10 辞書


● 辞書は人々の関心の的となっている。

 辞書についてだけは、その重要性を強調する必要はないくらい多くの関心がここに集中している。これは、言語学関係の雑誌が辞書特集を組めばいつも当たることによっても示されている。辞書が文化の一翼を担っている重要な作品であることは、今さらことわることもないくらいよく知られた事実である。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.44)


● 辞書は初級よりも中級以後重要な役割を持つ。

 辞書が語学の習得にどれほど大切であるかは明らかである。しかし、新しい語学の初歩の段階では、辞書はそれほど重要な役割を演じない。辞書が重要な意味を持ってくるのは中級以後で、上級にいってからは辞書の良し悪しと、その引き方の巧拙が大きな意味を持ってくる。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.44)

 辞書を丁寧に引き引き文学作品を読むというのは、高尚な人生の楽しみである。しかし、それはこの入門書を読んで、入門の段階を通りすぎた人が行う作業である。まだ基礎語彙すら習得していない人が頁がまっ黒になるほどの単語を引きながら読むのは間違った学習で、辞書を引く指先の神経は発達することがあっても、語学ができるようにはならない。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.140)


● 辞書の用途は未知の語の意味を調べるためだけではない。

 いずれにしても辞書を手まめに引くことが何よりも肝心です。私が学生諸君を相手に原書を読むとき、おそらく私の方が辞書を引く回数が多いのではないでしょうか。初歩の人は単語の意味を見つけるために辞書を引きますが、進むにつれて、自分の理解に誤りはないかどうか、それ以外の意味にとれないかどうか、または似た用法がどれだけあるか、この単語とあの単語とがまったく同じ意味(synonym)であるときめてよいかどうか、もし他の言い方をするとどうなるか、こういうことを確かめるため、またすでに知っている知識を整理するために、何度でも辞書を引くのです。しかもごくありふれた単語、ことに at, by, in, on などの単語は何回引き直すかわかりません。
 辞書は知らない単語を引くだけのためにあると思ったら大違いです。辞書を読むのはたいそうためになります。ある程度まで(たとえば高校生ぐらい)の学力のある人ならば、よい辞書を手あたりしだいに開いて、文例を読んでごらんなさい。すでに知っている知識を整理し、かけている知識をおぎなうことができます。道具を大切にしない職人の腕が上がる見こみがないのと同じように、辞書と仲よくしない人の語学が進歩するはずはありません。
(渡辺照宏『外国語の学び方』岩波書店、1962。p.69〜70)


● 初歩の時代には、初歩の辞書を読むべきである。

 自分の程度に合った学習辞典を見つけて買うのは、語学攻略法の大事なポイントである。いくら羽織袴が日本を代表する立派な衣装であっても庭で遊ぶこどもには適当な衣装でないように、ある語学を始めたばかりのとき、大きな辞書を買っても役に立たない。学習辞典を使っていてそこに出ていない語にぶつかったら、学習辞典をうらみがましくにらむ前に、この学習辞典に出てないのだから、この単語は当分覚えなくていいと思うべきである。二〜三千というその言語の中核をなす語彙を覚える段階で一〇万語の辞書を使うのは、九万七千語を絶えず用もないのに持ち歩いていることになる。幼稚園児のフロックコート姿を見れば笑う人が、ごく初歩の語学で何万という語の入った辞書を使うのはナンセンスで、ちょっとした旅行にいくのにあらゆる薬の入った大きなトランクを持って歩くようなおのといえよう。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.136〜137)

 なに語を学ぶにも、辞書は絶対に必要なことはいうまでもない。ことばは単語からはじまることは、赤ちゃんのことばおぼえの順序でもわかる。そして、その語を使う以上、辞書は、終生必要なものである。それは、日本人でも、そして日本文学の大家でも、日本語の辞書をはなせないのを見てもわかる。
 ただし、初歩時代には初歩用の辞書がよい。この場合は、大は小を兼ねる、という考え方はよくない。大きな辞書は避けた方がよい。第一、しょっちゅうひくのに、扱いにくいし、あまり複雑な訳語がついていると、どれをどう解したらよいか、まどわされることも多いからである。入門書程度の語がひける程度のもの、語数五千〜一万語くらいのものを、かたわらにおいて、常時ひらくのがよい。せいぜい中辞典程度のものがよい。
 つまり、入門書時代には、入門以上の範囲にはあまり目を向けないようにする。だから、初めは、自分の学ぼうとする語→日本語の辞書だけでよい。たとえば、英語なら、ENGLISH-JAPANESE(英和辞典)だけでよい。
 日本語にその辞書がない場合には、新しく学ぼうとする語と自分の既得語の対訳辞書に頼るほかない。たとえば、わたしがトルコ語を学んだときは、トルコ語→日本語の辞書はなかったので、トルコ語→英語の辞書を求めて勉強した。英、仏、独、露、西、伊、中、羅などと日本語の辞典はあるが、あまり知られていない小国の国語の辞典は、「外国語→別の外国語」の辞典をさがして用いるほかない。
 そして、入門書時代を終り、もう少し高い程度の文法書を学ぶようになったら、大辞典を求めればよい。それはその後引きつづき勉強するのに役立つし、終生、用いることもできるであろう。
 辞書というものは、はじめは読む本の一ページのうち十数語をひかなければならないかもしれない。それをしだいに少なくしてゆくのは、なんともたのしく、また自己満足を得られるものである。だから、最初の辞書は、それがくたくたになるまでやっかいにならなければならない。それで、中級から上級に進むときは、必然的に二冊目の辞書が必要になるわけである。
 また、作文をしたり、会話の練習をしたり、文通をこころみるようになったら、そのときはじめて、たとえば英語なら JAPANESE-ENGLISH いわゆる和英辞典を求める。これをひいていると、日本語からその外国語の単語を知ることができる。それを自分の中で使うと、ただ単語として見たものより、より深く記憶に残るものである。
(種田輝豊『20カ国語ペラペラ』実業之日本社、1969。p.179〜180)


● 辞書は自分で買うものだ。

 辞書はもらうものではなく、まず自分で買うものである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.125)


● 辞書の選び方。

 初期の語学での学習辞典は大切な味方であり、これを上手に選ぶことはその外国語を習得する基礎を作るとき大切である。
 どういう学習辞典がいいかは「まえがき」を読むといい。頻度数への配慮があり(時には頻度数の印がついていたり、活字の大きさを変えたりしてある)、その外国語を母語としている人のチェックがあり、読み易く、使い易く、と工夫してあるのがいい学習辞典である。そして、訳語の日本語がこなれているかどうかも大切なチェックポイントである。興味を持たせるためにはいろいろ工夫がなされており、この頃は辞典であるのに、写真や図を入れるなどして、学習辞典でも辞典と事典との区別が薄れてきている。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.137〜138)


● よい辞書の条件。

 外国語を習得するためにはいい辞書が必要だというが、それではどんな辞書がよい辞書なのだろうか。
 一般に、よい辞書とは次のような辞書のことをいっているようである。

  1. 探している語が出ている辞書
  2. その語に、自分の読んでいるテキストに合う訳の出ている辞書
  3. 訳の他にも、必要とする文法的事項が出ている辞書
  4. 熟語と一般にいわれている、語以上のレベルで現れる用法がよく出ている辞書
  5. よい用例のあがっている辞書
  6. 読み易く、興味を持たせるように作られている辞書
  7. 引き易い辞書
  8. 持ち運びに便利な辞書
  9. 値段の安い辞書
 ここにあげられたよい辞書の資格をすべて備えている辞書があったら、その辞書は間違いなく見事な作品で、しかもベストセラーであろう。
 ところが、これらの条件のすべてを同時に満たすことは論理的に不可能である。例えば、探している語が常に出ているということは、そもそもが不可能な要求である。言語というものは絶えず変化しているので、辞書は出版された日から古くなる。一〇年前に出た辞書に「インターフェロン」、「スペースシャトル」、「エイズ」というような語はない。また、探している語が出ているという要求と、持ち運びに便利である、値段が安いという要求は矛盾した要求で、両者を同時に満たすということは不可能である。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.133〜134)


● 辞書のはしがきは必ず読むべきである。

 辞書を上手に使うためには絶対に読む必要のある編集主幹のはしがき、編集の方針、使い方への指示は必ずしも読まれていない。そこには少しのスペースの中に編集者の血の滲むような思いが込められているのに、である。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.125)


● 大型の辞書に慣れる。

 中学1〜2年のあいだ、つまり最初の1,000語の単語の意味と用法をおぼえるあいだは、一応、初学者むきに作られた簡単な辞書でもよろしい。しかしその課程がすむころには、いわゆる「大辞典」を使い始めることをおすすめします。研究社や冨山房などの英和大辞典は歴史もあり、改訂をくりかえしているので安心して使えます。
 よく小型辞典だけでまにあわせようとする人がいます。あれも携帯用のアクセサリーのつもりならかまいませんが、机にむかってちゃんと勉強する時は、型も大きく活字もあまりこまかくない、つまり、重量感のある辞典をそなえなければ上達のみこみはないと言っても言いすぎではないと思います。日本で「大辞典」と賞する程度のものは外国では決して「大」とはいわず、ほんとうの標準型はもっとずっと大きなものなのですから、「英和大辞典」と銘をうったものが実は中ぐらいの辞典なのです。
 辞典を求める時は先生や先輩にも相談してよいものをえらび、学習の段階においてはむやみにかえないこと、つまり自分が使いなれた辞書の、どの辺のどちら側のページのどこに出ているか、というようなことまで覚えるほどに使いこなすことが必要です。職人の道具と同じことですから、辞書にはよく慣れていつでも楽に使えるように心がけてください。
 今では印刷技術が発達したために、形は小さくても内容が豊富なものもできています。辞書にはそれぞれ使い道がありますが、学習段階のあいだは心理的効果からみても大型の方がとくです。
 小型辞書、とくに単語の意味だけを簡単にならべた辞書、ことに豆タン(単語集)などは、かなりの程度までできるようになった人が復習用に使うものであって、初歩の人のつかうものではありません。外国語のならい始めには辞書だけは大きいのをふんぱつしてください。
(渡辺照宏『外国語の学び方』岩波書店、1962。p.66〜67)


● 辞書は多いほどよい。

 学習辞典を十分に使いこなせるようになってから、次にどんな辞書を買うべきかへの指針は、これまでも多くの案内書がある。この段階は、すでにこの本の読者より一つ上のレベルである。ここまで来ればもう大丈夫であるので、辞書についてのもう一つの原則について述べておこう。それは「辞書は多ければ多いほどいい」という公理である。現在、実に多種多様な辞書が出版されているが、どれ一つとして同じものはない。従ってもし持っていれば、いつかは必ず役に立つ。ただ、辞書を置く場所と買う資金だけが問題なのである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.138)

 基本的な英和大辞典のほかに、熟語、成句または前置詞などの用法を説明した辞典もあった方がためになります…(中略)…。
 また英英辞典(英語を英語で説明したもの)もできるだけ早くから使うようにすると実力が付きます。Hornby ほかの『新英英大辞典』("Idiomatic and Syntactic English Dictionary")(開拓社)は英語国民でない学生を対象としたもので、やさしい英語で親切に説明したうえ、名詞や動詞の用法を示し、文例も豊富なので、高校以上の人におすすめします(研究社、三省堂の英英辞典もあります)
 それ以上の学力のある人は英語国民のための辞典を利用します。…(中略)…。
 また、ただ言葉の意味だけではなく、事物や事実を知るためには百科事典が必要です。…(中略)…。
 要するに辞書は1冊あればそれで用がたりるというものではなく、能力や用途に応じていくつかのものが必要になってきます。
(渡辺照宏『外国語の学び方』岩波書店、1962。p.67〜68)


● 語彙が生の資料から直接とられた辞書がよい。

 辞書を作るとき、本来ならそこに取り上げられるべき語彙は、すべて直接に生の資料からとられるべきである。文学作品、戯曲、新聞、科学雑誌、テープから起こした資料、詩などとバラエティーのある原典の語彙をカードにとって、それから選択を行うのが本筋である。しかし、日本の現状を見るとこのような方法はとられていず、多くの辞書が既成の外国語のある辞書──通称、タネ本──をもとにしている。それだからこそ、あれほど進んでいる英和辞典でも、しばしば全く同じ例文が異なった辞書に出てくるのである。
 筆者がたまたま勤務している大学の言語学の時間に、どのような方法で新しい外国語−日本語辞典を作るかという質問をしたところ、一人として作品から語彙をひろうという発言がなかったのには全く驚いてしまった。すべての学生が「既存の辞書を集めて」と発言したのである。日本の外国語−日本語辞典でもっとも進んでいる英和辞典が、もし今後大きく進歩をとげるとしたら、日本で読まれる英文を集めて、そこからひろった語彙で英和ができるときであるに違いない。いずれ、そのときが来るのは間違いない。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.139〜140)


● 辞書だけでは実際の言葉の息づかいは分からない。

 辞書は誠に便利なものなのだが、辞書を使うのはまた、難しい。言葉は生きていてなかなか紙面の上に寝てくれないのである。現実の野山を知っている人に押し花は生き生きとした現実を示すのだろうが、押し花のみ見ている人には生きた野山、風にそよぐ花は捉えがたいのである。辞書と文法のみで言葉を扱うのは危ない話である。
(松原秀一「危ない話」辻邦生・編『外国語ABZ』新潮社、1985)


● 辞書を読む。

 郵便日数のかかる通信添削と、不安定な短波で受信したFEN、それからまさしく修行と銘打った『英作文の修行』という本にもお世話になりましたけれど、最大の恩師は斎藤秀三郎『英和中辞典』(岩波書店)です。この辞書をトイレ(当時は便所)へ持ち込んでまで読んだ話はすでに二、三度活字にしたから繰り返しませんが、どうなんでしょう、このごろは辞書を読むなんて勉強方法はチッキみたいに忘れさられたのじゃないでしょうか。もっぱら即効的な技術が求められ、また、それを仕込まれるらしい。いまはただ、それにちらりと疑問を呈しておくだけにしますが。
(柳瀬尚紀「合符は数学」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.16)


● 辞書は不要だという考えもある。

 講談社発行の『VIEWS』誌に、私は「辞書なし派」と紹介されている。その理由を並べると、まず、辞書を引きながらでは時間がかかるし、せっかくの名文章でも、リズムをとらえながら読むことができない。さらにまた、辞書には言語にもっとも近い(しかし同じではない)日本語が載っているのであって、本当の英語の意味は英語で理解するのがいちばんよい。やってみれば分かることだが、単語の二つや三つ分からなくても、読んでいくうちに文章の「大意」はつかめるものである。同じ単語が十回も出てくれば、もう完全に「英語での意味」が分かるようになるから、「日本語での意味」は最後まで分からなくてもいっこうにさしつかえない。
(近藤直行「独学を楽しみながら」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.54〜55)


● 「外国語−外国語辞書」の使用は初めはたいへん苦痛である。

 私は文学への興味からイタリア語を勉強し直そうと思った。そこで伊々辞典を買った。それはガルツァンティ社の辞典で、『広辞苑』ぐらいの厚さだった。この辞書を使って、独学で、イタリア文学を読み始めたのである。それは遅々とした手探りの作業だった。当時、イタリア語/日本語の辞書にはいいものがなく、言葉の正確ないみが的確につかめなかったので、直接、伊々辞典を使う方法に頼らざるを得なかったのだ。
 伊々辞典を使ってみると、そのまだるっこしさは想像以上だった。一つの言葉を引くと、別の分からない言葉で説明してあり、その言葉をまた引き直すという作業の繰り返しだったからだ。このやり方だと、小説の一ページを読むのにひどく時間がかかってしまう。今だったら耐えられないような、こうした作業ができたのは、文学を読みたいという情熱があったからだと思う。この情熱は大学で詰め込み教育を受けていた時には決して持ちえなかったものだった。
(竹山博英「頭の中に辞書を作る」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.186)