語彙量と思考力


以下の文は、ライコスクラブに書き込んだものです。

252   語彙量と思考力
2001/01/15 02:24:07  ijustat  (参照数 11) << 前へ-次へ >>
今さっき、mickjeさんのHPに行ってきました。なかなか迫力のあるページです。「曖昧な正確性」は、目からうろこが落ちるような思いがしました。

日本語教師の役目の一つに、実際に使われている日本語の意味を説明するというのがあります。それは、複雑な日本語の規則を、実際に使われている言葉や文章の中から見つけだし、学習者にとって曖昧に感じられるものを明瞭な姿で提示してあげるというものです。

そうやって見てみると、巷で曖昧と言われる日本語にも、実際に曖昧な点は、そうめったにあるものではありません。実際、日本人にとっても曖昧な表現は、日本人同士の間でも“あの人の言うことは曖昧でよく分からない”と言われている点を見ると、日本語が本質的に曖昧なわけではないことが分かります。

なお、明瞭だといわれる外国語にも曖昧な点はあるし、その曖昧さを持ち味にしている文章もある。しかし、それは、あくまでも話の筋を狂わせない限りのことで、それは、日本語でも同じ事です。

まァ、確かに、英語の明瞭さは、目から鼻に抜けるような鮮やかさがありますが、日本語は、一つの概念の枠の中に、分野や状況に応じて使い分ける多様な言葉があってそれを使い分けなければならないために、鮮やかには見えないけれども、それぞれの意味をしっかりと認識できるなら、論理的で明晰な表現も不可能ではないというのが私の考えです。

ところで、「鈍化する思考力」は、多くの知識人が指摘するところですが、私は必ずしも同意はしません。それは、たとえば、点検、検査、照合・・・などを、英語では“チェック”一言で済ませるが、漢語を捨ててそういう大まかな言葉を採用するのは、言葉の切れ味を鈍くするというものです。

私は、この考えには同意できません。むしろ、分野ごとに頭が切れ替わってしまって、その共通する性質が見えなくなっているために、かえって切れ味が鈍くなっているというのが、私の考えです。漢語を使って切れ味のいい思考を身につけるためには、漢字一字一字の意味を明確に把握する必要があるし、また、使われる用語一つ一つの意味概念を分析できる能力が必要だと思いますが、それができる人が、どれだけいるでしょうか。

現に、優れて分析的で、切れ味のいい哲学(科学?)は、英語と同じく同じ単語をあれこれ使い回すギリシャ語に始まりました。語彙が恐ろしく豊富に用いられる漢文も、実はたいへん明晰にできるのですが、科学の発展は遅れました。これは、その言語の責任というよりは、使う人たちの考え方や価値観の問題でしょう。

使用する語彙が増えたら思考は鋭利さを増すか。否です。珍しい単語をむやみに振り回す人は、その言葉の織り成す色彩に酔って、明晰さがおざなりになってしまう傾向があります。

しかし、語彙が貧弱だと、思考も、感情も、貧弱になりがちなことは確かです。私たちは、まずは明晰に考え、明晰に表現することを目標にすることが大事で、そのために、必要ならば語彙を増強する(必要なことが多い)。それは、いたずらにいくつもの単語で別々に表現されていたものの共通点を見出していくことでもあります。

私は、mickjeさんが憂えておられる「チェック」という単語の出現を、好ましい現象として歓迎しています。でも、これが和語でできればもっと良かったと思っています。和語では「確かめる」がありますが、むしろ、上に挙げたいくつもの漢語は、「確かめ」という、ちと熟さない名詞形で一括すればよかったはずです。

日本人は、残念なことに、長い歴史の中で、和語を用いて論理的な思考をするのを怠ってきました。そういう難しいことは、知識人たちが、漢語を用いて行ってきた。和語はもっぱら情意的、感性的な言葉として磨かれてきました。

ギリシャで哲学が発達し、ドイツも哲学の中心的な国となり、インドでは極度に抽象的な思考が発達して仏教のようなきわめて透徹した哲学が生じたのも、それが、いわゆる“和語”のような単語を駆使してものを考えられたからではないかと思います。

去年、延世大学の大学院で経典を読む授業に潜り込んだことがありますが(登録しないで授業を受けるのを韓国では「トガン(=盗講)」といいます)、その時先生が、仏陀のブッという部分と、菩提のボッという部分は、共に“理解する”という語幹が用いられていると説明してくれました。

それを聞いた瞬間、衝撃的に“悟り”を開きました(爆)。私たち東洋人にとって、漢文の仏典は言葉が難しいために“深奥な”感じを与えるものですが、サンスクリット語(パーリ語?)を話すインド人にとっては、それらの用語は、きわめて明瞭なものだった(にちがいない)ということです。考えてみれば、釈迦の説教を聞いていたのは、さまざまな階層です。教育を受けていない人たちもそこにはいた。それが、あれだけ深奥な哲学を聞いて分かったということは、それが論理的でわかりやすかったということだと思います。あまりに語彙が豊富では、教育を受けていない人たちには理解できません。

ここで、日本語に戻りますが、論理的に木目細かな思考をしようとすると、日本語の場合は語彙を多用することになります。しかも、日常語とはかけ離れた単語をたくさん使わなければなりません。そうすると、教育を受けていない人には大変難しく聞こえるし、使う単語が日常語とつながらないから、暇なことを考えているように聞こえる。

日本語でも明晰に言葉を使い分け、深い哲学的思考をすることはできます。しかし、それに用いる語彙は、日常語と多少なりともかけ離れている。語彙がかけ離れているから、その断絶は著しい。それが日本人にかなり大きな損害を与えているに違いないというのが、私の密かな考えです。

というふうに、まるでmickjeさんと真っ向から対立するように書いたのですが、それは、ニュアンスの問題で、実は、語彙力が必要だという大筋の意見には賛成です。しかし、ある言葉の意味が広いということが、その言葉が曖昧だという証拠にならないばかりか、むしろ、目から鼻に抜けるような論理的明晰さの助けになるのだというのが、私の意見です。日本語は、そういう語彙を増やしていく必要があると思うのですが、さて、誰にそんな大それた事ができるでしょうか。

・・・と、ここまで書いて、あのホームページがmickjeさんのものではなさそうだということに気づきました。私は、ひょっとして、偉い先生に楯突いているのかもしれない。でも、相手が偉い先生でも、この考えは変えられない。とまあ、青臭くて生意気な私をどうぞみなさん、大目に見てください。

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