蘭学事始 上之巻

 今時、世間に蘭学といふこと専ら行はれ、志を立つる人は篤く学び、無識むしきなる者はみだりにこれを誇張す。その初めを顧み思ふに、昔、翁がともがら二三人、ふとこのわざに志をおこせしことなるが、はや五十年に近し。今頃かくまでに至るべしとはつゆ思はざりしに、不思議にも盛んになりしことなり。漢学は中古なかむかし遣唐使けんとうしといふものを異朝へ遣はされ、或は英邁えいまい僧侶そうりょなどを渡され、じかにかの国の人に従ひ学ばせ、帰朝の後貴賎上下へ教導のためになし給ひしことなれば、漸く盛んになりしは尤ものことなり。この蘭学ばかりは左様のことにもあらず。然るにかく成り行きしはいかにと思ふに、それ医家のことはその教へかたすべてじつに就くを以て先とすることゆゑ、却つて領会りょうかいすること速かなるか、または事の新奇にして異方妙術もあることのやうに世人も覚え居ることゆゑ、奸猾かんかつの徒、これを名として、名を釣り利を射るために流布るふするものなるか。つらつら古今の形勢を考ふるに、天正てんしょう慶長けいちょうの頃、西洋の人漸々ようようわが西鄙せいひに船を渡せしは、陽には交易によせ、陰には欲するところありてなるべし。故にその災ひ起りしを国初以来甚だ厳禁なし給へりと見えたり。これ世に知るところなり。その邪教のことは知らざるところの他事なれば論なし。但し、その頃の船に乗り来りし医者の伝来を受けたる外科の流法は世に残れるもあり。これ世に南蛮流とはいふなり。その前後より和蘭オランダ船は御免ありて、肥前平戸ひらどへ船を寄せぬ。異船御禁止になりし頃も、この国はその党類にはあらざる次第ありて、引続き渡来を許させ給ひぬ。それより三十三ヶ年目にて、長崎出島でじまの南蛮人をひ払ひて、その跡へ居を移せしよし。それよりは年々長崎の津に船を来たすこととはなりぬ。これは寛永十八年のことなるよし。その後、その船に随従し来れる医師に、またかの外治の療法を伝へし者も多しとなり。これを和蘭流外科とは称するなり。これもとより横文字の書籍を読みて習ひ覚えしことにはあらず、たゞその手術を見習ひ、その薬方やくほうを聞き、書き留めたるまでなり。尤も、こなたになきところの薬品多ければ、代薬だいやくがちにてぞ病者も取扱ひしことと知らる。
、その西洋流といふ外科の一家出来たり。この家は、その初め南蛮船の通詞つうじ西吉兵衛といへる者にて、かの国の医術を伝へ、人に施せしが、その船の入津にゅうしん禁止せられて後、また和蘭通詞となり、その国の医術も伝はり、この人南蛮和蘭両流を相兼ねしとて、その両流と唱へしを、世には西流と呼びしよし。その頃は至つて珍しきことにてありければ専ら行はれ、その名も高かりしゆゑにや、後には官医に召し出され、改名して玄甫げんぽ先生と申せしよし。その男宗春むねはると申されしは多病にて早世し給ひ、家絶えしとなり。これわが祖甫仙翁ほせんおうの師家なり。その後召し出されし今の玄哲げんてつ君の祖父玄哲先生は、玄甫先生の姪の続きなりとなり。右の玄甫先生、初めて西洋医流を唱へられしより、公儀にも御用ひ遊ばされしことにて、和蘭医事御用に立ち初めなり。
、また栗崎流といへるは、南蛮人の種子なりと。これは南蛮邪宗の徒厳禁となり、その船の渡海も御禁制となりたれども、以前は平戸長崎の地にかの人々雑居し、妻を持ち、子も有りしが、後々これをも吟味ありて、蛮人の種子の分は残らずこの地を放流せられしが、そのうち栗崎氏にて名はドウといふものは、かの地に成長してもその宗には入らず、その国の医事を学びしが、邪宗に入らざる訳を以て帰朝を許され召し帰され、長崎へ帰りし後、その術を以て大いに行はれ、至つて上手なりしが、人々栗崎流と称せしよし。名のドウといへるは蛮語露の事なるよし。後に文字をめて道有としたためしとぞ。今の官医栗崎君の祖なるや、また別家の栗崎なるや、つまびらかなることは知らざるなり。吉田流、楢林ならばやし流などいへる流儀は和蘭通詞にて、かの方法を学び、一門戸を開きしなり。
、桂川流の御事は、今の代より五世の祖甫筑ほちく先生と申せしは、文廟未だ藩邸におはせし時召し出されし御外科なり。その師家は平戸侯の医師にて、嵐山甫安と申したるよしなり。この甫安はその侯より、出島でじま在館の和蘭外科に御託し置かれて親しく学ばせ給ひしとなり。この御家は、平戸へ入津以来、かの国の人のことは訳品わけしなありて御親しみ御自由なることのよし。またその時代は、今の如くにもなかりしにや。甫筑君その頃幼若にて門人となり、師に付添ひて出島へも時々参られしが、専ら嵐山の流法を伝へ給ひしとなり。和蘭の外科はダンネルとアルマンスといふ人ときけり。桂川、もとは大和の国の人にて、森島氏なりしが、嵐山の流を汲むといふこころにて家名を桂川と改め給ふとなり。今の桂川君の御祖父甫三と申せしは、翁若かりし時、常にこう厚かりし御人なりしゆゑ、このこと語り給へるを聞き置きはべりぬ。これを世に桂川流と称しぬることなり。
    また古来カスパル流といふ外科あり。これは寛永二十年、南部山田浦へ漂流ありし和蘭船の人数の内、江戸へ召し呼ばれたる中に、カスパル某といふ外科あり。三四年留め置かれ、その療法を学ばせられし者もありしが、追々長崎へ御送りのよし。江戸並に長崎にても、正保の頃、このカスパルより伝来の療法ありしを、詳らかなる事を知らざれども、後にカスパル流ととなふることと申すことにや。また別にカスパル姓の外科渡来のこともありしか。この他長崎にて吉雄流と申せり。その諸家の伝書といふものどもを見るに、みな膏薬油薬の法のみにて、くわしきことなし。かくの如き類にて、備はらざる事のみなれども、そのわざは漢土の外科には大いに勝り、また本邦のいにしへより伝はりたる外治には大いに勝れりといふべきか。そのうちに翁が見たる楢林家ならばやしけの金瘡の書といふものあり。その中に人身中にセイヌンといへるものあり。これは生命にあづかる大切のものなりと記せり。今を以て見れば、これセーニューにして、神経と義訳ぎやくせしものと思はる。わづかながらこれ程のことを聞書ききがきせしはこの書を初めとすべし。
、国初より前後、西洋のことにつきてはしかじかのことありて、すべて厳しく御制禁仰せ出されしことゆゑ、渡海御免の和蘭にても、その通用の横行の文字、読み書きのことは御禁止なるにより、通詞の輩もたゞ片仮名書きの書留等までにて、口づから記憶して通弁の御用も工弁せしにて、年月を経たり、さありしことなれば、たゞ一人横行の文字読み習ひたしといふ人もなかりしなりき。然るに万事その時至れば自ら開け整ふものなるゆゑにや、有徳廟の御時、長崎の和蘭通詞西善三郎、吉雄幸左衛門、今一人何某(名は忘れたり)とかいふ人々申し合せて談ぜしは、これまで通詞の家にて一切の御用向取扱ふに、かの文字といふものを知らず、たゞ暗記のことばのみを以て通弁し、入組みたる数多の御用をかつかつに弁じて勤め居ることは、あまりに手薄き様なり。なにとぞ我々ばかりも横文字を習ひ、かの国の書をも読むべきこと御免許をこうむりなばいかに。さもあらば、以来は万事につけ事情明白にわかり、御用弁よろしかるべきなり。これまでの姿にてはかの国の人に偽り欺かるゝことありても、これを糾明するの便りもなきことなりと、三人いひ合はせて、この次第を申し立て、なにとぞ御免許なし下されたき旨、おおやけへ願ひ奉りしに、御聞届けられ、至極尤もの願ひ筋なりとて、速かに御免を蒙りしとなり。これぞ和蘭渡来ありてのち百年餘にして横文字学ぶことの初めなるよしなり。
、これによりて文字を習ひ覚ゆること出来、西善三郎等先づコンストウヲールドといふことばの書を和蘭人より借り得しを、三通りまで写せしよし。和蘭人これを見てその精力に感じ、その書を直に西氏に与へしよし。かくありしこと等、自然に上聞じょうぶんに達しけると見え、和蘭書と申すもの、これまで御覧遊ばされしことなきものなり、何なりとも一本差し出し候やう上意ありしにより、その頃何の書なりしにや、図入の本差し出せしに、御覧遊ばされ、これは図ばかりも至つて精密のものなり、このうちの所説を読み得るならば、また必ずくわしき要用のことあるべし、江戸にても誰ぞ学び覚えなば然るべしとのことにて、初めて御医師野呂のろ元丈げんじょう老、御儒者青木あおき文蔵ぶんぞう殿との両人へ仰せを蒙り候よしなり。それよりこの御両人この学を心がけられたり。然れども、毎春一度づつ拝礼に来る和蘭人に付添ひ来る通詞どもより、僅かの滞留中聞き給ふこと、殊に煩雑寸暇もなき間のことなれば、しみじみ学び給ふべき様もなし。年数を重ね給ひしことなれども、漸くソン(日)、マーン(月)、ステルレ(星)、ヘーメル(天)、アールド(地)、メーンス(人)、ダラーカ(竜)、テイゲル(虎)、プロイムボーム(梅)、バムブース(竹)といふ位よりかの二十五字を書き習ひ給へることのみなり。然れどもこれぞ江戸にて和蘭事学び初めし濫觴らんしょうなりき。
、さて、翁が友豊前中津侯の医官前野まえの良沢りょうたくといへるものあり。この人幼少にして孤となりその伯父淀侯の医師宮田全沢といふ人に養はれて成り立ちし男なり。この全沢、博学の人なりしが、天性奇人にて、万事よろずその好むところ常人に異りしにより、その良沢を教育せしところもまた非常なりしとなり。その教へに、人といふ者は、世にすたれんと思ふ芸能は習ひ置きて末々までも絶えざるやうにし、当時人のすててせぬことになりしをばこれをなして、世のために後にその事の残るやうにすべしと教へられしよし。いかさまその教へにたがはず、この良沢といへる男も天然の奇士にてありしなり。専ら医業を励み東洞とうどうの流法を信じてその業を勤め、遊芸にても、世にすたりし一節截ひとよぎりを稽古してその秘曲を極め、またをかしきは、猿若さるわか狂言の会ありと聞きて、これも稽古に通ひしこともありたり。かくの如く奇を好む性なりしにより、青木君の門に入りて和蘭の横文字とその一二の国語をも習ひしなり。
    後にその著せし蘭訳筌らんやくせんといふものを見るに、それより以前のこととみえしに、同藩の坂江鴎といふ隠士いんし、一日蘭書の残篇を良沢へ見せ、これは読みわけ解すべきものにやといひしに、これを借り受けてつらつら思ふに、国異に言殊なるといへども、同じく人のなすところにしてなすべからざるところのものあらんやとこころざせしに、さてこれに取り付くべきの便りなきをうらみ居たりしことなり。それよりふと青木先生この学に通じ給ふと聞き、遂にその門に入りてこれを学び、和蘭文字略考などといふ著書をさずかり、先生の学びれるところをば聞き尽せりとなり。
 これは青木先生長崎より帰府の後のことと聞ゆ。先生長崎へ行かれしは延享えんきょうの頃にやと思はる。良沢の入門は宝暦の末、明和の初年、歳四十餘の時なりしか、これ医師にて常人の学べるはじめなるべし。
、然れどもその頃はわけて常人のみだりに横文字を取扱ふことは遠慮せしことなり。すでにその頃本草家ほんぞうかと呼ばれし後藤梨春りしゅんといへる男、和蘭事の見聞けんもんせしを書き集め、紅毛談おらんだばなしといふ仮名書の小冊を著し、開版せしに、その内にかの二十五文字を彫り入れしを、何方いずかたよりかとがめを受け、絶版となりたることもあり。
、またその後山形侯の医師安富やすとみ寄碩きせきといふ者、麹町に住まひたり。この男長崎に遊学し、かの地にて二十五文字を習ひ且つその文字にていろは四十七文字を綴り合ひしをしたため貰ひ帰り、人に誇りてかの書籍も読み分くるやうにいひらせしを、翁なども珍しきことに思ひたり。同藩中川淳庵じゅんあんなどは、麹町に町宅してありしが、この男より和蘭文字を初めて習ひしなり。
、翁、かねて良沢は和蘭事に志ありや否やは知らず、久しきことにて年月は忘れたり、明和の初年のことなりしか、ある年の春、恒例の如く拝礼として蘭人江戸へ来りし時、良沢、翁が宅へ訪ひ来れり。これより何方いずかたへ行き給ふと問ひしに、今日は蘭人の客屋に参り、通詞に逢うて和蘭のことを聞き、模様により蘭語なども問ひ尋ねんがためなりといへり。翁、その頃いまだ年若く、客気かくき甚だしく、何事もうつりやすき頃なれば、願わくばわれも同道し給はれ、ともども尋ね試みたしと申しければ、いと易きことなりとて、同道してかの客屋にまかりたり。その年大通詞は西善三郎と申す者参りたり。良沢引合ひきあわせにてしかじかのよし申し述べたるに、善三郎聞きて、それは必ず御無用なり、それは何故となれば、かの辞を習ひて理会りかいするといふは至つてかたきことなり。たとへば湯水又は酒を呑むといふかを問はんとするに、最初は手真似にて問ふより外の仕方はなし。酒をのむといふことを問はんとするに、先づ茶わんにても持ち添へ注ぐ真似をして口につけて、これはと問へばうなづきて、デリンキと教ゆ。これ即ち呑むことなり。さて、上戸じょうご下戸げことを問ふには、手真似にて問ふべき仕方はなし。これは数々呑むと数少なく呑むにて差別することなり。されども多く呑みても酒を好まざる人あり、また少なく呑みても好む人あり。これはじょうの上のことなれば、なすべきようなし。さてその好きたしなむといふことはアーンテレッケンといふなり。わが身通詞の家に生れ、幼よりそのことに馴れ居りながら、そのことばの意何の訳といふことを知らず。年五十に及んでこの度の道中にてその意を始めて解し得たり。アーンとはもと向ふといふこと、テレッケンとは引くことなり。その向ひ引くといふは、向ふのものを手前へ引き寄するなり。酒好む上戸といふも、向ふの物を手前へ引きたく思ふなり。即ち好むの意なり。また故郷を思ふもかくいふ。これまた故郷を手元へ引きおせたしと思ふ意あればなり。かの言語を更に習ひ得んとするには、かやうに面倒なるものにして、わが輩常に和蘭人に朝夕してすら容易に納得なっとくし難し。なかなか江戸などに居られて学ばんと思ひ給ふは叶はざることなり。それゆゑ野呂・青木両先生など、御用にて年々この客館へ相越され、一かたならず御出精ごしゅっせいなれども、はかばかしく御合点ごがてん参らぬなり。そこもとにも御無用のかた然るべしと意見したり。良沢は如何いかがうけたまわりしか、翁は性急の生れゆゑその説を尤もと聞き、その如く面倒なることをなし遂ぐる気根きこんはなし、いたずらに日月を費すは無益なることと思ひ、あえて学ぶ心はなくして帰りぬ。
、その頃より、世人何となくかの国持渡もちわたりのものを奇珍とし、総べてその舶来はくらいの珍器の類を好み、少しく好事こうずと聞えし人は、多くも少くも取りあつめて常に愛せざるはなし。ことにもとの相良侯当路執政の頃にて、世の中甚だ華美繁花の最中なりしにより、彼舶かのふねよりウエールガラス(天気験器)、テルモメートル(寒暖験器)、ドンドルガラス(震雷しんらい験器けんき)、ホクトメートル(水液軽重清濁験器)、ドンクルカームル(暗室写真鏡)、トーフルランターレン(現妖鏡げんようきょう)、ソンガラス(観日玉かんじつぎょく)、ループル(呼遠筒こえんとう)といへるたぐひ種々の器物を年々持ち越し、その餘諸種の時計、千里鏡、ならびに硝子細工物ガラスざいくものの類、あげて数へがたかりしにより、人々その奇巧に甚だ心を動かし、その窮理きゅうりの微妙なるに感服し、自然と毎春拝礼の蘭人在府中はその客屋に人夥おびただしくあつまるやうになりたり。いづれの年といふことは忘れしが、明和四五年の間なるべし、一とせ甲比丹カピタンはヤン・カランス、外科はバブルといふもの、来りしことあり。このカランスは博学の人、バブルは外科巧者こうしゃのよしなり。大通詞吉雄幸左衛門は専らこのバブルを師としたりと。幸左衛門(後、幸作、号は耕牛といへり)外科に巧みなりとてその名高く、西国中国筋の人長崎へ下りその門に入る者至つて多し。この年も蘭人に付添ひ来れり。翁、それらのことを伝へ聞きしゆゑ、一日右のバブル、川原元伯といへる医生の舌疽ぜつそうかがひて治療し、且つ刺絡しらくの術を施せしを見たり。さてさて手に入りたるものなりき。血の飛び出す程をあらかじめ考へ、これを受くるの器をよほどに引きはなし置きたるに、飛びほとばしる血丁度その内に入りたりき。これ江戸にて刺絡せしのはじめなり。その頃、翁、年若く、元気は強し、滞留中は怠慢なく客館へ往来せしに、幸左衛門一珍書を出し示せり。これは去年切めて持ち渡りしヘイステル(人名)のシュルゼイン(外科治術)といふ書なりと。われ深く懇望して境樽さかいだる二十ちょうを以て交易したりと語れり。これをひらき見るに、その書説は一字一行も読むこと能はざれども、その諸図を見るに、和漢の書とはその趣き大いにことにして、図の精妙なる見ても心地開くべき趣きもあり。よりて暫くその書をかり受け、せめて図ばかりも摸し置くべきと、昼夜写しかゝりて、かれ在留中にその業をへたり。これによりて或は夜をこめて鶏鳴けいめいに及びしこともありき。
、また、年は忘れたり、一春、かの幸左衛門、和蘭付添つきそいにて参府せし頃、豊前中津邸にて昌鹿まさか公の御母君御座敷内にて不慮に御脛おんはぎを折傷し給ひしことあり、貴人のことなれば大騒ぎにて、かれこれ医師を御招きのところ、幸ひに吉雄幸左衛門出府居合せ候ことゆゑ、直に御招きありて、御療治仰せ付けられ、御順快ありたり。この時前野良沢、御手医師のことゆゑ、懸合かかりあい仰せ付けられ、格別懇意となりたり。これら、蘭学の世に開くべき一つといふべし。その後その主の供にて中津へ行きしかば、侯へ願ひ奉りてかの地へ下り、専ら吉雄、楢林等に従ひて百日ばかりも逗留し、昼夜精一に蘭語を習ひ、先に青木先生より学びし類語と題せる書の緒言をもととして復習訂正し、なほこれに足し補ひて僅かに七百餘言を習ひ得、それよりかの国の字体文章等のことなどもあらまし聞書ききがきして持ち帰りしことありたり。この時少々は蘭語を求めて帰府せり。これ長崎へ外治稽古のためならでかの書説学ばんとて参りし人のはじめなり。
、和蘭は医術並びにもろもろの技芸にもくわしきことと世にも漸く知れ、人気にんき何となく化せられ来れり。この頃よりも専ら官医の志ある方々かたがたは年々対話といふことを願ひてかの客屋へゆき、療術方薬ほうやくのことを聞き給ひ、また天文家の人も同じくその家業のことを問い給へり。当時はその人々の門人なれば同道し給へることも自由なり。さあるにより、その方々の門人と唱へ、出入もありたり。長崎は御常法ありてみだりに旅館への出入はならぬことなるに、江戸は暫くの間のことなれば、自然とかまひもなき姿なり。その頃平賀ひらが源内げんないといふ浪人者ろうにんものあり。この男、業は本草家ほんぞうかにて生れ得て理にさとく、敏才にしてよく時の人気に叶ひし生れなりき。何れの年なりしか、右にいふカランスといへる甲比丹カピタン参向の時なりしが、ある日、かの客屋に人集まり酒宴ありし時、源内もその座に列なりありしに、カランス戯れに一つの金袋を出し、この口試みに明け給ふべし。あけたる人に参らすべしといへり。その口は知恵の輪にしたるものなり。座客次第に伝へさまざま工夫すれども、誰も開き兼ねたり。遂に末座の源内に至れり。源内これを手に取り暫く考へ居しが、たちまち口を開き出せり。座客はいふに及ばず、カランスもその才の敏捷なるに感じ、直にその袋を源内に与へたり。これよりして甚だ親しみ厚くなり、その後は度々客室に至り、物産の事を尋ね問へり。またある日、カランス一つの棋士の如き形のスランガステーンといふ物を出し示せり。源内これを見てその功用を問ひ帰り、翌日別に新たに一箇の物を作り出して持ち行き、カランスに見せたり。カランスこれを見て、これは前日見せ示せし物と同品なりといへり。源内曰く、示さるゝところの品は帰国の物産か、また外国にて求め給へるものかと問ふに、これは印度の地方則意蘭セイロンといふところにて求め来れりと答ふ。源内また問うて曰く、その国にては如何なるところに産するものといへば、カランス曰く、その国にて伝ふるところは、この物大蛇頭中より出づる石なりといへり。源内聞きて、それは左様にあるまじ、これは竜骨にて作りし物なるべしといふ。カランス聞きていふ、天地の間に竜といふものはなき物なり、如何にして、その骨にて作るべしやといへり。こゝに於て、源内己が故郷なる讃洲小豆島しょうどしまより出せる大なる竜歯につゞきたる竜骨を出し示して、これ即ち竜骨なり、本草綱目ほんぞうこうもくといへる漢土の書に、蛇は皮を換へ、竜は骨を換ふと説けり。今われ示すところのスランガステーンはこの竜骨にて作れる物なりといへり。カランス聞きて大いに驚き、益ヽその奇才に感じたり。これによりて本草綱目を求め、右の竜骨を源内より貰ひ得て帰れり。その返礼としてヨンストンス禽獣譜、ドドニュース生植本草、アンボイス貝譜などいへる物産家に益ある書物どもを贈りたり。これらのことも直対接話じきたいせつわにて弁じたることにはあらず。附添ひたる内通詞部屋附などいへる者にて、その情を通じて弁ぜしことにて、一字一言通知せしことにはあらず。その後源内かの地へ遊歴し、蘭書、蘭器なども求め来り、且つエレキテルといへる奇器を手に入れ帰府し、その機用のことをも漸く工夫して、あまねく人を驚かせり。
、このふう右の如く成り行けども、西洋のことに通じたりといふ人もなかりしが、たゞ何となくこのこと遠慮することもなきやうになりたり。蘭書など所持すること御免といふことはなけれども、まゝ所持する人もある風俗に移り来れり。同藩の医中川淳庵は、本草を厚く好み、和蘭物産の学にも志ありて、田村藍水、同西湖先生などとも同志にて、毎春参向せる和蘭通詞どものかたにも往来せり。明和八年辛卯しんうの春かと覚えたり、かの客屋へ至りてターヘル・アナトミアとカスパリュス・アナトミアといふ身体内景図説の書二本を取り出し来り、望む人あらば譲るべしといふ者ありとて持ち帰り、翁に見せたり。もとより一字も読むことはならざれども、臓腑ぞうふ骨節こつせつ、これまで見聞するところとは大いに異にして、これ必ず実験して図説したるものと知り、何となく甚だ懇望に思へり。且つわが家も従来和蘭流の外科と唱ふる身なれば、せめて書筐しょきょうの中にも備へ置きたきものと思へり。然れどもその頃は家甚だ窶々やつやつしくして、これを求むるに力及びがたかりしにより、わが藩の太夫たゆう岡新左衛門といへる人のもとに持ち行き、しかじかの次第なればこの蘭書求めたしと告げたり。然れども力の足らざるは是非なしと語りしかば、新左衛門聞き、それは求め置きて用立つものか、用立つものならば価は上より下し置かるゝやう取計ふべしといへり。その時、翁、それは必ずかうといふ目当めあてとてはなけれども、是非ともに用立つものになし、御目にかくべしと答へり。傍に倉小左衛門(後に青野と改む)といふ男居たりしが、それはなにとぞ調ととのつかはさるべし、杉田氏はこれをむなしくする人にはあらずと助言したり。これにより、いと心易く願ひも叶ひ望みの如く調ひ得たり。これ翁の蘭書手に入りしはじめなり。
、さて、つねづね平賀源内などと出会ひし時に語り合ひしは、追々見聞するところ、和蘭実測窮理のことどもは驚き入りしことばかりなり、もし直にかの図書を和解し見るならば、格別の利益を得ることは必せり。されどもこれまでそこに志を発する人のなきは口惜くちおしきことなり、なにとぞこの道を開くの道はあるまじきや、とても江戸などにては及ばぬことなり、長崎の通詞に託して読み分けさせたきことなり、一書にてもその業成らば大なる国益とも成るべしと、たゞその及びがたきを嘆息せしは、毎度のことなりき。然れども空しくこれを慨嘆するのみにてありぬ。
、然るにこの節不思議にかの国解剖の書手に入りしことなれば、先づその図を実物に照し見たきと思ひしに、実にこの学開くべき時至りけるにや、この春その書の手に入りしは、不思議とも妙ともいはんか。そもそも頃は三月三日の夜と覚えたり。時の町奉行曲淵まがりぶち甲斐守かいのかみ殿の家士かし得能とくのう万兵衛まんべえといふ男より手紙もて知らせ越せしは、明日手医師何某といへる者、千住骨ヶ原にて腑分ふわけいたせるよしなり。御望みあらばかのかたへまかり越されよかしといふ文をこしたり。かねて同僚小杉玄適といふもの、その以前京師けいしの山脇東洋先生の門に遊び、かの地に在りし時、先生の企にて観臓のことありしに、この男、したがひ行きて親しくたるに、古人説くところ皆空言にて信じ難きことのみなり。上古は九臓と称せり、今五臓六腑のもくを分ちたるは後人の杜撰ずさんなりなんといへることの話もありし。その時東洋先生、臓志といふ著書をも出だし給ひたり。翁、その書をも見し上のことなれば、よき折あらば翁も自ら観臓してよと思ひ居たりし。この時和蘭解剖の書も初めて手に入りしことなれば、照らし視て何れかその実否を試むべしと喜び、一かたならぬ幸の時至れりと彼処かしこへ罷る心にて殊に飛揚せり。さて、かゝる幸を得しことを、独り見るべきことにもあらず、朋友の内にも家業に厚き同志の人々へは知らせ遣はし、同じく視て家業の益には相互になしたきものと思ひはかりて、先づ同僚中川淳庵を初め、某誰と知らせつかはせし中に、かの良沢へも知らせ越したり。さて、良沢は翁よりも齢十ばかりも長じ、われよりも老輩のことにてありしゆゑ、相識そうしきにこそあれ、つねづねは往来も稀に、交接うとかりしかど、医事に志篤きは互ひに知り合ひたる仲なれば、この一挙に漏らすべき人にはあらず。先づ早く申し通じたく思ひたれども、さしかゝりしこと、且つこの夜も蘭人滞留の折なればかの客室にありけるゆゑ、夜分にはなりぬ。俄かに知らすべき便りもなし、如何せんと存ぜしが、臨時の思ひ付きにて先づ手紙調ととのへ、知れる人のもとに立寄り、相謀あいはかりて本石町ほんごくちょうのの木戸際に居たりし辻駕つじかごの者を雇ひ、申し遣はせしは、明朝しかじかのことあり、望みあらば早天に浅草三谷さんや町出口の茶屋まで御越しあるべし、翁も此処まで罷り越し待ち合はすべしとしたため、置捨にて帰れと持たせ遣はしけり。
、その翌朝とく支度したく整へ、彼処かしこに至りしに、良沢参り合ひ、その餘の朋友も皆々参会し、出迎へたり。時に良沢一つの蘭書を懐中より出だし、ひらき示して曰く、これはターヘル・アナトミアといふ和蘭解剖の書なり、先年長崎へ行きたりし時求め得て帰り、家蔵せしものなりといふ。これを見れば、即ち翁がこの頃手に入りし蘭書と同書同版なり。これ誠に奇遇なりとて、互ひに手をうちて感ぜり。さて、良沢長崎遊学のうち、かの地にて習ひ得、聞き置きしとてその書をひらき、これはロングとて肺なり、これはハルトとてしんなり、マーグといふは胃なり、ミルトといふはなりと指し教へたり。然れども漢説の図には似るべくもあらざれば、誰も直に見ざるうちは心中にいかにやと思ひしことにてありけり。
、これより各ヽ打連れ立ちて骨ヶ原の設け置きし観臓の場へ至れり。さて、腑分ふわけのことは、穢多の虎松といへるもの、このことに巧者こうしゃのよしにて、かねて約し置きしよし。この日もその者に刀を下さすべしと定めたるに、その日、その者俄かに病気のよしにて、その祖父なりといふ老屠ろうと、齢九十歳なりといへる者、代りとして出でたり。健かなる老者なりき。彼奴は、若きより腑分は度々手にかけ、数人を解きたりと語りぬ。その日より前迄の腑分といへるは、穢多にまかせ、彼が某所をさして肺なりと教へ、これは肝なり、腎なりと切り分け示せりとなり。それを行きし人々看過して帰り、われわれは直に内景ないけいを見究めしなどいひしまでのことにてありしとなり。もとより臓腑にその名の書き記しあるものならねば、屠者としゃの指し示すを視て落着らくちゃくせしこと、その頃までのならひなるよしなり。その日もかの老屠がかれのこれのと指し示し、心、肝、胆、胃の外にその名のなきものをさして、名は知らねども、おのれ若きより数人を手にかけ解き分けしに、何れの腹内ふくないを見てもこゝにかやうの物あり、かしこにこの物ありと示し見せたり。図によりて考ふれば、後に分明を得し動血脈の二幹また小腎などにてありたり。老屠また曰く、只今まで腑分のたびにその医師がたに品々をさし示したれども、誰一人それは何、これは何々なりと疑はれ候御方もなかりしといへり。良沢と相ともに携へ行きし和蘭図に照らし合せ見しに、一としてその図にいささか違ふことなき品々なり。古来医経いきょうに解きたるところの、肺の六葉両耳ろくようりょうじ、肝の左三葉右四葉などいへる分ちもなく、腸胃の位置形状も大いに古説と異なり。官医岡田養仙老、藤本立泉老などはその頃まで七八度も腑分し給ひしよしなれども、みな千古の説と違ひしゆゑ、毎度毎度疑惑して不審ふしん開けず。その度々異状と見えしものを写し置かれ、つらつら思へば華夷かい人物違ひありやなど著述せられし書を見たることもありしは、これがためなるべし。さて、その日の解剖こと終り、とてものことに骨骸こつがいの形をも見るべしと、刑場に野ざらしになりし骨どもを拾ひとりて、かずかず見しに、これまた旧説とは相違にして、たゞ和蘭図にたがへるところなきに、みな人驚嘆せるのみなり。
    その日の刑屍けいしは五十歳ばかりの老婦にて、大罪を犯せし者のよし。もと京都生れにて、あだ名を青茶婆と呼ばれしものとぞ。
、帰路は、良沢、淳庵と、翁と、三人同行なり。途中にて語り合ひしは、さてさて今日の実験、一々驚き入る。且つこれまで心付かざるは恥づべきことなり。いやしくも医の業を以て互ひに主君主君に仕ふる身にして、その術の基本とすべき吾人の形態の真形しんけいをも知らず、今まで一日一日とこの業を勤め来りしは面目もなき次第なり。なにとぞ、この実験にもとづき、大凡おおよそにも身体の真理をわきまへて医をなさば、この業を以て天地間に身を立つるの申訳もあるべしと、共々嘆息せり。良沢もげに尤も千万、同情のことなりと感じぬ。その時、翁、申せしは、何とぞこのターヘル・アナトミアの一部、新たに翻訳せば、身体内外のこと分明ぶんみょうを得、今日治療の上の大益あるべし、いかにもして通詞等の手をからず、読み分けたきものなりと語りしに、良沢曰く、予は年来蘭書読み出だしたきの宿願あれど、これに志を同じうするの良友なし。常々これをなげき思ふのみにて日を送れり。各ヽがたいよいよこれを欲し給はば、われ前の長崎へもゆき、蘭語も少々は記憶し居れり。それを種としてともども読みかゝるべしやといひけるを聞き、それは先づ喜ばしきことなり、同志にて力をあわせ給はらば、憤然として志を立て、一精ひとせい出し見申さんと答へたり。良沢これを聞き、悦喜えっき斜めならず。然らば善はいそげといへる俗諺ぞくげんもあり、直に明日私宅へ会し給へかし、如何やうにも工夫あるべしと、深く契約して、その日は各ヽ宿所宿所へ別れ帰りたり。
、その翌日、良沢が宅に集まり、前日のことを語り合ひ、先づ、かのターヘル・アナトミアの書にうち向ひしに、誠に艫舵ろかじなき船の大海に乗り出だせしが如く、茫洋ぼうようとして寄るべきかたなく、たゞあきれにあきれて居たるまでなり。されども、良沢はかねてよりこのことを心にかけ、長崎までも行き、蘭語並びに章句しょうく語脈ごみゃくの間のことも少しは聞き覚え、聞きならひし人といひ、齢も翁などよりは十年の長たりし老輩なれば、これを盟主と定め、先生とも仰ぐこととなしぬ。翁は、いまだ二十語文字さへ習はず、不意に思ひ立ちしことなれば、漸くに文字を覚え、かの諸言をも習ひしことなり。
、さてこの書を読みはじむるに如何いかやうにして筆を立つべしと談じ合ひしに、とてもはじめより内象のことは知れがたかるべし、この書の最初に仰伏全象の図あり。これは表部外象のことなり、その名処などころはみな知れたることなれば、その図と説の符号を合せ考ふることは、取付やすかるべし。図のはじめとはいひ、かたがた先づこれより筆を取り初むべしと定めたり。即ち解体新書かいたいしんしょ形体名目篇けいたいみょうもくへんこれなり。その頃はデの、ヘットの、またアルス、ウエルケ等の助語の類も、何れが何れやら心に落付きて弁へぬことゆゑ、少しづつは記憶せし語ありても、前後一向にわからぬことばかりなり。たとへば、眉(ウエインブラーウ)といふものは目の上に生じたる毛なりとあるやうなる一句も、彷彿ほうふつとして、長き春の一日には明らめられず、日暮るゝまで考へ詰め、互ににらみ合ひて、僅か一二寸ばかりの文章、一行も解し得ることならぬことにてありしなり。また或る日、鼻のところにて、フルヘッヘンドせしものなりとあるに至りしに、この語わからず。これは如何なることにてあるべきと考へ合ひしに、如何ともせんやうなし。その頃ウヲールデンブック(釈辞書しゃくじしょ)といふものなし。漸く長崎より良沢求め帰りし簡略なる一小冊ありしを見合せたるに、フルヘッヘンドの釈註に、気の枝をち去れば、その跡フルヘッヘンドをなし、また庭を掃除すれば、その塵土じんどあつまりフルヘッヘンドすといふやうに読み出だせり。これは如何なる意味なるべしと、また例の如くこじつけ考へ合ふに、弁へかねたり。時に、翁思ふに、気の枝をりたる跡癒ゆればうずたかくなり、また掃除して塵土聚まればこれもうずたかくなるなり。鼻は面中に在りて堆起たいきせるものなれば、フルヘッヘンドは堆(ウヅタカシ)といふことなるべし。然ればこの語は堆と訳しては如何といひければ、各ヽこれを聞きて、甚だ尤もなり、堆と訳さば正当せいとうすべしと決定せり。その時の嬉しさは、何にたとへんかたもなく、連城の玉をも得し心地せり。かくの如きことにてすいして訳語を定めり。その数も次第次第に増しゆくこととなり、良沢のすでに覚え居し訳語書留をも増補しけり。その中にもシンネン(精神)などいへること出でしに至りては、一向に思慮の及びがたきことも多かりし。これらはまた、ゆくゆくは解すべき時も出来ぬべし。先づ符号を付け置くべしとて丸の内に十文字を引きて記し置きたり。その頃知らざることあれば、その苦しさの餘り、それもまた轡十文字、轡十文字と申したりき。然れども為すべきことはもとより人にあり、成るべきは天にありのたとえの如くなるべしと。かくの如く思ひを労し、精をり、辛苦せしこと一ヶ月に六七会なり。その定日ていじつは怠りなく、わけもなくして各ヽ相集まり会議して読み合ひしに、実に不昧者くらからざるものは心とやらにて、凡そ一年餘も過ごしぬれば、訳語も漸く増し、読むにしたがひ自然とかの国の事態も了解する様にて、のちのちはその章句のあらきところは、一日に十行も、その餘も、格別の労苦なく解し得るやうにもなりたり。尤も毎春参向の通詞どもへも聞きただせしこともあり。またその間には解屍かいしのこともあり。また獣畜をきて見合はせしこともたびたびのことなりき。



   蘭学事始 上之巻 終


底本:『蘭学事始』岩波文庫
   1959(昭和34)年3月25日初版発行