外国語の有用度


必要があってある外国語を身に付け使っている人には、“外国語の有用度”などという質問は無意味だろう。その人にとって、その外国語は重要なものだからだ。しかし、多くの人にとっては、どの言語がどういう点でどのくらい有用か、あるいは必要かを知らないことが多いと思う。

ここでは、私が使っていたり、関心があったりする言語について、その有用さを考えてみた。外国語へのロマンを掻き立てられれば幸いだ。重要な言語が抜け落ちていたり、有用度が“読む”ことに傾いているのは、私の関心が偏っているからだ。また、思い込みで書いているので、間違っている事があるかも知れない。もしいい話があれば、もし教えていただければ有り難い。

英語

英語が重要だということを今さら説くのも無意味かも知れない。知的活動をしている人たちは、日々英語に触れざるを得ない場合が多い。特に、インターネットの発達でこれまで以上に英語にふれる機会が多くなったので、英語の必要性は非常に高くなった。

ただし、ここで重要なのは、英語の必要性が高まったのは、口頭による意思疎通ではなく、書かれた文字から情報を得る必要性が高まったということだ。以前は、英語を読めさえすればいいのではなく、英米人と対等に話せるようになる必要があると強調されていた。現在もそう強調する人は多いだろう。しかし、話す必要性に比べて、現在の英語を読む必要性は、必要というよりは、必須に近い。しかも、昔から続いてきた訳読式の読解力ではとうてい間に合わない。ざっと読んで大意を把握できる能力が要求されているのだ。

私は英語を読む訓練を特にしていなかったから、私の英文読解は訳読式で、ざっと読んだら大意どころか無秩序な単語の配列になってしまう。大意を把握することは、大変な能力なのだ。学校教育で用いるテキストの大意が意味希薄なためか、先生たちは細部にばかり入って行く傾向がある。それによって結局、単語と文法はたくさん覚えたけれども、英語が読めないという学生をたくさん輩出してしまった。私もそういう学生の一人だったわけだ。大意と細部とのバランスの取れた読解教育が必要だ。

英文を読める能力の必要性は、私たちの生活の隅々にまで入り込んでいる。これがさらに進んだ場合、英文が自由に読めるかどうかで知的水準の格差が大きくなっていくに違いない。

また、口頭での意思疎通でも、英語は第一級の需要がある。なぜなら、世界中に英語を用いる人たちがいるので、彼らとの意思疎通は、主に英語が媒介になる場合が多い。残念ながら、日本語はそのような機能を果たしてくれない。英語以外に国際的媒介語にできる言語は現在はない。ここでも英語の有用性は群を抜いているのだ。

だから、英語を学ぶべきかどうかを論ずる前に、英語を勉強するべきだ。どの分野に進むかにかかわらず、英語が分らなければ、その障碍は大きい。私はその障碍のために苦しんでいる(汗)。

韓国語

韓国語は私が携わっている言語なので、私にとっては日本語の次に重要な存在で、客観的に見るのが難しい。しかも私自身韓国に住んでいるため、韓国語の存在は非常に大きい。

そういう条件を差っ引いても、韓国語は楽しい言語だ。韓国語の出版物は多岐にわたり、しかも今のところ日本より少しは安い。世界各国の書物が韓国語にどんどん翻訳されている。紙の質や印刷の技術もだいぶよくなった。インターネットの普及は目覚ましく、数多くのサイトがあり、検索サイトも充実している。また韓国はキリスト教が普及しているため、キリスト教書籍が多く、しかも手ごろな値段で手に入る。しかも、日本ではとうてい手に入らないような掘り出し物の資料があったり、日本よりも先に翻訳されるキリスト教書籍もある。クリスチャンなら、韓国語が読めることは大きなプラスになるだろう。

また韓国は、おそらく日本と並ぶくらいの翻訳大国ではないかと思う。世界の有名な著作物は、韓国語訳で読むことができる。日本語訳がひどくて読めないとき、韓国語ができる人なら、韓国語訳で読むという方法もあるだろう。もちろん、韓国語訳にもひどいものがある。また、どんなに正確な翻訳でも、原書に比べると何かが欠けているものだ。しかし、翻訳書が多いということは、それだけその文化が豊かだと言うことだと思う。そういう意味でも、韓国語は楽しい言語だと言える。

また、韓国は日本との人的交流がいちばん盛んな国だ。両国の友好のためにも、韓国語が理解できて韓国の文化を深層までも理解できる人たちが多ければ多いほどいい。

韓国語の学習は、それほど困難ではない。固有語の単語を覚えることと、動詞と形容詞の変化を習得することが難しいけれども、それ以外は、語順も同じだし、日本語と共通する漢字語と外来語が全体の大部分を占めているので、大した困難はない。ある程度漢字の読み方と英語からの音の変換の仕方を覚えれば、あとは単語は濡れ手で粟をつかむように増やすことができる。

さらに、日本語について考えたり、日本語を研究したりする人は、英語などの西洋語と対照するのではなく、韓国語と対照することによって、より細やかな観察ができるようになる。しかもそれは、ごく日常的な感覚で言葉の微妙な使い分けに気が付くようになるのだ。そういうことに目を開かせてくれる韓国語教材がある。『韓国語ステップアップ』(増田忠幸著、三修社、1997)だ。ハングルが読めて韓国語のてにをはがちょっと分る人なら読めるようになっている。デザインもよく、絵や写真も豊富で、すでに韓国語ができる人にとっても、この本は有用だ。

中国語

中国語が必要かどうかの議論は、中国語話者の人口が何人かという問題で論じるべきではない。あくまでも私たちが中国語とどういう関係にあるのかを見て行く必要がある。地理的に近いか、人的交流がどれほどあるか、中国語による知的生産物がどれだけ私たちに有用か、中国語で流される情報がどれだけ私たちにとって必要か、そのような観点から考えれば、中国語の必要性は見えてくるだろう。

中国語は英語のように必須の言語ではない。しかし、人的交流の多さを考えると、中国語の有用性は大きい。現在中国語の書籍や雑誌、新聞などを購入するのは容易だし、中国語のインターネットサイトも多い。ヤフーなどの検索サイトもある。

中国語の学習は、四声の習得が難しいと言われている。また、文法はいたって単純だが、名詞に数量を表す言葉が付くのが難しかったり、故事成語の知識が求められたりして、上達の道は遠く果てしないと言われる。それで“中国語は笑って入り泣いて出る”と言われることもある。しかし、読むだけが目的の人には、発音の問題は無用だろう。ローマ字でどう書くかを知ってさえいれば、楽に辞書を引くことができる。

また、中国語の辞書は日本でもいいものがたくさん出ているが、中国で出された『現代漢語詞典』も、初級の段階から使いこなすことができる。中国語は漢字で書かれているから、半分外国語で半分母語のようなものだ。しかもこの辞書の語釈は明快で、日本人でも漢文がある程度読める人なら大体の内容は理解できるようになっている。中国語の学習は明るい。

ロシア語

ロシア語の必要性は、会話よりは読む方にあるようだ。科学技術の発達は、アメリカの影に隠れて見えにくいが、無視することができない。言語学の分野でも、最近コンピュータによる自然言語処理の発達に、ロシアにおける研究の成果が見逃せなくなってきている。

その他に、ロシアはトルストイやドストエフスキー、ツルゲーネフなどの大文豪を生んだ。また、音楽でも、ラフマニノフやチャイコフスキーなどの大音楽家を生んだ。あの田舎の国にどうしてこれだけの底力があるのか分らないが、そのようなすばらしい文化遺産を生んだ器としてのロシア語の価値は高い。

ロシア語は現行語としては珍しく形態論の豊かな言語だと言われている。つまり、文法事項がわんさとあって難しい言語だということだ。難しいのが好きな人にはお勧めの言語だ。

フランス語

フランス語は、帝国時代には非常に栄えていたが、現在はあまりぱっとしない。その言語的不寛容と、排他性と、文化的な誇りの高さのために、国際語としての器量に欠けるのだろう。しかし、フランス語が抱えている文化遺産は無視することができない。それは多岐にわたっているし、その水準は最高のものだ。フランス文化は今なお多くの人々を魅了してなまない。

また、欧米の知識人はフランス語に堪能な人が多く、英文の著作物にフランス語が出てくることがよくある。私はフランス語は全く分らないのだが、そのときのためにフランス語の辞書を持っている。実際、フランス語の辞書が役に立つことがたまにある。

ドイツ語

ドイツは日本からは遠く離れた国なので、その存在はとても小さい。また、日本における実用性から見ると、ドイツ語の重要性は大して大きくない。大学では第2外国語に必ずドイツ語があるが、実用性から見たとき、韓国語を置かないでドイツ語を置いているというのは全く見当はずれなことだ。しかし、ドイツ語が抱えている文化遺産は決して小さいとは言えない。

ゲーテはドイツ語で数々の名作を残した。またドイツは近世において哲学の中心地だった。それらの哲学はドイツ語で行われた。これらによってドイツ語は豊かで厳密な言語になったと思う。そしてまた、ドイツはプロテスタント神学の伝統も深い。それだけでなく、ドイツ人の合理性を追求する生活から、私たちは様々なことを学ぶことができる。近世の音楽はドイツで発達した。バッハ、モーツァルト、ベートーベン、シューベルトなど、偉大な音楽家がほとんどドイツ(オーストリアも含めて)に集中している。

ドイツ語を身に付けドイツ語の文献を読むのは決して物好きの行動ではない。それは非常に価値あることだ。

エスペラント語

エスペラント語は今一つその存在感がはっきりしない言語だが、私はこの言語の可能性に期待している。人工語ではあるが、自然言語に引けを取らない柔軟性と豊かさがある。しかも文法が単純かつ明瞭で、その規則の習得が容易だ。そして、この言語が創られてから百年の間にできた蓄積も大きい。

この言語が有用なのは、今のところは文献を読むことよりも、エスペラント語を解する人たちの間での会話や文通などによる意思疎通が主だろう。しかしこの“変遷しない”言語は、時代の流れを超えて、真に国際語として用いることができるのだ。

英語が現在最大の国際語として用いられているが、アメリカ本国における英語の変遷に合わせて私たちも英語の知識をアップデートしなければならない。明治時代に日本に入ってきた英語を守っていれば、19世紀英語と呼ばれ、いい顔をされない。19世紀英語を勉強した人が現代英語の著作物を読まされても、知らない表現が多くて苦労する。これは不便だ。

エスペラント語は、この種の不便さとは無縁だ。現在使われているエスペラントの文法は、1887年に作られて以来変化していない。UEAがこの言語をうまく管理してくれれば、千年間でも2千年間でも、世界の人々が同一のエスペラント語を使用し、今書かれたものを千年後に読む人も、最近書かれたもののように読むことができる。そういう特性を持っている言語は、エスペラント語だけだ。

漢文

漢文は、古代中国語だ。日本ではあまり外国語という感じがしないが、しかし漢文は外国語だ。その漢文から私たちが被っている文化的恩恵は甚大である。最近はその影響力もだいぶ薄らいできた。しかし、漢文の理解は日本語をよりよく理解するためにも必要だ。日本語を理解することは、すなわち私たちの思考を反省することになるという面で重要なことだ。

また、漢文は私たちに大きな影響を与えたというだけでなく、漢文が抱えている文化遺産は膨大なものだ。中国は紀元前に孔子という傑出した人物を生んだ。その言行録である論語は、コンパクトだが、力ある書物だ。儒教は思想的に欠陥があると言われているが、たとえ欠陥があるとしても、その教えは偉大だ。仏教も中国を経て日本に伝えられ、漢文によって仏典が日本に広まった。吉田松陰が「聖賢におもねるな」と警告しているが、それは私たちが心酔して単なる追随者に陥ってしまうほど、彼らの思想は高度で魅力的なものだからだ。

漢文でかかれた文献は中国だけではない。日本でも漢文で書かれた文献が多く、それが読めれば読書の幅が広がるだろう。韓国でも明治初期の頃までは、たいていの文章は漢文で書かれていた。だから、中国文学だけでなく、国文学や歴史学などを学ぶ人たちにとっても、漢文は必須の言語になる。

日本で購入できる漢文のテキストはかなり豊かなものだ。辞書も揃っている。韓国では、台湾で刊行された、現代中国語の読音が付いているテキストが手に入れやすいが、日本ではどうだろうか。

漢文は語彙が恐ろしく豊富で、またふんだんに語彙を用いるのを好んでいるようなので、どんなに学び続けても、新しい語彙に出会わない本はないように思われる。しかし、それでも頻度の高い語彙や言い回しはあるはずだ。それらを身につければ、漢文の読解は多少は容易になると思う。

古典ギリシャ語

ギリシャは、紀元前にギリシャ哲学を生んだ。紀元前に地球が丸いことを幾方面から証明した優れて合理的なギリシャの科学が、人類の中から出現したことと、そしてその文化遺産が散逸せずにむしろ広められて現代に至っていることは、奇跡だと思う。

また、ギリシャ語で新約聖書は書かれた。新約聖書が書かれたことと、2千年間世界各地を流浪していたイスラエルが言語と国を取り戻したことと、ギリシャ哲学が出現したことと、中国で四書が書かれたことは、偉大な事件だと思う。その中で最大の事件は新約聖書が書かれたことだ。ギリシャ語でイェースースと呼ばれた若いユダヤ人男性の、たった3年半の言行やその思想などが記された、たった5百ページほどの本が、全人類にとてつもなく大きな影響と恩恵を与えている。

古典ギリシャ語は、このような文化遺産を抱えている。文法は複雑で難しいが、苦労して学ぶ価値は十分すぎるくらいある。

ちなみにギリシャ語は形態論がかなり豊かで、一つ一つの変化形が明確に文法機能を表すため、語順がいたって自由だ。日本語も語順が自由だと言われているが、ギリシャ語に比べたら不自由きわまりない。また、古典ギリシャ語には、紀元前4世紀頃のアテネで用いられていた古典期のギリシャ語と、紀元前後のコイネーギリシャ語があり、文法などに若干の違いが見られる。しかしその違いは、元禄時代の江戸言葉と現在の標準語ほどは違わないのではないかと思う。

ラテン語

ラテン語は死語だと一般に言われているが、カトリックのローマ教会では、ラテン語でミサを執り行うそうだ。また、第二次世界大戦中、イギリス軍の指揮官たちは、南アフリカと交戦するとき、敵軍に傍聴されないように、ラテン語で作戦会議をしたと、チャーチルの伝記で読んだことがある。ハリーポッターでも、呪文はラテン語だった。実にラテン語は、西洋人の心の底に眠っているだけで、目を覚まそうとすれば、今すぐにでも目を覚まして活動を始められる言語なのだ。

ラテン語は私たち日本人の生活にはほとんど関係のない言語だが、英語やフランス語を通して、間接的にラテン語の恩恵を被っている。英語を知らない人でも数百、英語を知っている人なら数千の、ラテン語起源の語彙を、自分の知的生活に用いている。

ラテン語は、最新情報の収集には役に立たない。しかし、過去千年以上の間、数多くの偉大な知性がラテン語でその思想や文学を書き残している。彼らの母語は多様だったが、当時の共通語であるラテン語が、それらの知性を吸収し続けた。そのため、現在でも知識の尽きない源泉として、ラテン語は大きな価値がある。

ヘブライ語

ヘブライ語は、旧約聖書の言語で、紀元前にイスラエルで話されていた言語だ。しかしその後、日常語はアラム語に取って替わられ、さらに、全世界に離散した後には、行く先々の土地の言語と混合して、彼らの日常言語には、ヘブライ語はその語彙に痕跡をとどめる程度になってしまった。ユダヤ人たちは、1800年間の流浪の期間中、ヘブライ語を文語としては身につけていたが、日常語としては使用しなかったのだ。しかし、百年ほど前に突如として復活し、現在は、イスラエルの公用語となっている。だから現在は、聖書を読むためと、イスラエルの情報を得るためと、イスラエル人とコミュニケーションを取るための3つの目的で、ヘブライ語は学ばれている。

ヘブライ語は変化形が多くて難しそうだが、勉強した人の話によると、不規則な変化が少ないので、古典ギリシャ語にくらべると楽だと言っていた。本当だろうか。

サンスクリット語

サンスクリット語はインドの古文だ。私たちに馴染み深いのは、仏典のサンスクリット語だろう。他に仏典がよく書かれている言語はパーリ語だが、パーリ語というのは、サンスクリット語の方言だと聞いている。

ウパニシャッドも、大きな文化遺産だ。そこに述べられている哲学を受け入れるにせよ受け入れないにせよ、それが人類の宝のひとつであることには違いない。

しかしサンスクリット語は、それ以外の様々な文化財を抱えている。言語学でも、世界で最初にして完璧な文法書である『パーニニ文典』が、紀元前4世紀頃サンスクリット語で書かれた。この文典は、のちのサンスクリット語にとって絶対的な権威の書となった。それだけでなく、これがヨーロッパに紹介されてその言語学界に及ぼした影響も大きい。私はいつかサンスクリット語を勉強して、それを読んでみたい。

古文(古典日本語)

古文を外国語と認めない人は多いだろう。私も外国語だとは思わない。しかし、現在私たちが聞き、話し、読み書きしている現代日本語とは、語彙的にも文法的にも異なる言語であることには違いない。しかも古文は、現代日本語の知識しかない人には、ぼんやりとしか理解できない。正しく理解するには、特別に学習する必要がある。

古文の時間に文法で苦しめられることが多いので、古文は難しいと感じている人が多いと思う。しかし、私は、古文が難しいとは思わない。英語を勉強するよりは遥かに楽だし、漢文よりも易しいと思う。文法は難しいかも知れないけれども、その言語の実力は、テキストを読んでどれだけ理解できるかで計られるものだ。古文なら、所々よく分らなかったり全然分らなかったりする所はあっても、ざっと目を通して大体何の話かは分る。そういう言語が、他の言語よりも難しいとはいえない。古文が難しく感じられるのは、古文がやさしいので、学生たちになめられないように、わざと授業を難しくして権威付けているからだ。助詞や助動詞の説明は難しかったが、今から考えれば、ただ複雑怪奇な説明をして学生たちを混乱と自身喪失に陥れただけだ。科学的な説明だったとも思えない。

古文は、漢文と並んで、私たちの文化の源流がそこにある言語だ。また、私たちの魂の履歴書でもある。日本人を論じる人にとって、古文の読解力は必須だ。現代の日本は日本の全てではない。それは、時代と共に流れて行く文化の表層でしかない。私たちは現代に住んでいるので、それは無味無臭の世界だと思っているが、実は現代には、現代に独特の癖があり、臭みがある。それは将来残るものもあるだろうが、多くは消えて行く。

私は、古文が現代文よりも優れているとは思わない。文語文が口語文よりも格調高いとも思わない。また、昔の思想が現代の思想(“風潮”ではなくて“思想”)に勝っているとも思わない。しかし、古文や文語文にあらわれる味わいは、その言語自体が持っている魂だ。各時代に書かれた書籍から、各時代の魂を感じ取ることは、私たちに一貫して流れる魂を知ることだ。それは私たちにとって価値あることだ。だから、私たちは現代文ばかりを読むのでなく、古文も読む必要がある。

古文の学習は、他の言語の学習と違って、薄い文法書を読んだあと、現代語訳が付いている注釈書を何冊か読めば十分だと思う。まず現代語訳を読んでから、原文を読むのだ。注釈は、基本的なことが書いていないから少し難しいが、現代語訳と比較すれば大体理解できる。現代語訳を読んでその内容を知ったあと、訳では表現できない原文の深い味わいや意味に触れることができる。選ぶテキストとしては、『徒然草』か『竹取物語』が分りやすく分量も適当でいいのではないかと思うが、人によって好みがあるからなんとも言えない。ただ、『伊勢物語』のように和歌が重要な役割を果たす文学は、その和歌の理解に大きな比重が置かれているので、難しいかもしれない。