14 読む


● 読むことは語学上達に非常に大切なもの。

 現代の外国語教育で軽視されている読書の重要性を私は力説したい。若い頃、私はセラの『蜂の巣』の翻訳ではじめて挫折感を味わった。
 相田由先生は五十代に入ってはじめてスペインを訪れられ、会話は二十数歳の私より失礼ながら下手だった。しかし長年スペインの古典の翻訳にたずさわってこられた先生のスペインに対する理解、読解力はなみなみならぬものだった。簡単な会話がペラペラできていい気になっていた若い私は、徹底的にうちのめされた。読書できたえた相田先生は、たとえ訥々としゃべっても、スペインの教養人の尊敬をかち得ることができよう。
 読書の重要性について私にはもう一つの体験がある。アメリカのイリノイ大学留学中、スペイン語科の学生の大半はラテンアメリカ人だった。彼らに伍してやっていくために私は必死で勉強した。おそらく彼らの二倍の参考書を読んだかもしれない。
 ポルケラス・マヨというスペインでも名を知られた黄金世紀の文学の専門家がいた。彼の課したレポートで、何と模範として私のものが、悪い例としてメキシコ人のものが選ばれたのである。
 「セニョリータ野々山の文体は知的だが、セニョール・リベラの文体は口語体で安っぽい」とポルケラス教授は評した。多数の本を読むうちに、自然とその文体が身についたのであろうが、ネーティヴスピーカーを破ったうれしさは、その後大きな励みとなった。
(野々山真輝帆「暗記と読書と恋人の日々」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.173〜174)


● 読みの力は4技能のうちいちばん早く身に付く。

 読解力の養成は、読み・書き・話・聞きの四つの中でも、もっとも進歩が早い。
(種田輝豊『20カ国語ペラペラ』実業之日本社、1969。p.161)


● 暗号解読式の外国語読解も知的な喜びを与えてくれる。

 今から考えてみると、あの頃は外国はまだわれわれにとって遠い国であり、外国語を学ぶのは異国の変った符蝶を解読する作業に似ていた。私は「下手の横好き」的に語学が好きだったので、ギリシア語とラテン語もやったが、これなどは文法を習うとすぐ、それをコードのように使って暗号解読式に読んでゆき、意味がわかると、代数式を解いたような満足感を味わった。英仏独語の場合も、これと似たり寄ったりで、およそそれが現実に喋られる言葉という意識はなく、もっぱら原文訳読に力をそそいだ。どうやらその辺りの感じは漢文に返り点、おくり仮名をつけて読んでゆくのと同じだったような気がする。教室で先生が「これは後のほうから訳しまして……」などと言って教えていたものだ。暗号のキー・ワードのような単語帳を拡げ、謎を解くコードとして文法を理解し、試験ともなればただ訳文を棒暗記してゆく──これがどうもわれわれの外国語だったようである。おそらく大半の学生は外国語を学ぶオーソドックスな方法はこんなものだと思い、それを一種の災難、もしくは通過儀礼として諦めていたのではなかったかと思う。
(辻邦生「遠い外国語、近い外国語」辻邦生・編『外国語ABZ』新潮社、1985)


● 読むだけが目的なら、発音を考える必要はないし、発音を学ばなくてもよい。

 イギリスの言語学者ヘンリ・ブラドリは『話す言葉と書く言葉』という講演の始めに文字と楽譜の違いを論じて、両方とも音を表わすものだが、楽譜の方は音さえ出せれば役目が済むのに、文字の方はそこに出た音から更に意味が浮かべられなければ何にもならない、いっそ途中の音は抜いて文字から意味へ直接結びつけばいいから伝来の綴字(つまりイギリスの旧仮名ですか)が大事だと云っていました。と云われたところで漢字と違う横文字は何とか音をくっつけて読まないと少し長い字は眼からこぼれてしまいますけれど、今まで知っている単語に引掛けて見たら発音のむずかしい国語でも眼だけで案外読めるようになりはしまいかと、或る若い人に発音抜きのフランス語を勧めたことがあります。勿論英語の出来る人でしたから、共通の形の単語の多い本つまり日本語にすれば漢語の多いむずかしい本をいきなり当てがったのです。フランス語で厭気がさすのは発音を抜きにしても動詞ですが、この頃は小さな字引にも不規則動詞の変化した形(昔はむやみに覚えさせられたものです)が出ていますから、それも別の単語として引けばいいのです。この試みは大成功してその人は『フランスに於けるブルジョアジーの起源』というような本でも読める自信がつきました。そのうちやっぱり正式に発音や文法がやりたくなってやり直すことにしたら、他に障礙もあったのでしょうが、惜しいことに中絶のかたちとなりました。尤も眼だけで読むなどと取立てて言うから不思議な気がするので、実は我々年配のものはそうやって済ませて来ているのです。
(河野與一「怠けものの語学勉強法」辻邦生・編『外国語ABZ』新潮社、1985)


● 読むだけで外国語を大まかに身につけることもできる。

 ……彼は二十歳の齢より、毎年一つずつ新しい言語を、独学でしかも毎回同じ学習方法で身につけていった。その方法とは、まずどの言葉を征服するかを決めると、その言葉で訳されている聖書を手に入れることから始まる。次にほとんど内容を暗記している創世記か福音書から読み始めていく。聖典の一冊を読み終える頃には、その言語の大体の型というものを把握してしまう。旧約か新約のどちらか一方を読み終える頃には、もう難なく読めるようになる。両方とも読み終える時には、その新しい言葉の読み書きは楽に出来、その上必要とあらばちょっとぐらいは話すことも出来るようになる。
(ギルバート・ハイエット「外国語が好きなわけ」辻邦生・編『外国語ABZ』新潮社、1985)

 英語は読む機会を増やしたり、短い文章でも書く回数を増やせば、徐々に理解できるようになります。
(和田秀樹『英語も要領』幻冬舎、2003。p.29)

● 読むことが目的でも、外国語に堪能になることはできる。

 言葉を学ぼうという人は大てい、読むことよりも話すことを第一目的とする。私の場合はその反対で、話すことよりその言語で書かれた書物を読むのが目的だと言うと、不思議に思う人が多い。いかに多いかという実例はいくらでもある。あるパーティーであったご婦人は、フィレンツェに旅行するのでイタリー語をかじっておこうと、ベルリッツに通っているのだそうだ。私をつかまえて「イタリー語はもちろんお出来になるのでしょ?」と話しかけてきたので「ええ」と答えると、当然の如くに「イタリーにはよくお出かけですの」と聞く。「一時はよく行きましたが、そもそもイタリー語は、ずっと昔にダンテの『コメディ』を原書で読もうと思って勉強したのです」というと、ご婦人はあきれたのかびっくりしたのか、気まずく黙ってしまった。「聖書の民」と呼ばれているユダヤ人は、私と同じような考えを持っている。そのことは、あれ程までに彼等が言語に対して有能であることの一因であろう。彼等は、言葉というものは日々話されるためにあると同時に、何世紀にも亘って書き残されるためにあると考えているのだ。
(ギルバート・ハイエット「外国語が好きなわけ」辻邦生・編『外国語ABZ』新潮社、1985)

● 読んでいればその言語を忘れない。

 帰国して一週間もたたないある日、父が私と妹をロシア語関係の図書がある代々木の当時の日ソ図書館と、神保町にあったロシア語の専門店に連れていってくれました。毎週土曜日、その図書館で限度だった四冊の本を借りて、一週間で読み終えて返して、また借りる。それから時々神保町に行ってロシア語の本を買う、という生活を続けました。中学二年で帰ってきてから大学に入るまでは、私はいっさいロシア語の勉強はしていません。しかも中学二年の段階でロシア語の世界から離れたわけですから、あくまでも子どもの生活語を基本とした言葉の世界だったのです。それでも、そのロシア語の能力を維持し、さらに非常に苦痛の少ない、楽しい形で向上できたのは、本を読んでいたおかげだと思います。別に言葉を維持するために本を読んでいたわけではなくて、おもしろいから読んでいたのですけれども。
(米原万里『米原万里の「愛の法則」』集英社新書、2007。p.178〜179)


● 原書をどしどし読む。

 高校の三年以上になったら、辞書をたよりに原書を読みあさるようおすすめしたい。一般の人は、入門書を終り、ある程度基礎文法を知ったら、同じく辞書をたよりに、自分の趣味あるいは専門を中心に、その関係の出版物を読むようにする。そうすることによって、自分の学習語との接触を保ち、実力をひろげると同時に維持するのである。
(種田輝豊『20カ国語ペラペラ』実業之日本社、1969。p.225)

 私は、読むことだけになら、堪能になれると考えている。辞書を頼りに死ぬまで黙々と本を読む。こればかりは、人と競争するわけにはいかないし、誰も比較なんかできやしない。誰がどのくらい分かって読んでいるか、永遠に、土俵に上がらない限り救われる。これも数年とかの問題ではない。どの分野の仕事でも、本と向き合って読んでいくのは、頗る孤独な作業である。
(辻静雄「孤独な作業、確認の旅」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.89)

 最後に、なんといっても読書、もちろんフランス語での読書をお勧めしたい。文学作品であれ、歴史書であれ、あらゆる種類の表現に接することができるし、また教養も高めることができる。
(舛添要一「『秘密ノート』で生きた会話表現」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.85)

 その頃、友達でやっぱり大学に戻りたいという奴と勉強会をやったんですよ。カントの『純粋理性批判』を原書で読むの。これはけっこう大変だったけど、面白かった。カントって、日本語で読むとさっぱり分からないけど、ドイツ語で読むと分かるんですね。
(立花隆『ぼくはこんな本を読んできた』文芸春秋社、1995。p.124)

 一冊読んだら、少しずつ新聞、雑誌のような時事文や、自分の興味のある分野の原文を読み続けてください。
(猪浦道夫『語学で身を立てる』集英社、2003。p.104)

 retoldものは1週間に最低1冊は読んでほしい。そうすれば英語に対する慣れを養い、英語を授業科目などでなく、生身の人間が日常用いている言葉なのだと認識することにつながるだろう。
(行方昭夫『英文快読術』岩波書店、2003。p.38)

「読む」ということは、内容とスピードを問わなければ、だれにでもできることのように思えます。しかし、一冊の本を一年かけて読んだり、辞書と首っ引きで二、三ページ読んでもあとがつづかないという程度では、英語力の向上につながる行為とはいいがたいでしょう。英語力向上のために読むには、とにかく量を読むことです。
(笹野洋子『「読んで身につけた」40歳からの英語独学法』講談社、2002。p.81-82)

「確実に読める」ようになる近道は、とにかく多くの英文を読み込むことです。そして、英文の大原則である「S+V」を速く見つけられるようになることです。
(和田秀樹『英語も要領』幻冬舎、2003。p.39)

● 読むことに時間を投資する。

 読む内容は、専門分野のほかに、自分の趣味の分野でも、読みやすい時事ネタでも、なんでもよいのです。大切なのは、一定期間留学をしたつもりになって、とにかくかなりの時間を読み込みに割くことです。トイレや風呂に入っているときや往復の通勤時間、就寝前の読書の時間など、つねにハンディタイプの辞書(7万語以上のもの)を傍らに置き、読み続けることです。
(和田秀樹『英語も要領』幻冬舎、2003。p.45)

● 読みつづける。

……忘れてならないことは、英文が読めるようになっても読み続ける、ということです。少なくとも、毎日15分、なんらかの形で英文に触れてください。英語は読まなくなると途端に読めなくなります。単語も忘れます。反復練習がとても大切なのです。
(和田秀樹『英語も要領』幻冬舎、2003。p.45)

● 読むことに没頭する態度。

お前はまだ寐ないのかえ、と障子の外から聲をかけて、奥さまずつと入り玉へば、室内うちなる男は讀書の脳つむりを 驚かされて、思ひがけぬやうな惘あきれ顔をかしう、奥さま笑ふて立ち玉へり。……机は有りふれの白木作りに白天竺しろてんぢくをかけて、勸工場くわんこうばものゝ筆立てに晉唐小楷しんとうしようかいの、栗鼠毛りつそもうの、ペンも洋刀ないふも一ツに入れて、首の缺けた龜の子の水入れに、赤墨汁あかいんきの瓶がおし並び、齒みがきの箱我れもと威を張りて、割據かつきよの机の上に寄りかゝつて、今まで洋書を繙ひもといて居たは年頃二十歳はたちあまり三とは成るまじ、丸頭まるあたまの五部刈りにて顔も長からず角かくならず、眉毛は濃て目はK目がちに、一の容顔きりようい方なれども、いかにもいかにも田舎風、牛蒡縞ごぼうじまの綿入わたいれに論ろんなく白木綿の帶、き毛布けつとを膝の下に、前こゞみに成りて手に頭かしらをしかと押へし。
(樋口一葉「われから」『十三夜・われから』岩波文庫、1938。p.49〜50)


● 様々な言語の原書を読む。

 いや、哲学書というのはそうそう乱読できないからね(笑)。特にゼミの原書講読では、一語一句徹底的に検討を加えて精読していきますから、九十分の授業で一ページか二ページしか進まないことがよくある。ぼくは、仏文時代はあんまり授業に出なかったけど、サラリーマンを経験して知的意欲に燃えていたから、週に一、二回出ればいいゼミをたくさんとった。ギリシャ語でプラトンを読み、ラテン語でトマス・アクイナスを読み、フランス語でベルクソンを読み、ドイツ語でヴィトゲンシュタインを読んだ。おまけに学科外の授業で、ヘブライ語の旧約聖書講読をとっていた。漢文の『荘子集註』講義もとっていた。おまけにアラビア語の授業も、ペルシャ語の授業もとっていた。どれも少人数の授業で、すぐに当てられるからさぼれない。毎日朝から晩まで勉強してました。
 しかしこの一語一句ゆるがせにしないで厳密に読んでいくという読み方、しかも、教授にしぼられて、脂汗を流しながら読んでいくという体験はとても貴重なものでした。
(立花隆『ぼくはこんな本を読んできた』文芸春秋社、1995。p.124〜125)


● 読み始めは大変である。しかし、じきに慣れてくる。

 通常、本を読み始めて三十ページぐらいまでは根性がいります。やさしい小説などでは、最初のうち、一行に二、三語、単語を引かなければならないでしょうが、五十ページまでくれば一行に一単語ぐらいに減り、その後加速度的に読むのが速くなり、読み終わる頃には一ページ三単語ぐらいしか引かなくなっている自分に気づくでしょう。
(猪浦道夫『語学で身を立てる』集英社、2003。p.104)

● 自分の力に合ったものを読む。

 読むのを楽しい作業とするには、まず第一に、自分の力と見合ったものを選ぶ必要がある。そのかわり、もちろん、たくさん読むことが肝要である。
(行方昭夫『英文快読術』岩波書店、2003。p.37)

 とにかく、自分の力に見合ったものを選ぶべきで、知らぬ単語が1ページに5つ以上あったら避けることだ。
(行方昭夫『英文快読術』岩波書店、2003。p.37)


● 辞書を引き引き読む。

 ただ、一九八〇年に出会った、オーストリア人の今の夫のお蔭で、私のドイツ語の世界に新たな展開が加わりました。“生活に不自由ないドイツ語”ができた私のもとに、十数ページにわたる手紙が毎日、そしてカフカ、シュニッツラー、ツヴァイクといった本がジャンジャン送られてきたのです。話すだけでよかったドイツ語を、今度は読んだり書いたりせねばならず、これは私にとって本当に大仕事でした。辞書は一冊ボロボロになりましたが、そのお蔭で、今ではなんとかほとんどなんでも読みこなせるようになりました。
(鮫島有美子「響きで言葉をつかみとる」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.111)

● 辞書を引くことを億劫がらない。

 辞書を引くのは、知らない単語や熟語の場合は仕方がないけれど、既知のものについては、つい面倒臭くなってしまう。1ページに一つ二つ知らない単語があっても、前後関係から大体の意味を想像できれば、辞書に頼る必要はない。特に多読によって、英語への慣れを身につける場合は、辞書を用いず、飛ばし読みをするのが有効なこともある。でも少しでも反省してみれば、もし英語の単語に一つ、あるいは、ぜいぜい二つの意味や用法しかないのなら、英和辞書はもっと薄くてよい筈だ。やはり、少しでも疑問が生じたなら、億劫がらずにさっと辞書に手を伸ばす習慣を身につけるのが、正しい英文読解の第一歩である。
(行方昭夫『英文快読術』岩波書店、2003。p.63)

● まず一度読んだあと、わからない単語を調べながら再読する。

 しかし、毎日の新聞や仕事に必要な本を読むときに、一々辞書を引いていたのでは、能率もあがらないので、意味の通じるかぎりはすっとばして読むこともあります。…(中略)…。やむを得ないばあいの他は一々辞書を引かずに、すっとばして読むという手もありますが、そうすると結局虫くいだらけの本を読むようなもので、大変な誤解をすることもあり、心理的にも不愉快です。
 そこで、読むときには中断せずに、知らない単語に鉛筆で印をつけておいて先に進み、あとでまとめて辞書を引き、それからもう一度はじめから読みなおすという手もあります。よい読みものならば何度読みなおしてもよいはずですから、これだけの手数をかけても損にはなりません。
(渡辺照宏『外国語の学び方』岩波書店、1962。p.75〜76)

● 分からなくてもとにかく読むことを習慣にする。

 稽古場に行く前にキオスクから新聞を買ってきては、理解できようとできまいと目を通すことを習慣にした。初めは何が書いてあるのかほとんど理解できなかった。が、見出しだけでもと辞書を片手に翻訳しているうちに、ボキャブラリーも増え、なんとなく書いてある記事が理解できるようになった。継続は力なりとはよく言ったものだ。ダンスの修行にも外国語の習得においても近道はない。日々の積み重ねだ。
(小島章司「フラメンコ修行も「初めに言葉ありき」」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.179)

 いづれの書をよむとても、初心のほどは、かたはしより文義を解せんとはすべからず、まづ大抵にさら/\と見て、他の書にうつり、これやかれやと読ては、又さきによみたる書へ立かへりつゝ、幾遍もよむうちには、始に聞えざりし事も、そろ/\と聞ゆるやうになりゆくもの也。
(本居宣長『うひ山ふみ 鈴屋答問録』岩波書店、1934。p.19)

● 対訳を使って読む。

 「英語を読めないうちは、訳を読んでから英文を読むこと」。つまり、英文の内容にアタリをつけておくのです。
 この効用には3つあります。まず1つは、単語を調べるのにかかる膨大な時間を省けること。英語が読めない人は、当然、英単語を知らないため、文章を読む際に単語を調べるだけでたいへんな時間がかかるだけでなく、結局、単語から類推することで文章の内容を「理解した気になる」ことが往々にしてあります。これでは、英文を確実に読めるようになったことにはなりません。
 2つ目は、「英文を確実に読める」ということは、「英語のまま文章を理解する」ことですから、英文の構造もわからなければなりません。訳を読んでおけば、日本語と英語の文章を比較することで、英文の構造を理解する助けになります。
 3つ目は、訳を先に読むと英文読解に対する抵抗感が減る点があげられます。たとえば、東京大学や早稲田大学の入試問題をいきなり解くより、訳を読んでから始めると、書いてある文章の内容そのものはそれほど難解なものでないことに気づきます。どんな勉強でも楽しくなければ続きません。苦手意識を持つと英文を読む行為そのものが億劫になってしまいます。訳を読むことは、抵抗感を減らし、さらに、単語をそのつど調べなくても、文章を読みながら単語を覚えることにもつながります。
(和田秀樹『英語も要領』幻冬舎、2003。p.36-37)

 英文読解には、とにかくたくさんの英文を読み込むことが必要です。入試問題で基本的な力をつけたら、次には比較的手に入れやすく、身近なニュースが掲載されていて読みやすく、訳もある英字新聞が一番よいでしょう。『THE DAILY YOMIURI』なら掲載されている記事が日本語の読売新聞とほぼ同じですし、『週刊ST』(ジャパン・タイムズ刊)なら対訳や注釈がついています。こういう対訳つきのものでは、読んだことにならないという人もいますが、そうともいえません。「こういう表現を使うんだ」と気がつくことは多々あります。
(和田秀樹『英語も要領』幻冬舎、2003。p.41)

● 特殊用語には説明がある場合が多い。

 しかし時事問題や特殊用語でわからない時はどうしますか。たずねる人もいない時は一応わからない単語は棚あげにして(ただしあげっぱなしにしてはいけません)先を続けて読んでいくと、たいていのばあいにその言葉の説明なり、繰返しが出てきますから、見当をつけることができるでしょう。
(渡辺照宏『外国語の学び方』岩波書店、1962。p.78〜79)


● 速く読む。

 活字に慣れるという点では新聞にまさる読みものはない。海外で生活すると、毎日の出来事を知るにはどうしてもその土地の新聞を読む必要があるから、日本にいる時から英字新聞を三十分以内で通読する習慣をつけておくとたいへん役に立つ。三十分というのは、ロンドンでもニューヨークでも、だいたい通勤電車で新聞を読む平均的所要時間だからである。
(近藤直行「独学を楽しみながら」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.56)


● 精読は大切である。

 アメリカの語学教育の一つの欠点は翻訳の軽視である。日本の大学における外国語の授業のように、逐語訳というのは一切やらなかった。もちろん英語からスペイン語への距離は、日本語からスペイン語へのそれよりはるかに近い。そのせいもあろうか、週に数冊の本が宿題として課せられ、授業ではそれぞれの本の要点を説明して終わりになる。アメリカ人の学生は不満をいわなかった。しかし、菓子屋の店頭をのぞいただけで素通りしたような物足りなさが、私には残った。
 翻訳軽視の外国語教育のためか、外国書の英訳は一般に粗雑で誤りが多いように思える。
 日本のように一字一句訳していて名作の一冊も読了せずに卒業するのも問題だが、アメリカのやり方では細部を読みちがえていくうちに極端な誤解も起こるのではないかと不安になる。読解力を養うには速読によって大意をパッとつかむ訓練と、一字一句にこだわり正確さを期する訓練と双方から攻めるべきだろう。
(野々山真輝帆「暗記と読書と恋人の日々」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.174)

● 無理に速読しようとしない。

 実力が中途半端な人にとって、速読は百害あって一利なしです。精読のスピードがおそろしく速くなって、結果として速読になるのが最良だと思います。特に翻訳家を目指す人には、中途半端な速読は有害です。
(猪浦道夫『語学で身を立てる』集英社、2003。p.104)

● 窮極の精読は注釈を作ること。

 さて又段々学問に入たちて、事の大すぢも、大抵は合点のゆけるほどにもなりなば、いづれにもあれ、古書の注釈を作らんと、早く心がくべし。物の注釈をするは、すべて大に学問のためになること也。
(本居宣長『うひ山ふみ 鈴屋答問録』岩波書店、1934。p.20)

  書をよむにたゞ何となくてよむときは、いかほど委く見んと思ひても、限あるものなるに、みづから物の注釈をもせんと、こゝろがけて見るときには、何れの書にても格別に心のとまりて、見やうのくはしくなる物にて、それにつきて、又外にも得る事の多きもの也。されば其心ざしたるすぢ、たとひ成就はせずといへども、すべて学問に大に益あること也。是は物の注釈のみにもかぎらず、何事にもせよ著述をこゝろがくべき也。
(本居宣長『うひ山ふみ 鈴屋答問録』岩波書店、1934。p.42〜43)

● 正しく読む方法。

 文章を正しく読み味わうにはどういう勉強をすればよいのだろうか。人をあっと言わせるような秘術でも披露できればよいのだが、私には平凡な答えしかない。つまり、比較的平易な英文の多読によって英語への慣れを育て、文法の知識や語彙を増やした上で、まめに辞書を引き、文脈を考慮しながら、しっかり文意を確かめる、ということだ。
(行方昭夫『英文快読術』岩波書店、2003。p.62)


● その外国語の本格的な知識を身に付けるには、その言語の歴史的な知識も必要である。

 運命の皮肉というか、このようなよい先生方にお目にかかりながら、私が選んだ言語は先生方の教えて下さった言語ではなくチェコ語であった。これは大学でロシア語を専攻し、ロシア語の文法の不規則の理由が知りたくてロシア語史に夢中になった結果、どうしても他のスラブ語を専攻する必要を認めたことが一つの大きな理由になっている。このことに関しては、神田盾夫著『新約聖書ギリシア語入門』(岩波全書、一九五六年)の「はしがき」にあった「著者は、語学の勉強は、やがてはその歴史的研究に進まねば本格でないとも信じている」という言葉が私の心の大きな支えであったことは忘れるわけにはいかない。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.120)

 われわれがあるテキストを読むというときは、意味もなくいろいろな文字の形をみているのではない。われわれのもっているさまざまな知識、文法的な知識、対象、トピックに関する知識、世界、社会、集団に関する知識といったものを総動員しながら、そういった背景的知識と照らし合わせながらテキストを読むという行為が行われているといえる。ある研究では、日本人、台湾人、アメリカ人それぞれの小学5年生を対象に読む力を測定してみた。その結果、効率的な読みの特徴としてすべての言語に共通していたのは、子どもたちがもっている一般的な情報の量であり、文字を識別するときに関係してくる空間的広がりを認識する力やスピードとは関係ないということであった。
 つまり、表面的な文字そのもの(たとえば、漢字、アルファベット、ひらがな)はあまり大きな要因ではなく、むしろ記号の羅列から意味を抽象化する(みつける)ということがポイントなのであり、この抽象化のプロセスというのは異なった言語間で共通のものだといえよう。
(東照二『バイリンガリズム』講談社現代新書、2000。p.134〜135)

● 引用文を見分けられなければ正しい読解は難しい。

 マザーグースの唄の他、聖書やシェイクスピアの作品中の有名な句を知らないために、正しい読解ができないことも多い。英文を読み慣れてくると、「ここは引用くさいぞ。それとも諺か格言があるのかな」という勘が働くようになる。その場合には、大英和辞典や引用句辞典を念入りに調べれば答えが得られることが多い。
(行方昭夫『英文快読術』岩波書店、2003。p.71)


● 読書の喜びを外国語学習の早いうちから味わう。

 ひととおり文法を終え、二、三の読本などを読み上げたある日、おそるおそるトーマス・マンの『魔の山』をひらいて読みはじめた。ぐんぐんひきずられてやめられない。辞書をひきひきのおぼつかないはじまりが、やがていつしか、のめり込んだ。
 知らない単語ずくめで細部はどんどんとばしていくのに、面白くてたまらない。何がどうと、はっきりいえないにもかかわらず、これがドイツ語で書かれた大文学であることはよくわかった。まるで言葉で建てられた大伽藍をへめぐっている。見上げると壮大な天蓋があり、辺りにどこから射し落ちるともしれない薄明かりがみなぎっている──。
 ふと顔を上げて窓から外を見ると──当時、私は東京・雑司ケ谷の安アパートにいたのだが──目の下に隣家のちっぽけな庭があった。老主人が丹精こめて世話をしている盆栽が並んでいた。その向こうには貧相な木造二階建て、さらに無秩序に重なり会った、安普請の屋根の波がつづいている。
 目を活字にもどしたとたん、まるきり別の風景が立ちあらわれた。白一色のサナトリウムと、幾何学状に区分された部屋の並び。遠くに石の町が幻のように浮いていた。石のかたまりのただ中から矢のように突き出た塔とドーム。
 二週間目、憑きものに憑かれたようにして七百ページあまりを読み終えた。
 目からウロコが落ちたような気がした。ドイツ語の特性なり性格なりが、目の前で絵解きされたように思った。土を掘り下げ、石で埋め、整然とした平面上に何か結晶のような言葉の建築物を建てつらねていく。
(池内紀「ウロコが落ちてから」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.102)


● 1冊読むと自信がつく。

 辞書を片手に、一冊でも読了すると、かなりの自信がつくものである。
(伴野朗「新聞記者と『三国史』」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.167)


● 同じ内容の本を複数の言語で読む。

 わたしは内村鑑三につらなる無教会派のキリスト者の一人であるが、身のまわりを見わたすと、わたしの恩師であるドイツ語の杉山好(よしむ)先生、宗教学の後藤光一先生、旧約学の関根正雄先生、独立伝道者の高橋三郎先生、すでに亡くなられた、新約学の前田護郎先生、塚本虎二先生、矢内原忠雄先生など、語学の達人や、中には天才といっていいような人たちがかなりいる。生まれつき語学の才に恵まれている(もちろん、それもあるだろうが)というよりも、聖書を原典で読みたいというやみがたい熱意が、持続的な深い原動力として働いている点を見のがすわけにはいかない。ギリシア語やヘブライ語を熱心に学んでいる平信徒を、わたしは学者以外にもたくさん知っている。
 日頃聖書を読んでいる人は、新たな外国語を学ぶ際に、世界中で最も種類の多い、定評ある翻訳を利用することができる。あらかじめ内容の見当はついており、あとは簡単な文法書と辞書だけをたよりに、いきなり聖書に飛び込んでいけばよいのである。
(安達忠夫『素読のすすめ』講談社現代新書、1986。p.21〜22)