13 話す


● 会話ができるためには、アクティブな知識が必要である。

 外国語を学ぶ場合、その外国語の知識がアクティブであるか、パッスィブであるかの区別は大切である。前者ではその外国語で書いたり、話したりする能力のあることを示し、後者では話されたことがどうにか理解でき、書かれたことが理解できることを意味する。この区別は外国語では特に重要視され、たとえどんなによく辞書の助けで外国語の本が読めても、話ができないと「おお、パッスィブ!」ということになる。外国語で会話をするということは外国語の積極的な知識の獲得への第一歩であり、一つの目的地点なのである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.162〜163)

 相手の言う言葉を聞くというだけではなくて、あなた自身の考えをむこうの言葉で表現できるようにならなければなりません。このようにして、ただ passive のみではなく、あなたは active にむこうの言葉を使う練習をするわけです。その国にいることがその国語の勉強に都合がよいというのは、この passive と active との両面であり、ことに後者がひじょうに大事なのです。
(渡辺照宏『外国語の学び方』岩波書店、1962。p.39)


● 外国語が使えるようになるためには、文字や発音や文法や単語などの知識を統合させることが必要である。

 外国語を学ぶ場合、文を構成している語なり句を、まず最初に記憶する。それから、文を構成するのに必要な規則である文法を身につける。そして、文を書く場合には正しい文字の使い方を覚え、発音に際してはその外国語を母語とする人の発音をできるだけ真似する。しかし、これらの学習は学習を容易にするため、一つ一つが切り離されて行われる。ところが、話された言葉や書かれた言葉を習得するためには、これまでバラバラに学習された要素を一つにまとめなければならない。ここで外国語学習は第二の段階に入ることになる。外国語で書いたり話したりできるようになるためには、これまでバラバラに習得されて来たその外国語の知識を、一つのまとまりのある全体へと組み上げていくプロセスを学ばねばならない。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.163)

● 会話は瞬発的に言葉が出てこなければならない。

 会話が持つもう一つの大きな困難は、会話は翻訳と違って、短い時間しか考慮のための時間が与えられていないことである。翻訳ならば、知らない単語が出て来た場合それを辞書で調べることもできるが、会話では話された語はすべて分かり、答えたい内容に必要な語を知っていて、しかも瞬間的にそれをとり出せなければならない。一つだけ単語が分からなくとも全体の意味がとらえられれば多くの場合会話は進むし、もし一つだけなら聞き返せもするが、三つも四つも分からない語があって、それを一つ一つ聞き返していたのでは会話は成り立たない。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.167)

● スラスラ言えるまでドリルを練習する。

 これ(=教材のテープを聞きまくること)と並行して、パターン・プラクティスを、すらすらいえるようになるまででいいのですが、疲れていないときは精神を集中させてやってください。このとき、のんべんだらりとやるのではなくて、外国語の文を発音しているとき、自分がどういう内容のことをいっているのか考えながら練習してください。
(猪浦道夫『語学で身を立てる』集英社、2003。p.106)

● 瞬発力を身につける練習方法。

 道を歩きながら目の前を通りすぎる車のナンバープレートをフランス語やスペイン語で声を出して読むというのがぼくの実践的訓練であった。
(平野次郎「生きていくための手段」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.50)


● 話すための外国語学習の要点。

 私はこんなふうに考える。コミュニケーションの手段として英語を身につけるためには、「聞き」「覚え」「使う」の三つにすべてが凝縮される。
(東後勝明「聞き、覚え、使う」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.63)


● 使うことで外国語の知識は定着する。

 大事なのは、男の子が a man を様々に使い分けたように、まず外国語そのもの(訳ではなく)を自分の中にしっかり掴み、それを様々な状況に応じて使うことではないか。
(辻邦生「遠い外国語、近い外国語」辻邦生・編『外国語ABZ』新潮社、1985)

 私が「言葉を使う」ということを強調すると、ペラペラ喋れるくせに、簡単な本の一冊も読めない学生(最近こういう学生が増えている)に荷担しているように見えるが、真意はそうではなくて、言語の本質が<聞く─喋る>という日常使用の広い土台のうえに成り立ち、そこから一種のピラミッド形に高度の抽象作用へ登高しているということを言いたいのである。外国語を学ぶのは、あくまでその言語文化の達成した最高の成果を私たちの経験として取り入れるのが究極の目的だが、<聞く─喋る>という土台を欠いた場合、それは逆ピラミッドのようなもので、どうしても倒れやすい。倒れやすいとは、忘れやすいことでもあり、応用がきかないことでもある。安定のいい外国語とするには、何度も繰返して同じ表現の外国語を聞くことと、数少ない語彙を、さきの男の子の例のように、いきいきした表現意欲によってくり返し使うことである。たとえば学習段階に応じて「何か言いたいことを作り、それを既得の語彙だけ使って(和英、和仏辞書など使わずに)言ってみる。(できればネイティヴ・スピーカーに直して貰えれば理想的だ)。すくなくともそうやることで<聞く─喋る>という言葉のピラミッドの広い底面を作ることはできる。
(辻邦生「遠い外国語、近い外国語」辻邦生・編『外国語ABZ』新潮社、1985)

● 話せるようになるためには、沈黙してはいけない。

 その第一は、完璧主義者がよく陥る、間違いをしないために黙ってしまうことである。「沈黙は金」という諺はあるが、会話を学習するときに黙ってしまったのでは、本末転倒としかいいようがない。チェコ語に「人は間違いを重ねることで学んでいく」という諺があるが、まさにこの精神が大切である。ゲーテのファウストの中にも「人は努力する限りあやまつものである」という言葉があるように、何もしなければ誤りを犯すことはないが、黙っていては会話は上達しない。会話では「あやまちは人の常」の精神が大切なのである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.168)


● 会話にはいささかの軽薄さと内容が大切。

 単に表現面でなめらかに外国語が話せるのではなく、本当に会話が上手になるにはどうしたらよいかを、語学の神様といわれるS先生におたずねしたことがある。一瞬、目をつむって考えておられた先生は、「いささかの軽薄さと内容だな」と答えられたが、この二つはもっとも大切なポイントなのである。「いささかの軽薄さ」というのは、一言でもしゃべれば間違う恐れのある言語である外国語を話すには「あやまちは人の常」という覚悟が必要であり、そして、会話の生命はその内容であるというのである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.176)

● 恥ずかしがってはいけない。

 はずかしくても口に出して使うこと、これがいちばん大切であり、進歩のもととなるものと思います。
(鮫島有美子「響きで言葉をつかみとる」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.113)

 …この二カ月が、どれだけ具体的に私の身になったかはなんとも言えませんが、間違えていても、何か一言でも口に出すという、外国語を会得する上において、いちばん大切な基本の要素を教え込まれたと思います。
(鮫島有美子「響きで言葉をつかみとる」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.109)

● 間違えることを恐れない。

 外国語の勉強に失敗は付きものである。同じ失敗を繰り返さないことは大切だが、失敗を恐れない、恥ずかしがらない積極的態度が上達には不可欠である。本当に恥ずかしい思いをすれは、人間は二度と失敗を繰り返さない。
(近藤直行「独学を楽しみながら」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.54)


● 独り言の効用。

 登校下校の途中は、読んだテキストの、覚えている部分を思い出しながら、口ずさみつつ歩いた。そして、覚えた文の内容どおりのことがいいたくなるような情景に自分を置いてみて、空想し、その文を口ずさんだ。これは、英作文ないしは英会話に、格好の練習方法であった。
(種田輝豊『20カ国語ペラペラ』実業之日本社、1969。p.28)

 それから、高校二年のときのドイツ語の先生が勧めてくれたことがあります。それはドイツ語で独りごとを言うこと。実行してみてとてもいいことだと思いました。どんな外国語を勉強する場合でも、町を歩いているときに、できるだけいま考えていることをその言葉で言ってみる。「ここには緑がある」とか、「ここには道がある」とか、「ああ、人が来た」とか、最初はそんなことしか言えないでしょう。でも、そういう簡単なことでも頭のなかでいつもいつも外国語で言っていると、人に会って話をするときにはぶっつけ本番ではありません。何回も頭のなかで言っていたことをこんど声に出して言うのですから。
(ピーター・フランクル『ピーター流外国語習得術』岩波書店、1999。p.14)

 英語を話す能力は聴解力の向上にともなって伸びるものだが、ヒントを一つ記す。日本国内あるいは英語圏にホーム・ステイに出かけることで英語を母国語とする人と直接に話せれば、それに越したことはないけれど、そういう機会がない場合はどうするか。想像上の会話(imaginary conversation)をすすめる。いろいろな場面をまず想定する。たとえば、果物屋さんで買い物をする場面を考え、そこでの店員と自分との会話を試みるのだ。一人二役をやるもよし、店員の発言は耳で聞くだけで一人二役でもよい。会話は声に出してもよいし、電車の中なら声に出さなくてもよい。このように練習してみてすぐ分かるのは、スピーキングの能力は英作文の能力と密接な関係にあるということだ。
(行方昭夫『英文快読術』岩波書店、2003。p.35)

● 話し慣れるための方法。

 話ができるようになるためには、まず第一に、話しなれることである。そのために、会話学校とか、外人との交際とか、いろいろな実習法がとられている。それについてはまた別に説明するとして、わたしの会話独習法を説明しよう。
 相手を求めて話の練習をすることはよいが、これは相手なしの練習法である。
 たとえば、人は家を出て学校なり、会社なりに行く。その途中、学習語で質問し、学習語で答えるのである。つまり「ひとりごと」である。もちろん、声に出して歩いていると、気狂いとまちがえられるおそれがあるから、頭の中で「ひとりごと」をいうのである。
 「今日はだいぶ寒くないか?」
 ──さよう、今日は寒い。
 「人が多いのは月曜であるためか?」
 ──お祭りがあるらしい。
 「あそこにいる娘は美人だな」
 ──彼女は女子大生である。
 材料は無数にある。見えるもの、聞こえるものを、なんでも使えばよい。
 「この匂いはなんだろう?」
 ──ここはパンをつくっている店だ。
 学習語で考え、学習語で自問し、学習語で自答するのである。それによって、おしゃべりの自信をつけ、表現法を身につける。入門書で覚えた語数で、たいていは意思表示ができるはずである。自分の知っている単語を総動員して、妥当な単語を知らないときは、ことばの置き換えによって表現する方法を会得する。どうしても言えないとき、また言えたと思うが疑問があるときは、メモ帳に書いておいて、帰ってから正当な表現法を調べる、という方法をとる。
 これはたいそう役立つ学習法である。むしろ、友だちなどを相手に話し方の練習をし、言えない、あるいは言いにくいことをなんとか言って、たがいにむりに推定でわかりあい、そのまま流してしまうより、疑問をもち、調べることによって是正し、定着する方法のほうが、はるかに効果的である。それによって十分自信が得られるものである。また、会話学習だけでなく、それまでに覚えたことを活用して復習する、という効果もある。
 わたしは、現在でも、仕事で明日はドイツ人と話すというときには、その前日自分の室で、声に出していろいろドイツ語でひとりごとをいってみることにしている。ウォーミングアップに大いに役立つからである。
(種田輝豊『20カ国語ペラペラ』実業之日本社、1969。p.192〜193)


● 話す練習として音読を。

 ……またこの間当然不十分となり、未だに苦手な話す・聞く訓練を多少でも補ったものがあったとすれば、音読ではなかったかと思う。留学してからしばらく、論文をタイ人の先生と音読していたが、自室で時間がある時一人で本など読むのにも、ゆっくりと大きな声で音読をするように心がけた。
 ちなみに今でも一人で本を読む際にはなるべく音読し、まちがいやすい発音は特に意識して正確に発音し、口と耳に発音ごと言葉を刷り込む機会をつくるようにしている。確かに黙読よりは時間がかかるが、性に合っているらしく、言葉をリズムを持った音のつながりとして把握し、比較的楽に定着させることができるような感じがする。話す機会が少なくなりがちな独学者にはよい方法かもしれないと思っている。
(小泉順子「美しい言葉へのあこがれ」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.217)


● 会話特有の表現を覚える。

 それから、日常よく使う慣用表現、つなぎ言葉、あいづちなどは気合を入れて丸暗記してしまう必要があります。このためには、録音時間三十分ぐらいの会話例の音声教材を、ぼろぼろになるまで聞き尽くして暗記してしまうのがよいでしょう。うまく編集された自然な会話例が、プロの声優によって吹き込まれた教材を探してください。
(猪浦道夫『語学で身を立てる』集英社、2003。p.115)


● ある程度実力がついてから外国人と知り合いになった方がいい。

 わたしは最後に言いたい。もし外人と知りあいになりたいなら、それは遅ければ遅いほどよい、と。つまり、ある程度の基礎ができてからのほうが、正しく学びとれるからである。それができていないと、ブロークンで意思さえ通じれば、と満足するおそれもある。また、こちらのブロークンをいちいち修正することは失礼と考えるか、めんどうがるかで、いずれにせよ頼りにはならないからである。
(種田輝豊『20カ国語ペラペラ』実業之日本社、1969。p.231)


● 正しく言えることを目指すべきだ。

 下手なスピーカーは愛敬があり何をいっても許してくれるが、上手なスピーカーに対しては相手は厳しい。
(野々山真輝帆「暗記と読書と恋人の日々」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.175)

● 相手が使う語と同じ語を使えるようになるのが理想的。

 日本人同士の会話でよく見られるように、相手が話しているとき、自分も相手の考え方についていき、たまたま相手がある語を思いつかないでいいよどんだとき、その語を補えるようになれば、その外国語の会話は名人芸である。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.167)


● 高度な会話をするためには読書が必要である。(種田輝豊氏が理想とするESSの形態は、難しいものを学び、易しいものを使う方法。これは無理ない会話のための大事な方法である。)

 わたしが考える理想的な形態は、テキストをもち、読書なども併用するものである。それは、政治、経済、社会、歴史、地理、文学、美術、歌曲、映画など、幅広くその外国語の国の文化に目を向け、みんながあきないようにバラエティに富んだ企画で進められなければならない。会話のほうは、進歩の範囲内でおしゃべりしあうようにし、あまりむりな背伸びはさせないようにする。
(種田輝豊『20カ国語ペラペラ』実業之日本社、1969。p.221)


● 会話はコミュニケーションのため。中身のある話ができなければならない。

 私が育った時代と違い、いまはいろんな実物教育の機会と器械があふれていて、若い世代は飛躍的に外国語がうまくなっている。だが、そのわりにコミュニケーションがうまくなっているかといえば、必ずしもそうではないのは、繰り返すが、言葉はその手段にすぎないからだ。それを使って何を語るのか、結局問われるのはその中身なのだ。母国語(日本語)でさえ、中身のある話ができない人間、ましてコミュニケーションが苦手な人間にどうして外国語でそれが可能だろう。
(筑柴哲也「ピンポン試合」を心がける」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.13)

● 会話とは相手と意思の疎通をする喜び。

 会話というものは自分が相手の人に伝えたいことを伝え、相手の人が伝えたいと思っていることを聞くことであって、自分がたまたまその外国語で知っている句を使ってみることではない。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.172)

● 会話の目的は、意思疎通。

 外国語を専門とする人、職業にしている人がしばしば陥る落し穴は、言葉は手段にすぎないという一事を忘れてしまうことだ。手段であるものが、あたかも目的であるかのごとく考えてしまう。母国語であれば、赤ん坊でもコールガールでもやれることが何で目的なものか。しかもこの両者を思い浮かべてもらえれば一目瞭然のように、言語はコミュニケーションの手段のうち、ごく一部を占めるにすぎない。その手段を用いて、何を伝えたいのか、何を受け止めたいのかが、大事なのである。
(筑柴哲也「ピンポン試合」を心がける」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.10)

● 意思疎通ができなければ外国語で話すことは意味がない。

 ある日のこと、カウンターでドイツ人同僚がわかりやすい英語で応接しているというのに、いつまでも日本人客がドイツ語らしきものでしきりに受け答えし、結局意思の疎通ができないでいるのを、見かねて間に入り、そのお客の顔を見たら、何と大学の教養課程で教わったドイツ語の先生だったのにはびっくりした。そしてあの程度の先生に教わって、しかも「良」しかもらえなかったことに、無性に腹が立った。
(若林正人「『文乙』の全力投球」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.118〜119)


● 会話は教養。

 会話は度胸ではなく教養です。
 私がまがりなりにも、自分の考えや意見を英米語で表現できるようになったのは、やはり「読む」という基礎能力が身についていたからだと思います。そしておそらく、自分では馬鹿にしていた日本の英語教育の場で教えこまれた文法や発音の基礎知識が役に立ってくれているのでしょう。
(小鷹信光「第一歩は『乱読』から」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.42)

● 話す人の知性や教養が話す言葉に反映する。

 ウィーンには単身赴任だったこともあり、社交界にも出入りしたが、話す人の知性とか教養がもろに話す言葉に反映する点で、ドイツ語は奥深く、こわいと思った。単純に動詞だけ使えばことが足りる表現でも、あえて名詞とそれになじむ(その名詞が引く)動詞を組み合わせてもってまわった表現ができるか、接続法をどの程度駆使するかで品定めしている。日本人がもっとも不得意なところだ。
(若林正人「『文乙』の全力投球」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.119)

● 内容のある会話のためには読書が必要。

 S先生は、人と会ってしかるべき会話をかわすためには常に準備が必要で、絶えず本を読み、政治や経済や、文化や芸術に関心を持たなければ恰好の話題を提供できないとおっしゃるが、まさにその通りである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.176)

● 教養ある話が外国語でできる能力が要求される。

 そして、言葉はあくまでも手段であって、目的ではないことを忘れてはならない。外国語、外国文化に対する知識の根底にあるのが、日本語、日本文化に対する知識であることはいうまでもないだろう。いくらぺらぺらと上手に外国語をしゃべっても、中身がともなわなければ薄っぺらなものでしかない。一級の通訳はきわめて幅広く深い教養を要求されるのである。
 その一方、大学にはいまだに辞書をひいて原書が読めさえすればよい、むしろそのほうが高級なのだと頑なに信じつづけている教師が存在していることも確かだ。原書を読みこなす力があるから、外国語の会話はできなくともよいというのは、ごく特別な数少ない分野を除いて、現代ではもはや通用しない。これから外国語を学ぶ人は、単に読み書きだけではなく、その言語を用いて専門分野、テーマでの議論ができるくらいの表現力を身につけることを心がけるべきであろう。
(原卓也「人生を決めた『静かなドン』」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.131〜132)


● 初級段階では頭で文を組み立ててから話した方がいい。

 初級段階では、いきなり話し出そうとせずに、あらかじめ単語と構文を選択し、頭の中で最低限の思想を組み立てるようにしたほうがいい。普通会話の指導書では、こうしたフランス語作文的な方法では会話は上達しない、それよりも定型の表現をたくさんおぼえてどんどんそれを使えと書いてあるが、私の経験では、表現すべき思想もまとまらないうちにいきなり話し始めると、文法構造がめちゃくちゃになるばかりか、わからない単語があらわれて、「ウッ……」ということになってしまう。日本語だと考えがまとまらないうちに話し始めてもどうにか格好がつくが外国語ではだめである。ただ、この「構文プレハブ法」だと頭の中で文や単語をまとめているあいだ、会話に空白ができ、相手に不気味な奴と思われはすまいかという不安が生じる。なにしろ、フランス人を相手にする場合、いちばんいけないのは黙っていることである。だから、あらかじめ、自分は頭の中で構文をまとめてから話すので、一呼吸受け答えがおくれるがその点はご容赦願いたいと断わっておくとよい。もちろんこれだけはフランス語でしっかり言えるようにしておく。
(鹿島茂「語学の恥はかきすて」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.78)


● 文字にこだわらない方が上手に喋れるようになる。とくに中国語は。

 学校を出てから二十年、特派員として北京に住むことになった。驚くことはいくつもあったが、その最たるものは、北京在住の外国人の中で、日本人の話す中国語がいちばんヘタクソだったことだ。
 それにくらべて、欧米人は一般的に、外交官も特派員も、みごとな中国語をしゃべった。かれらの中国語学習の秘訣は、じつに簡単なことだった。音声から中国語に入っていくのである。具体的には、ローマ字化された中国語を学ぶ。そこには漢字は一切介入しない。
(園田矢「漢字離れのすすめ」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.151)

 中国語を極めるには、もちろん、漢字は不可欠である。だが、その域に達する人はわずかなものだ。それ以前の実践的な中国語習得では、逆に、漢字は邪魔だという気もする。最近、若い世代の漢字離れが進んでいるというが、中国語学習の上では、喜ぶべき傾向なのかもしれない。
(園田矢「漢字離れのすすめ」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.152〜153)


● 観察するにはたくさんの生きた言葉に触れる必要がある。

 外国語を習うにはその言葉が話されている国に行くのが一番よいとよく言います。たしかにその通りです。しかしその国に行っても、ぼんやり暮らしているだけでは外国語が上達するはずはありません。
(渡辺照宏『外国語の学び方』岩波書店、1962。p.38)

● その言葉の話されている国に住むことが手っ取り早い方法。

 朝日新聞の最後の三年間を、戦後初の上海支店長として上海に駐在した。後半の二年間、妻と娘(当時中一)がきた。
 彼女らは、またたくまに中国語に溶け込んでいった。語学の上達には「王道」はないというが、現地に住むことが、いちばん手っとり早いのではないか。特に若い時は、耳が柔軟である。娘は、四声に苦労したという私の体験を嘲笑する。
(伴野朗「新聞記者と『三国史』」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.167)

 外国にいると日常生活でも仕事のうえでも、いやおうなしにその国の言葉を聞かされます。新聞もラジオもその国の言葉のものに接するとすれば、その言葉を聞いたり読んだりする機会が多いわけです。
(渡辺照宏『外国語の学び方』岩波書店、1962。p.38)


● 話す能力が大切な理由。

 しゃべることに対する日本の学者の軽蔑の第三の理由、つまり学問は語りではなく文字によらねばならないという哲学的信念については十分長く論じたと思いますので、こんどはこの軽蔑がどんな結果をもたらすかについて簡単に述べたいと存じます。第一の結果は、文学作品の読みの浅さ、ないし誤読です。西欧文学作品の大黒柱が口頭文化ですから、「耳で読む」(『論文の書き方』第十一章参照)ことをしない作品解釈が片手落ちになるのは当然です。シェイクスピアの作品は読むためではなく劇として見、聞きするために作られたものですから、語らいのリズムを感じとることなくしては理解できません。第二の結果は、文学史の曲解です。たとえばエラスムスを口頭文化やOCの軽視論者と見るような誤解です。
 第三の結果は、わが国の外国語教育と外国語学習の惨状です。外国語といわずすべて言語学習・教育は本来まず生きたことばのやりとり、問と答の活溌なやりとり中心のはずなのに、日本の大学の語学教室はそういうやりとりのない、静まり返った外国語死体解剖教室であります。学生は、教師が和訳する一言一句を追うために書物のなかに頭を埋没させています。これでは外国語の運用能力が身につかないのは当然です。
 第四の結果は、このような外国語運用能力の欠如からくる日本の国際的言語的孤立化です。日本の外国文学者が言語的に孤立して、国際交流に参加しなくても日本と世界の福祉に直接どうということもありませんが、その他の学者、技術者、実業家とくにまた政治家や官僚が国際的接触・交渉の場で、相手の話を理解し自分の考えを相手に納得させるのに、当分の間通訳に依存せねばならぬということになると、これは日本にとっても世界にとっても重大な問題になります。日本の政治的、経済的孤立化は日本にとって致命的な、世界にとっても大きなダメージを意味します。
 語り、OC軽蔑の結果は、話ができない、国際的に孤立するというだけでなく、ものが読めない、しかも古典文学ではなく現代文が読めない、つまり現代文テキストの読解力喪失であります。現代世界最大の生きた言語である英語をまるで漢文か十九世紀西欧でのラテン語であるかのように、死文字として扱い、生きたことばの語りの定型やリズム、抑揚を無視して、逐語的暗号解読方式で読んでいると、生きた語りは殺され、殺されたことばの報復が誤解となります。ノーベル経済賞受賞者ハイエク教授の講義の一節の次の邦訳は、そのような誤解、誤訳の一例であります。

経済的および社会的現象の研究は十八世紀から十九世紀はじめにかけてゆるやかに発展したが、その研究はこの過程で直面せざるをえなかった問題の性質のゆえに、主軸となるべき方法の選択に迫られたのであった。
 このチンプンカンプン訳の原文は次の通りです。
In the course of its slow development in the 18th and early 19th centuries the study of economic and social phenomena was guided in the choice of its methods in the main by the nature of the problem it had to face.
 これをすなおに耳で読めば
十八世紀から十九世紀初めにかけて徐々に発達したのが社会経済現象の研究というものである。それがどういう研究方法を選んだらよいかという選択に対して影響を与えたのは主として、そのような研究が当時直面せざるを得なかった問題の性格である、
となります。
 文字一辺倒論者の大多数は「読むのは問題ないが、話しは苦手だ」と得意げに申されますが、実は読むといっても上記のような誤読をしておられる場合が多いのです。それだけではなく読みが遅い。聴くように読めば早いのに、読むように読むから一時間で数ページしか読めない。これでは国際的に実用性をもつ読みにはなりません。
 第六の結果、それはうまく読めないことの当然の帰結ともいえましょうが、すらすら書けないということです。この二つの非能力の裏には共通のルーツがあります。それは、語りの基本レトリック固有の、問いかけと答の生きた、自然なやりとりの無視です。
 前述したように、今日でも西欧では、よく書けた論文は基本レトリックの伝統に根ざした論文ですから、著者の答えようとする問が何であるかを冒頭で定義することから出発します。主要問題は何か。副次的問題は何か。なにが基本概念か。問題解決のための作業仮説は何か。こういう問をあらかじめ提示して、それにひとつずつ答えていくのでなければ混沌あるのみです。「何をいおうとしているのか解らない」という文句も出てきます。語り、問い、答えるという自然な流れに乗った論文にもなりません。そういう解らない論文を書く人に限って「英語を書くほうはまだよいが、話すのは苦手だ」とおっしゃいます。
 ちなみに、最近レトリック論が日本の学会でもちょっとした流行になっていますが、そのレトリックを扱った雑誌『思想』あたりの日本語の論文でさえ、レトリックの基本を無視した、難解で非レトリカルな談話になっているものが少なくありません。皮肉なことです。
(澤田昭夫『論文のレトリック』講談社、1983。p.307〜311)