7 文法


● 文法を学ぶことは不可欠。

 世界中のどの言語でも単語のない言語はないのと同様に、その単語をより大きな単位──例えば、文──へと組み上げていくルールのない言語はない。そのルール──文法──の存在はユニバーサルなものである。文法はどの言語でも欠かすことのできない大切な存在であり、これを習得しないことには外国語を習得したことにならないのみか、その外国語は全く役にたたない。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.66)

 私がこれまで多くの生徒たちと、五カ国語の翻訳演習をやってきた経験を通じて最も強く感じることは、翻訳かを目指そうという人に、意外と(あるいは意外ではないのかもしれませんが)基礎的な文法知識が不十分な人が多いということです。ここで私がいう文法とは、日本語にない類の文法をもきちんと使いこなす力です。いい換えればその言語の文章を、とりあえずネイティブスピーカーに理解してもらえるレベルの言葉におき換えるのに必要な知識と、情報検索の能力と定義できます。
(猪浦道夫『語学で身を立てる』集英社、2003。p.80-81)

……大人になってから外国語を習得するときには、とくに文法は避けて通れない問題です。
(笹野洋子『「読んで身につけた」40歳からの英語独学法』講談社、2002。p.91)


● 文法という言葉の二つの意味。

 (文法には)ごく大雑把にいって、語をより上の単位へと組み上げていくルールの集合という意味と、それを研究する学問という二つの意味がある。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.70)


● 文法がつまらない理由と面白くする方法。

 文法の授業を面白くできる先生にめぐり会えた人はその幸運を喜ぶべきだが、その数はあまり多くないであろう「メアリーは本を読んでいます」という日本語を英語に訳したとき、日本語の「本を」のをを英語ではどのようにして表現しているのかすぐ説明してくれる先生や、日本語の活用と英語の活用を比較して何が共通で何が異なっているかを説明してくれる先生に会えた人は、きっと文法が好きになっていると思う。ところが実際には「こ・き・く・くる・くれ・こ」とか、bad, worse, worst: go, went, gone などをやみくもに暗記させられただけで、そのことの持つ意味は説明されていないので面白くないのである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.70〜71)

 (文法というのは)規範として定められたものをやみくもに覚えさせられるのは面白くないが、自分だったらこういう風に記述するなと考えて文法をみると、突如として文法が楽しくなってくるのである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.72)

 外国語に接したとき、母語(この本を読んで下さる人の大部分にとっては日本語)と外国語ではどこが違うかに細かく気を配れる人にとっては、文法はとても面白い分野である。文法に書かれたことを鵜のみにし、やみくもに外国語を理解しようとする人にとっては、文法は退屈である。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.75)


● 文法は万能ではないが、必須。

 文法の教科書からその外国語を知ろうとするのは憲法を読んだだけでその国を知ろうとするのに似ているけれど、また文法を読まずに語学を学ぼうとするのは、その国でいきなり生活を始めるようなもので、無駄や、事故やトラブルも多いのである。
(奥本大三郎「文法のあとさき」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.99)


● 格を意識することが英語の理解を助ける。

 英語の特殊性については既に述べましたが、私は大学に入るまで英語がまったくできなかったので、フランス語の学習の際に身につけた「文を完璧に分析してから解釈する」という習慣を英語にも適用して読むようになっていました。それも功を奏したようです。また、格を強く意識するという癖が、ドイツ語の学習を通してついていたことも、英語の復活訓練に際して大きく貢献したように思います。高校時代までからきしできなかった英語に自信がもてるようになったことは、私にとって大きな励みになりました。
(猪浦道夫『語学で身を立てる』集英社、2003。p.166)

● その言語の文法の仕組みがどうなっているのかを前もって研究してくれた人がいるから外国語の習得が楽なのである。

 ある言語を学んでいて、その文法が分からなかったとしよう。そうすると単語の意味は分かるのに、全体の意味が分からないということになる。…(中略)…。
 今世紀の始めに金田一京助が北海道へアイヌ語を調査に行き、個々の単語が分かった後の作業はこのような状況であったろう。金田一の書いたいくつかの言語調査のエッセイのなかに、アイヌ語の動詞の構造を明らかにしていくプロセスを書いたものがあり、「人称代名詞の一部が動詞の活用で繰り返される」というたった一つのことに気がつくのに苦労している様子が描かれている。文法とはこのような苦労の産物であり、このような苦労をしないで済むための特急券なのである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.74〜75)

 文法家が前もって研究しておいてくれた基本的な例を学びさえしたらそれで済むというのであれば、外国語を学ぶとき大きな障害といわれる文法は障害ではなくなり、不幸にも九九パーセントの人に誤解されている文法はT恐怖の文法Uではなしに“愛される文法”になるはずである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.81)


● 新しい外国語は新しい思考回路を提供する。

 だが、今までに二つの外国語を習得していて、今三つ目を学び始めたとしよう。するとたちまち、今までに見たことも聞いたこともなかったようなその言語特有の思考方法と表現方式にぶつかるだろう。例えば発音の仕方、言葉の意味とか美的表現での浮世離れしたデリケートさ、何とも下らない曖昧さ、想像を絶する複雑さ、考えもつかぬ強弱、無骨さ等々。つまり、これ程までに違う言語を使って自分の思想を何とか表現しようとすると、その思想そのものが変わってしまうのに気付くはずだ。思想だけでなく、あなたの頭脳も変わり、変わるだけでなく同時に成長していくのである。
(ギルバート・ハイエット「外国語が好きなわけ」辻邦生・編『外国語ABZ』新潮社、1985)


● 文法の2大局面──形態と統語。

 文を作る規則の集合としての文法とは何かということを考え直してみると、文法には単語を文に組み立てていくルールと、その組み立てを表示するための形を扱う部分の二つがある。前者を言語学では「統語論(あるいは統辞論)」、後者を「形態論」と呼ぶ。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.72)


● 発話の特性──既知から未知への過程。

 ことばの発話は、話されたものであろうと書かれたものであろうと、既に知られているもの、話し手により命名されているか、あるいは対話者の目前にあるものから、読者あるいは聴き手にまだ知られていないものへの思考の動きをそこに反映している。話し手の思考は既知のものから離れ、話し手がその既知のものについて述べたいと思うものの方へと移行する。既知のものから未知のものへというこの過程は、人間の思考方法のユニバーサルな特質である。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.76〜77)

 発話の基礎(既知のもの)と発話の核(未知のもの)の違い──チェコ語では語順、英語では冠詞の使用や受け身、日本語では助詞「は」と「が」の対立によって表わされる。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.77による)


● 重要な項目から覚えていく。専門家にならない限りあまり深入りする必要はない。

 文法の項目を覚えるときも、語彙を覚えるときと同じように、もっとも重要なものから覚えていかなければならない。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.80)

 外国語の学習に必要な文法は手段としての実用的文法であって、目的となる学術的な文法とは違うのである。文法は補助手段であって、それ自体が学習の目的ではないことをよく理解しておく必要がある。完全なる文法の知識を必要とするのはごく一部の専門家であり、外国語の習得を目指す数多くの人が必要とするのは文法の基礎的知識である。この基礎的知識は誰もが学ばねばならず、これなしでは外国語の学習は不可能である。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.82〜83)


● 早めに基本文法の鳥瞰を得る。

 どのような言語運用能力をつけたいにせよ、最初にその言語の初級文法体系をざっとみておくことが有益です。消化不良でもよいので、文法を理解し、最小限の単語に触れ、少し語形変化のドリルをやったり、簡単な文を読んだり、作文してみたりしながら、無理やり初級文法の最後まで強行突破するのです。
(猪浦道夫『語学で身を立てる』集英社、2003。p.103)

 一冊の学習書の中の変化表を全部切り抜いてビッシリ張り直すと、大体一〇頁内外になる。(これは、もちろん言語によって違う。)もし読者の方がモノにしようと思っている外国語の骨組みが、一〇頁を完璧にモノにすればできると分かれば、誰にでも勇気がわいてくるに違いない。J・トマン博士は外国語を学習する際に、一課ごとに進む学習とは別に、この一〇頁を徹底的に覚えることをすすめている。それも最初の一〜二ヵ月のうちに、である。そして、この突貫工事は何度か繰り返すことが肝要である。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.83〜84)


● 不規則変化をする単語は頻度の高いものに多いので、その習得は重要である。

 文法の表を眺めると、その表に二種類あることに気がつかされる。一つはその表に従って変化する語彙が多い表であり、もう一つは一つあるいはごく少数の語が属する表で、しばしば不規則変化といわれるものの表である。前者の変化は規則的で、新しい語がその言語に入ってくると、その表に従って変化するので、生産的なタイプという。それに反して、後者はもうその表に従って増える語のない非生産的タイプである。しかし、この非生産的タイプの表に属する語は基本語彙で頻度数が高く、従ってこの表も重要なのである。ドイツ語の sein や haben、フランス語の être や avoir の変化をいちいち表で確かめていたのではだめなのである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.84)

 名詞や動詞の変化は外国語として学ぶ際に厄介なものです。ことに不規則な変化を覚えるのは面倒なもので、このために外国語の学習がいやになることもないではありません。しかし一度それに慣れてしまうと不規則ということはあまり気にしないですむようになります。私の友人のひとりのドイツ人は「教師になる前にはどうしに弱変化(規則変化)と強変化(不規則変化)の区別があることさえ気がつかなかった」と言っています。外から見て不規則だと思われることも、実はその国語としては当りまえの、わかりきったことに他なりません。どこの国語でももっともふつうに使われるものほど不規則が多いのが原則です。
(渡辺照宏『外国語の学び方』岩波書店、1962。p.99〜100)


● 本を読みながら文法書で意味を確かめる。

 文法は個々の名詞・代名詞・形容詞・副詞・動詞などの種々の形態を法則およびその例外として規定する Accidence と、それらの品詞より成りたつ文章の構造を研究する Syntax とのふたつの部門にわかれます。Accidence についてはこの本の範囲では一々説明することができませんが、お手許の英文法の教科書や参考書で絶えず知識の不完全な点を補い、知っていることも再確認するように努めてください。ただし文法の本には短い文例しか出ていませんが、一番肝心なことは自分で実際に読書する際に問題になる箇所を文法の本について確かめることなのです。もっとも、じっさいに必要な知識が文法の本にはっきり説明してないことも多いので、合点のいかないことは信頼できる先生にたずねた方がよいでしょう。Syntax についても同様です。
(渡辺照宏『外国語の学び方』岩波書店、1962。p.103)


● 文法構造の持つ味わいを知る。

 ドイツ語独特の造語能力に目をみはった。再帰動詞という厄介なものが、いかにこの言葉に意味深い陰影を与えているかを了解した。直接法に加えて接続法というヘンテコな文法体系が、人間の生理そのものに対応して、ドイツ語という一言語の生命体にひとしいことを感じとった。
(池内紀「ウロコが落ちてから」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.104)


● 変化形が覚えられないと単語が覚えにくい言語もある。

 なんといっても、ロシア語を勉強していていちばん辛かったのは、語彙がなかなか増えないことだった。受験生と同じように単語帳をつくったりしたのだが、あまり効果がなかった。その理由をあれこれ考えて、私が到達した結論はこうだ──ロシア語ではほとんどすべての単語の語尾が格によって変化するので、一つの単語が、出会うたびに違う形をしている。そのために印象に残りにくいのだ。……(中略)……というわけで、語彙を増やす秘訣は格変化を体得することだ、という結論に達したのだが、現実にはそれは簡単なことではなく、現在にいたるまで、私のロシア語の語彙は貧弱なものである。
(鈴木晶「欲ばりな西洋崇拝者」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.131〜132)


● 原形と基本形との関係:

 原形はすべてのアラビア語の単語につきまとうが、基本がわかればかえって都合がいい。 MLK という原形は「所有する」という動詞で、派生形の MaLiK は「王様」、MaLiKa 「女王」、maMLaKa 「王国」とどんどん広がりを持つ。KTB や MLK という出発点を押さえておけば、派生形は類推がきき、逆に派生形から原形の類推も可能だ。
(小池ユリ子「十九歳の夢はカイロ大学」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.209)

● 文法の学習は、実地的な学習によって、必要最小限にとどめることができる。

 さて私は二か年にわたって、ひたすら古代ギリシア文学に専心して、この時日の間にほとんどすべての古代古典作家をざっと読んだが、イリアスとオディッセイアとはいく度も通読した。ギリシア語文法といえば、私はただ名詞変化と規則動詞と不規則動詞を学んだだけであって、貴重な時間の一瞬も、文法上の規則の勉強のためについやさなかった。そのわけは、ギムナジウムの八か年を通じて、たしかに時にはさらに長く、たいくつな文法上の規則に苦しめられいじめられたすべての若者のうちで、ただの一人も一見して明らかな数百の誤りをおかすことなしに、一通のギリシア語の手紙も書くことができないことを私は知っていたから、私は学校でとられている方法はまったく誤っていると、かたく信じなければならなかったからである。私の見解では、ギリシア語文法の基礎的知識はただ実地によってのみ、すなわち古典散文を注意して読むこと、そのうちから範例を暗記することによってのみ、わがものとすることができるのである。私はこの最も簡単な方法によったために、古代ギリシア語をまるで現行語のようにおぼえた。こうして実際に私はそれをまったくりゅうちょうに書き、またどのような題目についてもやすやすと話し、またいつまでもこの言葉を忘れることはない。私はそれが文法書に記入してあるか、否かは知らないにしても、どのような文法の規則でも知っている。そしてだれかが私のギリシア語の文章の誤りを発見するとしても、私はいつでもその表現方法が正確である証拠を、私が使った言いまわしの出所を、古典作家から人に暗唱してみせることによって、しめすことができると思う。
(シュリーマン『古代への情熱』岩波書店、1954。p.35〜36)