2002年7月2日のバイブルスタディー
(マルコの福音書16章1-11節)


さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。(1節)
アリマタヤのヨセフ所有の墓に葬られたイエス様に香油を塗ろうと、3人の女性たちは、早朝に香料を買って、墓地へ行った。しかし、それは大変難しいことなのだった。墓には衛兵が不審な人間を見張っていた。なぜなら、3日めに復活するといううわさが立っていたので、ユダヤ人たちがイエス様のなきがらを盗み出す心配があったからだ。また、墓の入り口は大きな石で塞がれており、それを取り除けるのは、女の力では無理だった。

しかし、彼女たちは、そのような条件にもかかわらず、香料を買って墓へと急いだ。彼女らは「墓の入り口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」と皆で話し合っていた。ほとんど望みないことのために、彼女らは、無駄になるかもしれない香料を買い、無駄足になることを厭わずに、墓まで足を早めた。

私はこの態度から、自分のいちばんの弱点との大きな差を見た。私は何かをするとき、それが無駄に終わることを心配するあまり、結局は実行に移せないことがよくある。それがたとえ重要なことでも、私はその努力が無駄になることを恐れ、行動を起こせないのだった。

私の心の中では、不確実なことを始めようとするときに、まだ初めてもいないうちから、「…すればよかった」「…しなければよかった」という言葉が、巨大な権威をもって迫ってきて、身動きをとれなくしてしまう。

このように、非クリスチャンの家庭で生まれ育った私は、知恵のない様々な教えで、心に歪みをたくさん作ってきた。知恵のない生き方の訓練を受けてきたために、重要な場面で、自分の行動や態度が、自分の足を引っ張っている。それはまるで、体にプログラムを組み込まれたロボカップのように、自分の理性がその不合理さを自分自身に訴えながらも、自分の体は、愚かな行動を選択してしまうのだ。

私がこういうことを言うのは、日本の多くの人たちが、歪んだ人生観、歪んだ正義のために、子供の心を歪め、人生に降り掛かる様々な困難に、とんちんかんな対処をするように、刷り込んでいるからだ。どれだけ多くの人たちが、心に深く醜い傷跡を刻み込まれながら成長してきたことだろうか。私はその中でも軽傷な方だという事実に、驚きを禁じえない。

クリスチャンの家庭でも、事情はさほど変わっていないようだ。なぜなら、多くのクリスチャンは、聖書の知恵を自分の生活に適用させて暮らしているわけではないからだ。非クリスチャンであっても、クリスチャンであっても、もっともっと、聖書に生きる知恵を求め、その知恵を、自分の人生の隅々にまで適用していくよう努力すべきだ。それによって、人生をもっとまっすぐ生きて行くことができるようになる。

さて、彼女らは、それをすべきかどうかという基準で行動した。うまくいきそうになかったらやめようとは思わなかった。そこに彼女らの行動の知恵がある。力強く生きて行くには、大事なことなら、失敗の可能性を考えて断念したり躊躇したりしてはいけないのだ。「無駄足を運んだら人は私をどう見るか」「無駄なことをしたら、不経済なことをしたと非難されるのではないか」「自分の判断が甘かったことが自分の自尊心を傷つけるのではないか」、そのような心配は、一見合理的で、経済的に見えるかもしれない。しかし、重要なことの前で、このような心配をするのは、ナンセンスなことだ。

彼女らは、確かにイエス様に油を塗ることはできなかった。しかし、イエス様の復活を最初に目撃した証人となった。彼女らは、復活した主と最初に出会う栄光を得た。それは、イエス様のなきがらに油を塗ること以上に大きな祝福だった。

重要な行動をするとき、失敗した自分を責める心があってはならない。失敗は慰めるべきものだ。私たちがたとえ意図するところが実現できなかったとしても、神が、私たちの意図した以上に私たちに大切なものを、与えてくださるのだ。