1346   Re^11:アメリカと宮崎監督
2003/05/08 16:43:23  ijustat   (参照数 0)
これは 1342 [Re^10:アメリカと宮崎監督] への返信です

Kotori様、ijustatです。感銘を受けながら読ませていただきました。

>「アメリカは、」というより、「アメリカ北東部のある州で」ということにしておきましょう。アメリカ合衆国という所は、地域によって考え方がまったく変わりますから。

ああ、もしかしたら、アメリカは“連邦制”というけれど、各州はそれぞれが別々の国のようなものなんですね。以前そんな話を聞いたことがありましたが、私たちはあまりにも「アメリカ」というのを同一の価値観を持った単位として見やすいのです。しかし、地域(州?)ごとに考え方がまったく変わるというのは、驚きです。ということは、私たちはアメリカで何かがあったという報道に接して、アメリカという国はどうだこうだとは、決して言えないということですね。「所かわれば人かわる」という諺はありますが、今の日本では、地域によって考え方が全く変わるということは、ちょっと考えられませんよね。

>私が住んでいる地域では、99%を白人が占めているにも関わらず、わりとリベラルな雰囲気があって、最近はアフリカからの難民の数が増えています。彼らは、まずアトランタなどの南部に到着後、評判を聞いて住みよい州へだんだんと移動するのだそうです。こんなに寒い北の州でも、住み心地がよいと聞けばやはり来たくなるのでしょう。私は市立のファミリー・シェルター(家を失った家族が一時的に入居できる場所。)でボランティアをしていたことがありますが、入居している人のほとんどがソマリアやスーダンからの難民の家族やアメリカ人のシングル・マザーとその子ども達でした。親が家捜しに出かけている間に子どもを預かるための託児所というか子ども部屋(乳幼児から中高生までをあずかる)がついていて、私はそこで子供たちの面倒をみるお手伝いをしていました。そのボランティア活動は、私の大学の課題の一部でもあったわけですが(専攻が教育系なもので。)、この州の、よそ者を受け入れつつ共存しようとする意識の高さには、驚かされるものがあります。それは、(例えばカリフォルニア州などの外国人が多い州を除けば)全米のなかでも珍しいという可能性もあります。南部など、閉鎖的な地域がたくさんあるようですから。

なるほど、アメリカの中に“世界”があるんですね。中国の人たちも、自分の国の中に無数の民族が住んでいるために、それだけで“世界”を形成しているかのようだという話を聞いたことがありますが、アメリカも似ていますね。しかし、難民受け入れのこの敷居の低さは驚きです。事情はあるのでしょうが、どうして日本ではそういうことができないのか、気になります。どうしても受け入れる余裕がないのか。あるいは、私たちが外国人に不寛容で閉鎖的だからか。

Kotoriさんが以前紹介してくださった、日本人とアメリカ人の学校の先生の、外国人の子女を受け入れるときの態度の違いに強い印象を受けました。日本人の先生が「特別扱いをしない」と言ったとき、それはその子に対する配慮だと思うのですが、見方を変えれば、その子供のアイデンティティーとなる文化に知らん顔をするわけですから、その子に対する無関心とも考えられます。その子は自分のアイデンティティーを否定して日本人と同化することによって、クラスに溶け込んでいけるわけですから。アメリカがそういう問題に取り組んでいるということを、『バイリンガリズム』という本で読んだことがあるような気がしますが、定かではありません。

もっとも、外国から来た子供を同化させようとするのは日本だけのことでなくて、世界のどこでも大体同じようなことかも知れませんね。韓国でもやはり、うちの子が日本から帰国した韓国人の子供と日本語で話していたら、小学校の先生が、韓国語で話しなさいと“注意”したことがあったそうです。それを聞いて妻は校長先生に電話で抗議し、この子たちは母語が日本語なのだから互いに日本語で話すことは当然だ。それをやめさせるのは不当な行為だから、今後はそのようなことをしないようにその先生に注意してほしい、と言っていました。私はこのことに関しては、どちらの立場を支持するというものでもありません。大人の世界では、韓国語が話せるなら、日本語の分からない人の前で日本語で話すのは、あまり親切な態度だとは思えませんから。

そういえば、小塩節というドイツ語の先生が、ドイツ暮しから日本へ帰ってきて、子供を日本の小学校へ通わせたそうですが、子供がドイツにいたときと同じように先生に質問したら、そのことで先生から厳しく叱られたために、精神的にひどいショックを受け、学校に行けなくなってしまったという話を、何かで読んだことがあります。ゆどうふさんに教えていただいたんでしたっけ。それは思いだせませんが、国際社会の難しさを感じさせます。しかし、その先生、大学教授の子供を叱ったことで、その話が本に載ってしまったのですから災難です。

>そうですね。また逆に、外国のアニメ・ファンのなかには、日本にすごく憧れている若者たちがいて、彼らが実際に日本に行ったら絶対に幻滅してしまうんじゃないかと心配になるくらいです!どこの国にもかならず長短ありますものね。

そうなんですか! 日本に対して、彼らはどんな幻想を抱いているんでしょうね。正義のために命がけで闘うヒーローを見て、日本人はみんなサトシやアトムやその他の少年ヒーローたちのように、勇敢で清々しい人たちだと思っているのでしょうか(^^;)。もしそうだとすれば、彼らの幻滅は相当激しいものになるでしょうね。

>ほんとうに、アメリカに来て黙っていたら、ほとんど理解されることはないと思います。思ったことは口に出して言わないと、誰も察してはくれません(^^;)私も、アメリカに来てから、さっぱり口に出して言った方が気が楽になるようになってしまいました・・・。日本に居たころは、言うか言うまいか迷ったら必ず、言わない ほうを選んでいましたが、いまでは、言う ほうを選びます。

韓国人は西洋人と違い謙遜で控えめなことを美徳とすると、韓国の本には書いてありますが、日本人と比較すると、この記述は理解できません。韓国でもやはり、自分の思ったことは口に出して言わないと、心に思うこともない、自分の考えもない人間と思われるようです。ただし、言うか言うまいか迷うときは、韓国ではやはりどちらにするかは決めかねることがあります。それはやはり、控えめなことを美徳とする規範が生きているからです。それでもやはり、日本での生活とは違い、小さなことにも自分の立場をいつも認識できて、それを口で言うべきときにはすぐに言えなければ、ただのお人好しに見られてしまいます。

>ちなみに、ここの州のアメリカ人の、他人に対しての気配りは相当なものですから、たとえこちらが黙っていたとしても、思ったことを言う機会をつくってもらえることはあるかと思います。また、あからさまなニーズだったらすぐに察してもらえます。ほかの州ではどうだか知らないので、「ここの州では」と限定しておきますが、たとえば、少し大きな荷物を持っていたら誰かが助けてくれるのがここ。日本に里帰りをしたとき、重ーいスーツケースを持っての階段の上り下りがすごく大変だったのに(一歩一歩がやっとという感じで)、成田空港から所沢までの間、一人の駅員さん以外、誰も助けてくれなかった!日本人はなんて冷たいんだろうと思ってしまいました。ここの州だったら、例えば自分が建物のドアを開けたら、必ず後ろを振り返って、もしも誰かがそのドアに向かって歩いているのが見えたら(よほど遠くない限り)その人のためにドアを開けたまま押さえて待つのがあたりまえの礼儀です。例えば大学の構内にいても、自分の両手がふさがっていたら、その場に居る人はもちろんのこと、ちょっと遠くに居るひとでも走ってきてドアを開けてくれます。バスなどに乗り込むときに女性や高齢者に対して「お先にどうぞ」というのもあたりまえの礼儀です。ちなみに、私が住んでいるのは、ここの州で一番人口が多い小都市です。日本だったら、知っている人に対して親切にするのはあたりまえだけど、街ですれ違う他人達にはかなり無関心だと思います。特に東京近辺では。

実は私は、日本に一時帰国して韓国へ戻るとき、駅の階段で荷物を持ち上げるのを手伝ってもらったことがあるんです。それも東京近辺で。多分、本当に珍しいケースだったと思います。本を買い過ぎてかばんが重くなってしまったので、階段のなるべく少ない駅を通過しようと考えていました。ところが西船橋駅で、ホームとホームを連結する通路が、エスカレーターもなく、ホームには駅員もいませんでした。それでも降りるのは何とか5分ぐらいかけて頑張りましたが、登るときに、2〜3段登っては1分ぐらい休んでという状態で、登りかねていました。そこへ、子連れの若い女性が通り掛かりに、私を見て哀れに思ったのか「お手伝いしましょうか」と言ってくれました。でも、ありがとうと言って持ってもらうのはあまりにも恥ずかしかったので、いいえ大丈夫ですと答えました。その女性は「そうですか」というと、何段か階段を登りましたが、また振り返って、私がまだそこにいるのを見ると降りてきて、「やっぱり持ちましょう」と言って持ってくれました。また断わるのも変なので、「ありがとうございます」と言って一緒に荷物を持ってもらいましたが、なんと、二人で持つと、その重かったかばんはいともやすやすと持ち上がり、すいすいと階段をあがって一気にプラットホームに着いてしまいました。改めて自分のひ弱さを実感しました。韓国に着いてからは、階段を登るときに、近くを通りがかった大学生に、悪いけどかばんを一緒に持ってもらえませんかと頼み、一緒に持ってもらいました。この私の態度の違いは何か分かりませんが、韓国では甘えが利くことを体が知っているので、日本では自分でやろうとして、韓国では人に手伝ってもらったのでしょう。でも、ここで“大学生に頼む”と言うのがミソです。

Kotoriさんの住んでいる地域は、とても美しいところですね。日本の「気配り」というのが、そういう見知らぬ人に対する親切にまで拡大されれば、本当にすばらしいですね。東京とその近辺では、Kotoriさんもご存知のように、一般に、人々は他人に無関心です。大坂やその近辺ではどうなんでしょうね。私の知っている大阪の人は、東京の人とはずいぶん違い、積極的で、人間が濃い感じがします。東京よりは見ず知らずの人に対する関心もあるのではと推測していますが、東京と同じなんでしょうか。

>そうそう、3月にニューヨーク市に行ったとき、こんなおもしろいことがありました!地下鉄の混雑した電車内で、黒人のお兄さんが若いお姉さんをナンパしていて、ついにお姉さんから電話番号をゲット!したんですが書く物を持っていませんでした。自分の友達に聞いてもやっぱり持っていなくて、そうしたら隣に立っていたインド風の中年のおじさんがごそごそとかばんの中をなにやら捜し、ほら これ使え と言ってボールペンと紙切れを差し出したんです。お兄さんが受け取り、背が低かった友達の頭の甲に紙切れを置いて(友達に下を向かせ)、そこで電話番号を書きました。私とそのナンパされた黒人のお姉さんは顔を見合わせてクスクス笑ってしまいました。こういうことがあたりまえのようにおきるのがアメリカです(笑)

それは面白い話ですね。親切なだけじゃなくて、ユーモアがありますね。ひょっとしたら、人間というのは、もともとそのように可笑しさがあって、ちょっとお節介焼きなのが、理想的な姿なのかもしれません。他人に迷惑をかけるくらいの親切さが必要だと思います。これは何も私が思っているだけでなくて、日本でも多くの人たちはそのようにしていると思います。でも、韓国はもっとそうだし、アメリカは、さらにそうだという感じがしました。どこの国でも通用するようなハイブリッドな態度というものを私は考えていますが、それは、自分の領域をしっかり持っていながらも、時々そこに入り込んでくる人を受け入れることもあり、また、相手の領域を尊重しながらも、たまにはお節介を焼いたり迷惑をかけたりする、そういう態度が理想的なのではないかと考えています。

以前、ニューヨークの貿易センタービルがテロで破壊されたとき、その瞬間の街の様子を撮った写真を見ましたが、黒人の女性が抱き合って泣いている写真がありました。私はそれを見たとき、全然関係無いことで意外な感じがしていました。アメリカなどについて書かれた本などで、アメリカ人は論理的で合理的な思考では我々よりも優れているが、我々には豊かな感情があるという内容を、よく見かけましたが、その写真は、その黒人女性の豊かな感情を表していました。その前に、インタビュアーが、倒壊したビルの下に恋人がいると言って泣いていた女性をインタビューしながら一緒に涙を流している映像を見ていました。また、ニュースの座談会に出演した役人が、救助隊員の中に友人がいたが、ビルの中へ救出のために入っていって難に遭ったと話しながら声を詰まらせて唇を震わせ、涙を堪えようとして言葉が続きませんでした。そういう情景を見ながら、日本人は、論理性や合理性でも劣っているだけでなく、ひょっとしたら、情緒の面でも劣っているのではないかと思ったのです。アメリカの世界に対するうんざりするようなお節介は、こうしたまわりの人間に対するシンパシーから来ているのではないかとも思ったりしました。

>もののけ姫や千と千尋の映画の世界があまりにも独創的かつ日本的で、欧米の文化からはとことんかけ離れたものだったため、その世界に迷い込んでしまった普通の女の子である千尋と同じ立場で映画を追えるほうが、勇敢なアシタカ少年についていくよりもラクだと思うのです。たとえば、アメリカの観客が「Spirited Away」を見ていて、「なにあれ?へんなのー。わっかんないなぁ。」と思っても、千尋だって「へんなの。」と言っているぐらいですから、「千尋だってわかんないんだから、ま、いっか。」と安心できると思うんです。そのようにしてある程度まで映画を素直に見続ければ、観客もそれなりにのめりこみ、自力で話を追えると思います。一方、「Princess Mononoke」では、アシタカ少年は勇敢に冒険をしますが、観客が混乱して「なに?何がなんだって?わけがわかんない!」と思ったとき、誰がその気持ちを救ってくれるのでしょう。映画館でフィルムを巻き戻しして話を確認できるわけじゃありませんし、観客は、「わからない!」という不安な気持ちを抱えたまま、映画を見続けるしかありません。それが最後まで続き、結局、多くのアメリカ人に、この映画は「ダークで複雑で意味がわからない」と思わせる結果になったのではないでしょうか。

なるほど、そういうことがあるんですね。やはり、Princess Mononokeに対するアメリカ人の一般的な感想を要約すると、「ダークで複雑で意味がわからない」ということなんですね。これは、私が最初に想像していたような単純なものではなくて、アメリカ人と日本人との性格の違いの断片をそこに見ることができる面白い現象かも知れませんね。

同僚の先生にこのことを話したら、アメリカでは善玉と悪玉がはっきり分かれているのが人気があるのだが、Princess Mononokeは、どちらが善でどちらが悪だとはっきり言えないところが、アメリカの人たちにとっては理解に苦しむ点だと言っていました。これも私が知らないアメリカの特徴でした。

>アメリカで販売されている宮崎映画のDVDにはほとんど全部、英語版とフランス語版とオリジナルの日本語版が収録されていますから、両方楽しめます。英語版の 「Spirited Away」は、日本語版とすこしせりふの内容が違う個所がありますが、私は、それがアメリカの観客の理解を大いに助けたと思います。そういう意味で、「Spirited Away」はとても良く出来た英語版だと思いました。「Princess Mononoke」のほうは、DVDを持っていないので、日本語版と英語版がどう違うか詳しく分かりません。

やっぱり直訳じゃないんですね。それは当然なことですよね。韓国映画を直訳した字幕で昔見たことがありますが、日本語がおかしいために意味がぼんやりして、気持が伝わってきませんでした。ひょっとして、Princess Mononokeは科白の訳で失敗したとか……。