2002年5月28日のバイブルスタディー
(マルコの福音書14章66-72節)


するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。(72節)
イエス様の一番弟子ペテロは、イエス様が捕らえられると、密かにあとを付いていき、大祭司の庭で火にあたっていた。おそらく、薄暗がりの中だから、自分の素性が露になることもあるまいと、高を括っていたのではないだろうか。でなければ、大祭司の庭にまで来ることはできなかったに違いない。

ところが、大祭司の女中のひとりが来て、ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」

このときペテロは、意表を突かれ、パニックに陥った。たった数時間前に、「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」という強い決意を主張したペテロが、今その女中に向かって「何を言っているのか、わからない。見当もつかない(oute oida oute epistamai su ti legeiV.)」と答えているのだ。

私はペテロの否定の仕方に、たいへんなぎこちなさを感じる。「何を言っているのだ」と詰り返すだけでいいものを、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない」と言って、打ち消し過ぎてしまっているのだ。当時のパレスチナでは、そのように否定したのだろうか。もし当時の表現方法に合わない答え方をしていたのだとすれば、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない」という度を越した打ち消しは、「何を言っているのか、わかり過ぎるほどよくわかる。すべてを私は知っている」という答えの裏返しになってしまう。当然女中は、“図星だ!”と思わずにはいられないだろう。

さらに、ペテロは、出口の方へと出て行った。これでは、顔が割れたからといって逃げるのと同じことだ。でなければ、女中を罵ったあと、火にずっとあたっていたはずだ。これは、ペテロの単純さ、不器用さを物語る一面だ。現に女中は、そばに立っていた人たちに、確信を持って「この人はあの仲間です」と言った。

ここで大事なのは、ペテロの心理だ。それはとりもなおさず、私たちの心理の動きを代表するものだからだ。自分は何者なのか、自分が目的とすることは何なのかを、いつも自覚していなければ、ペテロのような失敗を、いつでも犯してしまう。また、“誘惑に陥らないように、目をさまして、祈りつづけ”ていなければ、危機の状況で、私たちは自分の心を守ることもできない。

私は、どの福音書にも記されているペテロのこの失敗は、後進に対するペテロの愛ある警告だとおもう。ずっとのちにペテロが手紙の中で、「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを探し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい」と言っているのは、自分の失敗をほのめかしているような気がする。この警告を具体的に分からせるために、自分の恥ずかしい失敗を福音書に記させたのではないだろうか。これは私がペテロを尊敬してやまないゆえんだ。

さて、ペテロが3度目にイエス様を否定したとき、鶏が鳴いた。それは、イエス様が「あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います」と言われた言葉が実現した瞬間だった。

そのとき、ペテロは、数時間前にイエス様が言われた言葉を思い出して泣き出した。なぜ泣いたのか。後悔の念からか。それもあるだろう。しかし、それだけではなさそうだ。そこで、ペテロにとってこの預言の成就は何を意味していたのか考えてみるのは、有益だと思う。

一時は力あるイスラエルの解放者と仰いでいたイエス様が、すんなりと逮捕されてしまったとき、ペテロは精神的な支えを失ってしまい、大きな不安の中にいたに違いない。自分たちのことも守ってくれると信じていたイエス様がいなくなり、大変心細かったはずだ。その心細さの中でペテロは失敗を犯した。

ところが、その失敗は、イエス様が預言されたことが違わずに成就したものだった。そのとき、その言葉に偉大な力があることを、ペテロは衝撃とともに再確認した。それは、いったんイエス様の口から出たならば、自分の意志で抗うことのできないものだということを、知った。それと同時に、イエス様が捕らえられたのは、力がなかったからではなくて、そこに神の意志が働いていたことを感じた。

それだけではない。数時間前のイエス様は、今のペテロを見ておられたのだ。ペテロがイエス様に対する信頼を失いかけたときも、イエス様の関心は、ペテロに向けられていた。

神様は、私たちが信仰を持ったばかりの幸せなときにも、その後の私たちの信仰の成長や、つまずいたり、信仰を失いかけたりするようすを見ておられる。私たちの人生のすべての面に関心を持って、私たちを見ておられる。ペテロがつまずくことを前もってご存じだったイエス様は、つまずくペテロを叱責されなかった。そして今、自分のしたことに、ペテロは自分から気が付いた。イエス様は、そのときを待っておられた。その優しさに、ペテロは涙したのかも知れない。

神様は、私たちのすべての瞬間を、見守っておられる。私たちが神様とむつまじい関係にあるときも、私たちが神様を離れ、神様を忘れかけているときも、あるいは、神様のことをすっかり忘れてしまっているときにも、または、神様から逃げているときも、神様の関心は、私たちに注がれている。私たちがどこへ逃げようとも、神様の無言のまなざしから逃れることはできない。その一端を、この段落は示しているのだ。詩篇は次のように告白している。

たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、
私がよみに床を設けても、
そこにあなたはおられます。
私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、
そこでも、あなたの御手が私を導き、
あなたの右の手が私を捕えます。
私たちが神様を求めるなら、神様は私たちを決して見捨てず、私たちの魂をその御手の導きで支え、守ってくださる。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできない。その力強い愛は、ペテロを守り、今また、私たちを守ってくださっている。