1 続ける


● 学習目的を持つ必要がある。

 外国語を習得しようとする場合、何語を何の目的で学ぶかをはっきり決めてかからないといけない、というのが第一の主張である。日本ではまず最初、英語がその候補に選ばれるわけだが、この場合でも英語の自分に持つ意味をよく考えなくてはならない。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.31)

 外国語を学ぼうとする人の目的は、大きく二つに分かれる。一方の人は、その外国語を学び、この外国語を知ることが目的である人である。私の恩師のR先生が次々といろいろな外国語をモノにされ、その文法構造に通じてご自分の言語学の研究に役立たせようとされているのは、この例である。言語学を専攻する人がある言語を学ぶのは、その外国語を知ることが目的で、それがその人の研究に役立っているのである。役立たせる目的がなく、外国語を学ぶことを目的にしている人は悲劇である。
 ところで、外国語そのものを目的としている人を、仮に「目的派」と呼ぶことにする。目的派には、言語学を学んでいる人のように「目的利用派」と、ただ外国語を学ぶことが目的の「目的そのもの派」の人がいる。全体から見ると目的利用派はごく少数の人であり、目的そのもの派はそれよりずっと多い。この派の人はやがて目的利用派なり後述する「手段派」に転ずることは可能だが、その存在自体にレーゾンデートルがなく、語学習得に失敗する可能性が高いグループである。
 語学習得の理由のうち一番有力なグループは「手段派」と呼ばれるグループで、この派に属する人たちは、語学を習得してそれを手段にしていこうとする人たちである。語学学習では最大のグループを形成しており、この派の人たちはある外国語をモノにして、それを使って仕事をしようとしているので、学習の目的がはっきりしている。従って、目的そのもの派より成功率は高くなっている。読者のみなさんには、ここで自分がどの派に属しているかを考えてごらんになることをおすすめする。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.204〜205)

 学士リー(Samuel Lee)は、たまたま一寺院(会堂とも訳す)においてヘブライ語のバイブルを観たれば、これを学ばんと思い起こせり。この時、リーは木工にして、椅子を修復することを業とせしなり。しかれども、必ずこの語に通ぜんと思いしかば、ヘブライ文法書の古本を廉価(安値)にて買い、師傅を借らずしてみずから学習せしとなり。
(スマイルズ/中村正直訳『西国立志編』講談社学術文庫、1981。p.205)


● 独学は人並み以上の努力を必要とする。

 この時期、私はかなり多くのイタリア語の文学作品を読んだと思う。イタリア語と接する機会を多くすることで、イタリア語に対する理解が深まった。だが今思い返すと、かなり乱暴なやり方である。何しろ能率が悪く、時間ばかり食ってしまうからである。しかしこれが独学の宿命だろう。独学は人並み以上の労苦と情熱を要求するのだ。
(竹山博英「頭の中に辞書を作る」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.187)


● 必要はその人を語学の達人にする。

 もう一昔前の話になるが、日本とフランスのギャングが手を組んで東京で白昼現金輸送車を襲い数億円の現金を強奪する、という事件があった。この一味のうち日本人のほうはまもなく警視庁に逮捕され、犯罪の内幕はマスコミでも広く報道された。それによると、この男は暴力団がらみの麻薬の運び屋をやってフランスでつかまり、フランスの刑務所で一、二年服役している間にフランス語がペラペラになり、この特技を生かして現金輸送車襲撃をお家芸とするフランスのギャングとぐるになり、大胆な反抗に及んだという。
 とんだ国際化もあったものだが、この事件は外国語の習得という問題についていろいろ考えさせてくれる。どうみてもインテリではなさそうなこの暴力団員が短期間でフランス語をマスターできたのは、やはり刑務所というこの世でもっとも過酷な社会で生きていかねばならないという極限状況に置かれたせいだろう。そしてもちろん、人は刑務所には強制されて入るものである。異常な状況と強制が彼を語学の達人にした。
(関曠野「刑務所暮しと外国語」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.33〜34)


● 目的をはっきりさせないまま外国語の学習を始めてその外国語をものにしようとするのは、非常に難しい。

 外国語を習うとき、なんでこの外国語を習うのか、という意識が明白であることが絶対に必要である。この反対の例が・教養のための外国語・とやらで、こんな気持でフランス語やドイツ語を学ばれては、フランス語やドイツ語が迷惑である。フカフカしたじゅうたんの上で、数々の教育機器に恵まれ、ネイティブ・スピーカーのいい先生のいるカルチャーセンターで、よい教科書と、よい辞書があってもうまくこれらの外国語がものにならない人は、目的意識の不足がその原因である。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.20)

 日本では、英語の学習は他の外国語の学習よりはるかに便利である。それにもかかわらず多くの人が英語の学習で涙を流すのは、なぜ英語を学ばねばならないのかについて自分の気持が整理されていず、明確な目的がないからである。チェコの作家カレル・チャペックが言っているが、贈り物というのは、それを受けとる側の状況とは関係なしに天から降ってくる。もし受けとる側の望んでいるようなものが贈られればその喜びは大きいが、そのプレゼントがいかにいい物であっても、不必要なものであってはなんとも仕方がない。結婚式の引出物に顔をしかめるのはよくあるケースであり、人から贈られた本の多くが自分の蔵書で占める位置がないのもその例である。英語を含む外国語を選択する場合、その外国語の選択がこのプレゼントのように天から降ってきたのでは困る。なぜこの外国語を学ぶのかには買物以上の注意が必要で、ここのところを明確に意識するかしないかは、その外国語の習得の大きなポイントなのである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.22〜23)

● 必要性をあまり感じず外国語を学習するのは苦痛である。

 現代の日本人はすでに植民地根性から脱却しているので外国語には興味を覚えず、横文字には抵抗感さえ感じるようになった。その一方では経済大国日本の地位を守るためには、ますます直接、間接の社命に基づいて外国語の習得に励まねばならない。このディレンマは当然の事ながら、外国語の学習をしんどい苦行にする。それは日本の経済と社会の国際化にまつわる諸々のディレンマを要約しているような苦行である。
 外国語の学習からこうした心理的なつらさをなくすためには、かつての欧米コンプレックスに代わる新しい動機づけが必要である。とにかくビジネスその他の功利的な目的で外国語を学ぶという態度を改めないかぎり、心理的な負担感はなくならない。外国の文化それ自体に深い愛情や興味を持ち、無償の行為として外国語を学ぶようになれば、学ぶことは何ら苦痛ではなくなる。外国文化に対するこの姿勢はまた、まさに国際社会が現代日本に要求している姿勢でもある。この意味で今後の日本人の外国語へのかかわり方は、日本の国際化の内実を見るうえでもっとも有力な判断材料になるだろう。
(関曠野「刑務所暮しと外国語」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.36〜37)


● 目的に合わせて各技能における熟達度の目標が決まる。

 習得したいと思う外国語が決まったら、その外国語をどの程度習得するつもりかの見通しをつけなくてはならない。読み書き話すという三つができるようになるには、言語の難易の差によって三年から五年が必要になってくる。だから、必要でない言語を単に教養のためとかいって三つも四つもやることは、人生での大きなむだ以外の何物でもない。また、本を読んで内容が理解できればいい言語を書いたり話したりできるようにするのは、もったいないむだな努力なのである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.31)

 目標に合わせて、聞く、話す、書くという四技能の、どれを、どの程度身につければよいかイメージする。万能の語学力などというものは存在しない。それぞれのニーズを満たすための必要十分な四技能の組み合わせとレベルが存在する、と考えて目標を設定する。
(塩田勉『おじさん、語学する』集英社新書、p.21)

 いろいろと数多く外国語ができる人がいても、その中で読み書き話せるという三拍子揃ってできる言語は一つか二つで、三つという人は少ない。従って、それ以外の言語は当然のことながら何らかの制限つきである。だから外国語を学ぼうとしたとき、どの言語を三拍子揃った言語にし、どの言語を受け身な読めるだけの言語にするかはよく考えないといけない。そして、単に二週間の旅行のための外国語なら、二〇までの数と、ごく身近な挨拶とを勉強すれば足りるとしなければならない。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.29〜30)

 たとえば、原語で映画が分りたい人なら高度の聴解能力が必要となるし、インターネットで海外の友人とチャットするのなら中程度の読み書き技能があればなんとかなる。海外旅行なら初級が終わる程度の会話力(聴解と話す能力)で間に合う。英語圏の大学や大学院に留学したいのなら、四技能全てのバランスのとれた訓練が必要で、TOEFL最低550点を目指さなければならない、等。
(塩田勉『おじさん、語学する』集英社新書、p.21)

● 高い目標を立ててみる。

 かならずその奥をきはめつくさんと、はじめより志を高く大にたてゝ、つとめ学ぶべき也。然して其餘のしな/゛\をも、力の及ばんかぎり、学び明らむべし。
(本居宣長『うひ山ふみ 鈴屋答問録』岩波書店、1934。p.17)

 彼(=種田輝豊氏)の能力を認めている人には、意外なところで出会ったことがあります。あるときフランスに出張で行くことになり、エールフランスの飛行機の中でフランス人ビジネスマンと隣り合わせになったとき、ひょんなことから彼が種田氏を知っていることがわかったのですが、彼は「種田氏のフランス語は、これまで世話になった通訳の中で突出していた」と絶賛したのです。種田氏にとって、フランス語は得意なものからかぞえて第八外国語ぐらいだったと記憶しているので、本当に彼は語学の天才なのだと驚いたものです。
(猪浦道夫『語学で身を立てる』集英社、2003。p.166)


● 何のために外国語の学習をするのかが定まったら、その目的にあった学習をする。

 さて次の例は、ここまで来るとすさまじいという気がするが、実際に筆者におこったことなのでお伝えしておこう。もう何十年も前のことだが、筆者がプラハの学生寮にいたときのことである。ある日、見知らぬチェコ人の訪問を受けた。その人は汽車で三時間ほどの地方の都市にいる人で、一週に一回、私に日本語を習いたいというのである。一体いくらで教えてくれるか、どのくらいの期間で日本語が習得できるかという質問から始まったのだが、次に出された条件にびっくりさせられた。この人がいうのには、発音は全然教えなくてもいい、書いてあることの意味が分かればいいというのである。
 いろいろ詳しく事情を聞いてみると、この人は化学の技師で化学の文献を訳せればいいというのが学習の目的であった。すなわち、単語が引けて、文を作っている規則、いわゆるシンタックス(統語法)が分かればいいので、会話はもちろん、「水」というこの字が読めなくとも、H2Oを意味することが分かればいいのである。すでに英・独・仏・露もそのレベルに達していて、論文の内容は理解できるから、文字以外にはそう困難はないと思う、という主旨であった。そこで一年半ぐらいでできるでしょうと答えると、すぐペンとノートで計算を始め、往復の汽車賃と私への月謝はその後二ヵ年で回収され、そのあと死ぬまで稼げるので、お願いしますということになった。
 この人が日本語を始める理由には、日本語の文献を読みたいということのほかに、チェコでは日本語の翻訳料がとても高いことと、企業の中で外国語が一つできるようになるたびに資格のランクが上がって給料が増える仕組みになっているという事情がある。
 こんなに明確な学習意識を持ち、学習の対象すなわちどの領域のことがどの程度できるようになればいいかが分かっている人の進歩がどんなものであったかは、いうまでもあるまい。往復の汽車の時間を主として漢字の学習にあてたこの人は、一年三ヵ月後にはもう論文が無理なく訳せるようになり、「一年後からはプラスになります」と、にっこりしながら手を振って出ていった。その後姿がとても印象的であったのを覚えている。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.27〜28)


● 外国語の学習には強い動機が成功要因になる。

 語学は、必要と責任から生じたやむにやまれぬ動機があるとき、成功が確実になる。具体的な動機に合わせて、目標とするレベルや領域を設定する。
(塩田勉『おじさん、語学する』集英社新書、p.21)

● 学習の動機付けが強ければ、いつかは必ず外国語を習得できる。

 このようにして私は朝の五時から夜の一一時までいそがしくすごして、勉強する自由な時間はすこしもなかった。そのうえ子供のときに学んだわずかのものさえ、忘れる一方であったが、それにもかかわらず、学問にたいする愛着を失ってはいなかった──いや、それは断じて失わなかった──またよっぱらいの粉屋のヘルマン・ニーデルヘッファーが私の店に来た夕べも、私が生きているかぎりは、忘れられないであろう。彼はレーベル(メックレンブルク)の新教派の説教者の息子であって、ノイルッピンのギムナジウムを卒業まぎわに品行不良のために放校された。彼の父はギュストロヴの粉屋、デットマンに彼を小僧としてあずけた。ここに彼は二年間いた後は、粉屋の職人としてぶらぶらしていた。この若者は境遇に対する不満から、おしむらくはほとんど飲酒癖におちいっていたにかかわらず、そのために彼のホメロスを忘れることはなかった。それで前に述べた夕べには、彼はこの詩人の句を一〇〇句以上もわれわれに暗唱してきかせ、しかもそれらの句を非常な熱情をこめ抑揚をつけて朗吟した。もちろん私はそのうちの一語もわからなかったけれども、その旋律的な言葉から私はこの上なく深い印象をうけて、自身の不幸な境遇にたいして熱い涙をさそった。彼はそのすぐれた神品の詩を私のために三度くり返さねばならなかったが、その返礼に私は三ばいの焼酎を彼にふるまい、そのために私の財産の底をすっかりはたいた数ペンニヒをも喜んでなげだした。あの瞬間から私は神に、お恵みによって、いつかはギリシア語を学ぶことが許される幸福を、われに与えたまえ、と祈願してやまなかった。
(シュリーマン『古代への情熱』岩波書店、1954。p.20〜21)


● 学習の動機付けをするために、楽しみを探す。

 語学(たとえば英語)を勉強することが、何の抵抗もなく、いつでも自然に、しかも気楽にとびこめる仕事になるような環境づくりに、意をこらすことが絶対に必要な条件である。
(種田輝豊『20カ国語ペラペラ』実業之日本社、1969。p.157)


● 外国語学習には、お金と時間が必要である。

「先生、語学が上達するのに必要なものはなんでしょうか」
「それは二つ、お金と時間」
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.38)


● 上達するには時間が必要である。

 先生のおっしゃるには神様は大変公正であって、お金だけあってもだめで、時間も必要だとの話であった。もし、お金だけで語学ができるのであれば、松下幸之助氏など何十という外国語を身につけられるはずである。ところがこのような人たちは、会議やら相談などでいそがしくて、人称語尾を繰り返したり、単語を覚えたりする時間はないのである。大学生というのは、本来時間はあるがお金がない人たちであり、社会人というのは、いささかお金があるが時間のない人たちである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.39)


● 学習を持続させるには、動機以外に、学習を持続しようとする意志が必要である。外国語の習得には執念があった方がいい。

 わたしは「根性がある」とよく人からいわれる。が、どうもピンとこない。根性のあるなしは生まれつきのものと思っている。そしてわたしは、むしろ根性がないほうだと自分では考えているのだ。変なたとえだけれど、首をつまんでぶら下げたら、脚をだらりとぶら下げる猫のような人間なのである。
 しかし、「根性のある人」が語学に立ち向かったら、大成功をおさめることは疑いない。根性のある人は同時に、執念深い人でもあるにちがいないからである。
 わたしの場合は、もって生まれた根性はないが、自分で鍛え上げた、物事に対する執念というか、執着心というか、ようするにしつこさが唯一の武器なのである。各国の言葉を学習した体験から、上達にもっとも大切なことは、この“執念”の一語につきると断言できる。
(種田輝豊『20カ国語ペラペラ』実業之日本社、1969。p.243)

 たとい高尚なる学科といえども、凡庸の才質をもって、心を用い功を積み、久しきに耐うれば、必ず成就の地位に至るべし。
(スマイルズ/中村正直訳『西国立志編』講談社学術文庫、1981。p.161)

 楽師バーニー(Burney)は、馬に乗り旅行する間に、イタリア語、フランス語を学べり。その門生の中に、この二国の語を知るものあれば、たれかれを問わずして、これより教えを受けし、といえり。
(スマイルズ/中村正直訳『西国立志編』講談社学術文庫、1981。p.213)

 それならば、いったい何が語学上手と語学下手の差をつける原因なのだろうか。ここで大事になるのがモチベーション、本人のやる気である。繰り返しになるが、外国語というのはその気さえあれば誰にでも習得できるものであり、そのつもりさえあれば同時通訳などといったいわば「頂点」を極めることさえできるものだということである。帰国子女だけが語学のエキスパートになる特権を備えているのではない。必要に迫られたり意欲を持つものには、すべて門戸が開かれているのではないか。最近の理論でも、外国語を学ぶにあたっての条件は、能力(aptitude)よりも心構え(attitude)だといわれている。
(松尾弌之「遠い昔のある匂い」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.20)


● その語学が好きであることが重要だ。

 又面々好むかたと、好まぬ方とも有、又生れつきて得たる事と、得ぬ事とも物なるを、好まぬ事得ぬ事をしては、同じやうにつとめても、功を得ることすくなし。又いづれのしなにもせよ、学びやうの次第も一わたりの理によりて、云々してよろしと、さして教へんは、やすきことなれども、そのさして教へたるごとくにして、果してよきものならんや、又思ひの外にさてはあしき物ならんや、実にはしりがたきことなれば、これもしひては定めがたきわざにて、実はたゞ其人の心まかせにしてよき也。
(本居宣長『うひ山ふみ 鈴屋答問録』岩波書店、1934。p.14〜15)

● 好きな内容から語学に入る。

 初めての語学を学ぶときに、自分の本当に好きなことが書いてある本を読むというのは悪くない方法であると思われる。
(奥本大三郎「文法のあとさき」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.94)


● たえず学び続けるのは自分自身との戦い。

 だが、これは学生諸君にいつも言うことなのだが、新しい言語を習得するのは、己自身とのたえざるたたかいにほかならない。とかく逃げ腰になりがちな自分に打ち克つためには、毎日かかさず、たとえ十行でもよいから学んでいる言語に接することである。外国語を学び覚えるのは 容易ではないが、少し怠けると、学んだ時の倍のスピードで頭からぬけてゆくからだ。
(原卓也「人生を決めた『静かなドン』」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.139)

● 努力とは、目的意識をもって邁進すること。

 僕はあきれて永沢さんの顔を眺めた。「僕の目から見れば世の中の人々はずいぶんあくせくと身を粉にして働いているような印象を受けるんですが、僕の見方は間違っているんでしょうか?」
「あれは努力じゃなくてただの労働だ」と永沢さんは簡単に言った。「俺の言う努力というのはそういうのじゃない。努力というのはもっと主体的に目的的になされるもののことだ」
「たとえば就職が決って他のみんながホッとしている時にスペイン語の勉強を始めるとか、そういうことですね?」
「そういうことだよ。俺は春までにスペイン語を完全にマスターする。英語とドイツ語とフランス語はもうできあがってるし、イタリア語もだいたいはできる。こういうのって努力なくしてできるか?」
(村上春樹『ノルウェイの森・下』講談社、1991。p103〜144)


● 寸暇を惜しんで学習すれば、必ず外国語をモノにできる。

 詩家カーク・ホワイト(Kirk White)は、状師館〔法律事務所〕に往来する途中にある間に、ギリシア語を学び、善くこれに通ずるに至れり。
(スマイルズ/中村正直訳『西国立志編』講談社学術文庫、1981。p.213〜214)

 昔マンチェスターに在りて使喚人となれる時、その使いとなり、道路を往来する間に、ラテン語、フランス語を学びしとなり。
(スマイルズ/中村正直訳『西国立志編』講談社学術文庫、1981。p.214)

 イリヒュー・バリット(Elihu Burritt)は、アメリカの語学家なり。みずから、「われは不才の人なり。その進修の益を受けたることは、特に零砕の光陰を謹んで用いたりしによれり」といえり。バリットは打鉄匠となりて、家業をなせし間に、古今十八種の言語、およびヨーロッパ二十二国の方言をしだいに学び、ことごとくこれに通ずるに至れり。
(スマイルズ/中村正直訳『西国立志編』講談社学術文庫、1981。p.214)

 けだし光陰は人に属するイタニティー(永遠無彊)の小片にすぎざるのみ。しかして人生と同じく、すでに過ぎたるものは、また呼びかえすことあたわざるものなり。
(スマイルズ/中村正直訳『西国立志編』講談社学術文庫、1981。p.215)

 詮ずるところ学問は、たゞ年月長く倦ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかゝはるまじきこと也。いかほど学びかたよくても怠りてつとめざれば、功はなし。又人々の才と不才とによりて、其功いたく異なれども、才不才は、生れつきたることなれば、力に及びがたし、されど大抵は、不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有物也。又晩学の人も、つとめはげめば、思ひの外功をなすことあり。又のなき人も、思ひの外、いとま多き人よりも、功をなすもの也。されば才のともしきや、学ぶ事の晩きや、暇のなきやによりて、思ひくづをれて、ることなかれ。とてもかくても、つとめだにすれば、出来るものと心得べし。すべて思ひくづをるゝは、学問に大にきらふ事ぞかし。
(本居宣長『うひ山ふみ 鈴屋答問録』岩波書店、1934。p.15〜16)


● 学習を持続させるには、学習をやめるのがもったいないと思う気持に追いやるのも効果的である。

 私は学生時代、ペルシア語を勉強しようと思いたって、イラン人の留学生を家庭教師に雇ったことがある。一方で中学生や高校生の家庭教師をやりながら、生活費を稼いでいたのだから、その家庭教師に払う金は、文字通り汗の結晶で、一銭も無駄にならぬように必死で勉強した覚えがある。
 そのときの経験からして、語学に関していえば、自前の金で家庭教師を雇うのが最良の方法である。テープやレコードを買ったり、語学学校に通うのにくらべ、はるかに費用がかかるが、はるかに効果があがるから、費用対効果を考えれば、ずっと安上がりといえる。その場合、ちょっと費用をケチって、二、三人で教師を雇うというのは、絶対に損だ。
 語学を覚えるには、徹底的にしぼりあげてもらう必要がある。一対一のしぼられ方と一対二のしぼられ方では、やはり二倍ちがう。つまり、費用が半分になっただけ、効果も半分になっている。それに、語学を学ぶにはとことん恥をかく必要があるのだが、仲間がいると、必要な恥をかききれない場合が多い。仲間が三人になったりすると、自分だけ都合が悪いときに、金だけ払って休んだり、それが積み重なると、進度が遅れてやめてしまったりということがしばしばおこる。
 友人を一人さそって、朝鮮語を勉強しようとして、教師を雇ったことがある。そのときの効果は、ペルシア語の教師を一人で雇ったときにくらべ、半分以下だったと確信をもっていえる。
 そんなことをいっても先立つものがない、と考える人にほど、この方法をおすすめする。苦しい身銭ほど効果がある。食を減らしてやっと捻出したような金で家庭教師を雇えば、効果は絶大である。
(立花隆『ぼくはこんな本を読んできた』文芸春秋社、1995。p.60)

 つづいて、自分の地位をよくするために、熱心に近代語の学習をはじめた。私の年収はわずか八〇〇フランであったから、そのなかばを学習につかい、他の半分で私の生活費をまかなったのだが、どうにかやってゆけた。
(シュリーマン『古代への情熱』岩波書店、1954。p.24〜25)

 ……というのは、私はロシア語を知ればもっと役立つだろうと考えて、この言葉を学びはじめたからである。私が手に入れることができた唯一のロシア語の書物は、一冊の古い文法書と、一冊の辞書と『テレマコスの冒険』のまずい翻訳とであった。またあらゆる手をつくしたけれども、ロシア語の教師を見出すことはできそうになかった。というのは、当時アムステルダムにはロシアの副領事タンネンベルク氏以外には、この言葉を一語でも解する人はなく、その彼は私に授業しようとしなかったからである。そこで私は教師なしで新しい勉強をはじめ、文法書の助けによってわずか数日間でロシア文字とその発音とをおぼえた。ついで私は再び自分の昔の方法によって、短い作文や物語を作ってはそれを暗記した。課題を添削する人がいなかったから、もちろんそれははなはだまずかった。けれども私は『テレマコスの冒険』のロシア語訳を暗記しながら、また実用的な練習によって誤りを避けようとつとめた。もしそばにだれかテレマコスの冒険を話してやれる人がいるなら、進歩はいっそう早いであろうと思えた。それで私は一人の貧乏なユダヤ人を一週間四フランでやとった。彼は毎日二時間私のところにきて、私のロシア語の暗唱を聞かねばならなかったが、彼はそれの一つづりも知らないのであった。
(シュリーマン『古代への情熱』岩波書店、1954。p.27〜28)

 外国人に日本語を教え、そのかわりにその外国語を学ぶというのはよく聞くが、そうやって外国語に上達した人に会ったことがないのは、お金を使っていないからだろう。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.39)


● 外国語の学習が軌道に乗るまではがむしゃらに進む。

 そして、その時間の使い方について一言するならば、ある外国語を習得しようと決心し、具体的に習得に向かってスタートしたときは、まず半年ぐらいはがむしゃらに進む必要がある。これは人工衛星を軌道に乗せるまでロケットの推進力が必要なのと同じで、一度軌道に乗りさえすれば、あとは定期的に限られた時間を割けばいい。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.40)

 「何時間ぐらい勉強したらよいか」──もし本当に勉強の効果を上げるつもりならば1日24時間主義を少なくとも数カ月から1年ぐらい続けることです。つまり朝から晩まで、そして眠ってからもその外国語のことを忘れないように心がけることです。
(渡辺照宏『外国語の学び方』岩波書店、1962。p.37)

 D教授は英仏独はもちろん、古典語から現代語まで何十の外国語を自由に読み書き話すという天才ですが、この人の勉強ぶりをみて感心したことがあります。ひとつの外国語を3カ月ぐらいで仕上げるそうですが、その期間中は食事も忘れるほどその言葉だけに熱中するのだそうです。外人教師の説明する言葉を一言も聞きもらさじと耳を傾け、教師が黒板に字を書いているあいだ一瞬間でも言葉がとぎれると、もう自分の口の中で今教師が言った言葉を何度でも繰返すという有様ですから、授業時間を1分1秒もむだにはしません。この人の3カ月は普通の人の3年どころではありません。もし「外国語の鬼」という言葉があるとすればこのD教授こそその人と言えるでしょう。天才とは努力のことだということを、私はたまたま僅かの期間でしたが、D教授と机を並べて勉強した時、つくづくそう思いました。
(渡辺照宏『外国語の学び方』岩波書店、1962。p.39〜40)


● 学習動機が弱くなって息切れする前に学習を終わらせる。その一法として、1冊の教材を1ヵ月で集中して勉強する。

 語学に関していえば、集中的にやったほうがよい。週二回一年間やるよりは、毎日一ヵ月間やったほうがよい。私の経験からいうと、たいていの語学は、他のことは全部忘れて、ただひたすらそれに熱中するという形でやれば、一ヵ月で一応モノになる。
 大学書林でだしている「××語四週間」というシリーズがあるが、あの本の内容程度をモノにしようと思えば、本気でやるなら、必ず四週間でできる。ただし、それには厳しく尻を叩いてくれる人が必要で、尻叩き役なしで自分で自分の尻を叩きながらやろうと思うと、たいてい一週間くらいで挫折する。そのうち、この本の一日分を二日でやろうと思い、やがて一日分に一週間かけようと思い、そのうちにやめてしまうのがオチである。
 語学だけは、純粋独学つまり本の上だけの自学自習は避けたほうがよい。できるだけ高価な金を払って、できるだけ厳しい先生についたほうがよい。
(立花隆『ぼくはこんな本を読んできた』文芸春秋社、1995。p.61)

 学士入学の試験は、ほぼ面接だけでいいから簡単なんだけど、試験の時、哲学科の教授が「本気で哲学をやるなら、英語、フランス語、ドイツ語、それとギリシャ語とラテン語が必要になる。四月までに準備しておいてくれ」と脅すんですよ(笑)。あわてて『ギリシャ語四週間』『ラテン語四週間』を買い込んで、大急ぎで勉強した。あれはきちんとやると本当に四週間でできるんですね。二ヵ月ぐらいで、一応、授業を受けられるまでにはなったんじゃないかな。
(立花隆『ぼくはこんな本を読んできた』文芸春秋社、1995。p.124)


● 急激に習得した語学はすぐに実際に使い始めないとすぐ忘れてしまう。

 神様が公平だと思うもう一つのことは、短期間に急激に習得した語学は短期間に急激に忘れるが、長い時間をかけて習得した語学は忘れるのに長い時間がかかるという事実である。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.40〜41)

● 同じ時間勉強するなら、一日に少ない時間を毎日やる。

 このとき、二四時間をある外国語の訓練に捧げようと思ったら、一日に六時間ずつ四日やるより、二時間ずつ一二日した方がいい。…(中略)…。いずれの語学上達法の本も毎日少しずつでも定期的に繰り返すことをすすめているのは事実である。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.40)


● 気紛れな人向きか。学習目的に変化を持たせるのも一つの方法である。「ガムシャラ→休み」方式。

 ムチャクチャに勉強して、完全にアキアキしてしまうところまでゆく。一日に八時間、首っ引きで入門書なり、読み物なりに没頭する。三日坊主に終ってもかまわない。やったことは、なにもかもすっかり忘れてしまってもかまわない。
 では、時間のムダになるではないか、と文句がでるかもしれないが、決してムダにはなっていないことを保証する。プロセスとしては、新しい語学ないしは新しいものという「ショック」に対して、頭を免疫にしたわけである。
(種田輝豊『20カ国語ペラペラ』実業之日本社、1969。p.199〜200)

 さて、けん怠期が到来しても、のほほんと遊んでいてはいけない。せっせと楽しいことに励むべきである。講談社の世界美術館シリーズだとか、平凡社の世界文化地理大系、実業之日本社のブルーガイド海外版などのきれいなページをめくりながら、どんな人間が、どんな顔をして、どんなことばをしゃべりながら、かくも美しい国で、素晴しい文化を生みだしたのであろうか…などと考えながら、写真に見入り、説明を読むこと。そうしているうちに、必ずや、また、あのアキアキした本をあけて見、すべてを見なおす意欲が湧きあがってくるものである。
 あとは、くり返しである。そして、この「刺激剤」がタネぎれになったら、その国の出先機関(各地にある大使館、領事館、文化センターなど)に出かけるなり、手紙を書くなりして、なんらかの刺激を求める。国のPR材料、雑誌、さらにペンパルの名まえ、住所などに手をのばしても、決して早すぎることはない。
(種田輝豊『20カ国語ペラペラ』実業之日本社、1969。p.200)


● どのような方法であれ、ある程度限界と節制をもって行わなければならない。

 フレックス・タイムというのも流行していますが、フレックス=暇なとき、気の向いたとき、になりやすい側面があります。もちろん、仕事の関係などでどうしてもこの方法しかないという人もいるのはわかりますが、外国語というものは気の向いたときだけ勉強していて習得できるようになるようなものではありません。どうしても、ある時期禁欲的に勉強することは避けて通れませんので、フレックス・タイムは効率のよい学習方法とはいえないと思います。
(猪浦道夫『語学で身を立てる』集英社、2003。p.102)

 無制限な活動は、どんな種類のものであろうと、結局破産する。
(高橋健二編訳『ゲーテ格言集』新潮社、1952、p.126)

● 自分に合った方法で堅実に学習を終えることが大事である。

 あせることは何の役にも立たない。
 後悔はなおさら役に立たない。
 前者はあやまちを増し、
 後者は新しい後悔を作る。
(高橋健二編訳『ゲーテ格言集』新潮社、1952、p.193)

● 無理なく順序だてて学ぶ。

 …J・トマン博士は、…自著の最後のところで、「外国語学習の結論として」という章をたて、その中でもう一度、次のようなことに注意をうながしている。

「外国語の習得に際しては、ささやかなあまり大きくない目標をたて、それを遂行していく方がよいであろう」
 そして最後にコメンスキーを引用して、「外国語を学びたいものは、順番に段階だてて学ばねばならない。まず理解するようにし、ついで書けるようにして、それからやっと話すことを学ぶ方がいい」。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.200)

 物事を始めるときは、莫大な適応エネルギーを消費する。そろりそろりと、できるところから始め、だんだん慣らしてゆく。
(塩田勉『おじさん、語学する』集英社新書、p.33)

 助走は、外国語への欲望や関心を、徐々に高め、より深く広い世界へ誘ってくれる。デパートのエスカレーターで上がってゆくにつれ、商品への欲望が高まってゆくのと同じである。
(塩田勉『おじさん、語学する』集英社新書、p.33)

 林家は、昔、フランス語の発音で手傷をおったが、文法では致命傷を受けた。どんどん動詞の変化が出てきて、頭が混乱し絶望した。各課の最初に新しい動詞変化が掲げてある。それを、朝右衛門が、祝詞のような調子で説明し、カーンと響く声で唱える。あのとき、絶望しながら聞いた動詞変化が、NHKのテキストにも出てきた。だがそれは、振り仮名つきで、純正の発音ができない奴は斬るぞ! という殺気を感じさせたりしない気楽なものだった。リラックスすると頭にも入りやすいから不思議である。理由は、こうだったかもしれない。NHKのテキストは、まず生の会話、読み、意味の順に理解させ、応用場面、ゲストによる再演、ゲスト相手の語句の反復などがあって、十分に音声面に慣れさせる。そのあと初めて、文法が整理されて提示される。一事が万事、演繹的で、最初にルールを教え、それを暗記させ、そのあと申し訳程度に活字の応用問題を解いた受験英語や教養語学とは、正反対のやり方である。そこに利き目があるらしい、と林家は感じた。
(塩田勉『おじさん、語学する』集英社新書、p.34-35)

● 一日も休まない。

 私の尊敬するE先生は毎日何十行と日課をきめてここ20年来ホメロスをギリシア語で読んでいます。打ちあけ話によると、外でお酒を召しあがってお帰りになった晩はおっくうなこともあるそうですが、たとえ旅先でも日課をかかさないそうです。E先生のような第一級の学者でもこの通りなのです。私たちがそのまねをして悪いわけはありません。
(渡辺照宏『外国語の学び方』岩波書店、1962。p.44)

● 定期的に学習する。

 ……さらに効果的にするために、毎日それにあてる時間をなるべく一定した方が得策です。朝起きた時、昼休み、夕方、就寝前、いつでもよいから一定の時間に一定の勉強をする癖をつけると、その時間になると、自然にその気になるので仕事が楽です。たとえば朝食前の1時間というようにきめておくと、その時間がくると英語なら英語の気分になるから不思議です。夕食前後の1時間でもけっこうです。ラジオの講座はこの意味でよい時計の役をします。1時間でも30分でもきめた時間中は緊張して英語の気分になりきる心がまえをしてください。
(渡辺照宏『外国語の学び方』岩波書店、1962。p.44〜45)

 チェコ語の専門家として知られ、自ら非常に優れた教育者であったブラジミール・シュミラウエル教授の『文献学的作業の技術』に、次のような箇所がある。

「精神的作業の注意。まず第一にあげる原則とは、自分の力を過信して酷使しないことである。特に若い人はそうしてはならない。(三〇歳を過ぎればもうそう危険ではない。)私の父親のような聡明な友人がよく言っていたのは、『八かける四〇と、一六かける二〇は依然として同じ三二〇である』ということである。この言葉の意味するところは、『四〇年間八時間働くのは、一日一六時間ずつ働いて二〇年ででき上がるのと時間的には同じということにある。(しかも、このように一日あたりの時間が少ない時間割の作業の方がよい仕事ができることを、考慮から除いての話である。)』酷使すると、じっくり仕事を考えることも、合理的にすすめることもうまくいかなくなる。より大切なのは、短期間ものすごく集中することより、学習を規則的に持続していくことなのである」
 もとより私は、読者の方々に一日八時間ずつ学習するようになどというつもりはない。しかし、外国語の習得は始めたら規則正しく、たとえ短い時間でも毎日することが大切で、減食やジョギングと同じように少しずつでも毎日する方がいいことは明らかである。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.198〜199)