8 意味


● 日本語で意味を考えない。

 外国語が上達する上での前提は幾つかあると思うのですが、おそらくそのうちの一つは、できる限り文章を日本語で考えないことではないでしょうか。さまざまな言葉にはそれぞれの言い回しがあるので、日本語にこだわるとどうしようもない場合が多くなります。
(鮫島有美子「響きで言葉をつかみとる」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.111〜112)

● 日本語と外国語とを対応させてはならない。

「英語と日本語を一対一に対応させることはできない」という事実は、最初に外国語を学び始めた中学生には、わからない。要領のよい学生は、いずれそのことに気づくだろう。しかし、要領の悪い学生は、いつになっても気づかない。実際、中学のあるクラスメイトは、「日本語の<は>にあたる言葉は、英語では何なのか」と質問していた。これは、一対一思考から抜け出していない証拠である。先生がそう教えているのだから、このような質問が飛び出しても、不思議はない。そして、この発想から抜け出せないと、英語の学習は非常に能率の悪いものになってしまう。(中略)
 これを教えるのは、中学校の英語教師の大きな責任だと思う。しかし、教室での教え方は、逆である場合が多い。中学の教育だけではない。大学入試でも、英文和訳を要求している。これは、悪しき試験問題である。特に逐語訳を要求するのは、英語と日本語の一対一対応を強制することになるから、望ましくない。本当は、日本語に置き換える問題でなく、文意を理解したかどうかを見る問題が欲しい。仮に和訳を求めるにしても、直訳と意訳の差があまりないような問題を出して欲しい。
(野口悠紀雄『「超」勉強法』講談社、1995。p.69〜70)

● 同じ意味を持つ語がいつも同じものを示すとは限らない。

 英国の物とチェコの物では、同じ意味を持つ語で示されていようとも、いつもそれが同じものを示しているとは限らないことは、これまでに述べてきた通りである。しかし英語を学ぶものは、このことによく注意しなければならない。そこでこの章では、英国の現実がチェコあるいはスロバキアの現実といろいろな面で異なっていることについて述べてみよう。次にちょっとした例をあげる。
 'A cup of tea' は簡単にいえば「一杯のお茶」である。だが、イギリス人がこのことばで理解するものと、われわれがこのことばで理解するものとは同じではない。問題になっている茶碗は両方とも同じかもしれないが、中身はそれぞれ違っている。わが国の場合は、少量の中国産あるいはロシア産のお茶をこして得られたややくすんだ金色の液体で、これに砂糖を入れ甘くしてから、そのままで飲むか、レモンのしぼり汁、あるいはラムまたはコニャックを加えて飲む。ところがイギリスでは、中国産のよりずっと味が濃いインド産あるいはセイロン産のお茶をもっと多量に入れてこして作るが、そのようにして得られたこげ茶色をした液体は、生のミルクと混ぜられる。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.179〜180)

 英語の strong がかならずしも日本語の<強い>に相当するわけではなく、また日本語の<強い>をいつも英語で strong というわけでもありません。英語の strong は習慣上どういうばあいに使われるのか、それを実例についてだんだん覚えていくのが本当です。
(渡辺照宏『外国語の学び方』岩波書店、1962。p.91)


● 外国語で考えるのは難しい。

 英語で考えよ──もうこの忠告には、あきあきなさっていることでしょう。たいていの英会話教本にはこう出ています。英語で考える、そんなことできっこありませんね。楽屋話をしますと、この手の本を書いて何千万円ともうけた私の知人に、あんたせっしょうやで、あんなこと言っても素人さんには手も足も出えへん、どうしたら英語で考えられるようになるか、その辺のくわしいこと書いてあげんと、あんたサディストやで、と迫ってやると、彼氏、いやボクにもわからんねん、まあカッコつけたわけやな、と無責任な返答。
(倉谷直臣「エジンバラ行き急行」辻邦生・編『外国語ABZ』新潮社、1985)


● 翻訳が役に立つこともある。

 外国語学習では、できるだけ母語を使わないほうがいいような気がするが、実は母語に訳してみるということも意外に役に立つことが多い。
(東照二『バイリンガリズム』講談社現代新書、2000。p.127)


● 外国語を学ぶ意味は、社会構造の差異を認識すること。

 英国の現実とチェコの現実の違いはただ細かい点にあるのではなく、英国とチェコでは社会構造が違うことが重要だということがお分かりであろう。外国語を学ぶ大きな意味は、これらの差異をわれわれが認識することにあるのである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.180)


● ある語が何を指すか「=レアリア」という知識は非常に必要なものである。

 メニューの翻訳は難しいものである。そして、とても危険である。なにしろ、誤訳するとすぐ目の前に結果が「ハイ、一丁できあがり」と持ってこられるからである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.181)

 言語はそれだけで単独に使われるのではなく、必ず何かある状況の中で使われる。この状況は、いろいろな情報を言語に与える。従ってこの状況がよく分かっていれば、その言語の理解が容易になる。そして、その言語が伝えている内容が具体的に把握されれば、その言語の理解がより容易になることは自明のことである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.184〜185)

 言語が周囲の状況から切り離されておらず、その状況の与えるいろいろな情報と共に使用されている限り、それら周囲の状況が与える情報を間違いなくキャッチすることは、その言語を理解するうえで大切である。それに、言語そのものが伝えるものの内容が分かることは、より大切である。言語の記号が形式と内容を持つとき、その内容をよく理解するのにレアリアの知識は重要な役割を果たしている。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.187〜188)

 外国語を理解するということは、とても難しい。話されたり書かれたりした内容がよく分かるためには、母語の話し手が意識してあるいは意識せずに身につけたレアリアの知識を、われわれは意識して身につけなければならない。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.188)

 ……ここまで考えてきたとき、やっと積年の一つの疑問が解けることになった。スポーツの選手であれば二〇代・三〇代でピークを迎え、それ以後下降のカーブを描くのに、外国語の実力は年と共に上昇するのは何故かという疑問である。確かに長年にわたってある外国語をたしなんでいれば、知っている単語の数も増し、イディオム(慣用句)にも通じ、一にらみすれば文法構造もたちどころに分かるというようになる。しかし、このような経験というか慣れというものでは説明しきれない何物かがあると感じていたが、実はそれがレアリアの知識の量の蓄積なのである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.191)

 シェークスピアについての評論を読む場合、シェークスピアを読んだことがあるかないかはその理解に大きな差が出てこないわけにはいかないし、機械を扱ったことのない人が機械のことを聞いても読んでも分からないところのあるのはそのためである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.191〜192)

 レアリアというものは、学問のように体系だったものではない。しかし、その蓄積は常識の一部をなすものであり、外国語の上達のために必要な、その外国語が話されたり書かれたりした背景のレアリアに通ずるということは、とりも直さず広い知識が要求されるということなのである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.192〜193)

 母語の話し手が持っているレアリアに絶えず近づくことによってレアリアの量が増し、よりよくその外国語が理解できるようになるのである。そこでその外国語を支えている文化、歴史、社会……という様々な分野の知識を身につけておけば、それは外国語の理解の際に、まるでかくし味のようにあとから効いてくるのである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.193〜194)


● 言葉の意味というのは、幼少時代の記憶までも含む奥深いものだ。

 ……この「チッキ」というのも、今日の宅急便の時代にはまったく耳にしなくなりました。英語の check からきているんですが、田舎で育ったものには懐かしい言葉です。チッキというひびきで、たちまち生まれ故郷に引き戻される。言葉にはそういう力があるということを、これはどんな外国語を学ぶにしても忘れないでほしいんですが。
(柳瀬尚紀「合符は数学」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.16)


● 外国語を学ぶと母国語では味わうことのできない意味の世界を見ることができる。

 なぜ外国語を学ぶのか。多くの人が、外国人とコミュニケーションをはかるため、と答えるだろうが、もう一つ大切なことがある。それは言葉を通じて異文化を知り、それによって自国の文化にたいする相対的な視点を獲得するということである。最近では外国語のできない国文学者はまずないそうだが、日本語しか知らない人と、英語も知っている人とでは、世界観が相当違うだろう。
 それと同様に、外国語として英語だけしか知らない人と、それ以外の外国語を一つ学んだ人とでは、またずいぶん世界観が違ってくるはずだ。西洋の諸言語の中で、英語はどちらかといえば特殊な言語だから、英語だけで西洋文明全般を理解しようとする(そして日本語を英語だけと比較することによって、日本と西洋の違いを論じる)ことには無理がある。英語の他に一つでも二つでも外国語を学ぶと、ずいぶん視野が広がるはずだ。
(鈴木晶「欲ばりな西洋崇拝者」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.132〜133)


● その言葉に多く接することで意味を知る。

 イタリア語では一つの言葉が複数の意味を持つことがある。この時、どのような場合にどんな意味で使われるか、辞書を見ただけでは判断がつかない。これはその言葉をなるべく多く読んで、覚えるしかない。
(竹山博英「頭の中に辞書を作る」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.186〜187)


● 言葉は意味とリズムとが絡み合っている。

 ……たとえばキルケゴール『キリスト教の修練』を何ページか読んでみると感じられることだが、杉山先生の訳文は、原著者の熱い息吹がことばの隅々まで生かされ、愛と気迫のこもった、詩的な文体となっている。
「直訳でも、意訳でもありません。ルターのいわゆる<霊訳>とでもいったらいいか、翻訳のかなめは、外国語の生きたリズムを日本語の生きたリズムに移しかえることです」と、あるとき、杉山先生が語っておられた。
 思わずわたしは、膝をのりだした。
「では、先生ご自身は、日本語や外国語のリズムをどのようにして体得できるとお考えですか。わたしのような音痴でも、リズムが身につくものでしょうか」
 先生はちょっと間をおいてから、
「ぼくの場合、祖父が神主だったせいもあって、物心つく前から毎日のように祝詞を聞いて育ちました。いざとなれば、今でも神主が立派につとまるくらい、祝詞のことばとリズムが耳の底に残っています。荘重な祝詞のリズムは古代日本語の根源的なリズムを伝えており、翻訳で興にのったときなど、そのリズムが深いベースになって、自分でもはっとするような新鮮な言い回しがでてくることがあります。日本語の場合も、外国語の場合も、ぼくのリズム体験の基礎は祝詞です」
「でも、そうすると、自分とまるで違ったリズムまで自分のリズムで押しつぶしてしまうといった危険性はありませんか」
「まず原文をくりかえし音読してみると、比較的自分に合った文体と、そうでない文体の区別が次第につくようになる。これは人間の気質のようなもので、それが合うか合わないか、初めからかなりはっきりしています。あとから徐々に波長が合うようになる場合も、もちろんあることはありますが。原著者のリズムと翻訳者のリズムが深いところで共鳴し合い、高められた状態で日本語の新たなリズムが生まれてくる。それでなければ、いつまでたっても翻訳は翻訳でしかありません」
(安達忠夫『素読のすすめ』講談社現代新書、1986。p.25〜26)