2088   Re^2:岩手弁に接する
2006/02/26 14:43:39  ijustat   (参照数 2)
これは 2084 [Re:岩手弁に接する] への返信です

語学友のみなさん、本当にご無沙汰してます。ijustatです。

>>数日のまえ、偶然、本当に偶然、岩手弁に接しました。
>>もちろん、聴いてから”あ、岩手弁だ!”と反応したのではなく、
>>岩手弁で喋ったひとから”実は岩手県出身です”と言われたから
>>あ、どこの誰から聴いたのは通過、詳しくは省略しましょう!
>>
>>と..ともかく今までは方言とゆうものは関西弁とか福岡弁を少し接しただけなのに
>>岩手弁は初めてでした。なんとなく引かれました。興味ありました。
>>しばらく研究してみるつもりです。
>>
>>ほんでまずな!(じゃあね)

>私もアメリカにいて、テネシー州に旅行したときに南部弁を聞きました。
>
>毎週 日曜日にTVのお料理番組を見ますが、そのホスト(女性でもTVの場合はホストと呼ぶ)は南部弁で喋っています。
>
>はっきり分かるのは「A」の音が違うんですね。
>
>日本語の場合は文末が違う表現をその方言を真似するときによく真似されますが。。。
>例えば
>「行くッぺ」「行かはる」「行こまい」等
>
>でもアメリカの南部弁の様に母音の発音が違うのは真似できないですね。
>
>氷雨さんにとって岩手弁は語尾が違うというとらえ方ですか?
>それとも音が違うと思いましたか?

今度の学期に、大学の研究棟に部屋をもらったので、そこに置く本棚を近所の家具屋で買って、家具屋の社長さんと一緒にトラックで学校まで行ってきました。その中で色々な話をしたのですが、方言の話が出てきました。ご当人は標準語を話されるのですが、なぜか方言の話が出てきたのです。

実は、私は韓国語に少しでも訛りがあると、とたんに聞き取り能力ががた落ちするのです。それは15年前と今と、あまり変わりがありません。韓国語の訛りといっても、ソウルに出て方言をそのまま使う若い人はあまりいません。しかし、南部の慶尚道の人は、日本語のように上下に動くアクセントが残ります。たいていは、頭高と第2音節が上がる中高型のようです。

日本語話者の場合、もう少し違ったアクセントを韓国語に残すことがありますが、面白いのは、関西の人と関東の人とでその特徴にあまり違いがないということです。つまり、日本語訛りのある韓国語を聞いて、それでどこの地方の人か、まったく見当がつかないということです。むしろ、その気質から、大っぴらで韓国的気質に近く(でも、ソウル的ではなく、韓国のどこの地方の人に似ているか見当もつかなく)、付き合いやすい人といえば、たいてい大阪か神戸出身です(笑)。

いけない。こういう話をしようと思っていたのではなかったのです。地方の人の中には歳を取ってからソウルに来る人も多いのですが、そういう人たちの話を聞いているとき、ある部分でいきなり聞き取り能力にぽっかり穴が開いたように、何も頭に入ってこない瞬間がたびたびあるのです。

最近は分かるようになりましたが、たとえば“(方)하는 기라→(標)하는 거야(≒するんだよ:説明する表現)”なんていう言い方も、聞き取りの妨げになっていたような気がします。この間は、年配の人と話をしながら、“가가「カーガ」”というので、えっ?と首をかしげると、“걔가「ケーガ」(=その子が )”とソウル方言に言い直してくれたので、“가「カー」”が“그 아이「ク・アイ」(=その子)”という意味だと分かりました。

私は横で話している人たちの会話に傍耳を立てる悪い癖があるのですが、ソウルの人たちが話していることは、たいていは理解することができます。しかし、地方の人同士で話しているときには、言葉を喋っている音は聞こえ続けていても、頭に意味として入ってくる言語は、時々穴が開いたように、素通りしてしまう部分があるのです。

家具屋の社長さんと方言の話をした日、たまたま上の子から、何で方言ができたのかという質問をされました。方言が分化していくメカニズムについては、皆さんもよくご存知だと思います。言語は絶えず変化し続けていて、たとえば、300年もたつと、言葉はかなり変ってくる。そして、その変化は場所ごとに違うから、300年前は同じ言葉を話していたとしても、その後連絡が薄になると、互いにけっこう違う言葉になる(本当は方言同士の関係はもっと複雑なんだと思いますけど)。

そんなことを話した後、どの部分に変化が多く、どの部分に変化が少ないということも話しました。

たとえば、用言の語尾のようなものは、すぐに形を変えてしまうことが多いようです。日本語では、主に助動詞と一般に呼ばれているものが、激しく変化していくようです。これは実際、捉えどころのないような部分があって、一世代違うと既にいくらか変化してしまうというくらい、変化の早いものです。日本語が乱れていると騒がれるのは、たいてい用言の語尾だし、古文の中で解しにくい部分も、たいていは助動詞類の使われる用言の語尾だし、地方の方言でもやはり、標準語と著しく違うのは、用言の語尾です。

これは面白いことに、ギリシア語でも同じで、古典ギリシア語と現代ギリシア語の最大の違いは、やはり動詞の変化にあって、分詞構文はずいぶん簡素化したし、類型も単純化して、他の類型に吸収されて消滅したものがたくさんあります。

で、案外変らないのは、名詞の格語尾です。日本語で言えば、格助詞は、そんなに変化していません。古文でよく用いられていて現代語で表面上は主流からはずれた用法も(たとえば属格の「が」も)、現代語でも命脈は保っているので、理解できないほどではありません。それと、接続助詞の「て」「ば」や、連用形も、古語と現代語とで共通しています。こういうものは、方言同士のバリエーションもそんなに豊かではないようです。

で、おもしろいのは、ギリシア語でもそうで、名詞・形容詞・冠詞の格変化は、2千年前と現在とであまり違っていません。類型の統合が起って単純になり、いくらか簡素化された程度です。現代語の知識で古典ギリシア語を見ても、その部分に関しては文法的に何かは理解できます。それと、接続詞“καί「ケ」(=and)”と“ἀλλά「アラ」(=but)”は、古典語でも現代語でも、そのまま使われています。

で、この間の年配の人が“가「カー」”と言われたのが“그 아이「ク・アイ」(=その子)”の意味だと分かったとき、実は私はギリシア語の音変化をふと思い出していたのです。先ほどの接続詞“καί(=and)”は、古典語では「カイ」と発音していたようですが、現代語では「ケ」または「キェ」と発音しています。そのためか、“καὶ ἐγώ「(古)カイ・エゴー/(現)ケ・エゴー」(=even I, 私も)”という連語の発音が、古典語では“κἀγώ「カゴー」”となって、現代語では“κι΄ ἐγώ「キェゴー」”となり、それぞれ違った縮まり方をするのです。その年配の人は、プサンの人だから、プサンで“가「カー」”と縮まり、ソウルで“걔「ケー(正しくは「キェー」だとか)」”と縮まるのは、何だかギリシア語みたいだなあ、なんて思ったりしていました。

というわけで、久しぶりに来て、なんとも筋の通らない話をしてしまいました。すみません。(笑)