方法論


● 外国語を学ぶにはコツがある。

 外国語を学ぶにはコツがある。それを意識して学習すれば、必ず外国語がモノになる。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.196)

「まあなんでもいいですけどね」と僕は言った。そして机の上のスペイン語のテキスト・ブックを手にとって眺めた。「スペイン語始めたんですか?」
「うん。語学はひとつでも沢山できた方が役に立つし、だいたい生来俺はそういうの得意なんだ。フランス語だって独学でやってきて殆ど完璧だしな。ゲームと同じさ。ルールがひとつわかったら、あとはいくつやったってみんな同じなんだよ。ほら女と一緒だよ」
「ずいぶん内省的な生き方ですね」と僕は皮肉を言った。
(村上春樹『ノルウェイの森・下』講談社、1991。p101)

 「語学の方法論は駄目だな。人間が分かっちゃいねえ。人間は飽きる動物だ。あの変化表を根性で乗り切れなんて冗談じゃねえ。すぐやんなっちゃう気の短けえ人間様に、精神主義でこられちゃたまったもんじゃない。これでも俺は戦後世代だ。根性でやれなんて野蛮なことは性に合わねえ。第一、非科学的、前近代的で、方法論になってないじゃないか」
(塩田勉『おじさん、語学する』集英社新書、p.26)

● 外国語学習法を学ぶ。

 そんな私の決心を決定的にしたのは、一冊の本との邂逅でした。それは、当時ベストセラーであったと思われる本で、種田輝豊氏が著した『20カ国語ペラペラ』(実業之日本社、一九七三年)という本でした(この本はその後改訂されたとき『30カ国語ペラペラ』という書名になっていました)。こうした「多言語習得」本は、その後二、三冊読んだことがありますが、この種田氏の本は、他の本に比べて非常に説得力のあるもので、私は彼の学習法をおおいに参考にしたものです。
(猪浦道夫『語学で身を立てる』集英社、2003。p.166)


● 自分にあった方法を求める。

 性分や癖に合うようなノウハウを編み出す。教えられた方法も機械的に当てはめず柔軟に工夫をこらす。
(塩田勉『おじさん、語学する』集英社新書、p.28)

 たとえば、気の長さや精神のテンポ、聴覚型か視覚型か、内向型か外交型かなど、生まれつきの性向を考慮しながら自分のやり方を見つけ深めてゆく。気の短い人は、作業を区切り、中間目標を定めて短期決戦を積み重ねればよいし、視覚型の人は、映像とセットにして覚えるとよく、聴覚型の人は、歌詞を覚えることから入るのもよい。運動好きの人は、体の動きやリズムを加えながら聞くと覚えやすい。気質に合ったやり方を見つけると、疲れが減り、自然に物事が運び、能率も上がる。そういう感じのするやり方に出会うまで工夫を重ねる。
(塩田勉『おじさん、語学する』集英社新書、p.28-29)

 苦労しないで頭に入る事柄、過去に成功をもたらした事例をふりかえる必要がある。そこから自分の流儀のイメージをつかむ。
(塩田勉『おじさん、語学する』集英社新書、p.28)

 仕事や趣味をとおして培った目的意識や関心を活用する。仕事で学んだ情報処理や分類、接客や面接の技術、マーケットの背景にあるニーズの分析、株価の動向、多様な商品開発の知恵など、語学に役立たないものはない。
(塩田勉『おじさん、語学する』集英社新書、p.24)

 自分の気質や特性を客観的につかむには、カセット・テープやビデオなどで、自分の声やしゃべる様子を他人として観察するとよい。また、自分の両親の性格や自己の恋愛歴を記録して分析してみると、気づかなかった長所や欠点が浮かび上がることがある。さらに他人の観察やコメントから、自分では意識していないもう一人の自分を知ることができる。市販の自己分析のテストなどを親しい人と話題にしながら、コメントしてもらうのもよい。
(塩田勉『おじさん、語学する』集英社新書、p.29)


● 古今東西の外国語学習の実績から学ぶ必要がある。正しい方法は、つねに良い結果をもたらしてきた。ある学習法が正しいかどうかは、その結果によって判断できる。

 悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。
(「ルカによる福音書 6:43〜44」『新共同訳聖書』日本聖書協会、1987)

 実りの多いものだけが真実である。
(高橋健二編訳『ゲーテ格言集』新潮社、1952、p.58)


● ある程度の水準までしっかりと身につけておくと、忘れなくなる。

 私自身もいろいろな外国語を学びましたが、ある水準まで達しないうちに中止した外国語は何年かやらないでいると、結局ぜんぜん習わなかったのと同じことになり、また始めからやりなおさなければならないことになります。ところが、ある水準まで(少なくとも小学上級程度)習っておけば、たとえ10年ぐらい中絶しても元どおりすぐに使えるようになります。時によると以前に中止したところよりも、いつのまにか先に進んでいたという経験もあります。
(渡辺照宏『外国語の学び方』岩波書店、1962。p.49)


● 「できる」にも段階がある。

 「英語ができるようになりたい。」よろしい。だが<できる>とはどういうことを指すのでしょうか。立場を代えて外人が<日本語ができる>というばあいを考えてみましょう。一人で電車やバスにも乗れる、買物もできる、道をたずねることもできる。これも<できる>のうちに入ります。日本語で手紙が書ける。演説や講演ができる。論文や随筆も書ける。これも<できる>です。同じ<できる>にもピンからキリまであります。あなたは英語がどの程度までできるようになりたいのですか。
(渡辺照宏『外国語の学び方』岩波書店、1962。p.47〜48)

● 自分の水準を一応の目標にする。

 そこで、あなたの生活水準が中学卒業なみであれば、外国語の力もあちらの中学生なみに、大学卒業なみの生活水準ならば、やはりあちらの大学卒業生なみのところを、あなたの外国語の勉強の目標にすべきだと思います。実際にはむずかしいことではありますが、自国語による生活水準と、外国語による生活水準との差を、できるだけゼロに近づけることを外国語学習の目標としたらばよいと思います。
(渡辺照宏『外国語の学び方』岩波書店、1962。p.48〜49)

● 高い水準に達するには幅広い知識が必要。

 語学を勉強するということは、表情、身振り、習慣から、歴史、宗教、故事来歴、比較文化論まで学ばねば完璧といえず、好んで比喩的表現を使うドイツの新聞の見出しを正確に理解し、訳すことは、至難の業だ。ドイツ語は、やればやるほど、わかればわかるほど深遠な言葉になり、これでお仕舞いということがない。死ぬまでドイツ語と格闘する覚悟で、毎朝NHK衛生放送のドイツテレビのニュースをわくわくしながら見ている。
(若林正人「『文乙』の全力投球」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.120)

● 上手になればなるほど、謎は増え、困難も増す。

 人は少ししか知らぬ場合にのみ、知っているなどと言えるのです。多く知るにつれ、次第に疑いが生じて来るものです。
(高橋健二編訳『ゲーテ格言集』新潮社、1952、p.130)

 目標に近づくほど、困難は増大する。
(高橋健二編訳『ゲーテ格言集』新潮社、1952、p.164)


● 母語話者の水準に至った人の実例はほとんど見ない。しかし、希望を捨てることはない。母語話者の使用能力に至るのは不可能という決定的な根拠も発見されていない。

 何事につけても、希望するのは絶望するのよりよい。
 可能なものの限界をはかることは、だれにもできないのだから。
(高橋健二編訳『ゲーテ格言集』新潮社、1952、p.88)

 考察においても行動においても、到達し得るものと到達し得ないものとを区別しなければならない。そうしないと、生活においても学問においても、効果が上がらない。
(高橋健二編訳『ゲーテ格言集』新潮社、1952、p.168)

● 上の意見に対する反対意見。まあ、限りなく近づくことができれば目的は達成されているのだが。

 どんな国の言葉にせよ、外国人がそれをほんとうに自分のものにすることなど不可能なのです。かぎりなく近づくことはできても、外国語は自分の言葉にはなりません。バイリンガルなどというのはおこがましい話で、ほんの少し、たんに技術として外国語を身につけているというだけのことです。
(小鷹信光「第一歩は『乱読』から」現代新書編集部編『外国語をどう学んだか』講談社、1992。p.44)


● 語学の才能を見分ける基準。

 この質問に答えるのは容易なことではありません。一つの目安は本人の国語の能力です。ここでいいたいのは、現代国語や古典、漢文の成績がよかったかどうかということではありません。具体的にいうと、活字を読むのが好きか、ものを書くのが好きか、また自分のいいたいことを要領よく友達などに説明できるか、そうしたごく当たり前のことがその目安になるでしょう。外国語は苦手だが、小説や週刊誌を読んだりするのが好きな人は見込みがあると思います。「受験英語はできたが会話には全然自信がない」というタイプの人も大丈夫です。受験英語ができた人は、たとえ丸暗記だったにせよ基本的な単語は知っているわけだし、文法の基礎(たとえ受験文法でも一通り理解している人は他の西洋言語を勉強するとき圧倒的に有利です)もできているからです。
(猪浦道夫『語学で身を立てる』集英社、2003。p.184)


● 基礎が重要。(基本主義その1)

 会話の時でも、読書の時でも、とくにむずかしい言葉や特殊な用語ならば、たとえ知らなくても、問いなおすとか、辞書を引くとかすれば間に合うでしょうが、誰でもはっきり知っているはずの言葉があやふやであっては始めから問題になりません。だから、比較的やさしい読み物(たとえば中学校の教科書やそれに近いもの)をていねいに繰返して勉強することにより、また、できるだけやさしい言葉を使いなれてそれで日常の用がたせるように練習することによって、基本的な単語や表現を(ただ覚えるだけではなくて)身につけるように心がけることが肝心です。
 この心がけは進んだ段階にある人にとっても重要です。どんなに複雑な対談や会議にしても、または専門的な原書にしてもごくむずかしいのはその一部分だけにすぎず、大部分はやさしい、きわめてありふれた言葉からなりたっているのです。かりに5%だけわからないところがあるとすれば、にわか勉強でもけっこう用がたせますが、40%も50%もしらないことだらけではそれこそ手も足もでません。誰でも知っているはずのことをしっかり身につけておいて、やさしい言葉にまごついたり、ためらったりしないように心がけましょう。
 私がここでいいたいのは、外国語を話すときにも、読むときにも、この小さなためらいが時には大きな障害になるかも知れないということなのです。あちらの言葉をこちらの言葉におきかえるのではなくて、言葉にたいしてただちに反応する所まで練習をしなければ実際の用にたりないのです。会話のときのみではなく、ひとりで読書する場合でも、やさしい言葉や表現の所でいちいちつかえていたのでは(たとえそれが数秒間ずつにすぎないとしても)きわめて非能率的です。むずかしいことを覚えようとする前に、やさしいこと、わかりきったことを確実に徹底的にものにするように心がけてください。こういう理由で、どなたも中学の教科書の徹底的な練習を実行してください。
(渡辺照宏『外国語の学び方』岩波書店、1962。p.53〜54)

 ……こうした経験から導き出せる一つの法則が「一般に、日本でやった机上の学習のレベルに比例して会話も上達する」というものです。イタリア語は一昔前まであまり学習者が多くありませんでしたが、たまに「この人きちんとした(ただペラペラなのではなくて)イタリア語話すなァ」と思うと、たいていの場合、東京、大阪の両外語大の現役の学生かその出身者でした。それは「外語大」の学生が頭がよくて語学の才能があるからではなくて、授業でいやいや勉強させられた「文法」と「原書講読」がものをいっているのです。しかし最近は「非外語大生」の中にもずいぶん「達人」が増えました。
(猪浦道夫『語学で身を立てる』集英社、2003。p.185-186)

 私が大学で、教養課程の2年間の後、後期課程に進学して学んだ学科は当時としては珍しく、語学教育に関しては、今流に言えば、「発信型」の「役に立つ」英語を標榜するものであった。英米人の講師は何人もいたし、日本人の先生の中にも留学体験が豊富で会話に強い方が多かった。しかし学生は必ずしもそうではなく、ラジオ以外に生の英語に接したことのない者もいた。私の観察したところでは、高校時代に英文解釈、英作文、英文法をしっかり学んできた者たちは、最初の戸惑いを克服してからはめざましい進歩を遂げていった。
(行方昭夫『英文快読術』岩波書店、2003。p.20)

● やさしい教材を使う。(基本主義その2)

 参考書もたくさんできていますが、日本では生徒も先生もせっかちで、すぐ高級なものに手を出したがるようです。初歩をくりかえし練習させるという本が比較的少ないようですが、たとえばヴァカーリ著『英文法通論』(丸善)などはよくこの目的に適していると思います。「やさしすぎて」「ばかばかしくて」などと言わずにていねいにこの本を始めからやってごらんなさい。始めて習う人も、前に英語を習って途中で投げ出した人も、こういう本を我慢してゆっくりやれば大切な基礎ができます。…(中略)…。
 Linguaphone の Conversation Course もこういう目的にかなっています。これはレコードつきですから教師なしでも習えます。ただしひとりでやるときでも、先を急がずに復習を徹底的にやることがかんじんです。
(渡辺照宏『外国語の学び方』岩波書店、1962。p.54)


● バランスのよい学習を。

 聞き話し読み書きの4通りをできるだけ並行させるように努めるのが正しい学び方です。練習不足の部門は誰でもにがてではありますが、本は読めるが話はひとこともできないというような人は、ほんとうに本を読んでいるのかどうか怪しいものだと思います。またペラペラ器用にしゃべるが、新聞も満足に読めないというのでは心細いものです。書くとなると、日本人にはにがてな人も多いようですが、書くことがまるでできないのでは、ほんとうの意味で読むこともできないわけです。書くという経験なしには、書いた人の気持ちがわかるはずはないからです。
(渡辺照宏『外国語の学び方』岩波書店、1962。p.27)

● エリスが考えた、言語習得を考える際に大切な5つの要素。

 第2言語習得を専門に研究しているエリスは言語習得を考える際に大切なものとして次の5つの要素を挙げている。学習の場面、インプット、学習者の個人差、学習プロセス、そしてアウトプットである。
 まず1つ目は、学習の場面、状況設定である。学校の語学クラスでの学習か、あるいは実際に目標言語が話されている場面(たとえば店頭、レストラン、会社のオフィスなどでの学習かということなどが入る。
 2つ目は、どのようなインプットが学習者に与えられているかということだ。これには母語話者が学習者用に話すスピードや使う文構造などをかなりやさしくしたり大切な情報を繰り返したりするものか、あるいはそうでない自然な発話かなどが入る。また、教室での学習を考えた場合、文法や文構造に重きをおいた内容か、あるいは昨今のはやりともいえるコミュニケーションあるいは伝える意味に重点をおいたものかなどが考えられるだろう。
 3つ目の要素としては、学習者の個人差というものが考えられる。もとより、1つの学習スタイルがすべての学習者に適切で効果を発揮するとは考えられない。学習者によってさまざまなスタイルが考えられる。すべてに納得しないと先へ進めないタイプの人もいれば、少々分からなくても先へ進み、推理、推論がかなりできるタイプの人もいるだろう。人前で話したり演技をしたりするのがどうも苦手な人もいれば、人と話すのが大好きでクラスメートの前でも喜んで寸劇などに参加したりする人もいるだろう。年齢、動機、性格、学習者の母語の違いなどもここに入るだろう。
 4つ目の要素として考えられるのは、与えられたインプットを内在化し、それをアウトプットへと結びつけていく橋渡し的役割をになうもの、つまり学習プロセスとでもいったものだ。これは、与えられた情報を学習者が自分のものとしてどのように消化し、整理し、また発展、応用させていくのかそのプロセスのことである。たとえば、どのように記憶しようとするか、またそれをどのように引き出して実際に使おうとするか、さらに実際の会話場面で記憶したものだけでは間に合わない場合、どのような方法で会話を続けていこうとするかといったことも入るだろう。
 5つ目の要素としては、第2言語のアウトプットということが挙げられる。これには、学習した言語を実際どのように使おうとしているか、また言語学習が進むにつれてアウトプットがどのような発展過程をたどるのかということなどが入る。たとえば、多くの学習者はある程度決まった一定の自然な順序で言語を習得していくという観察もある。さらに、教室での話す練習ということで考えてみると、学習者にとってあまり意味をなさない、現実味を帯びていないドリルなどを通じて話す訓練をするよりも、学習者にとって意味のあるアウトプットをさせるようにすると、はるかに効果が上がることが指摘されている。
(東照二『バイリンガリズム』講談社現代新書、2000。p.116〜118)

● 外国語学習に必要なこと。

 Always remember that language learning relies on persistence, patience, frequent revision, and real application.
(Aristarhos Matsukas, TEACH YOURSELF Beginner's greek, Hodder & Stoughton Ltd., 2001, p.166)

● クラッシェンの理論の要点。

 リラックスした楽しい雰囲気の中で、理解できるインプットを得てメッセージを理解することによって、また、言葉そのもの(文法など)にあまりこだわらないで、意思疎通を中心に考えながら、自分に関係のある、現実的に意味のある言語行動をすることによって、私たちは言語を習得するということになる。
(東照二『バイリンガリズム』講談社現代新書、2000。p.123)

● 英語をものにするための3つの条件。

  1. かんたんな言いまわしをたくさんおぼえる。それも、頭でおぼえるのでなく、身体でおぼえて、あまり意識しなくても口から出てくるまでにする。
  2. たくさん聞き、たくさん読んで、語彙や言いまわしの幅を広げるとともに、英語に対する“勘”を養う。
  3. インプット(聞く・読む)だけでなく、アウトプット(話す・書く)も心がける(逆方向の思考に慣れる)。
    (笹野洋子『「読んで身につけた」40歳からの英語独学法』講談社、2002。p.181-182)
● あまり効果的ではない言語学習のしかた。

● 長所を伸ばす。

 習い事は、欠点矯正より、特技長所を伸ばす。
(塩田勉『おじさん、語学する』集英社新書、p.23)


● 外国語習得のコツが身につくのは3つめあたりから。

 外国語も、三つ目あたりから習得のコツが身についてくる。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.212)

● 複数の外国語を学ぶ。

 英語を極めるためにも、なにか別の言語(特にフランス語、ドイツ語を勧めます)を少しでもいいですから勉強してみると、英語の本質がより深く理解できることを保証します。
(猪浦道夫『語学で身を立てる』集英社、2003。p.58)

● 外国語を知れば知るだけ視野が広くなる。

 外国語は一つしか学んではいけないというのと比べて、いくつ学んでもいいというのは何という利点であろうか。この利点を生かさない法はない。また、その外国語を習得すれば得られる数々のプラスが分かっているのに、それを始めない手はない。二つの言語より三つの言語、三つの言語より四つの言語と進むにつれて、その人の視野は複眼的になり、物事の違った面が見えてくる。そして、他の人の持たない情報も得られるようになる。ただ、その言語が使いものになることがその条件なのである。
 チェコ語にはそれを表わすうまい表現がある。──いくつもの言語を知れば知るだけ、その分だけ人間は大きくなる。
(千野栄一『外国語上達法』岩波書店、1986。p.212)