フリートーキングも使い方次第


外国語を学ぶなら、本格的な授業を受けるに越したことはない。決められたメソッドを持つコースを勉強の場にするならば、そのコースの指示する学習法に従えばいい。また、メソッドは特にないが教材を用いる授業なら、その教材の予習・復習をメインの学習にして、授業はその実際の活用の場、または分からない点を先生が説明してくれる学習の場とすればいい。

しかし、1対1のフリートーキングは、外国語の上達にはなかなかつながらないと言われている。もしフリートーキングをメインの学習にするなら、外国語の上達にはあまり役に立たないだろう。そこから得られるものは体系的ではないので、知識が散漫になるし、自然ではあるが、似たり寄ったりした内容の繰り返しになる可能性がある。だからフリートーキングは、せいぜい語学力を維持するための会話の時間程度にしかならない。初級の人がフリートーキングで外国語の実力を伸ばそうと思うのは、間違った考えだ。

一方、独学で外国語を勉強すると、その言葉を使う機会がないので、各表現の習得に対する動機付けが具体的に与えられず、テキストを理解し覚えるのが苦になりがちだ。いろいろといい表現はあっても、それを実際に使う場面がないために、何か他人事のようになってしまって、意識に焼きつけにくいのだ。また、間違った知識を持っても、それを正せず、間違ったまま固定してしまう場合が多い。独学はとかく回り道をしがちだ。

しかし、独学とフリートーキングを併用すると、状況が一変する。

独習書を選んでメイン教材にし、それを自宅学習しながら、そこで身に付けたものを実践的に使う場として、フリートーキングを利用してみよう。あくまでも勉強は一人でやる。一人で、テキスト本文を何度も書き出してみたり、何度も音読したりして、覚える。そして、フリートーキングでは、とにかく話題を見つけては先生と語り合う。先生と一緒にいるときは、その独習書は引っ張り出さない方がいい。なぜなら、話題がその本の内容に限定されて、フリートーキングならではの縦横無尽な話題の広がりが、萎縮してしまうからだ。

どちらも伸びに限界のある、独学とフリートーキングだが、この学習法を用いれば、相乗効果が起こってくる。

まず、教材の内容が、身近なものになる。先生が私に言った表現が教材にある。自分が先生の助けを借りながら使った表現も出てくる。先生に使ってみたい表現も載っている。まるで、教材の方から私に近付いて来てくれるような感じだ。そのために、教材の内容が身近になって、覚えやすくなる。

一方、フリートーキングの方でも、教材で体系的に身に付けつつある表現が使え、そのうえ、教材では得られない表現や語感などを、先生から学ぶことができる。私が使った表現に対して、母語話者の実際の反応を見ることもできる。教材で覚えた表現に、実際のいきいきした言葉で触れることができる。そういうこと全てが、自宅で再び教材に向かったとき、生きて来る。

これを剣道の稽古に喩えて言えば、自宅での学習は、型の稽古で、フリートーキングは、互角稽古だ。まさか互角稽古しかやらない道場はないだろう。これでは塾生たちはでたらめにチャンバラをするだけで、全然上手になれない。かえって、下手な型が身に付いて、上達への道を阻まれてしまう。逆に、型の稽古しかしない道場では、何のためにそれをやっているのか分からなくて、稽古が苦痛になるに違いない。それでいきなり試合に出されても、コテンパンに打ちのめされてしまうだろう。独学は、得てして型の稽古に始終しがちだ。何らかの実践が必要だ。そのために、フリートーキングは役に立つ。

ところで、フリートーキングには、1回につきあまり長い時間を割く必要はない。1週間にトータルで2時間程度できれば十分だろう。1日30分くらいで週4回できれば、効果があるはずだ。独習は、毎日する。早朝か夜に時間を決めて、できれば1時間ぐらいはテキストを覚えることに費やす。

先生には、専門家を雇う必要はない。フリートーキングに専門家の先生を雇うのは、もったいないことだ。専門家から習うなら、フリートーキングでなくて、きちんとしたレッスンを受けた方が効果が得られる。極端に言えば、その言葉を母語とする人なら、誰でもフリートーキングの先生になってもらえるのだ。ただし、自分の表現したい水準の知性を表現できる人でないと、会話が面白くないだろう。

フリートーキングは、勉強ではない。あくまでもこれは実践だ。この方法での勉強は、独習の方にある。だから、独習でテキストをどれだけ覚えるかが、この学習方法で伸ばせるかどうかを決める。