翻訳


翻訳は、外国語で描かれた世界に日本語で立ち向かうことだ。外国語には、日本語では表現しないさまざまな概念やイメージがある。日本語にない味わいがある。それに対して日本語で立ち向かうのだ。

翻訳をする人たちは、自分が原文に不忠実で不正確な訳をしたいとは思わないだろう。しかし、言語には、言語記号があり、意味内容がある。その関係が恣意的である分、言語ごとに言語記号と意味内容との関係がまちまちだ。これは、言語記号に合わせた訳を追求すると、意味内容がずれを起こし、意味内容に合わせた訳を追求すると、言語記号がずれを起こすことを意味する。両者を同時に追求した欲張りな翻訳は、哲学の分野などで見られるが、それは日本語と呼ぶにはちょっとお粗末な代物だ。

さて、翻訳をするときには、まずその文章にざっと目を通してどんな内容なのかを把握し、それがどんな文体で書かれているのかも知っておく必要がある。それは、その文章をどんな文体で訳すかを決める重要な手がかりになる。それから、訳すときは、センテンスごとにその意味を吟味し、自分の吟味した内容に忠実に日本語で再現する。これが、意味内容に忠実に訳すということだ。

単語一つ一つにもこだわる必要がある。しかしそのこだわり方は、必ず全体の流れの中でその単語がどういう働きをしているのかという点で追求する。だから、単語にこだわることが、翻訳においてその単語に該当する日本語を正確に置き換えるということにはならない。原文の単語の現れ方は、翻訳では、全く無関係に見えるような形になることがよくある。それが、意味内容に忠実に訳すということだ。

意味内容に忠実に訳すというのは、言語記号に忠実に訳すより難しい。なぜなら、外国語のニュアンスまで十分に把握できるほどの強靱な読解力が、私たちにない場合が多いからだ。また、その意味内容を十全に理解できたとして、それを適切な日本語で再現できる豊かな表現力に乏しい場合も多い。

だったら、言語記号に忠実に訳した方がいいか。そうだとはいえない。意味というのは、言葉が伝えようとする究極の目的だ。言語記号はそのための道具に過ぎない。言語記号を全面に押し出す翻訳は、目的を無視して道具を振り回す結果になることが多い。やはり、意味内容に忠実に訳すことを求めざるを得ない。

翻訳する人は、2つのことを同時に求めなければならない。一つは、外国語の読解力をつけることだ。これは、辞書なしで文意を理解できるという程度のレベルを求めるのではなく(もちろん、細部にわたる正確な理解のためには、辞書との縁はいつまでも切れない)、語の細やかなニュアンスまで分ることを求めるのだ。もう一つは、日本語の表現力を高めることだ。

外国語のニュアンスを身につけるには、その外国語でたくさんの本を読むことだ。精読よりも濫読の方が効果がある。また、日本語の表現力をつけるためには、古今の文学作品だけでなく、戯曲や映画などの台本、新聞や雑誌、ちらし、インターネットの掲示板やチャットなども読み、いろいろな人がしゃべるそのいろいろな話し方に注意を傾けて聞く必要がある。そして、読んでいるだけでなく、自分でもあれこれ書いてみたり、訳してみたりする。自分が書いたものを自分で検討する。その繰り返しによって、徐々に表現力は付いてくる。

急場をしのぐためには、道具を用いる。英語なら英英辞典、韓国語なら國語辭典を用いる。韓国語には『延世韓国語辞典』(斗山東亜、ソウル)というすぐれものがある。英語は苦手なのでよく分らないが、コリンズのCOBUILD英英辞典はすごいと思う。

日本語に関しては、次の2つの側面から道具を活用する必要がある。それは、類義語の中から適切なものを選べる辞書と、ある単語と共起しやすい語を見つけられる辞書だ。前者の類義語辞典はいろいろあるが、後者の辞書は、『文章プロのための日本語表現活用辞典』(明治書院)が、私が知る唯一の辞書だ。

言葉には、パラディグマティック(並列的)な関係と、シンタグマティック(直列的)な関係がある。類義語辞典は、パラディグマティックな面の不足を満たす辞書で、活用辞典(またはコロケーション辞典)は、シンタグマティックな面の不足を満たす辞書だ。特に翻訳をする場合、外国語での単語と単語の結びつきが、日本語のそれと違うために、外国語に引きずられて日本語の単語と単語の結びつきがおかしくなってしまうことが多い。訳す人自身も外国語に影響されて、うまい日本語が思い付かずに苦しむ。そんなときに、類義語辞典はあまり助けにならないことが多い。それよりは、活用辞典に当たった方が、ことは解決しやすい。

ところで、キリスト教の書籍や資料を訳す人は、これとは別の注意が必要だ。なぜなら、キリスト教関係の文章は、聖書からの引用や、聖書に影響された言い回しで満ちているからだ。それは、その外国語のニュアンスで読み取るだけでは無理があることが多い。その理由は、それらの表現のもとになる聖書の語句が、ヘブライ語とギリシャ語で書かれたものだからだ。

本来、ヘブライ語とギリシャ語をマスターした上で、キリスト教の文章を読みながら、それが聖書のどの語を訳した言葉だということを把握しながら読めれば、聖書とのつながりの緊密な訳ができるだろう。これは理想的な翻訳者だ。しかし、それはとても難しいことだ。

この問題を解決する方法がある。それは、文章を読みながら、これは聖書からの引用らしいと感じた語句は、聖書のコンコルダンスで探すのだ。そして、聖書にその語があったら、いちばん近い文脈で用いられている用例を探す。そして、その用例のある聖書箇所を突き止めたら、日本語の聖書で該当箇所を探し、そこで用いられている言い回しを翻訳に当てる。そうすれば、どう訳すべきかということで葛藤する必要がない。

聖書の言い回しは、それが人気を得てよく使われるようになると、聖書の文脈を維持しながらも、一人歩きする傾向がある。それをそのままその外国語のニュアンスに基づいて訳すと、さらに聖書での意味から遠ざかってしまう可能性がある。上の方法は、それを妨げてくれる。もちろん、聖書の原語を知っていれば、日本語聖書の訳語にこだわらなくても、聖書の原文を念頭においた訳ができるようになる。私は、新約聖書に関しては、かろうじてそれが体験できるが、旧約聖書に関しては、コンコルダンスに頼るほかない。いずれヘブライ語も分るようになりたい。

また、翻訳していると、原文に駄洒落が出てくることがよくある。駄洒落を訳さなければならないのは、本当に頭が痛い。内容上本質的でないからといって、無下に切り捨てていいというものでもない。それは、その文章のあり方に関わる場合が多いからだ。そういうものの訳については、柳瀬尚紀『翻訳はいかにすべきか』(岩波新書)が大いに役に立つ。なんだか私は本の宣伝ばかりしているみたいだ。しかし、この本は有益だ。