1822   差別と外国語学習
2004/03/07 20:48:56  ijustat   (参照数 2)

ショウコさま、こんにちは。

以前『Go』を読んでいたら、そこにニーチェか誰かからの引用として、「怪物と戦う者は自分が怪物にならないように気をつけるべきである」というようなことを、主人公の父親が息子に言う場面がありました。この言葉は有名らしく、岸田秀の『幻想の未来』を読んだときにも引用されていました(どんな文脈だったかは忘れてしまいました)。

差別という怪物を意識するのは大切なことですが、うっかりすると、差別していると想定されるグループに対する敵意を持つようになります。これは、怪物と戦う者が怪物になってしまうことといえます。このクラブの話の流れを見ていると、そのところをよく理解している人が多いような気がします。これはすばらしいことです。ショウコさんが、アメリカ人が人種差別を克服しようとしている動きを映画の側面から見せてくださったことに、感謝したいと思います。

白人の有色人種に対する差別意識を強く意識している人もいますが、私の考えでは、それよりもむしろ、私たち自身の中にある差別意識や差別に対する意識を問題にした方がいいと思います。実際、海を隔てた遠くにいる人の心の中をどうすることもできませんが、自分の心の中ならどうにかできると思います。

これは実は、外国語学習において大切な態度だと私は思っています。自分が学習する言語を話す人たちは私を差別しているのだと思っていたら、学習意欲も相殺されてしまうでしょう。また、その文化には大変な魅力があるのに、それを鼻持ちならない不愉快なものとして感じるようになってしまいやすいです。そうすると、そのものの本当の価値が見えなくなってしまいます。

実際、90年代に韓国で日本語を教えながら、そのことをときどき感じました。学生の中には会社の命令で日本語を学ぶ人もいましたが、その中には、“日本人はわれわれを差別している”という意識で凝り固まっている人もよくいました。確かに日本では社会制度的に韓国人を差別するシステムがたくさんあったようですが、それと個人的な友好関係とは違います。“日本人はわれわれを差別している”という考えは、そういう個人的な友好関係までも覆い隠してしまうことが往々にしてあります。で、そういう学生は日本語学習にかなりの抵抗を感じているようで、伸びも芳しくありません。また、彼らは日本文化を取るに足らないものと見ていました。

経済危機のあと、韓国社会自体が大いに変化しただけでなく、私も職場が変わって、社会人がほとんど来ないところになってしまったので、私にとって90年代と2000年代の韓国はそれぞれまったく別世界なのですが、一つ面白いのは、今の職場では学生たちは日本に好感を持っていて、日本人と付き合ったり日本へ行ったりすることが好きだということです。そういう学生たちは、本当に日本語の伸びが速く、また、教えなくてもどんどん日本語の表現を身に付けていきます。また、日本へ行っても、とても楽しい思いをして帰ってきます。

外国語好きとしての結論は、差別について意識しない方がいいということです。外国に住んでいると腹の立つこともあるけれども、それは、外国語を勉強するときには忘れた方がいいでしょう。勉強するときは、その言葉を楽しむべきです。それがたとえ敵国の言語だとしても。そうすれば、私たちは少なくとも怪物にはならないでしょう。