ランゲージエクスチェンジ


以下の文は、ライコスクラブに書き込んだものです。

439   ランゲージエクスチェンジ
2001/05/31 12:08:23  ijustat   (参照数 1)
私のいる教育機関では、ランゲージエクスチェンジのチャンスを学生たちに提供しています。

しかし、双方の思惑の違いから、トラブルが起こることがよくあります。そのためにランゲージエクスチェンジに対して否定的になってしまう学生もいます。しかし、ランゲージエクスチェンジは素晴らしいものです。

効果的にランゲージエクスチェンジができるためには、方法と心構えが必要です。それをここに紹介しておきます。

まず、効果的に見えて実際にはたいへんまずい方法は、互いに相手の国の言葉で話すという方法です。例えば、私が韓国語で話し、韓国の人がそれに対して、日本語で答えるというものです。一見、互いに相手の国の言葉で話す機会が持てていいような感じがしますが、実は、これには大きな難点があります。

会話というのは、互いに相手の使った言葉を用いて行われています。そのとき、相手の言った言葉というのは、その意味を用いるのではなく、その単語や表現を用いています。これはほぼ無意識に行われ、返事をする文型、というか、言葉の枠組みは、返事をする時点ですでにできていて、そこに聞いた単語をほとんど無意識に流し込んでいるのが、実際の言葉の流れです。で、たいていは、言ったあとで自分の表現の妥当性を再確認しています。

だから、キムチの話をしているのに、誰かが横から大きな声で、電話がどうのこうのと叫んでいると、うっかり誤って、「その電話はおいしいですよね」と言ってしまって、相手の目を点にしてしまうことが、よく起こります。これは、自分が答えようとしている“思考の枠組み”に、相手が話した言葉を流し込む段階で、同じ文法的性質を持った全然違う単語が聞こえると、それが優先されて返事の中に入ってしまうものと考えられます。

ということは、相手が日本語で話して、私が韓国語で答えようとする場合、相手の話した言葉や表現を全然使わないということになります。それは、会話としては、大変な負担を強いるものです。私は大学生の時、友達とよく“精神分裂ゲーム”というのをやりました。それは、相手が言った単語を使ったら負けというものですが、それはとても難しいものでした。相手が使った単語を使わないで言葉を返すのは、たいへんな負担を強いられるものなのです。

さらに、相手の言葉を受けて私が韓国語で答えるとき、一々日本語を韓国語に訳すという作業が伴います。相当韓国語ができる段階でなら、ひょっとして正確に訳せるかもしれませんが、中級段階では無理な話です。

結局は、どちらか上手な人の方に飲み込まれてしまうというのが現状です。これでは、ランゲージエクスチェンジになりません。どちらかは全面的に相手の国の言葉が学べて、片方は全然学べないというのは、不公平です。必ず両方が得をしなければ、不満は募る一方です。これでは、ランゲージエクスチェンジは長続きしません。

この問題を解決するためには、時間を決めて、何時から何時まで韓国語、その次は日本語とするのがいちばん理想的です。私は、これからランゲージエクスチェンジをする人たちに、この方法をお勧めします。

あるいは、日本語で韓国語の表現を教えたり、韓国語で日本語の表現を教えたりするのも、役に立つと思います。私は大学生のころ、そういう形でランゲージエクスチェンジをするという幸運に恵まれました。いや、当時はランゲージエクスチェンジという概念は私の頭の中になかったのですが、結果としてそういうことになったわけです。

それから、文化の違いや、話の運び方の違いから、大いに誤解や摩擦が生じるものです。日本人同士での会話では、相手が不当な誤解をしたら、それはたいてい相手の理解の仕方が悪いか、自分の言い方が悪いのですが、ランゲージエクスチェンジの場合は、価値観の違いが原因だったり、単に方法やアプローチが違うだけというのが原因の場合もよくあります。

実は、こういう誤解や摩擦にも、ランゲージエクスチェンジの醍醐味があるのではないかと思います。自分が今まで想像したこともなかったものの考え方が、こういう誤解や摩擦の背後に隠されています。これは、行く手を阻む壁(あるいは垣根)の反対側に、宝の山があると考えることができます。多くは、この壁を見て、互いに相手の文化を“壁”だと思って終わることが多いのです。

アインシュタインが何かに書いていましたが、これまで自分が知っている理論で解明できない問題に突き当たったとき、それは、新たな発想の転換をもたらす絶好のチャンスだということです。私は、これは、科学の世界だけでなく、異文化交流にもよく当てはまると思います。

ランゲージエクスチェンジをしながら、相手が自分にとって理解のできないものの考え方を見せたとき、私たちは本当に当惑しますが、相手もたぶん当惑していると思います。しかしそれは、これまでよりも深い次元での理解への入り口なのです。私たちの成長は、しばしばこういう不愉快な経験を通して実現します。

柴田武が、国際社会は夢のような社会ではなく、苦痛の社会だと、80年代の初めごろに新聞に書いているのを読んだことがありますが、その“苦痛”から私たちが学ぼうとするかどうかによって、それは新たな成長にもなり得るし、単に災いで終わることにもなり得るものです。アインシュタインは、息詰まった苦しい状況から、自暴自棄に陥ったのではなく、相対性理論というまったく新しい考え方を発見して、科学を飛躍的に発展させたのでした。(私は相対性理論が何なのか、全然何も知らないんですが…。汗)

文化によって、思考のパラダイムに大きな差があるものですが、それは乗り越えられるし、そういうものだと割り切って考えていると、かえって異文化交流は刺激に満ちた、それこそ、3日やったらやめられない(笑)ものになると思います。実際、いろいろな障害にぶつかりながら、異文化との架け橋として尽力している人たちは、そういう人知れぬ楽しさを味わっているのだと思います。彼らは、私たち一般の日本人が見ることのできない、まったく次元の違う世界を見ているのです。

ランゲージエクスチェンジは、そういう世界への入り口になる、すばらしいものです。みなさんも、ぜひ機会があれば、ランゲージエクスチェンジをしてみることをお勧めします。