1708   Re:乱れる日本語を憂う ら抜き、みょうな短縮
2004/02/22 10:38:19  ijustat   (参照数 8)

こんにちは。

lapis225さんは私とほぼ同じ年齢のようですね。ということは、ほとんど同じ言語感覚を持っていると仮定することができるでしょう。首都圏出身なら、なおさらです。ということは、lapis225さんが「あれは変ですね」と言ったら、私も同じく、あれは変ですねと共感するということです。

実は、問題はここにあります。つまり、それはlapis225さんと私の世代から見た日本語を、私たちの心にある文法感覚で評価しているということなのです。

>最近の日本語は
>「見られる」などの受身または、可能をあらわす「られる」を
>可能をあらわすときに
>
>「見れる」「着れる」などと本来「見られる」「着られる」とするものを
>ら抜きでいう言葉が、横行するようになりました。

これは最近のことではなく、25年くらい前からよく聞くようになりました。その後大学に入ってから、年配の和歌文学の先生が「来れる」と言っていたので、国語学の先生に、あの先生は「来れる」と言っていましたと話すと、あの先生は三重の出身で、あそこではずっと前からら抜き言葉を使っているんだよと教えてくれました。『日本語ウォッチング』(岩波新書)でも、この形が関西の方で発生したことを指摘していたと思います。

>本来の形を重んじるべきなのでしょうか。
>私は本来の言葉を大切にしたいという気持ちがかなりあります。

ついつい私も使ってしまう「本来」という言葉は、言語の変遷について語るときには問題があります。言語がいつ発生したのかは不明です。私たちの先祖が言葉を話すようになってから、それが文字に表されない時代が、ほとんど永遠の長さにわたって続いてきました。その後、文字ができてからは、言葉が記録され残されるようになりました。そのような、過去永劫から現在までのどの時代を“本来”の時代にするかということは、決めがたいことです。

大体は、それを決めようと言い出した人が、自分の世代の言葉を“本来”とすることが多いようです。ですから、私が子供の頃は、今よりずっと古い人たちの言葉が“本来”でした。私はそういう本を読んで、そんな言葉は使えないと思いました。20歳ほど年下の人たちは、私たちの言葉と大きな違いがないので、それでも受け入れ可能かもしれませんが、これが40年下になったら、私たちが正しいとしてきた文法は“老人語”とか“非文法的”と言われるようになるかもしれません。

で、実際にそういうことは今も起こっているのです。日本語教育では現在のlapis225さんがいう日本語を“正しい”日本語として教えますが、それ以前の文型や表記などを学生たちが用いると、“誤り”として正されます。私だって、学生が「それがよかろうと思います」だとか「そんなことはありますまい」「しませんかった」なんて言ったら、「それがいいだろうと思います」とか「そんなことはないでしょう」「しませんでした」と直すでしょう。ただし、その学生が年配の人の場合は直しません。まあ、「しませんかった」は、いくら年配の人でも直しますが。

ことは話し言葉だけでなく、文章語でも同じです。大野晋が、橋本進吉の文章は立派で、それを自分の文章の模範にする学生が多かったということを書いていますが、今私が橋本進吉の文体で何かを書いたら、こいつ若僧のくせに生意気な書き方をしおると反感を買うことでしょう。私だったら、自分の文章の模範は、橋本進吉ではなくて、大野晋の世代くらいまでです。私より40歳以上は年上だと思いますが、文章語だったら私の世代の許容範囲に入ると思います。

>私から20歳近くはなれた人たちと、心のほうから近づいて
>話したいという気持ちに重点をおくならば、
>
>あえて、このような表現で話したほうが、心をひらいて話してくれるのは事実です。
>一気にちぢまります。いちいち、相手の表現がおかしいと指摘していたら
>うるさいおばさんになるだけ・・・

本当にそうですね。変化している言葉をとらえて、自分の言語感覚という色眼鏡から、私たちよりも若い世代の言葉を「おかしい」と言うのは、人間関係上ちょっと問題があるかもしれません。もちろん、場によって違いますが。たとえば、敬語をしっかり使わなければいけない場面で、まだ敬語が十分に身についていない若い人が言い間違えたときには、注意するのはその人のためだと思います。

>話したい気持ちが先か、文化が先か。。。
>人と人が通じ合うのが言葉ならば、気持ちが先なのでしょうか。

気持ちが先でしょう。なぜなら、私たちも、私たち自身の“気持ち”で、私たちよりも若い人たちの言葉に接しているからです。若い人たちだって、上の世代の人たちの集まりに顔を出すなら、それにふさわしい言葉遣いをした方が歓迎されます。気持ちが先だからです。

まあ、こういう現象は本当に面白いもので、“乱れている”という意識自体が観察の対象になると思います。たしか『徒然草』にもそういう段がありました。私にとっては、兼好法師が“いい”と言っている表現も“だめ”と言っている表現も、どちらも格調高い文語体でしたが。(笑)