From Kuroneko To ijustat@chance at 2004 04/18 18:07

 

関口存男の学習法 DOC版(ルビつき)

 

こんばんは! 日本は暑いです、夏のように。
 

実は関口存男の『わたしはどういう風にして独逸語をやってきたか?』というエッセーについて、引用しつつ書こうと思います。

このエッセーは、荒木茂男,真鍋良一,藤田栄(編集責任者)『関口存男の生涯と業績』(三修社,1967)という関口氏の追悼本の中に収められています。この本はアマゾン・コム等で調べたところ、入手できないようです。僕は公立図書館で見つけたのですが、もしかしたら一般向けには販売されていないたぐいの書籍なのかもしれません。さて、前置きはここまでにして、内容に入っていきます。

氏は戦前の陸軍幼年学校(現在の中学相当年齢)でドイツ語を学び始めたそうです。そして、その少年時分に「ドイツ語をモノにしてやる!」と思い、熱心に学んだ様子です。そして、初級文法の習い始めの時期に、『罪と罰』の独訳を購入し、読み始めたとのことです。無茶ですね〜。以下、引用です。

「意味がわからないままで読むといつても、決して上すべりして字の上を滑走したというのではありません。とにかく「わかろう、わかろう」と思って、片つぱしから辞書を引いて、辞書に書いてあつた意味を何でもかでもその語の妙な響きに結びつけて、そうして一行か二行を穴の開くほど睨みつけて、十ぺんも二十ぺんも三十ぺんも読みなおして、ああじゃないか、こうじゃないかと、とにかく十四歳の少年の智慧に及ぶ最後の限界まで考えつめたのです。」p.53-p.54

そんな読み方で『罪と罰』を2年ほど読んでいくと……

「千頁近くもある本(引用者注:『罪と罰』のこと)を、わけもわからぬままに、二年ぐらいかかつて、数百頁よみました。するとどうでしょう、おしまいの頃には、なんだか……わかり出したのです!」p.55

すごいですね〜。で、その「わかり出した」というのは具体的にはこんな様子だったようです。

「ところが妙なことには、話の筋は大体わかつてきたのに、文章の関係や、その他文字のことはホトンド霧の日に隣の家を見るように、朦朧と霞んで、なに一つハツキリわからない。たとえば、ズラツト一行の文章がならんでいると、わたしはいつもの癖で、すぐそれを発音してペラペラと読んで、幾度もくりかえして、おしまい頃には、二行か三行までの文章なら、二三度よむと、すぐ眼をつぶつてそれを暗記でいえたものです。ところが、その中には、ほんの飛び石のように、あちこちに知つた単語があり、ちよいちよい知つた句があるくらいのもので、全体の構造などはわかりもせず、翻訳して見ろと言われたつて出来ません……が、それにも拘らず話の筋はよくわかつて来たのです!」p.55-p.56

そしてある晩、関口少年の頭の中に意味のわからないドイツ語のフレーズや文が、ガンガン鳴り響いて、眠れない夜があったそうです。そして、心を平静にしても、耳から離れない句があったので、どこまで句が続くか頭の中で文を綴ってみると、なんと一頁分の文章が出来たそうで、それは数日前に読んだ『罪と罰』のあるページとほとんど一緒だったそうです! この人は結果的にシュリーマンと同じことをしていたんですね。

その頃の様子は以下のようだったとのことです。

「私の頭の中には、なんだかよく意味のわからない、あるいは半わかりのドイツ語の短文や断句がゴシヤゴシヤと詰めこまれてしまつたわけです。意味がよくわからなくても、いつこうに苦にならない。というよりは、むしろ、いろんな文句がペラペラツと出てくるのだから、それでつまり解つているような気がしていたものと見えます。」p.57

個人的な推測ですが、この頃に関口氏の脳内に「ドイツ語のメモリー領域」のようなものが出来つつあったのかなぁ……などと思います。例文暗唱も同じような効果があると思うのですが、いかがでしょうか?

さてその語、『罪と罰』をさらに読み進めていくと……

「あの膨大な書物の三分の二ばかり、わからぬままによんだのち、二年生から三年生になる当時だつたと思いますが、なんだかコウ、ところどころ、イヤにはつきりよくわかる箇所が頻々として出てくるのに気がつきました。時とすると、半頁も一頁も、スラスラと読めて、よく意味がわかるのです!」p.62

この段階で、関口少年は一語一句の意味がはっきりと理解できるようになったそうです。その後、『罪と罰』をもう一度始めから読み始めると、気持ちいいぐらいに理解でき、猛然と一気に読破してしまったそうです。2年近くかけてやっと3分の2程度読めた本を、1,2ヶ月で読んでしまったというから凄いですね!

その語はドイツ語の小説、戯曲などを手当たり次第に読んでいったそうです。その読み方は、、、

「大部分は、ちよいちよいと辞書を引くきりで、マア大体中に書いてあることはスラスラとわかつた。一文のうちに二語や三語知らぬ単語が出てきても、大体わかると、そのまま次をよんで行くという「流読」の癖がついたのも、この、地方幼年学校三年のときです。」p.63-p.64

これが関口氏の勉強史なんですが、その後に勉強法を総括しています。

 

関口氏は語学学習上において、「精読」と「流読(多読・濫読)」の両者のうち、「流読」を勧めています。

「また、相当はじめの頃から、思いきつてこいつ(引用者注:流読のこと)をやらないと無意識な底力というものがいつまでたつても生じないのです。スラスラと読み流すなどということは、それは相当語学力がついてから後のことだろうと思うと大きな間違いで、それはむしろ逆で、それをやらないと「相当の語学力」なるものがそもそも生じないのです。「わかるとスラスラ読めるようになる」のではない「スラスラ読むとわかるようになる」のです。」p.65

一方、精読に関しては、

「一字一句の意味をしらべ、よくわかつてからでないと先へは進まぬという精読主義の方は、わたしはこの方がむしろ実行しにくいと思います。この方はよつほど意志強固な人でないと最後まで徹底的にやれないでしょう。」p.68

と、語っています。う〜ん、僕は結構、同感です。実は僕も辞書は余り引かないタイプなんですよね。また、

「精読というやつをやる時には主として「頭」と「理智」と「意識」が働きます。それに反して流読というやつをやる時のは「感じ」と「本能」と「無意識」が働くのです。わたしは、語学というやつは、頭の問題ではなくて、やはり感じの方が主じゃないかと思います。頭でおぼえたことは割合役に立たない、感じと本能でおぼえたことは確かです。 (中略) 流読しているというと、意識的に詳しく考えるなどという暇がありません。そのために、頭脳の方が遮断されて、主として潜在意識の方がはたらき出すものと見えます。精読してわかると、意識活動が旺盛であるために、一見非常に進歩しているような気がして、頭の好い人には、気持ちに満足を与えます。その代り、冴えた意識活動のために、無意識活動の方が阻止されて、感じというものの発達が、むしろ邪魔される傾向すらあります。」p.68-p.69

とも語っています。確かに語学に関しては「理解」だけでは、使い物にならないですよね。個人的な経験ですが、僕は文を暗記するやり方で仏語を学んだのですが、その仏語は理解中心で学習した英語よりも会話に抵抗感がはるかに少ないんですね。簡単なフレーズなら勝手にペラペラ喋るって感じです。英語も受験後に例文暗記に励んだのですが、最初から暗記中心だった仏語に比べると、……なんかイマイチです。

さて、関口氏の方に話を戻します。流読の方法について、以下のように述べています。

「まず第一には、少々わからなくても、そんな事はあまり気にしないことです。第二には、わからない単語を一つ一つ辞書で引くのもよろしいが、一語一語の意味を知ろうとする努力はマア適当にしておいて、わからない所があつたならわからないままにしておいて先を読んでいくことです。ただし、ある一つの文章がよく意味がわかつて、しかもその中に一語一句だけ知らないものがあつて、それが非常に気になる……といつたような事がよくありますが、そんな時には、チヨツトゆつくりかまえて、辞書を引いて詳しく考えてみることです。そんな時に調べた単語は非常によく頭に入り、あとで非常に為になります。これは単調な流読の砂漠の中の緑地のごときもので、そんなことばつかりやつていてはそれがまた単調になつて効果が少なくなりますが、たまにやるから、よく効くのです。
 第三には―これが最も重要!―色んなツマラナイ反省を敢然として斥け、完全に馬鹿になりきることです。」p.66-p.67

方法について疑問が生じたら、

「方法に良し悪しはない、良い方法を不徹底にやるよりは、悪い方法を徹底してやる方が、結局最後の意味においてはそれが好い方法なのだ」p.67

と考えろ、とアドバイスしています。
関口氏はこの流読と並行してある氏が“ペラペラ的メトーデ”と呼ぶ方法を用いています。その方法について、以下のように書かれています。

「地方幼年学校時代、しよつちゆうわけのわからぬ短文や断片が頭の中で踊つていて、それが丁度役に立つたことから思いついて、私はその後、或種の方法を自分で発明して意識的に用いはじめました。それはすでにこれまで何度も人に紹介した方法ですが、ついでに一寸のべておきます。(実際的には二十歳頃からやり出したフランス語の勉強の時にはもつぱら此の方法で進歩しました。)
 それはこうです。流読をやっている最中、「これはよく意味がわかる!」という文に遭遇すると、わたしはすぐ本から目を上げて、その文章を(たとえ二行でも三行でも)ソラで言つてみます。つまつたら、カンニングをするようにチヨツト本を見て、なんとかしてそれを覚えてしまいます。そしてそれを何度も何度も言つておぼえてしまうのです。
 おしまいには、どんな文でも、二行三行くらいまではそれを一度読んだきりですぐソラで言えるようになりました(三四年つづけているとです)。しかも、一つの文をいつまでも暗記しているのではなく、どんどん忘れてもいいのですが、とにかく文を読めばすぐそれをソラで言えるように、毎日毎日練習しました。」p.70

これはある種の例文暗唱ですね。なんだか語学の達人の勉強法には共通点が多いですね。
氏は以上の方法で2年ほど仏語を独学し、その後、東京の神田にある仏語学校アテネ・フランセに入学します。アテネは僕も通っていました。

「その前(アテネ・フランセ入学前:引用者注)の二年間ほどは、ちようど暇があつたので、わかつてもわからなくてもとにかく一日に百ページ位のフランス語は必ず読むことに決めて勉強し、その上おまけに一日に半時間ぐらいは、既に前に申し上げた、「二三行の文章を一度眼を通したきりで、中に少々わからぬ単語があつても、すぐそれをペラペラとそらで言えるようにする」という練習時間を設けて、とにかくそれを二年間つづけて強行したものですから、その間のフランス語の進歩は実にすばらしいものでした。」p.78

入学後3年目で、同校のフランス語講師になっていますので、以上の勉強法でかなりの力をつけていたようです。聞き取りなども、慣れてしまえば、すっと理解できたそうです。このことから関口氏は会話などの“実際語学”に関して、以下のように結論づけています。

「殊に強調して申しあげたいのは、実際語学というものは、既に書物が充分読めるようになつてさえ居れば、まことにわけもないものだという此の一点です。私は、自分の経験からして、断乎として此の点を主張したいと思います。」p.79

と言うことだそうです。今の日本の語学教育とは正反対ですね。ただ、個人的には関口氏の意見に賛成です。

えー、大変長くなりましたが、以上、引用を中心に纏めてみました。引用は旧漢字を常用漢字に改めた以外は、原文のままです。ijustat様の参考になればいいな、と思っています。



※以上の文は、「書き込み帳」に書き込んでくださった Kuroneko さんの文章です。非常に有益だと感じたので、承諾をいただいて、こちらに転載いたしました。