対訳


『古代への情熱』(岩波文庫)に出てくる、シュリーマンの外国語習得談は、様々な学習原理が見えかくれしていて面白い。その中でも、彼の用いた教材は、非常に独特だ。

  1. 英語を学習したときは、ゴールドスミスの『ウェイクフィールドの牧師』と、ウォルター・スコットの『アイヴァンホー』とを暗記した。(26ページ)
  2. フランス語の学習では、フェヌロンの『テレマコスの冒険』とベルナルダン・ドゥ・サン・ピエールの『ポールとヴィルジニー』とを暗記した。(26ページ)
  3. ロシア語では、1冊の古い文法書と『テレマコスの冒険』のまずい翻訳とを暗記した。(27ページ)
  4. 現代ギリシャ語を学習したときは、『ポールとヴィルジニー』の現代ギリシャ語訳を暗記した。(35ページ)

他の外国語を学んだときの教材については言及がないが、ここで目に付くのは、フランス語を学習するときに暗記した本の翻訳を、他の外国語の学習に用いているということだ。これは本当に目を引くことだ。

しかもここで再び目を引くのは、フランス語では“原書”で学習し、その後学習した言語では、その翻訳を用いているということだ。これは大変合理的なのだ。

もしシュリーマンが最初に暗記したのも翻訳、他の外国語の学習で暗記した同じ本も翻訳だった場合はどうなっただろうか。

両者の間の関連性がうまく見つけられずに難儀する部分が多かったはずだ。しかし、まず原文を知り、そのあと翻訳にあたったために、彼はその翻訳のある部分がなぜそのように表現されるのかがおおよそ見当が付いたことと思う。

これは私が聖書の翻訳を読み比べながら感じたことだが、ギリシャ語を知らないと、各翻訳ごとの解釈の違いは理解のできないものだ。しかし、ギリシャ語が少し読めれば、解釈に大きな違いがあるとき、原典に当たってみて、その表現を検討することで、なぜ解釈に大きな違いが出てくるのかが感じ取れる。

実際に私がそうだった。韓国の教会で、韓国人の兄弟が「聖書にこう書いてある」と言ったとき、私はその該当箇所が見当も付かないことが時々あった。そして、その箇所を教えてもらって日本語の聖書を読んでみると、かなりニュアンスの違った話になっているのだ。そして、家に帰って韓国語の聖書数種類と日本語の聖書数種類とを比較してみたら、韓国語には韓国語なりの傾向があり、日本語には日本語なりの傾向があるのだった。それぞれの言語ごとに解釈の傾向が違うということをそこで感じた。

もしシュリーマンが原書を知らずに、翻訳した本で覚えて、他の言語でも翻訳の同じ本を比較していたら、同じ本を用いても、学習は多少困難さを増し加えたに違いない。

ところで、翻訳が一番手に入りやすい本といえば、聖書だ。世界的ベストセラーでも、何年も経つと手に入りにくくなることがよくある。しかし、聖書はそういうことがない。たいていの言語で翻訳が出ていると安心して期待できる本は、聖書以外にはない。この入手可能性の高さから、いろいろな外国語を手っ取り早く身に付けるには、その外国語で聖書を読むのがいちばんだと以前からよく言われてきた。これは確かに一理ある。

しかし実際には、今紹介した理由から、あまり単純にはいかない。また、キリスト教専門書店に行くと、日本語と英語の聖書が対訳のようになっているものや、日本語と韓国語の聖書が対訳のようになっているものなどがある。しかし、これらは実は対訳ではない。それぞれが原典からそれぞれの解釈に従って訳しているので、対照聖書を開いて左右のページにある両言語を見比べてみると、かなり違った感じがする箇所が多い。だから、そういう対照聖書を用いて英語や韓国語などを勉強しようとすると、かえって混乱してしまう可能性が十分ある。

ただし、日本語の聖書をよく読んだ人が、ギリシャ語やヘブライ語の原典を読解するときには、多少役に立つだろう。また、原典をよく読んだ人なら、それが重訳でない限り、どの言語に訳された聖書も理解しやすいだろう。原典を知っている人なら、シュリーマンがやったように、「一語一語を……原本のそれに相当する語と比較」(35ページ)しながら学習することができる。

ちなみに、聖書で本当に対訳になっているものは、“NESTLE-ALAND GREEK-ENGLISH NEW TESTAMENT”(DEUTSCHE BIBELGESELLSCHAFT)だ。ただしこれも、英訳に用いた校訂本と原典の方の校訂本とにわずかな異同がある。それでも、この英訳(Revised Standard Version)は意訳を極力避けて直訳に近い訳になっているので、英訳と比較しながら原典の一語一語を検討して理解していくのには訳に立つ。

ところで、シュリーマンがなぜ上記の書籍を外国語の学習に用いたのか考えてみるのもいいことだと思う。推測するに、それはおそらく彼が母語のドイツ語で読んで面白かった本なのではないだろうか。すでに内容は知っている。だから、その本を原書で読むときの理解のしやすさもあったに違いない。シュリーマンは最初の言語の学習でドイツ語訳と原書とを比較したとは書いていない。しかし、教材選定の独特さから、彼は自分が読んだことのある本を用いたのだと私は思いたい。

現在、対訳で原典を読ませる教材が大量に存在する。特に英語は、豊富な対訳本が手に入る。それだけではない。英語で書かれた本の膨大な種類の日本語訳が出回っている。それらの原書を手に入れようと思えば、現在の私たちは手に入れられるのだ。古典的な作品ならば、インターネットで原典のテキストを手に入れることもできる。それを用いてシュリーマンのような学習をすることもできる。

私たちが外国語を勉強するとき、日本の小説の翻訳を用いたりするのはいい方法だと思う。または、ギリシャ語を勉強して新約聖書を読んだ後、他の外国語を勉強するときに、新約聖書の翻訳を使用するのは、なかなかいい方法ではないだろうか。