古文の理解


29   古典
2000/12/25 14:39:39  ijustat  (参照数 10) << 前へ-次へ >>
古典というと、文法はともかく、テストの問題などで、この話は誰がして、この単語の意味はどうでなどと、学習者をいじめるものが多いですよね。

受験生の頃、散々それで苦労したし、特に、竹取物語の問題など、何がなんだかぜんぜん分かりませんでした。だから、大学に入る前は、古典というのは大変難しいものと思っていました。

ところが、大学に入って最初の授業のとき、先生がいきなり、竹取物語を購買で買って、来週までに読んで来なさいと言うのです。その時は、度肝を抜かれました。

しかし、実際に読み始めてみると、かなりはっきりしたストーリーがあるので、結構読めてしまうんです。受験生時代にあんなに苦労したはずの竹取物語を、一日で読んでしまったことを覚えています。

それを考えてみると、受験のための古典の勉強って、いったい何だったんでしょうね。

今でも、源氏物語と枕草紙の2つはどうも苦手なんですが、それ以外のものは、結構楽しんで読んでいます。

ですから、ある程度の古典文法と現代語と違う単語や言い回しをいくつか覚えたあとは、あんな断片ではなくて、まとまったものを、どんどん読んでしまう方が、よっぽどわかりやすいのではないかというのが、私の考えです。

それに、断片がよくないのは、何について書かれたものかに対する知識(言語教育理論では「スクリプト」といいます)が与えられないので、最初に読み始めたとき、いわば当惑しながら読んでいることになります。そういうのを読ませるのは、「読む」ということの指導とは、というてい思えません。私たちは、たいてい、文章をちらりと見て、断片だと分かったら、よっぽど興味をそそる内容でない限り、読む気が起こらないと思います。

そんな不備な文章は、まともな文筆家は書きませんから、通して読めば、結構内容がよくつかめるのです。ですから、一冊、読みやすそうな薄いものを買って来て読んでみてください。その時、古文を授業で読むような分析的な読み方は、決してしてはいけません。話の筋がどう流れているのかを、ひたすら“追跡”するのです。

あと、これは人に試したことがないので分かりませんけれども、明治の擬古文から入って、次第に、江戸時代、室町時代、平安時代とさかのぼっていくのはどうかとも思います。

なぜ明治の擬古文かというと、文体は文語でも、感覚が近代なので、考え方の背景がわかりやすいのです。森鴎外の舞姫や即興詩人などから入ったら、文語に親しみやすいのではないでしょうか。

しかし、そこからでもいきなり平安時代に飛ぶと、語彙がぜんぜん違うので、はじかれてしまうかもしれません。そこで、江戸時代のものを読み(精読は学校でやるから、個人の読書では決してやってはいけない)、少しずつ昔へ昔へと行った方がいいのではないか、というのが私の考えです。

なお、京都の人に言わせると、むしろ平安朝の文学の方が、自分たちと言葉の同一性も感じるし、何よりも、出てくる地名や人名が子どもの頃からなじみの深いものなので、親しみを持って読めると言っていました。うらやましい限りです。

辞書は、話の大筋を汲み取るのに支障を来たす場合には、必ず引いた方がいいです。「理解すること」が重要ですから。しかし、あまりこまめにひくと、それだけで疲れてしまい、100ページ以上もある文語の作品を最後まで読み通すのは困難になります。辞書や参考書をこまめに参照する研究的読書は、再読以降にすべきだと思います。
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