2002年6月4日のバイブルスタディー
(マルコの福音書15章1-15節)


夜が明けるとすぐに、祭司長たちをはじめ、長老、律法学者たちと、全議会とは協議をこらしたすえ、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き渡した。(1節)
イエス様の敵たちは、おそらく夜通し一睡もせずに、イエス様を殺すためにあらん限りの力を尽くした。人を送って密かにイエス様を拉致し、いい加減な裁判にかけて罪に定め、そして、全員が一丸となって、処刑が実現できるよう奸計を練った。その勢いには凄いものがある。そこからも分かるとおり、彼らのねらいは、正義の実現ではなく、イエスという名の邪魔者を除去することにあった。

彼らはイエス様をピラトに引き渡した。ピラトはローマ帝国のユダヤ総督で、紀元26年から36年まで10年間その任にあった。彼は、ローマの法律に照らしてみて、イエス様に罪状がないと判断した。反乱を企てたわけでもなく、群衆を扇動したわけでもなく、反乱を肯定する教理を教えたわけでもなかった。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」という教えは、律法にも反しなければ、ローマの法律にも反しなかった。5千人もの群衆を引き連れていながら、奇跡を行われた直後に群衆を解散させてしまい、一人で寂しいところへ祈りに行かれた。そしてまた、イエス様は、自分がユダヤの王だと言われただけで、ヘロデに取って代わって王になってやると言われたわけでもなかった。

ピラトは、名門出身ではないにもかかわらず、総督にまでなった人物だ。おそらく、頭脳優秀で、洞察力の利く人間だったに違いない。彼は、祭司長たちがねたみからイエス様を引き渡したことに、気付いていた。そして、イエスという不当に捕らえられて来た男を、不当に処刑すべきではないと思った。しかし一方、道徳的感性においては、ピラトはごく平凡な人間だった。ベツレヘム一帯の幼子を皆殺しにしたヘロデ王のように極悪非道な人間でもなかったが、徳のある人間でもなく、ユダヤの地で搾取と暴虐を行ってきた、ごく普通の役人だ。

ところでピラトは、過越しの祭りには、人々の願う囚人をひとりだけ赦免するのを例としていた。それで群衆は、進んでいって、いつものようにしてもらうことを、ピラトに要求し始めた。ピラトはイエスという無罪の男を処刑するのを避けようとして、群衆に向かって「このユダヤ人の王を釈放してくれというのか」と言った。彼はおそらく、イエス様を恐れたからというよりは、ローマの法律に背いて無罪の人を処罰し、あとで面倒なことに巻き込まれたくないと思っていたのではないだろうか。

しかし、祭司長たちは、群衆を扇動して、むしろバラバを釈放してもらいたいと言わせた。つい数日前には「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に」と叫んでいた群衆が、いま、イエス様のことを、「十字架につけろ」と叫んでいるのだ。

祭司長たちがどのように群衆をそそのかして、イエス様を十字架につけろと言わせたのかは、知るすべがない。おそらく群衆が納得できる様々な理由を挙げたり、でっち上げたりして、イエス様を犯罪者に仕立て上げたのだろう。ダビデの子だと言われていたが、逮捕されてしまったではないかとか、律法に背いたとか、その他諸々の理由をあげつらって、群衆を惑わしたのだろう。彼らの弁舌の巧みさは、一流だった。神から恵まれたその才能を、このような悪辣な目的に使用した。

ピラトが「ではいったい、あなたがたがユダヤ人の王と呼んでいるあの人を、私にどうせよというのか」と問うたとき、群衆は「十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは「あの人がどんな悪いことをしたというのか」と反問したが、群衆は答えず、ますます激しく「十字架につけろ」と叫んだ。「ホサナ」と叫んでいたあの熱狂が、たった1週間のうちに「十字架につけろ」と叫ぶ熱狂に代わってしまった。この変貌ぶりには驚くが、しかし、群衆というのは、もともと自分の考えがあるわけではないので、こうなるのも不思議はない。私も、自分の生き方を反省してみれば、同じようなものだ。その身勝手さに、人間の愚かさと罪の深さがある。

当時ピラトは、内政的な理由から、ユダヤ人に対し弱気になっていたらしい。祭司長や律法学者たちはおそらく、そんなピラトの足下を見ていたのに違いない。そこを突いて、彼らは群衆をけしかけた。そしてピラトは、群衆の勢いに押されて、しぶしぶバラバを釈放した。そして、イエス様をむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。私たちは、ややもすると、互いに利害が一致しない場で、相手の足下を見てしまいやすい。それを賢い能力のように思いがちだ。しかしそれは、祭司長や律法学者たちのように、醜い行為だ。相手の弱点を把握していたとしても、そこから取れるだけ取ろうとはせずに、相手にも与えられる自己犠牲ができるようになりたい。それは、相手との友好のためでなく、神様との友好のためだ。

さて、ここで深刻に受け止めるべきだと思うのは、イエス様を殺すためにあらん限りの悪知恵を振り絞った彼らは、愛の神を伝える聖書に通暁している人たちだったということだ。彼らは旧約聖書を完全に身につけていた。その彼らが行ったことは、嫉妬による殺人だった。彼らが聖書を知らなかったとはとうてい思えない。それなのに、このようなことが起こった。

私たちも、聖書を学んでいる。そして、教会の指導者は、旧約と新約との両方に通暁している。それにも関わらず、教会内での紛争の話をよく耳にする。いがみ合い、吊るし上げ、暴力沙汰などが起こり、西洋では、かつて神の名によって公然と殺人も行われた。それらを行った首謀者は、俗な言い方をすれば、聖書の達人たちだった。

私たちはこの事実から、人間の罪は聖書までも用いて悪事を行うということに気付く。それはごく一部の特殊なことではなく、多くの教会を多少は蝕んでいるし、健全な教会にも、その種はいつも潜んでいる。世の中では、こんなことは、至極当然のことだが、教会でそのようなことが起こると、非常に目に付く。傍目八目だが、聖書の教えを知っている人たちには、それが変だということは、白日の下に見るように明らかだ。にもかかわらず、それを変だと思った人たちが、いざ自分たちが同じ立場になってみると、排他的になったり、相手に敵対し、誹謗し、攻撃するようになったりする。こういうことを避ける方法はないのだろうか。

それはある。争う人を見て“変だ”と思ったその眼を、自分自身に対しても向けることだ。自分の立場を特殊なものと思うことで、私たちは目隠しを食らい、問題の所在が見えなくなるのだ。そうやって、律法学者や祭司長らのように、イエス様を十字架につけるために全力を注ぐ結果に自らを導いてしまう。だから、他人を見る目と自分を見る目は同じであるべきだ。“時と場合による”と考えない方がいい。信頼できる神の律法は、いついかなるときでも同一に私たちを裁くのだ。私たちは、自分たちの行為を洗練された手法で正当化できるかもしれない。しかし、神の眼には、善はいつも善であり、悪はいつも悪なのだ。神の御前ではごまかしは利かない。

だから、聖書の中心になるものをひたすら求め、そこから考えを始め、そこへと帰るようにしたい。ある誠実な律法学者がイエス様に「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか」と尋ねたとき、イエス様は「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次はこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません」と答えられた。当時ユダヤ人は、この言葉を教育勅語さながら毎日暗唱していたという。イエス様はこの言葉をいちばん大切な命令だと言われた。ということは、これが聖書の命令の中心なのだ。それは、聖書を読むときも、生活の中でも、忘れてはならない最大のポイントなのだ。

その「命令」は、自分自身の立場を明け渡すことによって実現される。その命令に従うならば、人間関係で問題が起こったとき、自分の立場は否定せざるをえない。いや、自分自身の立場こそ、否定すべきものなのだ。それは、損をすることだろうか。そうではないと思う。自分をそのように砕いていくによって、自我のしがらみから解放される。そして、きよく澄んだ心は、遠く真理を見通すことができるようになる。それによって得られる利益は計り知れない。イエス様は言われた。「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」