11 教師(語学教室)


● 案内してくれる人が必要だ。

 仁和寺にある法師、年寄るまで、石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩よりまうでけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて、「年比思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。
 すこしのことにも、先達はあらまほしき事なり。
(吉田兼好『徒然草』「第五十二段」岩波文庫、p.49-50)


● 教師は外国語の習得に大きな影響を与える。

 教師のいい悪いが外国語習得者にとってどれだけ大きな意味を持っているかは、「私がこの言語を続けられたのは、あの先生のお陰です」というような発言にしばしば接することでお分かりいただけるであろう。…(中略)…、外国語を教えている数多くの教師の中で、本当にいい先生というのはそう数が多くないということは、あらかじめ注意しておかなければならない。逆に、いい先生に巡り会った人は、絶対にそのチャンスをモノにすべきである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.43)

 外国語の学習で、出会った先生が転機となったという話をきくのは珍しいことではない。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.106)

 先生の影響の大きさはわれわれ平凡な人間にだけではなしに、現代の知性を代表するといわれている人びとにとっても同じなのである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.107)

 私が英語が好きになった動機を考えてみると、まず中学校で「英語を学ぶ面白さ」を教えてくれた何人かの良い教師に恵まれたこと……
(近藤直行「独学を楽しみながら」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.54)

 教える方も人間なら教えられる方も人間である外国語講座でもっとも貴重な資質は、外国語の文法に通じているとか上手に話せるということ以上に、習う人をやめさせない魅力ある授業をすることなのである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.44)

 大学の教官と比べると、高校や中学の先生方は学習者が開花するところを目のあたりにできないのでお気の毒であるが、逆にまだ余計な色に染まっていない生徒を相手にされるのであるから、その責任は重大といえる。大学に入ってきて、英語その他の外国語に開かれた心と熱意を持っている学生の圧倒的大多数が中学・高校時代によい外国語の先生と出会ったことを認めているのが、その証拠である。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.118)

● 入門する前に慎重に師を選ぶべきである。

 物まなびに心ざしたらむには、まづ師をよく択びて、その立たるやう、教のさまを、よく考へて、従ひそむべきわざなり。さとりにぶき人は、更にも云はず、もとより、智とき人といへども、大かた始めに従ひそめたるかたに、おのづから心は引かるゝわざにて、その道の筋悪ろけれど、悪ろき事をえさとらず。又後にはさとりながらも、年頃のならひは、さすがに捨て難きわざなるに、我とか云ふ禍神さへ立そひて、とにかくにしひごとして、猶その筋をたすけむとする程に、終に善き事はえ物せで、世の限りひがことのみして、身ををふる類ひなど、世に多し。斯かる類ひの人は、つとめて深く学べば、学ぶまに/\いよ/\悪ろき事のみ盛りになりて、己れまどへるのみならず、世の人をさへにまどはす事ぞかし。かへす/゛\始めより、師をよくえらぶべきわざになむ。此事は、うひやまぶみにいふべかりしを、もらしてければ、此処には云ふなり。
(本居宣長『うひ山ふみ 鈴屋答問録』岩波書店、1934。p.71〜72)


● よい授業の目安は学生が減らないこと。

 よい授業の目安は受講者の数が多く、出席がよく、学習者の数が減らないことである。とりわけ、この最後の項が大切なのはいうまでもない。単位の修得が至上命令で義務で出席する大学の授業より、自腹を切って自分の意志で通うカルチャー・センターのほうが教師にとって難しいのは明らかである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.114)


● 教師の語学力。

 まず第一に、語学教師は自身、その語学がよくできなければならない。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.108)

 まず最初に、よく聞かれる質問に対して、私の考えを述べたいと思います。それは、外国語を習うとき、日本人の先生に習った方がよいか、ネイティブの先生に習った方がよいかという質問です。この質問に対しては、私はこのようにお答えしています。「ネイティブか日本人かが問題なのではなくて、その教師が語学を教える資質を備えているかどうかが問題なのだ」と。わかりやすく少し乱暴な定義をしますと(これは私の信念でもあるのですが)、語学教師は基本的にバイリンガルであるべきだ、ということです。
(猪浦道夫『語学で身を立てる』集英社、2003。p.37)


● その語学に関して学生に信頼されなければならない。

 よい語学教師にとって絶対に必要なことは、学生に「この教師はできないんじゃないか」とか「間違ったことを教えているんじゃないか」と疑われないことである。一度こう思われたら最後、その学生にとっての学習は終りである。私自身も、あるとき習いにいった語学の基本のところで先生が間違ったことを教えているのに気がついたあと、どうしてもいま先生が話していることは正しいのかどうかという疑いがいつも頭を離れず、ついにその外国語の習得を放棄したことがある。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.109)


● 学習者は、ネイティブではない語学教師の知識には限界があることを知らなければならない。

 ……どの教師もその外国語を完全に知っているわけではないし、完全に知るということはそもそもが不可能である。そこで、教師側の対策としては二つの方法が考えられる。
 まず、自分がその日に教えることをあらかじめよく理解しておくこと、予想される質問に備えることである。次に、それでもなお手にあまる質問が出た場合は正直に知らない旨を答えて、ネイティブ・スピーカーに聞くなり、辞書や文法書を調べて次回に答えることを約束するしかない。このようにしてつなぎとめた信頼のほうが、できないことを糊塗しようとしていい加減に答えて失う信用よりずっと大きいことを教師は胆に銘じておく必要がある。
 逆にまた学生なり受講生のほうも、ネイティブ・スピーカーでない先生のその語学の知識は限られていることを知る必要がある。「◯◯のことを△△語では何といいますか」という質問はよくあるが、基本的な事項であるならばともかく、そうでないものは答えられないのが普通である。とりわけ日本人が好んで質問する植物の名や、動物の名など、外国語での知識には限りがあり、それ以上のことは辞書にまかせればいい。「ネコヤナギに止まっていたアカショウビンが口にくわえていたのは、サワガニであった」という文を即座に外国語に訳せる語学教師がいたらぜひお目にかかって、どうしてそんなことができるようになったか、うかがいたいものである。
 このようなことは flora(植物相)や、fauna(動物相)のことだけではない。その言語が話されている国に長く生活しなければ話からない風俗習慣のことを、その国に行ったことのない教師に聞いても無理である。「心からおくやみ申し上げます」という句は、その国で葬儀に立ち会わなかった教師は知っているはずがなく、「今回のご入選おめでとう」という句だって、それを定まったいい方でいわなければならないので、経験がなければ答えられない事柄である。
 教室でも講習会でも、数多い受講生の中には必ずこのような質問をして教師を困らせる人がいるが、この手の質問は百害あって一利なく、とりわけ経験の少ない若手の教師には、いやな受講者となりかねない。それにまた、同じ教室の他の受講者にも不快な感じを与え、質問者は孤立するようになることが多い。
 だが一面、つぎつぎと出される難問を見事にさばく教師を眺めているのは気持のいいものであり、知らないことをはっきり「知らない」と明言できる教師は、数多くの受講者の信頼を得ることになる。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.109〜111)


● 入門の教師は、一般言語学の素養のある専門家であることが望ましい。

 私は何人ものよい先生にいろいろな言語を習ってきたが、こと初歩の文法や、その外国語の全体像を習うには、一般言語学の素養のある、その言語の語学の専門家がいい。ポーランド語を受講させていただいたS先生や、朝鮮語を受講させていただいたR先生、ハンガリー語のY先生などの講義は実に明快で、先生方がその外国語を全く自家薬篭中のものとしておられる様子が一介の学生にもよく分かるもので、安心して学べたものである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.112)


● 語学教師は、教え方が上手であることが望ましい。

 優れた語学教師の第二の資格は、教え方が上手であるということである。
 その言語の大変な専門家であっても、必ずしもよい語学教師とはいえないのは自明の理である。溢れんばかりの知識があって、それをうかがうのは楽しみであっても、教え方が上手でない人はたくさんいる。逆に、それほど知識はなくとも、教え方が上手で評判のいい人もいる。限られた知識しかなくとも、それを整然と教えられる人の方が、大学者であっても教え方に方針と方法のない人より、初歩の語学に関しては役に立つ。何より大切なのは、そのコースで何をどれだけ、どれくらいの期間で教えるか、はっきり理解しているかどうかである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.113)


● 外国語上達法に必要な3要素。

 外国語上達法には、ことばについての理論である言語学と、学習の中で重要な意味を持つ記憶を扱う心理学と、教授法を論ずる教育学の三つの基礎が必要である。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.114)


● 語学教師には人格の演出が必要である。

 よい教師の第三番目の資格は、教えることに対する熱意というか、その先生の個人的魅力というか、この先生についていかないと損をするというような気持にさせる全人格というようなものである。なかでも初歩の語学では熱意が、中級から上級にかけては知的な魅力が必要である。たまたまここでは三番目にあげたが、しばしばこの第三のポイントが学生や受講者にとっては決定的な影響を与え、しばしば専攻の語学の変更すらもたらすことがある。それにこの第三のポイントは、第一、第二のポイントと矛盾せず、むしろ共存する場合が多い。仮に第一、第二のポイントがいささか不十分でも、第三に述べた魅力のある先生こそ本当の先生で、生徒や学生にやる気をおこさせる先生なのである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.117〜118)


● 語学教師は日本語にも敏感であることが望ましい。

 ……教師の日本語についても一言しておかなければならない。「直訳」と称する翻訳の補助手段が日本語であると錯覚させるように訓練する教師からは、決して優秀な翻訳家になる学生は出てこないであろう。外国語の習得にとって日本語もその外国語と同じ言語であり、外国語を磨き上げるのと同じように日本語にも注意するよう目を向けさせることは学習の初期の段階から必要なことで、この点への配慮をおこたらないことも語学教師にとっての大切なポイントである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.121〜122)


● 直されたら、喜んで改める。それが語学上達という祝福を受ける方法である。

 欠点を改め、あやまちを償うことは、最高の幸福である。
(高橋健二編訳『ゲーテ格言集』新潮社、1952、p116)

 無知な者は自分の道を正しいと見なす。/知恵ある人は勧めに聞き従う。
(「箴言 12:15」『新共同訳聖書』日本聖書協会、1987)