訳文体」とよばれるものなどがその代表かもしれません。日本の場において「哲学」出来ない理由として、翻訳文体を上げている人もいます。文芸評論家の加藤典洋などもそのようなことを書いていたように記憶しています。ただ、僕が思うのは、確かに翻訳文体には問題が多い(僕自身、訳の分らない翻訳に苦しめられたこともありますし^^;)ですが、問題が多いからといって翻訳文体を全否定してもなんら日本語の文体の確立に役立たない、ということです。外国語の影響を受けつつ、日常的に理解できる日本語もあると思うのです。古い例になりますが、夏目漱石の文体はそうではないかと思います。ただ、夏目や鴎外といった明治期の文豪が築こうとした新しい日本語の文体を更に磨き上げていくという思想はあまり見受けられないですね。もしそのようなことがなされていれば、学術書などの(英文和訳の授業の直訳のような)読みにくい翻訳文体がこれほどまでに氾濫していることは無いと思います。ですから、僕も以下のことには同感です。

>>でも、日本人が生活に密着した論理を透徹させようとするとき、日本語から出発することは
>>避けられないと思います。その基礎的な作業として、日本語の文法を研究することが必要でしょう。
>>この点に関しては、すでにずいぶん研究が進んできていると思います。
>>その成果を利用して、日常的な感覚から一気に論理の織り成す綾の世界へと導けるような、
>>思考の技術を誰かが研究してくれればと考えています。

今、ふと思ったのですが、ijustat様が書かれたような研究は、日本語を外国語として学んだ方々から出て来る可能性もありますね。英語学などでも非英語話者による素晴らしい研究があるので、日本語学でもありえると思います。本当は日本語話者も頑張らなければいけないのでしょうが、日本語学習者の人たちに、ちょっと期待したくなったりもします(^^

To ijustat@chance at 2004 05/29 15:59 編集 返信

捨てがたい文法訳読

Kuroneko様、こんにちは。

私は日本語会話を教えていて、口頭による意思疎通を中心にした教授法で日本語を教えています。しかし、独学で外国語を学習するとき、特に、初級の段階では、媒介語との細密な対照は必要なのではないかと考えています。日本語と英語のように系統の全く違った言語の場合はちょっと難しいのですが、日本語と韓国語、英語とラテン語やギリシャ語などでは、類似点が多いために、むしろ相違点がよりはっきりと分かって、対象言語だけでなく、媒介語に対する知識も高めてくれるのではないかと思います。

たとえば、英語をきちんとできるようになりたい人には、日本で出た英作文の教材ももちろん役に立ちますが、たとえば英語で書かれたラテン語の学習書を勉強してみるというのも一つの手だと思います。これで学習するとき、英語で読むことが必要になるので、英語の読解力は高まらざるを得ないでしょう。それから、ラテン語の知識は英語の知識に深みを与えてくれます。さらに、ラテン語から英語に訳す際に、英語の使い方について真剣に考えるので、英作文になります。特に、ラテン語には冠詞がないので、英語に訳す際に、そこに定冠詞が付くのか、不定冠詞が付くのか、または何も付かないのかということを、真剣に考えることができます。また、英語からラテン語に訳すときには、英語は格変化が乏しいので、ラテン語の格変化を真剣に考えながら、英語の核の概念を強化することができます。

ただ、図書館でラテン語の教材を見たところ、訳読問題に模範解答のないものがけっこうありました。教室で教えることを前提として書かれているのでしょう。でも、独学で勉強する人にとっては、訳読の模範解答はぜひとも必要なものです。英語のためにラテン語を身に付ける人にとっては、解答つきの教材である必要があります。その解答を見ながら、英語の冠詞の使い方を、ラテン語との対照で学ぶことができます。

訳読問題は、まず意味を確かめたのちに、音読する必要があります。それも、すらすら言えるようになるまで繰り返します。5〜6回から10回ぐらいは読む必要があるでしょう。“すらすら”というのは、私たちが日本語を早口で話すように、なめらかに言えるくらいの速度のことです。ゆっくりすらすらではありません。なるべく速度をつけて音読し、それでいながら、プロミネンスや間の取り方はきちんと行い、理解可能な発音を心がけるというものです。私たちは普通、音読というと、ゆっくり読むことが多いですが、私は逆に、ゆっくりで始めても、最終的には“機関銃”のように速く言えることを目指すべきだと思います。この練習が、のちに早読み(や聞き取り)を助けるはずだからです。そしてこの一度に数回読む早口音読は、何度か行います。ローマ人になったつもりで読むと、面白いし、効果もあると思います。

ところで、訳読問題に解答が付いているべき理由が、英語を勉強するのが目的という以外にも、もう一つあります。それは、模範解答である英文から、今度は逆に、ラテン語に訳し直すという作業が必要だからです。これは、もちろんラテン語をきちんと覚えるのに大いに役立つものですが、それだけでなく、訳すために、英文をしっかりと観察する訓練になるのです。訳す目標となるラテン語は、英語とかなり似た部分があるので、英語の語形や語順を、ラテン語の原文の語形や語順と対照させながら考えることで、大いに観察力が付くわけです。それを通して、ラテン語の訳読問題も、丸暗記とはいかないまでも、かなり暗記状態に近くなります。

こういう学習法を、他の西洋語でやってもかまわないのですが、私はギリシャ語でやることにしました。古典ギリシャ語の教材を大学の図書館で探したのですが、訳読問題に解答が付いているものは一つもありませんでした。唯一つだけ、1冊だけあった現代ギリシャ語の教材が、訳読問題に解答をつけていました。この教材はギリシャ人が書いてアテネで出版されたもので、しかもけっこう時代ものなので、表記法が“ポリトニコ・システィマ”という、歴史的表記法になっています。この方が私にとっては都合がいいので、この教材を見つけたことを満足しています。それに、これは私が持っているラテン語の教材に比べて、訳読問題がとても易しくできているので、英作するのも楽だし、解答の英文から希作(=“ギリシャ語作文”のつもりです)するのも楽です。

ちなみに、私がここで扱った学習書は、“LATIN―AN INTRODUCTORY COURSE BASED ON ANCIENT AUTHORS”Grederic M. Wheelock,BARNES & NOBLE,1963,New York と、“PRACTICAL MODERN GREEK―A self-educator for English – talking people” by S. D. Stouriotis,The “Margarita” Press,1971,Athens というものです。ラテン語の学習書は、ソウルの古本屋で見つけたのですが、もしかすると、いわゆる海賊版かもしれません(韓国の大学生たちはこれを婉曲に“ヨンインボン(=影印本)”と呼んでいます)。63年に刷られたにしては、やけに紙がきれいですから。それに、欧米の本にありがちな、ガバガバした厚手の紙でなく、開き勝手のよい、なめらかな薄手の紙で製本されています。ギリシャ語の学習書は、散々コピーをとられたらしく、だいぶ本が傷んでいて、ページもバラバラになりかけています。でも、こちらは確かに本物で、活版印刷特有のくぼみがあり、紙も韓国では使わない、つやと張りのある紙を使っています。

ということで、英語学習のために他の言語を学ぶという話でした。

To 氷雨 at 2004 05/29 14:48 編集 返信

RE:いよいよ明日ですね

氷雨さん、こんにちは。ijustatです。

>いよいよ明日です.

ということは、今日ですね。今これを書き込んでいるころ、氷雨さんは試験場で必死に問題を解いているんでしょうね。遅れましたが、頑張ってください。

>それに今更悩んでいても埒が明かないんですから
>(をを. ついに自分の作文でも使いました”埒が明かない”)

ついに“埒が明かない”が自分のものになりましたね。おめでとうございます。

>実は今年がだめだったら来年もう一度受けようとしてるんですから
>単なる語学能力試験の感じで軽く受けようとしています.

そうですね。最初に受ける試験は、模擬試験のつもりでいた方がうまくいくことが多いようです。私も日本語教師の検定試験を受けたとき、模擬試験のつもりでいました。でも、運良く受かってしまいました。それで、教育に関する基礎知識のないまま日本語教師になってしまったのです。(笑)

>ただひとつ 明日は専攻の試験も重ねているのですが
>仕方なく専攻の試験をあきらめるしかありません.
>一年に一回ある試験と一学期に四回ある試験....

それはちょっと残念ですね。でも、これが終わったら、3ヵ月後の専攻の試験に向けて、頑張ってください。

ところで、文部省試験は定員制なんですね。4.8倍とは大変なことです。いい結果が出ることを願っています。

From 氷雨( HP ) To ijustat@chance at 2004 05/28 22:47 編集 返信

いよいよ明日ですね

Ijustaさん. こんばんわ. 氷雨です

いよいよ明日です. 絶対に緊張しない!って決めたのに
何故だか眠れなさそうでちょっと不安です.
なんだかんだ言ってもいつかはこの日が来るもんだったし
それに今更悩んでいても埒が明かないんですから
(をを. ついに自分の作文でも使いました”埒が明かない”)

実は今年がだめだったら来年もう一度受けようとしてるんですから
単の語学能力試験の感じで軽く受けようとしています.
ただひとつ 明日は専攻の試験も重ねているのですが
仕方なく専攻の試験をあきらめるしかありません.
一年に一回ある試験と一学期に四回ある試験....

今年は経験だと思っていますけど精一杯頑張ります
ではでは.

P.S 今年の一次試験の倍率は 4.8:1 です

To ijustat@chance at 2004 05/29 14:50 編集 返信

『英語と私』

Kuroneko様、こんにちは。

先日、先月注文していた『英語と私』が届いたというので、キョボ文庫へ買いに行きました。この本は、著者の半生記のようなもので、私は、在米中に第二次世界大戦が勃発して敵国人となってしまい、収容所に送られた部分から読み始めました。この人は非常に信仰の深いクリスチャンで、その生き方に感銘を受けましたが、外国語を学ぶという観点からも、学ぶ点の多い本です。ただし、この人の弁舌には天才的なところがあり、それをどうやったら見につけられるのかは、話べたの私には分かりません。(笑)

松本亨は、「どうしたら英語の会話がうまくなるか」という質問に対して、次のように答えています。

1. Listen to good live English.
2. Imitate it.
3. Memorize whole sentences.
4. Memorize whole stories.
5. Grammar?
6. Think in English.
7. Talk to yourself in English.
8. Speak in English in public.
9. Write in English without thinking in Japanese.
Do the above for at least five years.

このアドバイスはすばらしいものだと思います。まあ、古典ギリシャ語やラテン語の場合は8番は無理でしょうけど。ところで、5番と6番はこのアドバイスだけでは理解しかねるかもしれません。

5番の“Grammar?”に関して、著者は「私の考えは極端かもしれないが」と前置きをした上で、「文法は自然に覚えるべきもので、わざわざ文法として学ぶのは、専門家にまかせておきたい」と言っています。著者の言う文法はどうやら2つあるようです。

一つはこういうものです。「ある日学生に、“Put the hat on.”の“on”の品詞は何んですか、と尋ねられて即答ができなかった。考えたことがないからである。しかし、この一つの文章によって、「帽子をかぶれ」という意味と、その意味の持つ圧力とは、すぐ直感することができる」(220ページ)と言っています。これは“文法論”の意味の文法です。そして、「現実から離れたいわゆる文法は、話されたことばの意味を理解するのに大して役に立たないから、「文法のための文法」はやらないでもよいという結論である」(221ページ)と言っています。

もう一つはこうです。「文法を気にしだすときりがない。われわれが日本語でものを言ったり書いたりするとき、いちいち文法を考えはしない。もちろん書くときには、もう少し文法を考慮すべきかも知れない。しかし、一般の読者は、われわれの日本語を文法的見地から、そんなに批判してはいない。それなのに、われわれは英語となると、やたらに文法がやかましい」と言って、“Do like I do.” 、“It’s me.”、 “Who do you want?”、“What was your name”、“Go get it.”などは、どれも「文法的」ではないが、みなそれぞれの意味を持った「正しい言い方」だと言っているところを見ると、これは“規範文法”の意味の文法のようです。

上の文はそれぞれ、“Imitate me.” 、“It’s I.”、 “Whom do you wish to speak to?”、“I’m sorry I have forgotten your name.”、“Fetch it.”が文法的な文なのだそうです。

「文法は自然に習え」というのは、まちがったことは「変だ」と感知するようになれ、という意味だそうです。そして、「「変な」ことは、たとえ理論上は文法的であっても、私は文法的だとは思わない」(222ページ)と言っています。私は専攻が文法だから、文法の中にどっぷり使っていますが、外国語学習という観点では、松本亨の考えと(ほとんど)同じようです。私の考えでは、意味や機能の“説明”は、すでに意味でも機能でもなく、それは単にメタ言語という別物だと考えています。意味や機能は、あくまでも私たちの心の中に、言語という音声記号を通して生じる、言語化できない精神的な作用だと思います。その意味で、松本亨の考えに納得できます。

6番の“Think in English.”について、松本亨は何冊か本を書いています。これが必要な理由については、「英語の単語一つ一つに、私たちは私たち個々の特別な意味を持たせないと、私たちの人格の一部になりきらない」(224ページ)からだと言っています。

そして、理解するということについて、ある特定の sound に、われわれの emotional movement、または emotional experience が understanding となり、それが生長する intellectual understanding になると説明していますが、それを受けて、「英語で物事を考えるためには、英語というものに対して、この emotional experience をたくさん持たなければいけない」といっています。そして、「「自分が自分と英語で会話する」という練習法は、「英語で物事を考える」という意味である。thinking は self-conversation にほかならないからである。self-conversation がだんだん上達してくると、一つのアイディアを次々に進めて考えていくことができる。理論的な考え方(logical thinking)がそれである。英語でものを書いたり、人の前で演説したりすることは、この技術の発達したものである」(224〜225ページ)と言っています。なかなかすっきりした説明だと思います。

実はこの本の前半分はまだ読んでいないのですけれども、あとでじっくり深読みしたい本だと思いました。

To ijustat@chance at 2004 05/27 15:30 編集 返信

Re^3: お久しぶりです!

Kuroneko様、こんにちは。

> ただ、日本人が議論下手なのは、日本語という言語のせいなのだ、という意見になるのも少し違和感を覚えたりもします。英語教師などで、「英語は論理的だが、日本語はそうではない」なんて事を未だに言う人もいますが、それは違うのではないかと思います。

そうですね。たぶん、その英語教師の方の考えは、半分は正しく、半分は間違っているのだと思います。正しい半分とは、英語の論理構造を日本語にそのまま置き換えると、非論理的な部分が出てきてしまって、英語の論理性を解釈する上で、日本語はふさわしくないということかもしれません。

一方、その先生は、日本語の論理性から出発してそれを英語と比較するという態度が欠けているという問題があると思います。でも、それは今までおそらく誰もやってこなかっただろうし、これからもいないでしょう。なぜなら、ギリシャ語を始めとする西洋語の中から生まれた論理学が、すでに深遠な体系を成しているので、新しい体系を最初から立て直すというのは労力の無駄になるからです。

でも、日本人が生活に密着した論理を透徹させようとするとき、日本語から出発することは避けられないと思います。その基礎的な作業として、日本語の文法を研究することが必要でしょう。この点に関しては、すでにずいぶん研究が進んできていると思います。その成果を利用して、日常的な感覚から一気に論理の織り成す綾の世界へと導けるような、思考の技術を誰かが研究してくれればと考えています。

しかし、それをしようとする人は、あまりいないでしょう。以前、鷲田小彌太という哲学者が、そのようなことを考えている本を出しましたが、私は買いませんでした。どうしても、限られた予算の中、ほしい本の優先順位を考えると、この本までたどり着かなかったからです。

私はどうしても日本語を教えるという立場なので、文法の研究成果が、韓国人学習者が日本語を使用する技術の向上に役立てないかと考えてしまいます。

To ijustat@chance at 2004 05/27 15:28 編集 返信

Re^2: お久しぶりです!

Kuroneko様、こんにちは。


ご指摘の通り、日本語は弁証法的な対話を日常にしている人々から見れば、別世界だと思います。確かに、弁証法的に対話するというのは、高度な対話技術ですね。互いに対立する考えを乗り越えて、新たな考えに至るという、共同作業としての討論は、私も経験がありません。それを日本語でやっているところに立ち会いたかったら、プラトンなどの作品を読むしかないんでしょうね。

でも、それを私が解説なしに読んで、その底辺に働く原理というか、討論の流儀というようなものを、私が理解できるかどうか、自信はありません。毎週、職場の教室を借りて聖書勉強会をやっていますが、福音書に出てくるイエス様とファリサイ派との緊迫したやりとりを読みながら、そこに私の知らない当時の議論の流儀がありそうだというのを感じました。そこでは殺気に満ちた応酬が繰り広げられますが、どうも両者とも、何かの決められた作法に則って、議論しているようなのです。でも、そういうものがありそうな気がするだけで、それがどんなものかは分かりません。聖書に表れた、ユダヤ人の高度な弁舌の原則を学んでみたいですね。

それはともかく、私の考えでは、どの言語でも潜在的に、論理的な明晰さを求めているはずだと思います。Kuronekoさんも、私と同じく、日本語は論理的であると考えておられるようで、うれしいです。このことに関して、もう少し私なりに考えてみたいと思います。

日本語の会話を指導しながら、学生が不適切な表現をすることで、表現の明晰さが大いに損なわれることがあります。そんなとき、ああ、やっぱり曖昧なものは、日本語でも受け入れられないんだなあと感じます。

そういえば、大野晋は文を書くとき、“明晰に”、“境界判明に”をモットーとしているそうです。これはデカルトからの影響だと自叙伝に書いていました。このモットーで大野晋は、外国語ではなく、日本語をものしているわけです。これは、日本語が論理的であることを前提としています。

ちなみに、私がものを書いたり考えたりするとき、自分を支えているのは、「子曰、由、誨女知之乎。知之為知之、不知為不知、是知也」という論語の言葉です。これを訳せば、「孔先生は子路に言いました。『由よ、お前に“知る”ことを教えてやろう。知っていることを“知っている”とし、知らないことは“知らない”とする。これが“知る”ことだ。』」となるでしょう。少しでも不明な点を、分かった気にならず、はっきりと“分からない”と認識することで、明晰な思考を求める癖は、少しは身に付いたような気がします。

ところで、推理小説や推理ドラマを見て、探偵の鮮やかな推理に私たちは快感を覚えます。でも、その推理は日本語で行われたのです。少なくとも、外国の推理小説を日本語に訳したのであれば、それは日本語で推理を行うのに成功したことになります。日本語が論理の構築に向いていないなら、推理ものを作るのは不可能なはずです。推理は理詰めで行われるものだからです。

また、小論文などの指導では、論理性を大事にします。論理的でない小論文を書くと、散々叩かれます。小論文だけではありません。一般の読者だって、非論理的な文章を読むと、その独りよがりな書きっぷりにイライラします。たとえば、アマゾンの読者書評は、たいてい読ませる文が多いですが、中に一つだけ、“超”が付くほどひとりよがりで、何がいいたいのか分からない書評がありました。それに対して、「10 人中、0人の方が、『このレビューが参考になった』と投票しています」と表示されていました。他の書評には3人から7人くらいの投票があるだけでしたが、そのひどい書評には、なんと10人も、投票していたのです。それも、全員が“参考にならなかった”という方に。(笑)

これらのことは、日本語も論理的でありうることを物語っていると思います。

まあ、ギリシャ語を習いながら、目から鼻へ抜けるようなその明晰さに驚くことはよくあります。ギリシャ人は、思考の明晰さは自明のことのようです。また、英語の文章を苦労して読みながらも、その非常に明快で境界判明な論理の流れに目が洗われるような思いをすることもあります。そのような経験は、日本語ではしたことがなかったように感じます。

しかし、日本語のテキストを読解しながら、その意味などを説明していると、表面的なレベルでなく、意味のレベルで、非常にしっかりした論理の一貫性を見せることがよくあり、その深みある論理の流れに驚くことがよくあります。それは、プロの文章だけでなく、大学生同士の、文法的には滅茶苦茶な、他愛ない会話を文字に起したスクリプトを見ていても、発見することがあります。実はそれを、ある日本語学習誌の校閲作業を手伝って、編集者にその難解な会話の流れを説明しているときに、発見しました。その論理の流れの一貫性に驚いたのは、私ではなくて、編集者でした。本当に他愛ない、犬も食わないような雑談の深層には、重層的に流れている一貫した論理があるのです。驚くべきことに、“論理”とは程遠いと思われる相手の大学生も、きちんとそれを受けて反応していました。つまり、両者はその深層を流れる論理をしっかりと捉えているのです。

日本語は、シナリオなどでは言葉が整っていますが、実際の会話は、目も当てられないほど滅茶苦茶です。語順はまるで福笑いのように、てんでバラバラだし、言いよどんだり、言葉が尻切れトンボになっていたり、過剰なフィラーで埋め尽くされていたりします。それにもかかわらず相手が理解できるのは、そこに共通する、しっかりした論理の流れがあるからです。

その中で、本当に理解できないときは、たとえば、主語になる単語がすでに二つ出ていて、次の言葉でどちらでも主語に立ちうる文脈であるにもかかわらず、主語を省略してしまうとか、すでに主語が他のものに切り替えられているにもかかわらず、前の主語に関する陳述を持ち出して主語は省いてしまう、というような状況などのようです。そのときは、論理的に破綻した状態で言葉が伝達され、相手の目を点にします。

そのように、ひとりよがりな話し方をしたり、ひとりよがりな文章を書く人は、たぶん心の中で、論理的な関係が相手に露骨に見えるように言葉を使うと、あさましく感じられるかもしれないと、心配しているのではないでしょうか。それで、それを“奥ゆかしく”隠して、点と点とを飛び石のようにつなげる言葉遣いをする。しかし、聞き手や読み手の立場から見ればは、その点と点との間の論理的流れを埋める背景知識が見つからず、さっぱり理解できない。あるいは、何が言いたいのか、推測はできるけれど、確かな理解はできないという、腹立たしい結果になるのではないかと思います。

私も、点と点とを飛び石のようにつなげた言い方を、時々しようとします。そのとき、実際に相手が聞いたり読んだりして、論理的な流れをつなげることが可能かどうか、考えます。でも、よく失敗します。これは一種の、謎かけ的表現で、“その心”まで言わないと、相手は私の言葉の前後をつなげられません。

韓国へ来るまでは、ずっと親元で暮らしていたのですが、両親を見、そして自分自身を振り返りながら、“日本語は非論理的である”という言葉が正しいと感じていました。しかし、日本語を教えるようになり、その中を覗きこむようになってからは、日本語は、時には数学のように、論理的な言語だと感じるようになりました。いまだに私は取り留めなく話したり書いたりする癖がありますが、それは私の責任であって、日本語の責任でないことも、確かに分かるようになりました。

ということで、日本語は論理的な言語であるという、あまり論理性のない話でした。(笑)

To ijustat@chance at 2004 05/27 15:28 編集 返信

Re: お久しぶりです!

Kuronekoさま、こんにちは。

> 僕は名古屋生まれで現在名古屋に住んでいるので本来ならバリバリの名古屋弁ネイティヴ(笑)のはずなのですが、大学入学から昨年の夏まで東京で暮らしていたので、発音は標準語です。それで、現在もまだ名古屋弁に戻らないので、標準語発音で話しているのですが、やはり評判が悪いですね。なんだか冷たく聞こえるらしいですね。

そんなこともあるんですね。もっとも、私も同じ口かもしれません。私は埼玉県川越市という東京近郊の出身ですが、そこのもともとの言葉は、東京下町の言葉と若干似ていて、その変形したものです。私も小さいころは、その言葉を使っていたと記憶しているのですが、大学は東京に通い、そのあと韓国で日本語を教えながら標準語だけを使っているので、川越弁は全然出なくなってしまいました。

インターネットで「川越方言」か「川越弁」で検索すると、ほんのわずかの用例を、地元の有志が集めて公開していますが、それらの語に対する記憶もおぼろです。

川越の人にとって、標準語は、権威の象徴というよりは、自分たちの言葉よりも垢抜けた口調という程度の印象です。現に、川越でも川越弁を話す人はどんどん減っていて、標準語を話す人たちで占められて来たようです。去年の暮れに日本へ帰ったとき、両親の話す日本語も、もはや川越弁はほとんど出てこずに、テレビの言葉と同じ口調で私にも話していました。私が標準語で話すから、それにつられたのかもしれませんけど。

外国語学習の場合、私は手本に従うという主義なので、それが標準語か訛りがあるか考えるという批判的態度は取れません。まあたいていの教材は、標準語かそれに近い発音でしょう。しかし、英語のように、選択肢が大きく2種類ある場合は、やはり自分の好みにあった方を選ぶようです。その私の好みがイギリス英語になるわけです。

人によって好みは違うかもしれませんが、私の好みは、首都圏の言葉で、しかも中流の知識層で用いられている言葉というものです。韓国語ではこの態度を意識的に実行しています。これは、厳密には標準語ではなく、古い世代の人が“間違っている”と考える表現も、積極的に取り入れています。どこまで私の韓国語がソウル人になれるかが問題ですけれども。

To 氷雨 at 2004 05/27 15:25 編集 返信

RE:妙に気になってますけど

氷雨さんこんにちは、ijustatです。

>この前、”ラチがあかない”って表現について聞いたことありますけど
>それから妙に気になっています
>それに”ラチがあかない”が微妙に耳つけてしまった感じなので

>状況によると”しょうがない”または”効かない”の意味も
>含まれているようで困っています

そうですね。“しょうがない”と“埒が明かない”は、用法的に共通する部分があるようです。ただ、“効かない”ではなくて、“効果がない”の方が近いでしょう。“意味”ではなくて、あくまでも、用法の共通する表現です。その共通する表現を対照させることによって、その意味を浮き彫りにするというわけです。この原理は、翻訳辞典においても同じです。

>最近、ネイバー(www.naver.com)の日韓辞典を用いるより
>インフォシークの国語辞典を用いています
>もっとお小遣いに余裕があったら電子辞典一つ
>買おうとしてますけどちょっと高いので^^

韓国の電子辞典には“メトロ日韓・韓日辞典”が入っていますが、あの辞書はデタラメです。まあ、全部がデタラメというわけではなくて、とくに意味の把握に困難のある語に限ってデタラメになるということです。あれはいまさら買っても日本語の学習の助けにはなりません。むしろ、日本で出た電子辞書の国語辞典などを使うべきだと思いますが、高いものだから、インフォシークやヤフー・ジャパンなどの国語辞典を使った方が安上がりでいいでしょう。

いつも言うように、日韓辞典や韓日辞典などの翻訳辞典(または対訳辞典)でその意味に迫ろうというのは、道具を使い間違えています。そういうもので、正確な意味に迫ることはできません。日本語は日本語で、韓国語は韓国語だからです。氷雨さんの実力だったら、もうネイバーの辞書は卒業した方がいいと思います。

From 氷雨 To ijustat@chance at 2004 05/25 15:22 編集 返信

妙に気になってますけど

Ijustatさんこんにちわ 氷雨です

この前、”ラチがあかない”って表現について聞いたことありますけど
それから妙に気になっています
それに”ラチがあかない”が微妙に耳つけてしまった感じなので

状況によると”しょうがない”または”効かない”の意味も
含まれているようで困っています
もっとこの表現について研究する必要があると思います

最近、ネイバー(www.naver.com)の日韓辞典を用いるより
インフォシークの国語辞典を用いています
もっとお小遣いに余裕があったら電子辞典一つ
買おうとしてますけどちょっと高いので^^

ではでは

ちょっとしたエピソード

今この書き込みしていたら周りの人が
”おう!日本語!お前、使えるのではないか!”
ーうるっせ! 僕が何語で書き込もうが、僕の自由だろう?”

From Kuroneko( Mail ) To ijustat@chance at 2004 05/18 22:56 編集 返信

お久しぶりです!

こんばんは、お久しぶりです。

>>それで最近は、英国人の発音を真似ることにしました。英国の標準発音(と言えるかど
>>うかはわからないけれども)は、英国人にはあまり評判がよくないそうです。権威的だ
>>というわけです。しかし、日本語の標準語も、地方の人にはけっこう評判がよくないし
>>(私の田舎では、標準語との言葉の違いはほとんど意識されていませんが)、韓国語でも
>>標準語を話す男性を“鳥肌が立つ”と言って毛嫌いする人もけっこういます。だけれど
>>も、標準語というのは、その言語を代表する変種だから、やはり習うなら、そのような
>>代表的な言葉遣いを習いたいというのが、私の考えです。

僕は名古屋生まれで現在名古屋に住んでいるので本来ならバリバリの名古屋弁ネイティヴ(笑)のはずなのですが、大学入学から昨年の夏まで東京で暮らしていたので、発音は標準語です。それで、現在もまだ名古屋弁に戻らないので、標準語発音で話しているのですが、やはり評判が悪いですね。なんだか冷たく聞こえるらしいですね。日本の標準語はNHKなどのアナウンサーの発音などがモデルになるのかなって思いますが、多くの人にとっては東京圏で話されている言葉というイメージなのではないでしょうか。「首都の言葉」ということで「権威的」なイメージがあるのかもしれませんね。ドイツでも田舎では、標準語に役人の威張ったイメージを持つ人もいるそうです。

>>私が話したあと、父はそれに答えるのではなく、私が話したことと同じテーマで自分の
>>考えを話します。それで、もう少し正確に答えてもらうために言い方を修正して狭める
>>と、それに対して“お前は視野が狭い”と言いながら、またさっきと同じことを言います。

僕も同じような経験があります。日本では、弁証法的に対話する文化的地盤が無いですね。作家などの対談を読んでみても、あるテーマの周囲をぐるぐる周るだけで、核心をつかないことが多いですし、そもそも対談的な日本の対話というのは何かを議論する場ではなく、参加者が同じ事柄に関心があることを確認する場のような気がします。ですから、その場で仮に「フランス文化」なり「韓国文化」なりが語られ、論じられているようにみえても、議論以上に「フランス文化」「韓国文化」を互いに語り合う「仲間」であることを相互確証することに意味があるように感じます。その種の場では、ここで僕はアカデミックな場を想定しているのですが、ジャーゴンが頻繁に用いられるのも、相互確証を確かなものにするためではないのかな、と感じています。アカデミシャン(大学人以外も含めて)、特に人文系の方でいわゆる「オタク」を拒絶する方がいるのですが、僕が思うにオタクの語りはアカデミシャンの語りのカリカチュア以外の何物でもなく、アカデミシャンのオタクへの拒絶は一種の近親憎悪なのではないのではないか、とも思ったりします。

話が大きく脱線してしまいました。ただ、日本人が議論下手なのは、日本語という言語のせいなのだ、という意見になるのも少し違和感を覚えたりもします。英語教師などで、「英語は論理的だが、日本語はそうではない」なんて事を未だに言う人もいますが、それは違うのではないかと思います。ijustat様が書かれたように、日本語には「西洋語とはまた違った次元の、日本語が要求する論理の流れ」がありますし、また工夫をすれば日本語でも西洋語的なロジックを表現することが可能だとも思います。外国語を学ぶことによって、日本語の論理を知ることも出来るようにも思います。『外国語を身につけるための日本語レッスン』という本を紹介されていましたが、逆に「日本語を知るための外国語レッスン」ということもありえるかな、と考えたりしました。

さて、学習書について詳しく書いていただいて感謝しています。僕は今まで、学ぶにしろ、予備校で教えるにしろ、参考書や学習書を使う立場から見ていたので、ijustat様の学習書を作る立場の見方は新鮮でした。出版社としては「売れる」ことも考えなければいけないので、大変ですよね。骨太の参考書が減っているのも、そういう要素があるのでしょうね。

>>ひやあ、現代語でもそんな教材があるんですか。それは学習者が勉強し終わった後で、
>>その本の著者に恨みを抱くでしょうね。その『フランス語四週間』の著者は、古典ギリ
>>シャ語文法学習書の影響を受けていたのでしょう。でも、古典ギリシャ語だって、やっ
>>ぱりそういう形態的な難易度でシラバスを決めていくのは、学習者にかなりの欲求不満
>>を起させる、つまり、同じ文法機能で他の高頻度の動詞を使ってみたいという欲求を挫
>>折させる、方法だからです。

『フランス語四週間』の著者は戦前の方なのですが、旧版の『イタリー語四週間』も執筆されていて、多分、ロマンス語派全般に詳しい方なので、古典語にも詳しいのではないか、と思います。それで多分、ijustat様が書かれたように古典語の文法書の影響を受けているのかもしれませんね。

韓国では英語の次に日本語と中国語が多いのですか。日本でも韓国語と中国語の教材は独・仏と並ぶぐらい多くの参考書が書店に置いてあります。韓国でコイネー・ギリシア語とラテン語が多いのは、ijustat様が書かれているように、日本よりもキリスト教を信仰している方が多いからですね。「古典ギリシャ語も現代ギリシャ語も教材は皆無なのに、」というう事は韓国ではコイネーが中心で、アッティカ方言のいわゆる古典ギリシア語の参考書がないということですか。ただ古典語に関しては、日本でも手薄ですよね。需要が無いから、仕方が無いのでしょうね。

>>全体的には、ソウルと東京を比較すると、東京の方がいろいろな外国語を勉強できると
>>思います。韓国で出ている外国語の教材は、日本でも出ているし、韓国にない言語も、
>>日本では教材があるからです。また、東京は古書店が多く、そこで、絶版になった学習
>>書も手に入れることができます。ソウルには古本屋がわずかしかないので、いい古本と
>>の出会いは、ほとんど百パーセント運命に任されています。

僕も去年の夏まで10年程、東京に住んでいたのですが、ほんとに東京にいるとマイナーな言語の書籍も入手しやすいですし、語学学校もたくさんありますし、外国語を学ぶ点では東京(圏)在住というのは有利だと思います。僕はアテネ・フランセに通っていましたけど、アテネのような質の高い授業を提供している学校も地方には少ないのが現状ですし。

あと、ソウルに古本屋が少ないというのは初耳でした。古本との出会いが少ないのは、辛いところですね。古本屋に関しては、今、僕が住んでいる名古屋市でも結構たくさんあるようです。マメに古本屋を巡れば、面白い本に出会えるかもしれません。ただ語学書はあまり古本屋さんでも見かけないような気もします。辞書は結構、あるのですが。

あっ、『外国語の水曜日』は届きましたか? 面白く読んでいただければいいのですが、、、?
それでは、また。

To 氷雨 at 2004 05/13 02:01 編集 返信

RE:五ヶ国語計画

氷雨さんこんにちは。ijustatです。

>例の五ヶ国語計画は韓国語含みです(残念ながら)
>韓国語を抜きにして五ヶ国語と言ったら
>英語、日本語、ドイツ語、中国語、
>あとスペイン語またはフランス語になるのかなと思っています
>けど一応上記の四ヶ国以外に集中するつもりです
>まだ英語すら上手ではないんですけど
>がんばりますから

そうか、氷雨さんの母語である韓国語も含めての“五ヶ国語”だったんですね。

ところで、私は氷雨さんは英語が得意だと思いますが、得意でないと思われるなら、こんな話があります。

『語学で身を立てる』という本に書いてあるんですが、英語だけを勉強する人よりも、ドイツ語やフランス語などのほかの西洋語を勉強した人の方が、英語が正確に使えるようになるのだそうです。

その理由は、英語だけを勉強していると、格の概念がいつまでたっても曖昧なままで、なかなか正確に使えない場合が多いそうです。しかし、ドイツ語やフランス語を勉強すると、英語の根底を流れる、その格の概念が、形式的にはっきりと現れているため、それらの言語を学ぶうちに、格の概念がしっかりしてくるということです。それに、英語と同じような発想、同語源の語彙などが多く、結果として、そういう外国語を身に付けたあとで、英語を学びなおすと、より深い理解ができるようになるというのが、その本の主張です。

だから、結論を言えば、“英語もまだ身に付かないのにドイツ語を勉強する”と考えるのではなく、“英語をしっかり身に付けるためにドイツ語を勉強する”と考えた方がいいということになります。私もその結論を支持します。

ときどき、第二外国語を学ぶことに後ろめたさを感じる人がいるので、決してそうではないということを、ここで強調しておきたいと思いました。

頑張ってください。

From 氷雨 To ijustat@chance at 2004 05/13 12:58 編集 返信

五ヶ国語計画

Ijustatさん こんにちわ 氷雨です
例の五ヶ国語計画は韓国語含みです(残念ながら)
韓国語を抜きにして五ヶ国語と言ったら
英語、日本語、ドイツ語、中国語、
あとスペイン語またはフランス語になるのかなと思っています
けど一応上記の四ヶ国に集中するつもりです
まだ英語すら上手ではないんですけど
がんばりますから

ではでは

To Kuroneko at 2004 05/08 14:20 編集 返信

RE:学習書と学習法と

Kuroneko様、こんにちは。

> ところで、非専門家による学習書は英語では多いですね。ここ数年は韓国で出版された日専門家による学習書の翻訳を見かけたりします。日韓とも事情はよく似ていますね。日本だと、受験参考書のかなりの数が厳密には「非専門家」によるものです。ほとんどの受験参考書の筆者は予備校講師なのですが、予備校講師の中には大学などで言語学(英語学)や外国語教授法を専攻してない人も多いので、その意味では非専門家です。ただ、教えるという面では「プロ」なので、昔の英語参考書と比べると、分りやすい出来になっています。

ああ、私は“プロ”も専門家に入れて考えていました。でも、おっしゃるとおり、正真正銘の専門家というのは、専門的な訓練を受けた人のことですよね。まあ、言語学を学んでいないプロは、言葉の説明について、かなり無理のある、その場限りの解説をしてしまうことがよくありますが、それでもやはり大枠においては、学習者が身に付けやすいように指導する技法を身に付けていると思います。

> さて、ijustat様が書かれたように、昔の参考書と今のものの良い点を併せた参考書があるとよいですね。スキット中心で中性的で品のある言葉遣いを用いるなどの構成は良いと思います。確かに例文を覚える時に不安になるのが、「この例文はフォーマルなのか、インフォーマルなのか?」という点ですし。

そうなんです。でも、教材によっては、生き生きした会話にしようとするあまり、かなり偏りのある言葉遣いをしてしまうことがあります。社会人でないことが如実に分かるような表現を使った教材も、見かけたことがあります。

> 外国文和訳ですが、最近、かなり評価が低いですよね。文法や言語のメカニズムを意識化して考える良いトレーニングになると、僕は考えているんですが…。

私も、これは捨てられない方法だと思います。たぶんこれが不評なわけは、ネイティブスピーカーの教師の場合、日本語がよほどできないと、指導できないということがあるからだと思います。また、一つの教室に言語的背景の違う学生が来るのが普通という、一般の教室においては、和訳のような方法は不可能です。だから、言語教育について研究している先生たちは、そのような、自分にはとうていできない方法については、あまり考えたくないのだと思います。でも、確かに言えているのは、翻訳に始終するような学習では、伸びは期待できないということです。(あれ、私は関口存男氏と同じことを言っていますね。(笑))

> あと自分が作文に使うことの出来る語彙・文法・構文は、読む際に必ず理解できるものになるので、読解力の基礎を養う上でも大事だと思います。

作文は、実力を伸ばすと思います。ただし、やみくもな作文では変な癖をつけてしまう可能性もあるでしょう。やはり、モデルになる例文を覚え、それと関連するような内容で作文をし、ネイティブかそれに準ずるような先生に直してもらう必要があるでしょう。それができない場合は、せめて正解の付いている教材で勉強したいですね。

> 学習に読解をどのように取り入れるかという点ですが、もし2巻本の入門書なら、1冊目がNHKラジオ講座のような会話中心(+口語文法・日常語彙)、2冊目で読物を軸に文章語の文法を語彙の強化とともに学んでいく、といった構成もいいなぁ、と思いました。こうするととりあえず日常会話レベルのみをしっかりと見につけたい方は1冊目のみを学習すればよいし、それ以上を目指す方は2冊目も学べばよいですし。

そうですね。これは学習者にとってはけっこう親切な構成といえます。ただ、印税でちょっと儲けたいと思う著者と、なるべく売れるようにしたいと思う出版社は、そういうものはあまり好まないでしょう。なぜなら、2冊目は1冊目の半分も売れないからです。だから、著者も出版社も、あまり厚くない1冊で、初級の全てを一応カバーしてしまいたいと思うことが多いです。

ただし、出版社は、もう一方では、そういう本もほしいと思っています。なぜなら、入門だけがあって、その上の学習書がない場合、出版社自体の印象が貧弱になる可能性があるからです。著者にしてみても、売れそうな入門書ばかりを書いていると、欲求不満が募ってきます。それで、あまり売れなくてもいいから、もう少し踏み込んだ教材を作りたいと思う人はいるはずです(たいていは、売れると観測して書いていますが)。ちょっと関係ないことを書いてしまいましたね。(汗)

> 『フランス語四週間』は何故か動詞の全時制と法の学習がすんだ後(第3週目)に、重要不規則動詞を一気に教えるといった構成になっています。多分、筆者は不規則動詞で挫折する前に、動詞の全用法を教えてしまおうと考えたのだと、僕は推測しているのですが、少し無理のある構成だと思います。

ひやあ、現代語でもそんな教材があるんですか。それは学習者が勉強し終わった後で、その本の著者に恨みを抱くでしょうね。その『フランス語四週間』の著者は、古典ギリシャ語文法学習書の影響を受けていたのでしょう。でも、古典ギリシャ語だって、やっぱりそういう形態的な難易度でシラバスを決めていくのは、学習者にかなりの欲求不満を起させる、つまり、同じ文法機能で他の高頻度の動詞を使ってみたいという欲求を挫折させる、方法だからです。

> さて、話は変わりますが、ijustat様の学習法も参考になりました。ijustat様は音読を繰り返しているうちに、暗記してしまうという方式なんですね。僕は最初に強制的に覚えてしまってから、忘れないように音読を繰り返すというやり方です。僕の場合、集中が足りないせいか何度音読してもはっきりと記憶できないことが多いので、最初に暗記して、それから反復音読という方法にしました。暗記の仕方は人それぞれですね。

音読をするばあい、まず最初にテキストを理解するために、様々な分析を試みます。野口悠紀雄氏の批判する分析法で、そのテキストの内容を考えるわけです。それから、ゆっくりと、一つ一つの音をはっきり発音しながら音読します。さらりと読むと、記憶に残らないだけでなく、口でも覚えてくれないからです。ただし、はっきりというのは、日本語のようにではなく、あくまでもその言語の――私の場合なら、ギリシャ語の――リズムの中でのことです。ギリシャ語をよく知らない人が聞いたら、私は雑に発音しているように聞こえるかもしれません(笑)。慣れたら、速度を上げます。録音教材は、部分的には日本人にはかなり困難な速度の部分もありますが、それについていけるまで練習します。そうやってなめらかに口が動くようになると、そのテキストは覚えやすくなります。

> 韓国の外国語学習書の出版状況はどのようなものなのでしょうか? 日本だと英語をのぞけば仏・独が充実しているように感じます。最近は中国語(広東語・上海語なども含む)や韓国語もかなり出版されているようです。アジア・アフリカ言語やヨーロッパでもスラヴ系の言語などはあまり出版されていませんが、それでもかなりの数の言語が日本語で学べるような気がします。白水社のエキスプレス・シリーズの貢献度も高いです。その点、韓国ではどうなのでしょうか?

エキスプレス・シリーズの翻案ものが、韓国でも出ています。たぶん海賊版だと思います。白水社の名前がどこにも書いてないからです。私はこういうのを見ると、非常に腹立たしいのですが、それでも1冊買って持っています。

韓国の外国語教材は、キョボ文庫とヨンプン文庫で見る限り、英語が圧倒的に多く、次に日本語と中国語です。以前は日本語でしたが、最近は中国語がずいぶん追い上げていて、私の目には宝のような学習書が、たくさん出ています。その次に多いのは、フランス語とドイツ語で、どちらかといえば、フランス語の方が多いようです。そして、スペイン語とロシア語。そして、コイネー・ギリシャ語とヘブライ語、それからラテン語。そして、その他もろもろの外国語。

古典ギリシャ語も現代ギリシャ語も教材は皆無なのに、なぜコイネー・ギリシャ語かというと、韓国は神学大学が多く、そこの学生が授業で聖書ギリシャ語を学ぶからです。でもほとんどの神学生は、授業で単位をとった後、勉強をやめてしまい、数ヵ月後にはせっかく身に付けた文法も、すっかり忘れてしまいます。本当にもったいないことです。ラテン語は、カトリックの神学校で必要なんだと思います。それで、韓国にはけっこうしっかりした羅韓辞典もあります。

全体的には、ソウルと東京を比較すると、東京の方がいろいろな外国語を勉強できると思います。韓国で出ている外国語の教材は、日本でも出ているし、韓国にない言語も、日本では教材があるからです。また、東京は古書店が多く、そこで、絶版になった学習書も手に入れることができます。ソウルには古本屋がわずかしかないので、いい古本との出会いは、ほとんど百パーセント運命に任されています。

> 最後になりますが、黒田龍之介『外国語の水曜日―学習法としての言語学入門』(現代書館,2000)という本を読んだのですが、結構面白かったです。アマゾンなのでも評判の良い本みたいですが、ijustat様はご存知でしたか?

いいえ、知りませんでした。さっそく水曜日に、キョボ文庫へ行って注文してきました。絶版になっていなければいいなあと思います。

To Kuroneko at 2004 05/08 03:25 編集 返信

RE:英語、徒然雑談

Kuroneko様、こんにちは。ijustatです。

> ふと見ると新品同然の『基礎英語』(塩谷栄・安藤昭一,大学書林,1967)があったので、手にとって見ると、これが発音を非常に重視した作りになっていました。

> 文法項目としては中3初級程度(?)で、時制で言えば現在形から現在完了形まで扱っています。構文的には単文のみなので、接続詞や関係詞は出てきません。その代りABCの読み方から始まって、懇切丁寧に個々の単語の発音・アクセント、センテンスの抑揚のつけ方などが図や記号を使って説明してあります。ほとんどすべての文に発音記号がついています。

いやあ、やっぱりあるんですね。ほとんどすべての文に発音記号が付いているという点がすごいです。中3初級程度までの英語でも、大学書林の本だったら、かなり本格的ではないかと思います。いかがでしょうか。

> 著者自身、第一講で「英語に限らず何の国語でも同じですが、その本体は文字にあるのではなく音にあるのです。(中略)ですから、発音ということがとても大事なことで、これがよく出来なければそのことばは学べたとは言えないのです。」(p.2)、と述べています。定価が1236円で、1500円の別売りテープがあります。大学書林の本にしては安いですね。

やっぱり同じことを考える人はいるんですね(^^)。英語の発音に関しては、最近よく目にするのは、あまり英米人の真似をしないように、とか、あまり真似をしなくてもいいというように、否定的な意見が中心になっています。私はそれに対して、外国語を発音するときは、本国人の発音を忠実に真似るということを原則にしています。英語だけ例外にするのは、ちょっと変です。それで最近は、英国人の発音を真似ることにしました。英国の標準発音(と言えるかどうかはわからないけれども)は、英国人にはあまり評判がよくないそうです。権威的だというわけです。しかし、日本語の標準語も、地方の人にはけっこう評判がよくないし(私の田舎では、標準語との言葉の違いはほとんど意識されていませんが)、韓国語でも標準語を話す男性を“鳥肌が立つ”と言って毛嫌いする人もけっこういます。だけれども、標準語というのは、その言語を代表する変種だから、やはり習うなら、そのような代表的な言葉遣いを習いたいというのが、私の考えです。

> 英語の参考書の中で、読解参考書の占める割合は会話とならんで高いように感じますが、これは受験における読解問題重視のためだけでなく、日本人が英語を学ぶ際にその統語構造の把握に苦労していることも理由なのではないか、と思います。

そうですね。英語の統語構造を把握するのは、難しいことです。『英文標準問題精講』を読みながら、へえ、こんな風にかかるのかと、驚くこともあります。その構造に驚くとともに、それを読み取る著者に対する驚きも感じます。

英語に慣れた人は、特に何も感じないでしょうけれども、慣れていない人にとっては、それぞれの単語に明記されていない統語構造を把握するのは、読解中にある種の精神的緊張を伴っているのではないかと思います。(現代)ギリシャ語は、私にとってまだ難しい言語ですけれども、それでも名詞と形容詞、そして定冠詞の格と数と性の一致によって、それぞれの“島”のような意味の塊がしっかりと出来上がっているのが目に見えるので、統語構造の把握は英語よりも楽に違いないと思います。

ところで、韓国語は日本語と統語構造が似ているだけでなく、連体形が終止形とははっきり違った形を持っているので、文が少し長くなっても、あまり読みにくいと感じません。日本語は連体形が終止形と同じ形をしているので混乱することがありますが、その部分において、韓国語では、すんなりと目が通過すると同時に理解できるのです。こんな点を見ても、形態的に細かさが増せば、その分理解の助けになる部分が増えるようです。

> もし高校最初の授業で、日英の思考を対比させながら文型を説明してくれたなら……、英語の落ちこぼれにならなかったのかなって都合のよいこと事を考えたりもします(^^; ですが…、やっぱり難しいとも思います、その違いを教えるのは。

そうですね。違いをしっかり把握するのは難しいと思います。文法も違うし、語彙体系も違うし、また、対話の枠組みも違うからです。その点、韓国人は日本人と似た点が多いと思いますが、それでもやはり、対話の枠組みという点では、自分の態度をはっきり表明できないと、ただのお人好しになってしまうというところに、日本語との違いがあると思います。

そういう中で暮らしていながら日本に帰り、父と会話をすると、本当に当惑するし、時にはイライラするし、また暗澹とした気分になることもあります。私が話したあと、父はそれに答えるのではなく、私が話したことと同じテーマで自分の考えを話します。それで、もう少し正確に答えてもらうために言い方を修正して狭めると、それに対して“お前は視野が狭い”と言いながら、またさっきと同じことを言います。自分は昔、こんな言語環境の中にずっといたんだなあと思うと、遠くへ来てしまったという思いだけでなく、自分が自分自身からも遠くなってしまったのかもしれないという感じがします。

つい先日、『外国語を身につけるための日本語レッスン』(三森ゆりか著、白水社)という本を買ったのですが、ここに、私が感じていたのと似たことが書いてありました。まだ3分の2くらいまで読んだところなのですが、外国語を身につけるためには、日本語で論理的な表現ができるように若干の訓練をする必要があるということが、この本のメッセージのようです。韓国は欧米ほど対話に論理性を求めないし、私自身もこの本で言っているように論理的に整理して話しているわけではありませんが、それでも、相手の言葉にきちんと答えていなければ、“変な人”と思われるだろうし、自分の意見を言うときに、理由を言わなければ、“偏屈”だと思われかねない雰囲気があります。これは、昔の韓国人とはずいぶん違う性質だと思います。アメリカ式教育の影響で、こうなったのかもしれません。この本を読みながら、そんなことを考えました。

もっとも、日本語を教えていると、日本語には日本語自体のかなり厳密な論理性を要求するところがあるのに気付かされます。それを満たさないと、やはり伝達機能が損なわれるようです。おとといも、授業中そんな用例が出てきたのですが、メモをしなかったら忘れてしまいました。日本語の論理性は、この本で紹介されている西洋式の論理性とはまた違った性質を持っています。たとえば、西洋語では主語が必須ですが、日本語では主語を全ての節(または文)に入れると、くどいだけでなく、流れの何かが壊れてしまうような気がします。だから、主語をはっきり意識するためとはいっても、日本語に主語を入れて話す練習は、する気にもなりません。もし主語を意識する練習が必要なら、英語でやりたいと思います。

『外国語を身につけるための日本語レッスン』という本について、ちょっと批判めいたことを書きましたけれど、それは私の立場で、実際はこの本は名著だと思います。主語をいちいち入れるというのは、英語で言えば、全ての名詞と形容詞に格の語尾を付けて話す練習をするようなものなので、私は気に入らないのです。その練習自体は、人によってはやってみる価値のあることだと思います。それに、この本は、論理的に粗雑な言語生活を送っている人に対しては、啓蒙書にもなると思います。でも、そういう人は、こういう本を読もうとしないでしょうね。(笑)

この本を読んで、言葉の論理性というものに触発されたので、西洋語とはまた違った次元の、日本語が要求する論理の流れについて、今後少し関心を持っていきたいなあと思います。