1204   重箱の隅を突つく愉しみ
2002/09/23 00:58:54  ijustat   (参照数 8)
これは 1199 [Re:チュソクの連休] への返信です

ゆどうふさんこにちわ!ijustatです。

>でも、正直にいうと、私は各語尾と助詞何が違うの、って聞かれると答えづらいです^−^;

こういう話を聞くと、なぜか血が騒ぐのです。格語尾と格助詞との違いは、どう考えるかによって大きく違ってくるのですが、一般には、自立形態(free form)に付いた依存形態(bound form)を単語と認め、その中でも活用語尾が付かないものを“助詞”と呼んでいます。この考えでは、日本語には格語尾は存在しないことになります。なぜなら、名詞は必ず単独で自立形態になるからです。(学校文法の助動詞の設定は、自立形態と依存形態が絶対的な基準にならないので、活用語尾との区別の仕方が曖昧になり、どんな考え方があるのか、よく分かりません。今度勉強します。^^;)

でも、依存形態を一切単語として認めないグループもあって、その仲間が、このあいだお話した、鈴木重幸という人たちを中心とする学派です。つまり、その人たちによれば、「私が」というのは、1語になるわけです。普通は、「私」と「が」の2語と考えますよね。その考えによると、「私が」という“単語”の「が」という部分は、単語ではなくて、“格語尾”となるわけです。

つまり、助詞と格語尾との違いは、それを単語として認めるかどうか、という違いによるものです。

私は、助詞が単語であるというだけでなく、それは統語的な働きをしていると考えています。たとえば、私が暗誦している次の文、

“μη παντεs χαρισματα εχουσι ιαματων;”
(ミ・パンデス・ハリズマタ・エフシ・イヤマトン=皆が癒しの賜物を持っているだろうか<反語>)

という例文で、“χαρισματα”は「賜物を(複数対格)」、“εχουσι”は「持っている(3人称複数現在)」、“ιαματων”は「癒しの(複数属格)」なのですが、これは、名詞の格それ自体が支配しているために、名詞句の間に術語動詞が割り込むという芸当をしても、文の理解に支障がないのです。

しかし、日本語では事情が多少異なると思います。「癒しの賜物を」という文は、「[癒しの賜物]を」という関係になっています。つまり、助詞「を」が、「癒しの賜物」という名詞句全体にかかっているのです。ですから、語順を変えて「癒しの、持っている。賜物を」とすると、違う意味に解釈されてしまいます。このように、日本語では、助詞がその前の名詞句を統率しているために、その中に文の他の要素が入ってこられないのだと思います。

(「賜物を持っている。癒しの。」が「癒しの賜物を持っている。」という意味にちゃんと解釈できるのは、文を超えた談話のレベルでの問題だと思います。)

で、助詞「を」は、形態的には「賜物」という名詞に付いて、この語を“対格”にする働きを持つものですが、それだけにとどまらず、その前に連体形の表現が来たら、それをすべて、対格の名詞句の中に組み込んでしまう働きも持っています。

こういう助詞の統語論的な働きを特に強調しているのは、生成文法を掲げる人たちで、韓国では、助詞をこのように見る傾向がとても強いです。私も、この考えに強く影響されているようです。^^;

このように、用語一つを突ついてみると、それをめぐる世界観が吹き出してきて、とても面白いと思います。重箱の隅を突つくのも、ご飯を残したらもったいないということもあるけど、そこに残っているご飯に、うなぎのタレがたっぷりと染み込んでいるからでしょう?


>うーむ、ということは、英語ならではの使用例と対比させてかかれているということでせうか。
>それともやはり、説明が難しいとか…
>しかし、母語ではない言語で作られた辞書を見ていると興味深いですね。

そうですね。でも、私が英希辞典にちょっと冷淡になってしまうのは、どうも私が英語を“間に合わせの言語”と感じているためのようです。国際的に、非母語話者たちが英語をたくさん使うので、その場で意思疎通ができれば、それでいい、という気持ちが、どうしても強いのです。本を読むときは、正確な理解がしたくて、コリンズの辞書などを丹念に読むことがあるのですが、いざ自分が使うという段になると、きちんとした英語を使う意志が、かなり欠けている。これは、最近私が気付いた、自分の傾向です。もちろん、これは望ましい態度ではないので、改善しようと思います。

>私の卒論のテーマの中に辞書の比較が入ってくるんですが、
>ドイツで出版されたドイツ語辞書と、日本の独和辞典では考え方がまったく違い、カテゴリわけも違います。
>ところ変われば品変わる、って感じですね。

そうですね。それはとてもいい傾向だと思います。ドイツのドイツ語学の亜流として日本のドイツ語学があるのではなく、日本の学問としてのドイツ語学がある証しだと思います。その語学的な水準自体はどのようなものかは分かりませんが、独自にその水準を高めるなら、ドイツ本国でも決して無視できないものになるでしょう。

日本の朝鮮語学も、韓国の韓国語学とは違った、独自の発展をしてきましたが、韓国でそれを大きく取り上げはしないものの、個人個人の学者たちが、かなり日本の朝鮮語学の名著を重く見ています。

というわけで、今日は重箱の隅を突つくお話をしました。