9 教材


● いい教科書を選ぶことは重要な条件。

 いい教科書に当たるかどうかで、外国語の習得の難易度は大きく変わってくる。教科書を選ぶのは慎重にしなければならない。もっとも、これはいくつもの教科書が出ている恵まれた言語の場合のことである。もし、すこしでも珍しい外国語を勉強しようとすれば、日本語で書かれた教科書はなく、自分が知っている外国語で書かれた教科書を使わざるを得ない。これはかなりの負担を学習者に課すことになるので、英語の次の外国語には、できれば日本語で書かれた教科書のある言語の方がいい。…(中略)…、教科書の良し悪しは外国語の習得には非常に大きな意味を持っている。このことは是非覚えておいていただきたい。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.42〜43)

 外国語ができるようになった人の話を聞くと、しばしば自分の使った本の名が出てくる。そして懐かしそうにその本のことを思い出し、時には、今でもときどき見ていますよという返事すらある。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.88)


● 入門書には、教科書と自習書とがある。目的に合わせて選ぶ必要がある。

 まず第一に、語学の学習に際して、教科書と自習書の区別をしっかりと立てておかなければならない。教科書とは、学校なり講習会で教師の指導の下で使う本のことで、教師が説明すれば済むことは書いてある必要はない。また、作文にも解答はいらない。しかし自習書は、あがっているテキストを読むために必要なすべての情報がそこになければならず、作文には正しい解答がついていなければその機能を果たせない。しかし実際には、英語のようにこの二つが区別されている例はそう多くはなく、その外国語を学ぶのに教師が得られないことも考慮されて、自習書と教科書を兼ねているケースも少なくない。特に珍しい語学の場合では、このケースの方が普通である。また、大学なり講習会での持ち時間が少ないため、教科書のかわりに自習書を使うということもよくある。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.89)


● 現代語の教材では、発音に関する十分な記述が必要である。

 現代語の語学書は、テープの発達によって音に関する記述が手びかえるようになったとはいえ、それでもまだ、この二著以上の説明が必要である。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.94)


● 例文はそのまま使えるものが望ましい。

 例文はそのまま実際に使ってもいい文のみからできているべきである。ある文法の項目を学習させるために無理をして作った文があるのは困る。「これは机と椅子とペンと本とインクです」など、誰も一生に一度も言わないであろう。ところがその学習書を見たら、この文をさらに疑問文に直せとあったので、あきれてしばらく口がきけなかったことがある。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.102)

● 本文の内容が文体的に統一されていて一つのテーマでつらぬかれているものが望ましい。

 筆者の考えでは、一つの課の中の文は、まとまったものであることが望ましい。「庭には鳥がいます。地球は丸い。明日はお天気でしょう……」という類いのお互いに関係のない文からできている教科書より、一つのテーマでつらぬかれているものの方がいい。とりわけテープがついた学習書では、お互いに無関係の文が集めてあるテキストは実際にそういう場面がないので読みにくいのに反して、一つのテーマでまとまっている文でできたテキストは、テープに入ったものを聞いてみると、文と文との間のとり方や、感情の動きや、地の文と会話の文のトーンの違いなど、教科書に書かれていないインフォメーションも数多く得られるし、まず何より自然なのがいい。
 すなわち、文体論的に統一されているという利点がある。「まことに申しわけありませんが、このことをお願いしてよろしいですか。おい、これやれったらあ……」というような、文体の統一されていない外国語を学ぶのがよくないことは自明の理である。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.101)

● 面白くなければならない。

 語学書が理論的にどのように完璧にできていても、面白くなければ終りである。そこで現在ではイラストを入れたり、写真を入れたり、いろいろな工夫がなされている。しかし、まずテキストが面白いことが肝要である。語学の教科書の例文が一般の会話の中にでてくるような面白いものであれば最上である。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.102)


● 単語の提示に十分な配慮がなされている教材が望ましい。

 語学書を選ぶときは、その中にどのような単語を使うかに十分な配慮がなされている教科書なり、学習書がいい。学習の初期の新鮮な脳にたたき込まれるのは基本的な語彙、絶対に不可欠な語彙であるべきである。作る側としては、語彙の頻度数の調査のある言語では、できるだけ頻度の高い語彙から学習書に入れていきたい。文法との関係もあって必ずしもこううまく行くとは限らないが、このような点に配慮のある著者の語学書がいいことは明白である。優れた著者は、必ずこのことを学習書の序文で述べているはずである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.97〜98)

● 一つの体系をなす語彙は必ず学習書の中に取り入れられていなければならない。

 筆者もかつて『チェコ語の入門』(白水社、一九七五年)なる自習書を、…(中略)…ない知恵をしぼって書いたが、…(中略)…読者の方から、「お前の本には、月の名で出ていないものがある」という指摘を受けてギャフンとなってしまった。曜日の名と、春夏秋冬はうまく折り込んだのに、頻度数、頻度数とあまりにそれに気をとられて、相対的に頻度数の低い月の名が抜けてしまったのである。すなわち、教科書を作るとき、一つの体系をなす語彙は頻度数という枠をこえて学習書の中にとり入れるべきである、という教訓を得たのである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.103〜104)

● 文法項目の配列に配慮がなされている教材が望ましい。

 文法に関していえば、大切で重要な項目をまず重点的に覚えさせるようになっている学習書がよい。細かい例外的なことと基本的なこととの区別は、きっちりなされている必要がある。文法が複雑でたくさんの事項を説明しなければいけない外国語では、この順序は、実はかなり難しいテクニックが執筆者に要求される。かつてある語学書シリーズの企画会議に参加して、二〇課でまとめようとする学習書の作り方を話し合ったことがある。その時ある執筆予定者が、それぞれの課のテーマをどの外国語も共通にし、第一課「挨拶」、第二課「学校」というように定めてはどうかと提案したが、文法項目の多い言語の執筆予定者はこの提案を受け入れることができなかった。やがて提案者が文法項目の少ない中国語の担当予定者だと分かって、思わず顔を見合わせたものである。このようなことは中国語では可能であっても、形態論が豊かな言語では、どの変化を先に覚えさせるかという問題とからみあって困難だからである。
 どのような順に文法項目を並べるかのもう一つのポイントは、難易度による。その文法項目がいくら重要だからといって、それだけの理由で一番先にそれについて述べるわけにはいかない。学習の基本原則の一つは「易しいものから複雑なものへ」であって、これは語学書としても守らなければならない。重要性と難易度を巧みに組み合わせて学習書を作るところに学習書がよくなるか悪くなるかの一つのポイントがあり、これは著者の腕の見せ所の一つである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.98〜99)

● 大切な項目や新しく出た単語が繰り返し出てくる教材が望ましい。

 大切な項目として早い時期にとりあげられた項目は、その後も何度か本の中に登場させ、容易に記憶させるような工夫が大切なのである。新しく出た単語がそれっきりでは、読者にとっても楽しくない。そこで、その単語を次あるいはその次の課で繰り返しテキストの中に登場させ、読者は記憶した語が再出したことを喜び、記憶を強固にする──、このような工夫がなされている本が、いい本である。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.100)


● 教材で扱われるすべての語に訳がついている教材がよい。

 次に単語のあげ方であるが、単語は訳をつけて、各課ごとにあげてあり、巻末に全体のグロッサリーがあることが望ましい。教師の中には、語学は辞書を徹底して引くことが肝要と主張する人がいるが、これは間違いである。やがて文芸作品を読むようになってからならこの主張を認めないわけではないが、初歩の段階では、単語はまず教科書なり学習書にあげてある訳を覚えるべきである。やみくもに単語の数をふやさなくてはならない時期の学習は、単語は引くのではなくまず覚えることこそ肝心で、従って学習書にはそれが用意されていなければならない。ケーギやチェンケリのような高級すぎる語学書ですら、単語は意味をつけて提示していることが、そのことの何よりの証拠である。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.97)

 ケーギの方を例にとってみると、『練習問題』の各課の頭に、この課で扱う文法項目、「受身のアオリスト(不定過去)と未来」という風に書いてあり、そこで『文法』の方で読む項が指定してある。そのあと、一五題くらいギリシャ文独訳があり、ついで独文ギリシャ訳が一五題くらいある。それで第一巻、第二巻のそれぞれに一三〇頁ほど問題が並んでいるのである。もっともそれぞれの巻の巻末には一課ごとに新しく出てくる単語の表が訳と共にあげられており、また全部の語彙も巻末のグロッサリーに出ていて、辞書はいっさい引かなくていいようになっている。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.91〜92)


● 入門書は薄くなければならない。

 初歩の語学の教科書なり自習書は、薄くなければならない。語学習得のためには、ああこれだけ済んだ、ここまで分かった、一つ山を越えたということを絶えず確認して、次のエネルギーを呼びさますことが必要である。飛び立った飛行機にとって、次の給油地があまりに遠いために墜落するといったへまは許されず、いつも余裕を持って次の中継地に着かなければならないが、それと同じようにして、次のエネルギーを得ることが必要なのである。とりわけ初歩の語学書に関しては "Mega biblion--mega kakon"(大きな本は大きな悪)という格言は的を射ている。次々と新しい変化が出て来て絶望しないように、いま学習者が目標までの間のどの地点にいるかを確認できるようにしてある本が必要である。山に登るとき、頂上が見えない霧の中を登るのと、頂上への距離が分かって登るのとでは疲労度が違うのと似ている。一七世紀のチェコの教育学者で語学書執筆の名手であったヤン・アーモス・コメンスキー(コメニウス)も、「人間は限界の見えないものに恐怖を感ずる」といっているが、まさにその通りである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.95〜96)

 参考書は簡潔で薄いものがよいでしょう。一冊上げたという達成感が重要です。もちろん優れた教師について短期間に集中してできればなお結構です。時間としては、独学の場合で三十〜四十時間をめどにしてみてください。レベル、学習量としては、NHKのラジオ講座の入門編ぐらいをイメージするとよいでしょう。
(猪浦道夫『語学で身を立てる』集英社、2003。p.103)

● 入門書として手ごろな分量がある。

 ある国語を自分のものにしよう、と決めたら、その語の「文法書」から読みはじめたりせず、やはり「入門書」からはいるのがよい。
 その入門書は、あまりくわしすぎるのは感心しない。だいたい、百五十〜二百ページそこそこの厚さで、そこで使われている単語数も、千〜千五百語程度のものが手ごろである。Teach Yourself シリーズ(発行 English Universities Press)などは、各国語を約千五百〜二千語くらいでまとめてある。ふつう、中学三年までの英語が約二千語くらいであるから、その程度の実力をつけるのが入門書と思えばよい。
 わたしがハンガリー語を勉強したとき、先生にすすめられたのは、たいそうぶ厚な入門書であった。単語は四千語くらい使われていて、例文も豊富であった。入門書といえば、それしかなかったのである。しかし、それではわたしの方式にあわないので、わたしは文法を書き直し、例文の程度を下げて読んだ。というのは、入門のときは、まずその語の性質・機能をとらえるために語いは少ないほうが理解しやすいからである。
 入門書として手ごろか、重すぎるかは、だいたいその本の厚さで見当をつければよい。厚すぎるのは感心しない、というのは、厚すぎて、もたもたと苦労しているうちに飽きがきて、いやになってしまうのをおそれるからである。
(種田輝豊『20カ国語ペラペラ』実業之日本社、1969。p.177〜178)

● 形態的特徴の比較的簡単な言語では厚い本は必要ない。

 古典ギリシャ語にせよ、ラテン語にせよ、いわゆる屈折型のタイプの言語で、名詞でも動詞でも非常に多くの変化形を持つ言語であるために、このようにがっちりした文法の練習が必要なのであって、文法が比較的簡単な言語ではこのような重厚な本は必要ないであろう。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.94)


● それぞれの課の分量が一定の教材が計画的に学習を続けやすい。

 語学は記憶と関係することもあって、定期的な繰り返し、定期的な学習が必要である。そうすると、その学習の要求に答える学習書も、それぞれの課が同じ時間で消化できるような等量の課であることが要求される。近年になって、一つの課が四頁なり六頁と決まっていて、いつも左の頁から始まり右の頁で終るような工夫、定期的な学習にふさわしい、同じような繰り返しができる教科書や学習書が多くなってきている。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.100)


● 数多く版を重ねているのは名著であることが多い。

 ……この両著とも、私のもつ版の時点で、それぞれ二〇版を越えているが、このことは両書が名著であることを証明している。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.91)


● よい会話教材を選ぶ。

 会話能力を身に付けたい人は、3の段階(=和文外国語訳演習をする段階)まで終了してから一気に会話練習をすると、最良の成果が得られます。このとき、音声教材のついた良質な会話の教科書を入手してください。一般に本国で出版されている教材を勧めます。センスのよい会話文と豊富なパターン・プラクティス(これも音声教材つき)のある教材が望まれます。
(猪浦道夫『語学で身を立てる』集英社、2003。p.105)

● 日本語で書かれた教材も役に立つ。

 ……そこであるとき、藁をもつかむ思いで、日本語で書かれたフランス語の作文の参考書と文法書をやってみました。そこで初めて、「フランス語で書かれた教科書」に書いていなかった多くの知識を持たずに徒労を重ねてきたことを知りました。これらの参考書をすみからすみまでやったのち、ようやく卒業試験に合格できたのです。
 このとき私が気づいたのは、現地の学者が書いた教科書にはよい点もあるが、しばしば日本人学習者が必要としている情報が欠如しているということです。一言でいうと、母国語に甘えてフィーリングで文を書こうとして、理論をあまり考えなくなってしまうということです。理論で攻めるべきところをフィーリングに頼っていると、いつまでもその部分をマスターできません。これは、いってみれば、計算の仕方を知らないで、なんとなく他の問題の解答例に倣って同じように答えを出そうとしているようなものです。
(猪浦道夫『語学で身を立てる』集英社、2003。p.203-204)


● 初めて学ぶのではない外国語の教材を選ぶポイント。

 素材の選び方のポイントはたった1つ、自分の英語力よりも少し下のレベルを選ぶことにあります。
 オーソドックスな例では、短大や高校の入試問題集があります。こうした問題集は、比較的自信をつけながら、さまざまなタイプの英文にあたれるので、よいトレーニングになります。
(和田秀樹『英語も要領』幻冬舎、2003。p.37-38)


● 教材の選び方の例。

  1. あまり事こまかに書いてなくて、量も多くないもの。
  2. 肝心なことを、きちんとおさえてあるもの(といっても、すべてを網羅している必要はありません。英語をたくさん読んだり、聞いたりしているうちに、重要なことはだんだんおぼえていくものです)。
  3. 音声の教材(CDなど)がついているもの。
  4. あまり凝った言いまわしや、しゃれた言いまわしを集めているものも、最初は避けたほうがいいでしょう。ただ、初学者にはどういう表現がしゃれた言いまわしか、わからないという場合もあるので、困るかもしれませんが。
  5. 例文が一つひとつ独立しているものよりも、ある程度のまとまりがあるもの。そのほうが、関連づけておぼえやすいようです。
    (笹野洋子『「読んで身につけた」40歳からの英語独学法』講談社、2002。p.114-115)

● 教材の扱い方(その1)。その言語の鳥瞰図を作るために、一週間ぐらいで一気に読み通す。

 わたしの方式では、ある語を知りたいと思って取りかかったら、手っとり早く一週間くらいのあいだに、その入門書にいちおう目をとおすことを条件としている。要するに、欲求のさかんなときに、ざっと目をとおし、その語の鳥瞰図的展望をこころみるのである。このときは、いちおう読みとおすよう忍耐努力する。それができないようではお話しにならない。
 目をとおすと、その語の性質なり特徴を、だいたい感じとることができるはずである。これは、知っている語の種類が多ければ多いほど、興味も多いし、らくであることはいうまでもない。
 たとえば、フランス語にとりかかったら、フランス語の特性──動詞が複雑で大変らしいとか、名詞や形容詞には性、数の一致が必要なんだなというようなことがわかる。それはあらましでよい。また、その入門書との一週間のつきあいで、およそ三百〜五百の単語はおぼえるはずである。第一次は、それで結構である。それが終わったところで、お休みにする。
 あとはうるし塗り作業になる。
(種田輝豊『20カ国語ペラペラ』実業之日本社、1969。p.178)


● 教材の扱い方(その2)。「うるし塗り」方式。

 そこで第二次の勉強──わたしのいわゆる知識のうるし塗り作業がはじまる。
 そのときも、第一次のと同じテキストを用いればよい。それをこんどは初めからみっちりと、完全に掌握するように精読するのである。
 わたしの体験では、興味につられ、あるいは根気よく読みとおしたこともあり、二十〜三十ページくらいでスランプにおちたこともある。スランプにおちたり、いや気がさしたときは、むりをすることはない。どうぞお休みください。
 これを箇条書にすると、つぎのようになる。
 第一次=全体把握のための通読(ガンバリたまえ)。そして休息。
 第二次=精読。いや気がさしたら、休息。
 第三次=また初めから精読(このときは、少なくとも第二次のときの倍はゆくはず)。そしていや気がさしたら、休息。
 第四次=またまた初めから精読。そしてついに征服。
 わたしはたいてい四回で征服した。時間的には約半年くらい。
 しかし、ことばによっては、また人によっては、第四次が第三次の繰り返しになり、第五次でようやく完了することもあるだろう。
 第五次が第六次になっても、根気があれば話は別だが、それくらいやってもどうしてもいやだったら、降参することにもなろう。縁のないものとして、片ことを知った程度であきらめるほかない場合もあろう。
 なにものもあなたに強制するわけではない。あなたは、自分の性向にしたがい、たのしく学べばよいのである。
 この間に得るものは、その語の初歩文法の理解と二千語程度のボキャブラリーである。
 スタートとしてはこれで十分である。
 それからは、辞書を片手に、より高度の文法書を相手にすれば、自動的に上達してゆくはずである。
(種田輝豊『20カ国語ペラペラ』実業之日本社、1969。p.197〜198)


● 教材との付き合い方。徹底的に注意深く読む。

 次に、自分のレベルに合った入門書を求める。どの入門書が適当かは、各自各様でいちがいにはいえないが、選択の基準は、「これならいけそうだ」という、自分自身の直感で十分である。あとは、その本との取っ組み合いである。
 全ページがすり減ってしまうまで、眼光紙背に徹する心構えで、繰返えし繰返えし、マイペースでよいから読破する。10項で述べた「うるし塗り」の要領である。
 ただ、ここで注意していただきたいのは、チャランポランに目を通しているだけでは何度通読しても時間の無駄で、なにも得られないということである。また、何回読み終っても、けっしてそれで満足してはいけない。どんなに注意深く読んでも、必らず読み落としがある。これは英語に限らないが、本を読み返えすごとに、新しい発見をすることは、だれしも経験があると思う。
 高校生の頃、わたしは角が丸くなり、バラバラになった本をノリづけして読み返えしその本の目次の見出しを見るだけで、その見出しの部分に書いてある内容はすべて書けるくらいまでに熟読した。ブック・レポートと称して、本を見ずに、本と同程度の内容を自分で書いてしまうのである。ようするに、徹底的に本とつき合うことである。
(種田輝豊『20カ国語ペラペラ』実業之日本社、1969。p.242〜243)


● 複数の教科書を使って勉強する。

 いまでもぼくが日本人に勧める方法のひとつは、…(中略)…「一冊だけではなく、何冊か教科書を使って勉強しよう」ということです。なぜかというと、だいたい教科書というのは、書いている先生がよくばりで、薄い教科書にできるだけたくさんの単語や言い回しをつめ込もうとするから、ごく基本的な単語をのぞいて、同じ単語は二度と出てこないようになっているのです。たとえば「病院にて」とか「デパートにて」とか「駅にて」とか、そういう構成になっていると、当然、病院とデパートと駅では、出てくる単語はぜんぜんちがうものになります。結果として、ひとつの課が終わって、つぎの課を見ると、いままでこんなにがんばったのに、まるでわからない単語ばかりなのですね。ぜんぜん進歩がないなあと、絶望的な気持ちになりがちです。  そのぶん、こんど別の教科書を開いてみると、ちがう順番に、ちがうものごとが書いてあります。たとえば、こんどは病院ではなくて、「病気」とか「体の部分」という構成になっていて、顔とか頭とか目とか、ヒゲを剃ったとか、髪の毛を洗ったとか、いろいろな単語や表現が出てくる可能性があります。つまり、その教科書はまだ学んでいないのに、出てくるこの単語もわかる、あれもわかる、けっこう勉強したなあといい気分になれるのです。いい気分になれると、もっとやる気が出てきます。
(ピーター・フランクル『ピーター流外国語習得術』岩波書店、1999。p.24〜25)