私の韓国語歴


1.黎明期

私は、韓国人がどんな人たちなのかも知らない田舎で生まれ育ちました。私の育った埼玉県川越市にも、在日韓国人はたくさんいるようで、韓国会館という、在日韓国人のための施設もあるのですが、私自身は、在日韓国人に会ったこともなく、ましてや、韓国から来た人に会うということも、ほとんど考えられませんでした。

しかし、中学生のころ、ラジオキットを作るのに凝っていた私は、自分の組み立てた中波ラジオから聞こえてくる不思議な言葉を、だれが教えてくれるともなく、韓国語だと知りました。夜の時間帯によっては、国内放送のように明瞭に聞こえてくることもある、その言語に触れ、私の好奇心は温められていたのだと思います。今考えてみると、その放送は、北朝鮮のものでした。今も耳に残るその音の印象から、そう感じます。

高校生のころ、韓国語の学習書を買いました。いつ買ったのか思い出せませんが、おそらく2年生のころ、渡辺キルヨン先生の『朝鮮語のすすめ』(講談社現代新書)を読んでとても関心を持ち、韓国語をもっと知りたいと思ったのがきっかけのようです。そして、川越丸広百貨店の紀伊国屋書店へ行って(本当にそこだったかは自分でも分かりませんが)、『朝鮮語の入門』(菅野広臣著、白水社)を買いました。

この本は、初めに「文字と発音」という、50ページにもわたる段階がまずあって、そこに、韓国語の発音をほとんど網羅した記述がなされているのです。私はそれを一生懸命読んだと記憶していますが、最後まで覚えられずに、途中で挫折しました。そして、韓国語というのは恐ろしく発音が複雑で、発音習得の段階を通過しなければ、簡単な会話もできないという先入観を、そのときは持ってしまいました。

2.入門期

1年浪人して大学に受かり、入学式も間近の4月1日、新聞のテレビ・ラジオ欄を見ると、「NHKハングル講座(開講)」と書いてありました。私は、「ハングル」というのは韓国語を表記する文字だから、NHKで韓国語の文字を教えるというのはどういうことなのかと思いました。ひょっとしたら、サンスクリット語から離れて梵字を教えることがあるように、言葉は教えずに、ハングルを教えるのだろうと思いました。幸いなことに、私はそれを、エイプリルフールの悪い冗談だとは思いませんでした。

その日ちょうど父と一緒に川越の市街地へ買い物に行くことになったので、例の「ハングル講座」とやらの教材を見てみようと思いました。黒田書店だったか吉田謙受堂だったか、丸広の紀伊国屋書店だったかは思い出せませんが、とにかく市内の比較的大きな書店に入り、NHK講座の棚に行って「ハングル講座」というものを見ると、何と、名前はハングルだけれども、内容は本格的な韓国語講座でした。

当時はなぜ韓国語をわざわざ“ハングル”などと呼ぶのか、訳が分かりませんでした。あとで聞いた話ですが、日本では学術用語として「朝鮮語」を用い、北朝鮮でも「朝鮮語」と呼ぶのですが、韓国では「韓国語」と呼び、その言語名が外交問題に発展する心配があるため、どちらでもない文字の名として「ハングル」を採択したとのことでした。しかし、今考えれば、「ハングル」というのは韓国での呼び名で、北朝鮮では「ハン」という名を嫌って「チョソングル」と呼ぶのだから、結局は、中途半端な名付け方だったのではないかと思います。そのために、韓国語のことを“ハングル語”と呼ぶ人が大量発生するという悲劇が起こるのです。

さて、そのようにして4月1日から韓国語の学習を再びスタートさせるのですが、同時に文法の学習を、高校生の時に買った『朝鮮語の入門』で補うことにしました。それは、今は絶版になった『20カ国語ペラペラ』の次のアドバイスに従ったのです。

……しかし、ラジオ講座も語学学習雑誌に似た性格のもので、それだけをたよりに語学をマスターしようと思ってもむりである。わたしは、フランス語などラジオ講座をかなり利用したが、本体としての学習はやはり、入門書で学んだほうがよい。ラジオ講座を聞くのは、書物だけではたりない部分を補足し、強化してもらうためと考えるべきであろう。つまり、自分が学んだことの復習的効果だけを期待すればよいのである。
(種田輝豊『20カ国語ペラペラ』実業之日本社、1969。p.223)

現在の外国語学習の環境は、この本が書かれた当時とはすっかり変わってしまったので、この人のアドバイスの妥当性もかなり影が薄くなってしまいましたが、私が韓国語の勉強を本格的に始めた1985年当時は、『20カ国語ペラペラ』が書かれた1969年と、状況は大して違わないようでした。

しかし、私はあまり根気強くないので、NHKの講座を毎日は聞けませんでした。それで、ほとんど『朝鮮語の入門』だけで韓国語の学習をするようになりました。私はこの教材のテープから、本文だけをコピーして、1本の60分テープに収め、嫌になるまで聞きました。たぶん百回以上聞いたと思います。聞いた時間だけで、百時間を超えるわけです。これが役に立ったのか無駄だったのかは、今になっては分かりません。

当時の学習方法の欠陥は、私に暗記の概念と意志が稀薄だったということです。『朝鮮語の入門』は、本文の量が課ごとに大体一定で、暗記するのにそう悪くないものだったのですが、残念ながら、私はそれを暗記する意志がなかったのです。私が覚えようとしたのは、単語とその日本語訳、それに、文法形式とその意味でした。しかしそれは、効率的に見えて、実際の使用にすぐにつながらないという欠点があります。更に悪いことに、印象が弱いので、すぐに忘れてしまうのです。

大学に入ると、韓国人の留学生たちが、たくさんいました。彼らの多くは、韓国語を勉強している日本人がいるということで、おもしろがって、あるいは好感を持って、接してくれました。そして、いろいろな韓国語を教えてくれました。しかし、不思議なことに、それによって私の初期の韓国語学習は助けられなかったのです。彼らの存在が私の韓国語学習にとって力となり始めるのは、ずっとあとになってからのことです。

『朝鮮語の入門』は、6か月後の夏休み明けに、ようやく読み終わりました。しかし、本文の暗記を疎かにした私の学習結果は、大した成果を見ませんでした。会話もできないし、ほとんど聞き取れないし、本も読めないし、手紙を書くことすらできませんでした。

しかし、このときある大学院に通っていた留学生が、私にごく簡単な韓国語の手紙を書いてくれました。それを、ちょっと苦労したけれど、読んで理解できたとき、初めて韓国語のナマの文章が理解できたと大喜びしました。

このような成果はあったとはいうものの、当時の私を振り返るとき、本文を暗唱する意志に欠けていた自分に、胸が痛みます。私が教育を受ける過程で、暗記をよきものと考え、暗唱を勧めた先生は、高校時代の古典の先生だけでした。そのとき私たちは「桃花源記」を授業の時間内に暗唱させられ、真っ先に暗唱するのに成功しました。しかし、この体験はそのときだけで終わり、他の学習に応用するほどの影響力を受けなかったのです。

多くの先生たちは、暗記よりも考えること、理解することが大事だと私たちに教えていました。今私がそれらの先生たちに心の中で反論するのは、その考えは、次元の違うものを混同しているということです。暗記は、本の内容を心の中にコピーすることです。本が手元にあるのと、心の中にあるのとの違いです。そして、考えることと理解することは、全く別次元の問題です。私たちは、歌詞の意味も分からないで覚えている歌を、何年もあとになって、ふとした拍子に理解することがあります。

さらにそれは、次元が違うということに留まりません。心の中に写した本は、その後、意識的にも無意識的にも、その他の知識や経験との関係を強めていき、徐々にそこからさまざまなエッセンスを取り出していくのです。それは、ものを理解したり考えたりするのに、非常に役に立ちます。考えること、理解することは大切です。それだからこそ、よい知識をどんどん暗記していく必要があるのです。先生たちは、暗記するのに使うエネルギーを、考え理解することに用いよと言うかもしれません。しかし、暗記をしたあとでそれを用いて考え理解するのが、決して遅くないだけでなく、その威力は、あやふやな知識を継ぎ足していく知識よりもはるかに確実なものです。

長文の暗記には、ある程度のコツがいると思います。せっかく「桃花源記」を暗唱できたのに、私はその教訓を、他の学習に活かすこともなく、忘れていってしまいました。韓国語の初期の学習でもし私が本文の暗記を行っていたなら、その後の発展はもっとすごいものだったのにと、残念に感じています。

3.ポスト入門−中級期

その後、私は韓国語の語彙力を伸ばすために、『朝鮮語常用六千語』という本を買いました。確か、大学書林だったと思います。その本を、何ヶ月もかけて、一生懸命覚えました。しかし、その後半年たってその本を開いたとき、私は自分の目を疑いました。そのとき覚えた単語は、きれいに忘れていたのです。線が引いてある単語に限って、知っている単語が一つもありません。自分の苦労が全くの徒労だったことを知り、ショックでした。

それから、辞書の暗記も試みました。辞書なら例文もついているから、例文のほとんどない『朝鮮語常用六千語』よりは記憶に残るだろうと思ったのです。それで、民衆書林の『エッセンス韓日辞典』を、頭から熟読して、知らない単語は覚えていきました。

ところが、しばらく読み進むうちに、異変が生じはじめました。韓国人の留学生たちが、私の話す韓国語に、首をかしげたり、笑ったり、そんな言葉は韓国語にないと言ったりしはじめたのです。それでも辞書を読み進めていくと、状況はもっと悪くなっていきました。そして、私はその原因が辞書にあることを知りました。それで、やむなく辞書を覚えるのはよしました。

考えてみれば、これは当たり前のことで、辞書には様々な位相の語彙が収録されているのです。標準的な単語もありますが、高尚だったり、非常に難解だったり、逆に、下品な単語もそれには含まれます。だから、辞書を頭から覚えていったら、それらの位相を全く無視した滅茶滅茶な韓国語の表現になるのは当然のことだったのです。独学とはいえ、韓国の人たちが私の周りにいていちいち反応してくれたことは、本当に有り難いことでした。それによって私は自分の態度をなおすことができたからです。

単語集もダメ、辞書もダメで、八方ふさがりの気分でしたが、それでも何とかして語彙力を伸ばしたいと思いました。そこで、文章の中から語彙を身に付けることにしました。

本屋へ行き、高麗書林の、対訳になっている韓国語教材を2冊買いました。名前は忘れてしまいましたが、会話の本と、読み物でした。会話の本には音質のいい録音テープが付いていて、アナウンサーの声で、非常にゆっくりと録音されていました。私はそれが留学生たちの発音と違うので、実際的ではないと思い、あまり重要視していませんでした。今思い出すと、その発音は、非常に美しい標準語の発音でした。その美しい発音を軽く見て、模倣の対象にしなかったのは、残念なことです。

読み物の教材は、その中の一部を留学生に録音してもらい、何度となく聞き返し、そして、録音してもらった課は、日本語訳を見て韓国語の原文が言えるようにしました。他にも同じ方法で外国語を身に付けた人は、数多くいることでしょう。しかし、これは私の発見した効果的な学習法でした。

この方法を簡単に紹介すると、まず韓国語の原文を、隣のページにある訳を頼りに理解します。そして、その原文を何度も──およそ10回ほど──読んで、口に馴染ませます。そうしたら今度は、日本語訳を見ながら、韓国語の原文を言ってみます。このとき、原文と全く同じに言えるように注意します。日本語を見ながら韓国語で正しく言えるようになったら、それを滑らかに言えるまで、何回か繰り返します。そして、その部分の学習は終わりです。

この方法で、本の3分の1か4分の1くらいを覚えました。そのおかげで、私は韓国語のいろいろな表現や基本単語を身に付けました。教材自体は古臭いものでしたが、基礎力を身に付けるうえで、多少の古臭さは問題になりません。この練習をしばらくしたのちには、韓国人留学生との意思疎通がかなり容易になりました。

ちょっと話は前後しますが、86年の正月気分がまだ残っている頃、新宿の紀伊国屋書店で、千野栄一の『外国語上達法』(岩波新書)という本を見つけました。奥付を見ると、10日後が発行日(1986年1月20日)でした。この本をその場で立ち読みして読み切ってしまったあと、カウンターに持って行って買いました。『外国語上達法』は、『二十カ国語ペラペラ』とともに、私が韓国語を身につける上でとても助けになりました。今はその考えに若干の疑問を感じる点もありますが、当時外国語を学ぶ方法をほとんど知らなかった私にとっては、福音のような本でした。今でもこの2冊は私の恩“書”です。

同じく86年頃、カードに用例を採取することを始めました。そのそもそもの切っ掛けは、理由を表す「〜니까」と「〜기 때문에」という二つの語尾について、ハングル講座の教材に、この二つはニュアンスが違うから使うときに注意するようにと書いてあるだけだったことにあります。私はその二つの違いを知りたいと思いましたが、その日の放送を聞いていないので、注意しろと言われても、まったく分かりません。そこで、国語学の演習で習った、用例をカードに採る方法を思い出し、日本語研究で使用する方法は、外国語の意味を明らかにすることにも役立つはずだと思って、当時の貧弱な韓国語の資料の中から、何十枚かのカードを採りました。はっきりした違いは分かりませんでしたが、かすかに両者の違いが感覚的に分かったところで満足しました。

これが切っ掛けとなって、その後私は韓国語の用例を少しずつカードに採っていきました。

その頃また、『朝鮮日報』を日本で講読できることを知り、講読しはじめました。昔英字新聞をわけも分からず講読したときのような気分でした。しかし、韓国語の方は、英字新聞よりは理解できました。韓国の新聞はとても高く、数日遅れで来るのに、初めは月2,500円だったのが、のちに3,000円に上がってしまいました。それでも、88年の2月頃まで講読したと思います。初めはほんの少ししか読めませんでしたが、のちには、いくつかの記事は読めるようになり、特に、「이규태 코너」は、好きなコラムでした。

それから87年に、『日本語ジャーナル』に韓国版が出たという知らせを友人から聞き、アルクに注文して1年分講読しました。これが私にとっていちばん大きな収穫だったかもしれません。韓国人が日本語を学習する『日本語ジャーナル』を、私は逆に、韓国語を学習するのに用いたのです。勉強の仕方は、先ほどの読み物教材と同じで、対訳を用いて覚える方法でした。私はこれを、日本語の原文を見て韓国語訳を正しく言う練習をしたわけです。その韓国語訳は、読み物教材の日本語訳よりも正確だと思いました。ずいぶんあとに韓国に来てから知ったのですが、その訳は、ほとんどが当時の編集長だった이병희さんがやっていたそうです。寄稿した大学教授の翻訳よりも正確だったと思います。あの人は、日本に留学したことがなかったにもかかわらず、日本語の会話も上手だし、日本語の手紙も日本人のように書ける人でした。その人が、私の韓国語の先生だったわけです。

『日本語ジャーナル』の韓国語訳は、韓国人の留学生も、自然で現代的な韓国語だと言っていました。私はこの教材によって、日本の内容を、自然な韓国語で学べたわけです。これはひょっとしたら、のちに日本語教師になったときに役に立っているかもしれません。

同じ頃、夏休みに川越の図書館でアルバイトをしていたとき、増田忠幸さんと偶然に知り合いになりました。増田さんは、2000年度にテレビでハングル講座の講師を務めたことがあるので、ご存じの方もいらっしゃるかもしれません。増田さんから韓国語を習うことはありませんでしたが、いろいろな面で、お世話になったり、刺激を受けたり、助言を受けて来ました。増田さんは愚かな私の青春時代に、人生の方向付けをしてくれた恩人です。増田さんに会わなかったら、私は今何をしていたか、想像もつきません。

88年に、韓国語の表記法が変わりました。賛否両論があったようですが、私は日本にいながら新聞でその記事を読み、新しい表記法を気に入りました。さっそく新聞記事に出ていた表を見ながら、新しい書き方で作文をしてみて、ひとりで“時代の先端を行っている”と悦に入っていました。

4.韓国旅行とそれ以後

88年の3月に、1ヶ月滞在する予定で、ついに韓国へ来ました。留学生で、クマと呼ばれる友人が、김포空港まで迎えに来てくれました。そして、空港からタクシーに乗って、성남市にある彼の自宅まで行きました。当時はタクシーがソウルを出てはいけないとかなんとかで、途中でタクシーを乗り換えて、성남まで行きました。

一晩彼の家に泊まらせてもらいましたが、オンドルに慣れていないので、夜寝るときちょっと辛かったです。布団の上で寝ていたのですが、暑くて喉が渇き、寝つけません。暑いので、布団から出て床にごろんと転がると、そこはもっと暑かったのです。それでまた布団に上がりました。

次の日、종로のYMCAに泊まりました。そうやって、初めの十日感は、泊まるところをいろいろ転々としましたが、後半の20日間は、インサドンの보정여관という旅館に泊まりました。

韓国にいるあいだに、ソウルの本屋をめぐりました。そして、いろいろと本を買い集めました。そのとき買った本の中で、いちばん私にとって大きかったのは、이희승の『국어대사전』と、三省出版社の『韓国短編文学大系』でした。両方とも古本屋で買ったので、値段は高くなかったのですが、『국어대사전』の方は、のちに韓国に来るときに一緒に持って来て、いまだに使っています。

その他に、1ヶ月間韓国にいるあいだに、ラジオ放送もたくさん録音しました。音質の悪いテープレコーダーでしたが、それでもずいぶん録音しました。そのときいちばんよかったのが、「이문세의 별이 빛나는 밤에」という番組でした。しゃれた会話ときれいなバラード調の音楽が気に入りました。その他に、韓国映画のビデオも集めましたが、「고래사냥1、2」以外は、残念なことに、どれもろくな映画ではありませんでした。

このように、韓国にいるあいだは、韓国語を学ぶというよりも、学習資料を集めることに力を入れました。そうやって、雑多な書籍類などを買い集めて、航空便で送れるものは先に日本へ送り、帰国しました。

帰国する日、飛行機が滑走路を離陸して、遠退いて行く地上を見つめながら、理由の分からない涙が込み上げてくるのを押さえることができず、みっともなく涙をだらだら流していました。なぜそのときそんなに涙が溢れ出たのか、今でもよく分かりませんが、日本での生活では考えることもできなかった人生のあり方に触れた、大きな体験の時間が終了するのを感じたからかもしれません。

この1ヶ月間は、行動力のない私にとっては大きな経験で、その前とそのあととで人生が断絶したような気分でした。実際には私自身にたいした変化があったとは思えませんが、自分の世界の何かがすっかり変わってしまったような感じがしました。

日本に戻ったあと、録音して来たラジオ放送を編集して、いいところだけを録音しなおして、車の中で聞きながら、韓国の雰囲気に酔っていました。これは、その後2年間続きます。

日本に戻ってから、『朝鮮日報』に代わって、『週刊朝鮮』という時事週刊誌を取ることにしました。値段はどのくらいだったか覚えていませんが、『朝鮮日報』よりも少し安かったのではないかと思います。当時の『週刊朝鮮』は縦組で、漢字がたくさん使われていました。タイトルも漢字で書かれていました。

『週刊朝鮮』は、とてもいい韓国語の教材になりました。初めは1週間のうちにいくらも読めませんでしたが、半年以上たったころ、ほとんど全ての記事を読み切れるようになりました。この雑誌を辞書を片手に読み続け、使えそうな表現は、カードに採って集めました。そして、その表現を、実際に韓国人留学生との会話に使ってみました。その効果はてきめんでした。みごとにスパッと通じるのです。

時事週刊誌を用いた外国語の学習は、中級から上級にアップグレードしようとしている人には、ぜひお勧めしたい方法です。時事週刊誌のいい点は、その国の社会人の口にのぼる話題を扱っているので、そこに出て来た表現は、そのままその人たちの話題に用いられるということです。『週刊朝鮮』の中で用いられた表現の中で、かなり高度だと思われる言い回しを覚えて、これは理解されまいと思いながら使ったものが、全く自然に通じたときには、驚きました。いくつか覚えたばかりの表現を、これでもか、これでもかと使ってみても、相手は何の違和感もなくごく自然に反応して言葉を返してきて、会話が滑らかに続いていくのです。

100パーセント通じるというのは、本当に大きな喜びで、それに味を占めてからは、『週刊朝鮮』からどんどん表現を覚えてそれを使いました。

私のカードは、『週刊朝鮮』からだけでも千枚以上にはなったのではないかと思います。もちろんこの量は、学術的な目的でカードを採るにしてはどうしようもなく少ない量ですが、自分の勉強のために、表現ノートとして用いるなら、大きな効果があります。

最近はコンピュータの発達によって、大量のテキストファイルから用例の抽出ができるようになったため、カードに採るのは馬鹿馬鹿しいような気もしますが、言葉に対する観察力を強化するには、このカード採り作業は、有用な方法です。外国語を自分の専門として学ぶ人は、ぜひ用例のカード採りをやってみることをお勧めします。その作業自体が、外国語学習の秘密兵器となるはずです。

88年の秋頃だったか、日本語教育能力検定試験の願書を買い、申し込み締め切りぎりぎりに提出しました。そして89年の初めに、青山学院大学で試験を受けました。昭和天皇が亡くなった頃と大体重なっていたと思います。私は日本語教師の勉強をしたことがなかったので、今回は模擬試験として受け、次回にはちゃんと勉強して合格しようと思っていたのでした。ところが、その試験に合格してしまいました。

その頃から、韓国人留学生に会うことはほとんどなくなり、韓国語で話す機会も滅多にありませんでした。しかしそのころ、私の関心は、韓国語を学ぶことではなく、単に本を読むことにありました。それで、あれこれ本を読んでいましたが、そのころ、ソウルの古本屋で買った『韓国短編文学大系』の中からタイトルの面白そうなものを読んだり、その当時話題になっていた韓国の文庫本である、三中堂文庫などを読んでいました。

ある日、留学生のクマから電話がかかって来て、大学を卒業したらどうするんだと言うので、1年ぐらいひとりで勉強したあと、大学院に入ろうかと思っていると答えると、「じゃあ、韓国にでも来ちめえよ!」と言います。私はその言葉を聞いて、その場で、卒業後は韓国に行こうと決意しました。

実は私は、いつまでも親許にいても、だらだらと脈絡のない人生を過ごすだけだから、一人暮らしをする必要があることを切実に感じていました。私は自分の性格が意志薄弱なことを痛感していたので、この性格を若いうちにどうにかしなければ、将来の自分の人生が恐ろしいと考えていました。それで、できれば親とは遠く離れて暮らした方がいいと思っていました。また、これまでずっと韓国語を勉強して来たので、韓国に住んでみるのも悪くないと思っていたのです。

日本の親の多くは、親心だけがあって、子供を導き育てるだけの知恵を持っていないと思います。そういう親許で育った人には、人生の展望ができないことが多いため、目的もなく、ずるずると親と一緒に暮らしてしまうことが多いのです。それは、それ自体が悲劇です。親心は感情であって、人を導くことはできません。現に、私の父も、その頃、私が自分で試行錯誤をしながら行動しようとするのを制して、こう言いました。「お前が失敗するといけないから。」これが親心というものです。だからこそ、私たちは成人したらさっさと親許から離れ、失敗を繰り返しながら強くなっていくべきなのです。

そういう背景があったので、クマの一言が、私の決めかねていた態度を一気に決定させるという奇跡を起こしたわけです。その昔、神がアブラム(のちのアブラハム)に「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」と告げられたとき、アブラムがその言葉に従って故郷を離れた話を、私はよく思い出します。私はその頃信仰はなかったけれども、アブラムのように、誰かの一言で、ふるさとを捨てて、見通しの利かない将来へ足を踏み出すことができたのは、大きな幸運だったと思います。アブラムには勇気が必要だったかもしれませんが、私は右も左も分からなかったので、自分の決定に勇気は要りませんでした。

韓国行きが決まってから、연세(延世)大学校韓国語学堂の90年度夏学期に登録する申し込みをしましたが、すでに定員に達しているので、受け入れられないという返事が来ました。それで、秋学期に申し込むと、受け付けてもらえました。

韓国行きを決定してから韓国に来るまでの半年あまりは、アルバイトに精を出しました。韓国語の勉強は、韓国に行ってからまた始めようと考えていたので、ほとんど何もしませんでしたが、『週刊朝鮮』と、ソウルで買った韓国の小説などを読んでいました。さし当たって韓国語が上手になる必要を感じなかったので、이광수や김동인などの、韓国の古い小説を読みました。それがかえって、のちにはプラスになったようです。韓国語の理解に、いくらかの厚味が生じたからです。

またその頃、短波ラジオで韓国の放送を聴くことを試みましたが、受信状態が不安定なので、習慣的に続けることはできませんでした。

韓国に来る直前に、増田さんが、韓国での生活について、具体的にいろいろとアドバイスをしてくれました。どんなアドバイスだったかは思い出せませんが、そのおかげで心構えができたことは覚えています。

5.韓国で語学研修を受ける

1990年9月10日、私は韓国に来ました。まず初めに신촌で下宿を探さなければなりませんでしたが、それはクマが手伝ってくれました。私は韓国語は分かっても、韓国の事情には極めて疎かったので、まるで田舎から出て来たばかりの青年といった状態でした。

김포空港で忘れ物をしてしまったので、次の日それを取りに行き、帰りにタクシーに乗りました。その日は朝から雨が降っていましたが、だんだんと雨が強くなって来ました。

タクシーが신촌まで来たとき、道を左折してもらおうと思って、「左折」という単語を韓国語でどう言うか考えました。「左」が“좌”で「折」が“절”だから、と頭の中で言葉を組み立てたのち、「아저씨, 저기서 좌절해 주세요!」と、自信をもって言うと、運転手は「좌절!」と叫びました。

思わぬ反応にびっくりしました。それで、もう一度考え直し、韓国語会話の本でずいぶん以前に見たことのある表現を思い出して、「왼쪽으로 돌아가 주세요.」と言い直しました。すると、「아, 좌회전!」と言います。私はそのタクシーの中で初めて「左折」の韓国語を学びました。

そのタクシーは実は바가지(=不当料金を要求する)タクシーで、空港から신촌まで15,000ウォンも取られましたが、この아저씨は、日本の漢字語を直訳しても通じないことを教えてくれた、貴重な韓国語教師となりました。本来のタクシー代5〜7千ウォンを差っ引いたら、8千〜1万ウォンの授業料だったことになります。かなりインパクトの強い教え方をして、その後同じ種類の失敗をしないようにしてくれたので、その値段は高くなかったかもしれません。

その次の日だったかその日だったか忘れましたが、日本で増田さんが紹介してくれた、김조웅さんという人に会いました。この人は、以前연세大学の外国語学堂で日本語科長を務めたことのある人で、いま강남で日本語の“学院(=私設学校)”を準備中だと増田さんから言われていました。もともと京都出身の在日韓国人で、韓国に永住帰国したと増田さんから教わりました。

初めて会った김조웅先生は、口ひげを生やしており、背が高く、痩せていて、ホンコンの俳優のような雰囲気でした。そこのお好み焼き屋で一緒に食事をしながら話をしました。実はこれはキム先生にとっては面接試験だったようで、私が生真面目なくせに面白いことを言うとかで気に入られ、すぐにうちで働いてくれと言われました。しかし、私は教室で日本語を教えた経験がないので、韓国語を習いながら教え方を勉強しますと答え、1学期語学堂に通ったあとで学院で働く約束をしました。

それから数日して、연세大学語学堂で、韓国語のクラス編成テストがありました。面接官は백봉자先生でした。もちろん当時は名前を知りませんでしたが。インタビューの結果、5級に入りました。

語学堂で初めて、他の日本人たちの韓国語を聞きました。今まで私の周りで韓国語を使っていた人たちは韓国人だったので、自分以外の日本人が韓国語を話しているのを聞くのは不思議な感じがしました。5級だから表現はうまいけれども、発音はずいぶん自己流の人もいました。今までとんでもないと私が思って来た発音を、堂々としている人もいました。それは新鮮な驚きでした。

6級の卒業発表を聞いたとき、あるクラスの座談会は、初めのうちは全然聞き取れませんでした。タイトルが「교육과 재벌(教育と財閥)」と聞こえました。そして、話を聞いていると、「실내(室内)」のように聞こえる単語を何度も使っています。しかし、ある瞬間、“대리다”という単語を誰か使った瞬間に、謎が解けました。“대리다”は、“アイロンがけする”という意味ですが、それは“때리다(=殴る)”のことだということに気付き、次に「재벌(財閥)」と言っていたのは実は「체벌(体罰)」で、「실내(室内)」に聞こえていたのは「신뢰(信頼)」だということが分かり、その座談会の全貌が明らかになったのです。

いま韓国人の学生に日本語を教えながら、高度な内容の会話をするとき漢字語の正確な発音ができないと、聞き取りにくくなることを実感していますが、韓国語に関しても、高度な内容の会話をするときには、やはり漢字語の正確な発音が必要なのです。「체육 대회(体育大会)」を「제육 대회(豚肉大会)」と発音しても、意味は通じるけれども、抽象度の高い内容では、ひとつ間違えると話の内容が全然見えなくなってしまいやすいからです。

語学堂に通う3ヶ月の間、88年にソウルに来たときと同じように、ラジオ放送をせっせと録音しました。日本にいたら到底手に入らない音声資料の宝庫に思えたのです。空中を飛び交うその目に見えない宝を、少しでもつかまえて、自分の持ち物にしたいという気持ちから、ときに明け方近くまで録音を続けました。

そういう生活をしていたので、私は遅刻が多く、テストは受けたけれども、成績は認められませんでした。あとで先生が、ポストイットに点数を書いたものを、私にくれました。何が96点、何が94点、何が92点と書いてありました。全部できたつもりだったので、どこが間違えたのか聞きたいと思いましたが、点数を書いて来てくれただけでも有り難いと思い、私の弱点を聞くことはできませんでした。しかし、ひとつ確かに言えることは、私の最大の弱点は、意志が弱くてだらしないということです。それが、テストの結果が成績表でなくポストイットに書いて渡されたという事実になって表れたのです。

語学堂には1学期だけ通いました。私は語学堂で自分の韓国語のブラッシュアップがしたいと思っていましたが、その目的には語学堂は向いていませんでした。しかし、9月中旬から12月上旬までの3ヶ月間は、とても楽しく幸せな時間でした。私は韓国語をブラッシュアップすることも忘れて、語学研修生活をエンジョイしました。この1学期間は、私の人生の中で、他のどの時間ともつながりのない、幸せな期間でした。

6.ニュアンスが分かるようになる

91年の1月から、강남の역삼동にあるETCという学院で、日本語の授業を始めました。ここで김조웅先生の仕事も手伝いながら、日本語の教え方や、教材の作り方などを習いました。他の人たちは、私がキム先生にこき使われていてかわいそうだと主張していましたが、私はその期間に、たくさんのことをキム先生から習いました。

김조웅先生は、日本語教育や韓国での生活について、惜しげもなくいろいろなことを教えてくれました。その後もいろいろ教えてくださっただけでなく、私が結婚して戻ってくると、韓国でも披露宴を開いてくださったり、私が困っていたときに、頼みもしないのに助けてくださったりして、私にとっては忘れることのできない人となりました。キム先生には敵も多く、以前私のことを、“あれはジョウンさんの手下だ”と言う人もいました。それは誤解で、キム先生は一匹狼で生きている人なのですが、私はそう言われるのを、むしろ誇らしく思っていました。

そこで教え始めて間もなく、いつも立ち寄る구멍가게(=雑貨屋)のおばさんが、私の紺色のブレザーを見て、「학교 교복이에요?(学生服?)」と聞きました。私はその言葉にショックを受け、年よりも若く見える私を、年相応に見せるために、김조웅先生に倣って口ひげを生やしました。その後私は1年間、口ひげを生やしていました。

この頃は、私の韓国語の実力は今から比べたら大したものではなかったと思います。しかし、人々からは、発音が韓国人のようだといってほめられました。

この頃から私は、韓国語を読むのに、韓日辞典を使うのをやめて、韓国の“국어사전”を使うようにし始めました。それは、大した意味はなかったかもしれませんが、昔から英語の先生たちが、英文を読むためには英和辞典ではなく英英辞典を読むようにと勧めていたのを思い出したからです。私はその態度を徹底させ、せっかく韓国に住んでいるのだから、もっと韓国語漬けになろうと思って、“국어사전”の使用を始めたのです。

すると、6ヶ月ほどたった頃、私の韓国語の読解力が変化しているのに気付きました。雑誌などを読みながら、そのニュアンスがはっきりと見えるのです。もちろん、すべての部分がはっきり分かるわけではありません。意味が分からなくて辞書を引く部分は依然としてところどころにあります。しかし、まるで日本語を読むようにそのニュアンスがはっきりと迫ってくる部分がかなり増えていたのです。

これは、“국어사전”を使い始めたためだということに、気付きました。以前は韓国語を読みながら、日本語で解釈していました。それは、辞書の説明が日本語なので、ほとんど自然に、韓国語を読みながら、その意味を日本語で考える習慣が身に付いていたのです。しかし、韓国語の辞書を引くようになってから、韓国語の分からない語は、他の韓国語で説明を受けるようになったわけです。そうすると、次第に、韓国語を読みながら、それをそのまま理解するか、他の韓国語で考える習慣が付いて来ました。もちろん、その根拠は、“국어사전”にあるわけです。すると、韓国語のある語が語彙群の中でどのような位置にあるのかが徐々に分かって来て、それがニュアンスの把握につながって行ったようです。

だから、私が皆さんにお勧めしたいのは、外国語がある程度できるようになったら、その言語をその言語で説明した辞書を使うようにすることです。その言語の概念把握がしっかりとして来ます。それがひいては、ニュアンスの把握までも可能にするのです。その異変は、6ヶ月ぐらいたった頃には自覚できるようになります。ぜひやってみてください。韓国語を学ぶ人には、『연세한국어사전』(연세대학교 언어정보개발연구원編、두산동아、1998年)をお勧めします。収録語彙数は5万語と、あまり多くありませんが、頻度調査がしっかりとなされているので、現代文を読むにはほとんど不足ありません。そればかりか、説明も適切だし、それぞれの意味に、少なくとも1つ以上の例文が付いています。この例文が出色です。最近出た、小学生用の『동아 연세초등국어사전』(연세대학교 언어정보개발연구원編、두산동아、2002年)は、中級くらいから使える辞書です。これは、すばらしい辞書です。語彙数は約3万5千語で、徹底して小学生に照準を合わせていますが、韓国語を勉強する人にも大いに役に立つと思います。一般的な国語辞典としては、『동아 새국어사전』が人気があります。

しかし、何よりも重要な考えは、精魂込めて作られた韓日辞典よりも、いい加減に作られた“국어사전”の方が、意味の把握には訳に立つということです。ただし、このときの辞書の使い方は、何かを読みながら、分からない言葉が出てきたときに引くことに限るということです。私たちが日本語の新しい単語の意味を知るときにも、話の中で出てきた分からない言葉を聞いて、相手なり親なりが即興で答えたその説明で、意味の大方を把握しているのです。辞書も、そのように使うべきだと思います。ただし、『연세한국어사전』と『동아 연세초등국어사전』の二つは、分からない単語を引くだけではもったいなく、じっくり読む価値があると思います。

92年の3月に結婚し、4月から、職場を연세大学校の外国語学堂に移りました。これは、김조웅先生の取り計らいによるものです。そのときの外国語学堂は、韓国語学堂と一緒の建物でした。私が韓国語を勉強していたときにはまだ建設中で、何が出来るのだろうと思っていた建物に入ったわけです。

語学堂に入ってから数年間は、私の韓国語学習にとって、長いスランプの期間だったと言えます。また、特に、自分が韓国語をもっと上手にならなければと思うようなこともありませんでした。ごく普通に韓国語を使い、韓国語の本や新聞などを読んでいました。

また、韓国語の学習にあまり関心がなかったもう一つの理由は、その頃日本語を教えることに熱をあげていたので、韓国語にまで気が回らなかったということもあります。

ところで、韓国での生活は、韓国語が全然できないときには人々が親切にしてくれるのですが、ある程度できるようになると、打って変わったように不親切になり、あちこちで「それはできない」、「そういうものはない」と言われるようになります。できるはずのもの、あるはずのものも、そう言って断わられることがよくあるのです。しかし、韓国の人たちは、その中でも仲良くコミュニケーションを取っています。

そこで、私は彼らのコミュニケーションの取り方を観察しました。そして、どのように話が流れて行くのか、どんな言葉を使うと、相手はどう反応するのかなどを追ってみました。そして分かったのは、相手から断わられても、腹を立てたり引き下がったりせず、自分の立場をまた説明しているということでした。そうすると、相手は、態度が協力的になったり、または、本当にダメな場合は、なぜダメなのかをていねいに説明しています。

私もそれを真似して、最初に相手に断わられたとき、決して引き下がらずに、自分の立場を説明したり、私が求めているものがどう言うものなのかを詳しく話したりするようにしました。すると、相手は私に、韓国人どうしで意思疎通をするときと同じように接してくれるようになりました。それによって、韓国での生活が、急に楽になりました。今までストレスの多かった韓国生活が、居心地よくなりました。

日本人は、韓国で意思が通じないと、すぐに腹を立てて喧嘩腰になることが多いようですが、韓国の人たちのコミュニケーション方法をよく観察して、効果的な意思疎通の方法をそこから学ぶ必要があると思います。

7.ブラッシュアップの試み

それから数年たった95年頃からか、以前からの知り合いたちに、韓国語が下手になったとよく言われるようになりました。それは意外なことでした。一人から言われたのではなく、会う人ごとに言うのです。以前は、日本人だとは思わないくらい、いい韓国語を話していたのに、最近は一言話したら日本人だと分かるようになったと、何人もの人から指摘されました。

それについて、私は考えました。会う人ごとに言うのだから、彼らの指摘は事実で、私は韓国語が下手になったのだ。しかし、私自身の自覚は、その当時分からなかった韓国語のニュアンスが分かるようになり、本を読む速度も早くなった。以前になく幸せな気分を味わいながら、韓国語を読んでいる。話すのも、以前よりも楽になり、いろいろな話に付いていけるようになった。ということは、下手になったのは、理解力や運用能力ではない。とすると、発音の可能性が高い。特に、一言話して韓国語が下手になったと感じさせるのは、私の発音が悪くなってしまったからに違いない。一言ふたことで、その人の語法の問題が露出することは、あまりないからだ。……と、とりあえず、そういう結論を出して、発音の建て直しを始めることにしました。

そこで、ソニーの“IC REPEAT(CASSETTE-CORDER TCM-R3)”という機種を父に買ってもらい、それを用いて韓国語のテープを何度も繰り替えしまねる練習をしました。そのやり方は、次に書かれているものとよく似ています。

まずは非常にやさしいテキスト(三年生になっていたが一年生の教科書を使ったことなど)をテープで聞きながら何度も読む。アナウンサーの声の入ったテープを間をあけながら別のテープに録音しなおす。そしてその間に自分の声を吹き込んでみる。一つ一つのフレーズをさらに細かく区切ってやるのだが、吹き込んだあとはアナウンサーの声と自分の声を細かく聞き比べて、何度もやり直して同一の発音になることを目指す。
(セルゲイ・ブラギンスキー「語学の勉強は発音の訓練から」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.230)

私の場合は、自分の声は吹き込みませんでした。また、やさしい教材も使いませんでした。一般的な読み物は、私にとって難しくなかったからです。『KBS한국어●표준발음과 낭독』(한국방송공사、1996年)という、標準発音のサンプルテープを使いました。ただし、この教材を全部やったわけではなく、そこからごく一部を、何百回も反復練習しました。しかし、やってみて分かったのは、同一の発音、同一のリズム、同一のイントネーションで、全くハモらせずにぴったりと一緒に言うのはものすごく大変だということです。最初の日は、1時間のあいだ1つのセンテンスを繰り返しましたが、結局同じにできるようになりませんでした。それでも1ヶ月ぐらい続けるうちに、大体似たような雰囲気で発音できるようになりました。

発音練習は、1ヶ月くらいしか続けませんでしたが、この練習によって、その後も韓国の人たちの話し方を真似る習慣が身につきました。その頃から、韓国語が下手になったとは言われなくなりました。だから、やっぱり私の問題は、発音にあったのだと思います。

その頃、私はまた別の問題に突き当たっていました。当時、日本から多くの優秀な日本語教師が韓国に来て教えるようになっていたのです。それまでは、日本人なら誰でも日本語が教えられるような状態でした。私もそういう状況の中で、日本語教師になったのです。日本語教師の資格は持っていましたが、本格的に教育を受けたことはありませんでした。しかし、日本から来る彼らは、経験はないとはいうものの、本格的な教育を受けた人が大部分で、中には大学や大学院で日本語教育を専攻した人もいました。

それと同時に、韓国の経済状況が悪化し、企業内での日本語コースが徐々に廃止になって、それまで韓国で活躍していた先生たちが、徐々に引き上げて行きました。語学堂の同僚で、大学時代からずっと一緒だった友人も、コンピュータの勉強をするためにカナダへ行ってしまいました。

この状況に、語学堂の同僚たちも私も、危機感を覚えて、今後自分たちはどうして行ったらいいのだろうと、井戸端会議などでよく話しました。

そこで、もう一度、一人でよく考えてみました。私たちは彼らにくらべると、専門的な知識が劣るかも知れない。しかし、彼らになくて私たちにあるのは、韓国語の実力と韓国事情の知識だ。日本から来たばかりの先生たちは、韓国語は大してできないし、韓国事情も、せいぜい一般的な知識だけだろう。しかし、彼らは優秀な人たちだから、韓国に来て2年もすれば、韓国語を身に付けてしまう。そして、韓国事情にも明るくなる。彼らに勝る何かを身につけるには、日本語教育の専門的な知識や技術では、太刀打ちできないだろう。だったら、まだ彼らにない韓国語の実力を、もっとブラッシュアップさせて、韓国人の日本語教師のように、韓国語で日本語が説明できるまでになれば、希少価値になることができる。そういう結論に達しました。

今になって考えてみると、연세大学校外国語学堂の日本語教育の質は、高い方だと言えます。しかし当時は、他との比較ができなかったし、日本で出された日本語教授法の本は、韓国だけで教えている私たちには理解できない内容が多かったので、私たちの教授法は正統派ではないと思っていたのです。日本で出た本をいくら読んでも実際の教室に適用できなかったのは、環境が全く違っていたからなのですが、当時の私は、そうは思わずに、日本にいる人たちは私たちに到底理解できない高度な何かを持っていると考えていたのでした。

ともかく、私はそれでふたたび韓国語のブラッシュアップをするようになったのです。韓国人の書いた日本語教材を買って、その解説を読み、説明のし方を勉強しました。それらの解説には、デタラメに近いいい加減なものから、かなりいい線いっているものまで、いろいろありました。しかし、日本語のネイティブスピーカーの目からは、今一つ物足りないものばかりです。私はこの方向への可能性を感じました。

ちょうどその頃、あるところから、日本語の教材を作ってみないかという誘いを受けました。私はそれを、二つ返事で引き受けました。

96年の暮れだったか97年の初め頃、ACTFL OPIの研修を受けました。私は結局資格はもらえなかったのですが、この研修を通して、会話能力を立体的に把握する視点を得ました。以前国語学の演習で習ったカード採りの方法を韓国語学習に流用したように、今度はACTFL OPIの方法を、自分の韓国語能力をモニタリングする手段として使うようになりました。

この研修はとてもハードで、初級・中級・上級・超級のすべてのレベルのインタビューを録音しなければなりませんでした。しかし、インタビューをすると、どれもこれも中級ばかりで、他のレベルのインタビューがほとんどできません。韓国の人たちは、日本語を学び始めるとすぐに中級レベルになってしまうのですが、それで満足してしまうのか、なかなか上級にならないのです。だから、超級は言うに及ばず、上級も、初級レベルの人を見つけるのも、とても難しいのです。妻が通っているオンヌリ教会(온누리 교회)の日本語礼拝には、日本語を勉強しているたくさんの韓国の人たちが来ていると聞いたので、教会は好きではないけれども、インタビューのために行き、妻と一緒に礼拝を聞いてから、インタビューをしました。

ACTFL OPIの研修によって、自分の韓国語の実力のどこが不足しているのかが、見えて来ました。それによると、私の韓国語の実力は、大体上級ぐらいだということが分かりました。韓国に来て6年以上たっているのに、まだ超級に達していないのです。それで、超級になるために、今まで逃げていた難しい状況の中で、なるべく逃げずに韓国語で問題を解決するように努めることにしました。逃げているところが私の弱点だからです。

自分に落ち度があって事態を収拾したり、複雑なことを相手に理解させなければならない状況や、すぐにガミガミ怒鳴る相手との会話や、初めから私に反感を持っていたり、非協力的だったり、面倒くさがる相手と意見の調整をしたりするという、とても負担な場面に、逃げずに飛び込んで行くことにしました。私はこういうのは、日本語でも苦手なのです。

案の定、最初は惨憺たるものでした。私の韓国語は、その場面にでくわすと、語彙も文法も滅茶苦茶になって、基礎的な表現すら大混乱を起こすのです。もちろん、結果も思うようにいきません。しかし、自分の苦手なことを無理にすることで、韓国語の会話力は、少しずつ伸びていきました。状況を好転させる技術は身に付いていませんが、少なくとも、言う必要があると思われることは、以前よりは言えるようになりました。

97年の後半は、日本語教材の内容に関する話し合いで明け暮れました。これは私にとって、本当に勉強になりました。日本語の文法説明について、韓国語で徹底的に話し合ったからです。大学で日本語を専攻してきた人たちの考え方で理解できない、日本での日本語教育に関する考え方を説明するということを通して、大分鍛えられました。

8.クリスチャンになる

その間私は毎週教会の日本語礼拝に出て、説教を聞いていました。当時日本語礼拝を担当していた、副牧師の沖胡牧一朗師先生は、私より2歳ほど年上の、まだ若い人でしたが、説教がとてもすばらしく、礼拝は好きではないけれども、説教を聞くのは楽しかったのです。そうするうちに、97年の11月29日に、私はイエス・キリストを受け入れました。これは、これまでの人生の中で最大の方向転換でした。

韓国語の話からずれますが、私はすべての人に、イエス・キリストを信じることを勧めたいと思います。それは、私たちの人生に劇的な変化をもたらします。イエス・キリストを信じることがどういうことかを知りたい人は、三浦綾子の『光あるうちに』(新潮文庫、昭57)を読んでみてください。その本の167ページには、教会の見分け方も書いてあります。この本は、キリスト教入門の名作です。

時事日本語社の社長が、私がクリスチャンになったことをとても喜んでくださり、私が大変な状況にいたときに、頼みもしなかったのに、김조웅先生と一緒に、いろいろと助けてくださいました。そのおかげで、私はいまだに韓国に住んでいられるのです。時事日本語社にいつも祝福があることを願っています。

さて、それからしばらくして、メイン礼拝堂の韓国語の礼拝に出るようになりました。私はキリスト教の用語はほとんど知りませんでしたが、説教の内容は分かりました。これも、私がこれまで韓国語を学んで来たことで得た利益でした。オンヌリ教会の主任牧師先生の説教はとてもすばらしく、私は一時、この先生の話に夢中になって、1本千ウォンの説教テープをしょっちゅう買って来ては、車の中や家で聞きました。オンヌリ教会で招く他の教会の牧師先生たちの話もすばらしく、それらのテープを聞くのは、私の楽しみでした。それが半年くらい続きました。あまりにも私がテープを買い込むので、妻に叱られたあと、多少自制するようになりました。しかし妻も、集会などでよかった講議や説教のテープを買ってくるので、それも聞きました。

百本か2百本ぐらい聞いて、だいたい満足した頃、主任牧師先生から、創世記の講解説教集を訳さないかと言われたので、よろこんで引き受けました。これは私にとって、翻訳のいい訓練になりました。この説教集は、のちに2000年にツラノ書院から『アダムよどこにいるのか』というタイトルで出ました。実はこの本は、私が校正し、日本語の分からない美術部長と一緒に、私も日本語に合ったレイアウトを考えながら作ったのです。だから、“私が作った本”と自分では思っています。

翻訳によって韓国語の実力が上がったかどうかは自覚できませんが、少なくとも、一つ一つの語を厳密に把握しようとする習慣が付いたようです。もちろん、個々の語を厳密に把握できても、それを必ず対応する日本語で正確に表現できるわけではありません。あくまでも、原文の意味・メッセージの正確な把握なわけです。

その頃は、韓国語自体にあまり関心はありませんでした。私の関心は、聖書が中心でした。しかし、韓国語からの翻訳を行い、韓国語の礼拝を聞き、韓国語の賛美を覚え、韓国語で信仰について教会の兄弟たちと語ることで、韓国語の知識は深められたと思います。特に翻訳は、韓国語と日本語との対決で、その正確な解釈と微妙な意味の把握に力を注ぐことで、大いに勉強になっています。

また、ある伝道師先生の紹介で、韓国最大のキリスト教系新聞社で発行している日刊新聞に、日本語会話の記事を連載する機会を得ました。これは、98年から2000年まで、正味1年半ほど続きました。この記事は、会話部分よりも、日本語の日常表現を解説することに力を注ぎました。1週間に2〜3回の掲載でしたが、全部で229編の記事を書くあいだに、説明のし方がだいぶ伸びたような気がします。

9.再び韓国語の跳躍をねらう

1999年の3月末から、이화(梨花)女子大学校言語教育院の日本語講師になりました。98年までいた연세大学校もキリスト教の大学ですが、이화はもっとキリスト教信仰の生きた大学で、クリスチャンになった私がここで働けることは、大きな恵みだと感謝しています。

キリスト教文化は、韓国の中で大きな位置を占めています。そして、それは多くの韓国のクリスチャンたちの生活に根ざしています。日本人が韓国を観察し、韓国について考えるとき、このことを見過ごしてしまいやすいようですが、決して無視できないのが、キリスト教の文化です。土着化に成功しながら、純粋な信仰を保っている韓国のキリスト教文化は、日本人も学ぶべきところだと思います。

私はその後、御言葉を求める思いが、原語聖書が読めるようになりたいという強い願いになり、独りでギリシャ語を学ぶためにずいぶん回り道をしました。はじめは、牧師先生や伝道師先生から習いたいと思ったのですが、なんと誰もギリシャ語ができないのです。関心がある人もいません。それで、独りで勉強をすることにしました。

外国語を独りで本だけで学ぶのは、本当に非効率的です。せめて録音教材でも付いていればいいのですが、古典ギリシャ語にそんなものは、付いていません。私は99年頃から今まで、非効率的なギリシャ語独学のために、大量の時間を無駄にしました。また、私が使った本は、韓国で出た本で、『알기 쉬운 헬라어 문법』(고영민著、기독교문사刊、1971年)というタイトルなのですが、説明は必ずしも分かりやすいとは限らず、読解問題は極めて無味乾燥、さらに、ギリシャ語部分に誤植が多く、1ページに2つはなければ気が済まないようで、多いページはまるで校正をしていないページのようでした。表などに致命的な誤植も目につきます。この本だけでは読めないので、他の本も参考にして、疑問に思う点が誤植かどうかを確かめながら読みました。

教材を読み終わる頃から、マタイ伝を1日1節ずつ読み始めました。読み終わるまで、1年半かかりました。しかし、結果として、少しは読めるようになってきたので、多くの無駄の中に、少しは無駄でないものがあったようです。能率が悪くても、どんなにひどい教材を使っても、やる気さえあれば、何とかものになるということを、ここで確認しました。

ところで、以前から、外国語学習法に関心があって、それに関する本を集めていたのですが、2000年にホームページを初めたころ、それらの内容をコンピュータに入力して整理するようになりました。それがまた、私にとって、少しずつ外国語学習の核心に迫る助けとなっているようです。ちょっと回り道ですが、外国語学習の名著と呼ばれる文献を読み、その内容について、学習しながら考えることは、大いに助けになると思います。ある本は分かりやすかったり、ある本は、それをどう自分に適用させたらいいのか分からなかったりしますが、すぐに役立つことを期待せず、じわじわと自分の血となり肉となることを期待して、それらの本を読むことは、大いに力になると思います。

さて、01年に日本へ一時帰国したとき、古本屋で、シュリーマンの『古代への情熱』を手に入れました。そして、彼が外国語を身につける過程を熟読し、それがどんなものだったのか、自分なりに知識を総動員して再現しようと試み始めました。シュリーマンの学習方法は、かなり合理的な方法を用いていると思われますが、あの簡単な記述から具体的な手順を割り出すのは、至難の業です。その手順の中に、色々な原理が隠されているからです。それを知らずに、書かれていることだけを表面的に真似しても、失敗する可能性ばかりが高くなります。

01年の秋からは、独りで祈るとき、日本語で祈るのをやめて、韓国語で祈るようにしました。韓国語の礼拝に出ているので、日本語で祈るとき、かなり多くの表現を日本語に訳しながら祈らなければならず、不便だったのです。韓国語で祈り始めたら、祈りやすくなりました。

02年の4月頃、必要を感じて「ういろう売りの科白」を毎日練習していたら、覚えて言えるようになってしまいました。私はそれまでこのような長いテキストを丸暗記したことがありませんでしたので、新しい天地が開けた感じがしました。それを切っ掛けに、シュリーマンの学習方法の謎(?)が、少しばかり解けてきたような気がしました。

私の韓国語の弱点のうち、これから解決したいと思っているのは、適切な語彙や表現の選択です。それには、たくさんの読書も役にたちますが、数多くのテキストを暗記することが、さらに大きな力を発揮すると考えています。以前はカード採りによって自分の表現力を高めた時期もありましたが、今後はもっと確かな方法として、丸暗記という多少無骨な方法を採ろうと考えています。

今、他のことで忙しくてできませんが、時間の余裕ができたら、韓国語の文章をいくつも丸暗記して、暗唱できるようになりたいと思っています。以前アルクの高橋秀明編集長にお会いしたとき、ラジオ放送の歴史的な場面などの暗唱を聞かせていただき、非常に感銘を受けたことがあります。高橋さんは、韓国語がとても堪能ですが、その底力は、韓国語のテキスト(または音声資料)を丸暗記することにあったのです。私も、いつかそのようになりたいと、願っています。

長年韓国語を勉強してきたにもかかわらず、いまだに私はとんちんかんな受け答えをします。先日(2002年10月26日)も歯医者で、先生は「次回は“歯を削って(치아 깎고)”型を取ります」と言ったのに、「“歯磨き粉で(치약 갖고)”型を取ります」と聞いて、目を白黒させました。私の表情を見てもう一度言い直してくれましたが、今度は“歯磨き粉を削って(치약 깎고)”に聞こえ、ますます分からなくなってしまいました。こういう場合、一瞬戸惑ったとしても、歯医者では“치아(=歯)”という単語を使うのだから、“歯磨き粉で型を取る”だとか“歯磨き粉を削って型を取る”などという成立しない意味が心に浮かんだ次の瞬間に、“치아”という語を思い出し、“歯を削って型を取る”という正常な意味に組み立て直すべきなのです。私は、先生が“이 깎고”と言い換えてくれて、やっと何のことか分かりました。歯医者を出て家まで歩きながら、自分はまだまだだなあと思いました。

10.文章による韓国語修行

私は연세대학교の大学院に通っていたのですが、05年の後半は、論文テーマ探しに明け暮れ(?)ました。いろいろ悩み、二転三転した結果、私がいちばん弱かった「複文」をテーマに選ぶことにしました。特に連結語尾「-어서」と「-고」の使い分けが苦手だったので、それを日本語の接続助詞「て」と対照させて用法を調査することにしました。はじめは対照研究の方法を知らなくて、ずいぶん無茶な計画を立て、指導教授の서상규先生から注意されました。対照研究というのは、私の後に整理した言い方で言えば、「基準言語」の体系の中で、「参照言語」との対応関係を調べるものです。たとえ韓国語を知りたかったとしても、日本語が出発点にあるなら、日本語の体系をしっかりと把握しなければなりません。つまり、日本語の方の参考文献をたくさん読まなければならないのです。それが分って、やっと論文の準備ができるようになりました。

この対照研究が私にとってよかったのは、ただでさえ不慣れな“研究”というものを、また不慣れな韓国語の論文を読みながら進める苦労から避けられた、という点です。そして、例文は日本語の原文と韓国語の翻訳を付き合わせるものなので、例文の分析で受ける苦労がかなり軽減されました。

大学院に通うこと自体は、韓国語修行とはなりませんが、部分的には韓国語の能力を高める訓練にもなります。修士論文を書きながら、3回の口頭発表の機会がありました。1回目は予備審査前に大学院生同士で行う“콜로키움”、それから、論文の予備審査、そして本審査です。콜로키움は予備審査に対する自信付けになりました。そして、予備審査は、たった1回しかしなかったのに、発表自体に対する自信を与えてくれました。この1回の発表で、かなりの自信をつけたのです。だから、韓国語修行をしたいと思う人は、韓国の大学院に通って勉強することをお勧めします。

予備審査当日の朝、家から学校までタクシーで行きました。연세대학교まで行ってください、というと、土曜日も学校があるのかといいます。論文の予備審査があるんですと答えると、すごいねえ、연세대학교は私学の雄だからねえ、とほめてくれます。そして、自分は頭が悪くてタクシーの運転手をやってるけど、君は大丈夫、必ず審査に通るよ、と言って励ましてくれました。私はその人がとても頭のいい人に思えました。동부이촌동という特殊な地域から、연세대학교まで、最短時間で行けるルートを、正確に把握していたからです。車線の選び方も、実に洗練されていました。しかし当人は、それがすごいことだと気付いていなかったのです。

発表自体は、何とか卒なく行うことができました。しかし、論文の結論が、結局実用的な用をなさないものだったので、私自身は面白くありませんでした。ところが、副査の유현경先生が、動詞の種類で分類したらどうかと言ってくださいました。それを受けて、副査ではなかったけれど、審査に加わられた홍윤표先生が、油谷先生が『朝鮮学報』に昔書いたアスペクトに関する論文が役に立つだろうと教えてくださいました。これは私にとって、非常に大きな収穫でした。先生たちのアドバイスを受け入れて、結論は大きく変化しました。そして、「-어서」と「-고」の使い分けが、一部分ですが、明らかになったのです。それは、結果の持続を表す付帯状態において、結果状態相が「-어 있다」を取る動詞は「-어(서)」となり、「-고 있다」を取る動詞は「-고」となる、という点でした。これだけは、「-어서」と「-고」の意味の違いをいくら考えても、それだけでは分からなかった部分なのです。

もちろん、この論文1本で全てが明らかになったわけではなく、多くの不明な点を残しはしました。しかし、その中で一つだけでも新たな側面が発見されると、それは研究の成果となります。それによって、残された不明な点についても明らかにしていこう、という意欲が湧いてきます。

韓国語修行を目指そうと志した人に、私はぜひ、対照研究を行うことを勧めたいと思います。韓国語の用法には、まだ明らかになっていない部分がたくさんあります。教材や研究論文を読みながら、それでも正確に使用できない部分について、自分で研究して明らかにしていくのです。そのとき、私たちの母語である日本語は、とても重要な役割を果たします。日本語を反省することによって、相対的に、韓国語の位置がはっきりしてくるのです。私にとっては、複文の日韓対照研究によって、今まで誰も教えてくれなかった点について、自分自身の研究から教わることができたのが、大きな収穫でした。これからも、自分の苦手な部分を攻略して行きたいと考えています。

この私の初めての研究は、その年の秋の“한글학회”で、発表する機会を得ました。タイトルは“접속조사 て와 한국어 연결어미 대조연구―-어(서),-고와의 대조를 중심으로― ”です。学会発表で与えられている時間は20分なので、発表練習ではいつも、20分以内に読めるように、少し早口で話す練習をします。その練習は、韓国語を話すうえで、とても役に立ちます。(この原稿を20分で読みきるのは無理なので、発表したときには、いくつかの段落と、例文の日本語の部分を省略して20分以内に収めました。)

私は、早く話しても早く聞こえない方法を工夫しながら話しました。具体的には、重要な点をはっきり発音し、必要な間はきちんと取りながら、それ以外の箇所は素早く読んでいくのです。これが可能になるためには、正確な発音の練習が欠かせません。発音がどうして必要なのか、と疑問に思っている人は、ぜひその点に気をつけていただきたいと思います。よい発音は、聞き手に対するサービスであり、親切さでもあります。

11.放送授業の韓国語と読書

2009年の2月5日、韓国放送通信大学校の사공환先生から、放送授業の発音コーナーをやってみないかというお誘いが来ました。時間は毎回5分ぐらいだということです。すぐに「やります!」と返事しました。

実は、私はビデオカメラの前で話すのが、ひどく苦手です。2005年に日本語の学習書を作ったとき、その出版社の動画講義を紹介するビデオを撮ったことがあります。そのとき、講師の先生が流暢に話したあと、私が話す段になると、途中で言葉が詰まってしまい、何度もNGを出してしまいました。たった5分の内容なのに、2時間ぐらいかけて録画が終わりました。私も疲れたけれど、講師の先生とカメラマンの신제훈さんは、どれだけ疲れたことでしょう。そのとき私は、もう二度と録画はすまいと誓ったのでした。

しかし、その後考えが変わりました。これも韓国語の実力のうちと思ったのです。私は自分の韓国語の実力を伸ばす方法について、自分なりに工夫もしていました。時々掛かってくるキャッチセールの相手をして体よく断る遊びのようなこともしました。電話を切るとき、相手が気分よさそうだったら成功、不機嫌そうなら失敗といったふうにして、断る方法を工夫していたのです。最初から断る目的で電話に出るのだから、相手にとってはいい迷惑かもしれませんが、相手もこちらの迷惑を考えていないわけですから、お互い様です。それに、キャッチセール担当者の大半は、説得のプロです。これでもか、これでもかと変化球を投げてきます。それを、いいサービスだとほめたり、でも自分にとって有益な条件ではないと言ったりしながら、友好的な雰囲気の中で電話を切るには技術が要ります。うまくいけば、また掛かってくるので、練習を繰り返すことができます。電話代は向こう持ちなわけだから、無料の韓国語レッスンです。最近(2009年現在)は忙しくなってしまって、そういう電話の相手をする気力はありませんが、去年までは、よくやっていました。

しかし、それは韓国語による一種の交渉力であって、人前で公に話す能力は身につきません。それを伸ばすためには、韓国語で講義をする仕事が必要だと思うようになりました。EBS(韓国教育放送)のラジオで講師ができたらいいだろうなあ、と思ったりもしました。でもそれは難しい。なにせ、ラジオ講義は素晴らしい先生が講師をしていて、自分はそれに取って代われるような代物ではない。話題豊富な講師の先生にくらべ、自分の話題は貧弱だ。それに、毎月1冊ずつ本を出すというのは、並大抵の苦労ではありません。そこで、私は自分の話題について、深刻に考えるようになりました。実際、放送の講義だけでなく、本や教材を書くときにも、話題の豊かさは大事な要素です。

そんなことを考えているときに、사공환先生からのお誘いがあったわけです。最初は日本語基礎だけの話だったのですが、先生の研究室へ伺ったとき、ひょっとして日本語活用もできますかと聞かれたので、はい、やりますと、二つ返事で引き受けました。それで、2講座のコーナーを担当することになったのです。

このコーナーは、講義の台本を自分で書いて録画に臨みます。録画自体がうまくいかなくても、原稿が何とかなっていれば、いちおう授業の体裁は整うだろうと考えました。それに、EBSのように不特定多数の聴取者を対象にしているわけではなく、放送通信大学に登録している学生たちのための放送です。多少話し方がぎこちなくても、それほどクレームは来ないだろうということも考えました。そこで、原稿作りに重点を置いて仕事をすることにしました。

ところが、録画を始めてみると、すごく大変でした。プロットを出してはくれるのですが、口が動きません。言い間違えたらさっさと取り繕えばいいのに、そこで絶句してNG。そして、また最初から撮り直し。そうやって、最初の日は、2本撮るのに2時間近くかかりました。プロデューサーの신성철さんは、普段授業をしている通りにやればいいと言うのですが、会話の授業ではこんな長い説明をしません。しかも日本語オンリーです。残念ながら、신さんのアドバイスは、私には意味をなさないのでした。録画の前に何時間も読む練習をするのですが、なかなか上達しません。

そうこうするうちに、あるとき『스물일곱 이건희처럼』(이지성著、다산북스、2009)という本を読んで著者に興味を持ち、インターネットで検索していると、著者の이지성氏が、ウィンストン・チャーチルについて書いている内容が出てきました。チャーチルは、1日に5時間、義務的に本を読んでいたということでした。それを見て私は自分の読書の少なさを反省し、韓国語の本をなるべくたくさん読むことに決めました。

そうやって何冊か韓国語の本を立て続けに読んでいると、講義をするときに不思議と口が滑らかに動くようになって来るのでした。読書は目でするもので、口を動かして読むことは滅多にありません。それが、何時間も原稿を読む練習をしたときよりも、はるかに韓国語で滑らかに口が動くようになるのです。そこで私は、読書の大切さを身にしみて感じました。本を読むことが原稿の書きやすさや韓国語表現の自然さに影響することはなかったようですが、カメラの前で話すときの口の動きには、明らかな変化がありました。最後の録画では、1回しか事前に読まなかったのに、録画は1度でOKでした。

日本語基礎が15回、日本語活用が15回で、合計30回録画をしました。それは私の韓国語の実力を、だいぶ伸ばしてくれました。そのときに読書を並行したことは、とても有益でした。この時に、最近韓国ではけっこう面白い本がたくさん出ていることを知りました。韓国では、ここ10年来の苦しい経済状況の中で、著述業で生計を立てる人が、少数ながら増えてきているようです。彼らは文章で勝負をしているので、内容のよさだけでなく、文章の分かりやすさ、面白さに関しても、生活をかけています。だから、読みやすくて内容もあり、しかも面白い本が、たくさん出ているわけです。

私は主に、ベストセラーの中から目に付いたものを読み、その著者が面白ければ、同じ著者のベストセラーでない他の本も読んだり、その本で紹介されている本を読んだりして、少しずつ読書の幅を広げています。私が足繁く通っている교보문고は、『사람과 책』という定期刊行物を出して、新刊を含む読書案内もよくやっているし、分野別ベストセラーを毎週更新して店頭の目に付く場所に並べているので、それらを目安に本を選んでいます。

実に、本を読むことは、韓国語の実力を身につける上で欠かせないことです。日本ではどうやって韓国の本を手に入れるのか知りませんが、出版情報に関しては、インターネットを通して日本でも好きなだけ手に入れることができます。実際、私もある本を読んで著者が気に入ったとき、その著者に関してはインターネットで調べます。その点に関しては、日本にいる人と変わりありません。韓国の本が日本でも入手できるなら、どんどん取り寄せて読んだらいいと思います。それは、韓国語の実力を高める上で、大きな力になるはずです。

本を選ぶときには、あまり固い内容のものはよくないだろうと思います。読みきるのに時間がかかりすぎる上に、話し言葉との乖離も大きく、講演や授業などで話す韓国語にはあまり相応しくありません。なるべく流麗な文体で、目を追って理解しやすい本がいいと思います。最近の出版物は、概して文章はよくなったという印象があります。センテンスも短くなってきていて、表現も明晰になってきたようです。

今後の私の目標は、韓国語で読むときの速度を高めることです。今のところ、日本語を読むときに比べて4〜5倍の時間がかかるので、読める冊数が限られてしまいます。その壁をどうやって破ったらいいのか。それが最近の関心事です。

ちなみに、私は自分の講義をテレビでもインターネットの動画でも見ませんでした。とても見たい気持ちになれなかったのです。それで、自分がどんな風に話しているのか、知りません。