古典語学習書に対するつぶやき


古典語の学習書は、残念ながら、ほとんどが秀才のための教材だ。特に秀才でない人も、古典語を読んで味わいたいと願っている人はたくさんいるだろう。しかし、峻険な学習書に立ち向かって克服できる人は、あまり多くない。それは、学習書が難しすぎるからだ。もともと難しい古典語の学習が、学習書のカリキュラムがまずいために、もっと難しくなってしまっている。

まず、日常的な表現がない。これは、日常的な表現に基本的な語彙が集中し、日常から一般的な話題に広がって行くに従って、高度な語彙が多出するようになる。しかし、現在の古典語の教材に、そのような配慮があるものは、少なくとも日本国内では見られない。韓国でももちろん、そんな教材は、古典語の教材にはない。そのため、基本語彙は知らないまま高度な語彙を学ばせられるという不均衡に陥っている。

これでは、言葉が生きたものだということを、その学習によって悟らせることは無理だ。それだからこそ、神学校に通ったことのある人が、かつて聖書の原語を学んだことがあるにも関わらず、原語で聖書を読むことを軽んじることができるのだ。一般信徒が原語で聖書を読みたいと言って来たとき歓迎する牧会者は、めったにいないと思う。私はそういう人に会ったことがない。原語を記号解読のように読むよりは、日本語訳や英訳などを読んだ方がしっくりくるだろう。聖書は頭でも読むが、魂でも読むものだ。原語の言葉が魂に響かないように指導する教材や教授法は、大いに問題がある。そのためには、古典語の教材を“読むためのもの”と割り切らず、学習者がその言語の感覚を身に付けられるように、カリキュラムや教授法を工夫すべきだ。

構成が組織的で説明は行き届いているけれども、読解文がナンセンスに近い教材も多い。そんな教材で学習するのは、人生において浪費となるのではないかと真剣に考えてしまったりもする。

また、古典語の教材の多くは、読解文が短い文の羅列で、学習者の理解に大きな負担となる。私たちの言葉の理解は、文脈の中で、文脈に助けられている。その文脈の中で、出て来た言葉一つ一つに対する感覚が形成されて行く。しかし、短い文の羅列では、言葉の感覚を形成する機会がほとんどない。

古典語を学習する目的は、読むためだ。解読し日本語に置き換えていくためではない。そういう乾燥した行為を楽しむ奇特な趣味のためでなく、その古典語で書かれたテキストを原語で味わいたいからだ。味わうのが目的なのだ。私たちが日本語で書かれた日本の書物を味わいながら読むように、外国語である古典語で味わいたいというのが、多くの場合、古典語を学習する目的だ。読むということを、そういう観点から考える必要がある。

現代語の教材や教授法は、話したり聞いたりする訓練をベースに、読む訓練をする。その過程はナチュラルで、その読解力も、言語を言語らしく把握できるようになっている。しかし、古典語の学習には会話はない。聞く訓練もない。これらは不要なことではあるのだが、しかし、会話ができるくらいの下地なしに読みだけを学ぶのは、学習者にかなりの無理を強い、言語に対する歪んだ見識を植え付けてしまう。

教材をわざわざ“面白く”する必要はない。それを目的にしても、ただ初期の学習者には面白さの分らないユーモア、あまり面白くないユーモアで、かえって学習をつまらなくするのが関の山だ。学習者がその教材で何らかの達成感を得られる学習書がほしい。達成感が得られれば、学習は楽しいし、内容は面白いのだ。この喜びは、充実感となって学習動機を高めてくれる。

教材の後半部で有名な戯曲を読ませる『エクスプレス古典ギリシア語』(白水社)は、読んだということに達成感を与えてくれるので、いい教材だと思う。文章自体はそのままでは読めないほど高度だが、翻訳があって単語の説明も行き届いているので、読めてしまうだろう。

しかし、この教材が理想的だとは思わない。もっと進度の緩やかな教材がほしい。