賛美の訳


最近、ものに憑かれたように、韓国の美しいゴスペルを何曲も訳した。他の人がすでに訳して礼拝で歌っている曲までも、何曲も訳してしまった。そして、ついに英語のゴスペルにまで手を出し始めた。自分でも、どうしてこんなことをしているのか、わけが分からない。ともかく、そうやって訳しながら、賛美の訳について、あれこれ考えてみた。

韓国のゴスペルには、とてもいいものがたくさんあるので、韓国に住んでいる日本人のクリスチャンの中で、それをめいめい訳している人が多い。しかし、その中には、うまくいかない訳がある。その理由は、訳す方法に問題があるからだ。それは、原曲と単語の位置を無理に合わせようとしていることと、礼拝で使うことを考えているためか、紋切り型の表現に始終していることが多いことだ。

外国の歌を日本語に訳すのは、単語の位置を合わせてみることが目的なのではなく、原曲の心を日本語で伝えることが目的だ。そのためには、単語を忠実に置き換えて無理に歌の中に押し込めてはいけない。いや、それでも、心の伝わる賛美になればいいのだ。しかし、たいていは、ぎこちない日本語になってしまっている。

歌の場合、一般の文章の訳と違って、音節数とその配列にかなり厳しい制限がある。私はそこから少しでも自由になるために、訳しながら別に譜面を作っていくが、そうしたとしても、音節数や配列を変えられるのは、ごくわずかでしかない。メロディーの輪郭に影響を与えるほど手を入れることはできないのだ。逐語的に訳していくと、ある部分は音節数が大幅に溢れ、ある部分は足りなくなる。韓国語から日本語への訳では、全体としては、逐次的に訳した歌詞は、歌の中に半分くらいしか収まらない。英語からの訳は、もっと厳しく圧縮を迫られる。

だから、訳すときに重要になるのは、その歌の中心がどこにあるのかということだ。歌詞が伝えようとしているメッセージの要点を把握する必要がある。要約力が必要だ。そのためには、その曲を何度も歌って自分の心に馴染ませ、その伝えようとする意味をじっくりと黙想することが大事だ。そして、ポイントから外れた部分は、果敢に切り落とす。いや、涙を呑んで切り落とす。しかし、そうすることによって、歌詞はシンプルになって、理解しやすくなり、心に入ってくるようになる。ある人が訳したゴスペルは、うまくまとまってはいるし、原曲の歌詞に出てくる表現を用いているのだが、メッセージは原曲と違うものになっていた。原曲の深い意味が、訳では在り来たりの内容に変えられていた。いくらいい日本語に訳すとしても、そういう訳は、できれば避けたい。

次に、紋切り型の表現だが、これは、それを使ってみた人には、うまくできたと感じられるかもしれないが、歌う人たちの心には、あまり入って来ない。自分の正直な心が、神を賛美する思いで溢れなければ、本当の賛美にならない。しかし、紋切り型の歌詞では、心のこもりにくい形式的な賛美になってしまう。賛美の言葉が、自分の心の底から出てくるように訳せれば、他の部分が多少ぎこちなくても、一応は訳に成功したと言えるのではないかと思う。そういうのを「へたうま」というのだろう。言葉は拙くても、心にジーンとくるのなら、その訳は成功したのだ。けれども、そういうものは滅多になく、たいていは、言葉が拙いと、それだけ心にも届かなくなる。「へたうま」は望まない方がいい。

歌詞でも文体は大事だ。原曲の雰囲気をよくつかんで、どんな文体で訳すかをきめる。格調高い文体にするのか、親し気な語り口にするのか、重厚感ある文語体にするのか、そういったことを、考えてみる。たとえば、韓国語のゴスペルは、使用する聖書自体が半ば古典語なので、その格調高い雰囲気を生かせる文体に訳すのがいいと思う。韓国語が格調高い文体なのに、日本語を軽い感じにするのは、望ましいことだとは思われない。格調高い表現のために必ずしも文語体を用いる必要はない。例えば、『新共同訳』聖書は、平易な口語体ではあるが、旧約聖書では、文語聖書よりも格調高く美しい表現を用いるのに成功している。新約聖書でも、「ヨハネの黙示録」は美しい。だから、格調の高さは、必ずしも表現の古さや語彙の難しさを必要とするものではない。

ところで、文語と口語を交ぜるとき、文語体をベースに、分かりやすい口語をちりばめて平易にするか、口語体をベースに文語の表現をちりばめて格調高さを増すか、どちらかにすべきだ。ベースになる部分で文語と口語が行ったり来たりすると、言葉自体が雑然として、品のない紋切り型表現の陳列台になってしまうことが多い。また、口語といっても、その中にはさまざまな文体がある。文体の合わない言葉を不用意に混在させないようにすべきだ。それから、単語と単語の結合には、選択制限がある。不適切な結合は避けるべきだ。例えば、「救われる」を「救いを受ける」のように言うのは、ぎこちないだけでなく、言葉が心に入らず、意識の表面を上撫でするだけになってしまう。

訳の文体をブラッシュアップするためには、『讃美歌』を読むのがいいと思う。単純な言葉で深い表現をする模範があるからだ。それから『海潮音』は、歌ではないが、格調高い詩的表現の模範がある。それから、神の威厳を表す言葉遣いは、どれを読むといいとは言えないが、国王を威厳をもって表現した文章から得られる。現代の日本語は民主化ぼけしていて、尊厳ある存在を十分な礼儀をもって敬い慕う優雅な表現が、ほとんどない。もっとも、それらの表現をそのまま使用することはできないが、そのような表現の知識が、平易な文体で訳すときにも、微妙な影響を与える。

さて、ゴスペルを訳すとき、私は主に次のような手順で訳している。

まず、その曲の歌詞とメロディーを、何度も細部にわたって黙想し、その意味を追求する。歌詞の言葉を頭で論理的に理解するのをささえにして、心で意味を感じ取ることに努める。心で感じ取る意味こそ、そのゴスペルが本当に伝えようとしている内容だからだ。意味の追求なしに訳すと、紋切り型に陥りやすい。意味がつかめたら、歌詞を、楽譜の上にではなく、白紙の上に思い付くまま書いていく。このとき、音節数を曲に合わせることもあるし、音節数を無視して、原曲の歌詞を訳していくこともある。はじめに原曲を黙想した段階で、全て分かったつもりになっていたのに、訳して初めて、さらに深い意味を発見することがある。これは、賛美の訳の醍醐味だ。

歌詞の訳を書き出すだけでなく、場合によっては、原曲の歌詞を書き出したり、該当する聖書箇所を書き出したりもする。特に、聖書の言葉を歌にしたゴスペルは、日本語聖書でも該当箇所をよく読む必要がある。日本語聖書だけでなく、韓国語の聖書も書き出して、歌詞でどう表現を変えているのかを見て、さらに訳し方を修正することもある。場合によっては、注釈書などで正確な理解を試みたり、新約聖書なら、ギリシャ語の原典に当たってみることもある。私はヘブライ語が分からないので、旧約聖書の場合はたまらなくもどかしいが、苦し紛れに、紀元前にイスラエルの人たちによってギリシャ語に訳された「セプトゥアギンタ(=七十人訳)」と呼ばれる旧約聖書を参照して、解釈の助けにすることもある。こんなことまでするわけは、聖書の言葉を歌にしたゴスペルを訳すと、安易に日本語聖書の該当箇所で置き換えて、紋切り型の訳になってしまうことが多いからだ。聖書の言葉を自分の心からの賛美にするのは、意外と難しい。

それから、書き出したものが歌になるように、口ずさみながら、削ったり、表現をかえたり、並べかえたりしていく。楽譜にする前に、紙の上で、何度も修正し、検討する。もちろん、ほとんど検討なしに、一発でできることもある。しかし多くは、最初に訳したものには、心がこもっていなかったり、不自然な部分がある。だから、譜面に移す前に、そういう部分を潰しておく。

そして、ついに五線紙に書きこみ始める。基本的には原曲の楽譜を正確に書き写すが、部分的に、自分の訳した日本語の表現に合ったリズムに書き換えることが多い。音符の配分によっても、日本語らしさが高まったり減じたりするからだ。

音符の配分をするとき、注意するのは、配分の仕方が歌詞の意味に影響を与えるということだ。1音1音ずつ長く取ると、その語の意味をぐっと強調する。また逆に、短い中に言葉をぎっしり詰めると、まくしたてるような雰囲気になり、感情の高潮を表現することができる。またこれは、表現の仕方によっては、言葉をさらりと流す表現にすることができる。また、シンコペーションは、軽快な雰囲気を作り出す。リズムの取り方によっては、語っているような雰囲気を出すこともできる。そのような効果を考え、訳した曲に不用意な強調や感情の高潮があらわれないよう注意し、あくまでも効果的に言葉が配分されるように工夫する。

これで完成……といきたいところだが、しばらくすると、気に入らない部分が出てくる。そこをまた書き換える。そうやって、作業は長い間にわたる。プロなら短時間で決定版が作れるのかも知れないが、私は素人なので、自分のレベルで満足できるものを作るのにも、かなりの時間がかかる。しかも、決定版だなんて、思いもよらないことだ。

賛美の訳は、礼拝に使うことを目的とするのではなく、自分の信仰を深めるための、一種の修練の場として考えた方がいい。自分の喜び、悲しみ、希望、祈り、信仰、愛などの、いろいろな思いや感情を、深いところで神へと向けていく喜びを得るために、賛美の訳をする。時には礼拝に向かない訳にもなるだろうが、時には、礼拝の賛美に喜びを増し加えるかも知れない。どちらにしても、自分の心にしっくり来る信仰告白の言葉を探すことが大事だと思う。


気になる訳語:

イエス 韓国語の影響だろうか、本来3音節の「イエス」を2音節の「イェス」に訳して歌う場合が多い。私もそう訳し、そう歌っているが、でもやはり気になるのは、主の御名は日本語では「イエス」だということだ。1954年に出た讃美歌では、「イエス」と表記してありながら、「イエス」でも「イェス」でもなく「エス」と読んでほしいと書いてある。主の御名は、悲しいほど擦り切れてしまった。それに比べれば、カトリックの「イエズス」の方が主の御名として、十分な長さと美しさを持っていると思う。英語の主の御名“Jesus”も、「イエズス」の流れをそのまま受け継いでいる。また、本場のギリシャ語では、「イイスス(IhsouV)」と呼んでおり、日本の東方教会では、この正統派の発音で主を呼んでいる。残念ながら、日本のプロテスタント教会では、それらの呼び名を使うことはできないが、「イエス」と書くなら、「イェス」でも「エス」でもなく、「イエス」と呼びたい。

栄光 韓国で訳されたものに多いが、「栄光」を「エイコ」と歌わせる曲がある。「エイコ」と発音する単語は、栄枯、映子、栄子、永子、瑛子、英子、詠子とたくさんあるが、その中に「栄光」はない。「神の“エイコ”」では、いかにも不格好ではないか。神の栄光は、偉大なものだ。その偉大さは、“エイコ”のように尻を縮めてしまったら、表せなくなる。これでは栄光のミニチュアだ。どうしてこんなことが起こるかというと、訳された歌詞に音を合わせるとき、無理に音を合わせるために、母音の長短は無視されてしまうからだ。それで、「あなたを通し“エイコ”受ける神様」と歌われる歌詞も登場する。ちょっと手を加えれば“栄光”になったのに、“エイコ”で満足してしまった結果だ。譜面に手を加えてでも、こういう寸詰まりな音は、きちんと引き延ばし、神の栄光を高らかにほめ讃えたい。

十字架 私は小坂忠の曲が好きで、たまに聞いているが、その中で気になる表現がある。それは、「十字架」の発音だ。「ジュー」を短く発音して、「ジュジカ」と歌ってしまうのだ。実はこれは、小坂忠に限ったことでなく、多くの日本語のゴスペルが、そうなっている。みな小坂忠に倣っているのか。「ジュージカ」を「ジュジカ」と歌う頭の潰れた発音だと、キリストの苦難と救いの象徴である「十字架」には聞こえず、まるで、十字架のネックレスのような“装飾品”に聞こえてしまう。音を合わせるためにどうしても「ジュジカ」でなければおかしいなら仕方ないが、できるなら、「ジュージカ」と、「ジュー」が長めになるように譜面を作ってほしいものだ。

大胆 ある手書きの翻訳賛美集を見たら、“大胆に歩む”というような表現が出てきた。大胆に歩むのはよくない。まるで深く考えず、蛮勇を揮っているようだ。しかし、この“大胆”のもとになる韓国語は「タムデ(胆大)」で、一見“テーダム(大胆)”と同じに見えるのだが、「タムデ」は実際には、“恐れない”という意味を持っている。だから上の表現は、“恐れずに歩む”とか“堂々と歩んでゆく”といったような意味なのだ。ある訳では、「タムデ」を“迷わず”と訳してあった。なかなか味な訳だと思う。「タムデ」は、“大胆”に近いとはいうものの、“大胆”のようなず太さとは少し違い、恐れを知っている繊細な心がその底にはある。