2002年7月23日のバイブルスタディー
(ルカの福音書1章1-24節)


私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。(3節)
ルカの福音書は、テオピロ(=神を愛する人)という人物への短い献辞で始まる。そこに書かれているのが、この言葉だ。私は、この言葉にあらわれたルカの態度は、信仰者として必要な態度だと考えている。

信仰は、議論で証明できるものではない。神を科学的に解明することはできない。おそらく、どんなに宇宙をくまなく調べ上げ、物理法則を窮め尽くしても、神の存在は、肯定することも、否定することもできないだろう。信仰は、科学的な信頼性とは無関係のものである。

しかし一方では、神は私たちに明らかに働きかけている。その働きかけを、ありのままに記録することは、私たちに求められる態度だ。その記録は、正確であればあるほど、それが神の働きともとれるし、そうではないともとれるだろう。しかし、信じる者の目には、それが神の働きであると感じられる。そしてそれは、信仰の指針としての信頼性を持つのだ。それは、科学的な信頼性とは次元を異にする信頼性だ。

科学的な信頼性と無関係であることから、ときには、事実を多少曲げることで、神の栄光をもっと力強く述べたいという欲求にかられる場合があるかもしれない。しかしそれは、神の栄光を伝えることにはならない。むしろ、それが事実でないことから、信仰の指針としての信頼性をいちじるしく傷つける結果になる。それは、聞いた人の信仰のあり方を狂わせる。神がその計画により沈黙されていた時期のことを、神が働かれたと書くのは、神を助けることではなく、神に背くことだ。

ルカが福音書を書いたとき、十字架の事件からはすでに少なくとも30年は経っていたと見られている。だから、イエス様が地上におられた頃の出来事の多くは、古老たちの証言によるもので、その情報は、かなりあやふやなものになっていたと思われる。そんな中で、ルカは、慎重に情報を集め、イエス様の行跡の再現を試みた。それは、簡単な作業ではなかったに違いない。

私たちも、ルカのようにあるべきだ。信仰を助ける出来事について語るとき、多くは調べることもなしに、自分が聞いた話をそのまま鵜呑みにして人に伝えることが多い。そして、ときには文章に書き記して、さも事実であったかのように整理してしまう。その過程で、事実かどうかに関する検討や調査を加えていない。調べること自体が不敬虔であるかのように見なし、自分の聞いた話を間に受けてしまうのだ。そうやって書き記したものが、本当に事実であったとしても、私は問題だと思う。聞いた情報の信憑性を秤にかけるくらいはすべきだ。それをしないのは、敬虔そうに見えて、実は、神に背く働きに荷担することかもしれない。

クリスチャンはみな、イエス・キリストの証し人だ。しかし、私たちは、自分自身の体験自体も、時が経つにつれて、変型していき、一種の“伝説化”を起こしてしまう。だから、日々日記をつけて、神が自分に働かれている軌跡を正確に書き留め、後に一連の証としてまとめるときには、当時の社会情勢なども調べて、自分の身に起こったことが、どのような社会背景を持つものなのかを調べる必要もあるかもしれない。そのように、自分自身のことであっても、綿密に調べる必要がある。

私はここ数カ月間、日記を絶やしてしまっているが、その間に私に働かれた神の恵みがいくつもあったに違いない。これからも日記を再び書き続け、少なくとも自分自身のことに関しては、はからず事実と違うことを口にしてしまう過ちを犯さないように気をつけたい。