対訳(その2)


『おじさん、語学する』に、対訳の原理を利用した読書法が紹介されている。これは、単語を増やすための方法としての読書だが、その内容を引用するとこうだ。重要だと思うところに下線を引いておこう。

 単語をどうやって増やすか。そのとき以前読んだ加藤周一の『読書術』(岩波書店 一九九三)の一節が頭に浮かんだ。たしか対訳とか翻訳を使うやり方が書いてあったはずだ。本棚から探して開いてみるとこう書いてある。加藤周一の高等学校時代、小林秀雄がやってきて講演したという。
外国語の本を読むのにも、一日一冊を片づけられる程度の速さがなければ、そもそも外国語の知識というものは使い物にならない……。どうすればそういう速さで外国語の本を読むことができるか。教室で読むように、ていねいな読み方をしていたのでは、らちがあかないでしょう。翻訳のある小説を買ってきて、原書を右手におき、翻訳書を左手において、左の翻訳書を一ページ読んでから、右の原書の一ページを読む字引きは使わないわからないところはとばす――そういうやり方で一日一冊を読んで一年に及べば、おのずから翻訳なしに外国語の本を一日一冊片づける習慣がつく。おのずからその要領をつかむこともできるようになるだろうというのです。私はその方法を実行してみました。
 なるほど! しかし、林家は凡人だから、この手の忠告は割り引いて受け取ることにしていた。…(中略)…天才や秀才は、凡人が苦しむ難所をこともなげにこなしてしまうから、凡器の悩みを理解して伸ばしてやるような助言ができるとは限らない。
 しかし、翻訳を一ページ読んで内容や単語をつかみ、そのページをフランス語でなぞるなら、たしかに辞書は引かないですむだろう。だが、凡人は、それで一日一冊読むほどの根気やスタミナまで持ち合わせていない。フランス語をなぞるのだってけっこう面倒だ。…(中略)…秀才や天才は、一日一冊というが、凡人は半月か一月に一冊でたくさんだ。
(塩田勉『おじさん、語学する』集英社新書、p.135-138)

ここでいちばん重要だと思うポイントは、翻訳をまず読んでから、原文を読むという点だ。こういうやり方は“邪道”だという認識を、学生のころを通して、私は植え付けられて来た。それが、先生からだったか、本からだったかは、思い出せない。たぶん、両方からだったのだろう。多くの人が、私と同じ認識を植え付けられているにちがいない。しかし、それと全く対照的なアドバイスを、天下の知識人、小林秀雄がしているのだ。

小林秀雄の方法が有効である理由について、同書に、次のように書いてある。

 辞書を引き引き自力で読めば、曖昧で分らないところが累積し、嫌になって投げ出したに違いないフランス語の本を、曲がりなりに読了できたのは、翻訳と朗読テープを併用したアイディアの勝利である。訳本を見るなんて楽勝学生の邪道だ、そんな楽をして語学などできるものか、と信じ込まされてきたが、さにあらず、まず聴くことが大切で、単語はどんどん訳を見て何度も触れていくのが正解だったのである。
(塩田勉『おじさん、語学する』集英社新書、p.145)

私はこの学習方法を、読解力を身につける優れた近道として、一目置いてみたいと思う。なぜなら、外国語の読解力として、意味が理解できる状態でたくさんの文章を読むことは、大変なプラスになるからだ。

ただし、意味が全く理解できない状態では、いくらたくさんの外国語に触れても無駄だ。私は学生の頃、アルバイトでたくさんの英文の書類をワープロに入力していたが、英語の読解力は上達しなかった。英語のスペルはずいぶん覚えたが、書類に何が書かれているのか理解できるようにはならなかった。英文を辞書なしで理解できるほどの読解力がなかったからだ。

しかし、それと対照的に、韓国語の方は、辞書を引かなくても一応文脈は理解できるようになった頃、私は韓国の雑誌の記事や、小説や随筆集などを、けっこう読んだ。主に電車の中で読んでいたので、辞書はめったに引けない。それでも、その韓国語を読みつづける時期を通して、読解力をかなり伸ばすことができた。同じ目を通すのでも、このように、理解できないのとできるのとでは、その効果は雲泥の差になる。

つまり、こういうことだ。文章を読みながら、意味を知らない単語がひとつあったとする。しかし、周りの文脈から、その単語が何を意味するのかは大体理解できる。同じ単語が数回別の文脈で顔を出すと、すでにその単語の意味は、ほぼ明瞭になっている。これは、外国語でも母国語でも同じことだ。

翻訳を併用した原文の読解には、似たような効果がある。翻訳で文脈を知ることができる。そこで原文を見ると、知らない単語がいくつかある。翻訳を見なければ、その知らない単語のせいで、文脈が理解できないはずだ。しかし、翻訳によって文脈が分っているので、その単語が何を意味するのか、大体理解できる。もちろん、はっきりと意味がとれることもあるし、ぼんやりしたままのこともあるが、とにかくその単語が大体何を表すのかは理解できる。そうやって読み進んで行けば、その単語の意味や使い方は、次第に明らかになってくる。

この方法は、語彙習得の原理をそのまま用いておいて、さらにその弱点を補強しているわけだ。楽勝学生のあんちょこでも何でもなく、実に科学的な方法だといえる。

『おじさん、語学する』では、話したり聞いたりすることを想定しているので、テープを併用している。しかし、古典語の学習では、テープを手に入れることは難しいだろう。古典ギリシャ語では、かろうじて『エクスプレス古典ギリシア語』(白水社)に、ギリシャ人ではなく日本人によるテキストの吹き込みがある。この吹き込みの発音は、有気音(φθχ)と無気音(πτκ)の区別が行ったり来たりし、λとρの区別もほとんどなく、鋭アクセントと曲アクセントの区別もなく、アクセントの位置も守らないので、すごく変な感じがする。それでもこれは、貴重な音声教材だ。どうせギリシャ語の知識に正確な発音は無用だから、発音がどうであれ音声教材があるということ自体が貴重なのだ。しかし、実際のギリシャの著作や、ラテン語や漢文などにも、このような音声教材があるだろうか。日本では、中国人の吹き込みによる『論語』や『詩経』などのテープを手に入れることはできるだろうか。おそらく、これらは難しいことだろうから、考えない方がよさそうだ。

なお、この学習方法では、嫌気がささないためにある程度のスピードが必要だ。だからこそ、「わからないところはとばす」必要がある。それでも文脈が理解できなくなる恐れがない。翻訳によって文脈は分るからだ。

それから、必ずしも日本語訳を1ページ読んでから原文を1ページ読む必要はないだろう。集中力が強靱でその外国語をほぼ読めるようになっている人なら、1章くらいの分量をざっと読んでから原文を読んでもいいだろう。反対に、その外国語に慣れていない人の場合は、まず初めに日本語訳を1ページ通して読むとしても、実際に原文に当たるときには、日本語訳を1文読んでは原文を1文読む方が楽だと思う。ときには、訳と原文とどのように対応しているのかじっくり見比べる必要もあるだろう。それらは臨機応変に行うべきだ。

この方法の実行には、一種の心理的抵抗があるかも知れない。それは、日本語で意味が分かってしまったら、外国語で読むのは馬鹿馬鹿しいという考えだ。しかし、これは無用の心配だ。翻訳は原文以上にならない。原文では、翻訳では表せない“意味”が、その文章の統語構造や、リズム、響きなどにのって伝わってくるのだ。翻訳ではどうしてもぼんやりして曖昧な部分も、原文では明晰に伝わってくる場合が多い。話の内容は同じだが、その世界はおよそ違ったものなのだ。だから、翻訳は、原文の世界に入る道案内だ。翻訳が優れたものであればあるほど、それは優れた道案内となる。