2 観察


● たくさん外国語に触れるのは、無意識の観察となる。

 言語はナマモノ。英語から縁遠くならないためにも日頃私は、アメリカABC局やCNN局のニュース、「ヘラルド・トリビューン」紙、「ジャパン・タイムズ」紙などを追ったりします。中でも『ニューズ・ウィーク』誌などは、日本語版と見較べられます。言語の表現の違いが学べ、削除された記事をさがすのもおもしろいもの。
 たまに映画館のはしごもします。字幕を見たり見なかったりですが俗語のレパートリーを増やすのには大変役立ちます。音楽で好きなものは、歌詞を暗記して一人の時、口ずさみます。他にも、電話で外国人の友人と話すよう心がけています。話し相手の目や口元が見えない状況の中、会話をするのは難しいものです。
(小谷真生子「英語修行は『初日のスランプ』から」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.31〜32)


● 言葉の習得は単なる模倣ではない。

 ……ただ単純に親や周りの人たちのモデルを模倣して言語を習得して行くわけではないといえる。第一、もしそうだったら人間は実際に聞いたことがある文しか作れないわけで、まったく新しい聞いたこともない文を作り出していくことはできないということになってしまい、これは現実と大きくくい違ったことになる。
(東照二『バイリンガリズム』講談社現代新書、2000。p.88〜89)

● 正しく分析できる必要がある。

 正しい読解は、文構造の分析が第一歩です。
(猪浦道夫『語学で身を立てる』集英社、2003。p.108)

● 観察したということは、理解したということではない。

 経験したことは理解したと思いこんでいる人がたくさんいる。
(高橋健二編訳『ゲーテ格言集』新潮社、1952、p.170)

● 帰納に失敗することがある。

 感覚は欺かない。判断が欺くのだ。
(高橋健二編訳『ゲーテ格言集』新潮社、1952、p.63)

● 結論を急いで観察すると、分析を誤り、間違った使い方をするようになってしまう。

 自然研究の歴史を見て終始気づくことは、観察者が現象からあまり早く理論に急ぐため、不完全になり仮説的になるということである。
(高橋健二編訳『ゲーテ格言集』新潮社、1952、p.55)


● 音声的特徴(発音、間、トーン、イントネーションなど)を観察する。

 その外国語を母語としている人が読んだテープがついていれば最高である。そのテープを繰り返して聴けば、文と文との間や、地の文と会話文のあいだでトーンが違うことも聞きとれ、句や文や節の終わりのイントネーションもよく聞きとれることになる。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.165)

● イントネーションを観察する。

 どの言語にも抑揚という現象があり、一つのまとまりのある文は、必ずいろいろな条件に定められたイントネーションのパターンを持つ。上手に話すためには、このパターンをしっかりと身につけておかなければならない。これがうまくいかないと、一つ一つの語がいかに上手に発音されても、ロボットの会話のようになってしまう。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.164)


● 文章の流れ方を観察する。

 文と文とのあいだの関係もまた大切である。それぞれの文がいかに正しく発音されても、その二つの文のあいだの間や、文体や、意味の関係がおかしいと上手な会話にならない。初歩の学習者は最初のうち、このような微妙な差に気がつかないが、立場をかえて外国人が日本語を習う場合にその人たちが習っている日本語を見れば、すぐこのような欠点に気がつく。

● 文脈から意味を学ぶ。

 ことばというものは、関連した前後関係の中にあって、はじめて生きてくるのである。学習者は、それをとらえるのを目的とし、同時によろこびとしなければならない、とわたしは考えている。
(種田輝豊『20カ国語ペラペラ』実業之日本社、1969。p.112)

● 用例を観察してその意味を突き止める。

 また或る日、鼻のところにて、フルヘッヘンドせしものなりとあるに至りしに、この語わからず。これは如何なることにてあるべきと考へ合ひしに、如何ともせんやうなし。この頃ウヲールデンブック(釈辞書)といふものなし。漸く長崎より良沢求め帰りし簡略なる一小冊ありしを見合せたるに、フルヘッヘンドの釈註に、木の枝を断ち去れば、その跡フルヘッヘンドをなし、また庭を掃除すれば、その塵土聚まりフルヘッヘンドすといふやうに読み出せり。これは如何なる意味なるべしと、また例の如くこじつけ考へ合ふに、弁へかねたり。時に、翁思ふに、木の枝を断りたる跡癒ゆれば堆くなり、また掃除して塵土聚まればこれも堆くなるなり。鼻は面中に在りて堆起せるものなれば、フルヘッヘンドは堆(ウヅタカシ)といふことなるべし。然ればこの語は堆と訳しては如何といひければ、各々これを聞きて、甚だ尤もなり、堆と訳さば正当とすべしと決定せり。その時の嬉しさは、何にたとへんかたもなく、連城の玉をも得し心地せり。かくの如きことにて推して訳語を定めり。
(杉田玄白『蘭学事始』岩波書店、1959、p.32〜33)

 フランス語にヴィセラル visceral という形容詞がある。手許にあった仏和を引いてみると「内臓の」と出ていた。勿論間違いではないが、いや間違いどころか大変正しいのであるが、これではどうにもならない。十五、六世紀頃からアムール・ヴィセラルなどという用例があるが、「内臓的愛情」と訳したのではどうにもなるまい。何となく判るような気もするがそれは非常に危険で、フランス語はいわば数学的に正確な言葉であるから、何となく判る、というような場合は必ず誤読しているのである。この間「モンド」紙を読んでいたら、大西洋岸のロワイアンでフェスティヴァルがあって、能と狂言が上演されたが、その報道の中に狂言の本質は「ヴィセラルな笑い」である、と出ていた。何となく判ったような気になっていたが若干不安であった。その後また「モンド」紙の社会欄に、栄養不足その他、子供の成長に害のある環境から、子供を引きはなして育児院に強制的に収容しようとすると、母親のヴィセラルな拒否に出会い、警察まで出動することがある、と書いてあったので、いよいよ不安になり、一番新しいロベール仏語辞典にあたってみた。第一の意味として、「深い」、「内密な」、「反省を経ていない」、「無意識の」というような言葉で説明されてあった。結局のところ、この「反省を経ていない」ということが第一の定義の中心であるように思われる。「ヴィセラルな憎悪」などという例も上げてあった。本能的憎悪とでも訳すべきであろうか。しかし本能的というのはヴィセラルとは勿論ちがう概念であって、むしろ反射的な憎悪と言った方がよいかも知れないが、しかしそれではまたヴィセラルの「深い」、「内密な」というニュアンスが遁げてしまう。私は、ヴィセラルというのは、本源的で、しかも人間的な反省を経ていないという意味に解する。そうすると、「ヴィセラルな愛情」という場合の深い、内密な、というニュアンスも、「ヴィセラルな拒否」という場合の、理不尽な、始末におえない、(しかも存在の本源的要素から出て来る)という意味合いもおのずから含まれることになると思う。
(森有正「ヴィセラルという形容詞」辻邦生・編『外国語ABZ』新潮社1985、116〜117頁)

● テレビを活用して言葉の使い方を観察する。

 フランス人と直接会話をすることの他に、私が活用したのはテレビである。ニュース番組を観れば時事的な表現を学べるし、ドラマや映画を観れば、たとえば、女性をくどく時の殺し文句が出てくる。愛情表現一つをとってみても、いかにフランス語が豊かであるかがよく分かる。あとは自分が実践する時に、そのような表現を使えばよいのである。
 ラジオと違ってテレビの良さは、喋っている人の口の動きがよく分かることである。政治家の演説がその良い例であり、正確に、かつ印象的に人々に自分のメッセージを伝えるノウハウすら教わったような気がする。私がフランス語のみならず、演説や討論の仕方を学んだのも滞仏中なのである。
(舛添要一「『秘密ノート』で生きた会話表現」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.85)


● 言いたい表現に狙いをつけて出会うのを待つ。

 ……表現すべき単語やフレーズを思い出さない、あるいは知らないということもたびたびある。いや、ほとんどの場合がこれだといっていい。これは逆にいえば、われわれがフランス語を話せないのは煎じつめれば、単語やフレーズを知らないからだということになる。では、単語やフレーズを暗記すれば話せるようになるかといえば必ずしもそうではない。つまり、外国語の場合は、精神分析で言うところの前意識に、いつでも呼び出し可能な状態で単語やフレーズが滞留していないとだめなのである。知っていると一口にいっても、その単語やフレーズが文章や人の会話に出てきた時に了解できるのと自分で使えるのとは千里の径庭があるのだ。
 そこで私が考えついたのが、こう言いたかったのにうまく言えなかったという表現を、「日本語」でノートしておくことである。ひとことで言えば「言いたかったのに言えなかったノート」を作るのである。ただ、これを和仏辞典などで単語を引いてかってに作文してはだめなのである。とりあえずは日本語で書き留めておいて、いずれフランス語の文章の中でそれと同じ内容の表現が出てくるのを待たなければならない。こうすると、どんぴしゃりの表現があらわれた時に、それはうまく前意識に残ることになる。しかし、このノートが増えるということは、フランス人の前で、それだけ「ウッ……」をして恥をかかなければならないということになるのだが、じつは、フランス語の達人といえる人は皆、この「ウッ……」を人並はずれて経験した人なのである。フランス語がうまく話せるようにならないと嘆く私やあなたは、まだまだ恥のかき方が足りないのだ。会話の能力はかいた恥の数と正比例しているのである。
(鹿島茂「語学の恥はかきすて」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.78〜79)


● 言語はコミュニケーションを行う日常的な道具である。

 先年、シラク大統領が来日して、いかつい顔と大柄な体を、意外にセンスのよいスーツで包みテレビに出演したとき、朝右衛門で苦労したあの音をこともなげに連発しながら記者たちに答えているのを聞いて、「ほう」、という感じがした。教室で朝右衛門が、古楽器でも奏するように神妙に発音してみせたあの音は、フランス人が普段着のように使って、コミュニケーションを行なうひとつの道具に過ぎなかったことに、ちょっと感銘を受けたのである。
 なんだか学校の語学は、会話をするとか交流を深めるという言葉の原点を忘れていたようだ。言語の一部分を取り出して神聖化し、コミュニケーションの現場から引き離していじくりまわしていた気がする。あれでは、語学はできるようにはならないだろう。シラクが何でもなく発音している音だけを標本のように取り出し、それができない学生を絶望させた語学授業は、根本的に間違っていたのではないか。そう確信するようになった。
(塩田勉『おじさん、語学する』集英社新書、p.20)

● 言葉に偏見を持っている愚かな人の例:

 余談だが、香港である時、さる社会経済史の権威が「身につけた北京語が崩れるから」との理由で、広東語を一切拒否する姿を見かけた。なんとタクシー運転手に幼稚園の園児が胸に下げる住所カードのようなものを示して自宅へ帰ったのだ。私は幻滅し軽蔑した。日本人の中国学者には、中国の古典以外は研究対象に非ずとする古典主義、ラスト・エンペラーとともに中国文化は亡んだとする懐古主義、標準北京語以外は学ぶに値しないとする権威主義が少なからず見られる。中華思想に毒された、日本流の中華思想だろう。
(矢吹晋「まず日本語の玄人に」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.160〜161)