2003年6月10日のバイブルスタディー
(ルカの福音書10章17-24節)


あなたがたの見ていることを見る目は幸です。(23節)
町や村に派遣されていた70人(または72人)の弟子たちが帰還して「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します」と喜んで報告すると、イエス様は「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです」と言われた。そして、「だからあなたがたに害を加えるものは何ひとつありません」と祝福された。

ただし、それで喜ぶのではなく、「ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」と言われた。私たちにとっていちばん大切なのは、何らかの権威を行使できることではなく、自分の名前が天に書きしるされているということだからだ。

ちょうどこのとき、イエス様は、聖霊によって喜びにあふれて言われた。私はこの言葉の意味だったか意義だったかについて、キリストを信じ始めたばかりの頃、何かの本か説教で読んだか聞いたかした記憶があるのだが、それがどういう内容だったか思い出せない。霊による喜びは、喜ぶ(cairein)のではなく、大喜びする(agalliasJai)のだという内容だったかもしない。

イエス様は言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。」これは、イエス様が繰り返し教えられた内容であり、また私たちのあるべき信仰の姿でもある。これが難しいのは、私たちは信仰生活を続けるに従って、徐々に“賢い者”になってしまい、聖書を研究することで“知恵のある者”になってしまうからだ。何という大きな矛盾だろう。神はそういう者には“これらのこと(tauta)”を隠されるのだ。

“これらのこと”とは、「敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた」ということと、名前が「天に書きしるされていること」をさすのだろう。それらは、賢い者や知恵のある者には、かえって見えなくなってしまうものだ。みことばの意味をもっと知ろうとするとき、それはいつも私たちを待ち受けている罠だ。確かに、自由主義の神学者が書いた本を読んでいると、その人が信仰を見失っていると感じるのだが、もともと学問によって表しうる人間の理性というのは、そこまででストップしてしまうものなのかもしれない。

イエス様はさらに続けられた。「そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、子がだれであるかは、父のほかには知る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれも知る者がありません。」

「そうです、父よ(nai, o pathr)」と神に呼びかけて、イエス様は、「これがみこころにかなったことでした」と強調された。その通りだ。信仰は学問することではない。聖書を研究し調査することは、信仰を深める条件にならない。信仰の条件は、幼子のようになることだ。

このことは、みことばをもっと知りたいと願って学んでいる私たちにとって、少なからぬチャレンジとなっている。学べば学ぶほど、口ばかりが達者になって、信仰は足踏みを続けてしまうことが多いからだ。特に、私を含めて、文献を扱う人文系の人間は、うっかりすると、聖書を専攻分野の文献と同じ読み方で読んでしまい、そこから適用へと進むことを忘れてしまいがちだ。だから、人文系のクリスチャンは、聖書を満足がいくまで徹底して読んだら、そのあとはその知識をささえに、幼子に戻ることが必要だ。

続けてイエス様は御父に告白された。「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、子がだれであるかは、父のほかには知る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれも知る者がありません。」この言葉は、ちょっと複雑だが、これをかみくだいて説明すると、イエス様は父なる神から全権を委譲されているということが、最初の文の内容だ。

そして次に、子と父とがそれぞれ誰であるかを誰が知るかだが、驚いたことに、子が誰であるかは、父の他に知る者がいない。つまり、私たちは、イエス様が何者なのかを知りえないと言われたのだ。そして、父に関しては、イエス様と、イエス様が父を知らせようと心に定めた人たちとだけが知っているというのだ。

イエス様は「わたしを見た者は、父を見たのです」(ヨハネ14:9)とも言われた。イエス様が誰かは本当のところは私たちには分からないが、しかしそのイエス様を見れば、父なる神がどのような方かが分かるのだ。この謎めいたみことばには、重大な真理が込められているような気がするが、深入りはしないことにしよう。

さて、以上のように祈られたのち、イエス様は弟子たちの方に向いて、ひそかに(kat idian)言われた。この“ひそかに”という語は、ちょっと問題があるようで、弟子以外の人たちもこの場所にいたようだから、内密に言われたのではないだろう。弟子はここでは少なくとも70人または72人(校訂本によって違う)いたのだから、その弟子たちに聞こえるように言ったら、その場に居合わせた他の人たちにも当然聞こえるはずだ。

kat idian の意味は、辞書によると“privately, by oneself”で、反対語は“koinh(together, collectively)”だそうだ *。ついでにこの部分の kat idian の、他の日本語訳を見てみよう。「彼らだけに言われた」(新共同訳)、「そっと言われました」(リビングバイブル…ただし英語からの重訳とのこと)、「とくに弟子たちのほうを振り向き」(バルバロ訳…ただしラテン語からの重訳とのこと)、「ひそかに言われた」(口語訳)、「窃(ひそか)に言ひ給ふ」(文語訳)、「竊(ひそか)に曰(いひ)けるハ」(翻訳委員社中訳?*)。また、kat idian が用いられている他の箇所は、マタイ14:13, 23; 17:1, 19;20:17;24:3、マルコ4:34;6:31;7:33;9:2, 28;13:3、ルカ9:10;10:23、使徒23:19、ガラテヤ2:2だとのことだ*。

問題は、このように原語によって調べることが、信仰を深めるのには役に立たないということだ。しかし、こういう調べものが役に立つと思えるのは、「ひそかに」という言葉を変に強調して、そこから全体を再構築してしまい、他の訳や原語からは想像もつかない解釈を作り出してしまうという危険を、避けることができるという点だ。また、原語を知ることで、様々な訳の違いに当惑したり不満を持ったりすることも少なくなる。訳の違いにある程度寛大になれる。

イエス様は弟子たちに言われた。「あなたがたの見ていることを見る目は幸いです(makarioi oi ofJalmoi oi bleponteV a blepete)。」ここで、見ている“こと”が問題になる。これは複数中性対格を表す関係代名詞“a”の訳語なのだが、この文書で使用している「新改訳」とともによく読まれている「新共同訳で」は、「もの」と訳されているために、それぞれが指し示すイメージが、ほとんど排他的に違ってしまう。「こと」では出来事や話の内容に焦点が置かれ、「もの」では物体に焦点が置かれる。これは日本語の語彙体系の特徴から生じる問題だ。聖書勉強会のとき、私は新改訳だけを読んでいたが、新共同訳で読んでいる姉妹の解釈を聞いて、あっと驚いた。「こと」では全くイメージできない解釈をしていたからだ。

a”は「こと」と「もの」の両方を含む語だ。英訳聖書でも、この部分は“things”(KJV, NKJV, TEV)や“what”(REB, NIV, RSV)と訳されている。これらに日本語の「もの」と「こと」が区別する違いはない。韓国語訳でも全く同じだ。「こと」と「もの」の対立は、純粋に日本語の抱えている問題だ。ただし、文語訳では「なんぢらの見るを見る眼は幸福(さいはひ)なり」と訳している。これはうまいけれども、現代語ではちょっと使いにくいだろう。

いくつかの注釈書を見ると、残念なことに、この部分はほとんど問題にされていない。原語を注解している本を、唯一ルカの福音書だけ持っているが、この箇所はマタイの福音書がオリジナルだと書かれているだけで、解説は何もない*。ただ言えそうなのは、この「こと」や「もの」は、メシアであるイエス様自身を含めた数々の働きのことに違いないということだ。

さて、この「(あなたがたの見ていることを見る)目」だが、これは、一義的には弟子たちの目を指しているだろう。しかし、文法的には、“oi ofJalmoi oi bleponteV a blepete(あなたがたが見ているのを見る目)”というのは、弟子たちの目に限定されていない。これは、間接的には、私たちの目をも暗示しているはずだ。弟子たちが見ていたこと(または、もの)を見ることのできる目、それは、キリストを信じる者たちに与えられた、霊的な目だと捉えることもできる。

私たちの目は、このときイエス様の前にいた弟子たちが見ていたこと(または、もの)を、見ているだろうか。それを見ることができるのは、賢い者や知恵のある者ではなく、幼子であるとイエス様は言われた。私はみことばを前にして、幼子になっているだろうか。純粋な心でその内容を受け入れ、信頼して従う気持がなければ、弟子たちが見ていたこと(または、もの)は、私たちには見えない。それを見ることは、私たちにとって最大に重要なことであり、また、みこころでもある。なぜなら、イエス様はこう言っておられる。

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。(ヨハネ17:3)
つまり、弟子たちの見ていたこと(または、もの)を見ること、父がだれであるかを知ることは、永遠の命を得ること、つまり、私たちの名が天に書きしるされることだ。

私たちが、自分の意志と努力で信仰生活を突き進んで来たり、みことばの秘密を知ろうと知力を尽くして聖書研究に熱中して来たりしたのなら、ここで立ち止まって、神がその御手の働きを見せてくださることを、幼子のように求めてみてはどうだろうか。神が働かれたことを、神の働きであると知ることができる目。その霊的な視力が、私たちには必要だ。弟子たちにイエス様が見せてくださったように、今も神は私たちにその御手の働きを見せてくださるだろう。


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